전통문화

결국히의 아래 의 주장은 이것.

「이 낡은 형식의 출처(소)는 남북조까지 거슬러 올라갈 수 밖에 없고, 필연적으로 (쿠다라)백제를 경유해 통일 신라에 도달해, 중국 양식식의 수용 후도 그것이 보존되어 주심 파오식의 요소가 되어, 고려에 계승되었다고 하는 루트를 그릴 수 밖에 없는 것이다.」


요약하면


「현대의 한국에 남는 부츠쿄지원의 기둥의 엔타시스는 (쿠다라)백제 유래의 것이며, 일본의 호류사의 것과 같다.」





어디서 말하는가 하면, 여기.

http://penpal.kjclub.com/jp/exchange/photo/read.php?tname=exc_board_14&uid=8257&fid=8257&thread=1000000&idx=1&page=1&number=5014

【인용 】

도대체 무엇을 가지고 토우쇼우다이사에 술병기둥이 있으면 존군이 오인했는지는 잘 모르지만, 분명히 정정하면, 그런 것은 학계에서는 인식되어 있지 않다. 토우쇼우다이사에 술병기둥은, 없다. 아무쪼록.

따라서, 「토우쇼우다이사에 있기 때문에 8 세기, 7 세기의 당에도 있던」라고 하는 추론도 성립되지 않는다. 나도 전의 스레로 지적했지만, 중국에서 술병기둥이 확인되고 있는 것은 카호쿠정흥의义자혜석주(570년) 마셔. 벌써 수대에 들어가면 돈황 바위굴 벽화 등에 권杀를 이용한 사주를 볼 수 있지만, 술병기둥의 형식은 자취을 감추고 있다. 그 이후에 확인할 수 있는 사주도, 권杀를 상단내지 상하단에만 베푼 것(뿐)만이다.

(쿠다라)백제에 건축 기술을 전한 남북조 시대의 중국에는 확실히 술병기둥이 있어, 또 (쿠다라)백제가 건축 기술을 전한 아스카 시대의 일본에도 술병기둥이 있는 것으로부터, 술병기둥이 (쿠다라)백제의 목조 건축에서 이용된 것은, 아마 틀림없다. (쿠다라)백제의 옛날 건축의 잔존물인 죠린지 석탑의 우주가 둥글림을 가진 곡선으로 형 찬`


言を左右にしても無駄な南北朝仏教w

結局ひのもとちゃんの主張はこれ。

「この古い形式の出所は南北朝まで遡るしかなく、必然的に百済を経由して統一新羅へ至り、唐様式の受容後もそれが保存されて柱心包式の要素となり、高麗に継承されたというルートを描くしかないのである。」


要約すると


「現代の韓国に残る仏教寺院の柱のエンタシスは百済由来のものであり、日本の法隆寺のものと同じである。」



どこで言っているかというと、ここ。

http://penpal.kjclub.com/jp/exchange/photo/read.php?tname=exc_board_14&uid=8257&fid=8257&thread=1000000&idx=1&page=1&number=5014

【引用】

一体なにをもって唐招提寺に徳利柱があるとジョン君が誤認したのかはよく分からないが、はっきり訂正させていただくと、そういうことは学界では認識されていない。 唐招提寺に徳利柱は、ない。 あしからず。

従って、「唐招提寺にあるから8世紀、7世紀の唐にもあった」という推論も成り立たない。 私も前のスレで指摘したが、中国で徳利柱が確認されているのは河北定興の义慈惠石柱(570年)のみ。 すでに隋代に入ると敦煌石窟壁画などに卷杀を利用した梭柱が見られるものの、徳利柱の形式は姿を消している。 それ以降に確認できる梭柱も、卷杀を上端ないし上下端のみに施したものばかりである。

百済に建築技術をつたえた南北朝時代の中国には確かに徳利柱があり、また百済が建築技術をつたえた飛鳥時代の日本にも徳利柱があることから、徳利柱が百済の木造建築で用いられたことは、恐らく間違いない。 百済の遺構である定林寺石塔の隅柱が丸みを持った曲線で形取られていることもその推定を助ける。

