■捏造事件と考古学研究者
前・中期旧石器問題調査研究特別委員会総括報告
2003年5月24日
前・中期旧石器問題調査研究特別委員会委員長 小林達雄
1.はじめに
前・中期旧石器問題調査研究特別委員会(以下、旧石器問題特別委)は、2001年6月10日に結成以来三ヶ年計画で問題の検証と研究を押し進めてきた。当初の予¥告通り、約1年間で、ある程度の結論を得るべく努力し、昨年度の日本考古学協会第68回総会において、中間的な報告をおこなった。つまり、それまでに旧石器問題特別委の5つの部会が精力的な検証作業によって到達した見解が、東北旧石器文化研究所の元理事長・藤村新一が関与した旧石器はほとんど学術的根拠のないものと判断される、という極めて遺憾な結論を発表¥した。
総会当時の期間中、国指定史跡の座散乱木遺跡の検証発掘が継続中であったため、結論は保留しながらも、やはり検証済みの他遺跡と同様に肯定すべき証拠を得ることは困難であることを予¥告していた。その後の最終的な結果は、予¥想を覆すに足る新たな根拠がなく、むしろ座散乱木遺跡についても積極的に否定せざるを得ないことが明らかになった。
また、引き続き実施された、岩手県ひょうたん穴遺跡、宮城県山田上ノ台遺跡などの検証発掘の結果も、一部の後期旧石器時代の石器を含むものの、それ以前の前・中期旧石器の存在を証明することは出来ず、一連の捏造行為の産物と判断せざるを得ないこととなった。
一方、こうした検証発掘とは別に、5つの部会で進めてきた作業は、いずれも中間報告での否定的な見解を超える新事実を加えることも出来ず、むしろ改めて藤村関与の遺跡と石器の全ては捏造されたものと判断されるに至った。
ここに、痛恨の極みとともに、未曾¥有の不祥事について最終的な報告をおこなう。
2.捏造事件発生の背景
日本列島における旧石器文化存否問題は、明治後半期にN.G.マンローによる仮説とその実証のための発掘調査の実践に始まる。たしかに、全国各地から多数発見されているゾウやシカなどの化石は、同時代の人類渡来の可能¥性を十¥分予¥想させるものである、という前提には高い蓋然性と正当性が認められる。同様な視点に立って、直良信夫の旧石器研究が続けられた。しかしながら、全国で現在2万5千個所以上の旧石器時代遺跡が知られているにも拘わらず、この二人に代表¥される先駆者は真正の旧石器の発見の機会を得ることが出来ずに終わった。
こうして、敗戦後まで日本考古学は、旧石器文化は日本列島にはなかったのだ、という通念に強く支配されてきたのである。ところが、遺跡踏査を続けていた相沢忠洋が、群馬県岩宿遺跡を発見し(1946年)、明治大学考古学研究室の発掘(1949年)によって、初めて旧石器文化の発見とその後の研究の道が拓かれた。
まさかの旧石器の存在は、多くの研究者や考古学ファンを魅了し、活発な研究が進められた。新発見の遺跡は、直ちに発掘の対象となり、日本考古学における最も活発な研究分野となった。当時の研究は、各地で蓄積されつつあった石器群の型式学的研究と編年に主力がおかれ、やがてある程度の成果をみるに至り、いわば小康状態に入った。換言すれば、一定の研究の到達点は次なる新しい課題の模索を窺いながら試行錯誤の袋小路にとどまっていた。
1962年大分県丹生遺跡が登場し、それまで発見されていた石器群よりも一段と古い前期旧石器と目される存在が注目され、古代学協会による発掘調査が6次にわたって実施された。しかし、地質学的に年代を裏付ける結果を得ることが出来ずに中断された。
一方、芹沢長介は佐渡の長木の礫層に包含される資料を検討しながら、やがて独自に旧石器問題の発見に取り組むに至り、まず大分県早水台遺跡の石英製石器の一群を日本列島における前期旧石器(約3万年までを後期旧石器、それ以上古い石器群を前期旧石器と定義)という考えを示した。さらに、ほぼ匹敵する年代の遺跡として、栃木県星野遺跡、群馬県岩宿D地点遺跡などの発掘に取り組み、東北大学の学生を中心に活発な研究活動が展開された。同様な観点から加藤稔による山形県上屋地遺跡をはじめ、島根県出雲地方における碧玉製石器群などが報告された。
しかしながら、旧石器研究者の間には、それらが人為的な加工品か、自然の営力による剥離痕を有するものか、という事実をめぐって賛否両論相譲ることがなかった。疑義を表¥明した代表¥は杉原荘介(1967年)であり、それ以降前期旧石器問題は推進派と否定派あるいは傍観者の対立状態が続くこととなった。
この膠着状態を打開しようとする研究の取り組みの延長線上に、このたびの前・中期旧石器問題がある。
つまり、この問題は、少なくとも1975年の石器文化談話会の結成と活発な活動が契機となったのである。純粋に旧石器文化の解明を目的とする若手研究者の団体であり、これがいわゆる捏造事件の直接的な引き金になったことを意味するものでは勿論ない。しかし、この学術団体の活動の最も重要な成果として矢継ぎ早に学界に送り出して来た25年間に及ぶ責任は極めて大きいものと言わざるを得ない。さらに重要問題について文字通り易々諾々として容認を許して来た学界もまた厳しい反省が必要とされる。
しかも、一方ではこうした研究に対して、小田静夫とC.T.キーリおよび竹岡俊樹や角張淳一らの一部研究者から疑義が提起されていたにも関わらず、学問的論争の場へと止揚出来なかったことは、学界の重大責任として認めなくてはならない。
3.前・中期旧石器問題の発生
前・中期旧石器問題は、旧石器文化談話会およびその発展的解消の上に成立した(NPO)東北旧石器文化研究所に所属する藤村新一による一連の遺跡捏造行為に関わるものである。
そして、それによって惹起された問題は考古学界のみにとどまらず、博物館や教科書、その他さまざまな分野に与えた社会的影響がある。
それ故にこそ、この問題を厳粛なる事実として認識し、今後の新しい展望を見極める決意と実践が必要とされたのである。
本問題は、長い潜伏期間の末に2000年11月5日の毎日新聞によるスクープで明らかにされた。まさに、それまで蓄積されて来た前・中期旧石器問題の終わりを告げるとともに、新たな課題の始まりを意味するものであった。
発掘調査中の宮城県上高森遺跡において、藤村が早朝に石器を埋めこむ現場の有様をはっきりとカメラが捉えていた。同時に北海道総進不動坂遺跡の捏造行為を自ら認めた。その時、同席した東北旧石器文化研究所理事長の鎌田俊昭、理事の東北福祉大学梶原洋の2人は、しかし他の遺跡はそうした行為とは無関係であると断言していた。
しかし、その発言は決して確たる根拠に裏付けられた保証を欠き、むしろその場しのぎの苦哀の言であることを思わせるものがあった。まさに一過性の事件ではなく、予¥想をはるかに越えた根深い大問題と認識されたのである。
4.前・中期旧石器問題調査研究特別委員会
学界を揺るがすこの重大な事態の出来に鑑みて、日本考古学協会委員会は2000年12月20日、前・中期旧石器問題調査研究特別委員会(略称、旧石器問題特別委)準備会を設置し、約6ヶ月の準備期間を経て、翌年6月10日、正式に発足する運びとなった。
委員長は戸沢充則、副委員長に小林達雄、春成秀爾が選任され、以下の5つの作業部会の構¥成をとり、各々に部会長が当てられた。なお、2002年6月22日、戸沢委員長は辞任し、同年7月27日、小林が委員長に就任した。
■第1作業部会−−遺物検証
部会長 小野 昭
■第2作業部会−−遺物検証
部会長 白石浩之
■第3作業部会−−検証技術開発
部会長 矢島國雄
■第4作業部会−−型式学的研究
部会長 松藤和人
■第5作業部会−−研究方法論研究
部会長 春成秀爾(9月12日に安蒜政雄に変更)
旧石器問題特別委は、約1年間を目途に一定の結論の見通しを得ることとし、各部会毎に検証作業に着手し、継続された。
その間、関係自治体や地域研究団体もまた独自に体制を組織するなど、検証が進められた。また、山形県袖原3遺跡や宮城県上高森遺跡や北海道総進不動坂遺跡の検証発掘および関係遺跡の石器観察による検証作業が実施された。そして、何れにおいても旧石器としての肯定的な証拠はなく、おしなべて否定的な判断へと傾いていった。
こうした検証の内容は、『前・中期旧石器問題の検証』の各論に報告されている通りである。
5.藤村新一との面談
検証対象の遺跡について、旧石器問題特別委の各部会による検証作業は、あくまでも第三者によるものであり、自ら限界がある。勿論真剣な取り組みによって正体への接近のための方法論を開発するなど相当程度の成果をあげることが出来た。しかし、直接の当事者による説明を抜きには、どうしても越えられない壁があることも事実である。戸沢委員長は、そのための試みを探り、藤村との5回にわたる面談に成功した。
