伝統文化

武寧王陵参拜した日本王子

 

書き始めに引用したとおり 2001年 12月23日明仁天皇が “ガンム天皇の生母は百済武寧王の子孫”と言い放った内容は韓国と日本だけではなく世界多くの国にまで話題を催した. 朝鮮王朝末期の栄親王妃(英親王妃)だった故(故) 異邦者(李方子) 女史は在世に “日本王室でもスンニュンを飲む”と言った. “今の天皇もスンニュンをマシダマダです. その方も朝鮮人ではないですか.” この女史が示した ‘その方’は昭和天皇だ. 一日本学者(呉なまぐさい大学 神田秀一 教授)は “全斗換大統領訪日(訪日) の時の晩さん会で昭和天皇も自分の先祖が百済人だと発言した”と明らかにした事がある.

 

ホン・ユンギ
 韓国外大英語科卒業, 日本センシュデ博士(文学)
 日本センシュデ兼任教授, 檀国大招聘教授, 韓国外大外国語研修評価院教授
 現 ハンイルグックゼワングインハックフェザング, 韓国外大教養学部 ‘日本文化と社会’ 担当教授
 著書 : ‘日本の歴史歪曲’ ‘日本天皇は韓国人だ’ ‘日本文学百と’ など

 

筆者は 2002年 7月10日直接日本東京の皇居に入って行って天皇弓衣王室祭祀を進行する祭祀担当官Abe須恵マーサさんから今の明仁天皇陛下が毎年 11月23日夜にバックゼシン(韓神)のための祭祀祝文をナングチァング(朗唱)して身の上制(新嘗祭)を執り行なうという事実が分かった. このような事実はその年 EBS 光復節特集放送に放映された. UedaMasaki博士はその翌年 1月に筆者に送った書信で “ビタスワングの子孫である隊員陣である(大原真人)は百済王族や椅子王の血管を引き継いだ”と認めた.

現日本王室の浅香乃美なの王子は 2004年 8月武寧王の祭祀の面倒を見るために自ら忠南公州を尋ねた事がある. 王子は直接持って来た 1300年前日本王室で作った王室祭祀用香炉(香炉)と貴重な香(香)を武寧王陵(武寧王陵) 中で立てて済州(祭酒)と祭祀用お菓子などお供えを珍説して武寧王の栄転に頭下げて参拜した. しかし日本のどんな媒体でも浅香乃美なの王子の武寧王陵参拜を報道しなかった. [ホン・ユンギ韓国外国語大教授・日本文化 senshyu@naver.com target=_blank>senshyu@naver.com]

 

 

 

 

       百済-日本王室血続き実体発掘

 

 明仁天皇 “第50代ガンム天皇の生母は武寧王子孫” 
 日本学者 “ビタスワング内孫, ‘百済天皇’と呼ばれて” 
 日本古代指導, 現大阪地域 ‘百済洲’で表記 
 日本学者 “百済盛旺は日本ギンメイワング兼任した” 
 “日本最初女帝スイコ女王は百済盛旺の娘” 
 “ゲイタイ王は武寧王の実の弟”
 
 

去年 5月, 筆者は日本京都に住んでいるUedaMasaki博士を捜した. Ueda博士は京都台史学科名誉教授で日本古代史学の泰斗に呼ばれる. 30余年前 “百済王が百済の植民地だったなぜのフワング(侯王)に ‘百済打つかも(七支刀)’を下賜した”と明らかにして日本社会に大きい波紋を投げかけた当事者でもある. Ueda博士は当時家で寄り集まった日本ナショナリズム青年たちから脅迫を受けたと打ち明けた.

しかしUeda博士が自宅で筆者に見せてあげたことはずっと衝撃的な内容を記していた. 彼は自分の家から先祖代代で安らかにおさめて来た ‘シンチァンソングシロック(新撰姓氏録)’を取り出して見せてこんなに言った.

“第30代ビタスワングは百済王族です.”

西紀 815年日本王室が編纂した ‘シンチァンソングシロック’は日本古代の王道(王都)だった ‘平安京’(今の京都の時)の王族と貴族 1182個家門の身分を記録した, 一種の日本古代王族及び貴族族より. Ueda博士は日本王族 30個家門が羅列されている書き入れ時を広げておいて, なかでも 12番目に被せられた ‘大原真人’を指でついた. ‘大原真人’という日本王族が誰かは次のように明らかに被せていた.

‘大原真人. 出自諡敏逹孫百済王也. 続日本紀合.’

(隊員陣である, 彼の先祖は諡号がビタス(敏逹)という百済ワングゾックイニだと. ‘ソックイルボンギ’ 記録にも符合する.)

解けば, ‘隊員真因の先祖が日本第30代ビタスワングであり, ビタスワングは本来百済王族だ.’ またこの内容が ‘ソックイルボンギ’という王室編纂歴史書(西紀 797年)にも符合するとまで指摘している. Ueda博士はこの書き入れ時が “ビタス天皇が百済王族出身なのを言ってくれている”と言った. 瞬間筆者は言葉を引き継ぐことができなかったが, “ビタス天皇が百済王族”という事実も驚くべきだが, Ueda博士の学問的良心に胸が熱くなったからだ.

 

‘百済天皇(百済天皇)’

 

‘日本書紀’(西紀 720年, 日本王室編纂)に見れば, “第30代ビタス天皇(敏逹・572‾585 在位)殷(奈良)に ‘グダラオイグング(百済大井宮)’を作った”と言う書き入れ時がある. ビタスワングが国の百済人集団居住地 ‘百済きゅうり(百済大井)’に王宮を建てたという話だ. この記録もビタスワングが百済王族出身なのを傍証する. 彼だけではなくビタスワングの内孫である第34代ゾメイワング(舒明・629〜641 在位)も国の ‘グダラガング(百済川) 横にグダラグング(百済宮)とグダラノ−デだと(百済寺)という大きい伽藍を建てた. ゾメイワングがグダラグングで住んで行って逝去した時 ‘グダラノ−オモがリ(百済大殯)’で葬式を済ました’と言う内容もある.

 

日本学者マユズミヒロミチシは ‘日本書紀’のゾメイワング書き入れ時の ‘ゾメだ(舒明紀)’に対する注解(註解)で “ここで言う殯所はその意識を盛大に行ったことを意味する”と説明した. ‘百済大賓(百済大殯)’と言う(のは)百済王室で行った 3ニョンサング(喪)を示す. 百済第25代武寧王(501〜523 在位)が王道(王都)だったゴムナで(熊津, 公州) 地域で ‘百済大賓’を支払ったという事実は 1971年出土された武寧王の ‘墓誌銘’を通じて立証された. 百済王室の盛大な葬礼意識をなぜで行ったということは当時国地を支配した百済王家の勢力が絶対的だったのをお察しするようにする.

一方日本古代史学者であるセイ粗大史学科Saekiアリキです教授はビタスワングの内孫である “ゾメイ天皇は在世に ‘百済天皇(百済天皇)’と呼ばれたはずだ”と発表した事がある.

 

西紀 572年に上がったビタスワングが ‘百済台正規の宮’を立てたきゅうり(大井)はどこか. 今の奈良県 ‘稿料初百済(広陵町 百済)’というのが日本史学係の通説だ. こちらには 2007年 11月現在 ‘百済郵便局(百済郵便局)’も営業の中だ. ‘稿料初百済(百済)’は今まで日本で ‘百済’という行政地名をそっくりそのままおさめている二所の中で一つだ.

 

残り1ヶ所は京都の時東の ‘ヒがシ烏芋ミッシーヒャクサイジチォ(東近江市百済寺町)’だ. この名前は日本最大の琵琶湖湖越しスズカサン(鈴鹿山) ドングソングイにぐんと立っている由緒のある査察から始まった. この査察の名前は ‘シャカサンヒャクサであって(百済寺)’, 日本では ‘百済寺’を ‘百済やけどしなさい’と言うのに特にこの査察だけは ‘百済寺’の漢字語を音がし次第に読んで ‘ヒャクサであって’と歌う.

