食べ物

 

 

6月の中旬に、東京の我が家から自動車で2時間半程の、長野(nagano)県の中南部の高原地帯(避暑地)にある別荘(別荘とは言っても、比較的裕福な人々が保有する様な典型的な別荘ではなく、庶民的な中古の一戸建て住宅です)に、滞在して来た時の物です(後半、長野(nagano)県の北部の、湯田中(yudanaka)温泉に足を延ばして、湯田中(yudanaka)温泉の温泉旅館に一泊してから帰って来た時の物を含む)。

 

この時の、3日目(以下、この日と書きます)は、別荘から、長野(nagano)県の北部の、湯田中(yudanaka)温泉に足を延ばし、湯田中(yudanaka)温泉の温泉旅館に1泊し(別荘に滞在する際、時々、気分転換に、別荘の有る長野(nagano)県や隣接する山梨(yamanashi)県の、旅館やリゾート(resort)ホテル、ペンション等に一泊程度宿泊しています)、翌日(4日目)、湯田中(yudanaka)温泉から、直接、東京の我が家に帰って来ました。

 

以下、「以下、6月中旬の長野(nagano)県滞在&食べ物3からの続き。。。」と言う文までは、前回の投稿の、投稿文と、ほとんど重複しています。

 

湯田中(yudanaka)温泉は、長野(nagano)市(下の補足説明参照)の近郊の東北端辺りに有る、温泉保養地です。湯田中(yudanaka)温泉の周辺は、渋(shibu)温泉を始めとする、多くの温泉保養地があり、湯田中(yudanaka)温泉は、周辺の温泉保養地と共に、湯田中(yudanaka)・渋(shibu)温泉郷と言う、長野(nagano)市の近郊の温泉保養地地帯の一つを形成しています。湯田中(yudanaka)温泉と渋(shibu)温泉を中心とする、温泉保養地地帯、湯田中(yudanaka)・渋(shibu)温泉郷(長野(nagano)市の近郊の東北端辺りに位置する)は、湯田中(yudanaka)温泉と渋(shibu)温泉及び、その周囲の、小規模な温泉保養地から成り、およそ10の温泉保養地の集合帯となっています。
長野(nagano)市:長野(nagano)県の北部に有る中都市。長野(nagano)県の県庁所在地(capital)で有ると供に、長野(nagano)県最大の人口を有する都市(都市圏人口も、長野(nagano)県で最大)。

 

湯田中(yudanaka)温泉は、とても歴史が古い(7世紀からの、温泉地としての歴史が有る)、温泉の湯量が、とても豊富な温泉保養地です。湯田中(yudanaka)温泉は、近代以前から栄えていましたが、近代以降(19世紀後期以降)、長野(nagano)市の奥座敷(長野(nagano)市に暮らす人々の、身近な温泉保養地(現代風に言えば、週末温泉保養地))である湯田中(yudanaka)・渋(shibu)温泉郷の、中心的な温泉保養地の一つとして、さらに発展しました。湯田中(yudanaka)温泉は、小林 一茶(kobayashi issa)(1763年、長野(nagano)県の北端部に生まれる。1828年に亡くなる。日本の有名な俳人(詩人))に、縁が深い、温泉保養地で、小林 一茶(kobayashi issa)は、晩年は、湯田中(yudanaka)温泉に、頻繁に訪れ、また、長期滞在しました(湯田中(yudanaka)温泉観光協会のsiteを参考にしました)。ちなみに、湯田中(yudanaka)温泉と共に、湯田中(yudanaka)・渋(shibu)温泉郷の、中心的な温泉保養地となっている、渋(shibu)温泉は、湯田中(yudanaka)温泉と供に、古い歴史を持つ湯量豊富な温泉保養地で、1300年以上の、温泉地としての歴史が有ります。江戸時代(17世紀初めから19世紀半ば)には、佐久間 象山(sakuma syouzan)、小林 一茶(kobayashi issa)、葛飾 北斎(katsushika hokusai)等の、有名な文化人達が、渋(shibu)温泉を訪れました。ちなみに、佐久間 象山(sakuma syouzan)(下で、説明します)の、お気に入りの温泉旅館であった、渋(shibu)温泉の、400年以上の歴史を有する、ひしや寅蔵(hishiya torazo)と言う、温泉旅館は、一度、宿泊した事があります(現在は、中級classの温泉旅館と言った感じになっています)。

 


以下、6月中旬の長野(nagano)県滞在&食べ物3からの続き。。。

 

以下、この時、私達が、湯田中(yudanaka)温泉で宿泊した温泉旅館(よろづや(yoroduya))の後編です。

 

よろづや(yoroduya)は、18世紀後期創業の温泉旅館です(建物は、時代に合せて、建て替えられています)。よろづや(yoroduya)は、おそらく、湯田中(yudanaka)温泉で、最も、有名な温泉旅館の一つであると共に、湯田中(yudanaka)温泉を代表する温泉旅館の一つです。この温泉旅館(よろづや(yoroduya))の、現在の建物は、松籟荘(shoraiso)、本館、別館(annex)と言う3つの建物から成っていて、建物に依って、宿泊料金と、クラス(質・水準)が異なり、松籟荘(shoraiso)は、高級温泉旅館、本館は、中級classの温泉旅館、別館(annex)は、チープな(安い・安っぽい)庶民的な温泉宿泊施設となっています。この時、私達は、チープな(安い・安っぽい)庶民的な温泉宿泊施設と言った感じの、別館(annex)に宿泊しました(別館(annex)については、前回の投稿で、詳しく紹介しているので、前回の投稿を参照して下さい)。

 

私は、最近まで、この温泉旅館(よろづや(yoroduya))の、別館(annex)の存在を知らず、この温泉旅館(よろづや(yoroduya))は、中級classから高級の(中上級classの)、温泉旅館かと思っていました。この温泉旅館は、古くて立派な、共同温泉風呂が、魅力的な感じで、一度泊まりたいと思っていた、温泉旅館なのですが、まあ、別に、泊まるのは、今すぐでなくても良く、老後になってからでも良いかなと思っていたのですが、今回、安く泊まる事が出来る、別館(annex)の存在を知り、それなら気軽に泊まる事が出来るし、ちょっと、気軽に泊まって、この温泉旅館の温泉風呂に、ゆっくり入って来ようかなと思い、宿泊しました。ちなみに、渋(shibu)温泉の、金具屋(kanaguya)と言う、趣のありそうな、1758年創業の、高級classの温泉旅館(安く泊まる事が出来る、「よろづや(yoroduya)の別館(annex)」に相当する様な建物(施設)はない様です)も、一度泊まって見たいのですが、まあ、別に今ではなく、老後になってからでも良いかなと思っています(金具屋(kanaguya)は、おそらく、渋(shibu)温泉で、最も有名な温泉旅館の一つであると共に、渋(shibu)温泉を代表する温泉旅館の一つです)。

 

以下、この投稿では、この温泉旅館(よろづや(yoroduya))の、真髄(真の魅力)と言える、松籟荘(shoraiso)、本館、共同温泉風呂を中心に、紹介します。

 

この温泉旅館(よろづや(yoroduya))の館内には、この温泉旅館の、歴史的資料や、オーナー(owner)家族が、代々、保有して来た、古くて、価値が高そうな、芸術品・工芸品等が展示されており、この温泉旅館が、その歴史を大切にしている事が分かります。

 

写真以下3枚。この温泉旅館の館内の展示例。昔の、この温泉旅館の、女将(okami・jyosyo。旅館のオーナー(owner)の妻。通常、その旅館の実務の、最上位の地位にある)が使用していた、装身具・日用品。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この温泉旅館の館内の、この温泉旅館に関する資料の展示から。。。この写真の、番号4(写真左上)は、この温泉旅館の共同温泉風呂の一つである、桃山(momoyama)風呂に飾られている物の一つで、佐久間 像山(sakuma syouzan)(下で、説明します)の作品です。漢字で、「酒心」(酒・心)と書かれています。

 

 

 

 

 

佐久間 象山(sakuma syouzan):写真は、借り物。説明は、wiki等を参考にしました。1811年生まれ。1864年に亡くなる。学者(朱子学(Cheng-Zhu school)・軍事学)・思想家。身長は、173cmから175cm位であったと言われ(180cm前後であったと言う説、185cm以上あったと言う説もありますが、私は、173cmから175cm位説が、最も、信憑性が高いと思います)、当時としては長身で、体格も立派で、堂々としていたと言われています。天才でありましたが、自信過剰で、傲慢な性格で、他人を見下す傾向にあり、嫌う人も多かったとも言われています。現在の、長野(nagano)市の松代(matsushiro)areaの、侍(samurai)階級の家に生まれる(佐久間 象山(sakuma syouzan)の生まれた家は、侍(samurai)階級の中では、下級の家でしたが(ちなみに、佐久間 象山(sakuma syouzan)の母は、農民の家の娘で、佐久間 象山(sakuma syouzan)の父の妾(愛人)でした)、佐久間 象山(sakuma syouzan)の父(剣術の達人であった)は、地方領主の秘書を務め、地方領主に、重用されていました)。若年期に、経学(儒教の経典を解釈・研究する学問)、詩文、数学等を学ぶ。特に、数学に興味を示し、熱心に学ぶ(後の、西洋の学問・科学の吸収に、大いに役立ちました)。学業が、優秀であった事等から、1831年、20歳の時に、地方領主(真田 幸貫(sanada yukitsura))の息子(当時16歳)の、教育係に抜擢されたが、高齢の父に、孝行が出来ないと、すぐに辞任しています。1833年、長野(nagano)から、東京(当時は、江戸(edo)と呼ばれていた)に出て、朱子学(Cheng-Zhu school)・詩文を学び、1839年に、江戸(edo)に私塾(個人経営の、小さな学校)を開きます(当時の、佐久間 象山(sakuma syouzan)は、西洋に対する認識は芽生えつつあったものの、基本的には「伝統的な知識人」であり、自身(自分)の学校で教えていたのは、儒学でした)。1842年、佐久間 象山(sakuma syouzan)が仕えていた、地方領主、真田 幸貫(sanada yukitsura)(現在の長野(nagano)県の北部の一部を統治していた、地方領主)が、老中(rojyu。幕府(日本の、当時の中央政府)の、最高の職。4、5名が選ばれ、将軍(shogun)(日本全国の、侍(samurai)の長(leader)で、当時の日本の実質的な統治者)に直属して、幕府(当時の中央政府)の政務の責任者として、実務を行った)兼任で、幕府(当時の中央政府)の、海防掛(日本の海防の指導的な役割を担う役職)に任ぜられて以降、状況が一変し、佐久間 象山(sakuma syouzan)は、真田 幸貫(sanada yukitsura)に、洋学(西洋の学問)の担当者として登用され、兵学(軍事学)を学ぶ様になります。それ以降、佐久間 象山(sakuma syouzan)は、当時の、日本における、西洋の兵学(軍事学)の第一人者となると共に、西洋の学問そのものに、大きな関心を示し、当時の日本の、洋学(西洋の学問)の第一人者として、学問や、科学・工学分野において、日本国内における、数々の業績を残しました。しかしながら、日本の国力の充実の為に、西洋の学問・科学技術を取り入れる事を主張し、強力な開国論者(日本の鎖国を解くべきだと主張する者)であった為、1864年、京都に暮らす様になって間もなく、攘夷派(外国勢力を実力行使で排除しようとする勢力)の侍(samurai)達にassassinated、53歳で、亡くなりました。

