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チェ・ヨンス

2001年から05年までジェフ千葉、京都サンガ、ジュビロ磐田でプレー。

 

−さて、チェ・ヨンスにとって日本はどのような日々でしたか?


「日本と聞いて真っ先に僕が思うことは、そのクラブ運営。選手たちが試合に臨むためのシステムがしっかり備わっていることだね。韓国人の僕からすると、とてもうらやましく思えたよ。僕自身も毎日、チームメイトと楽しく過ごせたし、『ああ、こんなに楽しい雰囲気で毎日が過ごせるんだな』と感じていたね。韓国では常にいろんなプレッシャーがあったりするから、雰囲気作りがどちらかというと難しい部分がある。逆に日本は自然な雰囲気のなかで、選手たちがそれぞれの主張や主観をしっかり表¥現しているよね。選手とスタッフの雰囲気もとてもいいし、そんな環境が試合に表¥れているんだなと感じたよ。ジュニアユースの練習や試合も見たけれど、本当に楽しんでサッカーをしているよね」

―¥日本の食べ物で懐かしいものはありますか?


「やっぱり焼肉だよ。韓国とは味が違うけど、これがおいしんだ。カルビやホルモン、なんでも好きだよ。あとはお店の雰囲気もいいだろ? 韓国とは違った雰囲気があってとても新鮮だった」

−ジュビロ磐田での選手生活でどのような思い出がありますか?


「ジュビロは選手個々人の能¥力が高かったのが印象的だね。チームには伝統的な強さがあったし、名門チームという雰囲気があったよ」

−当時は中山雅史選手とも練習しながらたくさん刺激をもらったと思うのですが?
「本当に一つひとつの試合、一日一日の練習を大切にしていたし、体のコンディションにも人一倍気を使っていた選手だった。まさしくこれこそプロの姿なんだと感じたよ。彼を慕っている選手もたくさんいたし、チームには彼のような中心的役割を果たす選手が必要だと改めて実感したね」

−Jリーグをたくさん見ているようですね。今でも関心があるようですが。


「Jリーグの試合結果はホームページを開いて見ているよ。日本にいるときはとても楽しい日々で、いい思い出がたくさんあるからね。僕の人生において、確実にいい時期だった。色々な人たちに出会えたし、韓国にいるときのように、ファンたちからもたくさん応援をしてもらったよ。忘れるにも忘れられないことばかりだ」

―¥ジェフ時代はオシム監督、ジュビロ時代は山本昌邦監督、韓国代表¥のときはヒディンク監督など、たくさんの外国人監督の下でプレーしてきました。現在はFCソ¥ウルで元トルコ代表¥監督のセノール・ギュネスとともにチームを指導していますが、その中でも特に影響を受けた監督は?

 

僕が接した指導者の中で一番の指導者は誰かと問われれば、オシム監督だね。オシム監督は一見すると怖くて厳しく、選手たちをよく走らせる監督だった。言い回しも独特で、ときにそれが嫌味っぽく聞こえてムカつくときもあったが、実は見えないところで選手を配慮し、真に選手のことを考えてくれる監督だった。まるでアボジ(父親)のような温かさと懐の深さがある。あの優しさとチームのすべてを的確に把握して正しき方向に導いていくカリスマ性は、指導者として絶対必要な要素だと思う

 

コ・ジョンウン

1997年、セレッソ¥大阪でプレー。

 

―¥―¥実際にJリーグでプレーしながら驚いたことや感じたことは何ですか?


「クラブのフロント運営や体系がしっかりしていると感じましたね。マスコミのインタビュー対応もきっちりしていましたよね。韓国ではクラブを通さずに、記者がダイレクトで選手の携帯電話を鳴らしてくる。当時の韓国の記者たちは、監督よりも選手の電話番号をたくさん知っていましたよ。それほどまで選手とメディアの関係が近く、プライバシーもなかった。しかし。日本ではそういう部分がしっかりしていて、インタビュースケジュールを広報がしっかり管理してくれました。選手に電話して話しを聞くなんてことはなく、そのギャップに驚きました。グラウンドに行けば、記者が30分前には広報の職員と待っているし、インタビュー時間も決まった時間にしっかり終わる。それが選手への基本的な礼儀なのだと学びました。クラブ運営、選手管理の面では本当に日本に学ぶべき部分が多かった。当時のKリーグはそのような運営がなされていませんでしたから、うらやましく思いましたね。ただ、そうしたサッカーに専念できる環境が整っているにもかかわらず、一部の選手たちのプロ意識の低さにも驚かされました。プロなのに、食べるものやコンディション管理の方法がずさんで、試合に勝とうが負けようが、何の変化もないわけです。私は試合に負けてとても悔しいのに、周りの一部の選手たちはケロッとした表¥情をしている。勝敗に対して、淡白だなと思いました。もちろん、今はだいぶ改善されたのでしょうけどね」

―¥―¥今でもJリーグは見ますか?