 

1910年日帝の朝鮮侵略以前までにしても日本各地に ‘百済故友里(百済郡)’ ‘グダラソン(百済村)’ ‘グダラガング(百済川)’ 進んで ‘百済大橋(百済大橋)’ ‘百済平野(百済平野)’ 同じ行政地名が広く使われた. 日本古代指導である ‘パラリと化も(八浪華図)’は今の大阪地域である難波(難波・‘ナニと’とも呼びかけ) 一帯が ‘グダラス(百済洲)’と呼ばれたことを見せてくれる. この地図は西紀 1098年(承徳 二年)に初めて描かれた. 今から 900余年私は地図に表記した ‘グダラス’ ‘難波だ(難波寺)’ ‘百済里(久太郎里・‘百済里’の吏読式漢字表記)’ などは 2007年現在まで大阪市内の地名で命脈を続いて来ている. 特に当時 ‘百済故友里(百済郡)’ 地域は今の大阪中心町竝みであるヒがシナリで(東成区)だ. 1937年に編纂された ‘日本古語大辞典’は ‘百済故友里(くだら こうり)’の ‘細かかろう’が “韓国語の村で派生された言葉だ”と明らかにしている. 大阪中心地一帯はひととき行政区域上 ‘ギタグダラソン(北百済村)’ ‘ミナミグダラソン(南百済村)’で分類されたりした.

しかし日帝が朝鮮を強制占領した後, 百済と係った大部分の日本地名が他の名前に変わった. 先立ってよく見たところのように ‘百済’が地名で残っている所が2ケ所に過ぎないこともこのためだ. この二所の地名もいつまでつながるか分かるあてがない.

 

 

“韓国と血続きがいます”

日本の百済(百済) 仏教文化は 6世紀草葉(538), 日本私だと飛鳥(飛鳥) 地域に位置づいていた百済係王室で華やかになり始めた. ‘日本書紀’は “百済第26代盛旺(聖王・523‾554 在位)が日本に百済仏教を伝えた”と記録している. 盛旺は第27代威徳王(554‾598 在位)に王位を越してから後には初めから飛鳥に渡ってギンメイワング(欽明・539‾571 在位)で君臨した. 盛旺は知られたように 554年新羅君との戦闘で死亡したのではなく, 長男に王位を譲って日本王室に渡った. 盛旺はもう 539年センカワング(宣化王・536〜539 在位)が逝去した時から百済と日本を出入りして倭王を兼任したことと見える. 日本史学者小林Yasukoも “百済盛旺は天皇陛下を兼任した”と言う研究論を広げた.

盛旺の先大人武寧王とトンソン王(479‾501 在位)も皆百済王で上がる前にはどうして王室に住んだ. ‘三国史記’ のような私たち歴史書にはこのような記録がないが, ‘日本書紀’には ‘トンソン王と武寧王がそれぞれ日本で帰国して順次百済王で上がった’と言う内容がある. だからお爺さんとお父さんが百済係どうして王室で住んで帰国して百済王になったと言う事実だけでも盛旺がどんなに倭王を兼任することができたのか納得するに値する.

もう一つ明らかにしておこうとすると 794年, 日本王室では新しい王道になった京都に盛旺の日本王室祠堂であるHiranoジェントルマン(平野神社)を雄大壮厳に立てたし, 現在までよく保存している. 日本古代王室でHiranoジェントルマンに祭祀を差し上げて来た事実は 10世紀初制定された王室法道 ‘延喜式(延喜式)’にも積まれている. Hiranoジェントルマンは日本第50代桓武天皇(桓武・781‾806 在位)の勅命で平安京(今の京都の時) 新しい王宮の北に立てられた.

2001年, 明仁(明仁・1989‾ 在位) 現天皇は桓武天皇が百済人の子孫なのを認めた事がある.

“第50代ガンム天皇の生母は百済武寧王の王子スンタテザの直系子孫であるファシンリブ(和新笠) 皇太后です. この事実は日本王室歴史書 ‘ソックイルボンギ’に積まれています. だから私も韓国と血続きがいます.”

68回誕生日を迎え記者会見を開いた当時言った言葉だ. 天皇のこのような発言に皇居(王宮)を管掌する宮内庁高官たちが非常に荒てたという裏話だ. そのためか日本言論はこの日記者会見内容を報道しながら天皇が言及した韓国との血縁関係書き入れ時はぐいっと漏らした. 唯一に ‘朝日新聞’が天皇の発言を記事化した.

 

盛旺の息子と娘

‘シンチァンソングシロック’が百済王族だと銘記したビタスワング(572‾585 在位)は百済盛旺の第2王子だ. 盛旺の第1王子は百済第27代威徳王だ. ビタスワングはギンメイワング(百済盛旺)が逝去すると王位を受け継いだ. 彼と同時に最高代わりで 20歳の百済人貴族小家僕牛馬して(蘇我馬子)を登用した. 京都府立大学史学科がドワキところであって教授は小家僕牛馬して代わりが百済第21代開路王(455‾475 在位)の神さました ‘百済祖神首ほど(木満致)の 5代孫’と明らかにした.

 

ビタスワングは 576年 3月, 18歳のがシキは公州を王后に当たった. がシキは公州は外でない王の異腹同生, だから盛旺の第2公州だった. 近親結婚をしたわけだ. がシキは公州はビタスワングとの間に 2男5女を置いたし, 西紀 592年に日本最初の女王で上がった. 第33代天皇陛下であるスイコ女王(推古・592‾628 在位)で 36年間, お父さんが布教した百済仏教文化を眩しく花を咲かせた. この時期は日本歴史で ‘飛鳥文化時代’(592‾645)で高く評価を受ける.

14世紀初に被せられた日本仏教王朝社である ‘ブサングリャックギ(扶桑略記)’には次のような内容がある.

“推古天皇元年正月, 蘇我大臣馬子宿. 依合戦願, 於飛鳥地建法興寺,

立刹柱日 島大臣竝百余人 皆着百済服, 観者悉悦, 以仏舍利, 篭置刹柱礎中.”

588年, 百済王室から渡って来た建築家テリャングミテ(太良未太), 門際古字(文賈古子) などによって日本最初の七堂伽藍が飛鳥に着工された. 上の書き入れ時は, スイコ女王が上がった直後の 593年 1月に小家僕牛馬して代わりと満朝百官が ‘バックゼオッ’を入庫, 見物する人々が喜ぶ中に百済から送った仏様舍利箱をチァルズの基礎の中に安置したという内容だ. ‘満朝百官が ‘百制服’を着た’と言うのはスイコ女王の飛鳥王室が百済係王家なのを言ってくれる. しかし当時に関する ‘日本書紀’ 記録では ‘百制服を着た’と言う ‘ブサングリャックギ’の書き入れ時を見つけることができない.

 

 

ニントク王室に渡って来たバックゼシン(百済神)

それでは今, 時代をさかのぼって百済人王家が形成された酸っぱいことに推定される 4‾5世紀, ‘難波(大阪)’の ‘グダラス(百済洲)’ 時代をよく見よう. 百済が日本を最初に支配したことは誤診(応神)超時からというのが通説だ. この事実を考証する資料中の一つの誤診天皇電信肖像画を見れば, 塗布を着た天皇が頭にナムバイを使っている. ナムバイは皮をつけた長たらしい帽子で, 私たちのご先祖が冬季部屋ハン某で着して来た.

当代の誤診王と彼の第4王子ニントク(仁徳)王が百済人だったのを日本史学者たちの研究を通じて確認することができる. 先に ‘日本書紀’は百済の学者王人が誤診王の招請を受けてどうして王室に渡って来たと記録している. 王人は誤診王の第4王子五事詐欺王子に文を教えた. 誤診王が逝去した後 3年目になった日には王人が五事詐欺王子をニントクワング地位に乗せた. このような事実は 805年に被せられた古代文献に記録されている. “王人がオデに和歌(和歌) ‘ナニワスノ−ウタ(難波津歌)’を作ってニントク天皇を王位に薦挙こんにちはだった.”(紀貫之 ‘古今集’) 大阪の高麗大学渡し場名前である ‘ナニワス’は王人が至恩和歌で由来した. この地名は現大阪中心の繁華街である ‘ナニと(難波)’にそのままつながっている.

 

また注目することは “ニントク天皇が母国百済からバックゼシン(百済神)の子株を王室に連れられた”(‘風土記’ 8‾10C 編纂)は点だ. “百済信義子株を連れられた”と言うのは氏神を崇敬する宗廟辞職信仰行為だと見ても無理がないだろうし, これはすなわちニントクワングが百済人なのを立証する. ニントクワングと彼の父王誤診王が百済人だと主張した史学者は一つや二つではない.

早稲田大史学科みずのユ教授はかつて “誤診天皇と彼の息子ニントク天皇は百済国(百済国) 王家から渡って来て日本征服王朝を成した”(1978)で断定した事がある. 東京大学史学科Inoueミスサだ教授もこれより先に進んで “百済使臣から打つかも(七支刀)を伝えて受けた倭王来るは天皇は百済(百済) 王族であり, 天皇氏(天皇氏) 自体が朝鮮から渡って来た日本移住者だった”(1960)で明らかにした.