しかし、藤村は「心身のバランスを崩す、ある病気」の状態にあり、必要十¥分な時間をかけて疑問点を詳細に糺すことは不可能¥であった。しかし地道な努力が、その限界を次第に破り、ようやく北海道4,岩手県2,宮城県14,山形県6、福島県2、群馬県3、埼玉県11、の合計42遺跡の捏造を聞き出した。だが、東京都多摩ニュータウンNo.471−B遺跡など、ほかに関与の事実が明白な遺跡については告白遺跡リストから抜けているものが依然として残されているなど、告白内容は完璧なものではなかった。例えば、文化庁調査による藤村関与遺跡は55遺跡である。また、第5作業部会(研究史・方法論)が、石器文化談話会などの記録類の分析から藤村と会員が踏査した遺跡は、遺物発見が不成功に終わったものを含めて58遺跡にのぼり、その全てが網羅されていたわけではない。
いずれにせよ、捏造工作を告白した遺跡が各部会の検証作業による否定的な見解と合致するものであり、したがって藤村関与遺跡のすべてが学術的資料としては価値のないものと積極的に判断せざるを得ない結果が明らかとなったのである。
なお、第5部会によれば、藤村関与遺跡が、1972年12月から始められた可能¥性を否定できないという見解の示されていることは今後の検討課題となる。
6.検証調査の内容
検証作業は旧石器問題特別委の発足以来2003年5月現在までの2年にわたって継続されてきた。約1年後の昨2002年5月26日、日本考古学協会第68回総会において中間的報告をした。この時点で、藤村関与の遺跡・遺物が全面的に学術資料としての価値は認められる可能¥性のほとんどないことの判断を示した。
また、こうした不祥事を内に抱える日本考古学協会は、深い反省とともに、そうした事態を阻止し得ず世間のいろいろな方面に影響を与え、迷惑をかけた責任の一端を自覚し、謝罪した。
それから、さらに約1年間にわたる検証作業によって、2003年度の日本考古学協会第69回総会を機に、最終的な報告書を刊行し、改めて藤村関与の前・中期旧石器はすべて捏造の産物であり、学術的価値を有しないことをはっきりと結論づけるに至った。
なお、旧石器問題特別委は、本年度においては3ヶ年計画の最終年度として、検証に関わる課題の整理と今後の展望を検証することとしたい。また、多数の研究者が参加する国際的な学会において、特別なセッションを設け、過去に国際学会で発信して来た前・中期旧石器問題を総括し、訂正と釈明および日本列島の旧石器文化研究の現状を発表¥する機会を模索中である。
(1)遺跡の検証発掘
これまでに、福島県一斗内松葉山、山形県袖原3,埼玉県秩父遺跡群、北海道総進不動坂、宮城県上高森、同座散乱木、同山田上ノ台、岩手県ひょうたん穴の各遺跡で検証発掘が行われた。その結果は、全てにおいて、確実な前・中期旧石器時代と判断し得る証拠はなく、むしろ捏造行為を明らかに証拠立てる石器埋めこみ器具の痕跡あるいは地質学的観点からすれば文化層の存在し得ない火砕流中からの出土を装うなどの明白な工作の痕跡などが確認されている。つまり、検証発掘のいずれもが、前・中期旧石器の一切の可能¥性を否定する結果となった。
(2)石器の検証
検証対象の石器群には、本来の包含層中の原位置に遺存した状態に反する不自然な資料が高い比率で混在していることが明らかとなった。とくに、1)地表¥面に浮き出していたがために二次的についたと推定される農機具などによる鉄の線条痕や新しい干渉によるガジリと呼ばれる傷などが有力な判断の手がかりとなることが判明した。2)埋納遺構¥からの出土とされた石器に、地表¥の黒土が付着している例があった。3)前・中期旧石器には未発達と考えられている押圧剥離が認められる例が少なからずあった。4)同様に加熱処理をして剥離作業を容易にしようと意図した痕跡をもつ例があった。
いずれも、縄文時代石器の表¥面採集品の埋めこみなどの手口を推定させる根拠となるものである。
7.座散乱木の検証発掘
前・中期旧石器時代遺跡の中で、国指定史跡の宮城県「座散乱木遺跡」は特別な意味を有するものであった。
第1に、1976年から1981年までの三次にわたる発掘は、前・中期旧石器問題の先駆けとして、それ以降の問題との継続と増殖の原点をなすものである。第2に、岡村道雄の主導による『座散乱木遺跡発掘調査報告書III』(1983)の刊行後、1997年には国史跡として指定された。これによって名実ともに学術的価値の評価が定着し、より一層問題の加速と深化の進行を促す結果につながる契機となった。
「座散乱木遺跡」は、前・中期旧石器問題における中核であり、この検証はまさに本陣攻略の意味がある。そのため、日本考古学協会が主体となり、文化庁、宮城県教育委員会、岩出山町、宮城県考古学会の協力体制で発掘が計画され、2001年4月26日から6月14日まで実施された。したがって、日本考古学協会第68回総会における旧石器問題特別委の報告では中間的な報告を余儀なくされたのである。
結局、最終報告は岩出山町において考古学的にも地質学的にも学術的価値がないという明確な判断の発表¥となった。
この結果を受けて、文化庁はさらに独自の調査研究を行い、12月9日に国指定史跡の解除がなされた。
8.課題
前・中期旧石器問題は、誰一人として予¥想もしなかった、あるいは出来なかった異常な事態である。まさに学問の領域が否定され、蹂りんされたほどの重大な意味をもつ。これを単なる一個人のなせる憎むべき所業と断ずるのは容易であるが、それでは済まない。充分熟慮して今後の新しい展望につなげていく覚悟が必要である。
(1)張本人の責任
検証の進行とともに、藤村の独り芝居の実態が明らかとなった。このことは動かし難い事実である。石器文化談話会から東北旧石器文化研究所を舞台として共に歩んできた仲間の非憤慷慨は痛いほど理解できる。その手口の巧妙さ、計画性、悪らつな心根など憎みても余りある言葉で、無念を押し殺している。何とも罪な所業に及んだものか。
しかしながら、この考古学界にあっては、何人の予¥想をも超えた理不尽な捏造行為は断じて許すべからざるものであり、2001年5月19日、日本考古学協会総会は藤村を退会させる処分を決定した。
その一方で、藤村は独り孤立していたのではなく、仲間を意識しながら生きていたことを忘れてはならない。彼は仲間の眼を自分に向けて欲しかった、極くありふれた思いが、迷い込ませるに至った初期の精神状態が、そのまま抑止力のきかないままに、ついとり返しのつかないさらなる行動に走らせた可能¥性を考える。
(2)第一次関係者
検証を通してみれば、あっけないほど他愛のない仕掛けにだまされていたことは明白な事実である。個人的にも親交を重ねながら、好人物と受けとめていた一人としても、直接いくつもの石器や崖面や発掘現場を共有して来た者はもちろん、多数が前・中期旧石器問題の関係者である。
関係者のなかでも、とくに時間の共有の度合いや志を確かめ合いながら行動即ち発掘をして来た者は第一次関係者である。しかし信頼を裏切られたという側に立ってだけいることは許されない。このことは図らずも、藤村を永年にわたる捏造行為を中止することなく持続させる暗黙の圧力にもなっていた可能¥性に思いを致す必要がある。
石器の検証が始まるや、たちまち黒土の付着やガジリや鉄線条痕の不自然さが暴¥き出された事実の前に、厳しい反省が必要とされよう。とりわけ、早くから件の石器の産状や石器自体について疑義を表¥明してきた研究者がいたにもかかわらず、耳を貸さなかった責任は大きい。
しかしながら、事態の重大さを確認し、自らの責任を明確にし、さらに問題解明のために本特別委に対して全面的に協力され第一次関係者としての責任を果たそうと努力された。
(3)第二次関係者
前・中期旧石器を実見したり、実見しながらも良くは観察しなかった者も、毫の疑念も抱くことなく認めて来た者も、いずれもはっきりとした関係者としての自覚が要求される。ときには、率先して新発見の意義を評価し、折に触れ吹聴の御先棒をかついで来た経緯を充分に自覚しなければならない。
つまり、研究者の一部は、世間一般の考古学に関心をもつ人々に対して、積極的に紹介の役を果たして来たことは再三再四にとどまらない。少なくとも筆者をはじめ、第二次関係者としての意味を正しく認識する必要がある。
(4)対極者
前・中期旧石器に当初より疑問点を発していた小田静夫、C.T.キーリ並びに最近になって否定的意見を発表¥し、周囲の研究者にシグナルを送り続けていた竹岡俊樹、角張淳一、馬場悠男らは改めて評価されなければならない。