「見ます。もっとも関心があるのが浦和レッズです。レッズはその強さもさることながら、熱狂的なサポーターも素晴らしい。レッズの試合はブラウン管で見ていると、Jリーグのような感じがしません。まるでヨーロッパのトップクラブの試合を見ているような錯覚さえ感じるほどです」

―¥―¥テレビでJリーグを見ながら何を感じますか? よくなったとか発展しているとか感じますか?


「着実に発展しているように感じますが、リーグ全体の華やかという点では発足当時のほうがあったとのではないかという思いもあります。当時は有名な外国人選手が各チームにいて、盛り上がっていましたからね」


―¥―¥セレッソ¥大阪在籍時代、に一番仲の良かった選手は誰ですか?


「森島寛晃と米倉誠の2人ですね。よく私に訪ねてきて、あれこれ聞いてきました。森島と米倉のいいところは、自分たちが学ばなければならない部分が少しでもあると思えば、何度も来てアドバイスをもらおうというところ。彼らの姿勢にとても好感が持てました。周りの選手たちが学ぶべき姿勢でしたね」

―¥―¥今でもセレッソ¥大阪の関係者たちに会ったり、連絡したりする人はいますか?


「米倉がたまに韓国に来るんですよ。そんなときは連絡を取り合って会いますね。Jリーグチェアマンの鬼武健二さんとも、以前、久々にお会いしました。鬼武さんは私がセレッソ¥に在籍した当時は、クラブ社長でとてもお世話になりましたね」

―¥―¥セレッソ¥大阪のファンはどうでしたか?


「勝てばたくさん熱狂的なファンがたくさんスタジアムに来てくれましたが、成績が悪ければやっぱり少なかったです。大阪の長居陸上競技場は大きなスタジアムですから、人がいないとガランとした感じがしますよね。大阪は阪神タイガースの影響で野球人気が強いと聞かされていましたが、それでも一生懸命に応援してくれたサポーターたちの熱意は、今も忘れられません」

―¥―¥そのほか、セレッソ¥大阪の選手たちとの交流で忘れられないエピソ¥ードなどはありますか?


「韓国の飲食店にたくさん行ったことですかね(笑)。特に焼肉屋にたくさん行った記憶があります」

―¥―¥そんなときはコ・ジョンウンコーチがご馳走してあげるんですよね?


「そうでしたね。日本では割り勘文化がありますけど、私が一番年上でしたし、高給取りでしたからね(笑)」

―¥―¥実際に生活してみて大阪はどうでしたか?


「とても楽しかったです。在日の方々も多いし、大阪人の気質が韓国人に似ていて親近感がわきましたよ。私も家族たちもすぐに慣れましたし、特においしい食べ物がたくさんあっていい街ですよね」

―¥―¥何が気に入りましたか? お好み焼きとか?


「お好み焼きやたこ焼きとかもそうですが、とにかく全部口に合いましたよ。納豆も体に良いと聞いて、毎日食べました。大阪人はあまり納豆を食べないと聞きましたが、私の口には合っていましたね。今でも韓国の御寿司屋に行くと、かならず納豆巻きを注文します。私の妻も日本が好きで、今でも年に2回は行っていますよ」

―¥―¥日本の生活で一番懐かしいのはなんでしょうか?


「やっぱり食べ物にいい思い出があります。寿司も好きですね。難波にもよく行っていました。やっぱり大阪が食べ物は一番おいしい場所だと思いますよ」

キム・ナミル 

2008年からヴィッセル神戸でプレー。

 

―¥―¥Jリーグにやって来て数ヶ月が経ちましたが、神戸での生活にも慣れましたか?


「ええ。とても気に入っていますよ。神戸は港があって海も近く、まるで僕が生まれ育った仁川(インチョン)にいるような錯覚を覚えるほど、居心地がよいですね。街並みもきれいで洗練されていて、特に交通システムが非常によく整備されていることに驚きました。交通渋滞もあまりないし、車のクラクションをむやみに鳴り散らかす人もいないので、とても静かで落ち着きます。そして、食べ物も美味しい。有名な神戸牛はもちろん、お寿司にすき焼きなど、何でも美味しいですよ。ラーメンも食べましたし、お好み焼きでしたっけ? あれも美味しかったですね。納豆ですか? 韓国時代から食べていたので、もちろん、こっちでも食べています」

―¥―¥チームメイトとの関係はどうでしょう?


「とてもいい関係が築けていると思いますね。監督やコーチングスタッフともうまくいっています。神戸に来てまだ日が浅いにもかかわらず、そうした関係を築けたのはパク・カンジョ選手のおかげでもあると思います。カンジョはホントにスバラシイ(日本語で)。彼の存在は、本当にとてつもなく大きいです。彼とはシドニー五輪代表¥時代にも一緒にプレーした仲ですが、言葉も通じるし、いろいろと親身になって助けてくれます。だから彼にはいつも言うんですよ。“お前が神戸にいるからオレはここに来たんだ”と。それが決して冗談ではないほど、僕にとっては彼がいるといないとでは、大きな違いがあったと思います」

―¥―¥チームメイトはキム・ナミル選手のことを“ヒョン(兄)”と呼ぶとか?