日本古代史学者イシワタリShinichiへの著書 ‘百済から渡って来た誤診天皇’(2001) また日本史学係の耳目を集中させた. 著者はこの本で大阪府ホビーKinoshiにいる “オジンルング(応神陵)に売場された死体は 5世紀後半に渡って来た百済の紅王子(昆支王子)だ. 彼は 5世紀末に日本で百済係王朝(百済系王朝)を樹立した”と主張した. ‘三国史記’によれば紅王子は百済第21代開路王(455‾475 在位)の第2王子だ. このように韓日古代史をまじめに研究してその結果を良心的に明らかにした日本史学者たちは反韓国(反韓) 勢力から精神的迫害を受けているから切ない事だ.

 

バックゼシン祠堂に参拜する日本人

 

バックゼシンを王室に連れられたニントクワングは王道に祠堂を作りもした. 去年 10月29日, 筆者は古代日本最初のバックゼシン祠堂で遺書が深い大阪の ‘未シマ加茂ジェントルマン(三島鴨神社)’を尋ねた. こちらの松井ゆり厚謝(松井位幾) 弓師は “こちらではニントク(仁徳) オデの時, 百済から日本王室に渡って来た百済代わり(百済大神) オヤマスミノ−カミ(大山積神) 子株の祭祀を仕えています”と言った. バックゼシンが日本王室に渡って来たことは今から 1600年前の 5世紀だ.

先祖代代にバックゼシン祭祀を連れられたという松井ゆり厚謝弓師はこの地元大阪淀川(淀川) 上流東で祠堂を守って来た百済人子孫李拘置アキオ(伊口明生) など十六家門代表たちと一緒に 5年の努力あげく 2006年死当たり歴史に関する本を発行した. この本 ‘三島鴨神社史’の書き始めに次のような内容が載せられている.

 

“ニントク天皇は仮ワッチ(河内・大阪昔の地名)に ‘巻くクンゼバング’を積む同時に淀川川辺基盤を守ってくださる神さま(神)として百済からオヤマスミノ−カミをこの地元押すよ(御島・三島の吏読式漢字語のような意味)で仕えました. 王道難波(難波)を守ってくださる守護神としてこのジェントルマンを続いて連れられました.”

松井ゆり厚謝弓師に筆者は “古代日本最初のバックゼシン祠堂に韓国でもたまに参拜客が来るのか”と問った. 松井ゆり厚謝弓師は “韓国ではよく分からないようだ”と返事した. 松井ゆり厚謝弓師に “日本人はこちらが日本王室に渡って来た百済代わりの祠堂というのが分かっているのか”とまた問った.

 

“みんなよく分かっています. 熱心に参拜する信者が多くて, 個中には (2007年) 10月忠南付与で開かれた ‘百済文化祭’に行って来た方々もいます. 毎年先祖の故国バックゼタング付与, 公州などを尋ねる方々がいます.”

松井ゆり厚謝弓師はこの祠堂を尋ねる参拜客に無料で配る案内書 ‘未シマ加茂ジェントルマンユソリャックギ’を筆者に渡してくれた. その始めて列に “立つ 400年代にニントク天皇が創建して百済から渡って来たバックゼシンオヤマスミノ−カミ子株祭祀の面倒を見る祠堂”と被せていた.

 

 

国家信徒と戦争の悲劇

もうちょっとよく見たら, ニントクワング時代に百済から渡って来たバックゼシンを ‘未シマ加茂ジェントルマン’で祭祀を行うようになった縁由を日本古代史文献 ‘風土記’はこんなに伝えていた.

‘御嶋 坐神御名 大山積神 一名和多志大神也 是神者 所顯難波高津宮御宇天皇御世 此神者百済国渡来坐 而津国御嶋坐’

 

‘未シマにいらっしゃる信義御名(御名)はオヤマスミノ−カミだ. 一名ワダシノ−オカミ(和多志大神)である. このはいたナニとのダカスノ−ミなの(高津宮) 宮に天皇(ニントクワング)がいらっしゃった語勢(御世)に現われた. この神さまは百済国(百済国)から渡って来てナニワスの未シマにいらっしゃるようになった.’

一方ニントクワングの時日本王室に渡って来た百済信義名前が ‘和多志’なのに, 武寧王の旺盛が ‘火(和)’さんであり, 和製50台桓武天皇の生母が百済王族 ‘ファシンリブ(和新笠)’ 皇太后であることは百済王家の省(姓)が百済信義成果一脈相通ずることを見せてくれる.

 

‘未シマ加茂ジェントルマンユソリャックギ’には “ニントク天皇時代に未シマに暮した王族たちがこの地元ダカー書き取り(高槻)のベンテンサン(弁天山)に 3代にわたった古墳を作ったが, あの時モノ−ノ−ベ家門のがラクニムだって(韓国連・韓国貴族氏族)らが協力した”と言う内容も載せられている.

が本の ‘国家信徒(国家神道)と戦争の悲劇’という書き入れ時も察してみるに値する. 日帝下に日本軍国主義者たちがこちらバックゼシン祠堂に圧力をかけてバックゼシンを差し置いて代りに国家信徒, すなわち皇国信徒(皇国神道)の頂点にあげて建てたいわゆる ‘天助代わり’を祭祀を行う南の方の二世神宮(伊勢神宮)を向けて催敬礼(腰曲げて丁寧なお辞儀)するように強要した. それだけではなく天皇を生きているインガンシン(現人神)に信仰化して, 死当たり境内に日本軍戦歿者たちを違令する ‘ピョツングビ’を立てた. この本は “それだけではなくこのジェントルマンの裏道で通う通学生たちにとって必ずこちら祠堂を向けて催敬礼して過ぎ去るように強要した. しかしそれはこちらオゼシン(御祭神・百済代わり)に対する崇敬のお寺ではなく, 天助代わりとヒョンインシン(現人神)である天皇に対して崇敬の寺をあげるようにすることだった”と指摘した.

 

百済王が倭王に下賜した打つかも

日本王室が百済人によって形成されたという文献記録外に考古学籍な考証も重要だ. 代表的なことが百済 ‘打つかも(七支刀)’と ‘人物画上京(人物画像鏡)’の金石文だ. 百済第20代比喩王(〓有王・427‾455 在位)と王世子(後日の開路王)がなぜを治めた百済王族フワング(侯王) 誤診王(応神・4‾5C超)に 429年に送った百済王室 ‘打つかも’がある. ‘日本書紀’はなぜの第15代 ‘誤診天皇’が 270‾310年まで在位したと記録しているがこれは ‘捏造’というのが通説だ. 誤診王は 5世紀頃の百済人が当たって, ‘百済比喩王が下賜した打つかも(74.9cm 長さ)を受けた百済のフワング(侯王)だ’というのが現存する打つかも(日本奈良県天理の時李ソノ加美神宮(石上神宮) 所長, 日本国宝)に陰刻で刻まれている. 百済王室でこの刀に刻んだ文はこのようだ.

‘泰和四年五月十一日丙午 正陽造百練鉄七支刀 以?百兵 宜供供候王 □□□□作’(刀の前) ‘世以来未有此刀 百慈王世子寄生聖音 故為倭王旨造 伝示後世’(刀の裏)

国語で訳せば, ‘胎化 4年(西紀 429年) 5月11日丙午の日静養の時に無数に焼きを入れた衰老漆紙島を作ってすべての敵兵を退けるようにフワングに与える’(前), ‘先代以来でまだ見られなかったこの刀を百済王及び王世子(又の日の開路王 - 筆者註)は神聖なお話で倭王のために作ってり. 後世にまでよく伝えて見えるようにしなさい’(裏) である.

 

UedaMasaki教授はこの刀を 3番(回)も調査と書いた研究論で “その頃莫強した軍事力を持った百済王がフワングである倭王に送ってくれたことを明らかにしたことであり, 刀に刻んだグルトは上司が目下に伝える下行文書(下行文書) 形式の名門だ”と断定した. 百済比喩王がウェナラに渡ってなぜを支配した百済のフワングにウェナラをよく守って百済の属領で栄えることを命限のだ.

Inoueミスサだ教授も, その頃百済使臣から漆紙島を伝えて受けた誤診天皇は百済王族であり, “天皇氏(天皇氏) 自体が朝鮮から渡って来た日本移住者だから朝鮮から渡って来た多くの人をガンム天皇が調整に登竜させたこと”と明らかにした事がある.

 

 

聖未年謎

日本の重要文化財には古代日本に残した韓国の名残があざやかに残っている場合が多い. なかでも代表的なことが ‘人物画上京’という青銅鏡だ. 日本国宝になったこの青銅鏡は 503年に百済第25代武寧王が直接製作を指揮して完成した後, ウェナだと王室の実の弟(男大迹, 五胡も王子, 後日のゲイタイ王(継体王))に送ってくれたのだ. 直径 19.8cmで丸くしたこの青銅鏡には馬に乗った百済王や臣下たちの姿が鮮かに描かれていて人物画上京だと通り名される. 現在日本和歌山県Hashimotoの時 ‘実逹八満身社’で保存している.