 

 

写真以下2枚。佐久間 象山(sakuma syouzan)の、肖像画(の写し)。この温泉旅館の館内の、資料の展示から。。。この温泉旅館の共同温泉風呂の一つ、桃山(momoyama)風呂の、温泉露天(野外)風呂は、佐久間 象山(sakuma syouzan)が、1854年から、約10年間暮らしていた、現在の長野(nagano)市の松代(matsushiro)areaにあった邸宅の、庭園を模した物の様です。ちなみに、佐久間 象山(sakuma syouzan)は、1844年に、地方領主(真田 幸貫(sanada yukitsura)。湯田中(yudanaka)温泉が、お気に入りであった)により、湯田中(yudanaka)温泉・渋(shibu)温泉一帯の、利用掛(開発を指導する役職)に任命されています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真以下19枚。この温泉旅館(よろづや(yoroduya))の、3つある現在の建物の内の一つ、松籟荘(shoraiso)。本館と、渡り廊下で繋がっています。この温泉旅館の現在の建物の中で、最も古く、1939年に建てられた物です。この温泉旅館の建物の中で、宿泊費を含めて、最も高級な建物で、そのまま、高級温泉旅館と言った感じです。

 

写真以下2枚。松籟荘(shoraiso)の外観。

 

 

 

 

 

 

 

パンフレット(leaflet)より。。。

 

 

 

 

 

 

 

本館(後で、紹介します)と松籟荘(shoraiso)を結ぶ、渡り廊下。。。

 

 

 

 

写真以下12枚。松籟荘(shoraiso)の内装例。松籟荘(shoraiso)の内玄関(入り口)と、その周辺。

 

写真以下7枚。松籟荘(shoraiso)の内玄関(入り口)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真以下3枚。松籟荘(shoraiso)の客室例等。12室ある、松籟荘(shoraiso)の客室は、全て、デザイン(design)が異なる様です。

 

写真上。松籟荘(shoraiso)の客室例。写真下、松籟荘(shoraiso)の廊下。

 

 

 

 

 

松籟荘(shoraiso)の客室例。

 

 

 

 

 

 

写真上、松籟荘(shoraiso)の、温泉露天(野外)風呂が付いている客室の、温泉露天(野外)風呂の例。写真下、松籟荘(shoraiso)の客室例。

 

 

 

 

 

 

 

松籟荘(shoraiso)の広間(hall)。

 

 

 

 

 

写真以下6枚。十五代目、市村 羽左衛門(ichimura uzaemon)(下の、補足説明参照)の写真。この温泉旅館(よろづや(yoroduya))の、十五代目、市村 羽左衛門(ichimura uzaemon)に関する展示より。十五代目、市村 羽左衛門(ichimura uzaemon)は、1945年2月から、この温泉旅館に疎開しました。
十五代目、市村 羽左衛門(ichimura uzaemon):1874年生まれ。1945年に亡くなる。20世紀初期に活躍した、日本の、人気、歌舞伎(kabuki)(日本の、伝統、大衆演劇の一つ)俳優。以下、市村 羽左衛門(ichimura uzaemon)に関する説明は、wiki等を参考にしました。出生は、明確にされていないが、定説によると、Charles Le Gendre(1830年生まれ。1899年に亡くなる。南北戦争(American Civil War)で活躍した、フランス系アメリカ人の軍人。1872年に、日本の、明治(meiji)政府(日本の近代の新しい中央政府)に、外交顧問及び、軍事顧問として雇用された。1890年に、韓国に渡り、韓国の王(後に皇帝)、高宗(Gojong)の顧問を務める。1899年、ソウルで亡くなる。ソウルに墓がある)と、日本人女性の間に生まれた、私生児(母(日本人女性)は、松平 慶永(matsudaira yoshinaga。日本の有力な侍(samurai)。明治(meiji)政府においても、要職を歴任した)と、その愛人との間に生まれた、娘)。幼少の頃、歌舞伎(kabuki)俳優の家の養子となる。後に、歌舞伎(kabuki)俳優となり、20世紀初期の、人気、歌舞伎(kabuki)俳優の一人として活躍した。女性に、非常に、よくもてて(多くの女性に愛され)、自分が二枚目(美男)である事を強く認識・意識した性格(悪く言えば、とてもナルシスト(narcissist)的な性格)であった様です。その一方で、如何にも、江戸っ子(伝統的な(古くからの)、東京の大衆)らしい性格(気前が良い、細かい事に拘らない、正義感が強く短気と言った特徴で表される)であると共に、周囲の人々に対して心配りの行き届いた情の深い性格で、多くの人から慕われた様です。

 

 

1928年に撮影された写真(当時、53歳)。たぶん、十五代目、市村 羽左衛門(ichimura uzaemon)が、ヨーロッパ、アメリカ旅行に出発する、直前に撮影された写真。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1934年に撮影された写真(当時、59歳)。一緒に写っているのは、十五代目、市村 羽左衛門(ichimura uzaemon)の親戚の女性(当時19歳)と思われる。

 

 

 

 

 

 

 

十五代目、市村 羽左衛門(ichimura uzaemon)が、1945年2月に、東京から、この温泉旅館に疎開(下の補足説明参照)してから、1945年5月に、疎開先の、この温泉旅館で、70歳で、突然、病気により、ひっそりと亡くなるまで、滞在していた、この温泉旅館の、松籟荘(shoraiso)の客室。当時、松籟荘(shoraiso)(1939年完成)は、まだ、完成してから、6年程しか建っておらず、新館と呼ばれていた様です(当時、現在の本館のある場所には、松籟荘(shoraiso)よりも古い、この温泉旅館(よろづや(yoroduya))の、先代の、本館の建物が建っていたと思われます)。
疎開:戦争中、空襲の被害から逃れる為、空襲の被害を受け易い、大都市や中都市の中心部を離れ、郊外や田舎に、一時的に滞在若しくは、一時的に移り住む事で、第2次世界大戦中、空襲の被害が大きかった、日本とヨーロッパでは、盛んに、行われました。比較的裕福な層は、郊外や田舎に、家を購入して移り住んだり、(元々保有していた)郊外や田舎の別荘に滞在する事が可能でしたが、庶民は、(田舎から大都市に出て来ている場合等は)実家を頼るか、若しくは、親戚を頼るか、学校疎開(学校毎の疎開)に、子供を送るしか有りませんでした。

 

 

 

写真以下11枚。この温泉旅館(よろづや(yoroduya))の本館。本館は、松籟荘(shoraiso)と共に、道路を挟んで、別館(annex)の向かいに建っており、別館(annex)とは、地下の通路で、松籟荘(shoraiso)とは、渡り廊下で繋がっています。本館は、中級classの温泉旅館と言った感じです。本館の建物は、別館(annex)の建物と同様、第二次世界大戦後に建てられた現代建築の建物ですが、やはり、別館(annex)の建物同様、既に、建てられてから、かなり、長く、時が経過している感じです(現在の、本館の建物は、1960年代に建てられた様です)。

 

 

本館の玄関。

 

 

 

 

 

写真以下7枚。本館のロビー(lobby)。本館のロビー(lobby)は、松籟荘(shoraiso)のロビー(lobby)も兼ねています。ちなみに、別館(annex)のロビー(lobby)は、別にあります(別館(annex)にあります。前回の投稿参照)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真以下2枚。本館の内装例。

 

 

 

 

 

 

本館には、この温泉旅館(よろづや(yoroduya))の歴史を感じさせる、古い物が、所々に置かれたり、飾られたりしています。この時計も、かなり古い感じです。

 

 

 

 

 

 

本館の客室例。パンフレット(leaflet)より。。。本館で、基本的(標準的)な、客室です(おそらく。。。)。

 

 

 

 

 