こうした幾度にもわたる警鐘にも拘わらず効を奏しなかったのは、明らかに囲りの研究者の怠慢と力不足である。その一方で、賛同派の眼を覚ますことに性急なあまり、文章など公に発信する際に表¥現が激しすぎたのが逆効果に働いたことも事実と思われる。そうした場合には、人間は思い通りには客観視出来ないばかりか、内容の吟味の前に拒絶反応を起こすことさえある。
個人的事情を超えた人間としての性のしからしむるところである。
(5)行政関係の課題
本問題については、文化財を管轄する行政の対応の課題がある。有体に言えば、ことの重大さの意識に欠けるところはなかったのか。事件発覚後の埼玉県当局の迅速な対応と、宮城県や文化庁の初動対応の仕方との間には、大きな差があったことを、戸沢前委員長は指摘している。少なくとも、相応の責任の自覚に基づく、より迅速な具体的対応措置が期待されたところであった。
もっともその後、座散乱木遺跡ほかの検証発掘・実現のために文化庁をはじめとする関係自治体は改めて積極的に取り組み、問題解明に成果をあげたことは銘記すべきである。
また文化庁は今後の旧石器時代遺跡の史跡指定に際しては、特別に調査研究委員会を設けるなど慎重な対応をとることになったのは評価されよう。
9.おわりに
前・中期旧石器問題は、日本考古学界が初めて経験する衝撃的な事件であった。とくに考古学が自らの力で問題の所在を突きとめたのではなく、まさに毎日新聞のスクープによって眼を醒まされるまで太平の夢の中にいたという事実は重ねて大汚点となった。通常は考古学に関わる問題を逆に正しく発信すべき側に立つべきであったし、その危険な状態は2000年7月の段階で、インターネット上に具体的に論じられていたのに、真向から取り組む姿勢を欠いたことを、まず反省しなくてはならない。
その理由について、石器研究の基礎的な学力に問題があったことも確かな事実である。さらに重ねて、10万年単位で次々と古くなる遺跡がタイムマシーンのレールに乗った状況を思わせるほどに発見され続けて来たことの異常さすら許してしまっていた。それにしても世界的観点からみても、極めて重大な人類史に関わる遺跡に対する取り組みが慎重さを欠き、捏造を見逃してしまうほどの杜撰な発掘がまかり通ったことも悔やまれてならない。
こうした点は、明らかに日本考古学の信用を失わせるものであり、改めて厳しく戒めなくてはならない。
しかしながら、旧石器問題特別委の検証は、後追いしながらも問題の所在を正しく認識し、いまや毫のあいまいさもなく、当該石器群と遺跡の全てが学術的には根拠のないものであったことについて断定を下すことが出来た。そこに至る方法論も獲得し、有効に実績をあげることが出来た。今後さらにそれを深化させていくことによって、石器認識をより確固たるものとすることを期待し得る。
なお、日本考古学界における未曾¥有の不祥事を学界の強い閉鎖性との関連性に由来すると考える向きもある。しかし、とくに考古学界に固有の性質ではなく、学問する個人間の特殊性あるいは一回性の事情が絡んだケースとして理解される場合も少なくない。たとえそうした傾向が若干みられるとしても、すでに今日の学界全体の空気は大幅に開放的であることは確かな事実であり、そうした弊害は急速に解消されてゆくであろうことを確信するものである。
2003年5月24日
前・中期旧石器問題調査研究特別委員会委員長 小林達雄
■第12回 前・中期旧石器問題調査研究特別委員会総括部会の概要
日時:2004年1月11日(日)午後3時〜5時
場所:日本考古学協会事務所
1.金取遺跡の発掘調査について、矢島國雄・佐川正敏・菊池強一委員から報告があった。周辺部のみの発掘であったためか、前回出土の石器群と一連の遺物は検出できなかったが、北原テフラと洞爺テフラは確認された。
2.長崎県平戸市の入口遺跡の件は、小林達雄委員長がその訪問の印象を報告した。
3.3月31日からカナダ、モントリオールで開催されるアメリカ考古学会(SAA)総会で、捏造問題の検証を含む日本の旧石器研究の現状を発表¥するための分科会を行いたいとの申¥請が通った。申¥請にあたり、各発表¥の要旨は提出済みで、これらは、会場で購入できるアブストラクト集に掲載される。さらに英文予¥稿集を刊行し、当日会場で配布する予¥定である。この分科会の組織担当者は矢島委員と井川史子氏(在モントリオール)、議長は佐々木憲一会員。日本語原稿については現在、佐々木会員が鋭意英訳中。これらに加えて小林委員長が、この分科会の意義を冒頭に説明する。なお、これらの発表¥の成果を欧文学術雑誌にまとめて投稿すべきとの意見が小林委員長より出され、佐々木会員からAsian PerspectivesまたはJournal of East Asian Archaeologyを考えてはどうかという発言があった。
4.アメリカ考古学会(SAA)分科会での予¥稿集は、図表¥をふんだんに入れるので一人あたりの発表¥原稿を20頁として、A4判100頁位の冊子を予¥定する。当日100部配布するとして、合計300部印刷することで合意した。
5.特別委員会の委員全員には、分科会参加を呼びかける連絡をする。会員への呼びかけは、3月発行の会報と協会ホームページを利用する。
6.隣接諸科学との共同研究のあり方についてのフォーラムを3月下旬に明治大学で開催する予¥定である。シンポジウム記録は特別委員会編集で刊行する。
7.5月の協会総会で特別委員会の最終報告を行う。アメリカ考古学会総会参加の後、総括部会を開き、皆の意見を集約しとりまとめる。次回の総括部会は5月8日(土)午後3時を予¥定する。
以上
前・中期旧石器問題調査研究特別委員会報告
特別委員会の活動も3年目となった2003年度は、5月に検証活動の報告書として『前・中期旧石器問題の検証』を刊行し、ほとんどその活動の所期の目的の大半を果たすことができたが、海外に向けての説明責任および今後の研究展望の開拓の仕事が残されていた。海外向けの報告は2004年度3月末から4月初にカナダで開催されたアメリカ考古学会にシンポジウムを組むことで実現し、今後の研究展望に向けては、自然科学分野との共同的な研究のあり方を探る討論集会をもつことができた。
なお、今後に残された課題は多いとはいえ、特別委員会を存置して進める課題というよりは、協会、考古学研究者、とりわけ旧石器研究者の研究姿勢の問題であり、意図的で前向きな改善と課題開拓、研究推進によるべきものと考え、本特別委員会の役割は終わったものと判断され、本年度総会にその解散を提起した。検証活動にかかわる残余の課題としては、将来における再検証の機会を保証するとともに、考古学史研究上の要請に応えることができるよう捏造石器の確実な保管を関係機関に対して求めることが残されている。(矢島國雄)
前・中期旧石器問題調査研究特別委員会最終報告
−第70回総会「前・中期旧石器問題調査研究特別委員会報告」での口頭発表¥全文−
2004年5月22日
1.はじめに−経緯と検証結果−
2000年11月5日、藤村新一元会員による旧石器遺跡捏造問題が発覚し、日本考古学協会は直ちに特別委員会の設置を決め準備会(委員長 戸沢充則明治大学教授・当時)を発足させた。準備会は実質的な調査を開始するとともに、捏造疑惑のもたれた9都県の関係自治体および関係調査団に対し、疑惑の有無について、この時点での可能¥な調査をお願いした。これに対する多くの回答は疑惑に対しはむしろ否定的でさえあった。
2001年5月、前・中期旧石器問題調査研究特別委員会(委員長 戸沢充則明治大学教授・当時、2003年5月まで、以後、小林達雄國學院大學教授)が正式に発足し、疑惑のもたれる関係遺跡の出土資料の検証を開始するが、ほぼこれと前後して進められた埼玉県教育委員会、山形県尾花沢市教育委員会、福島県安達町教育委員会、東京都教育委員会による遺物の検証や検証発掘調査の結果は、いずれも捏造と判断される結果となった。
いっぽう、戸沢委員長による藤村元会員との面談が実現し、この中で60余遺跡において捏造を行ったことが告白された。これらの中には座散乱木遺跡も含まれることから、1980年代以降の前・中期旧石器研究の骨格をなしてきた数多くの遺跡のすべてに問題がある可能¥性が極めて高くなった。
安達町一斗内松葉山遺跡、尾花沢市袖原3遺跡、埼玉県秩父の関係遺跡に続き、捏造の発覚した宮城県上高森遺跡においても、検証発掘調査が地域の考古学会を中心として実施され、調査団の発掘調査技術や現場における出土状態、包含層の検討などに重大な欠陥があったことが指摘されることとなった。
