1970年代
●1972年 9月 29日 - Tanakaがクエイ総理大臣.
「日本側は, 過去において日本が戦争を通じて中国国民に重大な損害を
与えたことに対する責任を痛感して, 深く反省する.
また, 日本側は, 中華人民共和国政府が申し立てた 「復校三原則」を充分に理解する立場(入場)に
立って国交正常化の実現をはかると言う見解を再確認する.
中国側は, これを歓迎するのだ.」 [1]
1980年代
●1982年 8月 24日 - Suzuki善行首相.
「過去の戦争を通じて重大な損害を与えた責任を深く痛感している」
「 「侵略」と言う批判もあることは認識する必要がある」 [2]
●1982年 8月 26日 - Miyazawaキイチ内閣官房長官.
「1, 日本政府及び日本国民は, 過去にあって, 我が国の行為が韓国・
中国を含んだアジアの国々の国民に莫大な苦痛と損害を与えたことを深く自覚して,
このような事を二度とはだめだという反省と決意後に立って
平和国家としての道を歩いて来た.我が国は, 韓国に対しては,
昭和 40年の韓日共同公文書書案に対して 「過去の関係は残念で
深く反省している」ラゴの認識を, 中国に対しては日中共同声明(名前)に対して
「過去において日本が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことの責任を痛感して,
深く反省する」ラゴの認識を言ったが, これも戦術の我が国の反省と決意を確認したことで,
現在においてもこの認識には少しの変化もない.
2, このような韓日共同公文書, 日中共同声明(名前)の精神は我が国の学校教育,
教科書の検定に臨んでも, 当たり前, 尊重されなければならないはずだが,
今日の, 韓国, 中国等から, このような点に関する私たち国交果序の技術に対して批判が伝わっている.
我が国としては, アジアの近隣帝国との友好, 親善を進行させるのにあってこのような批判に充分に耳を傾けて
政府の責任に対して改める.
3, このために, 今後の教科書検定に臨んでは, 教科用図書黒調査審議会の議論を経って
黒基準を直して前で見た主旨が充分に実現するように(ように) 気配りする.
もう検定が行われたことに対しては, 今後の速かにみたいな主旨が実現するように(ように) 措置するものの,
それまでの間の措置として文部代わりが所見を確かにして, 電気2の主旨を教育の場所にあって
充分に反映するようにすることにする.
4, 我が国としては, 前でも, 近隣国民との相互理解の促進と友好協力の発展に努力して
アジアひいては世界の平和と安定に寄与して行くつもりだ.」[3]
●1984年 9月 6日 - 昭和天皇.
「今世紀の一時期にあって, 両国の間に不幸な過去がおさめたことは本当に残念で,
また繰り返されてはいけないと思います.」[4]
●1984年 9月 7日 - 中曽根康弘受賞.
「帰国及び帰国民に多大な困難を持って来た」 「深い残念の考えを憶える」[5]
1990年代
●1990年 4月 18日 - Nakayama太郎外務大臣.
「自分の意思で話に, 当時の日本政府の意思によってサハリンに
強制移住をするようにして就業当ぎり方々が, 戦争の終決とともに一時の祖国に帰ることができずに ,
そのまま現地に泊まって暮さざるを得なかったと言う一つのこの悲劇は,
本当にこの方々に対して日本だと言っても心よりすまなかったと言う
気持ちを持っています.」[6]
●1990年 5月 24日 - 今上天皇.
「我が国によって招来されたこの不幸な時期に, 帰国の人々が味わわれたつらさを思って,
私は哀惜の考えを禁止することができません.」[7]
●1990年 5月 25日 - カイの後Toshiki首相.
「 私は, 大統領閣下を迎えたこの機会に, 過去の一時期,
韓半島の方々が我が国の行為によって堪えにくいつらさと悲しみが体験されたことに対して
謙虚に反省して, 率直に謝りの気持ちを申し上げたいと思います.」[8]
●1992年 1月 16日 - Miyazawaキイチ受賞.
「私たち日本国民は, まずなによりも, 過去の一時期, 帰国国民が我が国の行為によって
堪えにくいつらさと悲しみが体験された事実を思い出して, 反省する気持ちを網なく
しなければなりません.
私は, 総理として再び帰国国民に対して反省と謝りの気持ちを
申し上げたいです.」[9]
●1992年 1月 17日 - Miyazawaキイチ受賞.
「我が国と帰国との関係で忘れてはいけないことは, 数千年にかける交流の中で,
歴史上の一時期に, 我が国が加害者であり, 帰国がその被害者だったと言う事実です.
私は, 以前, 韓半島の方々が我が国の行為によって堪えにくいつらさと悲しみを
体験されたことに対して, ここに直して, 本気での反省の意味と謝りの気持ちを表明します.
最近, いわゆる従軍慰安婦の問題が扱われていますが, 私は, このような事は実に
心が痛いことで, 本当にすまなく思います.」[10]
●1992年 7月 6日 - KatoKoichi内閣官房長官.
「政府としては, 国籍, 出身地の如何を問わず, いわゆる従軍慰安婦として言葉に力をつくして
難しい申告をなめることができたすべての方々に対して, 再び忠心で謝りと反省の気持ちを申し上げたい.
また, このような過ちを決して繰り返してはいけないと言う深い反省と決意の下に立って,
平和国家としての立場(入場)を立て通すことと同時に, 米価に向けて新しい韓日関係及び
その以外のアジア諸国, 地域との関係を構築するように努力して行きたい.」[11]
●1993年 8月 4日 - コノ−ヨヘイ内閣官房長官.
「とにかく, 本件は, 当時の郡の関与の下に, 多数の女性の名誉と尊厳を
深く損傷させた問題だ.政府は, この機会に, 再び, その出身地の如何を問わず,
いわゆる従軍慰安婦として多くの苦痛が経験されて心身にかけてくれと言いにくい傷をつかれた
すべての方々に対して心より謝りと反省の気持ちを申し上げる.」
(慰安婦関係調辞訣と発表に関するコノ−内閣官房長官談話.いわゆるコノ−談話)[12] [13]
●1993年 8月 23日 - 細川森ヒーロー受賞.
