近代国家ではこうした密告制度が現存している国は少ないが、
大韓民国の国家保安法では、密告が義務付けられている
(誣告が確認された場合は密告者が処罰される)。
軍事政権時代、ゼミの学生から、反政府運動の計画を打ち明けられ、
密告しなければ自分が罪に問われると苦悩した
大学教授の逸話が残されている。
国家保安法は、1948年12月の制定以降に幾度か改訂が為されたが、
1958年12月24日の改訂で現行法規に類似した法体制となった。
四月革命直後に「悪法」として一旦は廃止されたが、
1960年6月に法内容を大幅に修正・緩和された状態で再び制定された。
5・16軍事クーデター後の1961年7月、反共法の制定にともない、
国家保安法も再び修正・緩和された。
大部分の事例では反共法が先ず適用されたが、
1970年代(第四共和国)には韓国政府を批判する行為が
「利敵行為」と見なされたことから、政治犯罪事件で同法が濫用された。
現行の国家保安法は、
非常戒厳令拡大措置によって国会が解散状態にあった1980年12月、
全斗煥政権が設立した国家保衛立法会議を通過したことで制定された。
この改訂で、国家保安法に反共法が統合され、
新たに北朝鮮との往来も処罰対象になった。
また、反国家団体を称賛・鼓舞する行為や
国家保安法違反行為に対する不告知罪などで
法の拡大解釈の余地が広がった。
そのため、第五共和国体制下において、
政治権力が批判勢力を弾圧するための道具として、
同法がたびたび活用される事態が生じた。
1988年に盧泰愚政権が発足すると、
同年に南北朝鮮の交流を促す「7・7宣言」が発表¥され、
更に1990年には「南北交流協力に関する法律」の公布で
韓国政府の承認下における北朝鮮との往来が可能¥になったことから、
国家保安法はその存在意味に疑問を提起されようになった。
そのため、1990年代の民主化過程において、
国家保安法は思想・言論の自由を縛る法律と見なされ、
法改訂や廃棄を要求する主張が提起され続けた。
しかし、保守勢力が法改正に対し強硬に反対してきたことから、
大幅な法修正や廃棄が為されることなく今日に至った。
このような90年代の流れを受け、革新系たる盧武鉉政権は、
人権抑圧の温床になった国家保安法を撤廃し、
刑法の内乱罪と外患罪に統合を目指した。
これに対し、不告知行為の取締りが困難になるとして、
保守系野党・ハンナラ党は同法の存続を求めた。
憲法裁判所と大法院も合憲判決を下しており、
そのうち大法院の判決文では同法の必要性が説かれている。
また、国民を対象にした世論調査[3]でも、廃止は少数派である。
2007年12月の大統領選挙で李明博が当選、
ハンナラ党が政権を奪還し、翌年4月の総選挙で、
国家保安法廃止に賛成する議員が多かった
ウリ党の流れを受け継ぐ統合民主党や、
左派系の民主労働党がいずれも議席を減らし、
ハンナラ党を中心とする保守・中道保守勢力が国会の多数を占めたことで、
国会内でも保安法廃止は少数派となった。