◆「八○パーセント以上の語彙を失った」
たとえば「日帝問題」となると、韓国人はインテリだろうと庶民だろうときまって感情論となり、世界的な水準から歴史をみつめた冷静な議論になることがまずない。それは通常、反日教育や固陋な小中華主義のせいだとされてきた。しかし、そればかりではない。そもそも現代韓国は、漢字を廃止したため、世界を論ずるにふさわしい抽象度をもって議論を展開するための言語的なべースが、ほとんど崩壊状態にあるのである。
韓国がそうした悲惨な状況に陥っていることを率直に認める韓国人もけっして少なくない。たとえば、東方研究会会長の金暦顯氏は次のようにいう。
「……戦後国粋主義者たちによって漢字が学校教育から疎外された結果、意味もわからないままに言葉を使い、八○パーセント以上の語彙を失い、現在では世界最低の読書率を記録するにいたってしまった。一朝のうちに国民全体が読み書きのできない最低の状態に陥ったことを痛歎しないではいられない」(『ハングル十漢字文化』一九九九年八月創刊号)
八○パーセント以上失われたという語彙の大部分が、日常的にはあまり使われないものだ。しかし世界を論じたり高度な思考を展開したりするにはなくてはならない概念語、抽象語、専門語など「漢語高級語彙」の一群なのである。どれほど思考の広がりや奥行きが阻害されているかがわかろうというものだ。そのため、一般に知的な関心は低く、国民一人あたり年問平均読書量も世界一低いといわれるような惨憎たる知的荒廃が生み出されている。「国民全体が読み書きのできない最低の状態に陥った」というのは、けっして大げさな表現だとばかりはいえないのである。
◆表音文字の限界
韓国がこれほど見るも無残な状態に陥っているにもかかわらず、ハングル専用主義者たちはあくまで漢字は廃止すべきだと主張しつづけている。一方、日本人ならば、漢字廃止が国民の精神生活にどれだけ大きな影響をおよぼすかは、話すまでもないことだろうと思っていたが、どうもそうではないらしいということを、最近体験した。
社会科学系の日本の大学生、大学院生、韓国や中国からの留学生たち十数名が集まった場で韓国の漢字廃止問題をテーマに話をしたときのことである。私は漢字廃止による弊害について事例を挙げながら紹介し、最後に、そのために韓国人の思考水準がかなり低下しており、日韓の過去の歴史についての議論がまともにできない理由の一つもそこにある、といった話をした。
私が話し終えると、言語学を専門としているという日本の大学院生が次のような意見を述べたのである。
「あなたの話はまったく学問的ではない。言語は音声だけですべてを表わすことが可能なものだから、漢字をなくしたからといって何ら思考に影響を与えるものではない。子どもは文字を知らなくとも耳で聞いて言葉を覚えていく。そのことからも、表意文字が人間にとって必要なものではないことがわかる」
韓国のハングル主義者とそっくりの主張だったことに驚いたが、彼の頭のなかに光り輝いているのはおそらく、近代言語学の根本的なテーゼなのである。
近代一言語学によれば、言語体系は概念差異の系列と、それに関連する音声差異の系列である。そしてこの二つの関連する系から、一部の概念(意味されるもの)と一部の音声記号(意味するもの)の組み合わせが分離したものが言語である、ということになる。彼が「言語は音声だけですべてを表わすことが可能なものだ」というのは、そういう意味からのことだと思う。
しかし私の話は、そんな言語学理論のレベルにかかわるものではまったくない。私がいっていることは結局のところ、表音文字は音声で弁別できる以上の情報を表わすことができない、ということである。つまり表音文字は、聴覚情報をたんに視覚情報に変換した記号にすぎない。そして、人間の耳による情報処理能力に対して、目による情報処理能力は比較にならないほど大きなものだ。そういう論旨を受けとってほしかった。
中国人、日本人、かつての韓国人は、視覚の情報処理能力を充分に発揮することによって、音声で弁別できる以上の情報を表わすことが可能な、漢字という表意文字を用いて言語生活を送ってきたのである。別ないい方をすれば、視覚による弁別の助けを借りた言語生活を歴史的に展開してきたのである。
にもかかわらず、そうして使われてきた言葉の大群のすべてを音声記号だけで表わそうとすれば、実際的に処理しきれない膨大な情報がこぼれ落ちてしまう。その弊害はあまりにも大きく、そのために思考が阻害されることになるのは当然のことなのだ。私はそういうことをいっているのである。
韓国のハングル専用主義者たちもまた、この大学院生と同じようなことをいっている。ハングルはアルファベットよりも多くの音声を表記することができる、だから世界一優秀な表音文字なのだ、表意文字としての漢字の必要性はまったくないのだと。