2002年4月には文部科学省科学研究費補助金特別研究促進費の補助も受け、座散乱木遺跡の検証発掘調査を実施することとなり、この結果も既報のごとく、縄文時代草創期、後期旧石器も含めて全面的に捏造であることが確証されることとなった。宮城県教育委員会等も本格的に疑惑のある関係遺跡の出土資料等の検証を進め、いずれも一部に石器としては真性の資料を含むものの、少なくともこれらはすべて前・中期旧石器と認めることの出来ないものであり、結果的には藤村元会員の関与した168遺跡のすべてについて捏造との判断を下すことになった。
2.前・中期旧石器問題調査研究特別委員会の活動
特別委員会は5つの作業部会を設け、関係出土遺物の検証、関係遺跡の検証を進めるとともに、自然科学的な諸手法の再検討や石器の型式学的な検討、そしてこの捏造事件の背景や影響の調査といった広範囲の調査を進めてきた。
関連領域との共同的な研究は旧石器時代研究においては必要不可欠であるが、これらの諸研究について、埼玉県教育委員会の検証調査や上高森遺跡、座散乱木遺跡における検証調査において、再測定や再検討が進められ、これまでの理化学的な測定値などと大きな齟齬はなかったものの、前・中期旧石器とされるものが出土したという考古学側の認識に整合するようなデータや事象の解釈が行われてしまった部分があることが指摘されることとなった。また、包含層の地層自身が、長い年月の間に様々な営力により変化していることへの認識が弱かったことも指摘され、遺跡形成学的な観点の重要性を改めて認識させられた。
型式学的な検討の結果は、捏造に利用された石器のほとんどが縄文時代の所産であることを裏付けるものであったが、これは同時に、縄文時代研究における石器研究の弱さを明らかにするものでもあった。旧石器時代の石器の型式学的な研究の深化も重要だが、これまで明確な製品中心にしか研究が進められてきていない縄文時代石器の研究の深化も、重要な課題として提起されることとなった。
捏造の背景や社会的影響についての調査は、藤村元会員による捏造行為が1970年代にまでさかのぼることを明らかにし、また新発見が大々的に報道され、教科書に取り上げられるようにまでなっていった動きを総括し、考古学者、行政、報道等のいくつかの問題点を指摘した。
これらの大部分については、2003年5月に刊行した報告書『前・中期旧石器問題の検証』において既に報告したとおりである。
2003年5月以降の活動について付け加えれば、長崎県入口遺跡、岩手県金取遺跡の調査に特別委員会委員が関与するほか、海外での捏造問題についての報告を実現すること、自然科学領域との共同研究のあり方についてのシンポジウムを実施することが進められた。
海外での報告は、2004年4月アメリカ考古学会においてシンポジウムを開催し(コーディネーター:井川=スミス 史子・矢島國雄)、小林達雄前・中期旧石器問題調査研究特別委員会委員長、小野 昭東京都立大学教授、白石浩之愛知学院大学教授、佐川正敏東北学院大学教授、矢島國雄明治大学教授が、それぞれ特別委員会の検証活動の具体的方法と内容、今日の旧石器時代研究の現状、移行期である縄文時代草創期の年代を中心とした問題について報告し、ジナ・バーンズ教授が日本の包含層の土壌学的、化学的な性格について報告した。捏造問題に正面から取り組み、科学的な検証を行い、その結果を早期にまとめ報告した学会の姿勢に対しては、シンポジウム出席者の多くから好意的な評価をいただいた。
関連領域との共同研究のあり方をめぐるシンポジウムは2004年3月に開催し、自然科学の各領域の研究者および特別委員会委員30余名が参加した。このシンポジウムでは、これまでの共同研究がややもすると協同の実が挙がっていないものがあることが指摘され、都合のよいデータのみの評価が前面に押し出される傾向があったことなどが反省されたが、相互の学問のより一層の理解が不可欠であるとともに、特に考古学側の主体性の確立、共同研究を持ちかける考古学側で、何をどう明らかにするために、どのような共同的な研究を進めたいのかが明確にされることが最重要であるなどの点について自然科学の研究者から指摘された。今回の検証活動を通じて、これまで利用されたいくつかの自然科学的手法に関しても再検討、再調査を進めたが、すべてを実施できたわけではない。地磁気、電子スピン共鳴法、脂肪酸などに関しては検証・検討を行っていない。将来の研究展望を切り開くためには、これらについても何が問題であったのかを明らかにするとともに、より高精度での活用が可能¥か否かを検討する必要がある。
3.協会としての責任と旧石器時代研究の将来展望
今回の捏造問題に関して、日本考古学協会は直ちに事態の全面的な検証を特別委員会を組織し、全学界的に進めてきた。その結果はこれまで報告したとおりであり、こうした取り組みを進め、速やかに結果を公表¥することで学会としての基本的な責任は果たしてきたものと考える。
同一発表¥者の度重なる報告を認め、これが結果的に捏造旧石器を認知させることになったとの批判があった。しかし、学会発表¥は会員の権利であり、度重なるからということでこれを排除するべきものではないこと、発表¥はあくまで発表¥に過ぎず、この内容のすべてが直ちに学界が認知したものとはなるものではないことを前提として述べた上で、これまでの学会において批判的な議論が充分活発であったかどうかについては反省すべきものがある。また、学会発表¥の運営等に工夫をする余地があるものと考える。なお、研究発表¥はレフリー制をもつ学術誌に発表¥することによって、初めて意味をもつものであることが、人文系の科学では今日なお明確であるとはいえないが、機関紙『日本考古学』等の活用を進めることで、この課題についても改善を進めることができるものと考える。
考古学研究者、日本考古学協会員としての倫理に関しては、倫理問題検討小委員会が理事会内に設けられ、鋭意検討が進められていると聞いている。この課題については理事会にゆだねたい。
旧石器時代研究、とりわけ前・中期旧石器時代研究は、ある意味で振り出しに戻ったことは否めない。しかしながら、この捏造問題の検証活動を通じて獲得したものは決して少なくない。これを生かして将来の研究展望を拓く必要がある。改めて石器の型式学的な論議の高揚と、遺跡形成論的な観点での出土石器の厳密な検討が進められることが最重要の課題であろう。また、関連領域の諸科学との、単にもたれ合い、利用しあうだけの関係ではない、十¥分にテーマを議論しながら共同研究の開発を進めることもきわめて重要な課題である。
(2004年5月21日 前・中期旧石器問題調査研究特別委員会委員長 小林達雄)
前・中期旧石器問題調査研究特別委員会報告
【2004年12月1日発行 会報No.153,p.7掲載】
本特別委員会は、去る5月22日(土)の2004年度総会において、ほとんどの検証作業を終えたとして解散を宣し、承認されたところであるが、若干の課題を残していた。
総会における報告中で、群馬県加生西、同中山峠、同下川田入沢、同赤根峠については関矢晃会員から検証結果の報告があり、捏造と判断されたことを伝えたが、群馬県入ノ沢および同桐原についてはこの時点では検証作業は終了していなかった。
入ノ沢については関矢晃会員より、6月1日付けで群馬県教育委員会に捏造の可能¥性が高いという検証結果の報告があり、県教委より本特別委員会に検証結果の確認が求められた。8月19日、元特別委員会委員の矢島國雄会員および齋藤靖二氏により、石材鑑定を含めた確認を行い、関矢晃会員の検証結果を追認した。
桐原についても、2004年9月3日付で、桐原遺跡調査団より『群馬県山田郡大間々町桐原遺跡の調査概要報告』が刊行され、県教委に送付された。同調査団の検証結果も捏造を裏付けるものであった。
以上の検証作業をもって、藤村新一元会員の関与した遺跡の検証はすべて終了した。
■날조 사건과 고고학 연구자
전·중기 구석기 문제 조사 연구 특별 위원회 총괄 보고
2003년 5월 24일
전·중기 구석기 문제 조사 연구 특별 위원회 위원장 코바야시 타츠오
1.처음에
전·중기 구석기 문제 조사 연구 특별 위원회(이하, 구석기 문제 특별위원회)는, 2001년 6월 10일에 결성 이래3년 계획으로 문제의 검증과 연구를 추천해 왔다.당초의예고대로, 약 1년간으로, 어느 정도의 결론을 얻을 수 있도록 노력해, 작년도의 일본 고고학 협회 제 68회 총회에 대하고, 중간적인 보고를 행했다.즉, 그때까지 구석기 문제 특별위원회의 5개의 부회가 정력적인 검증 작업에 의해서 도달한 견해가, 토호쿠 구석기 문화 연구소의 전 이사장·후지무라 신이치가 관여한 구석기는 거의 학술적 근거가 없는 것이라고 판단 된다, 라고 하는 지극히 유감스러운 결론을 발표했다.