筆者は去年 1月, このジェントルマンを訪問した. 実逹八満身社のデラモトYoshiyuki弓師は粗大で重い金庫深くかかっていた ‘人物画上京’を取り出して見せてくれた. 筆者は貴重な ‘人物画上京’を直接きれいに手入れをしながら歴史の史実(史実)を確認することができた.

“人物画上京は東京上野の ‘東京国立博物館’にある”と言うお正月があった. これに対してデラモト弓師は “浪説だ”と一蹴した. デラモト弓師は引き継いで “この鏡は 503年に百済武寧王が日本王室に送ってくれたんです”と真剣に言った. デラモト弓師のこのような発言は韓日古代史において非常に重要な証言だ. 何故ならば長い間一部日本学者たちがこの鏡が百済から渡って来た事実を否認するため ‘連帯操作’ などで歴史を歪曲して来たからだ. その経緯はこのようだ.

人物画上京には丸い鏡の外側わくに付いて行って 48個の漢字語になった名門(銘文)がある.

‘癸未年八月日十大王年男弟王在意柴 沙加宮時斯麻念長寿遺開中費直穢人 今州利二人等取白上銅二百旱作此鏡’

 

‘西紀 503年(癸未年) 8月10日大王(百済武寧王) 時代に, オシサカグングにある五胡も王子に, 武寧王(斯麻は武寧王のフィ)が弟の長寿を望みながら, 個中非職と芸能人金柱里など 2人を派遣して鏡を送るところ, この鏡は良いグリスェッ 200たいてい(旱)で作ってり.’

百済-日本王室血続き実体発掘
日王室系図 “ビタスワングは百済王族” 百済盛旺子孫が飛鳥文化花を咲かせた

 

 
 

 

弟(妹)を向けた武寧王の愛情が懇切に盛られている. しかし日本史学者たちはこの名門に対して無茶な解釈たちを出した. 日本天皇が武寧王の実の弟という事実を否定するために 60年に一回帰って来る悪知恵(干支) 連帯を歪曲した. 鏡製作連帯に刻まれた ‘聖未年’を西紀 263と 443年などで駆って行ったこと. 青銅鏡に刻まれた聖未年(癸未年)が古代のどの時点を示すことなのかが争点の始発になった.

人物画上京を実逹八満身社の倉庫で最初に見つけたこれは史学者高橋健司博士だ. 最初発見者はこの鏡名門に現われている聖未年が西紀 263年だと主張した. これに対して京都教育大史学科わだアスム教授は次のように批判した.

 

“高橋説(説)は, 名門に見える司馬(斯麻)を ‘日本書紀’の ‘神工期(神功紀)’に登場するシマノース区だね(斯麻宿)と連結作って聖未年に対して考証するのに, ここには無理がある.”

筆者の考えもわだ教授のようだ. なぜなら ‘日本書紀’に根拠していち祖神(朝臣)である臣下が敢えて青銅鏡を作って王子に下賜することができないことだ. そんな行績は名門の文脈と到底調和することができない. その上に ‘日本書紀’の ‘神工期’は加工の操作されたことだということが通説だ. だからシマノース区だね(斯麻宿)と人物画上京の ‘司馬’は全然無関係だ.

 

武寧王のフィが司馬(斯麻)にもかかわらず高橋博士がこれを追い抜いておいてシマノ−スクネといういち祖神の方で論調を駆って行ったことは意図的だったようだ. 高橋博士が ‘聖未年 263ニョンソル(説)’を初めて立てた時が韓日併合直後だった. 彼だけではなく彼は当時東京帝室博物館(東京帝室博物館)の監査官で歴史部長だった.

 

ゲイタイ王はトンソン王息子

 

高橋博士によって最初に申し立てられた ‘聖未年 263ニョンソル’は日本史学係で徐徐に黙殺される中に, 443ニョンソルと 503ニョンソルが頭をもたげるのに至った. 443ニョンソルはみずのユ教授の主張で, 503ニョンソルは福山回ります教授の主張だ. 先にみずの教授は ‘西紀 443年 8月, ユンゴング天皇(允恭天皇・412‾453 在位)が弟(男弟)と一緒に皇后(皇后)のオシサカグング(忍坂宮)にある時, 司馬(斯麻)が長寿を念願して…’と解釈した. 一方福山教授は ‘西紀 503年 8月インヒョンデワング(仁賢大王)の時代, (王子時代の) ゲイタイ王(男弟王)がオシサカグングにある時, 司馬が…’と解釈した. 福山教授は ‘男弟王’を即位の前のゲイタイ王で指目して, 聖未年を 503年でつき出すところまでは正確だったが, その時期を百済武寧王ではないなぜのニンケンデワング時代だと誤解した.

また本論に帰って五胡も(ゲイタイ王)は武寧王の実の弟があうか. ゲイタイ王は百済第24代トンソン王(東成王・479‾500 在位)の第3王子だった. トンソン王は名前が舞台(牟大)のため, ウェナラにある時舞台王(牟大王)とも呼ばれた. トンソン王は日本の百済王家に住んでいた紅(昆支) 王子の息子だ. そして紅王子は百済開路王(蓋鹵王・455‾474 在位)の第2王子だ. 開路王の第1王子は文周王(文周王・475‾476 在位)で, 文周王の後を引き継いだことは文周王の第1王子であるサムグンワング(三斤王・477‾479 在位)だ. サムグンワングが崩御するとウェナラにあった文周王の弟(妹)舞台が百済で帰国してトンソン王で上がった.

ここで少少 ‘日本書紀’をよく見よう. ‘ウェナラのムリョルワング(武烈王・498‾506 在位)が逝去したが厚謝がなかった. 大臣たちが急いで王位継承者を捜した中に, 誤診王の 5代孫である南台的(男大迹, 男弟, 五胡も)を王位に登極させた.’ 南台的は雨矢王(汚斯王)の第2王子であり, 雨矢王がすぐ同性(牟大)王だ. トンソン王のまた他の名前である舞台の大根(牟)苛小(牛)を象徴


일본 왕실 부계는 백제인 - 일본 왕자 증언

무령왕릉 참배한 일본 왕자

서두에 인용한 대로 2001년 12월23일 아키히토 일왕이 “간무 천황의 생모는 백제 무령왕의 후손”이라고 공언한 내용은 한국과 일본뿐 아니라 세계 여러 나라에까지 화제를 불러일으켰다. 조선왕조 말기의 영친왕비(英親王妃)였던 고(故) 이방자(李方子) 여사는 생전에 “일본 왕실에서도 숭늉을 마신다”고 말했다. “지금의 천황께서도 숭늉을 마시다마다요. 그분도 조선 사람이 아닙니까.” 이 여사가 가리킨 ‘그분’은 쇼와 일왕이다. 한 일본 학자(오비린대학 神田秀一 교수)는 “전두환 대통령 방일(訪日) 때 만찬회에서 쇼와 일왕도 자신의 조상이 백제인이라고 발언했다”고 밝힌 바 있다.

홍윤기
 한국외대 영어과 졸업, 일본 센슈대 박사(문학)
 일본 센슈대 겸임교수, 단국대 초빙 교수, 한국외대 외국어연수평가원 교수
 現 한일국제왕인학회장, 한국외대 교양학부 ‘일본문화와 사회’ 담당교수
 저서 : ‘일본의 역사왜곡’ ‘일본천황은 한국인이다’ ‘일본문학백과’ 등

필자는 2002년 7월10일 직접 일본 도쿄의 황거에 들어가 천황궁의 왕실 제사를 진행하는 제사 담당관 아베 스에마사씨로부터 지금의 아키히토 일본왕이 매년 11월23일 밤에 백제신(韓神)을 위한 제사 축문을 낭창(朗唱)하며 신상제(新嘗祭)를 지낸다는 사실을 알아냈다. 이 같은 사실은 그해 EBS 광복절 특집 방송으로 방영됐다. 우에다 마사키 박사는 그 이듬해 1월에 필자에게 보낸 서신에서 “비타쓰왕의 후손인 대원진인(大原眞人)은 백제 왕족이며 의자왕의 핏줄을 이었다”고 인정했다.