にもかかわらず、なぜ歴史的な語彙の八○パーセント以上を失うことになったのか。彼らの言語=音声記号理論からは失う理由が見えず、同音異義語で困るといっても「言語は音声だけですべて表わすことが可能」なのだから、いくらでもつくれることになる。
ところが、現実に言葉を用いて生きている人々のほうでは、視覚の助けを借りられないために多くの言葉を失っていくし、そんなに膨大な新語創作など現実にはできるわけもない。これほど当然のことが、なぜかこの学者の卵やハングル専用主義者たちには共通に理解できない。実際的な言語生活の現場から学ぼうとしないからだというしかないだろう。
◆漢字訓読みの「効用」
なんとしても韓国には漢字教育が復活しなくてはならない。しかし、日本語を勉強するなかで本格的な漢字の知識を身につけてきた私の体験からすると、たんなる漢字復活だけでは、けっして韓国人の思考のあり方に革命的な変化がもたらされることはないと思える。
なぜ、そういうことがいえるのか。日本語を覚えはじめて間もないころ、一つの漢字にたくさんの読みがあることで、かなり頭のなかが混乱した。韓国では「生」という漢字は「セン」という音で表わすだけである。つまり日本式にいえば一つの漢字には一つの音読みしかない。「しかない」というよりも、一個の文字に対して複数の音が対応する(読みがある)日本のほうが尋常ではない。
「生」ならば、まず音読みとして「セイ」と「ショウ」の二つがある。さらに訓読みとして「いきる」「うむ」「はえる」「おう」「き」「なま」「うぶ」などがあり、人名や地名となるとそれ以外に意味不明なさまざまな音が充てられるのだからたいへんだ。なんでわざわざ漢字に充てるのか、全部平仮名で表記すれば簡単なのに……と思ってウンザリしたものである。
しかし、それだけで驚いてはいけなかった。同じ音をもつ言葉が、それぞれ意味の異なる多数の漢字の訓読みに充てられているのである。これにも困った。「顔に墨が付く」という用例で「付く」を教わると、こんどは別のところで「あなたの家に着く」という「着く」が出てくる。また「仕事に就く」とか「胸を突く」などが出てくる。こうなると、「つく」という言葉の正体がまことに不明瞭になってくる。そこで辞書を引いてみると仰天するのである。
「付く、着く、就く、即く」「吐く」「尽く、掲く」「突く、衝く、撞く」「揚く、春ぐ」「漬く」「築く」などがズラッと並んでいて、辞書に載っている以外にも「つく」の読みをもつ漢字はたくさんあるらしい。混乱はいっそう深まり、「つく」とはいったいどういう言葉なのか、まったくわからなくなってくる。
韓国語では「付く」を「ブッタ」というが、他の「つく」はほとんど別の言葉で表わされるから、「つく=ブッタ」と覚えるばかりでは日本語の「つく」という言葉の意味を知ったことにはならないのである。
そんな具合に、漢字と訓読みの関係ではたいへんな苦労をしたのだが、いまでも十分に読み分け、書き分けができているとはいえない。しかし、このややこしい訓読みがある程度こなせるようになってくると、自分でも驚くほど漢字の知識と日本語の力が身についてくるのである。あとに詳しく述べるが、それは訓読みを通すことによって、漢語が和語(固有語)としっかり結びついたかたちで頭に刻み込まれていくからである。
この漢字訓読みの「効用」を身にしみて感じてきたことからいうと、韓国で漢字教育が復活したとしても、とうてい日本人ほど自由自在に漢語を操って思考を展開することはできないと思わざるをえない。韓国には漢字の訓読みがなく、あくまで音読みされるだけだから、いくらたくさんの漢字を覚えたとしても、日本人のように身近な固有文化の手触りをもって確実に「自分のものとなる」ことは、とても期待できることではないのである。
たとえば、「むげんほうよう」という言葉を知らなくとも、漢字で「夢幻泡影」と書」けば、日本人ならば「ゆめ・まぼろし・あわ・かげ」という訓読みが反射的に重なるから、その意味は一目瞭然、「人生のはかないたとえ」といった言葉であることがすぐにピンとくる。韓国の場合はそうはいかない。夢・幻・泡・影という一つ一つの漢字の意味を記憶のなかからとり出さなくてはならない。
それはたとえば、英語の単語の並びをみて、頭のなかの単語帳から意味を探し出すのとほとんど同じことなのだ。ようするに国語を学ぶというよりは、外国語を身につけるのと同じように学んでいかなくてはならないのである。
そのため、どうしても国民のあいだに国語力の大きな格差が生じることになってしまう。よほどの力のある者を別にして、一般の韓国人が一般の日本人並みの漢字・漢語の理解力を獲得するには、最初から決定的な限界があるといわざるをえないのである。(P110~P119)
◆世界一読書率の低い国民