しかし、隋唐代以降の中国に徳利柱は見られず、また唐から直接技術を伝えられたはずの日本に残る天平時代の建築にも徳利柱を持つものは一つも無い。 なので、隋唐に徳利柱が用いられたと推測することは、現時点では、できないのである。 むろんただ痕跡が全て失われただけで、用いられ続けた可能性はゼロではないが。

さて、8世紀に日本と韓国はいずれも唐から建築技術を受容して、それぞれ和様と柱心包形式という様式を形成したとされる。 しかし、注意していただきたいのだが、受容した結果作られた様式は、オリジナルと全く同じではない。 先の投稿でも言ったことだが、受容に際しては意図するとせざるとに関わらず、必ず要素の取捨選択が行われる。 例を繰り返せば、日本の和様は垂木を平行に配置する『平行垂木』という形式を持っている。 しかし唐で一般的だったのは扇形に配置する『扇垂木』である。 日本人は唐様式を導入しながらも、飛鳥時代(恐らくは、百済及び南北朝時代の中国)から受け継いだ平行垂木の伝統を残した。 この例が示しているのは、唐の様式を取り入れても、それ以前の要素が残るということは、あり得る、ということだ。

では高麗時代の柱心包建築に残る徳利柱は、どこから来たのか。 上述の経緯から、唐→統一新羅→高麗というルートは辿れないのである。 そうすると、統一新羅が三国時代から受け継いだものと考えるしかない。 結局、この古い形式の出所は南北朝まで遡るしかなく、必然的に百済を経由して統一新羅へ至り、唐様式の受容後もそれが保存されて柱心包式の要素となり、高麗に継承されたというルートを描くしかないのである。

無論、あくまで現在見つかっている遺物から構築しうる仮説としてはそれが最も蓋然性が高いだろうというだけのことで、今後、唐やそれ以降の時代の中国から徳利柱がもし見つかれば、話は変わってくるだろう。 しかし現時点では、私は高麗の徳利柱は百済に通じると考えるべきだと思う。 皆さんがどう思われるかは、皆さんで考えればよろしい。

【引用終わり】


うんうん、百歩譲って東大寺と新羅を繋いであげたのに、要らないというなら、10世紀から14世紀頃までの朝鮮の木造建築の連続性が消滅するだけですの。というか、それを消滅させることにより、百済と高麗を繋げようというペテンなんだけどね。( ´H`)y-~~



さて、遺物から見ると六朝時代の仏教様式は新羅に伝わっていないという主張らしい。



なぜ、「遺物だけ」から技術の伝播を語ろうとしているか、それはね、史料を持ち出すと新羅が南北朝時代に自前で仏教をガンガン導入していたことが明らかになるので、史料はガン無視して、百済と日本、百済と高麗を牽強付会させているわけですがー・・・