「そして 48年を経って我が国は今世界で有数な繁栄と平和を郷愁する国になることができました.
それは前の大田への貴い犠牲の上に積んで上げられたことで, 先輩世代の皆さんの
功績の産物であることを決して忘れてはいけないと思います.
私たちはこの機会に世界に向けて過去の歴史への反省で新しい決意を明確にさせることが
ズングヨハダと思います.まずはこの場所を借りて, 過去の我が国の侵略行為や植民地支配等が
多い人々に堪えにくいつらさと悲しみを持って来たことに再び深い反省と
謝りの気持ちを申し上げる」[14]
●1993年 9月 24日 - 細川森ヒーロー受賞.
「私が侵略戦争, 侵略行為と言う表現を利用したことは, 過去の我が国の行為が多い人々に
堪えにくいつらさと悲しみを持って来たという等しい認識を率直に言ったことなので,
再び深い反省と謝りの気持ちを表明したのです.」[15]
●1994年 8月 31日 - 村山富市受賞.
「我が国が過去の一時期にやらかした行為は, 国民に多くの犠牲を持って来たすぐ直後ではなくて,
アジアの近隣帝国等の人々に, 今もっとなぐさめにくい商魂を残しています.
私は, 我が国の侵略行為や植民地支配等が多い人々に堪えにくいつらさと悲しみを
持って来たことに対して, 深い反省の気持ちに立って, 不戦の決意の下,
世界平和の創造に向けて力をつくして行くことが,
これからの日本がかけなければならない進路だと思います.
我が国は, アジアの近隣帝国等との関係の歴史を直視しなければなりません.
日本国民と近隣帝国民が手を握ってアジア・太平洋の未来を開こうとすれば , お互いの痛みを乗り越えて
構築される相互理解と相互信頼と言う浮動の土台が不可欠です…いわゆる従軍慰安婦問題は,
女性の名誉と尊厳を深く損傷させた問題であり, 私はこの機会に,
再び, 本気での深い反省と謝りの気持ちを申し上げたいです.
我が国としては, このような問題も含んで過去の歴史を直視して, 正しくこれを後世に伝えることと同時に,
関係帝国等との相互理解のいっそうもっと増進に努力するのが, 我が国の謝りと反省の気持ちを
現わすようになると思っていて本計画は, このような気持ちを勘案したのです.」[16]
●1995年 6月 9日 - 衆院決意.
「また, 世界の近代史における幾多の植民地支配や侵略行為に構想をして,
我が国が過去に行ったこのような行為や他国民特にアジア諸国民に与えた
苦痛を認識して, 深い反省の意味を表明する.」
(歴史を教訓で平和への決意を新しくする決意.いわゆる前後 50年衆院決意)[17]
●1995年 7月 - 村山富市受賞.
「いわゆる従軍慰安婦の問題もその一つです.この問題は, 九日本郡が関与して多い
女性の名誉と尊厳を深く損傷させたことで, 到底容赦されるのではないです.
私は, 従軍慰安婦として心身にかけてくれと言いにくい傷をつかれたすべての方々に対して,
深く謝りを申し上げたいです.」[18]
●1995年 8月 15日 - 村山富市受賞.「我が国は, 遠くない過去の一時期, 国策が下手で,
戦争への道を歩いて国民を存亡の危機に落として植民地支配と侵略によって, 多くの国々,
特にアジア諸国の人々に対して莫大な損害と苦痛を与えました.
私は, 未来に間違って大根から四方にするから, 疑うこともできないこの歴史の事実を謙虚に受け入れて
ここに再び痛切な反省の意を現わして, 本気での謝りの気持ちを表明します.
また, この歴史が持って来た内外すべての犠牲者に深い哀悼の考えを捧げます.
敗戦の日から 50周年を迎えた今日, 我が国は, 深い反省に西, 独りよがりなナショナリズムを排除して,
責任ある国際社会の一員として国際協助を促進して, それを通じて, 平和の理念とデモクラシーを
広くまき散らして行くのなければなりません.
同時に, 我が国は, 唯一の被爆国としての体験を根拠にして, 核兵器の極めの廃絶を目標にして,
ブルヘック拡散体制の強化など, 国際的な軍縮を積極的に推進して行くことが重要です.
これこそ, 過去に対するよったのに糸でも, 犠牲になられた方々の英霊を鎮める根拠になれば,
私は信じています.」
(前後 50周年の以前記念であるにあたる村山首相談話.いわゆる村山談話)[19]
●1996年 6月 23日 - Hashimotoリュウタロウ首相.
「例えば創氏改名だとしたこと.私たちが完全に学校の教育中(の内)では分かるわけがなかったことで
あったし, そういう事がどれだけ多い国の方々の心を損傷させたのかは
想像に残ることがあることがあります…
また, 今, 従軍慰安婦の問題に接することができたんですが, 私はこの問題(位)位女性の名誉と
尊厳を損傷させた問題はないと思います.
そして, 心より謝りと反省の言葉を申し上げたいです.」[20]
●1996年 10月 8日 - 今上天皇.
「一時期, 我が国が韓半島の人々に大きい苦しさを持って来た時代がありました.
それに対する深い悲しみは, 常に, 私の記憶に残すことができています.」[21]
●1997年 8月 28日 - Hashimotoリュウタロウ首相.
「 私は, 我が国が, 歴史の教訓を学んで, 確実に, 「戦死を忘れないで, 厚謝の訓戒にする」
そうだとする時点が広く国民中に定着していると確信しています.
や自分も一昨年村山前総理が発表した内閣総理大臣談話, すなわち 「植民地支配と侵略によって,
多くの国々, モックアシアゼグックの人々に対して莫大な損害と苦痛を主語」
「歴史の事実を謙虚に受け入れてここに直して痛切な反省の意を現わして,]
本気での謝りの気持ちを表明」するつもりで同じ考えを持っています.
が内閣総理大臣談話を決めた時, 私も内閣の一員でした.
日本内の一部に中国側の感情を刺激することもできる発言があったと言っても, 日本だと言う国が将来,
軍事対局にならないで平和国家としての道をずっと歩く決意であることは,
うちの日本人にいては, 自明なことだと思います.
