일본
1.AD 100年
한반도에 삼국이 정립(鼎立)했을 때 일본열도는 야요이(彌生)시대였다.
한반도로부터 이나사쿠(稻作), 즉 벼농사 재배기술이 일본에 전래되기 전까지는 그들은 산야초(山野草)나 열매를 먹고 살았으며, 직포문화(織布文化)가 전래되기 전에는 옷마저 변변치 못했고 이엉으로 이은 띳집에서 살았으니 그때가 바로 야요이 시대의 말기인 AD100년 경이었다.
2.AD 300年
1).일본의 古事記란 책을 보면 百濟照古王이 옷감을 짜는 吳服師로 西素라는 사람을 보냈다는 기록이 있다.(照古王=근초고왕)
2).그리고 403년(應神 14年) 백제왕이 縫衣工女 眞毛津(まけつ)을 일본에 보내어 옷 만드는 것을 가르쳤다고 기록되어 있다.
3).倭王도 百濟 옷을 입었다고 기록되어 있다.
3.AD 500年代
일본의 “부상략기”(扶桑略記, 13세기경의 왕조 불교사)
나라의 아스카 지역에서 법흥사(法興寺)라는 일본 최초의 큰 절을 지은 것은 서기 596년의 일이다.
법흥사(法興寺)를 착공한지 5년 만에 부처님의 사리탑이 세워질 때 日本 왕실의 장관들이며 고관 대작들 모두가 百濟 옷(衣服)을 입고 봉안식을 도열했다는 사실이 일본의 古代 역사책인 “扶桑略記”에 기록되어 있다.
4.AD 600年代
일본왕 쇼토쿠의 초가집이 있던 장소
한반도(신라)
日本と韓半島
1.AD 100年
韓半島に三国が定立(鼎立)した時日本列島は彌生(彌生)時代だった.
韓半島から李ねじ区(稲作), すなわち稲作栽培技術が日本に伝来される前までは彼らは山野初(山野草)や実を暮らしたし, 織布文化(織布文化)が伝来される前には服さえ碌でなかったしイオングで引き継いだティッジブで暮したからあの時がすぐ彌生時代の末期の AD100年頃だった.
2.AD 300年
1).日本の 古事記と言う(のは)本を見れば 百済照古王が布を組む 呉服師で 西素という人を送ったという記録がある.(照古王=近肖古王)
2).そして 403年(応神 14年) 百済王が 縫衣工女 真毛津(まけつ)を日本に送って服作ることを教えたと記録されている.
3).倭王も 百済 服を着たと記録されている.
3.AD 500年代
日本の ¥"ブサングリャックギ¥"(扶桑略記, 13世紀頃の王朝仏教社)
国の飛鳥地域で法興寺(法興寺)という日本最初の丁寧なお寺を作ったことは西紀 596年の事だ.
法興寺(法興寺)を着工してから 5年ぶりに仏様の舍利塔が建てられる時 日本 王室の長官たちや高官大作たち皆が 百済 服(衣服)を着て奉安式を堵列したという事実が日本の 古代 歴史書である ¥"扶桑略記¥"に記録されている.
4.AD 600年代
日本
1.AD 100年
韓半島に三国が定立(鼎立)した時日本列島は彌生(彌生)時代だった.
韓半島から李ねじ区(稲作), すなわち稲作栽培技術が日本に伝来される前までは彼らは山野初(山野草)や実を暮らしたし, 織布文化(織布文化)が伝来される前には服さえ碌でなかったしイオングで引き継いだティッジブで暮したからあの時がすぐ彌生時代の末期の AD100年頃だった.
2.AD 300年
1).日本の 古事記と言う(のは)本を見れば 百済照古王が布を組む 呉服師で 西素という人を送ったという記録がある.(照古王=近肖古王)
2).そして 403年(応神 14年) 百済王が 縫衣工女 真毛津(まけつ)を日本に送って服作ることを教えたと記録されている.
3).倭王も 百済 服を着たと記録されている.
3.AD 500年代
日本の ¥"ブサングリャックギ¥"(扶桑略記, 13世紀頃の王朝仏教社)
国の飛鳥地域で法興寺(法興寺)という日本最初の丁寧なお寺を作ったことは西紀 596年の事だ.
法興寺(法興寺)を着工してから 5年ぶりに仏様の舍利塔が建てられる時 日本 王室の長官たちや高官大作たち皆が 百済 服(衣服)を着て奉安式を堵列したという事実が日本の 古代 歴史書である ¥"扶桑略記¥"に記録されている.
4.AD 600年代
天皇陛下ショトクの わらぶきがあった場所
韓半島(新羅)