そもそも、史料を無視するのであれば、「6世紀に百済から日本に仏教が伝わった」ってどこから出てくる話なの?思い切り、記紀やら中国の正史に依拠しているわけで(笑い


自分の都合が良い場面では史料に依拠し、都合が悪くなると史料を無視する。




これって、二重基準のペテンだよね( ´H`)y-~~





ということで、遺物上と史料上から、新羅の仏教についておさらいしてみましょう~



○ 新羅に対する仏教の伝来

『三國史記』 卷第四 新羅本紀第四  眞興王

「十年春遣使與入學僧覺德佛舍利王使百官奉迎興輪寺前路」
「十四年春二月王命所司築新宮於月城東黄龍見其地王疑之改爲佛寺賜號曰皇龍
「二十五年遣使北齊朝貢」
「二十六年春二月北齊武成皇帝詔以王爲使持節東夷校尉樂浪郡公新羅王秋八月命阿■春賦出守國原九月廢完山州置大耶州遣使劉思與僧明觀來聘送釋氏經論千七百餘卷
「二十七年春二月祇園實際二寺成立王子銅輪爲王太子遣使於陳貢方物皇龍寺畢功
「三十三年春正月改元鴻濟三月王太子銅輪卒遣使北齊朝貢冬十月二十日爲戰死士卒設八關筵會於外寺七日罷
「三十五年春三月鑄成皇龍寺丈六像銅重三萬五千七斤鍍金重一萬一百九十八分」
「三十六年春夏旱皇龍寺丈六像出涙至踵」
「三十七年 春始奉源花初君臣病無以知人(略)安弘法師入隋求法與胡僧摩羅等二僧廻上稜伽勝經及佛舍利秋八月王薨諡曰眞興葬于哀公寺北峯王幼年即位一心奉佛至末年祝髮被僧衣自號法雲以終其身王妃亦之爲尼住永興寺及其薨也國人以禮葬之」

真興王(在位534年~576年)
ええ、南北朝時代の新羅に、思い切りよく仏教伝来してますが?
百済を経由せずに、それも、国王が幼少の頃から一身に仏教を奉じ、晩年には剃髪し僧衣を着て(出家して)「法雲」と名乗り、王妃まで尼さんになって寺で死んでますが?



ここで、ホトケビーム!


「あのさ、興眞王の10年って6世紀の543年なのね。543年ってことは、百済が梁から寺工やら経典やらを必死に入手した(註)2年後なわけよ。その時には新羅には既に興輪寺って寺が建ってて、南北朝時代の梁に留学僧なんか送って、仏舎利を手に入れて寺に安置してるわけよ。」

(註:中大通六年大同七年累遣使獻方物並請湼槃等經義毛詩博士并工匠畫師等並給之《南史/列傳 凡七十卷/卷七十九 列傳第六十九/夷貊下/東夷/百濟》


「それと同時代の興眞王の25年には、北斉にも使臣を送ってるわけよ。26年陳から仏典や僧侶を得ているわけ。新羅には6世紀に仏教が伝わったんだけど、6世紀の新羅の寺って、どの様式で寺建ててるのよ?」



答え「南北朝の中国から導入した仏教様式」以外にあり得ません。


北斉は、まさに北斉義慈恵石柱頭を作った時代ですよw
その頃の北斉の建物とかってどんなだったの?w





こんなのでしたw





ええ、南北朝の仏教は、新羅は自前でどしどし導入中。というか、実は百済の国家レベルの仏教寺院が建設された初めって、541年以降なんだよねー。つまり、新羅とあんまり変わらないわけ。


知らなかったでしょw



高麗に繋がる仏教のルート?
仮に、百歩譲って六朝様式が高麗まで残ったという根拠のない仮説に乗ったところで、


高麗に繋がる南北朝の文化の流れは、


「南北朝」>「新羅(三国時代)」>「統一新羅」>「高麗」で無問題。



もう一回、hinomotoちゃんの発言






○ 百済と新羅の関係(皇龍寺九重塔建設当時の状況)

『舊唐書』列傳一百五十卷卷一百九十九列傳第一百四十九東夷百濟國


(貞観)十五年璋卒其子義慈遣使奉表告哀太宗素服哭之贈光祿大夫賻物二百段遣使冊命義慈為柱國封帶方郡王百濟王十六年義慈興兵伐新羅四十餘城又發兵以守之與高麗和親通好謀欲取党項城以絶新羅入朝之路新羅遣使告急請救

土人のための要約
貞観15年(641年)、百済王の璋が死んだので、息子の義慈が報告の使いをよこした。唐の太宗は喪服を着てお悔やみを述べ、義慈を百済王に冊封した。
貞観16年(642)、義慈は兵を挙げて新羅の40余の城(都市)を攻略し、兵を進駐させた。また、高句麗と通じて党頂城を奪って新羅が唐と連絡するルートを遮断しようとした。このため、新羅は唐に使いを派遣して危機的状況を伝え、唐の救援を求めた。