そうだが, 自らに明らかな事でも, 中国を始まりにするアジア諸国に
不信が生まれないような努力は緩まないように続いて行く必要があります.
去年と言う, 我が国の安全保障の根幹である事・米安全保障体制に対しても,
中国側からさまざまな形態で見解が表明されているのですが, この問題もやっぱり対話を
繰り返えすことで, 中国側の心配を解いて行く努力が不可欠ですやって,
現在進行している 「指針」見直しの作業も続いて透明性を持って行って来たければ
思っています.日・米安保共同宣言に対して明確に記述されているように,
である・米両国は, アジア太平洋地域の安定と繁栄において中国が肯定的で建設的な役目を
果すのが極めてズングヨハダと思っていて
が関連で, 中国との協力をもっと深くして行かなければなりません」[22]
●1997年 9月 6日 - Hashimotoリュウタロウ首相.
「日本政府は, 第二次世界大戦敗戦の日から 50周年の 1995年,
内閣総理大臣談話と言う形態を取って, 我が国として
過去の日本の行為が中国を含んだ多くの人々に対して,
堪えにくい悲しみとつらさを準, これに対して深い反省の気持ち右に出て,
謝りを申し上げながら, 平和のために力をダハリョゴの決意を発表しました.
や自分がその談話の作成に係わる閣僚の一人です.
そしてこれが日本政府の正式的態度である, 立場(入場)であることを繰り返して申し上げたいです.
そしてこれは首脳の間における論議の中でも, 中国側に私も率直に申し上げて
リブング総理も私の発言に完全に同意すれば, そのように言って受けました.」[23]
●1998年 7月 15日 - Hashimotoリュウタロウ首相.
「私たち国政部は, いわゆる従軍慰安婦問題について, 道義的な責任を痛感していて,
国民的な補償の気持ちを現わすための事業を実施している 「女性のためのアジア平和国民基金」と
協力しながら, この問題に対して誠実に対応して来ています.
私は, いわゆる従軍慰安婦問題は, 当時の郡の関与の下に多数の女性の名誉と尊厳を
深く損傷させた問題と認識していて, 多くの苦痛が経験されて
心身にかけてくれと言いにくい傷をつかれたすべての円位安否の方々に対して本気での
謝りと反省の気持ちを抱いていることを鬼手上に伝えてたいです」
「私たちは, 過去の量感からも未来への責任からも逃げることはできません.
我が国としては, 過去の歴史を直視して, 正しくこれを後世に伝えながら,
2000年には交流 400周年を迎える帰国との友好関係をもっと増進することに全力を
傾けて行きたいです.」[24]
●1998年 10月 8日 - 小淵恵三首相.
「 ヤングスヌェは, 韓日両国が 21 世紀の確固な善隣友好協力関係を構築して行くためには,
両国が過去を直視して相互理解と信頼に根拠した関係を発展させて行くことが
重要なことに対して意見の一致を見た.
小淵総理大臣は, 今世紀の韓日両国関係を回考して, 我が国が過去の一時期韓国国民に
大海植民地支配によって莫大な損害と苦痛を与えたと言う歴史的事実を謙虚に受け入れて
これに対して, 痛切な反省と本気での謝りを言った.
キム・デジュン大統領は, かかる小淵総理大臣の歴史認識の表明を真剣に受け入れて
これを評価することと同時に, 両国が過去の不幸な歴史を越して仲直りと善隣友好協力に
基礎を置いた未来志向的な関係を発展させるためにお互いに努力するのが
時代の要請である主旨表明した.」[25]
●1998年 11月 26日 - 小淵恵三首相.
「双方は, 過去を直視して歴史を正しく認識するのが, 日中関係を発展させる重要な
基礎だと思う.日本側は, 1972年の日中共同声明(名前)及び
1995年 8月 15日の内閣総理大臣談話を守って, 過去の一時期の中国への侵略によって
中国国民に多大な災難と損害を与えた責任を痛感して, これに対して深い反省を表明した.
中国側は, 日本側が歴史の教訓で学んで, 平和発展の道を立て通すことを希望する.
双方は, この基礎の上に長い歳月にかける友好関係を発展させる.」[26]
2000年代
●2000年 8月 17日 - Yamazakiリュウイチロウ外務報道官.
「本紀社では, 日本が第2次大田中の行為に対して, 中国に対して一度もお詫びを
とない使われているものの, 実際では日本は戦争中の行為に対して繰り返しお詫びを表明して来ている.
特に, 1995年 8月に, 村山総理(当時 )が公式談話を発表して, 日本が 「植民地支配と侵略によって,
多くの国々, 特にアジア諸国の人々に対して莫大な損害と苦痛を与えました」と言って
「痛切な反省の意味」と「本気での謝りの気持ち」を表明して,
また, 1998年に, 小淵総理(当時 )が, 日本を公式訪問した江沢民主席に対して,
村山談話を再確認している.」[27]
●2000年 8月 30日 - コノ−ヨヘイ外務大臣.
「 私は, 歴史認識に対しては, 前後 50周年に閣議決定を経って足出た村山総理談話で
我が国の考えは明確だと思っています.
私も閣僚の一人としてこの談話の作成に携わったんですが,
これはその後の歴代内閣にも引き継ぎされて今多い日本人の常識であり,
共通の認識だと話せます.」[28]
●2001年 4月 3日 - FukudaYasuo内閣官房長官.
「付け加えて, 私たち国政部の歴史に関する基本認識に対しては, 前後 50周年のヘセイ 7年 8月 15日に
足出た内閣総理大臣談話にあるとおり, 我が国は, 遠くない過去の一時期,
植民地支配と侵略によって, 多くの国々,
特にアジア諸国の人々に対して莫大な損害と苦痛を与えた事実を謙虚に受け入れて
それに対して痛切な反省と本気での謝りの気持ちを表明すると言うのだ.
このような認識は, その後の歴代内閣に対しても引き継ぎされて来ていて現内閣に対しても,
が点に何らの変化はない.」[29]
●2001年 9月 8日 - Tanaka真紀子外務大臣.