총회 당시의 기간중, 나라 지정 사적의 자자라기 유적의 검증 발굴이 계속중이었기 때문에, 결론은 보류하면서도, 역시 검증 끝난 타유적과 같게 긍정해야 할 증거를 얻는 것은 곤란한 것을 예고 하고 있었다.그 후의 최종적인 결과는, 예상을 뒤집는에 충분한 새로운 근거가 없고, 오히려 자자라기 유적에 대해서도 적극적으로 부정 하지 않을 수 없는 것이 밝혀졌다.
또, 계속 실시된, 이와테현 표주박구멍 유적, 미야기현 야마다카미노대 유적등의 검증 발굴의 결과도, 일부의 후기 구석기시대의 석기를 포함하지만, 그 이전의 전·중기 구석기의 존재를 증명하는 것 (은)는 하지 못하고, 일련의 날조 행위의 산물이라고 판단 하지 않을 수 없게 되었다.
한편, 이러한 검증 발굴과는 별도로, 5개의 부회에서 진행해 온 작업은, 모두 중간 보고로의 부정적인 견해를 넘는 신사실을 더할 수도 있지 않고, 오히려 재차 후지무라 관여의 유적과 석기의 모두는 날조 된 것이라고 판단 되기에 이르렀다.
여기에, 통한의 극한과 함께, 미증유의 불상사에 대해 최종적인 보고를 행한다.
2.날조 사건 발생의 배경
일본 열도에 있어서의 구석기 문화 존부 문제는, 메이지 후반기에 N.G.맨 로에 의한 가설과 그 실증을 위한 발굴 조사의 실천에 시작한다.분명히, 전국 각지로부터 다수 발견되고 있는 조우나 사슴등의 화석은, 동시대의 인류 도래의 가능성을 10분 예상 시키는 것이다, 라고 하는 전제 높은 개연성과 정당성이 인정된다.동일한 시점에 서서, 나오라 노부오의 구석기 연구가 계속되었다.그렇지만, 전국에서 현재 2만 5천 개소 이상의 구석기시대 유적이 알려져 있기에도 관계없이, 이 두 명으로 대표되는 선구자는 진정의 구석기의 발견의 기회를 얻지 못하고에 끝났다.
이렇게 하고, 패전 뒤에까지 일본 고고학은, 구석기 문화는 일본 열도에는 없었던 것이다, 라고 하는 통념에 강하게 지배되었기 때문에 있다.그런데 , 유적 답사를 계속하고 있던 아이자와 다다히로가, 군마현 이와쥬쿠 유적을 발견해(1946년), 메이지 대학 고고학 연구실의 발굴(1949년)에 의해서, 처음으로 구석기 문화의 발견과 그 후의 연구의 길이 개척해졌다.
만약의 구석기의 존재는, 많은 연구자나 고고학 팬을 매료해, 활발한 연구가 진행되었다.신발견의 유적은, 즉시 발굴의 대상이 되어, 일본 고고학에 있어서의 가장 활발한 연구 분야가 되었다.당시의 연구는, 각지에서 축적함있던 석기군의 형식 학문적 연구와 편년에 주력이 두어져 이윽고 어느 정도의 성과를 보기에 이르러, 말하자면 소강 상태에 들어갔다.환언하면, 일정한 연구의 도달점은 다음 되는 새로운 과제의 모색을 엿보면서 시행 착오의 막다른 골목에 머무르고 있었다.
1962년 오이타현 니우 유적이 등장해, 그것까지 발견되고 있던 석기군보다 한층 낡은 전기 구석기라고 주목받는 존재가 주목받아 고대학 협회에 의한 발굴 조사가 6차에 걸쳐서 실시되었다.그러나, 지질학적으로 연대를 증명하는 결과를 얻지 못하고에 중단되었다.
한편, 세리자와 쵸스케는 사도의 오사기의 력층에 포함 되는 자료를 검토하면서, 이윽고 독자적으로 구석기 문제의 발견에 임하기에 이르러, 우선 오이타현 하야미즈대 유적의 석영제 석기의 한 무리를 일본 열도에 있어서의 전기 구석기( 약 3 만년까지를 후기 구석기, 그 이상 낡은 석기군을 전기 구석기라고 정의)라고 할 생각을 나타냈다.게다가 거의 필적하는 연대의 유적으로서 토치기현 호시노 유적, 군마현 이와쥬쿠 D지점 유적등의 발굴에 임해, 토호쿠대학의 학생을 중심으로 활발한 연구 활동이 전개되었다.동일한 관점에서 카토 미노루에 의한 야마가타현 카미야치 유적을 시작해 시마네현 이즈모 지방에 있어서의 벽옥제 석기군등이 보고되었다.
그렇지만, 구석기 연구자의 사이에는, 그것들이 인위적인 가공품인가, 자연의 영력에 의한 박리자국을 가진 것일까, 라고 하는 사실을 둘러싸고 찬반양론상 양보하는 것이 없었다.의의를 표명 한 대표는 스기하라장개(1967년)이며, 그 이후 전기 구석기 문제는 추진파와 부정파 혹은 방관자의 대립 상태가 계속 되게 되었다.
이 교착 상태를 타개하려고 하는 연구의 대처의 연장선상에, 이번의 전·중기 구석기 문제가 있다.
즉, 이 문제는, 적어도 1975년의 석기 문화 담화회의 결성과 활발한 활동이 계기가 되었던 것이다.순수하게 구석기 문화의 해명을 목적으로 하는 신진 연구자의 단체이며, 이것이 이른바 날조 사건의 직접적인 계기가 된 것을 의미하는 것에서는 물론 없다.그러나, 이 학술 단체의 활동의 가장 중요한 성과로서 화살 계속조에 학계에 내보내 온 25년간에 이를 책임은 지극히 큰 것이라고 말하지 않을 수 없다.한층 더 중요 문제에 대해 문자 그대로 역들낙들로서 용인을 허락해 온 학계도 또 어려운 반성이 필요하게 된다.
게다가, 한편에서는 이러한 연구에 대해서, 오다 시즈오와 C.T.키리 및 타케오카 토시키나 각장준이치등의 일부 연구자로부터 의의가 제기되고 있었음에도 관련되지 않고, 학문적 논쟁의 장소로 지양 할 수 없었던 (일)것은 , 학계의 중대책임으로서 인정하지 않으면 안 된다.
3.전·중기 구석기 문제의 발생
전·중기 구석기 문제는, 구석기 문화 담화회 및 그 발전적 해소 후에 성립한(NPO) 토호쿠 구석기 문화 연구소에 소속하는 후지무라 신이치에 의한 일련의 유적 날조 행위에 관련되는 것이다.
그리고, 거기에 따라 야기 된 문제는 고고학계에만 머물지 않고, 박물관이나 교과서, 그 외 다양한 분야에게 준 사회적 영향이 있다.
그러므로에야말로, 이 문제를 엄숙한 사실로서 인식해, 향후의 새로운 전망을 판별할 결의와 실천이 필요하게 되었던 것이다.
본문제는, 긴 잠복 기간말에 2000년 11월 5일의 매일신문에 의한 스쿠프로 밝혀졌다.확실히, 그것까지 축적되어 온 전·중기 구석기 문제의 마지막을 고하는 것과 동시에, 새로운 과제의 시작을 의미하는 것이었다.
발굴 조사중의 미야기현 카미타카모리 유적에 있고, 후지무라가 이른 아침에 석기를 묻어 넣는 현장의 모양을 분명히 카메라가 파악하고 있었다.동시에 홋카이도 소우신 부동비탈 유적의 날조 행위를 스스로 인정했다.그 때, 동석한 토호쿠 구석기 문화 연구소 이사장 카마타 토시아키, 이사의 토호쿠 복지 대학 카지와라요우의 2명은, 그러나 다른 유적은 그러한 행위와는 무관계하다라고 단언하고 있었다.