현 일본 왕실의 아사카노미야 왕자는 2004년 8월 무령왕의 제사를 모시기 위해 몸소 충남 공주를 찾은 바 있다. 왕자는 직접 가져온 1300년 전 일본 왕실에서 만든 왕실 제사용 향로(香爐)와 귀중한 향(香)을 무령왕릉(武寧王陵) 안에서 피우며 제주(祭酒)와 제사용 과자 등 제물을 진설하고 무령왕의 영전에 머리 숙여 참배했다. 그러나 일본의 어떤 매체에서도 아사카노미야 왕자의 무령왕릉 참배를 보도하지 않았다. [홍윤기 한국외국어대 교수·일본문화 senshyu@naver.com]

 

 

 

       백제-일본 왕실 혈연 실체 발굴

 아키히토 일왕 “제50대 간무 천황의 생모는 무령왕 후손” 
 일본 학자 “비타쓰왕 친손자, ‘百濟天皇’으로 불려” 
 일본 고대 지도, 현 오사카 지역 ‘百濟洲’로 표기 
 일본 학자 “백제 성왕은 일본 긴메이왕 겸임했다” 
 “일본 최초 여제 스이코 여왕은 백제 성왕의 딸” 
 “게이타이왕은 무령왕의 친동생”
 
 

지난해 5월, 필자는 일본 교토에 살고 있는 우에다 마사키 박사를 찾았다. 우에다 박사는 교토대 사학과 명예교수로 일본 고대 역사학의 태두로 불린다. 30여 년 전 “백제왕이 백제의 식민지였던 왜의 후왕(侯王)에게 ‘백제 칠지도(七支刀)’를 하사했다”고 밝혀 일본 사회에 큰 파문을 일으킨 당사자이기도 하다. 우에다 박사는 당시 집으로 몰려든 일본 국수주의 청년들로부터 협박을 받았다고 털어놨다.

그러나 우에다 박사가 자택에서 필자에게 보여준 것은 훨씬 더 충격적인 내용을 담고 있었다. 그는 자신의 집안에서 조상 대대로 고이 간직해온 ‘신찬성씨록(新撰姓氏錄)’을 꺼내 보이며 이렇게 말했다.

“제30대 비타쓰왕은 백제 왕족입니다.”

서기 815년 일본 왕실이 편찬한 ‘신찬성씨록’은 일본 고대의 왕도(王都)였던 ‘헤이안경’(지금의 교토시)의 왕족과 귀족 1182개 가문의 신분을 기록한, 일종의 일본 고대 왕족 및 귀족 족보다. 우에다 박사는 일본 왕족 30개 가문이 나열되어 있는 대목을 펼쳐놓고, 그중 12번째에 씌어진 ‘大原眞人’을 손가락으로 짚었다. ‘大原眞人’이라는 일본 왕족이 누구인지는 다음과 같이 분명하게 씌어 있었다.

‘大原眞人. 出自諡敏達孫百濟王也. 續日本紀合.’

(대원진인, 그의 조상은 시호가 비타쓰(敏達)라는 백제 왕족이니라. ‘속일본기’ 기록에도 부합한다.)

풀이하면, ‘대원진인의 조상이 일본 제30대 비타쓰왕이며, 비타쓰왕은 본래 백제 왕족이다.’ 또한 이 내용이 ‘속일본기’라는 왕실 편찬 역사서(서기 797년)에도 부합한다고까지 적시하고 있다. 우에다 박사는 이 대목이 “비타쓰 천황이 백제 왕족 출신임을 말해주고 있다”고 말했다. 순간 필자는 말을 잇지 못했는데, “비타쓰 천황이 백제 왕족”이라는 사실도 놀랍지만, 우에다 박사의 학문적 양심에 가슴이 뜨거워졌기 때문이다.

 

‘구다라 천황(百濟天皇)’

‘일본서기’(서기 720년, 일본왕실 편찬)에 보면, “제30대 비타쓰 천황(敏達·572~585 재위)은 나라(奈良)에 ‘구다라오이궁(百濟大井宮)’을 지었다”는 대목이 있다. 비타쓰왕이 나라의 백제인 집단 거주지 ‘구다라오이(百濟大井)’에 왕궁을 지었다는 얘기다. 이 기록 또한 비타쓰왕이 백제 왕족 출신임을 방증한다. 그뿐만 아니라 비타쓰왕의 친손자인 제34대 조메이왕(舒明·629∼641 재위)도 나라의 ‘구다라강(百濟川) 옆에 구다라궁(百濟宮)과 구다라노데라(百濟寺)라는 큰 가람을 지었다. 조메이왕이 구다라궁에서 살다가 서거했을 때 ‘구다라노오모가리(百濟大殯)’로 장례를 치렀다’는 내용도 있다.

일본 학자 마유즈미 히로미치씨는 ‘일본서기’의 조메이왕 대목인 ‘조메이기(舒明紀)’에 대한 주해(註解)에서 “여기서 말하는 빈소는 그 의식을 성대하게 거행한 것을 의미한다”고 설명했다. ‘백제대빈(百濟大殯)’이란 백제 왕실에서 행한 3년상(喪)을 가리킨다. 백제 제25대 무령왕(501∼523 재위)이 왕도(王都)였던 곰나루(웅진, 공주) 지역에서 ‘백제대빈’을 치렀다는 사실은 1971년 출토된 무령왕의 ‘묘지명’을 통해 입증됐다. 백제 왕실의 성대한 장례 의식을 왜에서 거행했다는 것은 당시 나라 땅을 지배한 백제 왕가의 세력이 절대적이었음을 추찰케 한다.

한편 일본 고대 사학자인 세이조대 사학과 사에키 아리키요 교수는 비타쓰왕의 친손자인 “조메이 천황은 생전에 ‘구다라 천황(百濟天皇)’이라고 불렸을 것이다”라고 발표한 바 있다.

서기 572년에 등극한 비타쓰왕이 ‘백제대정궁’을 세운 오이(大井)는 어디인가. 지금의 나라현 ‘고료초 구다라(廣陵町 百濟)’라는 게 일본 사학계의 통설이다. 이곳에는 2007년 11월 현재 ‘구다라 우편국(百濟郵便局)’도 영업 중이다. ‘고료초 구다라(百濟)’는 지금까지 일본에서 ‘백제’라는 행정 지명을 고스란히 간직하고 있는 두 곳 중 하나다.

 

나머지 한 곳은 교토시 동쪽의 ‘히가시 오우미시 햐쿠사이지초(東近江市百濟寺町)’다. 이 이름은 일본 최대의 비와코 호수 너머 스즈카산(鈴鹿山) 등성이에 우뚝 서 있는 유서 깊은 사찰에서 비롯됐다. 이 사찰의 이름은 ‘샤카산 햐쿠사이지(百濟寺)’, 일본에서는 ‘百濟寺’를 ‘구다라 데라’라고 하는데 유독 이 사찰만은 ‘百濟寺’의 한자어를 소리 나는 대로 읽어 ‘햐쿠사이지’로 부른다.

1910년 일제의 조선 침략 이전까지만 해도 일본 각지에 ‘구다라고우리(百濟郡)’ ‘구다라손(百濟村)’ ‘구다라강(百濟川)’ 나아가 ‘구다라대교(百濟大橋)’ ‘구다라평야(百濟平野)’ 같은 행정지명이 널리 쓰였다. 일본 고대 지도인 ‘팔랑화도(八浪華圖)’는 지금의 오사카 지역인 난바(難波·‘나니와’라고도 부름) 일대가 ‘구다라스(百濟洲)’로 불렸음을 보여준다. 이 지도는 서기 1098년(承德 二年)에 처음 그려졌다. 지금으로부터 900여 년 전 지도에 표기된 ‘구다라스’ ‘난바지(難波寺)’ ‘구다라리(久太郞里·‘백제리’의 이두식 한자 표기)’ 등은 2007년 현재까지 오사카시내의 지명으로 명맥을 이어오고 있다. 특히 당시 ‘구다라고우리(百濟郡)’ 지역은 지금의 오사카 중심 시가지인 히가시나리구(東成區)이다. 1937년에 편찬된 ‘일본고어대사전’은 ‘구다라고우리(くだら こうり)’의 ‘고우리’가 “한국어의 고을에서 파생된 말이다”라고 밝히고 있다. 오사카 중심지 일대는 한때 행정구역상 ‘기타구다라손(北百濟村)’ ‘미나미구다라손(南百濟村)’으로 분류되기도 했다.

그러나 일제가 조선을 강제 점령한 후, 백제와 관계된 대부분의 일본 지명이 다른 이름으로 바뀌었다. 앞서 살펴본 바와 같이 ‘백제’가 지명으로 남아 있는 곳이 두 군데에 불과한 것도 이 때문이다. 이 두 곳의 지명 또한 언제까지 이어질지 알 길이 없다.