「日本は, 前の大田に対して多い国の人々に対して多大な損害と苦痛を与えたことを
決して忘れてからはないです.多くの人々が貴重な生命を失うとか傷をつかれました.
また, 前戦争虜を含んだ多くの人々の間になぐさめにくい傷自国を残しています.
このような歴史の事実を謙虚に受け入れて 1995年の村山内閣総理大臣談話の痛切な
反省の意味及び本気での謝りの気持ちをここに再確認します.」 [30]
●2001年 10月 15日 - コイズミじゅんいちで受賞.
「日本の植民地支配によって韓国国民に多大な損害と苦痛を与えたことに本気での反省と
謝りの気持ちを持った.」[31]
●2001年 - コイズミじゅんいちで受賞.
「いわゆる従軍慰安婦問題は, 当時の郡の関与の下に, 多数の女性の名誉と尊厳を
深く損傷させた問題でした.私は, 日本の内閣総理大臣として再び,
いわゆる従軍慰安婦として多くの苦痛が経験されて
心身にかけてくれと言いにくい傷をつかれたすべての方々に対して,
心より謝りと反省の気持ちを申し上げます.
私たちは, 過去の量感からも未来への責任からも逃げることはできません.
我が国としては, 道義的な責任を痛感しながら, 謝りと反省の気持ちを根拠で日
過去の歴史を直視して, 正しくこれを後世に伝えることと同時に,
理由ない暴力など女性の名誉と尊厳に係わる多くの問題にも積極的に
臨海行かなければならないと思っています….」[32]
●2002年 9月 17日 - コイズミじゅんいちで受賞.
「日本側は, 過去の植民地支配によって, 朝鮮の人々に莫大な損害と苦痛を与えたと言う
歴史の事実を謙虚に受け入れて痛切な反省と本気での謝りの気持ちを表明した.」[33]
●2003年 8月 15日 - コイズミじゅんいちで受賞.
「また, 前の大田に対して, 我が国は, 多くの国々, 特にアジア諸国の人々に
大海莫大な損害と苦痛を与えました.国民を代表して, ここに深い反省の意味を新しくやって,
犠牲になった方々にご遠慮哀悼の意を現わします.」[34]
●2005年 4月 22日 - コイズミじゅんいちで受賞.
「我が国は, 早く植民地支配と侵略によって, 多くの国々,
特にアジア諸国の人々に対して莫大な損害と苦痛を与えました.
このような歴史の事実を謙虚に受け入れて痛切な反省と本気での謝りの気持ちを
いつも心に刻みながら, 我が国は第二次世界大戦後一貫して, 経済大国になっても
軍事対局にはだめで, どんな問題も,
無力にウィドングアンゴ平和的に解決するという立場を立て通しています.……」[35]
●2005年 8月 15日 - コイズミじゅんいちで受賞.
「また, 我が国は, 早く植民地支配と侵略によって, 多くの国々,
特にアジア諸国の人々に対して莫大な損害と苦痛を与えました.
このような歴史の事実を謙虚に受け入れて再び痛切な反省と本気での謝りの
気持ちを表明することと同時に, 前の大田における内外のすべての犠牲者に
ご遠慮哀悼の意を現わします.……
我が国の前後の歴史は, 確かに戦争への反省を行動で現わしたように見えた平和の 60年です.
…… 特に一衣帯水の間にある中国や韓国を始まりにするアジア諸国と言う(のは),
一緒に手を握ってこの地域の平和を維持して, 発展を目標にするのが必要だと思います.
過去を直視して, 歴史を正しく認識して, アジア諸国との相互理解と信頼に根拠した
未来志向の協力関係を構築して行きたいと思っています.」[36]
1970년대
●1972년 9월 29일 - 타나카 가쿠에이 총리대신.
「일본측은, 과거에 있어 일본이 전쟁을 통해서 중국 국민에게 중대한 손해를
주었던 것에 대한 책임을 통감해, 깊게 반성한다.
또, 일본측은, 중화 인민 공화국 정부가 제기한 「복교삼원칙」을 충분히 이해하는 입장에
서서 국교 정상화의 실현을 도모한다고 하는 견해를 재확인한다.
중국측은, 이것을 환영하는 것이다.」 [1]
1980년대
●1982년 8월 24일 - 스즈키 젠코 수상.
「과거의 전쟁을 통해서 중대한 손해를 준 책임을 깊게 통감하고 있다」
「 「침략」이라고 하는 비판도 있는 것은 인식할 필요가 있다」 [2]
●1982년 8월 26일 - 미야자와 키이치 내각 관방 장관.
「1, 일본 정부 및 일본국민은, 과거에 있고, 우리 나라의 행위가 한국·
중국을 포함한 아시아의 나라들의 국민에게 막대한 고통과 손해를 준 것을 깊게 자각해,
이러한 일을 두 번 다시는 안 된다는 반성과 결의 후에 서서
평화 국가로서의 길을 걸어 왔다.우리 나라는, 한국에 대해서는,
쇼와 40년의 한일 공동 공문서안에 대해 「과거의 관계는 유감스러워
깊게 반성하고 있다」라고의 인식을, 중국에 대해서는 일중공동성명에 대해
「과거에 있어 일본이 전쟁을 통해서 중국 국민에게 중대한 손해를 준 것의 책임을 통감해,
깊게 반성한다」라고의 인식을 말했지만, 이것도 전술의 우리 나라의 반성과 결의를 확인한 것이어,
현재에 있어도 이 인식에는 조금의 변화도 없다.
2, 이러한 한일 공동 공문서, 일중공동성명의 정신은 우리 나라의 학교 교육,
교과서의 검정에 임해도, 당연, 존중되어야 할 것이지만,
오늘, 한국, 중국등부터, 이러한 점에 관한 우리 국교과서의 기술에 대하고 비판이 전해지고 있다.
우리 나라로서는, 아시아의 근린 제국과의 우호, 친선을 진행시키는데 있어서 이러한 비판에 충분히 귀를 기울여
정부의 책임에 대해 시정한다.
3, 이 때문에, 향후의 교과서 검정에 즈음해서는, 교과용 도서 검정 조사 심의회의 의논을 거쳐
검정 기준을 고쳐 앞에서 본 취지가 충분히 실현되도록(듯이) 배려한다.