写真以下9枚。この温泉旅館の共同温泉風呂。この温泉旅館の、共同温泉風呂は、男女別の、共同温泉風呂の形式となっています。この温泉旅館にある、二つの共同温泉風呂の内、どちらが、男用の共同温泉風呂、どちらが、女用の共同温泉風呂と、固定的に決まっている訳ではなく、時間によって、男用の共同温泉風呂と、女用の共同温泉風呂が、入れ替わります。前述の通り、この温泉旅館は、松籟荘(shoraiso)、本館、別館(annex)と、宿泊料金と、クラス(質・水準)が異なる、三つの建物から成りますが、どの建物に宿泊しても、利用する共同温泉風呂は、共通となっています。ちなみに、この温泉旅館の共同温泉風呂の、温泉は、おそらく、全て、源泉かけ流しです(前述の通り、共同温泉風呂の湯だけでなく、この温泉旅館の湯は、客室(別館(annex)の客室を含む)の風呂(bathroom)の湯を含む、全ての湯が、源泉かけ流しの、温泉となっている様です)。

 

写真以下5枚。この温泉旅館の、共同温泉風呂の一つ。桃山(momoyama)風呂と呼ばれています(以下、桃山(momoyama)風呂と書きます)。桃山(momoyama)風呂は、屋内(室内)温泉風呂、温泉露天(野外)風呂、温泉蒸し風呂(温泉サウナ(sauna))から成ります。以下、桃山(momoyama)風呂に関する説明は、この温泉旅館の、この温泉旅館の歴史に関する展示等を参考にしました。桃山(momoyama)風呂は、この温泉旅館の、第二次世界大戦後の、復興(復活)の象徴となった施設で、1951年初めに着工され、およそ2年半以上の歳月をかけ、1953年9月に完成しました。桃山(momoyama)風呂の建物は、安土桃山(azuchi・momoyama)時代(16世紀後期)の建築様式を模した建物で、当時の、この温泉旅館(よろづや(yoroduya))のオーナー(owner)は、この温泉旅館の、新しい共同温泉風呂(桃山(momoyama)風呂)を建設するに当たって、修善寺(syuzenji)温泉(日本の、伊豆(izu)半島の内陸部にある、とても歴史が古い温泉保養地)の、高級温泉旅館、新井(arai)旅館の、天平(tenpyo)時代(8世紀前半)の建築様式を模した、共同温泉風呂の建物(1934年完成)を視察し、構想のヒント・参考にしました。当時(第二次世界大戦が終わって間も無く)の、この温泉旅館には、(おそらく)お金(現金)の余裕が無かった事に加えて、桃山(momoyama)風呂を計画通り建設するのは、とても、お金が掛かると言う事で、当時の、この温泉旅館のオーナー(owner)は、銀行から、金を借りようとしましたが、(まだ、第二次世界大戦直後の混乱期の名残が、強く残っていた)当時の、日本においては、様々な商売の業種の中で、旅館業は、銀行の貸付順位が、低かった為、銀行から、希望通りの融資を受けるのは、とても困難でした。やっとの事で、銀行から、ある程度の、金を借りる事が出来ましたが、それでも、資金が足りず(希望していた、融資額の、40%程しか融資を受ける事が出来ず)、当時の、この温泉旅館のオーナー(owner)は、この温泉旅館のオーナー(owner)の家族が、代々保有して来た、価値の高い、美術品や工芸品を、トラック(truck)一台分、富山(toyama)県(日本の中部地方の県の一つ。長野(nagano)県の北西部に隣接する)の、比較的裕福な商家(商人の家)に、(おそらく、当時は、第二次世界大戦直後の混乱期の名残が、強く残っていた事から、実際の価値よりも、かなり低い価格で)、断腸の思いで(とても、惜しい思いで)売却する事によって、ようやく、桃山(momoyama)風呂の建設に必要な資金を得る事が出来ました(その時、富山(toyama)県の商家(商人の家)に、売却した、絵画等の美術品等は、現在も保有していれば、ちゃんとした(しっかりとした)美術館を開ける程の、量と質の物であった様です)。桃山(momoyama)風呂の建物は、第二次世界大戦後(1953年)に建てられた建物ですが、近代(19世紀後期から1930年代頃)の、日本伝統式の建物の雰囲気を、とても強く感じさせる建物となっており、当時の、この温泉旅館の、オーナー(owner)の意志が、強く感じられます。第二次世界大戦後の、大量生産・大量消費の高度経済成長期(1950年代から1960年代)の日本においては、本物の職人は、活躍の場を急速に失って行きましたが、桃山(momoyama)風呂が建てられた1950年代初めは、日本が大量生産・大量消費の時代に突入する前夜の頃で、第二次世界大戦前(1930年代以前)から活躍していた職人が、活躍出来た、最後の時期(末期)であった様な気がします。この温泉旅館の桃山(momoyama)風呂は、第二次世界大戦後に建てられた建物としては、比較的珍しく?、文化財に指定されていますが、それは、その辺りが評価されたからかもしれません。この温泉旅館に、一度泊まりたいと思っていたのは、この桃山(momoyama)風呂が、魅力的な感じだったからです。確かに、この、桃山(momoyama)風呂は、立派で、素晴らしい、共同温泉風呂でした。個人的に、今まで、入浴した、共同温泉風呂の中で、最も魅力的な、共同温泉風呂の一つだと思いました。

 

 

 

この温泉旅館に展示されている、(まだ完成してから、2年位しか経っていない)1955年頃に撮影された、桃山(momoyama)風呂の、(屋内(室内)温泉風呂の)建物と温泉露天(野外)風呂の一部の写真。

 

 

 

 

 

客室に置いてある、ガイド(旅館案内)より。。。写真上。桃山(momoyama)風呂の、屋内(室内)温泉風呂。写真下。桃山(momoyama)風呂の(屋内(室内)温泉風呂の)建物と温泉露天(野外)風呂の一部。

 

 

 

 

 

 

 

桃山(momoyama)風呂の屋内(室内)温泉風呂。パンフレット(leaflet)より。。。

 

 

 

 

 

 

 

 

桃山(momoyama)風呂の(屋内(室内)温泉風呂の)建物と温泉露天(野外)風呂の一部。客室に置いてある、ガイド(旅館案内)より。。。

 

 

 

 

 

 

 

桃山(momoyama)風呂の(屋内(室内)温泉風呂の)建物と、温泉露天(野外)風呂。パンフレット(leaflet)より。。。温泉露天(野外)風呂は、とても大きく、写真に写っているのは、その極一部で、全体の大きさは、写真に写っている部分の、4倍位ある感じです。紅葉の時期は、非常に景色が綺麗そうです。

 

 

 

 

 

 

 

パンフレット(leaflet)より。。。写真上側、この温泉旅館の、もう一つの共同温泉風呂の、屋内(室内)温泉風呂、温泉露天(野外)風呂、露天(野外)の、温泉泡(jacuzzi)風呂。写真下側、この温泉旅館の、貸切り温泉風呂。

 

 

写真以下4枚。客室に置いてある、ガイド(旅館案内)より。。。

 

写真以下3枚。この温泉旅館の、もう一つの共同温泉風呂。この温泉旅館の、もう一つの共同温泉風呂は、屋内(室内)温泉風呂、温泉露天(野外)風呂、露天(野外)の、温泉泡(jacuzzi)風呂、温泉蒸し風呂(温泉サウナ(sauna))から成ります。この温泉旅館の、(現在の)、もう一つの温泉風呂も、桃山(momoyama)風呂同様、第二次世界大戦後に造られた様ですが、こちらの方は、現代的な、共同温泉風呂となっています(第二次世界大戦後に造られた、現代的な、共同温泉風呂と言っても、かなり古い感じ(既に、造られてから、かなり、長く、時が経過している感じ)です)。

 

 

この温泉旅館の、もう一つの共同温泉風呂の、屋内(室内)温泉風呂。一つの大きな、温泉風呂の様に見えますが、浴槽は、二つに仕切られていて、それぞれ、湯の温度が、異なる様になっています。

 

 

 

写真以下2枚。この温泉旅館の、もう一つの共同温泉風呂の、温泉露天(野外)風呂。この温泉旅館の、もう一つの共同温泉風呂の、温泉露天(野外)風呂は、二つあって、一つは、普通の、温泉露天(野外)風呂、もう一つは、温泉泡(jacuzzi)風呂となっています。

 

 

普通の、温泉露天(野外)風呂。

 

 

 

 

 

温泉泡(jacuzzi)風呂。この風呂は、この時は、故障中で、入浴出来ませんでした。

 

 

 

 

 

 

この温泉旅館の、貸切り温泉風呂(下の補足説明参照)。この温泉旅館の、貸切り温泉風呂は、貸切り温泉風呂としては、広く、小ぢんまりとした温泉旅館の、共同温泉風呂位の、広さがあります。なお、貸切り温泉風呂は、松籟荘(shoraiso)、本館、別館(annex)、どの建物に宿泊しても、共通となっています。
貸切り温泉風呂:貸切り温泉風呂は、共同温泉風呂では無く、夫婦やcouple、家族だけで入れる温泉風呂で、通常は、小規模で(普通の家の家庭用風呂よりかは、大きいが、裕福な家の家庭用風呂位?)、入る時は、内側から鍵をかけたり、入浴中の表示を出したりして、他の人が、入って来ないようにします(鍵が、かかっていたり、入浴中の表示が、出ていると、利用中だと判断して、他の人が、入って来ない)。

 

 


 

 

この温泉旅館の、食堂(dining room)は、別館(annex)に1つ、本館に3つ、松籟荘(shoraiso)に1つの、全部で、5つある様です。夕食は、松籟荘(shoraiso)の宿泊客は、基本的に、部屋(客室)で、特別料理が提供され、本館の宿泊客と別館(annex)の宿泊客は、本館の食堂(dining room)で、ほとんど共通の夕食を食べます。

 

写真以下2枚。本館の食堂(dining room)。

 

パンフレット(leaflet)より。。。

 

 

 

 

 

 

