「是」の意味の解読から、日本列島内に、倭人と東〔魚是〕人の民族国
の存在を明らかにすることができるようになった。
そして、その東〔魚是〕人の国は倭国の東隣に近接していたのではない
か、というところまで理解できるようにもなった。
この理解が正しかったと思える決め手らしきヒントが、東〔魚是〕人の中
の〔魚是〕の文字の中心を成す「是」という文字の中に、もう一つの重要
な要素が隠されていました。
前ページでも書きましたが、東〔魚是〕人(東鯷人)のこことを“「東の一
番はしっこの人」”住む民族として、その民族名を表すために、ナマズと
いう意をもつ「魚是」という風変がわりな文字が使われている。もっと分
かり易く、「東辺人」あるいは「東極人」で表せば誰でも納得の出来る普
通の表現と思うのですが、どういう理由(わけ)があるのかと、思いつ
つ調べたところ、やはり、これには深い由来のあることが解ったのです。
この「是」に関連した言葉で、『鞮(「革偏に是」の文字)ロウ(「革」偏に「婁」の旁)氏』、と『鞮訳(ていやく)』の言葉について述べたことがあります。
(注、鞮は〔革是〕で代用し、ロウは〔革婁〕で代用します)
その内容をもういちど示しておきます。
『〔革是〕ロウ(革婁)氏』、この意味は“四辺の夷蛮の献上する音楽を司
る官”(周礼)であり。
『〔革是〕訳(ていやく)』とは、“夷蛮の音楽の歌詞を翻訳すること”、とな
っています。
このことからすると、この鞮(革」偏に「是」の旁・テイ)、すなわち「是」、と
は、“四辺の夷蛮の音楽が中国の天子に献じた音楽”に関係した文字と
いうことになります。
そうなんです!、東鯷人は音楽を奏上して朝貢の儀に臨んでいただろう、
と考えて間違いは無さそうです。
そして、その音楽は、神聖な楽器、銅鐸によるものであったと。
そこで、結果、東〔魚是〕人(東鯷人)の文字の意味するところは・・・・・・、
“日本列島において、倭人の東隣に住む、中国への魚の献上物とともに、
銅鐸による音楽を奏上していた民族”を表していたのではないか、という
考えに至るのも理解戴けるものと思います。
これ、すなわち、東鯷人と、銅鐸人は一緒の民族であった、ということに
気がつきます。
ここで、はっきりと言えることは、東〔魚是〕人と銅鐸人を結ぶキーワード
は、「是」と云う文字にあったということになります。
また、前ページと今ページを通して、私の言いたかった、“東〔魚是〕人
(東鯷人)と、銅鐸人とは一緒の民族であった”、ということに対しての更
なる、決め手となるであろう、傍証があります。それをここに示しておきま
す(実は、この傍証が本ページのメインテーマなんですが)。
それは、范曄の『後漢書』の中にあります。
(岩波文庫、新訂、中国正史日本伝(1)・・・石原道博偏訳)
【会稽海外、東〔魚是〕人あり。分れて二十余国を為す。】
このことは、何を意味するか、というと・・、『後漢書』を著した范曄自身も、「後漢(紀元一世紀から二世紀」」頃までは、東〔魚是〕人が中国王朝に朝献しているとの認識のもとに、少なくとも中国側から見た場合、歴史の表舞台で、倭人とともに活躍していたと看做しての記述だった、と考えられるのです。
范曄も、『漢書』の中で記述されている、倭人と東〔魚是〕人の共存を認
識しながらの、自身著の『後漢書』の記載となっていると考えられ・、当
然、倭人とともに東〔魚是〕人が列島に共存していたことを、間違いなく
示していることにもなります。
そして更に、東〔魚是〕人と銅鐸人が同一の民族であったという最後の
決め手となるであろうことが、中国の歴史史料と日本における考古学史
料を照らし合わせてみると浮かび上がってくるのです。
銅鐸は、考古学上、何かの理由で、三世紀中頃から後葉にかけて、突
然のように作られなくなってしまいます。
そして、もう一方の、列島の東〔魚是〕人も、「三都賦(西晋・左思著)」の
後漢末(220年頃)の貢献記事を最後に、三世紀後葉に成立した「三国
志」に入ってその姿を現さなくなり、歴史上プッツリと消え去ってしまうのです。
何にかの理由(後ほど紹介しますが)で、結果、東〔魚是〕人も銅鐸も時
を一つにして、この世から消え去ってしまっているのが分かります。
(この、銅鐸と東〔魚是〕人の同時消滅のことを指して古田氏は“魅惑の
消滅点”と称して、東〔魚是〕人と銅鐸人は同一民族であったことの確証
とされています)
これらのことから導かれるのは、当然私も、東〔魚是〕人と銅鐸人は同一
民族であったという認識に至ることになります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
次章では、銅鐸文化消滅の原因として神武東征が詳しく述べられている。