自民族優越主義的な主張は論外として、漢字復活論者とハングル専用論者に共通しているのは、言語伝達の機能的な側面の利便さの議論に終始していることである。残念ながら、いまだ思考や発想のあり方にまでつっこんだ本格的な議論がなされるにはいたっていない。
私の考えでは、漢字排斥がもたらした最大の弊害は、韓国語では日本語と同じように概念語や専門用語の大部分が漢字語であるのに、漢字の知識(および漢字映像の助けに拠ってそれらの言葉を駆使することができなくなったところにある。そのため韓国人は、抽象度の高い思考を苦手とするようになってしまった、というのが私の考えである。
なぜそうなるかというと、「そんざい(存在)」「まなぶ(学ぶ)」「たいさく(対策)」は一般に使われる言葉だからわかるが、「しこう(至高)」「けんじん(賢人)」「すいぽう(水防)」となると、日常的にはまず使われない言葉であるため、とくに知識として学ばないかぎり知ることがないからである。
これらはみな日本では漢字で書かれるから、初歩的な漢字の知識があれば、いちいち言葉の意味を教えられなくてもおよその意味をつかんで文章を読み進めていくことができる。そして、そうしているうちに自然に正確な概念としての意味をつかんでいく。
こうして、ややこしい概念語を理解していく体験は非常に重要なことである。最近の日本では、難しい漢字の概念語をなるべく使わずに、できるだけやさしいいい方に変えていこうとする傾向が強いが、それはぜひともやめていただきたい。そんなことを続けていれば、韓国のように、じつに貧弱な概念の持ち合わせしかない者たちが大量に輩出することになってしまうことはあきらかだ。
先にも述べたように、韓国語の語彙の約七〇パーセントが漢字語である。この膨大な漢字語をいちいち固有語でいい換えたり、新しい言葉をつくったりして定着させていくことは、事実上不可能である。そのため、書き言葉としては右の例に挙げたようを言葉でもかなり頻繁に使われることになる。
するとどういうことになるかというと、新聞や雑誌や書物のなかに、意味不明の言葉がたくさん出てくることになる。ハングル専用世代はしかたなくそこを読み飛ばす。そのため、じつにいいかげんな読み方しかできていないのが実情である。
当然ながら、韓国にいた時分の私もそうしていた。恐ろしいのは、意味不明の言葉を読み飛ばすことが習慣となること、そして自分の知らない漢字語がちょくちょく出てくるような書物や雑誌を読まなくなってしまうことである。たとえば、政治・経済を専攻しなかった者には、時事評論雑誌などを読むのはとてもつらいことになる。私は韓国の大学では臨床病理学を専攻していたから、まずそうした雑誌には食指が動かなかった。
そうなるとこれもまた当然ながら、ジャーナリズムのほうも読者に合わせて語彙を選択するようになり、その悪循環から、概念語や専門語にきわめて乏しいまことに通俗的な丈章ばかりが社会に蔓延していくのである。
最近、漢字復活論者たちの論考をよく目にするようになって、彼らが韓国ではもっとも良質の教養と見識を身につけた理性的な知識人たちであることがよくわかった。こういう人たちも韓国でしっかり生きていたことを知ったのは、私には大きな救いだった。一部には自民族優越主義があるのだが、ハングル民族主義者のようにファナティックなものではない。
しかし、彼らがいっているように、韓国人はハングル尊用のおかげで「世界;読書率の低い国民」となってしまっている。
そしてそのことは、韓国人の知的レベルの低下をもたらしている。韓国人は教育熱心で知的レベルの高い人たちだといわれることがよくあるが、それはまったくあたっていない。私は日本に来てからも韓国で出版される書物や雑誌の文章をことあるごとに読んできているが、そのほとんどが「地に足がついていない」ものばかりだというしかない。それらの典型は、叙述は現実から遊離して具体性に乏しく、主張はあきらかに何かの共同幻想に酔っていることを感じさせる、といったものだ。
また私の世代以降のハングル世代の者たちと話していると、上の世代のほうによりいっそう高い教養と深い見識の持ち主がいると感じざるをえない。そして、日本人と話していればいるほど、韓国人のものの考え方がいかに単純かつ浅いものかと思い知らされる。とくに若者であるほどそうなのだ。
テレビ番組の多くは日本の真似で、日本で売れ筋のものはすぐにそのまま横流しのようにとり入れる。独自に番組を創作する力が育っていないのだ。戦後韓国の知的荒廃は、消費社会化の波とともにいっそう拍車がかかっている。
戦後韓国が歩んできた漢字廃止・ハングル専用の歴史は、そのこととまったく無縁ではない。私は日本を知り、日本語を知り、日本語の漢字の受け入れ方を知って、そのことをはっきり確認できたように思う。(P100~P104)