벌써 검정이 행해진 것에 대해서는, 향후 신속하게 같은 취지가 실현되도록(듯이) 조치하지만,
그것까지의 사이의 조치로서 문부대신이 소견을 분명히 하고, 전기2의 취지를 교육의 장소에 있어
충분히 반영 하게 하는 것으로 한다.
4, 우리 나라로서는, 앞으로도, 근린 국민과의 상호 이해의 촉진과 우호 협력의 발전에 노력해
아시아 나아가서는 세계의 평화와 안정에 기여해 나갈 생각이다.」[3]
●1984년 9월 6일 - 쇼와 천황.
「금세기의 한시기에 있고, 양국의 사이에 불행한 과거가 간직한 것은 정말로 유감스럽고,
다시 반복해져서는 안 된다고 생각합니다.」[4]
●1984년 9월 7일 - 나카소네 야스히로 수상.
「귀국 및 귀국민에게 다대한 곤란을 가져왔다」 「깊은 유감의 생각을 기억한다」[5]
1990년대
●1990년 4월 18일 - 나카야마 타로 외무 대신.
「자신의 의사로 이야기에, 당시의 일본 정부의 의사에 의해서 사할린에
강제 이주를 하게 해 취업 당한 분들이, 전쟁의 종결과 함께 한 때의 조국에 돌아가지 못하고 ,
그대로 현지에 머물러 살지 않을 수 없었다고 하는 하나의 이 비극은,
정말로 이 분들에 대해서 일본이라고 해도 진심으로 미안했다고 한다
기분을 가지고 있습니다.」[6]
●1990년 5월 24일 - 금상 천황.
「우리 나라에 의해 초래된 이 불행한 시기에, 귀국의 사람들이 맛봐진 괴로움을 생각해,
나는 애석의 생각을 금지할 수 없습니다.」[7]
●1990년 5월 25일 - 카이후 토시키 수상.
「 나는, 대통령 각하를 맞이한 이 기회에, 과거의 한시기,
한반도의 분들이 우리 나라의 행위에 의해 참기 어려운 괴로움과 슬픔이 체험되었던 것에 대해
겸허하게 반성해, 솔직하게 사과의 기분을 말씀 드리고 싶다고 생각합니다.」[8]
●1992년 1월 16일 - 미야자와 키이치 수상.
「우리 일본국민은, 우선 무엇보다도, 과거의 한시기, 귀국 국민이 우리 나라의 행위에 의해서
참기 어려운 괴로움과 슬픔이 체험된 사실을 상기해, 반성하는 기분을 망 없게
하지 않으면 안됩니다.
나는, 총리로서 재차 귀국 국민에 대해서 반성과 사과의 기분을
말씀 드리고 싶습니다.」[9]
●1992년 1월 17일 - 미야자와 키이치 수상.
「우리 나라와 귀국과의 관계로 잊어서는 안되는 것은, 수천년에 걸치는 교류 속에서,
역사상의 한시기에, 우리 나라가 가해자이며, 귀국이 그 피해자였다고 하는 사실입니다.
나는, 이전, 한반도의 분들이 우리 나라의 행위에 의해 참기 어려운 괴로움과 슬픔을
체험되었던 것에 대해서, 여기로 고치고, 진심으로의 반성의 뜻과 사과의 기분을 표명하겠습니다.
최근, 이른바 종군위안부의 문제가 다루어지고 있습니다만, 나는, 이러한 일은 실로
마음이 아픈 것이어, 정말로 미안하게 생각합니다.」[10]
●1992년 7월 6일 - 카토 코이치 내각 관방 장관.
「정부로서는, 국적, 출신지의 여하를 불문하고, 이른바 종군위안부로서 말에 힘써
어려운 신고를 핥을 수 있던 모든 분들에 대해, 재차 충심으로 사과와 반성의 기분을 말씀드리고 싶다.
또, 이러한 잘못을 결코 반복해서는 안 된다고 하는 깊은 반성과 결의아래에 서서,
평화 국가로서의 입장을 견지 하는 것과 동시에, 미가를 향해서 새로운 한일 관계 및
그 외의 아시아제국, 지역과의 관계를 구축할 수 있도록 노력해 가고 싶다.」[11]
●1993년 8월 4일 - 코노 요헤이 내각 관방 장관.
「어쨌든, 본건은, 당시의 군의 관여아래에, 다수의 여성의 명예와 존엄을
깊게 손상시킨 문제이다.정부는, 이 기회에, 재차, 그 출신지의 여하를 불문하고,
이른바 종군위안부로서 많은 고통이 경험되어 심신에 걸쳐 달래기 어려운 상처를 입어졌다
모든 분들에 대해 진심으로 사과와 반성의 기분을 말씀드린다.」
(위안부 관계조사결과 발표에 관한 코노 내각 관방 장관 담화.이른바 코노 담화)[12] [13]
●1993년 8월 23일 - 호소카와 모리히로 수상.
「그리고 48년을 거쳐 우리 나라는 지금 세계에서 유수한 번영과 평화를 향수하는 나라가 될 수 있었습니다.
그것은 앞의 대전으로의 고귀한 희생 위에 쌓아 올려진 것이어, 선배 세대의 여러분의
공적의 산물인 것을 결코 잊어서는 안된다고 생각합니다.
우리는 이 기회에 세계로 향해 과거의 역사에의 반성으로 새로운 결의를 명확하게 하는 것이
중요하다라고 생각합니다.우선은 이 장소를 빌리고, 과거의 우리 나라의 침략 행위나 식민지 지배등이
많은 사람들에게 참기 어려운 괴로움과 슬픔을 가져왔던 것에 재차 깊은 반성과
사과의 기분을 말씀 드린다」[14]
●1993년 9월 24일 - 호소카와 모리히로 수상.
「내가 침략전쟁, 침략 행위라고 하는 표현을 이용했던 것은, 과거의 우리 나라의 행위가 많은 사람들에게
참기 어려운 괴로움과 슬픔을 가져왔다는 동일한 인식을 솔직하게 말한 것이어서,
재차 깊은 반성과 사과의 기분을 표명한 것입니다.」[15]
●1994년 8월 31일 - 무라야마 도미이치 수상.