「僕の名前は日本の人たちには発音しづらいし、神戸には若い選手が多いですよね。それで入団したばかりの頃になんと呼べばいいと聞かれてので、“ヒョン”と呼んでくれればいいと言ったんです。韓国では年下の者が年上の者に対して親しみを込めて、“ヒョン”と気軽に呼び合うのでそうお願いしたのですが、何かの伝達ミスか説明不足なのか、おかしいことに松田監督まで僕のことを“ヒョン”と呼ぶんですよ(苦笑)。これにはちょっぴり参りました(笑)」

―¥―¥いずれにしてもチームの雰囲気に溶け込んでいることは間違いなさそうですね。


「チームメイトたちとよく食事にも出かけます。こっちに来て驚いたことのひとつが、チームメイトの誕生日を祝う食事会や集まりが多いこと。ただ、そういう交流の場があるおかげもあって、選手たちと早いうちに近い関係になれていると思います」

―¥―¥サポーターとの関係も良いと聞きました。練習後にはサインをしたり、記念撮影をしたり。韓国では寡黙でクールで、ともすれば近寄りがたいイメージのキム・ナミル選手でしたが、神戸に来て何か心境の変化でも?


「確かに、韓国時代はファンサービスに消極的でしたし、こうした個別インタビューもあまり受けなかったのは事実です。人前に出て何かするのが苦手なんですよ。そんなこともあって、神戸に来たばかりの頃は練習が終わっても隠れたり、そそくさとロッカールームに戻ったりしていたのですが、Jリーグではファンサービスも選手の義務と教わりましたし、喜んでくださるファンの姿を見ていると不思議と自分も気分が良くなります」

―¥―¥そうした変化は自らの意志によるもの?もしくは環境によるものでしょうか?


「両方ですね。僕自身も変わろうとしていますし、周りの人々の対応が僕を変えている部分もあります。とにかく、僕自身としては韓国時代よりもソ¥フトになろうと意識しています。新しい環境に適応せねばならないし、そのためには何よりもまず、チームメイトたちと親密な関係になる必要がある。普段の関係がピッチ上でも影響しますからね。だからこそ、自分からチームメイトたちの輪に加わろうと意識していますが、周囲の対応が僕を変えたさせている部分もあります。神戸のチームメイトやフロント・スタッフ、さらにはサポーターなど、周囲の人々がとても親切でやさしくしてくれるので、僕もそれに応えたいというか……・。いずれにもしても、自分自身も変わらなきゃと思っていましたし、周囲の人々が僕の変化を促してくれているのは確かでしょうね」

―¥―¥神戸のクラブ関係者やサポーターたちが寄せる期待は大きいですが、それがプレッシャーになったりはしませんか?


「松田監督もフロント・スタッフも皆、 “神戸は若い選手が多いからキミがグイグイと引っ張ってくれ”とおっしゃいます。“韓国代表¥でやっているように強いリーダーシップを発揮してほしい。韓国代表¥と同じように振舞ってもかまわない”と。ただ、僕からするといきなり“リーダー”のように振舞えませんよ(苦笑)。あくまでも神戸では新入りなわけですから、まずは選手たちと親しくならなければならいし、そのためには時間が必要。だから“まずはじっくり信頼関係を築いていきたい”というと、“遠慮することはない。ドンドン自分の色を出せ!”とハッパをかけられる。そのたびに僕に対する期待を感じますが、少しプレッシャーでもありますね(苦笑)」

―¥―¥それでもキム・ナミル選手のリーダーシップには期待せずにはいられません。Jリーグのデビュー戦ではいきなり、キャプテンも務めました。


「あのときは本来のキャプテンである大久保が欠場したので僕がその代理を務めただけですが、正直言って驚きました。ロッカールームに行くと、ユニホームと一緒にキャプテンマークがあるんですよ。キャプテンマークを付けるとそれだけ責任も大きくなるので、僕としてはしたくなかったのですが、松田監督から“命令だ!”と言われて(苦笑)。いずれにしても、コミュニケーションもまだ十¥分ではないだけに当分はキャプテンマークを付けることはないでしょう(笑)。キャプテンは大久保にお任せします」

―¥―¥大久保選手についての印象は?
「一言で言えば、正真正銘の点取り屋。ディフェンスに囲まれその行く手を阻まれても、ひたらす前に飛び出そうとするブルドーザーのような力強さと野生馬のような鋭さがある。ゴールを逃すと心の底から悔しがるほど、得点への執着心も強い。頼もしい存在です」

 

 

 

 

キム・ジンギュ

2005〜06年の2年間、Jリーグのジュビロ磐田でプレー。

 

―¥―¥キム・ジンギュ選手が日本に渡ってきたときは、まだ20歳と若かったですね。日本での2年間はどのような日々でしたか?