『三國史記』 卷第二十八 百済本紀第六  義慈王


義慈王武王之元子雄勇膽決武王在位三十三年立爲太子事親以孝與兄弟以友時號海東曾子武王薨太子嗣位太宗遣祠部郞中鄭文表冊命爲柱國帶方郡王百濟王秋八月遣使入唐表謝兼獻方物二年春正月遣使入唐朝貢二月王巡撫州郡慮囚除死罪皆原之秋七月王親帥兵侵新羅下■猴等四十餘城八月遣將軍允忠領兵一萬攻新羅大耶城城主品釋與妻子出降允忠盡殺之斬其首傳之王都生獲男女一千餘人分居國西州縣留兵守其城王賞允忠功馬二十匹穀一千石三年春正月遣使入唐朝貢冬十一月王與高句麗和親謀欲取新羅黨項城以塞入朝之路遂發兵攻之羅王德曼遣使請救於唐王聞之罷兵

土人のための要約
義慈王は武王の子で、武王の33年に立太子し、王が死ぬと唐の太宗に表文を送って王位を嗣いだ。在位2年目(642年)の7月には王自ら兵を率いて新羅に侵攻し、40余の城(都市)を攻略した。8月には一万の兵で新羅の大耶城を攻略させ、投降した大耶城の城主とその妻子を皆殺しにしてその首を新羅の都に送りつけた。また、男女1000余人を捕虜とし、兵に攻略した城(都市)を占領させ、攻略部隊指揮官の論功行賞を行った。翌年の11月、義慈王は高句麗と結んで新羅の党頂城を奪って新羅が唐と連絡するルートを遮断しようとして兵を発したが、新羅王が唐に救援を要請したことを聞いて、義慈王は兵を引いた。


『三國史記』 卷第五 新羅本紀第五  善德王

十一年(642年)(略)秋七月百濟王義慈大擧兵攻取國西四十餘城八月又與高句麗謀欲取党項城以絶歸唐之路王遣使告急於太宗是月百濟將軍允忠領兵攻拔大耶城都督伊■品釋舍知竹竹龍石等死之冬王將伐百濟以報大耶之役
十三年(644年)秋九月王命■信爲大將軍領兵伐百濟大克之取城七

土人のための要約
在位11年目(642年)、百済の義慈王が大軍を率いて国土西方の40余の城(都市)を攻略した。8月には高句麗と結託して党頂城を奪って唐への連絡ルートを遮断しようとした。王は唐の太宗に急を告げる使者を派遣した。この月、百済の将軍が兵を率いて大耶城を攻略し、城主らが死んだ。冬、王は報復のための百済征伐を計画した。13年9月、百済に大勝し7つの城(都市)を攻略した。



皇龍寺の大木塔は、645年頃に完成したと言われているのですが、『三国遺事』に「643年に新羅の善徳王が百済の義慈王に遣いを出し、木塔建設の技術者を派遣するよう要請し、義慈王が百済最高の技術者である阿非を派遣して、この新羅最大の護国仏教基地の巨大木塔を作らせた」なんてあり、これを根拠に百済から新羅への仏教技術の伝播を主張したアホもいましたが、上記の通り、三国遺事の記述は、整合性バッチリな複数の史料によって否定されちゃってますw

新羅が百済に使臣を派遣した記録がないどころか、百済王、首都を離れて恩自ら戦争中ですw







んで、今度は遺物か。

百済の石塔のエンタシス?

だから何?

百済人がそんなものを作る以前に、新羅人は南北朝の技術を用いて木塔を建設しておりますが?