「우리 나라가 과거의 한시기에 저지른 행위는, 국민에게 많은 희생을 가져왔던 바로 직후가 아니고,
아시아의 근린 제국등의 사람들에게, 지금 더 달래기 어려운 상흔을 남기고 있습니다.
나는, 우리 나라의 침략 행위나 식민지 지배등이 많은 사람들에게 참기 어려운 괴로움과 슬픔을
가져왔던 것에 대해, 깊은 반성의 기분에 서서, 부전의 결의아래,
세계평화의 창조로 향하고 힘을 다해 가는 것이,
앞으로의 일본이 걸어야 할 진로이다고 생각합니다.
우리 나라는, 아시아의 근린 제국등과의 관계의 역사를 직시 하지 않으면 안됩니다.
일본국민과 근린 제국민이 손을 잡아 아시아·태평양의 미래를 열려면 , 서로의 아픔을 극복해
구축되는 상호 이해와 상호 신뢰라고 하는 부동의 토대가 불가결합니다…이른바 종군위안부 문제는,
여성의 명예와 존엄을 깊게 손상시킨 문제이며, 나는 이 기회에,
재차, 진심으로의 깊은 반성과 사과의 기분을 말씀드리고 싶습니다.
우리 나라로서는, 이러한 문제도 포함해 과거의 역사를 직시 해, 올바르게 이것을 후세에게 전하는 것과 동시에,
관계 제국등과의 상호 이해의 한층 더 증진에 노력하는 것이, 우리 나라의 사과와 반성의 기분을
나타내게 된다고 생각하고 있어 본계획은, 이러한 기분을 감안한 것입니다.」[16]
●1995년 6월 9일 - 중의원 결의.
「또, 세계의 근대사에 있어서의 수많은 식민지 지배나 침략 행위에 구상을 해,
우리 나라가 과거에 간 이러한 행위나 타국민 특히 아시아제국민에게 주었다
고통을 인식해, 깊은 반성의 뜻을 표명한다.」
(역사를 교훈으로 평화에의 결의를 새롭게 하는 결의.이른바 전후 50년 중의원 결의)[17]
●1995년 7월 - 무라야마 도미이치 수상.
「이른바 종군위안부의 문제도 그 하나입니다.이 문제는, 구일본군이 관여해 많은
여성의 명예와 존엄을 깊게 손상시킨 것이어, 도저히 용서되는 것이 아닙니다.
나는, 종군위안부로서 심신에 걸쳐 달래기 어려운 상처를 입어진 모든 분들에 대해서,
깊게 사과를 말씀드리고 싶습니다.」[18]
●1995년 8월 15일 - 무라야마 도미이치 수상.「우리 나라는, 멀지 않은 과거의 한시기, 국책을 잘못해,
전쟁에의 길을 걸어 국민을 존망의 위기에 빠뜨려 식민지 지배와 침략에 의해서, 많은 나라들,
특히 아시아제국의 사람들에 대해서 막대한 손해와 고통을 주었습니다.
나는, 미래에 잘못해 무로부터 사방으로 하기 때문에, 의심할 수도 없는 이 역사의 사실을 겸허하게 받아 들여
여기에 재차 통절한 반성의 뜻을 나타내, 진심으로의 사과의 기분을 표명하겠습니다.
또, 이 역사가 가져온 내외 모든 희생자에게 깊은 애도의 생각을 바칩니다.
패전의 날로부터 50주년을 맞이한 오늘, 우리 나라는, 깊은 반성에 서, 독선적인 내셔널리즘을 배제해,
책임 있는 국제사회의 일원으로서 국제 협조를 촉진해, 그것을 통해서, 평화의 이념과 민주주의를
널리 퍼뜨려 가지 않으면 안됩니다.
동시에, 우리 나라는, 유일한 피폭국으로서의 체험을 근거로 하고, 핵병기의 궁극의 폐절을 목표로 해,
불핵 확산 체제의 강화 등, 국제적인 군축을 적극적으로 추진해 가는 것이 중요합니다.
이것이야말로, 과거에 대한 따른데 실이든지, 희생이 되어진 분들의 영령을 진정시키는 근거가 되면,
나는 믿고 있습니다.」
(전후 50주년의 종전기념일 에 해당하는 무라야마 수상 담화.이른바 무라야마 담화)[19]
●1996년 6월 23일 - 하시모토 류타로 수상.
「예를 들면 창씨개명이라고 한 것.우리가 완전히 학교의 교육 중(안)에서는 알리가 없었던 것으로
있었고, 그러한 일이 얼마나 많은 나라의 분들의 마음을 손상시켰는가는
상상에 남음이 있는 것이 있습니다…
또, 지금, 종군위안부의 문제에 접할 수 있었습니다만, 나는 이 문제(정도)만큼 여성의 명예와
존엄을 손상시킨 문제는 없다고 생각합니다.
그리고, 진심으로 사과와 반성의 말을 말씀드리고 싶습니다.」[20]
●1996년 10월 8일 - 금상 천황.
「한시기, 우리 나라가 한반도의 사람들에게 큰 괴로움을 가져왔던 시대가 있었습니다.
그것에 대한 깊은 슬픔은, 항상, 나의 기억에 남길 수 있고 있습니다.」[21]
●1997년 8월 28일 - 하시모토 류타로 수상.
「 나는, 우리 나라가, 역사의 교훈을 배워, 확실히, 「전사를 잊지 않고, 후사의 훈계로 한다」
그렇다고 하는 시점이 넓게 국민중에 정착하고 있다고 확신하고 있습니다.
나 자신도 재작년 무라야마 전총리가 발표한 내각총리대신 담화, 즉 「식민지 지배와 침략에 의해서,
많은 나라들, 몫아시아제국의 사람들에 대해서 막대한 손해와 고통을 주어」
「역사의 사실을 겸허하게 받아 들여 여기로 고쳐 통절한 반성의 뜻을 나타내,]
진심으로의 사과의 기분을 표명」할 생각으로 같은 생각을 가지고 있습니다.
이 내각총리대신 담화를 결정했을 때, 나도 내각의 일원이셨습니다.