「自分が今までサッカーをしてきたなかで、一番いい時期が日本での2年間でしたね。たくさんのことを学びましたし、言葉ではすべてをいい表¥せないほど良いこともたくさんあった。例えばJリーグでプレーしている間に韓国代表¥に呼ばれ、ドイツ・ワールドカップ・にも出場でき、そこで自分のプレーに対する手応えみたいなものも得ることができましたから」

―¥―¥2003、2004年に全南でプレーしたあとジュビロ磐田に移籍しましたが、日本に行こうと決心した理由やきっかけは?


「僕は高校時代からプロでプレーすることを決めていました。プロ選手になる目標を持って練習に励んでいたのですが、ある日、Jリーグの試合を見る機会があって、そのときに『自分はJリーグに行かなきゃダメだ。Jリーグでプレーしてみたい』って思ったんですよ。実は高校のときに日本に行くチャンスがあったのですが実現せず、そのまま全南ドラゴンズに入団しました。全南でプレーしている間に、ジュビロ磐田の山本昌邦監督から必要だと声がかかったんです」

―¥―¥ジュビロは当時から名門クラブでしたが、若い時期から海外でプレーするという不安や心配はなかったですか?


「そういう心配はなかったですね。不安も怖れることもなかった。海外合宿に行くような気持ちでいましたから(笑)。でも、実際にチームに入るとそんな気持ちはなくなりましたね。というのも、韓国と日本は文化が似ているようで、似てない部分もありましたから」

―¥―¥どのような部分で文化の違いを感じましたか?


「韓国の選手の場合はすぐに親しく接してくれますが、日本の選手の場合は、最初はよそよそしく迎えられるというか。少し距離を感じましたね。そういう部分でチームに溶け込むのは難しいなと感じましたが、当時はジュビロにチェ・ヨンス先輩もいたので、色々と助けてもらいました。もちろん自分からも日本の選手たちに積極的に近づいていって、特に若い選手たちとは一緒に食事したり、風呂も入ったり、そうすることでみんなが心を開いてくれましたね」

―¥―¥仲が良かったの選手はやはり、歳が近かったカレン・ロバートですか?


「そうですね。特にカレン、キクチ(菊池直哉)、ケンヤ(松井謙弥)、ケイスケ(船谷圭¥祐)たちとは仲が良かったですよ。よく一緒に食事してコミュニケーションを取っていました。逆にコウタ(上田康太)とかは僕よりも歳下だったので、よく呼びつけて食事をご馳走してあげました(笑)」

―¥―¥キム・ジンギュ選手はFKを蹴るときの姿に強烈なインパクトがあって、それがJリーグでとても有名です。FKを蹴るために影響を受けた選手や教えてもらった選手はいますか?当時はFKの名手の名波浩選手もいましたが。


「名波さんからは本当に、いろいろなことを学びましたね。実際に教えてもくれたし。名波さんって口数が少ないじゃないですか。それでも僕のFKの技術に関しては一言言わずにはいられなかったんでしょうね。僕のFKを静かに見つめたあとで、丁寧に教えてくれたんです。“むやみに強く蹴ればいいってもんじゃない”って。それと、僕はいつも6、7歩の助走からFKを蹴っていたんですが、名波さんが“お前は3歩の助走から蹴ればいい”とアドバイスをしてくれて、練習にも付き合ってくれました。ただ、残念なのはそこまで練習したにもかかわらず、試合ではFKを一本も決められなかったんです。惜しいシュートばかりでしたね。もう少しでゴールっていうFKが本当に多かった(苦笑)。悔しかったし、今思うと教えてくれた名波さんには申¥し分けない気持ちです。ちなみに最近では、FCソ¥ウルでもFKをなかなか蹴らせてもらえません(苦笑)」

―¥―¥そのほかに影響を受けた選手や印象に残っている選手はいますか?


「ジュビロに行って初めて福西崇史という存在を知りましたが、僕は昔も今も福西さんがアジア最高のMFだと思っています。中村俊輔選手も素晴らしい選手ですが、福西さんは彼以上だと思いますよ。パスワーク、展開力、攻守のバランス感覚など、僕は“どうしてこんなにうまい選手が日本でプレーしているんだ?もっとレベルの高い場所やチームにいるべきなのに”って思っていましたし、それを通訳さんにも何度も言ったんですが……。福西さん、まだ日本にいるんでしょ? 僕が言うのも生意気かもしれませんが、福西さんは絶対、ヨーロッパでも成功できると思いますよ」

 

―¥―¥最近のJリーグに関するニュースはたくさん見られますか?