그러나, 그 발언은 결코 확실한 근거로 증명된 보증이 부족해, ?`오임시 방편의 고 액의 말인 것을 생각하게 하는 것이 있었다.확실히 일과성의 사건이 아니고, 예상을 아득하게 넘은 뿌리깊은 대문제라고 인식되었던 것이다.
4.전·중기 구석기 문제 조사 연구 특별 위원회
학계를 흔드는 이 중대한 사태의 성과에 귀감 보고, 일본 고고학 협회 위원회는 2000년 12월 20일, 전·중기 구석기 문제 조사 연구 특별 위원회(약칭, 구석기 문제 특별위원회) 준비회를 설치해, 약 6개월의 준비 기간을 거치고, 다음 해 6월 10일, 정식으로 발족하는 단계가 되었다.
위원장은 토자와 미츠노리, 부위원장에 코바야시 타츠오, 하루나리수이가 선임되어 이하의 5개의 작업 부회의 구성을 취해, 각각에 부회장을 맞힐 수 있었다.덧붙여 2002년 6월 22일, 토자와 위원장은 사임해, 동년 7월 27일, 코바야시가 위원장으로 취임했다.
■제1 작업 부회--유물 검증
부회장 오노 아키라
■제2 작업 부회--유물 검증
부회장 시라이시 히로유키
■제3 작업 부회--검증 기술개발
부회장 야지마국웅
■제4 작업 부회--형식 학문적 연구
부회 나가마츠 후지와인
■제5 작업 부회--연구 방법론 연구
부회 창춘성수이(9월 12일에 안비루 마사오로 변경)
구석기 문제 특별위원회는, 약 1년간을 목표에 일정한 결론의 전망을 얻는 것으로 해, 각부회 마다 검증 작업에 착수해, 계속되었다.
그 사이, 관계 자치체나 지역 연구 단체도 또 독자적으로 체제를 조직 하는 등, 검증이 진행되었다.또, 야마가타현수원 3 유적이나 미야기현 카미타카모리 유적이나 홋카이도 소우신 부동비탈 유적의 검증 발굴 및 관계 유적의 석기 관찰에 의한 검증 작업이 실시되었다.그리고, 어느 쪽에 대해도 구석기로서의 긍정적인 증거는 없고, 대체로 부정적인 판단으로 기울어 갔다.
이러한 검증의 내용은, 「전·중기 구석기 문제의 검증」의 각론에 보고되고 있는 대로이다.
5.후지무라 신이치와의 면담
검증 대상의 유적에 도착하고, 구석기 문제 특별위원회의 각부회에 의한 검증 작업은, 어디까지나 제삼자에 의하는 것이어, 스스로 한계가 있다.물론 진지한 대처에 의해서 정체에의 접근을 위한 방법론을 개발하는 등 상당히 정도가 성과를 올릴 수 있었다.그러나, 직접적인 당사자에 의한 설명을 빼기에는, 아무래도 넘을 수 없는 벽이 있는 일도 사실이다.토자와 위원장은, 그것을 위한 시도를 찾아, 후지무라와의 5회에 걸치는 면담에 성공했다.
그러나, 후지무라는 「심신의 밸런스를 무너뜨리는, 어느 병」 상태에 있어, 필요10분인 시간을 들여 의문점을 상세하게 가리는 것은 불가능이었다.그러나 충실한 노력이, 그 한계를 점차 찢어, 간신히 홋카이도 4, 이와테현 2, 미야기현 14, 야마가타현 6, 후쿠시마현 2, 군마현 3, 사이타마현 11, 의 합계 42 유적의 날조를 (듣)묻기 시작했다.하지만, 도쿄도 다마뉴타운 No.471-B유적 등, 그 밖에 관여의 사실이 명백한 유적에 대해서는 고백 유적 리스트로부터 빠져 있는 것이 여전히 남아 있는 등, 고백 내용은 완벽한 것은 아니었다.예를 들면, 문화청 조사에 의한 후지무라 관여 유적은 55 유적이다.또, 제5 작업 부회(연구사·방법론)가, 석기 문화 담화회등의 기록류의 분석으로부터 후지무라와 회원이 답사 한 유적은, 유물 발견이 실패에 끝난 것을 포함해 58 유적에 올라, 그 모두가 망라되고 있던 것은 아니다.
어쨌든, 날조 공작을 고백한 유적이 각부회의 검증 작업에 의한 부정적인 견해와 합치하는 것이어, 따라서 후지무라 관여 유적의 모든 것이 학술적 자료로서는 가치가 없는 것으로 적극적으로 판단 하지 않을 수 없는 결과가 분명해졌던 것이다.
덧붙여 제5 부회에 의하면, 후지무라 관여 유적이, 1972년 12월부터 시작할 수 있었던 가능성을 부정할 수 없다고 하는 견해가 나타나고 있는 것은 향후의 검토 과제가 된다.
6.검증 조사의 내용
검증 작업은 구석기 문제 특별위원회의 발족 이래 2003년 5월 현재까지의 2년에 걸쳐서 계속되어 왔다.약 1년 후의 작 2002년 5월 26일, 일본 고고학 협회 제 68회 총회에 대해 중간적 보고를 했다.이 시점에서, 후지무라 관여의 유적·유물이 전면적으로 학술 자료로서의 가치는 인정되는 가능성이 거의 없는 것의 판단을 나타냈다.
또, 이러한 불상사를 안에 안는 일본 고고학 협회는, 깊은 반성과 함께, 그러한 사태를 저지 하지 못하고 세상의 여러가지 방면으로 영향을 주어 폐를 끼친 책임의 일단을 자각해, 사죄했다.
그리고, 한층 더 약 1년간에 걸치는 검증 작업에 의해서, 2003년도의 일본 고고학 협회 제 69회 총회를 기회로, 최종적인 보고서를 간행해, 재차 후지무라 관여 전·중기 구석기는 모두 날조의 산물이며, 학술적 가치를 가지지 않는 것을 분명히 결론 짓기에 이르렀다.
덧붙여 구석기 문제 특별위원회는, 금년도에 있어 3년 계획의 최종 연도로서 검증에 관련되는 과제의 정리와 향후의 전망을 검증하는 것으로 하고 싶다.또, 다수의 연구자가 참가하는 국제적인 학회에 대하고, 특별한 세션을 마련해 과거에 국제 학회에서 발신해 온 전·중기 구석기 문제를 총괄해, 정정과 해명 및 일본 열도의 구석기 문화 연구의 현상 (을)를 발표할 기회를 모색중이다.
(1) 유적의 검증 발굴
지금까지, 후쿠시마현 한 말 나이마츠 하야마, 야마가타현수원 3, 사이타마현 치치부 유적군, 홋카이도 소우신 부동사카, 미야기현 카미타카모리, 동석 산란목, 동야마다카미노대, 이와테현 표주박구멍의 각 유적에서 검증 발굴을 했다.그 결과는, 모두에 대하고, 확실한 전·중기 구석기시대라고 판단할 수 있는 증거는 없고, 오히려 날조 행위를 분명하게 입증하는 석기 묻어 포함 기구의 흔적 혹은 지질학적 관점으로부터 하면 문화층의 존재 할 수 없는 화쇄류중으로부터의 출토를 가장하는 등의 명백한 공작의 흔적등이 확인되고 있다.즉, 검증 발굴의 모두가, 전·중기 구석기의 모두의 가능성을 부정하는 결과가 되었다.
(2) 석기의 검증
검증 대상의 석기군에는, 본래의 포함층 나카노하라 위치에 잔존한 상태에 반하는 부자연스러운 자료가 높은 비율로 혼재하고 있는 것이 분명해졌다.특히, 1) 지표면에 떠오르고 있었지만 위해(때문에) 이차적으로 붙었다고 추정되는 농기구등에 의한 철의 선 자국이나 새로운 간섭에 의한 가지리로 불리는 상처등이 유력한 판단의 단서가 되는 것이 판명되었다.2) 매납옛날 건축의 잔존물로부터의 출토로 여겨진 석기에, 지표의 흑토가 부착하고 있는 예가 있었다.3) 전·중기 구석기에는 미발들이라고 생각되고 있는 압압 박리가 인정되는 예가 많이 있었다.4)와 같이 가열 처리를 해 박리 작업을 용이하게 하려고 의도한 흔적을 가지는 예가 있었다.