客室に置いてある、ガイド(旅館案内)より。。。この時、私達は、この食堂(dining room)で、夕食を食べました。

 

 

 

 

 

写真以下12枚。この温泉旅館の本館の食堂(dining room)で食べた、この日の夕食等。

 

 

 

この夕食時に、私が飲んだ、飲み物の一つ。利き酒セット(色々な、日本酒を、少量ずつ、飲み比べる事が出来る組み合わせ)。左から。。遠藤(endo)酒造場(須坂(suzaka)(長野(nagano)県の北部の小都市。長野(nagano)市の都市圏に位置する)の、1864年創業の、日本酒の会社。「渓流」の、ブランド(brand)で知られる)の、「渓流」と言う、日本酒。田中屋(tanakaya)酒造店(飯山(iiyama)(長野(nagano)県の北部に位置する小都市)の、1868年創業の、日本酒の会社。水尾(mizuo)の、ブランド(brand)で知られる)の、「水尾(mizuo)」と言う、日本酒。玉村(tamamura)本店(山ノ内(yamanouchi)町(湯田中(yudanaka)・渋(shibu)温泉郷(湯田中(yudanaka)温泉と渋(shibu)温泉を中心とする、長野(nagano)市の北東部近郊に位置する、温泉保養地地帯)や、志賀(shiga)高原等が属する、長野(nagano)県の東北部の町)の、1805年創業の日本酒の会社の、「緑喜(engi)」と言う、日本酒。この他、この夕食時は、私は、飲み物は、お酒(アルコール(alcoholic)飲料)は、志賀(shiga)高原ビール(地元のビール)を1本と、玉村(tamamura)本店の、「雪猿(snow monkey)」と言う、濁り酒(アルコール(alcohol)度数は、15%から16%)を、300ml飲みました。

 

 

 

写真以下11枚(途中、笹寿司の説明写真1枚を除く)、この温泉旅館で食べた、この日の夕食。この温泉旅館の、本館と別館(annex)の、ほとんど共通の夕食の内、一番、安い夕食を食べました。全て、一人一皿ずつです(写真は、一人分)。

 

 

前菜と、食前酒(右下)。食前酒は、この温泉旅館、自家製の、林檎酒です(長野(nagano)県は、林檎の主要な産地となっています)。ちなみに、この食前酒の様な、食前酒は、個人的に、お酒(アルコール(alcoholic)飲料)の内に、入りませんw

 

 

 

 

 

前菜。写真上の、笹の葉に包まれている物は、地元の、伝統料理、笹寿司です。

 

 

 

 

 

 

笹寿司の中身は、こんな感じです。観光パンフレット(leaflet)より。。。

 

 

 

 

 

 

 

信州(shinsyu)牛(長野(nagano)県産の、高級牛肉)の、しゃぶしゃぶしゃぶ(shabu-shabu)。

 

 

 

 

 

 

 

お吸い物。

 

 

 

 

 

 

 

刺身(カンパチ、帆立、鯉)。鯉は、海に面していない県である長野(nagano)県で、他の、川魚・湖魚と共に、昔から、よく食べられている食材です(おそらく。。。)。

 

 

 

 

 

 

 

鮎(川魚)の、焼き物。

 

 

 

 

 

 

 

蕎麦饅頭。

 

 

 

 

 

 

 

手打ち蕎麦。蕎麦は、長野(nagano)県で、昔から、よく食べられている、長野(nagano)県の名物料理の一つです。上に載っている、天麩羅は、山菜(山や、森、野原で採れる食用植物)と、すじ海老(川や池に生息する、淡水性の海老)の、掻き揚げ(kakiage)。掻き揚げ(kakiage)は、天麩羅の一つで、魚介類(seafood)や野菜等を、何種類か組み合わせ、衣とともに揚げた天麩羅です(説明は、wikiを参考にしました)。

 

 

 

 

 

 

左から、ご飯(rice)、野沢菜(アブラナ科(Cruciferae)の野菜の漬物。野沢菜(nozawana)は、長野(nagano)県で、よく食べられている漬物です)、長野(nagano)県産の味噌を使った、味噌汁(miso soup)。長野(nagano)県は、味噌の主要な産地の一つとなっています。

 

 

 

 

 

 

デザート(dessert)。ブルーベリー(blueberry)シャーベット(sorbet)。

 

 

 

 

 

 

参考に、松籟荘(shoraiso)の宿泊客の、夕食の一部の例。。。パンフレット(leaflet)より。。。夕食は、松籟荘(shoraiso)の宿泊客は、基本的に、部屋(客室)で、特別料理が提供される様です。

 

 

 

この旅館の、朝食は、松籟荘(shoraiso)の宿泊客と、本館の宿泊客は、本館の食堂(dining room)で、共通の日本料理の朝食を食べ(おそらく。。。)、別館(annex)の宿泊客は、別館(annex)の食堂(dining room)で、比較的チープな(安っぽい)、朝食バイキング(buffet)が提供される事になります(別館(annex)の食堂は、別館(annex)の宿泊客専用の食堂(dining room)且つ、朝食専用の食堂且つ、朝食バイキング(buffet)専用の食堂(dining room)となっています)。

 

 

翌日の朝食は、別館(annex)の食堂の、朝食バイキング(buffet)で食べました(前回の投稿、参照)。

 

 

翌日は、朝食後、チェックアウト(checkout)時間まで、温泉風呂に入る等、旅館で、のんびりしていましたが、旅館を、チェックアウト(checkout)してからは、直接、東京の我が家に帰って来ました(翌日は、夕方から仕事であった為、早目に、東京の我が家に帰って来ました)。

 

翌日の昼食は、帰りに、高速道路(motorway)の、SA・PA(rest area)で食べました。

 

6月中旬の長野(nagano)県滞在&食べ物、終わり。。。

 

 

 

 

 


6월 중순의 나가노(nagano) 현 체재&음식 4.

 

 

6월의 중순에, 도쿄의 우리 집으로부터 자동차로 2 시간 반정도의, 나가노(nagano) 현의 중남부의 타카하라 지대(피서지)에 있는 별장(별장이라고는 해도, 비교적 유복한 사람들이 보유하는 것 같은 전형적인 별장이 아니고, 서민적인 중고의 독립주택입니다)에, 체재해 왔을 때의 물건입니다(후반, 나가노(nagano) 현의 북부의, 유다중(yudanaka) 온천에 발길을 뻗치고, 유다중(yudanaka) 온천의 온천 여관에 일박하고 나서 돌아왔을 때의 물건을 포함한다).

 

이 때의, 3일째(이하, 이 날이라고 씁니다)는, 별장으로부터, 나가노(nagano) 현의 북부의, 유다중(yudanaka) 온천에 발길을 뻗쳐, 유다중(yudanaka) 온천의 온천 여관에 1박 해(별장에 체재할 때, 가끔, 기분 전환에, 별장이 있는 나가노(nagano) 현이나 인접하는 야마나시(yamanashi) 현의, 여관이나 리조트(resort) 호텔, 펜션등에 일박 정도 숙박하고 있습니다), 다음날(4일째), 유다중(yudanaka) 온천으로부터, 직접, 도쿄의 우리 집에 돌아왔습니다.

 

이하,「이하, 6월 중순의 나가노(nagano) 현 체재&음식 3으로부터의 계속...」라고 하는 문장까지는, 전회의 투고의, 투고문과 거의 중복 하고 있습니다.

 

유다중(yudanaka) 온천은, 나가노(nagano) 시(아래의 보충 설명 참조)의 근교의 토호쿠단 근처에 있는, 온천 보양지입니다.유다중(yudanaka) 온천의 주변은, 떫은맛(shibu) 온천을 시작으로 하는, 많은 온천 보양지가 있어, 유다중(yudanaka) 온천은, 주변의 온천 보양지와 함께, 유다중(yudanaka)·떫은맛(shibu) 온천골이라고 말하는, 나가노(nagano) 시의 근교의 온천 보양지 지대의 하나를 형성하고 있습니다.유다중(yudanaka) 온천과 떫은맛(shibu) 온천을 중심으로 하는, 온천 보양지 지대, 유다중(yudanaka)·떫은맛(shibu) 온천골(나가노(nagano) 시의 근교의 토호쿠단 근처에 위치한다)는, 유다중(yudanaka) 온천과 떫은맛(shibu) 온천 및, 그 주위의, 소규모의 온천 보양지로부터 완성되어, 대략 10의 온천 보양지의 집합대가 되고 있습니다.
나가노(nagano) 시:나가노(nagano) 현의 북부에 있는 중 도시.나가노(nagano) 현의 현청 소재지(capital)에서 있으면 보조자에, 나가노(nagano) 현 최대의 인구를 가지는 도시(도시권 인구도, 나가노(nagano) 현에서 최대).