「Jリーグに関しては韓国でも興味深く見ています。インターネットのニュースサイトでもJリーグのことがよく報じられますし、韓国にはJリーグ愛好者たちが集まるファンサイトみたいなものも、たくさんありますからね。そういうところから情報を得ていますね」

―¥―¥日本の食べ物や文化で印象深いものはありますか?昔は納豆が好きだといっていましたが、今でも食べますか?


「ジュビロ時代は一日に一度はかならず納豆を食べましたね。もちろん、今でも食べますよ。毎日ではありませんけど。あとはラーメンですね。家の前にラーメン屋があったのですが、そこでよく食べていましたね。寿司も好きですね」


ハ・ソ¥ッチュ

98年から2000年までヴィッセル神戸でプレー。

―¥―¥神戸と聞いて連想することは?

「山があって海があって街並みは活気にあふれていて、韓国の釜山(プサン)と似ていますよね。美しい街ですよ。それに私が大好きだったサウナが多く、温泉も近くにいろいろとあったし、お刺身もうまい」

―¥―¥その日本時代の思い出から聞きたいのですが、初めてJリーグでプレーしたときの印象は?

「最初にセレッソ¥大阪でプレーしたのですが、戦術的な面で慣れるのに苦労しましたね。韓国では3−5−2に慣れていましたが、日本では4−4−2でしたから。3バックのときにはウインクバックとしてパワフルなオーバーラップを求められ、私も頻繁に前に出たのですが、4バックはウイングバックというよりもサイトバック的な動き、それも守備的な動きを求められたので慣れるのに一苦労でした。監督が求めるスタイルも違っていましたね。韓国の監督たちはスピードがあってパワフルな選手を好みますが、日本の監督はブラジル的な個人技術ときめ細かい動きを選手たちに求める。そういった相反する違いに適応するのに苦労しました。ただ、神戸に移籍してからはJリーグのスタイルにも慣れましたし、監督もより攻撃的な動きを求め、私自身もグイグイと前に出たいタイプだったので、まったく問題ありませんでした」

―¥―¥神戸時代はニックネームが“親分”でした。選手たちとどう溶け込もうとしましたか?

「神戸にはすでに後輩のキム・ドフンがプレーしていて、私はセレッソ¥大阪から神戸に加入したわけだけど、すでにJリーグや日本人選手の特性はある程度把握したので、さほど問題なかった。例えば日本には、韓国のような上下関係がありませんよね。だから最初の頃は、私もあまり年長者っぽく振舞わなかったし、日本の選手たちも普通に僕と接していたんですよ。けれど、チェ・ソ¥ンヨン選手が加わって韓国人選手が3人になったあたりから、不雰囲気が変わっていった(笑)」

―¥―¥どんな風に、ですか?

「韓国人選手の中では僕が年長者で、その次にドフン、末っ子がソ¥ンヨンだったのだけど、彼らが何かと私を先輩扱いするわけですよ(笑)。私が脱ぎ捨てたユニホームをたたんでしまったり、練習後に弁当や飲み物を買ってきてくれたり、マッサージ室でマッサージを受けていても私が来ると順番を譲ってくれたり。その姿を見た日本の選手たちも不思議がって、私を“オヤブン”と呼ぶようになったわけですが、“ハ・ソ¥ッチュは韓国でも厳しい先輩”だという噂¥が広がって特に神戸の若い選手たちは私を怖がっていたことには困りました。私としては日本に馴染むためにも、チームメイトたちと親しくならなければならなかったわけですからね」

―¥―¥“オヤブン(親分)”という言葉の意味は知っていましたか?

「もちろん、意味は知っていましたよ。日本には怖い組織の人々のリーダーも、“オヤブン”と言うんですよね(笑)。最初はちょっと困ったけど、“まぁ、そんなニックネームで呼んでくれるのも親しくなった証拠だなぁ”と受け止めました。“オヤブン”と呼ばれるほど、頼りになるというわけですから」

―¥―¥神戸時代でもっとも親しかった選手は?

「当時の神戸はシゲさん(長谷部茂利)がキャプテンで、彼と私は住まいも近かったんですよ。そこでお互いの家を行き来したり、一緒に食事したり、ときにはゴルフも一緒にプレーしながら、彼と親しくなりましたね。私よりも年下ですが、仮とは友人のような関係でした」

―¥―¥Jリーグ時代で一番忘れられない試合は?