 

“한국과 혈연이 있습니다”

일본의 구다라(백제) 불교문화는 6세기 초엽(538), 일본 나라 아스카(飛鳥) 지역에 자리 잡고 있던 백제계 왕실에서 꽃피기 시작했다. ‘일본서기’는 “백제 제26대 성왕(聖王·523~554 재위)이 일본에 백제 불교를 전파했다”고 기록하고 있다. 성왕은 제27대 위덕왕(554~598 재위)에게 왕위를 넘기고 난 다음에는 아예 아스카로 건너가 긴메이왕(欽明·539~571 재위)으로 군림했다. 성왕은 알려진 것처럼 554년 신라군과의 전투에서 사망한 것이 아니라, 장남에게 왕위를 물려주고 일본 왕실로 건너갔다. 성왕은 이미 539년 센카왕(宣化王·536∼539 재위)이 서거했을 때부터 백제와 일본을 넘나들며 왜왕을 겸임했던 것으로 보인다. 일본사학자 고바야시 야스코도 “백제 성왕은 일본왕을 겸임했다”는 연구론을 펼쳤다.

성왕의 선대인 무령왕과 동성왕(479~501 재위)도 모두 백제왕으로 등극하기 전엔 왜 왕실에 살았다. ‘삼국사기’ 같은 우리 역사서엔 이 같은 기록이 없지만, ‘일본서기’에는 ‘동성왕과 무령왕이 각기 일본에서 귀국해 차례차례 백제왕으로 등극했다’는 내용이 있다. 그러니 할아버지와 아버지가 백제계 왜 왕실에서 살다 귀국해 백제왕이 됐다는 사실만으로도 성왕이 어떻게 왜왕을 겸임할 수 있었는지 납득할 만하다.

한 가지 더 밝혀두자면 794년, 일본 왕실에서는 새 왕도가 된 교토에 성왕의 일본왕실사당인 히라노신사(平野神社)를 웅장하게 세웠으며, 현재까지 잘 보존하고 있다. 일본 고대 왕실에서 히라노신사에 제사를 드려온 사실은 10세기 초 제정된 왕실 법도 ‘연희식(延喜式)’에도 실려 있다. 히라노신사는 일본 제50대 간무왕(桓武·781~806 재위)의 칙명으로 헤이안경(지금의 교토시) 새 왕궁의 북쪽에 세워졌다.

2001년, 아키히토(明仁·1989~ 재위) 현 일왕은 간무왕이 백제인의 후손임을 인정한 바 있다.

“제50대 간무 천황의 생모는 백제 무령왕의 왕자 순타태자의 직계 후손인 화신립(和新笠) 황태후입니다. 이 사실은 일본 왕실 역사책 ‘속일본기’에 실려 있습니다. 그러므로 나도 한국과 혈연이 있습니다.”

68회 생일을 맞아 기자회견을 열었을 당시 한 말이다. 천황의 이 같은 발언에 황거(왕궁)를 관장하는 궁내청 고관들이 매우 당황했다는 후문이다. 그 때문인지 일본 언론은 이날 기자회견 내용을 보도하면서 일왕이 언급한 한국과의 혈연관계 대목은 쏙 빼놓았다. 유일하게 ‘아사히신문’이 일왕의 발언을 기사화했다.

 

성왕의 아들과 딸

‘신찬성씨록’이 백제왕족이라고 명기한 비타쓰왕(572~585 재위)은 백제 성왕의 제2왕자다. 성왕의 제1왕자는 백제 제27대 위덕왕이다. 비타쓰왕은 긴메이왕(백제 성왕)이 서거하자 왕위를 계승했다. 그와 동시에 최고대신으로 20세의 백제인 귀족 소가노우마코(蘇我馬子)를 등용했다. 교토부립대학 사학과 가도와키 데이지 교수는 소가노우마코 대신이 백제 제21대 개로왕(455~475 재위)의 신하였던 ‘백제조신 목만치(木滿致)의 5대손’이라고 밝혔다.

비타쓰왕은 576년 3월, 18세의 가시키야 공주를 왕후로 맞았다. 가시키야 공주는 다름 아닌 왕의 이복동생, 그러니까 성왕의 제2공주였다. 근친결혼을 한 셈이다. 가시키야 공주는 비타쓰왕과의 사이에 2남5녀를 뒀으며, 서기 592년에 일본 최초의 여왕으로 등극했다. 제33대 일본왕인 스이코 여왕(推古·592~628 재위)으로 36년간, 아버지가 포교한 백제 불교문화를 눈부시게 꽃피웠다. 이 시기는 일본 역사에서 ‘아스카 문화 시대’(592~645)로 높이 평가받는다.

14세기 초에 씌어진 일본 불교 왕조사인 ‘부상략기(扶桑略記)’에는 다음과 같은 내용이 있다.

“推古天皇元年正月, 蘇我大臣馬子宿. 依合戰願, 於飛鳥地建法興寺,

立刹柱日 島大臣竝百餘人 皆着百濟服, 觀者悉悅, 以佛舍利, 籠置刹柱礎中.”

588년, 백제 왕실에서 건너온 건축가 태량미태(太良未太), 문가고자(文賈古子) 등에 의해 일본 최초의 칠당 가람이 아스카에 착공됐다. 위 대목은, 스이코 여왕이 등극한 직후인 593년 1월에 소가노우마코 대신과 만조백관이 ‘백제옷’을 입고, 구경하는 사람들이 기뻐하는 가운데 백제에서 보내온 부처님 사리함을 찰주의 기초 속에 안치했다는 내용이다. ‘만조백관이 ‘백제복’을 입었다’는 것은 스이코 여왕의 아스카 왕실이 백제계 왕가임을 말해준다. 그러나 당시에 관한 ‘일본서기’ 기록에서는 ‘백제복을 입었다’는 ‘부상략기’의 대목을 발견할 수 없다.

 

닌토쿠 왕실로 건너온 백제신(百濟神)

그러면 이제, 시대를 거슬러 올라가 백제인 왕가가 형성된 시기로 추정되는 4~5세기, ‘난바(오사카)’의 ‘구다라스(百濟洲)’ 시대를 살펴보자. 백제가 일본을 최초로 지배한 것은 오진(應神)왕 때부터라는 게 통설이다. 이 사실을 고증하는 자료 중 하나인 오진천황 전신 초상화를 보면, 도포를 입은 천황이 머리에 남바위를 쓰고 있다. 남바위는 가죽을 댄 기다란 모자로, 우리 조상들이 겨울철 방한모로 착용해왔다.

당대의 오진왕과 그의 제4왕자 닌토쿠(仁德)왕이 백제인이었음을 일본 사학자들의 연구를 통해서도 확인할 수 있다. 먼저 ‘일본서기’는 백제의 학자 왕인이 오진왕의 초청을 받고 왜 왕실로 건너왔다고 기록하고 있다. 왕인은 오진왕의 제4왕자 오사사기 왕자에게 글을 가르쳤다. 오진왕이 서거한 뒤 3년째 되던 해에는 왕인이 오사사기 왕자를 닌토쿠왕 지위에 올려놓았다. 이 같은 사실은 805년에 씌어진 고대 문헌에 기록돼 있다. “왕인이 어대에 와카(和歌) ‘나니와쓰노우타(難波津歌)’를 지어 닌토쿠 천황을 왕위에 천거하였다.”(紀貫之 ‘古今集’) 오사카의 고대 나루터 이름인 ‘나니와쓰’는 왕인이 지은 와카에서 유래했다. 이 지명은 현 오사카 중심의 번화가인 ‘나니와(難波)’로 그대로 이어지고 있다.

또 주목할 것은 “닌토쿠 천황이 모국 백제로부터 백제신(百濟神)의 신주를 왕실로 모셔왔다”(‘風土記’ 8~10C 편찬)는 점이다. “백제신의 신주를 모셔왔다”는 것은 조상신을 숭경하는 종묘사직 신앙행위라고 보아도 무리가 없을 것이며, 이는 곧 닌토쿠왕이 백제인임을 입증한다. 닌토쿠왕과 그의 부왕 오진왕이 백제인이라고 주장한 사학자는 한둘이 아니다.

와세다대 사학과 미즈노 유 교수는 일찍이 “오진 천황과 그의 아들 닌토쿠 천황은 구다라국(백제국) 왕가로부터 건너와 일본 정복왕조를 이루었다”(1978)고 단정한 바 있다. 도쿄대 사학과 이노우에 미쓰사다 교수도 이보다 앞서 “백제 사신으로부터 칠지도(七支刀)를 전해 받은 왜왕 오진 천황은 구다라(백제) 왕족이며, 천황씨(天皇氏) 자체가 조선으로부터 건너온 일본 이주자였다”(1960)고 밝혔다.