모두, 죠몽 시대 석기의 표면채집품이 묻어 포함등의 수법을 추정시키는 근거가 되는 것이다.
7.자리 산란목의 검증 발굴
전·중기 구석기시대 유적안에서, 나라 지정 사적의 미야기현 「자자라기 유적」은 특별한 의미를 가지는 것이었다.
제1에, 1976년부터 1981년까지의 삼차에 건너가는 발굴은, 전·중기 구석기 문제의 선구로서 그 이후의 문제와의 계속과 증식의 원점을 이루는 것이다.제2에, 오카무라 미치오의 주도에 의한 「자자라기 유적 발굴 조사보고서 III」(1983)의 간행 후, 1997년에는 국사자취로서 지정되었다.이것에 의해서 명실 공히 학술적 가치의 평가가 정착해, 보다 한층 문제의 가속과 심화의 진행을 재촉하는 결과로 연결되는 계기가 되었다.
「자자라기 유적」은, 전·중기 구석기 문제에 있어서의 핵심이며, 이 검증은 확실히 본진 공략의 의미가 있다.그 때문에, 일본 고고학 협회가 주체가 되어, 문화청, 미야기현 교육위원회, 이와데야마마치, 미야기현 고고학회의 협력 체제로 발굴이 계획되어 2001년 4월 26일부터 6월 14일까지 실시되었다.따라서, 일본 고고학 협회 제 68회 총회에 있어서의 구석기 문제 특별위원회의 보고에서는 중간적인 보고를 피할수 없게 되었던 것이다.
결국, 최종보고는 이와데야마마치에 있어 고고학적으로도 지질학적으로도 학술적 가치가 없다고 하는 명확한 판단의 발표가 되었다.
이 결과를 받고, 문화청은 한층 더 독자적인 조사 연구를 실시해, 12월 9일에 나라 지정 사적의 해제가 이루어졌다.
8.과제
전·중기 구석기 문제는, 누구하나로서 예상도 하지 않았다, 혹은 할 수 없었다 비정상인 사태이다.확실히 학문의 영역이 부정되어 유응 되었을 정도의 중대한 의미를 가진다.이것을 단순한 한 개인이 이룰 수 있는 미워해야 할 소행과 단 질질 끄는 것은 용이하지만, 그러면 미안하다.충분히 심사숙고 해 향후의 새로운 전망에 연결해 갈 각오가 필요하다.
(1) 장본인의 책임
검증의 진행과 함께, 후지무라의 혼자 연극의 실태가 분명해졌다.이것은 움직이기 어려운 사실이다.석기 문화 담화회로부터 토호쿠 구석기 문화 연구소를 무대로서 모두 걸어 온 동료의 비분강개는 아플 정도 이해할 수 있다.그 손구의 교묘함, 계획성, 악등개인 마음씨등 미워해라고도 남음이 있는 말로, 무념을 눌러 참고 있다.뭐라고 죄인 소행에 이른 것인가.
그렇지만, 이 고고학계에 있어서는, 몇 사람의 예상도 넘은 불합리한 날조 행위는 결코 허락해서는 안될 것이며, 2001년 5월 19일, 일본 고고학 협회 총회는 후지무라를 탈퇴시키는 처분을 결정했다.
그 한편, 후지무라는 혼자 고립하고 있던 것은 아니고, 동료를 의식하면서 살아 있던 것을 잊어서는 안된다.그는 동료의 눈을 자신에게 향했으면 좋았다, 극히구 흔히 있던 생각이, 헤매게 하기에 이른 초기의 정신 상태가, 그대로 억제력의 귀댁 없는 채로, 무심코 취해 반환이 붙지 않아들 되는 행동에 치우치게 한 가능성을 생각한다.
(2) 제1차 관계자
검증을 통해 보면, 어이없을 정도 타애가 없는 장치에 속고 있던 것은 명백한 사실이다.개인적으로도 친교를 거듭하면서, 호인과 받아들이고 있던 한 명으로서도, 직접 얼마든지의 석기나 애면이나 발굴 현장을 공유해 온 사람은 물론, 다수가 전·중기 구석기 문제의 관계자이다.
관계자중에서도, 특히 시간의 공유의 정도나 뜻을 서로 확인하면서 행동 즉 발굴을 하고 온 사람은 제1차 관계자이다.그러나 신뢰를 배신당했다고 하는 측에 서서 만 있는 것은 용서되지 않는다.이것은 뜻밖에, 후지무라를 오랫동안에 걸치는 날조 행위를 중지하는 일 없이 지속시키는 암묵의 압력으로도 되어 있던 가능성에 생각을 할 필요가 있다.
석기의 검증이 시작되자 마자, 금새 흑토의 부착이나 가지리나 철선 줄진 자국의 부자연스러움이 폭나무 나온 사실의 전에, 어려운 반성이 필요하게 되자.특히, 일찍부터 건의 석기의 분포상태나 석기 자체에 대해 의의를 표명 해 온 연구자가 있었음에도 불구하고, 귀를 기울이지 않았던 책임은 크다.
그렇지만, 사태의 중대함을 확인해, 스스로의 책임을 명확하게 해, 한층 더 문제 해명을 위해서 본특별위원회에 대해서 전면적으로 협력되어 제1차 관계자로서의 책임을 완수하려고 노력되었다.
(3) 제2차 관계자
전·중기 구석기를 실견하거나 실견하면서도 자주(잘)은 관찰하지 않았던 사람도, 호의 의념도 안는 일 없이 인정해 온 사람도, 모두 분명히 한 관계자로서의 자각이 요구된다.때로는, 솔선해 신발견의 의의를 평가해, 그때 그때마다 선전의 선봉을 한편 있어로 온 경위를 충분히 자각해야 한다.
즉, 연구자의 일부는, 세상 일반의 고고학에 관심을 가지는 사람들에 대해서, 적극적으로 소개의 역을 이루어 온 것은 재삼 재4에 머무르지 않는다.적어도 필자를 시작해 제2차 관계자로서의 의미를 올바르게 인식할 필요가 있다.
(4) 반대극자
전·중기 구석기에 당초보다 의문점을 발하고 있던 오다 시즈오, C.T.키리 및 최근이 되어 부정적 의견을 발표해, 주위의 연구자에게 시그널을 계속 보내고 있던 타케오카 토시키, 각장준이치, 바바유남등은 재차 평가되지 않으면 안 된다.
이러한 여러 번에도 건너는 경종에도 관계없이 효과를 상주하지 않았던 것은, 분명하게 위의 연구자의 태만과 역부족이다.그 한편, 찬동파의 눈을 깨는 것에 성급한 너무, 문장 등 공에 발신할 때에 표현이 너무 격렬했던 것이 역효과에 일한 것도 사실이라고 생각된다.그러한 경우에는, 인간은 생각 했던 대로에는 객관시 할 수 없을 뿐만 아니라, 내용의 음미 전에 거절반응을 일으키는 것 조차 있다.
개인적 사정을 넘은 인간으로서의 성의 해 겨자곳에서 있다.
(5) 행정 관계의 과제
본문제에 대해서는, 문화재를 관할하는 행정의 대응의 과제가 있다.사실 그대로 말하면, 일의 중대함의 의식이 부족한 곳은 않았던 것일까.사건 발각 후의 사이타마현 당국의 신속한 대응과 미야기현이나 문화청의 초동 대응의 방법과의 사이에는, 큰 차이가 있던 것을, 토자와 전 위원장은 지적하고 있다.적어도, 상응하는 책임의 자각에 근거하는, 보다 신속한 구체적 대응 조치가 기대되었더니 있었다.
무엇보다 그 후, 자자라기 유적 다른 검증 발굴·실현을 위해서 문화청을 시작으로 하는 관계 자치체는 재차 적극적으로 임해, 문제 해명에 성과를 올린 것은 명기해야 한다.
또 문화청은 향후의 구석기시대 유적의 사적 지정에 즈음해서는, 특별히 조사 연구 위원회를 마련하는 등 신중한 대응을 취하게 된 것은 평가되자.
9.끝에
전·중기 구석기 문제는, 일본 고고학계가 처음으로 경험하는 충격적인 사건이었다.특히 고고학이 스스로의 힘으로 문제의 소재를 밝혀낸 것은 아니고, 확실히 매일신문의 스쿠프에 의해서 눈을 성 뛰어날 수 없을지 태평의 꿈 속에 있었다고 하는 사실은 거듭해 대오점이 되었다.통상은 고고학에 관련되는 문제를 반대로 올바르게 발신해야 할 측에 서야 하는 것에서 만났고, 그 위험한 상태는 2000년 7월의 단계에서, 인터넷상에 구체적으로 논해지고 있었는데, 진향으로부터 임하는 자세가 부족한 것을, 우선 반성하지 않으면 안 된다.