どうせ新羅の遺物を出せとかいうので、準備しましたw


永寧寺九重木塔想像図w


http://www1.hst.titech.ac.jp/~nakanisi/nronbun/12taikai.pdf

まいどおなじみ中西君。

ええ、みんな大好き新羅の皇龍寺九層塔











アホが三国遺事を引っ張り出して、舊唐書と三国史記で吹き飛ばされた、旧新羅の木塔ですが、中西君が北魏永寧寺の九層木塔との構造上の共通性という「事実」を示した上で、現在は失われた上部構造の共通性の可能性も指摘しています。



ええ、皇龍寺は、北魏の永寧寺九層木塔が完成した頃に建設を始め、約100年がかりで完成させた新羅が誇る護国仏教の大寺院です。( ´H`)y-~~




たしか、木造仏塔は隋唐には廃れたんだよねえ・・・

中国に現存する木塔は11世紀の八角塔なので、新羅に影響など及ぼせないよねえ。



洛陽永寧寺九重木塔遺跡



皇龍寺九重木塔遺跡



南北朝時代には木造の仏塔が作られていたんだよねえ・・・

この南北朝の木塔と新羅の木塔の構造が類似するのはどうして?(笑


ええ、北魏、巨大木造仏塔を6世紀初期に建てております。洛陽永寧寺九重仏塔


新羅がこの百年後7世紀前半に巨大木造仏塔を建てます。皇龍寺九重仏塔。


ええ、基礎の構造だけでなく、四角断面の塔で九重という点まで共通。


これって、ひのもとちゃんの論理で言えば、北魏(南北朝)の頃の仏教建築の技術が統一以前の新羅に伝わっていた証左だよねえ。( ´H`)y-~~


てなことで、7世紀中葉に作られた百済石塔の「わずかなエンタシス」で「唐→統一新羅→高麗というルートは辿れないのである。 そうすると、統一新羅が三国時代から受け継いだものと考えるしかない。 結局、この古い形式の出所は南北朝まで遡るしかなく、必然的に百済を経由して統一新羅へ至り、唐様式の受容後もそれが保存されて柱心包式の要素となり、高麗に継承されたというルートを描くしかないのである。」なんて語れるならば、北魏の様式と共通性を持つ新羅の遺構って何よ?というお話でしかない。7世紀中葉に作られた新羅の遺物と北魏の遺物の共通性からも、新羅、自前で南北朝時代の仏教、手に入れたと言えるんじゃねえの?



ふーん・・・新羅の木塔に北魏の様式との共通性があるのか・・・


ちなみに、北魏の仏教建築の様式ですか?



うわあ、人形割束wwwwwwww

法隆寺とガチで共通する仏教建築の様式でございますw



瓦・・・瓦・・・と。
なになに・・・新羅の丸瓦の文様は百済と高句麗の影響を三国時代に受けていると考えられている・・・ねえ・・・。
ふーん。文様の話ね。

技術的にはどうなの?

http://kaken.nii.ac.jp/pdf/2009/seika/jsps-2/84604/17202022seika.pdf



ああ、三国時代から統一新羅を含めて、例外を除いて瓦の製造法は百済と新羅は違ってるようだねえ。( ´H`)y-~~

んで、その伝播経路は・・・と。

南北朝時代の南朝からねえ・・・

「六朝様式」の時代のことだねえ・・・(笑い


やっぱり、新羅は独自に「南北朝時代の様式」を取り入れてるんじゃねえの?






【結論】

① 百済から日本への仏教伝播を史料に依拠しながら、中国から朝鮮半島への仏教伝播について史料を無視するのはペテンだよね。

② 百済の石塔に見られる南北朝時代の建築との類似性をもって、統一新羅に対する南北朝仏教の伝播を語るのも無理。


③ 遺物、遺構からも新羅が南北朝時代の中国から建築技術を独自に導入していたことが窺われる。




百済の石塔で「この古い形式の出所は南北朝まで遡るしかなく、必然的に百済を経由して統一新羅へ至り、唐様式の受容後もそれが保存されて柱心包式の要素となり、高麗に継承されたというルートを描くしかないのである」なんて、史料上だけでなく、遺物上も言えないわな。( ´H`)y-~~


遺物上も、史料上も、高麗のエンタシスは百済由来なんて言えません。

つまり、現在韓国に存在する寺院のエンタシスと、法隆寺のエンタシスを繋ぐものは、具体的には「何もありません」


「可能性」「仮説」としても、高麗に伝承された仏教は、新羅由来のものであるという、従来の定説に利があります。

おしまい( ´H`)y-~~



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