 

유다중(yudanaka) 온천은, 매우 역사가 낡은(7 세기부터의, 온천지로서의 역사가 있다), 온천의 탕수의 양이, 매우 풍부한 온천 보양지입니다.유다중(yudanaka) 온천은, 근대 이전부터 돋보이고 있었습니다만, 근대 이후(19 세기 후기 이후), 나가노(nagano) 시의 안방(나가노(nagano) 시에 사는 사람들의, 친밀한 온천 보양지(현대풍으로 말하면, 주말 온천 보양지))인 유다중(yudanaka)·떫은맛(shibu) 온천골의, 중심적인 온천 보양지의 하나로서, 한층 더 발전했습니다.유다중(yudanaka) 온천은, 고바야시 잇사(kobayashi issa)(1763년, 나가노(nagano) 현의 북단부에서 태어난다.1828년에 죽는다.일본의 유명한 하이쿠 짓는 사람(시인))에게, 인연이 깊은, 온천 보양지에서, 고바야시 잇사(kobayashiissa)는, 만년은, 유다중(yudanaka) 온천에, 빈번히 방문해 또, 장기 체재했던(유다중(yudanaka) 온천 관광 협회의 site를 참고로 했습니다).덧붙여서, 유다중(yudanaka) 온천과 함께, 유다중(yudanaka)·떫은맛(shibu) 온천골의, 중심적인 온천 보양지가 되고 있는, 떫은맛(shibu) 온천은, 유다중(yudanaka) 온천과 보조자에, 오래된 역사를 가지는 탕수의 양 풍부한 온천 보양지에서, 1300년 이상의, 온천지로서의 역사가 있습니다.에도시대(17 세기 처음부터 19 세기 중반)에는, 사쿠마쇼잔(sakuma syouzan), 고바야시 잇사(kobayashi issa), 가쓰시카 호쿠사이(katsushika hokusai) 등의, 유명한 문화인들이, 떫은맛(shibu) 온천을 방문했습니다.덧붙여서, 사쿠마쇼잔(sakuma syouzan)(아래에서, 설명합니다)의, 마음에 드는 온천 여관인, 떫은맛(shibu) 온천의, 400년 이상의 역사를 가지는, 히 해나 인장(hishiya torazo)이라고 말하는, 온천 여관은, 한 번, 숙박한 일이 있습니다(현재는, 중급 class의 온천 여관이라고 말한 기분이 들고 있습니다).

 


이하, 6월 중순의 나가노(nagano) 현 체재&음식 3으로부터의 계속...

 

이하, 이 때, 저희들이, 유다중(yudanaka) 온천에서 숙박한 온천 여관(나(yoroduya))의 후편입니다.

 

나(yoroduya)는, 18 세기 후기 창업의 온천 여관입니다(건물은, 시대에 배합하고, 다시 세워지고 있습니다).나(yoroduya)는, 아마, 유다중(yudanaka) 온천에서, 가장, 유명한 온천 여관의 하나임과 동시에, 유다중(yudanaka) 온천을 대표하는 온천 여관의 하나입니다.이 온천 여관(나(yoroduya))의, 현재의 건물은, 쇼라이소우(shoraiso), 모토다테, 별관(annex)이라고 하는 3개의 건물로부터 완성되어 있고, 건물에 의는, 숙박 요금과 클래스(질·수준)가 달라, 쇼라이소우(shoraiso)는, 고급 온천 여관, 본관은, 중급 class의 온천 여관, 별관(annex)은, 저렴한(싼·싸구려 같다) 서민적인 온천 숙박시설이 되고 있습니다.이 때, 저희들은, 저렴한(싼·싸구려 같다) 서민적인 온천 숙박시설이라고 한 느낌의, 별관(annex)에 숙박했던(별관(annex)에 대해서는, 전회의 투고로, 자세하게 소개하고 있으므로, 전회의 투고를 참조해 주세요).

 

나는, 최근까지, 이 온천 여관(나(yoroduya))의, 별관(annex)의 존재를 알지 못하고, 이 온천 여관(나(yoroduya))는, 중급 class로부터 고급의(나카가미급 class의), 온천 여관일까하고 생각했습니다.이 온천 여관은, 낡고 훌륭한, 공동 온천 목욕탕이, 매력적인 느낌으로, 한 번 묵고 싶음 , 온천 여관입니다만, 뭐, 별로, 묵는 것은, 금방이 아니어도 자주(잘), 노후가 되고 나서에서도 좋을까라고 생각했습니다만, 이번, 싸게 묵을 수가 있는, 별관(annex)의 존재를 알아, 그렇다면 부담없이 묵을 수가 있고, 조금, 부담없이 묵고, 이 온천 여관의 온천 목욕탕에, 느긋하게 들어 올까라고 생각해, 숙박했습니다.덧붙여서, 떫은맛(shibu) 온천의, 쇠장식가게(kanaguya)라고 말하는, 정취가 있을 것 같은, 1758년 창업의, 고급 class의 온천 여관(싸게 묵을 수가 있는, 「나(yoroduya)의 별관(annex)」에 상당하는 것 같은 건물(시설)은 없는 같습니다)도, 한 번 묵어 보고 싶습니다만, 뭐, 별로 지금은 없고, 노후가 되고 나서에서도 좋을까라고 생각합니다(쇠장식가게(kanaguya)는, 아마, 떫은맛(shibu) 온천에서, 가장 유명한 온천 여관의 하나임과 동시에, 떫은맛(shibu) 온천을 대표하는 온천 여관의 하나입니다).

 

이하, 이 투고에서는, 이 온천 여관(나(yoroduya))의, 진수(진정한 매력)라고 말할 수 있는, 쇼라이소우(shoraiso), 모토다테, 쿄도우 온천 목욕탕을 중심으로, 소개합니다.

 

이 온천 여관(나(yoroduya))의 관내에는, 이 온천 여관의, 역사적 자료나, 오너(owner) 가족이, 대대, 보유해 온, 낡아서, 가치가 높은 것 같은, 예술품·공예품등이 전시되고 있어 이 온천 여관이, 그 역사를 소중히 하고 있는 것이 압니다.

 

사진 이하 3매.이 온천 여관의 관내의 전시예.옛, 이 온천 여관의, 여주인(okami·jyosyo.여관의 오너(owner)의 아내.통상, 그 여관의 실무의, 최상위의 지위에 있다)가 사용하고 있던, 장신구·일용품.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

이 온천 여관의 관내의, 이 온천 여관에 관한 자료의 전시로부터...이 사진의, 번호 4(사진 좌상)는, 이 온천 여관의 공동 온천 목욕탕의 하나인, 모모야마(momoyama) 목욕탕에 장식되어 있는 것의 하나로, 사쿠마상산(sakuma syouzan)(아래에서, 설명합니다)의 작품입니다.한자로, 「술심」(술·마음)이라고 쓰여져 있습니다.

 

 

 

 

 

사쿠마쇼잔(sakuma syouzan):사진은, 차용물.설명은, wiki등을 참고로 했습니다.1811 년생.1864년에 죽는다.학자(주자학(Cheng-Zhu school)·군사학)·사상가.신장은, 173 cm에서 175 cm위였다고 말해져(180 cm전후였다고 하는 설, 185 cm이상 있었다고 하는 설도 있습니다만, 나는, 173 cm에서 175 cm위설이, 가장, 신빙성이 높다고 생각합니다), 당시로서는 장신으로, 체격도 훌륭하고, 당당하고 있었다고 말해지고 있습니다.천재였습니다만, 자신 과잉으로, 오만한 성격으로, 타인을 업신여기는 경향에 있어, 싫어 하는 사람도 많았다고도 말해지고 있습니다.현재의, 나가노(nagano) 시의 마츠시로(matsushiro) area의, 사무라이(samurai) 계급의 집에서 태어나는(사쿠마쇼잔(sakuma syouzan)이 태어난 집은, 사무라이(samurai) 계급안에서는, 하급의 집이었지만(덧붙여서, 사쿠마쇼잔(sakuma syouzan)의 어머니는, 농민의 집의 딸(아가씨)로, 사쿠마쇼잔(sakuma syouzan)의 아버지의 첩(애인)이었습니다), 사쿠마쇼잔(sakumasyouzan)의 아버지(검술의 달인이었다)는, 지방 영주의 비서를 맡아 지방 영주에게, 중용 되고 있었습니다).청년기에, 경학(유교의 경전을 해석·연구하는 학문), 시와 글, 수학등을 배운다.특히, 수학에 흥미를 나타내, 열심히 배운다( 후의, 서양의 학문·과학의 흡수에, 많이 도움이 되었습니다).학업이, 우수함 일등으로부터, 1831년, 20세 때에, 지방 영주(사나다행관(sanada yukitsura))의 아들(당시 16세)의, 교육계에 발탁 되었지만, 고령의 아버지에게, 효행을 할 수 없으면 곧바로 사임하고 있습니다.1833년, 나가노(nagano)로부터, 도쿄(당시는, 에도(edo)로 불리고 있는 것)에 나오고, 주자학(Cheng-Zhu school)·시와 글을 배워, 1839년에, 에도(edo)에 사숙(개인경영의, 작은 학교)을 엽니다(당시의, 사쿠마쇼잔(sakuma syouzan)은, 서양에 대한 인식은 싹트고 있었지만, 기본적으로는 「전통적인 지식인」이며, 자신(자신)의 학교에서 가르치고 있던 것은, 유학이었습니다).1842년, 사쿠마쇼잔(sakuma syouzan)이 시중들고 있던, 지방 영주, 사나다행관(sanadayukitsura)(현재의 나가노(nagano) 현의 북부의 일부를 통치하고 있던, 지방 영주)가, 노중(rojyu.막부(일본의, 당시의 중앙정부)의, 최고의 일자리.4, 5명이 선택되어 장군(shogun)(일본 전국의, 사무라이(samurai) 장(leader)으로, 당시의 일본의 실질적인 통치자)에 직속하고, 막부(당시의 중앙정부)의 정무의 책임자로서 실무를 실시한) 겸임으로, 막부(당시의 중앙정부)의, 해안 방비괘(일본의 해안 방비의 지도적인 역할을 담당하는 직무)에 임라고 이후, 상황이 일변해, 사쿠마쇼잔(sakuma syouzan)은, 사나다행관(sanada yukitsura)에, 서양학문(서양의 학문)의 담당자로서 등용되어 병학(군사학)을 배우는 것처럼 됩니다.그 이후, 사쿠마쇼잔(sakumasyouzan)는, 당시의, 일본에 있어서의, 서양의 병학(군사학)의 제일인자가 됨과 동시에, 서양의 학문 그 자체에, 큰 관심을 나타내, 당시의 일본의, 서양학문(서양의 학문)의 제일인자로서 학문이나, 과학·공학 분야에 있고, 일본내에 있어서의, 수많은 실적을 남겼습니다.그렇지만, 일본의 국력의 충실을 위해, 서양의 학문·과학기술을 도입하는 일을 주장해, 강력한 개국 논자(일본의 쇄국을 풀어야 한다고 주장하는 사람)인 때문, 1864년, 쿄토에 사는 것처럼 되어 머지 않아, 양이파(외국 세력을 실력 행사로 배제하려고 하는 세력)의 시(samurai) 들에게 assassinated, 53세에, 돌아가셨습니다.