「私がいた時代の神戸は降格危機にあって、98年シーズンはJ1参入決定戦を戦わなければならなかった。神戸とコンサドーレ札幌で試合をし、勝ったほうがJ1に残るというシステムだったのですが、神戸はホームで2−1で勝ち、アウェーでも札幌に引き分けてJ1に残った。その2試合というか、あのシーズン終盤の出来事が忘れられませんね」

―¥―¥あのときの神戸はまったく気が許せないシーズンだったと記憶しています。

「ええ。あのときは降格圏になるかどうかのギリギリの戦いが毎週のように続いたのですが、私はホームでのベルマーレ平塚戦の終盤に相手選手との接触で頬骨を骨折してしまったんですよ。しもか、それまで1−0で神戸が勝っていたのですが、私が担架で運ばれピッチの外にいる間にゴールを許し、1−1で引き分けてしまった。神戸にとってはまさに痛恨のドローだったのですが、試合を終わって病院に行くと、手術が必要で1週間は病院にいなければならないとお医者さんはおっしゃるじゃないですか。目の前がまっくらにもなりました」

―¥―¥でも、手術を受けなかったんですね。

「ええ。“冗談じゃない!”と食ってかかりましたよ(笑)。チームは大事な時期にあり、まして4日後にも試合が控えていましたから。それで“シーズンが終わったあとに手術する”というと、“複雑に折れているので手術しなければ、のちのち口が開かなくなっり不自由になる”と…・・・。それでも一日でも早くピッチに戻れる方法はないかと訊ねると、 “麻酔をしないで手術すれば翌日には退院できる”というのですが、麻酔なしで手術した人は過去にいないという。“麻酔なしでの手術で死んだりしないのか”と訊ねると、“死なない。でも、相当に痛い”というわけですよ(笑)。“本人の意志によるが、4日後の試合もフェイスガードなどを付ければ出場できる”ともね。結局、“よし、わかった。麻酔なしで手術しましょう”となったのですが、実はそれが私にとって初めての手術だったんですよ。だから、これは今だから言えることなのですが、内心では、かなりビビってました(苦笑)」

―¥―¥“オヤブン”もビビることがあるんですね。

「実際、手術は本当に恐ろしいものでしたよ。手術台に上がると、医師や看護婦さんに両手両足を縛られ、顔に布切れのようなものを掛けられるわけです。もちろん、麻酔はしていませんから、医者と看護婦が話している声が聞こえてくる。幸い、彼らが喋っている内容は日本語なのでチンプンカンプンでしたが、メスやハサミがカチカチなる音も耳に入ってきて背筋がゾクゾクしてくるわけです。しかも、信じられないくらい痛い!!手術は40分ほどで終わったのですが、私にとってはとてつもなく長く苦しい、まるで生き地獄のような40分でしたよ」

―¥―¥聞いているだけでも痛々しいのですが、なぜそこまでしたのですか?

「クラブ内で“オヤブン”と呼ばれていましたからね。意地を見せなければならなかったし、チームが大事な時期に私だけ休んでいるわけにはいかないじゃないですか。それに降格争いに敗れてJ2に降格してしまうと、ソ¥ンヨンやドフンといった韓国の後輩だけじゃなく、神戸の若いチームメイトたちまでJ2でプレーせねばならなくなる。先輩としての責任感と、チームの助っ人としての使命感が、私にそうさたのです。“死にはしないのだからやってみよう”と」

―¥―¥助っ人としての意地、“オヤブン”としての責任感がそうさせたわけですね。

「でも、これが本当に痛いんですよ。眉間の上あたりから針金のようなものを入れて、折れた骨を引っ張ったのですが、脳の中身がすべて吹き出てしまいそうなくらい痛かった……(絶句)。
歯を食いしばって我慢しようとしても、うめき声が止まらなかった。全身汗ビッショリで、術後も手術台で2〜3時間放心状態でしたよ。それでも翌日には練習に合流してジョギングしていると、チームメイトや監督が目を丸くして驚いているわけです。当時の神戸はカリスマ性の強いことで有名な川勝良一監督だったのですが、監督がかけてくれた言葉が嬉しかったですね。“ハさんの心意気はわかった。これからは多少どこかを傷めても、ハさんがプレーできるというなら使うから、ハさんが自分でしっかり自己管理だけしっかりしてくれ”と。その言葉に、大きな期待と信頼を感じました」

―¥―¥ハ・ソ¥ッチュさんらしい武勇伝というか、エピソ¥ードですね。

「ただ、あのときの手術の代償は大きったですね。今になって後遺症が出るんです。脳に近いところにメスを入れると脳に悪影響があるといわれますが、物忘れがひどかったり、無意識的に何かを取り違えていたり。部屋のキーを差したまま外出してしまったり、リモコンでではなく携帯電話を手にしてテレビのチャンネルを変えようとしていたり……(笑)」

―¥―¥そうした後遺症が残ってしまったことに後悔はありませんか?