「是」の意味の解読から、日本列島内に、倭人と東〔魚是〕人の民族国
の存在を明らかにすることができるようになった。
そして、その東〔魚是〕人の国は倭国の東隣に近接していたのではない
か、というところまで理解できるようにもなった。
この理解が正しかったと思える決め手らしきヒントが、東〔魚是〕人の中
の〔魚是〕の文字の中心を成す「是」という文字の中に、もう一つの重要
な要素が隠されていました。
前ページでも書きましたが、東〔魚是〕人(東鯷人)のこことを“「東の一
番はしっこの人」”住む民族として、その民族名を表すために、ナマズと
いう意をもつ「魚是」という風変がわりな文字が使われている。もっと分
かり易く、「東辺人」あるいは「東極人」で表せば誰でも納得の出来る普
通の表現と思うのですが、どういう理由(わけ)があるのかと、思いつ
つ調べたところ、やはり、これには深い由来のあることが解ったのです。
この「是」に関連した言葉で、『鞮(「革偏に是」の文字)ロウ(「革」偏に「婁」の旁)氏』、と『鞮訳(ていやく)』の言葉について述べたことがあります。
(注、鞮は〔革是〕で代用し、ロウは〔革婁〕で代用します)
その内容をもういちど示しておきます。
『〔革是〕ロウ(革婁)氏』、この意味は“四辺の夷蛮の献上する音楽を司
る官”(周礼)であり。
『〔革是〕訳(ていやく)』とは、“夷蛮の音楽の歌詞を翻訳すること”、とな
っています。
このことからすると、この鞮(革」偏に「是」の旁・テイ)、すなわち「是」、と
は、“四辺の夷蛮の音楽が中国の天子に献じた音楽”に関係した文字と
いうことになります。
そうなんです!、東鯷人は音楽を奏上して朝貢の儀に臨んでいただろう、
と考えて間違いは無さそうです。
そして、その音楽は、神聖な楽器、銅鐸によるものであったと。
そこで、結果、東〔魚是〕人(東鯷人)の文字の意味するところは・・・・・・、
“日本列島において、倭人の東隣に住む、中国への魚の献上物とともに、
銅鐸による音楽を奏上していた民族”を表していたのではないか、という
考えに至るのも理解戴けるものと思います。
これ、すなわち、東鯷人と、銅鐸人は一緒の民族であった、ということに
気がつきます。
ここで、はっきりと言えることは、東〔魚是〕人と銅鐸人を結ぶキーワード
は、「是」と云う文字にあったということになります。
また、前ページと今ページを通して、私の言いたかった、“東〔魚是〕人
(東鯷人)と、銅鐸人とは一緒の民族であった”、ということに対しての更
なる、決め手となるであろう、傍証があります。それをここに示しておきま
す(実は、この傍証が本ページのメインテーマなんですが)。
それは、范曄の『後漢書』の中にあります。
(岩波文庫、新訂、中国正史日本伝(1)・・・石原道博偏訳)
【会稽海外、東〔魚是〕人あり。分れて二十余国を為す。】
このことは、何を意味するか、というと・・、『後漢書』を著した范曄自身も、「後漢(紀元一世紀から二世紀」」頃までは、東〔魚是〕人が中国王朝に朝献しているとの認識のもとに、少なくとも中国側から見た場合、歴史の表舞台で、倭人とともに活躍していたと看做しての記述だった、と考えられるのです。
范曄も、『漢書』の中で記述されている、倭人と東〔魚是〕人の共存を認
識しながらの、自身著の『後漢書』の記載となっていると考えられ・、当
然、倭人とともに東〔魚是〕人が列島に共存していたことを、間違いなく
示していることにもなります。
そして更に、東〔魚是〕人と銅鐸人が同一の民族であったという最後の
決め手となるであろうことが、中国の歴史史料と日本における考古学史
料を照らし合わせてみると浮かび上がってくるのです。
銅鐸は、考古学上、何かの理由で、三世紀中頃から後葉にかけて、突
然のように作られなくなってしまいます。
そして、もう一方の、列島の東〔魚是〕人も、「三都賦(西晋・左思著)」の
後漢末(220年頃)の貢献記事を最後に、三世紀後葉に成立した「三国
志」に入ってその姿を現さなくなり、歴史上プッツリと消え去ってしまうのです。
何にかの理由(後ほど紹介しますが)で、結果、東〔魚是〕人も銅鐸も時
を一つにして、この世から消え去ってしまっているのが分かります。
(この、銅鐸と東〔魚是〕人の同時消滅のことを指して古田氏は“魅惑の
消滅点”と称して、東〔魚是〕人と銅鐸人は同一民族であったことの確証
とされています)
これらのことから導かれるのは、当然私も、東〔魚是〕人と銅鐸人は同一
民族であったという認識に至ることになります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
次章では、銅鐸文化消滅の原因として神武東征が詳しく述べられている。