 

 

사진 이하 2매.사쿠마쇼잔(sakuma syouzan)의, 초상화(의 사본).이 온천 여관의 관내의, 자료의 전시로부터...이 온천 여관의 공동 온천 목욕탕의 하나, 모모야마(momoyama) 목욕탕의, 온천 노천(야외) 목욕탕은, 사쿠마쇼잔(sakuma syouzan)이, 1854년부터, 약 10년간 살고 있던, 현재의 나가노(nagano) 시의 마츠시로(matsushiro) area에 있던 저택의, 정원을 본뜬 것의 같습니다.덧붙여서, 사쿠마쇼잔(sakuma syouzan)은, 1844년에, 지방 영주(사나다행관(sanada yukitsura).유다중(yudanaka) 온천이, 마음에 드는 것인)에 의해, 유다중(yudanaka) 온천·떫은맛(shibu) 온천 일대의, 이용괘(개발을 지도하는 직무)에 임명되고 있습니다.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하 19매.이 온천 여관(나(yoroduya))의, 3개 있는 현재의 건물 중의 하나, 쇼라이소우(shoraiso).본관과 건너 복도에서 연결되고 있습니다.이 온천 여관의 현재의 건물 중(안)에서, 가장 낡고, 1939년에 지어진 것입니다.이 온천 여관의 건물 중(안)에서, 숙박비를 포함하고, 가장 고급 건물에서, 그대로, 고급 온천 여관이라고 한 느낌입니다.

 

사진 이하 2매.쇼라이소우(shoraiso)의 외관.

 

 

 

 

 

 

 

팜플렛(leaflet)보다...

 

 

 

 

 

 

 

본관(다음에, 소개합니다)과 쇼라이소우(shoraiso)를 연결하는, 이동 복도...

 

 

 

 

사진 이하 12매.쇼라이소우(shoraiso)의 내장예.쇼라이소우(shoraiso)의 집안의 현관(입구)과 그 주변.

 

사진 이하 7매.쇼라이소우(shoraiso)의 집안의 현관(입구).

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하 3매.쇼라이소우(shoraiso)의 객실예등.12실 있는, 쇼라이소우(shoraiso)의 객실은, 모두, 디자인(design)이 다른 것 같습니다.

 

사진상.쇼라이소우(shoraiso)의 객실예.사진하, 쇼라이소우(shoraiso)의 복도.

 

 

 

 

 

쇼라이소우(shoraiso)의 객실예.

 

 

 

 

 

 

사진상, 쇼라이소우(shoraiso)의, 온천 노천(야외) 목욕탕이 붙어 있는 객실의, 온천 노천(야외) 목욕탕의 예.사진하, 쇼라이소우(shoraiso)의 객실예.

 

 

 

 

 

 

 

쇼라이소우(shoraiso)의 객실(hall).

 

 

 

 

 

사진 이하 6매.15대째, 이치무라 우자에몬(ichimura uzaemon)(아래의, 보충 설명 참조)의 사진.이 온천 여관(나(yoroduya))의, 15대째, 이치무라 우자에몬(ichimura uzaemon)에 관한 전시보다.15대째, 이치무라 우자에몬(ichimura uzaemon)은, 1945년 2월부터, 이 온천 여관에 피난 했습니다.
15대째, 이치무라 우자에몬(ichimura uzaemon):1874 년생.1945년에 죽는다.20 세기 초기에 활약한, 일본의, 인기, 가부키(kabuki)(일본의, 전통, 대중연극의 하나) 배우.이하, 이치무라 우자에몬(ichimura uzaemon)에 관한 설명은, wiki등을 참고로 했습니다.출생은, 명확하게 되어 있지 않지만, 정설에 의하면, Charles Le Gendre(1830 년생.1899년에 죽는다.남북 전쟁(American CivilWar)로 활약한, 프랑스계 미국인의 군인.1872년에, 일본의, 메이지(meiji) 정부(일본의 근대의 새로운 중앙정부)에, 외교 고문 및, 군사 고문으로서 고용되었다.1890년에, 한국에 건너, 한국의 왕( 후에 황제), 고종(Gojong)의 고문을 맡는다.1899년, 서울에서 죽는다.서울에 무덤이 있다)와 일본인 여성의 사이에서 태어난, 사생아(어머니(일본인 여성)는, 마쓰다이라 요시나가(matsudairayoshinaga.일본의 유력한 사무라이(samurai).메이지(meiji) 정부에 대해도, 요직을 역임했다)와 그 애인과의 사이에 태어난, 딸(아가씨)).유소의 무렵, 가부키(kabuki) 배우의 집의 양자가 된다.후에, 가부키(kabuki) 배우가 되어, 20 세기 초기의, 인기, 가부키(kabuki) 배우의 한 명으로서 활약했다.여성에게, 매우, 잘 가질 수 있고(많은 여성에게 사랑받아), 자신이 미남(미남)인 일을 강하게 인식·의식한 성격(나쁘게 말하면, 매우 나르시스트(narcissist)적인 성격)인 같습니다.그 한편, 과연, 에도 사람(전통적인(옛부터의), 도쿄의 대중)다운 성격(기질이 좋은, 세세한 일에 구애받지 않는, 정의감이 강하게 급한 성질이라고 한 특징으로 나타내진다)임과 동시에, 주위의 사람들에 대해서 배려가 두루 미친 정의 깊은 성격으로, 많은 사람으로부터 존경받은 같습니다.

 

 

1928년에 촬영된 사진(당시 , 53세).아마, 15대째, 이치무라 우자에몬(ichimura uzaemon)이, 유럽, 미국 여행을 떠나 발하는, 직전에 촬영된 사진.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1934년에 촬영된 사진(당시 , 59세).함께 비치고 있는 것은, 15대째, 이치무라 우자에몬(ichimura uzaemon)의 친척의 여성(당시 19세)이라고 생각된다.

 

 

 

 

 

 

 

15대째, 이치무라 우자에몬(ichimurauzaemon)가, 1945년 2월에, 도쿄로부터, 이 온천 여관에 피난(아래의 보충 설명 참조) 하고 나서, 1945년 5월에, 피난처의, 이 온천 여관에서, 70세에, 돌연, 병에 의해, 적막하게 돌아가실 때까지, 체재하고 있던, 이 온천 여관의, 쇼라이소우(shoraiso)의 객실.당시 , 쇼라이소우(shoraiso)(1939년 완성)는, 아직, 완성하고 나서, 6년 정도 밖에 세워지지 않고, 니이다테로 불리고 있던 같습니다(당시 , 현재의 본관이 있는 장소에는, 쇼라이소우(shoraiso)보다 낡은, 이 온천 여관(나(yoroduya))의, 선대의, 본관의 건물이 세워지고 있었다고 생각됩니다).
피난:전쟁중, 공습의 피해로부터 피하기 때문에(위해), 공습의 피해를 받아 쉬운, 대도시나 안도시의 중심부를 떠나 교외나 시골에, 일시적으로 체재 혹은, 일시적으로 이주하는 일로, 제2차 세계대전중, 공습의 피해가 컸다, 일본과 유럽에서는, 활발히, 행해졌습니다.비교적 유복한 층은, 교외나 시골에, 집을 구입해 이주하거나(원래 보유하고 있던) 교외나 시골의 별장에 체재하는 것이 가능했습니다만, 서민은, (시골에서 대도시로 나와 있는 경우등은) 친가를 의지하는지, 혹은, 친척을 의지하는지, 학교 피난(학교 마다의 피난)에, 아이를 보낼 수 밖에 유?`케 그리고 했다.

 

 

 

사진 이하 11매.이 온천 여관(나(yoroduya))의 본관.본관은, 쇼라이소우(shoraiso)와 함께, 도로를 사이에 두고, 별관(annex)의 정면에 세워지고 있어 별관(annex)이란, 지하의 통로에서, 쇼라이소우(shoraiso)란, 이동 복도에서 연결되고 있습니다.본관은, 중급 class의 온천 여관이라고 한 느낌입니다.본관의 건물은, 별관(annex)의 건물과 같이, 제이차 세계대전 후에 지어진 현대 건축의 건물입니다만, 역시, 별관(annex)의 건물 같이, 이미, 지어지고 나서, 꽤, 길고, 때가 경과하고 있는 느낌입니다(현재의, 본관의 건물은, 1960년대에 지어진 같습니다).

 

 

본관의 현관.

 

 

 

 

 

사진 이하 7매.본관의 로비(lobby).본관의 로비(lobby)는, 쇼라이소우(shoraiso)의 로비(lobby)도 겸하고 있습니다.덧붙여서, 별관(annex)의 로비(lobby)는, 따로 있습니다(별관(annex)에 있습니다.전회의 투고 참조).

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하 2매.본관의 내장예.

 

 

 

 

 

 

본관에는, 이 온천 여관(나(yoroduya))의 역사를 느끼게 하는, 낡은 것이, 곳곳에 놓여지거나 장식되거나 하고 있습니다.이 시계도, 꽤 낡은 느낌입니다.

 

 

 

 

 

 

본관의 객실예.팜플렛(leaflet)보다...본관에서, 기본적(표준적)인, 객실입니다(아마...).