「ありませんね。言い換えれば、それほどまでにヴィッセルへの愛着が強かったから。そう言い切れるくらい神戸での日々は最高でした。コーチングスタッフにチームメイト、フロント関係者などチームにかかわるすべての人々は本当によくしてくれたし、神戸に暮らす在日韓国人の方々も親身になってくれた。もちろん、サポーターの人々の熱い声援も忘れない。当時の神戸はJリーグでも下位圏にあるクラブでしたが、サポーターは本当に熱く暖かく応援しくれた。そんな声援を受けると燃えないわけにはいかなかったし、私たちは助っ人であり、その助っ人の中でも私は最年長。年長者として何かを示さなければならないじゃないですか?神戸を離れるとき、これからもこのクラブでプレーする韓国人が出てきたほしいと思いましたが、今季キム・ナミルが神戸を選んでくれたことをとても嬉しく思っていますよ」

―¥―¥当時の神戸は「頑張ろう!神戸」がキャッチフレーズでもありました。

「地震のことはよく知っていましたし、実際に神戸に来て震災の傷跡みたいなものを目にしたとき、“頑張ろう!! 神戸”という言葉がとても心に染みました。震災の被害に遭われて家を失い、コンテナハウスのような仮設住宅で暮らす人々の話を聞いたり、神戸に暮らす在日コリアンの人々も震災当時の話をよくしてくれたんです。そういう話を聞くたびに、国は違うけど自分たちが神戸の人々を勇気づけ希望を与えなければならないと思ったし、そのためにも勝利する事が最大の慰労だと思って頑張りました。ただ当時の神戸は下位圏内で優勝できるほどのチームではありませんでしたけどね・・・・(苦笑)。だからこそJ1のポジションを死守したかったし、そういた思いが麻酔なしの手術という狂気を選択されたわけです(笑)。とにかく神戸での思い出はたくさんありすぎます。例えば毎年年末に行なわれるルミナール。本当に美しく幻想的な光の祭典ですよ。それと、お寿司が恋しいですね。私は刺身が大好物なのですが、神戸市内にある行き着けの寿司屋は本当にうまかった。あとは温泉ですね。神戸は日本最大温泉の有馬温泉郷が近いでしょ。韓国から家族や知り合いが来ると、そこに行って湯に浸かりましたし、私は普段から市内にサウナによく出掛けましたよ。サウナ、大好きなんです」

―¥―¥そのほか、神戸の生活で恋しいことは?

「神戸に限ったことではないのでしょうが、日本はプライベートがしっかり確保されていますよね。記者はもちろん、コーチングスタッフも私生活には関与しない。それが韓国で育った私には新鮮で、心地よい自由を感じました。今年、ファン・ソ¥ンホンが釜山アイパークの監督になりましたが、彼も言っています。選手たちを従来の韓国式で縛り管理するよりも、ある程度の自由な雰囲気を与え、のびのびプレーさせたいと。私も同感ですが、そういた発想は日本での経験が大きいと言えますね」

 

 

 

アン・ヒョヨン

2001年から2002年までの2シーズン、京都サンガでプレー。

 

−その日本時代の話をしましょう。Jリーグでの2年間はどんな日々でしたか?


「とても貴重な日々でしてね。“楽しい冒険”というと適切ではないかもしれないけど、あの2年間は僕にとって忘れられない日々でしたし、京都時代に知り合った人々とは今でもたまに連絡を取るんですよ。監督だった木村文治さん、チームメイトだったアツタ(熱田眞)やノグチ(野口裕司)さん。フランスでプレーするマツイ(松井大輔)とも、彼が日本に戻ったときなどは連絡を取ったりしています。そういった生涯の友人たちと知り合えたことも含めて、本当に幸せな日々だったと思いますね」

−実際に日本でプレーしてみて感じたことは何でしょうか?


「僕は大学を卒業してそのまま日本に行ったので、まずはとても挑戦心が旺盛でしたよね。もちろん、初めての外国生活だったので不安もありましたが、日本は韓国と文化的にも近いので適応しやすいだろうという確信があったし、京都にはすでに後輩の(パク)・チソ¥ンがいて彼からいろいろと日本の話を聞いていたので、“絶対成功してみせる”という気持ちがありました。今振り返るとプロ経験もないのに生意気だったと思うのですが、自信みたいなものもありました。当時の僕は“韓国の若手の中でも技術的にうまい”と評判でしたからね(笑)。ただ、実際に日本に来て、“技術面では自分はまだまだだなぁ”ということを思い知られましたよ。それくらい日本の選手たちは技術が優れていていたし、創造力があった。
特に松井なんて、まるでサッカー漫画に登場しそうなファンタジックなプレーを、練習はもちろん試合でも決めていましたからね。“コイツはスゴイ!”と素直に思いましたし、チソ¥ンとふたりでいつも言っていましたよ。“日本の選手たちの技術力や創造的な姿勢は、学ばなければならないなぁ”って」

−逆に、手応えを感じたこともあったのではないでしょうか?


