「不信」というものは何なのでしょう。
どんな場合に生まれるものでしょうか?
最初から相手を信じようともしなかったところには
「不信」など生じるわけないでしょうね。
愚直なまでに相手を信じようとしていた者たちのみが
味わう傷ましい思いです。
みなさんは、
初めて味わった「不信」の味を
「不信」とは...。
「不信」というものは何なのでしょう。 どんな場合に生まれるものでしょうか? 最初から相手を信じようともしなかったところには 「不信」など生じるわけないでしょうね。 愚直なまでに相手を信じようとしていた者たちのみが 味わう傷ましい思いです。 みなさんは、 初めて味わった「不信」の味を覚えていますか。 その辛い思いを覚えていますか。 では、二度目の「不信」はいかがなものでしたか。 おそらく初めてのそれよりはかなり凝結した味だったでしょうね。 やはり難しいものです。 人と人との関係がそうであるように 国と国とのそれも難しいようです。 こんなに難しくも傷ましくもさせているのは 果たして何なのでしょうね。 「不信」に傷つけられる者たちは、 ひょっとすれば隠そうとしたそのものよりも、隠そうとしたそのこころに 傷つけられるのではとふと思いました。 こんどまた味わうことになるかもしれない、 三度目の痛みは、初めてや二度目の痛みより、 うんと堪えられやすいものになるでしょう。 と思う自分のことが恐ろしく思えてなりません。