일본 고대사학자 이시와타리 신이치로의 저서 ‘구다라에서 건너온 오진 천황’(2001) 또한 일본 사학계의 이목을 집중시켰다. 저자는 이 책에서 오사카부 하비키노시에 있는 “오진릉(應神陵)에 매장된 시신은 5세기 후반에 건너온 구다라의 곤지왕자(昆支王子)이다. 그는 5세기말에 일본에서 구다라계 왕조(百濟系王朝)를 수립했다”고 주장했다. ‘삼국사기’에 따르면 곤지왕자는 백제 제21대 개로왕(455~475 재위)의 제2왕자다. 이처럼 한일 고대사를 성실하게 연구하고 그 결과를 양심적으로 밝힌 일본 사학자들은 반한(反韓) 세력으로부터 정신적 박해를 받고 있으니 안타까운 일이다.

 

백제신 사당에 참배하는 일본인

백제신을 왕실로 모셔온 닌토쿠왕은 왕도에 사당을 짓기도 했다. 지난해 10월29일, 필자는 고대 일본 최초의 백제신 사당으로 유서가 깊은 오사카의 ‘미시마카모신사(三島鴨神社)’를 찾아갔다. 이곳의 마쓰이 나리후사(松井位幾) 궁사는 “이곳에서는 닌토쿠(仁德) 어대 때, 백제에서 일본 왕실로 건너오신 백제대신(百濟大神) 오야마쓰미노카미(大山積神) 신주의 제사를 모시고 있습니다”라고 말했다. 백제신이 일본 왕실로 건너온 것은 지금으로부터 1600년 전인 5세기다.

조상 대대로 백제신 제사를 모셔왔다는 마쓰이 나리후사 궁사는 이 고장 오사카 요도가와(淀川) 상류 동쪽에서 사당을 지켜온 백제인 후손 이구치 아키오(伊口明生) 등 열여섯 가문 대표들과 함께 5년의 노력 끝에 2006년 사당 역사에 관한 책을 펴냈다. 이 책 ‘三島鴨神社史’의 서두에 다음과 같은 내용이 실려 있다.

“닌토쿠 천황은 가와치(河內·오사카 옛 지명)에 ‘만다 큰제방’을 쌓으시는 동시에 요도가와 강변 터전을 지켜주시는 신(神)으로서 백제로부터 오야마쓰미노카미를 이 고장 미시마(御島·三島의 이두식 한자어와 같은 의미)로 모셨습니다. 왕도 난바(難波)를 지켜주시는 수호신으로서 이 신사를 계속해서 모셔왔습니다.”

마쓰이 나리후사 궁사에게 필자는 “고대 일본 최초의 백제신 사당에 한국에서도 더러 참배객이 오느냐”고 물었다. 마쓰이 나리후사 궁사는 “한국에서는 잘 모르는 것 같다”고 답했다. 마쓰이 나리후사 궁사에게 “일본인은 이곳이 일본 왕실로 건너온 백제대신의 사당이라는 것을 알고 있느냐”고 다시 물었다.

“다들 잘 알고 있습니다. 열심히 참배하는 신자가 많으며, 개중엔 (2007년) 10월 충남 부여에서 열린 ‘백제문화제’에 다녀온 분들도 있습니다. 해마다 조상의 고국 백제땅 부여, 공주 등을 찾아가는 분들이 있습니다.”

마쓰이 나리후사 궁사는 이 사당을 찾는 참배객에게 무료로 나눠주는 안내서 ‘미시마카모신사 유서략기’를 필자에게 건네주었다. 그 첫 줄에 “서기 400년대에 닌토쿠 천황이 창건해 백제로부터 건너오신 백제신 오야마쓰미노카미 신주 제사를 모시는 사당”이라고 씌어 있었다.

 

국가신도와 전쟁의 비극

좀 더 살펴보니, 닌토쿠왕 시대에 백제로부터 건너온 백제신을 ‘미시마카모신사’에서 제사지내게 된 연유를 일본 고대사 문헌 ‘風土記’는 이렇게 전하고 있었다.

‘御嶋 坐神御名 大山積神 一名和多志大神也 是神者 所顯難波高津宮御宇天皇御世 此神者百濟國渡來坐 而津國御嶋坐’

‘미시마에 계신 신의 어명(御名)은 오야마쓰미노카미다. 일명 와다시노오카미(和多志大神)이시다. 이 신은 나니와의 다카쓰노미야(高津宮) 궁에 천황(닌토쿠왕)이 계시던 어세(御世)에 나타나셨다. 이 신께서는 구다라국(百濟國)으로부터 건너오셔서 나니와쓰의 미시마에 계시게 되었다.’

한편 닌토쿠왕 때 일본 왕실로 건너온 백제신의 이름이 ‘和多志’인데, 무령왕의 왕성이 ‘화(和)’씨이며, 일본 제50대 간무왕의 생모가 백제 왕족 ‘화신립(和新笠)’ 황태후인 것은 백제 왕가의 성(姓)이 백제신의 성과 일맥상통하는 것을 보여준다.

‘미시마카모신사 유서략기’에는 “닌토쿠 천황 시대에 미시마에 살던 왕족들이 이 고장 다카쓰기(高槻)의 벤텐산(辯天山)에 3대에 걸친 고분을 만들었는데, 그때 모노노베 가문의 가라쿠니무라지(韓國連·한국 귀족 씨족)들이 협력했다”는 내용도 실려 있다.

이 책의 ‘국가신도(國家神道)와 전쟁의 비극’이라는 대목도 짚어볼 만하다. 일제하에 일본 군국주의자들이 이곳 백제신 사당에 압력을 가해 백제신을 제쳐놓고 대신에 국가신도, 즉 황국신도(皇國神道)의 정점에 올려 세운 이른바 ‘천조대신’을 제사지내는 남녘의 이세신궁(伊勢神宮)을 향해 최경례(허리 굽혀 큰절)하도록 강요했다. 그뿐 아니라 천황을 살아 있는 인간신(現人神)으로 신앙화하고, 사당 경내에 일본군 전몰자들을 위령하는 ‘표충비’를 세웠다. 이 책은 “그뿐 아니라 이 신사의 뒷길로 다니는 통학생들로 하여금 반드시 이곳 사당을 향해 최경례하고 지나가도록 강요했다. 그러나 그것은 이곳 어제신(御祭神·백제대신)에 대한 숭경의 절이 아니라, 천조대신과 현인신(現人神)인 천황에 대해 숭경의 절을 올리게 하는 것이었다”고 지적했다.

 

백제왕이 왜왕에게 하사한 칠지도

일본 왕실이 백제인에 의해 형성됐다는 문헌 기록 외에 고고학적인 고증 또한 중요하다. 대표적인 것이 백제 ‘칠지도(七支刀)’와 ‘인물화상경(人物畵像鏡)’의 금석문이다. 백제 제20대 비유왕(毗有王·427~455 재위)과 세자(훗날의 개로왕)가 왜를 다스리던 백제 왕족 후왕(侯王) 오진왕(應神·4~5C초)에게 429년에 보낸 백제 왕실 ‘칠지도’가 있다. ‘일본서기’는 왜의 제15대 ‘오진 천황’이 270~310년까지 재위했다고 기록하고 있으나 이는 ‘날조’라는 것이 통설이다. 오진왕은 5세기경의 백제인이 맞고, ‘백제 비유왕이 하사한 칠지도(74.9cm 길이)를 받은 백제의 후왕(侯王)이다’라는 것이 현존하는 칠지도(일본 나라현 덴리시 이소노카미신궁(石上神宮) 소장, 일본 국보)에 음각으로 새겨져 있다. 백제 왕실에서 이 칼에 새긴 글은 이렇다.

‘泰和四年五月十一日丙午 正陽造百練鐵七支刀 以?百兵 宜供供候王 □□□□作’(칼의 앞면) ‘世以來未有此刀 百慈王世子寄生聖音 故爲倭王旨造 傳示後世’(칼의 뒷면)

우리말로 옮기면, ‘태화 4년(서기 429년) 5월11일 병오날 정양 때에 무수히 담금질한 쇠로 칠지도를 만들어 모든 적병을 물리치도록 후왕에게 주노라’(앞면), ‘선대 이래로 아직 볼 수 없었던 이 칼을 백제왕 및 세자(뒷날의 개로왕 - 필자 주)는 성스러운 말씀으로 왜왕을 위해 만들었도다. 후세에까지 잘 전해서 보이도록 하라’(뒷면) 이다.

