전통문화

頑張っても論理破綻w


開心寺址石塔

韓国,慶尚北道醴泉郡醴泉面の開心寺址にある5層の石塔。上成基壇蓋石下面の銘により1009年(高麗穆宗12)の造立が明らかで,高麗時代に定型化する新羅式系統の代表的石塔である。下成基壇に十二支像,上成基壇に八部神将像,初層塔身南面に門扉形とその左右に仁王像の浮彫がある。【宮本 長二郎】


http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=86396

朝鮮半島では、統一新羅時代から高麗時代にかけて末法思想の影響で、経典を末法に正しく伝えるために石塔の下部に経典や仏舎利・仏具などを埋納する風習が流行しており、本資料も資料の状況から埋納されていたものと推定される。


http://chounamoul.exblog.jp/10257118/
教えて!ちょうな先生!


まず王建は北進政策を掲げて国土を北方へ拡げ、首都を半島中央部の開城(ケソン)に定めました。 さらに高句麗の古都である平壌を西京として首都に次ぐ都市に位置づけ、王は1年のうち3ヶ月をここで過ごすことで、北方への監視を行き届かせます。 また統一新羅の文化を受け継ぎ、仏教を国教に定めて国家発展の根本に据える一方、風水地理思想を尊重したことはこの時代の民族文化はもちろん、建築文化にも大きな影響を与えました。 




閑話休題、よそサイトの引用はいいとして・・・




漁師の国の魔法少女、ジョンおねえさんだよ!






 まあ、三国時代の石塔、現存するのは3基のみで、その他は全然わかりませーん。
ええ、百済の石塔で完全な形態で現存するのは、定林寺石塔だけで、これは唐による百済に対する戦勝記念碑(唐軍による「大唐平百済云々」と戦勝記念の碑文が彫り込まれている)になっているからとも言われているようなありさま。


 その後も所謂「百済式」の石塔はポツポツと作られますが、全土に普及することもなく、じきに姿を消します。


himonotoちゃんスレ
/jp/exchange/photo/read.php?uid=8278&fid=8278&thread=1000000&idx=1&page=1&tname=exc_board_14&number=5029





「新羅は統一直後の感恩寺石塔から早々にこの百済の形式を用いており、これが以降の主流形式となってゆくのである。」(キリッ


ええ、7世紀前半(百済滅亡直前)に出来た林寺石塔が起源となって、世紀後半に文武王
(在位661年~681年)が建立した感恩寺の石塔ができた?



マ ジ で す か ? (藁



片方を「660年以前」と書き、片方を「7世紀末」と書いて、ビミョーに時間差をイメージさせる姑息さが素敵ですねw


これって、世紀中葉同時代の石塔なんじゃないですか?(笑い)


※ ちなみに、所謂「百済系」の石塔と、「新羅系」の石塔は、「屋根部分の反り」及び「基壇の構造」等で区分されております。hinomotoちゃんの分類区分はどこのものとも知れません。おそらく、単に外形的な高さなどから言っているんだと思います。w


ええ、申し訳ありません・・・

東京工大系のサイトなんですけどね・・・

http://www1.hst.titech.ac.jp/~nakanisi/k_archi/k112.html



慶州近くの感恩寺跡に立つ東西二基の石塔である。二基の塔は同形同大の典型的な新羅様式の石塔であり、このような石塔様式が完成したもっとも早い時期の石塔の一つである。


林寺石塔と同時代の典型的な新羅様式の石塔を百済式認定w


hinomotoちゃん、パねーっすね!w









ジョンおねえさんの「もっと大事なおはなし」w






ええ、このスレでは、中国南北朝の
塔と百済の石塔を明らかに異なるもの、として紹介していますね・・・


崇岳寺(523年)は南北朝時代(六朝様式の時代)ですねえ・・・w
それと、「百済」の石塔の様式が明らかに異なり、煉瓦組の新羅の磚
塔が中国の様式に近いという主張がであれば・・・w




あのさ・・・言っても良い・・・?これってさ、あのさ・・・






あのさ・・・hinomotoちゃん、百済の石塔が六朝様式が百済を経由して統一新羅に伝わった「傍証」になるとかなんとか言ってたよね・・・。たしか・・・w









新羅にガチな六朝様式がダイレクトかつ

百済よりもはるかに正確に伝わっていた

直接的な証拠じゃねえの?w





願望に妄想を重ねた「傍証」なんか要らないレベルで・・・w



ということは、百済の石塔は「南北朝の影響をうけたものでも、六朝様式でもない」ということになりますね。hinomotoちゃんは、石塔を根拠に六朝様式の伝承を立論しようとしていたはずなんですがねえ・・・(大笑い)


 てなことで、所謂「百済式」と呼ばれる石塔の様式がhinomotoちゃんのスレのとおり、石塔の様式が百済独自のものであり、中国南北朝の物と異なるのであれば、仮にその様式が一部で伝承されたとしても、それをもって「中国の六朝様式が百済を経由して統一新羅にもたらされた」根拠とは、傍証としてすらなり得ないわけです。
 そして、百済・新羅の六朝様式仏教の遺構も遺物も消滅しておりますので、高麗までの断絶を埋める史料的根拠はなにもない、というのが現実。