일본내의 일부에 중국측의 감정을 자극할 수도 있는 발언이 있었다고 해도, 일본이라고 하는 나라가 장래,
군사 대국이 되지 않고 평화 국가로서의 길을 계속 걸을 결의인 것은,
우리 일본인에 있어서는, 자명한 것이다고 생각합니다.
그렇지만, 스스로에 분명한 일이어도, 중국을 시작으로 하는 아시아제국에
불신이 태어나지 않는 듯한 노력은 해이해지지 않게 계속해 갈 필요가 있습니다.
작년이래, 우리 나라의 안전 보장의 근간인 일·미 안전 보장 체제에 대해서도,
중국측으로부터 여러가지 형태로 견해가 표명되고 있는 것입니다만, 이 문제도 역시 대화를
거듭하는 것으로, 중국측의 염려를 풀어 가는 노력이 불가결합니다 해,
현재 진행하고 있는 「지침」재검토의 작업도 계속해 투명성을 가지고 다녀 오고 싶으면
생각하고 있습니다.일·미 안보 공동선언에 대해 명확하게 기술되어 있도록,
일·미 양국은, 아시아 태평양 지역의 안정과 번영에 있어 중국이 긍정적이고 건설적인 역할을
완수하는 것이 지극히 중요하다라고 생각하고 있어
이 관련으로, 중국과의 협력을 더욱 깊게 해 가지 않으면 안됩니다」[22]
●1997년 9월 6일 - 하시모토 류타로 수상.
「일본 정부는, 제이차 세계대전 패전의 날로부터 50주년의 1995년,
내각총리대신 담화라고 하는 형태를 취해서, 우리 나라로서
과거의 일본의 행위가 중국을 포함한 많은 사람들에 대해,
참기 어려운 슬픔과 괴로움을 준, 이것에 대해서 깊은 반성의 기분 위에 서,
사과를 말씀드리면서, 평화를 위해서 힘을 다하려고의 결의를 발표했습니다.
나 자신이 그 담화의 작성에 관련된 각료의 한 사람입니다.
그리고 이것이 일본 정부의 정식적 태도인, 입장인 것을 반복해 말씀드리고 싶습니다.
그리고 이것은 수뇌 사이에 있어서의 논의속에서도, 중국 측에 나도 솔직하게 말씀드려
리붕 총리도 나의 발언에 완전하게 동의 하면, 그렇게 말해 받았습니다.」[23]
●1998년 7월 15일 - 하시모토 류타로 수상.
「우리 국정부는, 이른바 종군위안부 문제에 관해서, 도의적인 책임을 통감하고 있어,
국민적인 보상의 기분을 나타내기 위한 사업을 실시하고 있는 「여성을 위한 아시아 평화 국민 기금」이라고
협력하면서, 이 문제에 대해 성실에 대응해 오고 있습니다.
나는, 이른바 종군위안부 문제는, 당시의 군의 관여아래에 다수의 여성의 명예와 존엄을
깊게 손상시킨 문제라고 인식하고 있어, 많은 고통이 경험되어
심신에 걸쳐 달래기 어려운 상처를 입어진 모든 원위안부의 분들에 대해 진심으로의
사과와 반성의 기분을 안고 있는 것을 귀수상에 전해 싶습니다」
「우리는, 과거의 중량감으로부터도 미래에의 책임으로부터도 도망칠 수는 없습니다.
우리 나라로서는, 과거의 역사를 직시 해, 올바르게 이것을 후세에게 전하면서,
2000년에는 교류 400주년을 맞이하는 귀국과의 우호 관계를 더욱 증진 하는 것에 전력을
기울여 가고 싶습니다.」[24]
●1998년 10월 8일 - 오부치 케이조 수상.
「 양수뇌는, 한일 양국이 21 세기의 확고한 선린우호 협력 관계를 구축해 나가기 위해서는,
양국이 과거를 직시 해 상호 이해와 신뢰에 근거한 관계를 발전시켜 가는 것이
중요한 것에 대해 의견의 일치를 보았다.
오부치 총리대신은, 금세기의 한일 양국 관계를 회고 해, 우리 나라가 과거의 한시기 한국 국민에게
대해 식민지 지배에 의해 막대한 손해와 고통을 주었다고 하는 역사적 사실을 겸허하게 받아들여
이것에 대해, 통절한 반성과 진심으로의 사과를 말했다.
김대중 대통령은, 걸리는 오부치 총리대신의 역사 인식의 표명을 진지하게 받아들여
이것을 평가하는 것과 동시에, 양국이 과거의 불행한 역사를 넘어 화해와 선린우호 협력에
기초를 둔 미래 지향적인 관계를 발전시키기 위해서 서로 노력하는 것이
시대의 요청인 취지 표명했다.」[25]
●1998년 11월 26일 - 오부치 케이조 수상.
「쌍방은, 과거를 직시 해 역사를 올바르게 인식하는 것이, 일중 관계를 발전시키는 중요한
기초이다고 생각한다.일본측은, 1972년의 일중공동성명 및
1995년 8월 15일의 내각총리대신 담화를 준수해, 과거의 한시기의 중국에의 침략에 의해서
중국 국민에게 다대한 재난과 손해를 준 책임을 통감해, 이것에 대해 깊은 반성을 표명했다.
중국측은, 일본측이 역사의 교훈으로 배워, 평화 발전의 길을 견지 하는 것을 희망한다.
쌍방은, 이 기초 위에 긴 세월에 걸치는 우호 관계를 발전시킨다.」[26]
2000년대
●2000년 8월 17일 - 야마자키 류우이치로우 외무 보도관.
「본기사에서는, 일본이 제2차 대전중의 행위에 대해서, 중국에 대해서 한번도 사죄를
하고 있지 않다고 쓰여져 있지만, 실제로는 일본은 전쟁중의 행위에 대해 반복 사죄를 표명해 오고 있다.