우에다 마사키 교수는 이 칼을 3번이나 조사하고 쓴 연구론에서 “그 당시 막강한 군사력을 가진 백제왕이 후왕인 왜왕에게 보내줬음을 밝힌 것이며, 칼에 새긴 글투는 윗사람이 아랫사람에게 전하는 하행문서(下行文書) 형식의 명문이다”라고 단정했다. 백제 비유왕이 왜나라에 건너가 왜를 지배하던 백제의 후왕에게 왜나라를 잘 지켜 백제의 속령으로 번창할 것을 명한 것이다.

이노우에 미쓰사다 교수도, 그 당시 백제 사신으로부터 칠지도를 전해 받은 오진 천황은 백제 왕족이며, “천황씨(天皇氏) 자체가 조선으로부터 건너온 일본 이주자였기 때문에 조선에서 건너온 많은 사람을 간무 천황이 조정에 등용시킨 것”이라고 밝힌 바 있다.

 

계미년 수수께끼

일본의 중요 문화재에는 고대 일본에 남긴 한국의 자취가 또렷하게 남아 있는 경우가 많다. 그중 대표적인 것이 ‘인물화상경’이라는 청동 거울이다. 일본 국보가 된 이 청동 거울은 503년에 백제 제25대 무령왕이 직접 제작을 지휘해서 완성한 다음, 왜나라 왕실의 친동생(男大迹, 오호도 왕자, 훗날의 게이타이왕(繼體王))에게 보내준 것이다. 지름 19.8cm로 둥글게 만든 이 청동거울에는 말을 탄 백제왕이며 신하들의 모습이 선명하게 그려져 있어 인물화상경이라고 통칭된다. 현재 일본 와카야마현 하시모토시 ‘스다하치만신사’에서 보존하고 있다.

필자는 지난해 1월, 이 신사를 방문했다. 스다하치만신사의 데라모토 요시유키 궁사는 육중한 금고 깊숙이 들어 있던 ‘인물화상경’을 꺼내 보여줬다. 필자는 귀중한 ‘인물화상경’을 직접 매만지면서 역사의 사실(史實)을 확인할 수 있었다.

“인물화상경은 도쿄 우에노의 ‘도쿄국립박물관’에 있다”는 설이 있었다. 이에 대해 데라모토 궁사는 “낭설이다”라고 일축했다. 데라모토 궁사는 이어서 “이 거울은 503년에 백제 무령왕께서 일본 왕실로 보내주신 겁니다”라고 진지하게 말했다. 데라모토 궁사의 이 같은 발언은 한일 고대사에 있어 매우 중요한 증언이다. 왜냐하면 오랫동안 일부 일본 학자들이 이 거울이 백제로부터 건너온 사실을 부인하기 위해 ‘연대 조작’ 등으로 역사를 왜곡해왔기 때문이다. 그 경위는 이렇다.

인물화상경에는 둥근 거울의 바깥쪽 테두리를 따라가며 48개의 한자어로 된 명문(銘文)이 있다.

‘癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長壽遺開中費直穢人今州利二人等取白上銅二百旱作此鏡’

‘서기 503년(癸未年) 8월10일 대왕(백제 무령왕) 시대에, 오시사카궁에 있는 오호도 왕자에게, 무령왕(斯麻는 무령왕의 휘)께서 아우의 장수를 바라시면서, 개중비직과 예인 금주리 등 2인을 파견하여 거울을 보내시는바, 이 거울은 좋은 구리쇠 200한(旱)으로 만들었노라.’

백제-일본 왕실 혈연 실체 발굴
日왕실 족보 “비타쓰왕은 백제 왕족” 백제 성왕 자손이 아스카 문화 꽃피웠다
 
 

동생을 향한 무령왕의 애정이 간곡하게 담겨 있다. 그러나 일본 사학자들은 이 명문에 대해 엉뚱한 해석들을 내놓았다. 일본 천황이 무령왕의 친동생이라는 사실을 부정하기 위해 60년에 한 번 돌아오는 간지(干支) 연대를 왜곡했다. 거울 제작 연대로 새겨진 ‘계미년’을 서기 263과 443년 등으로 몰고 간 것. 청동거울에 새겨진 계미년(癸未年)이 고대의 어느 시점을 가리키는 것인가가 쟁점의 시발이 됐다.

인물화상경을 스다하치만신사의 창고에서 최초로 발견한 이는 사학자 다카하시 겐지 박사다. 최초 발견자는 이 거울 명문에 나타나 있는 계미년이 서기 263년이라고 주장했다. 이에 대해 교토교육대 사학과 와다 아쓰무 교수는 다음과 같이 비판했다.

“다카하시설(說)은, 명문에 보이는 사마(斯麻)를 ‘일본서기’의 ‘신공기(神功紀)’에 등장하는 시마노스쿠네(斯麻宿)와 연결 지으며 계미년에 대해 고증하는데, 여기엔 무리가 있다.”

필자의 생각도 와다 교수와 같다. 왜냐하면 ‘일본서기’에 근거해 일개 조신(朝臣)인 신하가 감히 청동거울을 만들어 왕자에게 하사할 수 없는 노릇이다. 그런 행적은 명문의 문맥과 도저히 조화될 수 없다. 더구나 ‘일본서기’의 ‘신공기’는 가공의 조작된 것이라는 게 통설이다. 그러니 시마노스쿠네(斯麻宿)와 인물화상경의 ‘사마’는 전혀 무관하다.

무령왕의 휘가 사마(斯麻)임에도 불구하고 다카하시 박사가 이를 제쳐두고 시마노스쿠네라는 일개 조신 쪽으로 논조를 몰고 간 것은 의도적이었던 듯하다. 다카하시 박사가 ‘계미년 263년설(說)’을 처음 내세운 때가 한일합방 직후였다. 그뿐만 아니라 그는 당시 도쿄제실박물관(東京帝室博物館)의 감사관이며 역사부장이었다.

 

게이타이왕은 동성왕 아들

다카하시 박사에 의해 최초로 제기된 ‘계미년 263년설’은 일본 사학계에서 서서히 묵살되는 가운데, 443년설과 503년설이 대두되기에 이르렀다. 443년설은 미즈노 유 교수의 주장이고, 503년설은 후쿠야마 도시오 교수의 주장이다. 먼저 미즈노 교수는 ‘서기 443년 8월, 윤공 천황(允恭天皇·412~453 재위)이 남동생(男弟)과 함께 황후(皇后)의 오시사카궁(忍坂宮)에 있을 때, 사마(斯麻)가 장수를 염원해서…’라고 해석했다. 한편 후쿠야마 교수는 ‘서기 503년 8월 인현대왕(仁賢大王)의 시대, (왕자시대의) 게이타이왕(男弟王)이 오시사카궁에 있을 때, 사마가…’라고 해석했다. 후쿠야마 교수는 ‘男弟王’을 즉위 전의 게이타이왕으로 지목하고, 계미년을 503년으로 짚어내는 데까지는 정확했으나, 그 시기를 백제 무령왕이 아닌 왜의 닌켄대왕 시대라고 곡해했다.

다시 본론으로 돌아가 오호도(게이타이왕)는 무령왕의 친동생이 맞는가. 게이타이왕은 백제 제24대 동성왕(東成王·479~500 재위)의 제3왕자였다. 동성왕은 이름이 무대(牟大)여서, 왜나라에 있을 때 무대왕(牟大王)으로도 불렸다. 동성왕은 일본의 백제 왕가에 살고 있던 곤지(昆支) 왕자의 아들이다. 그리고 곤지 왕자는 백제 개로왕(蓋鹵王·455~474 재위)의 제2왕자다. 개로왕의 제1왕자는 문주왕(文周王·475~476 재위)이며, 문주왕의 뒤를 이은 것은 문주왕의 제1왕자인 삼근왕(三斤王·477~479 재위)이다. 삼근왕이 승하하자 왜나라에 있던 문주왕의 동생 무대가 백제로 귀국해서 동성왕으로 등극했다.

여기서 잠깐 ‘일본서기’를 살펴보자. ‘왜나라의 무렬왕(武烈王·498~506 재위)이 서거했으나 후사가 없었다. 대신들이 서둘러 왕위 계승자를 찾던 중에, 오진왕의 5대손인 남대적(男大迹, 男弟, 오호도)을 왕위에 등극시켰다.’ 남대적은 우시왕(汚斯王)의 제2왕자이며, 우시왕이 바로 동성(牟大)왕이다. 동성왕의 또 다른 이름인 무대의 무(牟)가 소(牛)를 상징하며, 우시(汚斯, うし) 또한 ‘소(牛)’라는 의미가 있다.

1971년 7월8일, 마침내 충남 공주에서 백제 무령왕릉이 발굴됨에 따라 비로소 무령왕의 휘가 ‘인물화상경’에 새겨진 ‘사마(斯麻)’임이



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