 

 

 

 

 

사진 이하 9매.이 온천 여관의 공동 온천 목욕탕.이 온천 여관의, 공동 온천 목욕탕은, 남녀별의, 공동 온천 목욕탕의 형식이 되고 있습니다.이 온천 여관에 있는, 두 개의 공동 온천 목욕탕중, 어느 쪽이, 남용의 공동 온천 목욕탕, 어느 쪽이, 녀용의 공동 온천 목욕탕과 고정적으로 정해져 있는 것이 아니고, 시간에 의해서, 남용의 공동 온천 목욕탕과 녀용의 공동 온천 목욕탕이, 바뀝니다.상술한 대로, 이 온천 여관은, 쇼라이소우(shoraiso), 모토다테, 별관(annex)과 숙박 요금과 클래스(질·수준)가 다른, 세 개의 건물로부터 완성됩니다만, 어느 건물에 숙박해도, 이용하는 공동 온천 목욕탕은, 공통이 되고 있습니다.덧붙여서, 이 온천 여관의 공동 온천 목욕탕의, 온천은, 아마, 모두, 원천 내기 흘려 보내기입니다(상술한 대로, 공동 온천 목욕탕의 뜨거운 물 뿐만이 아니라, 이 온천 여관의 뜨거운 물은, 객실(별관(annex)의 객실을 포함한다)의 목욕탕(bathroom)의 뜨거운 물을 포함한, 모든 뜨거운 물이, 원천 내기 흘려 보내기의, 온천이 되고 있는 것 같습니다).

 

사진 이하 5매.이 온천 여관의, 공동 온천 목욕탕의 하나.모모야마(momoyama) 목욕탕으로 불리고 있습니다(이하, 모모야마(momoyama) 목욕탕이라고 씁니다).모모야마(momoyama) 목욕탕은, 옥내(실내) 온천 목욕탕, 온천 노천(야외) 목욕탕, 온천 한증(온천 사우나(sauna))로부터 완성됩니다.이하, 모모야마(momoyama) 목욕탕에 관한 설명은, 이 온천 여관의, 이 온천 여관의 역사에 관한 전시등을 참고로 했습니다.모모야마(momoyama) 목욕탕은, 이 온천 여관의, 제이차 세계대전 후의, 부흥(부활)의 상징이 된 시설에서, 1951년초에 착공되어 대략 2년반 이상의 세월을 걸쳐 1953년 9월에 완성했습니다.모모야마(momoyama) 목욕탕의 건물은, 아즈찌 모모야마(azuchi·momoyama) 시대(16 세기 후기)의 건축 양식을 본뜬 건물에서, 당시의, 이 온천 여관(나(yoroduya))의 오너(owner)는, 이 온천 여관의, 새로운 공동 온천 목욕탕(모모야마(momoyama) 목욕탕)를 건설하는에 해당되고, 슈젠지(syuzenji) 온천(일본의, 이즈(izu) 반도의 내륙부에 있다, 매우 역사가 낡은 온천 보양지)의, 고급 온천 여관, 아라이(arai) 여관의, 나라시대의 연호(tenpyo) 시대(8 세기 전반)의 건축 양식을 본뜬, 공동 온천 목욕탕의 건물(1934년와`성)을 시찰해, 구상의 힌트·참고로 했습니다.당시 (제이차 세계대전이 끝나 이윽고)의, 이 온천 여관에는, (아마) 돈(현금)의 여유가 없었던 일에 가세하고, 모모야마(momoyama) 목욕탕을 계획대로 건설하는 것은, 매우, 돈이 걸린다고 하는 일로, 당시의, 이 온천 여관의 오너(owner)는, 은행으로부터, 돈을 빌리려고 했습니다만, ( 아직, 제이차 세계대전 직후의 혼란기의 자취가, 강하게 남아 있던) 당시의, 일본에 있어서는, 여러가지 장사의 업종 중(안)에서, 여관업은, 은행의 대출 순위가, 낮았던 때문, 은행으로부터, 희망 그대로의 융자를 받는 것은, 매우 곤란했습니다.겨우의 일로, 은행으로부터, 어느 정도의, 돈을 빌릴 수가 있었습니다만, 그런데도, 자금이 부족하고(희망하고 있던, 융자액의, 40%정도 밖에 융자를 받을 수가 있지 않고), 당시의, 이 온천 여관의 오너(owner)는, 이 온천 여관의 오너(owner)의 가족이, 대대 보유해 온, 가치의 높은, 미술품이나 공예품을, 트럭(truck) 1대분 , 토야마(toyama) 현(일본의 중부 지방의 현의 하나.나가노(nagano) 현의 북서부에 인접한다)의, 비교적 유복한 상가(상인의 집)에, (아마, 당시는, 제이차 세계대전 직후의 혼란기의 자취가, 강?`남아 있던 일로부터, 실제의 가치보다, 꽤 낮은 가격으로), 창자가 끊어지는 심정으로(매우, 아까운 생각으로) 매각하는 일에 의해서, 간신히, 모모야마(momoyama) 목욕탕의 건설에 필요한 자금을 얻을 수가 있었던(그 때, 토야마(toyama) 현의 상가(상인의 집)에, 매각한, 회화등의 미술품등은, 현재도 보유하고 있으면, 제대로 된(제대로 한) 미술관을 열 정도의, 양과 질의 물건인 같습니다).모모야마(momoyama) 목욕탕의 건물은, 제이차 세계대전 후(1953년)에 지어진 건물입니다만, 근대(19 세기 후기부터 1930년대무렵)의, 일본 전통식의 건물의 분위기를, 매우 강하게 느끼게 하는 건물이 되고 있어 당시의, 이 온천 여관의, 오너(owner)의 의지가, 강하게 느껴집니다.제이차 세계대전 후의, 대량생산·대량 소비의 고도 경제성장기(1950년대부터 1960년대)의 일본에 있어서는, 진짜 직공은, 활약의 장소를 급속히 잃어 갔습니다만, 모모야마(momoyama) 목욕탕이 지어진 1950년대 초는, 일본이 대량생산·대량 소비의 시대에 돌입하는 전야의 무렵으로, 제이차 세계대전전(1930년대 이전)부터 활약하고 있던 직공이, 활약 할 수 있던, 마지막 시기(말기)인 같은 생각이 듭니다.이 온천 여관의 모모야마(momoyama) 목욕탕은, 제이차 세계대전 후에 지어진 건물로서는, 비교적 드물고?, 문화재로 지정되어 있습니다만, 그것은, 그 근처가 평가되었기 때문에일지도 모릅니다.이 온천 여관에, 한 번 묵고 싶음 것은 , 이 모모야마(momoyama) 목욕탕이, 매력적인 느낌이었기 때문입니다.확실히, 이, 모모야마(momoyama) 목욕탕은, 훌륭하고, 훌륭한, 공동 온천 목욕탕이었습니다.개인적으로, 지금까지, 입욕한, 공동 온천 목욕탕 중(안)에서, 가장 매력적인, 공동 온천 목욕탕의 하나라고 생각했습니다.

 

 

 

이 온천 여관에 전시되고 있는, ( 아직 완성하고 나서, 2년 정도 밖에 지나지 않았다) 1955년경에 촬영된, 모모야마(momoyama) 목욕탕의, (옥내(실내) 온천 목욕탕의) 건물과 온천 노천(야외) 목욕탕의 일부의 사진.

 

 

 

 

 

객실에 놓여져 있는, 가이드(여관 안내)보다...사진상.모모야마(momoyama) 목욕탕의, 옥내(실내) 온천 목욕탕.사진하.모모야마(momoyama) 목욕탕의(옥내(실내) 온천 목욕탕의) 건물과 온천 노천(야외) 목욕탕의 일부.

 

 

 

 

 

 

 

모모야마(momoyama) 목욕탕의 옥내(실내) 온천 목욕탕.팜플렛(leaflet)보다...

 

 

 

 

 

 

 

 

모모야마(momoyama) 목욕탕의(옥내(실내) 온천 목욕탕의) 건물과 온천 노천(야외) 목욕탕의 일부.객실에 놓여져 있는, 가이드(여관 안내)보다...

 

 

 

 

 

 

 

모모야마(momoyama) 목욕탕의(옥내(실내) 온천 목욕탕의) 건물과 온천 노천(야외) 목욕탕.팜플렛(leaflet)보다...온천 노천(야외) 목욕탕은, 매우 크고, 사진에 찍히고 있는 것은, 그 극히 일부로, 전체의 크기는, 사진에 찍히고 있는 부분의, 4배 정도 있는 느낌입니다.단풍의 시기는, 매우 경치가 기려 그렇습니다.

 

 

 

 

 

 

 

팜플렛(leaflet)보다...사진 위쪽, 이 온천 여관의, 또 하나의 공동 온천 목욕탕의, 옥내(실내) 온천 목욕탕, 온천 노천(야외) 목욕탕, 노천(야외)의, 온천거품(jacuzzi) 목욕탕.사진 아래 쪽, 이 온천 여관의, 대절온천 목욕탕.

 

 

사진 이하 4매.객실에 놓여져 있는, 가이드(여관 안내)보다...

 

사진 이하 3매.이 온천 여관의, 또 하나의 공동 온천 목욕탕.이 온천 여관의, 또 하나의 공동 온천 목욕탕은, 옥내(실내) 온천 목욕탕, 온천 노천(야외) 목욕탕, 노천(야외)의, 온천거품(jacuzzi) 목욕탕, 온천 한증(온천 사우나(sauna))로부터 완성됩니다.이 온천 여관의, (현재의), 또 하나의 온천 목욕탕도, 모모야마(momoyama) 목욕탕 같이, 제이차 세계대전 후에 만들어진 같습니다만, 이 쪽은, 현대적인, 공동 온천 목욕탕이 되고 있습니다(제이차 세계대전 후에 만들어진, 현대적인, 공동 온천 목욕탕이라고 말해도, 꽤 낡은 느낌(이미, 만들어지고 나서, 꽤, 길고, 때가 경과하고 있는 느낌)입니다).