특히, 1995년 8월에, 무라야마 총리(당시 )가 공식 담화를 발표해, 일본이 「식민지 지배와 침략에 의해서,
많은 나라들, 특히 아시아제국의 사람들에 대해서 막대한 손해와 고통을 주었습니다」라고 말해
「통절한 반성의 뜻」과「진심으로의 사과의 기분」을 표명해,
또, 1998년에, 오부치 총리(당시 )가, 일본을 공식 방문한 강택민 주석에 대해서,
무라야마 담화를 재확인하고 있다.」[27]
●2000년 8월 30일 - 코노 요헤이 외무 대신.
「 나는, 역사 인식에 대해서는, 전후 50주년에 각의 결정을 거쳐 발 나온 무라야마 총리 담화로
우리 나라의 생각은 뚜렷하다고 생각하고 있습니다.
나도 각료의 한 명으로서 이 담화의 작성에 종사했습니다만,
이것은 그 후의 역대 내각에도 인계되어 지금 많은 일본인의 상식이며,
공통의 인식이다고 말할 수 있습니다.」[28]
●2001년 4월 3일 - 후쿠다 야스오 내각 관방 장관.
「덧붙여서, 우리 국정부의 역사에 관한 기본 인식에 대해서는, 전후 50주년의 헤세이 7년 8월 15일에
발 나온 내각총리대신 담화에 있는 대로, 우리 나라는, 멀지 않은 과거의 한시기,
식민지 지배와 침략에 의해서, 많은 나라들,
특히 아시아제국의 사람들에 대해서 막대한 손해와 고통을 준 사실을 겸허하게 받아 들여
그것에 대해 통절한 반성과 진심으로의 사과의 기분을 표명한다고 하는 것이다.
이러한 인식은, 그 후의 역대 내각에 대해도 인계되어 오고 있어 현내각에 대해도,
이 점에 아무런 변화는 없다.」[29]
●2001년 9월 8일 - 타나카 마키코 외무 대신.
「일본은, 앞의 대전에 대해 많은 나라의 사람들에 대해서 다대한 손해와 고통을 준 것을
결코 잊고는 있지 않습니다.많은 사람들이 귀중한 생명을 잃거나 상처를 입어졌습니다.
또, 전 전쟁 포로를 포함한 많은 사람들의 사이에 달래기 어려운 상처 자국을 남기고 있습니다.
이러한 역사의 사실을 겸허하게 받아 들여 1995년의 무라야마 내각총리대신 담화의 통절한
반성의 뜻 및 진심으로의 사과의 기분을 여기에 재확인하겠습니다.」 [30]
●2001년 10월 15일 - 코이즈미 쥰이치로 수상.
「일본의 식민지 지배에 의해 한국 국민에게 다대한 손해와 고통을 주었던 것에 진심으로의 반성과
사과의 기분을 가졌다.」[31]
●2001년 - 코이즈미 쥰이치로 수상.
「이른바 종군위안부 문제는, 당시의 군의 관여아래에, 다수의 여성의 명예와 존엄을
깊게 손상시킨 문제였습니다.나는, 일본의 내각총리대신으로서 재차,
이른바 종군위안부로서 많은 고통이 경험되어
심신에 걸쳐 달래기 어려운 상처를 입어진 모든 분들에 대해,
진심으로 사과와 반성의 기분을 말씀드립니다.
우리는, 과거의 중량감으로부터도 미래에의 책임으로부터도 도망칠 수는 없습니다.
우리 나라로서는, 도의적인 책임을 통감하면서, 사과와 반성의 기분을 근거로 해
과거의 역사를 직시 해, 올바르게 이것을 후세에게 전하는 것과 동시에,
이유없는 폭력 등 여성의 명예와 존엄하게 관련되는 여러 문제에도 적극적으로
임해 가지 않으면 안 된다고 생각하고 있습니다….」[32]
●2002년 9월 17일 - 코이즈미 쥰이치로 수상.
「일본측은, 과거의 식민지 지배에 의해서, 조선의 사람들에게 막대한 손해와 고통을 주었다고 한다
역사의 사실을 겸허하게 받아 들여 통절한 반성과 진심으로의 사과의 기분을 표명했다.」[33]
●2003년 8월 15일 - 코이즈미 쥰이치로 수상.
「또, 앞의 대전에 대하고, 우리 나라는, 많은 나라들, 특히 아시아제국의 사람들에게
대해 막대한 손해와 고통을 주었습니다.국민을 대표하고, 여기에 깊은 반성의 뜻을 새롭게 해,
희생이 된 분들에게 삼가 애도의 뜻을 나타냅니다.」[34]
●2005년 4월 22일 - 코이즈미 쥰이치로 수상.
「우리 나라는, 일찌기 식민지 지배와 침략에 의해서, 많은 나라들,
특히 아시아제국의 사람들에 대해서 막대한 손해와 고통을 주었습니다.
이러한 역사의 사실을 겸허하게 받아들여 통절한 반성과 진심으로의 사과의 기분을
항상 마음에 새기면서, 우리 나라는 제이차 세계대전 후 일관해서, 경제대국이 되어도
군사 대국에는 안되어, 어떠한 문제도,
무력에 의등않고 평화적으로 해결한다라는 입장을 견지 하고 있습니다.……」[35]
●2005년 8월 15일 - 코이즈미 쥰이치로 수상.
「또, 우리 나라는, 일찌기 식민지 지배와 침략에 의해서, 많은 나라들,
특히 아시아제국의 사람들에 대해서 막대한 손해와 고통을 주었습니다.
이러한 역사의 사실을 겸허하게 받아 들여 재차 통절한 반성과 진심으로의 사과의
기분을 표명하는 것과 동시에, 앞의 대전에 있어서의 내외의 모든 희생자에게
삼가 애도의 뜻을 나타냅니다.……
우리 나라의 전후의 역사는, 확실히 전쟁에의 반성을 행동으로 나타내 보인 평화의 60년입니다.
…… 특히 일의대수의 사이에 있는 중국이나 한국을 시작으로 하는 아시아제국이란,
함께 손을 잡아 이 지역의 평화를 유지해, 발전을 목표로 하는 것이 필요하다고 생각합니다.
과거를 직시 하고, 역사를 올바르게 인식해, 아시아제국과의 상호 이해와 신뢰에 근거했다
미래 지향의 협력 관계를 구축해 나가고 싶다고 생각하고 있습니다.」[36]