그 이유에 대해서, 석기 연구의 기초적인 학력에 문제가 있던 것도 확실한 사실이다.한층 더 거듭하고, 10 만년 단위로 차례차례로 낡아지는 유적이 타임 머신의 레일을 탄 상황을 생각하게 할 정도로 발견계속 되어 온 것의 비정상임조차 허락해 버리고 있었다.그렇다 치더라도 세계적 관점으로부터 봐도, 지극히 중대한 인류사에 관련되는 유적에 대한 대처가 신중함이 부족해, 날조를 놓쳐 버릴 정도의 엉터리인 발굴 두꺼비 빌려 다닌 것도 후회되어 안 된다.
이러한 점은, 분명하게 일본 고고학의 신용을 잃게 하는 것이어, 재차 어렵게 경고하지 않으면 안 된다.
그렇지만, 구석기 문제 특별위원회의 검융`리는, 뒤쫓기 하면서도 문제의 소재를 올바르게 인식해, 지금 호의 애매함도 없고, 해당 석기군과 유적의 모두가 학술적이게는 근거가 없는 것이었던 것에 대하고 단정을 내릴 수 있었다.거기에 이르는 방법론도 획득해, 유효하게 실적을 올릴 수 있었다.향후 한층 더 그것을 심화 시켜 가는 것에 의해서, 석기 인식을 보다 확고한 것으로 하는 것을 기대 할 수 있다.
덧붙여 일본 고고학계에 있어서의 미증유의 불상사를 학계의 강한 폐쇄성과의 관련성에 유래한다고 생각하는 방향도 있다.그러나, 특별히 고고학계에 고유의 성질이 아니고, 학문 하는 개인 사이의 특수성 혹은 1회성의 사정이 관련된 케이스로서 이해되는 경우도 적지 않다.비록 그러한 경향이 약간 볼 수 있다고 해도, 벌써 오늘의 학계 전체의 공기는 큰폭으로 개방적이다 (일)것은 확실한 사실이며, 그러한 폐해는 급속히 해소되어 갈 일을 확신하는 것이다.
2003년 5월 24일
전·중기 구석기 문제 조사 연구 특별 위원회 위원장 코바야시 타츠오
■제12회전·중기 구석기 문제 조사 연구 특별 위원회 총괄 부회의 개요
일시:2004년 1월 11일(일)오후 3시~5시
장소:일본 고고학 협회 사무소
1.금취유적의 발굴 조사에 대해서, 야지마국 유우·사가와 마사토시·키쿠치강일위원으로부터 보고가 있었다.주변부만의 발굴이었기 때문에인가, 전회 출토의 석기군과 일련의 유물은 검출할 수 없었지만, 키타하라 테후라와 토야 테후라는 확인되었다.
2.나가사키현 히라도시의 입구 유적의 건은, 코바야시 타츠오 위원장이 그 방문의 인상을 보고했다.
3.3월 31일부터 캐나다, 몬트리올에서 개최되는 미국 고고학회(SAA) 총회에서, 날조 문제의 검증을 포함한 일본의 구석기 연구의 현상을 발표하기 위한 분과회를 실시하고 싶다는 신청이 다녔다.신청에 해당해, 각 발표의 요지는 제출이 끝난 상태로, 이것들은, 회장에서 구입할 수 있는 업스트랙집에 게재된다.한층 더 영문예고집을 간행해, 당일 회장에서 배포하는 예정이다.이 분과회의 조직 담당자는 야지마 위원과 이가와 후미코씨( 재몬트리올), 의장은 사사키헌일회원.일본어 원고에 대해서는 현재, 사사키 회원이 열심히 영역중.이것들에 가세해 코바야시 위원장이, 이 분과회의 의의를 모두에 설명한다.덧붙여 이러한 발표의 성과를 구문 학술 잡지에 정리해 투고해야한다는 의견이 코바야시 위원장보다 나와 사사키 회원으로부터 Asian Perspectives 또는 Journal of East Asian Archaeology를 생각하면 어떨까라고 하는 발언이 있었다.
4.미국 고고학회(SAA) 분과회로의 예고집은, 도표를 충분하게 넣으므로 한 명 당의 발표원고를 20 페이지로서 A4판 100페이지정도의 책자를 예정 한다.당일 100부 배포한다고 하고, 합계 300부 인쇄하는 것에 합의했다.
5.특별 위원회의 위원 전원에게는, 분과회 참가를 호소하는 연락을 한다.회원에의 요청은, 3월 발행의 회보와 협회 홈 페이지를 이용한다.
6.인접제과학과의 공동 연구의 본연의 자세에 대한 포럼을 3월 하순에 메이지 대학에서 개최하는 예정이다.심포지엄 기록은 특별 위원회 편집으로 간행한다.
7.5월의 협회 총회에서 특별 위원회의 최종보고를 실시한다.미국 고고학회 총회 참가의 뒤, 총괄 부회를 열어, 모두의 의견을 집약 습기 정리한다.다음 번의 총괄 부회는 5월 8일(토)오후 3시를 예정 한다.
이상
전·중기 구석기 문제 조사 연구 특별 위원회 보고
특별 위원회의 활동도 3년째가 된 2003년도는, 5월에 검증 활동의 보고서로서 「전·중기 구석기 문제의 검증」을 간행해, 거의 그 활동의 소기의 목적의 대부분을 완수할 수 있었지만, 해외를 향한 설명 책임 및 향후의 연구 전망의 개척의 일이 남아 있었다.해외 겨냥의 보고는 2004년도 3월말부터 4 월초에 캐나다에서 개최된 미국 고고학회에 심포지엄을 짜는 것으로 실현되어, 향후의 연구 전망을 향해서는, 자연과학 분야와의 공동적인 연구의 본연의 자세를 찾는 토론 집회를 가질 수 있었다.
덧붙여 향후에 남겨진 과제는 많다고는 해도, 특별 위원회를 존치 하고 진행하는 과제라고 하는 것보다는, 협회, 고고학 연구자, 특히 구석기 연구자의 연구 자세의 문제이며, 의도적으로 적극적인 개선과 과제 개척, 연구 추진에 의해야 할 물건이라고 생각해 본특별 위원회의 역할은 끝난 것이라고 판단 되어 금년도 총회에 그 해산을 제기했다.검증 활동과 관계되는 잔여의 과제로서는, 장래에 있어서의 재검증의 기회를 보증하는 것과 동시에, 고고학사 연구상의 요청에 응할 수 있도록 날조 석기의 확실한 보관을 관계 기관에 대해서 요구하는 것이 남아 있다.(야지마국웅)
전·중기 구석기 문제 조사 연구 특별 위원회 최종보고
-제70회 총회「전·중기 구석기 문제 조사 연구 특별 위원회 보고」로의 구두 발표전문-
2004년 5월 22일
1.처음에-경위와 검증 결과-
2000년 11월 5일, 후지무라 신이치 전 회원에 의한 구석기 유적 날조 문제가 발각되어, 일본 고고학 협회는 즉시 특별 위원회의 설치를 결정 준비회(위원장 토자와 미츠노리 메이지 대학 교수·당시 )를 발족시켰다.준비회는 실질적인 조사를 개시하는 것과 동시에, 날조 의혹이 기댄 9 도현의 관계 자치체 및 관계조사단에 대해, 의혹의 유무에 대해서, 이 시점에서의 가능인 조사를 부탁했다.이것에 대한 많은 회답은 의혹에 대해는 오히려 부정적조차 있었다.
2001년 5월, 전·중기 구석기 문제 조사 연구 특별 위원회(위원장 토자와 미츠노리 메이지 대학 교수·당시 , 2003년 5월까지, 이후, 코바야시 타츠오국학원대학교수)가 정식으로 발족해, 의혹이 기대는 관계 유적의 출토 자료의 검증을 개시하지만, 거의 이것과 전후 해서 진행된 사이타마현 교육위원회, 야마가타현 오바나자와시 교육위원회, 후쿠시마현 아다치마치 교육위원회, 도쿄도 교육위원회에 의한 유물의 검증이나 검증 발굴 조사의 결과는, 모두 날조라고 판단되는 결과가 되었다.
한편, 토자와 위원장에 의한 후지무라 전 회원과의 면담이 실현되어, 이 안에서 60여유적에 있고 날조를 실시했던 것이 고백되었다.이러한 안에는 자자라기 유적도 포함되는 것으로부터, 1980년대 이후의 전·탐`·