 

 

이 온천 여관의, 또 하나의 공동 온천 목욕탕의, 옥내(실내) 온천 목욕탕.하나의 큰, 온천 목욕탕과 같이 보입니다만, 욕조는, 둘에 나누어지고 있고, 각각, 뜨거운 물의 온도가, 다른 것처럼 되어 있습니다.

 

 

 

사진 이하 2매.이 온천 여관의, 또 하나의 공동 온천 목욕탕의, 온천 노천(야외) 목욕탕.이 온천 여관의, 또 하나의 공동 온천 목욕탕의, 온천 노천(야외) 목욕탕은, 두 개 있고, 하나는, 보통, 온천 노천(야외) 목욕탕, 하나 더는, 온천거품(jacuzzi) 목욕탕이 되고 있습니다.

 

 

보통, 온천 노천(야외) 목욕탕.

 

 

 

 

 

온천거품(jacuzzi) 목욕탕.이 목욕탕은, 이 때는, 고장중에서, 입욕 할 수 없었습니다.

 

 

 

 

 

 

이 온천 여관의, 대절온천 목욕탕(아래의 보충 설명 참조).이 온천 여관의, 대절온천 목욕탕은, 대절온천 목욕탕으로서는, 넓고, 소로 한 온천 여관의, 공동 온천 목욕탕위의, 넓이가 있습니다.덧붙여 대절온천 목욕탕은, 쇼라이소우(shoraiso), 모토다테, 별관(annex), 어느 건물에 숙박해도, 공통이 되고 있습니다.
대절온천 목욕탕:대절온천 목욕탕은, 공동 온천 목욕탕은 아니고, 부부나 couple, 가족만으로 넣는 온천 목욕탕에서, 통상은, 소규모로(보통 집의 가정용 목욕탕보다인가는, 크지만, 유복한 집의 가정용 목욕탕위?), 들어갈 때는, 안쪽으로부터 열쇠를 잠그거나 입욕중의 표시를 내거나 하고, 다른 사람이, 들어 오지 않게 합니다(열쇠가, 걸려 있거나, 입욕중의 표시가, 나와 있으면, 이용중이라고 판단하고, 다른 사람이, 들어 오지 않는다).

 

 


 

 

이 온천 여관의, 식당(dining room)은, 별관(annex)에 1개, 본관에 3개, 쇼라이소우(shoraiso)에 1개의, 전부, 5개 있는 것 같습니다.저녁 식사는, 쇼라이소우(shoraiso)의 숙박객은, 기본적으로, 방(객실)에서, 특별 요리가 제공되어 본관의 숙박객과 별관(annex)의 숙박객은, 본관의 식당(dining room)에서, 거의 공통의 저녁 식사를 먹습니다.

 

사진 이하 2매.본관의 식당(dining room).

 

팜플렛(leaflet)보다...

 

 

 

 

 

 

객실에 놓여져 있는, 가이드(여관 안내)보다...이 때, 저희들은, 이 식당(dining room)에서, 저녁 식사를 먹었습니다.

 

 

 

 

 

사진 이하 12매.이 온천 여관의 본관의 식당(dining room)에서 먹은, 이 날의 저녁 식사등.

 

 

 

이 저녁 식사시에, 내가 마신, 음료의 하나.시음 세트(다양한, 일본술을, 소량씩, 마셔 비교할 수가 있는 편성).왼쪽에서..엔도(endo) 주조장(스자카(suzaka)(나가노(nagano) 현의 북부의 소도시.나가노(nagano) 시의 도시권에 위치한다)의, 1864년 창업의, 일본술의 회사.「계류」의, 브랜드(brand)로 알려진다)의, 「계류」라고 하는, 일본술.다나카야(tanakaya) 주조점(이이야마(iiyama)(나가노(nagano) 현의 북부에 위치하는 소도시)의, 1868년 창업의, 일본술의 회사.미즈오(mizuo)의, 브랜드(brand)로 알려진다)의, 「미즈오(mizuo)」라고 하는, 일본술.타마무라(tamamura) 본점(야마노우치(yamanouchi) 정(유다중(yudanaka)·떫은맛(shibu) 온천골(유다중(yudanaka) 온천과 떫은맛(shibu) 온천을 중심으로 하는, 나가노(nagano) 시의 북동부 근교에 위치하는, 온천 보양지 지대)나, 시가(shiga) 타카하라등이 속하는, 나가노(nagano) 현의 토호쿠부의 마을)의, 1805년 창업의 일본술의 회사의, 「록희(engi)」라고 하는, 일본술.이 외, 이 저녁 식사시는, 나는, 음료는, 술(알코올(alcoholic) 음료)은, 시가(shiga) 타카하라 맥주(현지의 맥주)를 1병으로 타마무라(tamamura) 본점의, 「설원(snow monkey)」이라고 하는, 탁주(알코올(alcohol) 도수는, 15%에서 16%)을, 300 ml 마셨습니다.

 

 

 

사진 이하 11매(도중 , 세스시의 설명 사진 1매를 제외하다), 이 온천 여관에서 먹은, 이 날의 저녁 식사.이 온천 여관의, 본관과 별관(annex)의, 거의 공통의 저녁 식사중, 제일, 싼 저녁 식사를 먹었습니다.모두, 일인일명씩입니다(사진은, 일인분).

 

 

전채와 식전술(우하).식전술은, 이 온천 여관, 자가제의, 사과주입니다(나가노(nagano) 현은, 사과의 주요한 산지가 되고 있습니다).덧붙여서, 이 식전술의 같은, 식전술은, 개인적으로, 술(알코올(alcoholic) 음료)중에, 들어가지 않습니다 w

 

 

 

 

 

전채.사진상의, 세의 잎에 싸이고 있는 것은, 현지의, 전통 요리, 세스시입니다.

 

 

 

 

 

 

세스시의 내용은, 이런 느낌입니다.관광 팜플렛(leaflet)보다...

 

 

 

 

 

 

 

신슈(shinsyu) 우(나가노(nagano) 현산의, 고급 쇠고기)의, 해 샤브샤브(shabu-shabu).

 

 

 

 

 

 

 

국.

 

 

 

 

 

 

 

생선회(칸파치, 범립, 잉어).잉어는, 바다에 접하지 않은 현인 나가노(nagano) 현에서, 다른, 민물 고기·호어와 함께, 옛부터, 잘 먹을 수 있고 있는 식품 재료입니다(아마...).

 

 

 

 

 

 

 

은어(민물 고기)의, 구이.

 

 

 

 

 

 

 

메밀 섞어 만든 찐 빵.

 

 

 

 

 

 

 

수타 소바.소바는, 나가노(nagano) 현에서, 옛부터, 잘 먹을 수 있고 있는, 나가노(nagano) 현의 명물 요리의 하나입니다.위에 실려 있는, 천부라는, 산채(산이나, 숲, 들판에서 얻는 식용 식물)와 비비 꼬아 새우(강이나 연못에 생식 하는, 담수성의 새우)의, 튀김 요리(kakiage).튀김 요리(kakiage)는, 천부라의 하나로, 어패류(seafood)나 야채등을, 몇 종류인가 조합해 옷과 함께 올린 천부라입니다(설명은, wiki를 참고로 했습니다).

 

 

 

 

 

 

왼쪽에서, 밥(rice), 유채과 일년초(유채과(Cruciferae)의 야채의 채소 절임.유채과 일년초(nozawana)는, 나가노(nagano) 현에서, 잘 먹을 수 있고 있는 채소 절임입니다), 나가노(nagano) 현산의 된장을 사용한, 된장국(miso soup).나가노(nagano) 현은, 된장의 주요한 산지의 하나가 되고 있습니다.

 

 

 

 

 

 

디저트(dessert).블루베리(blueberry) 샤벳(sorbet).

 

 

 

 

 

 

참고에, 쇼라이소우(shoraiso)의 숙박객의, 저녁 식사의 일부의 예...팜플렛(leaflet)보다...저녁 식사는, 쇼라이소우(shoraiso)의 숙박객은, 기본적으로, 방(객실)에서, 특별 요리가 제공되는 것 같습니다.

 

 

 

이 여관의, 아침 식사는, 쇼라이소우(shoraiso)의 숙박객과 본관의 숙박객은, 본관의 식당(dining room)에서, 공통의 일본 요리의 아침 식사를 먹어(아마...), 별관(annex)의 숙박객은, 별관(annex)의 식당(dining room)에서, 비교적 저렴한(싸구려 같다), 아침 식사 바이킹(buffet)이 제공되는 일이 됩니다(별관(annex)의 식당은, 별관(annex)의 숙박객 전용의 식당(dining room) 한편, 아침 식사 전용의 식당 한편, 아침 식사 바이킹(buffet) 전용의 식당(dining room)이 되고 있습니다).

 

 

다음날의 아침 식사는, 별관(annex)의 식당의, 아침 식사 바이킹(buffet)으로 먹었습니다(전회의 투고, 참조).

 

 

다음날은, 아침 식사 후, 체크아웃(checkout) 시간까지, 온천 목욕하는 등 , 여관에서, 빈둥거리고 있었습니다만, 여관을, 체크아웃(checkout) 하고 나서는, 직접, 도쿄의 우리 집에 돌아왔습니다(다음날은, 저녁부터 일인 때문, 빨리, 도쿄의 우리 집에 돌아왔습니다).

 

다음날의 점심 식사는, 오는 길에 , 고속도로(motorway)의, SA·PA(rest area)로 먹었습니다.

 

6월 중순의 나가노(nagano) 현 체재&음식, 마지막...

 

 

 

 

 

 



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