 たとえるなら、「中国から三国時代の百済と新羅に餃子が伝わりました。その後、百済は滅亡し、統一新羅の時代になったが、百済では三国時代にキムチを食べる習慣があり、。百済滅亡以降も百済の故地ではキムチが食べ続けられていたので、統一新羅で食べられていた餃子は百済が伝えたものだ」というようなもんです。
 はっきり言って、わけわかりませんね。「新羅人が餃子を食い続けていたんじゃね?」と考えるのが常識的ですね。
 しかも、統一新羅後半までには餃子を食べる習慣が消滅し、それから数百年後にまた餃子を食べ始めた高麗に対して「百済の餃子!」と言ってるようなもんです。


ええ、百済の石塔なんか何百基並べても、六朝様式の百済から統一新羅、ひいては高麗への伝播など立論できませんことよ。「傍証」としてすらw

hinomotoちゃん、がんばったけど・・・

それ、自分で六朝様式じゃないって言ってるw



何度自分の軸足を自分で吹っ飛ばせば気が済むの?(苦笑






●ジョンおねえさんの朝鮮半島史おさらい


 ええ、統一新羅の文化が三国時代の新羅の延長上にあり、高麗の文化が統一新羅の延長上にあるというのは定説です。しかも、高麗は建前上、高句麗の末裔を自認してますので、北方系の高句麗・渤海系の復古運動はありましたが、百済系への復古なんかやってません。はい。
 新羅末期から高麗初期に起きた「後三国」がらみで、それぞれの故地で復古運動はおきてますが、あっさりと沈静化して歴史に埋没していきます。これ、「復古」であって「伝承」ではない点に注意な。( ´H`)y-~~



朝鮮半島の石塔の流れ


ますはじめに、日本と朝鮮半島の仏教伝来の大きな流れ



※ ちなみに、これはあくまでも文化的な流れであり、高麗以前の「韓国」の仏教建築の様式の詳細は史料・遺物ともに不足しており、全然わかっていない。まあ、だから韓国の研究者が日本に来て必死に根拠のない妄想を膨らませるわけだがw


原則、現在朝鮮半島に存在している仏教と、日本の仏教は流れが違うわけよ。
元の出所は同じというだけで、前スレでも言ったように、「チンパンジーとヒトは、遠い昔に同じ祖先から枝分かれしたが、チンパンジーはヒトの祖先ではない」ように「韓国の仏教と日本の仏教は、遠い昔に同じ中国六朝の仏教を元としているが、現在韓国に存在する仏教は、日本の仏教の起源となるものではない」というお話。

三国の仏教の流れを「韓国」という言葉誤魔化すのは、あの方面で良く見られるペテン♪

では、石塔をみていこうか。


三国時代(現存するのは三基のみ)








統一新羅(新羅系の定型化)








新羅末期~高麗初期(後三国云々の混乱期、後三国の復古運動)











ニワカ高句麗復古様式(中国系)



さあ、ここで登場ニワカ百済復古様式(エンタシスなしw)
すぐに消滅w


この百済の石塔がエンタシスを新羅に、高麗に伝えたという妄想も願望も打ち砕く、ニワカ百済の石塔よ!かんしゃくが裂けますね!w




んなわけで、何事もなかったかのように再び新羅系に定型化(高麗)








無論、それぞれの時代にイレギュラーかつアバンギャルドな作品はありますw




モンゴル式w



そのまま続く、ってか仏教衰退(李氏朝鮮)




新羅になると当然のごとく、新設される石塔は新羅の様式になり、新羅後期ではある程度定型化されて行きます。
新羅後期から高麗初期に、後三国云々の混乱(高句麗・百済のニセアイデンティティによる復古運動)もあって、この定型が一時崩れますが、高麗が新羅系の仏教文化を継承したこともあり、また新羅系の構造に集約していき、その後の朝鮮式へと時代に伴って姿を変えながら続く、と。( ´H`)y-~~







おまけ

毎度おなじみ、hinomotoちゃんのペテン

/jp/exchange/photo/read.php?uid=8278&fid=8278&thread=1000000&idx=1&page=1&tname=exc_board_14&number=5029
【引用】
「徳利柱」こと古式の胴張りの用例が確認できるのは、中国では义慈惠石柱(570年)のみで、それ以降に確認できる梭柱は先端のみに卷杀(逓減)を施した上下梭や上梭柱である。
【引用終わり】


ここでは「徳利柱」、所謂下ぶくれの形態という特徴を見せる遺構について北斉義慈恵石柱頭(コピペで義字が読めなかったらしいw)を挙げている。つまり、「下ぶくれの六朝様式エンタシスの例」を要求しているわけ。



でも、自分が出した百済の石塔については「四隅の柱にはわずかであはるがエンタシスがあり」として「下ぶくれの六朝様式」を除外。
自分の出す物には、他者に求める六朝様式の特徴がなくても、六朝様式認定w


下のhinomotoちゃんの定義でいいなら、中国から出てくると思うけどなあw
唯一のものであり~なんて、コピペで「義慈恵」の義字が読めなかったhinomotoちゃんは知らないと思うけどw



( ´H`)y-~~プハー





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