「ありましたね。例えばドリブルでの突破です。サイドを背にしながらグイグイと前に突き進む推進力というか突破に関しては、手応えを感じていましたし、自信がつきました。監督もそういった僕の特長を発揮できるような自由を与えてくれましたし、何よりもサポーターたちが僕のプレーを喜び応援してくれたことがうれしく、自信になりましたね。“これが僕の武器であり、スタイルなんだ”と自覚できましたよ。選手はサポーターの声援や支持があってこそ、その能¥力をフルに発揮でき、さらに伸ばすこともできるという、プロサッカーの醍醐味を肌で感じることができたと思います。プロ経験のスタートをJリーグで切ることができて、本当に良かったと思いますね」

−その京都時代で、忘れられない思い出をひとつ挙げるとすればなんでしょう?


「やっぱり、J1昇格ですよ。あの長く厳しく、しかも遠征も多いJ2の過密スケジュールを戦い抜き、最後はJ1昇格という形で締めくくることができたときは、本当に感無量でした。個人的にはプロ1年目でしたが、何かとてつもなく大きな仕事をやり遂げたという達成感がありましたし、何よりもその過程が忘れられません。フロントスタッフ、チームメイトを含めて、あのときの京都は本当に一致団結していたし、僕たち韓国人選手にも対等に接してくれた。“外国人助っ人”となると、ともすれば国内選手たちとの間に距離が出来たりするものですが、あのときの京都はまったくそんなことがありませんでした。まるで家族のような関係でしたからね。人間的に接してくれた京都のチームメイトたちには、今でも感謝の気持ちでいっぱいです」

―¥日本での生活では楽しい思い出も多かったと聞きます。


「たくさんありましたよ。合コンでしたっけ(笑)?それもしたことがありましたし、そこで知り合った仲間同士で海や温泉に日帰り旅行に出掛けたりもしました。同世代の日本の友人たちがたくさん出来ましたし、彼らと楽しく過ごしました。黒部さんや野口さんといった年上の先輩たちも、僕やチソ¥ンの面倒を本当によく見てくれましたよ。オフになると、ショッピングや食事に誘ってくれたりして。食べ物では、祇園にある和食の店がとても美味しくて、よく足を運びましたね。なんか懐かしくなってきちゃったなぁ(笑)」

 

http://www.kfa.or.kr/japan_kfa/main/main.asp

大韓サッカー協会(日本語)公式HP,インタビュー記事より一部抜粋


원한국인 J리거, J를 말하는

 

 

최 용수

2001년부터 05년까지 제프 치바, 쿄토 상가, 쥬빌로 이와타에서 플레이.

 

-그런데, 최 용수에 있어서 일본은 어떠한 날마다였습니까?


「일본이라고 (들)물어 맨 먼저에 내가 생각하는 것은, 그 클럽 운영.선수들이 시합에 임하기 위한 시스템이 확실히 갖춰지고 있는 것이구나.한국인의 나로는, 매우 부럽게 생각되었어.나자신도 매일, 팀메이트와 즐겁게 보낼 수 있었고, 「아, 이렇게 즐거운 분위기로 매일을 보낼 수 있는구나」라고 느끼고 있었군요.한국에서는 항상 여러가지 압력이 있기도 하기 때문에, 분위기 만들기가 어느 쪽인가 하면 어려운 부분이 있다.반대로 일본은 자연스러운 분위기 속에서, 선수들이 각각의 주장이나 주관을 확실히 겉(표)나타내고 있지요.선수와 스탭의 분위기도 매우 좋고, 그런 환경이 시합에 겉(표)라고 있는구나라고 느꼈어.쥬니어 유스의 연습이나 시합도 보았지만, 정말로 즐기고 축구를 하고 있지요」

―일본의 음식으로 그리운 것은 있습니까?


「역시 불고기야.한국과는 맛이 다르지만, 이것이 두어 죽었다.갈비나 호르몬, 뭐든지 좋아해.그리고는 가게의 분위기도 좋지? 한국과는 다른 분위기가 있어 매우 신선했다」

-쥬빌로 이와타로의 선수 생활로 어떠한 추억이 있습니까?


「쥬빌로는 선수 개개인의 능력이 높았던 것이 인상적이다.팀에는 전통적인 힘이 있었고, 명문 팀이라고 하는 분위기가 있었어」

-당시는 나카야마 마사시 선수와도 연습하면서 많이 자극을 받았다고 생각합니다만?
「정말로 하나 하나의 시합, 하루 하루의 연습을 소중히 하고 있었고, 몸의 컨디션에도 남의 두배 신경을 쓰고 있던 선수였다.바야흐로 이것이야말로 프로의 모습이야라고 느꼈어.그를 그리워하고 있는 선수도 많이 해, 팀에는 그와 같은 중심적 역할을 완수하는 선수가 필요하다면 재차 실감했군요」

-J리그를 많이 보고 있는 것 같네요.지금도 관심이 있는 것 같습니다만.


「J리그의 시합 결과는 홈 페이지를 열어 보고 있어.일본에 있을 때는 정말 즐거운 날들로, 좋은 추억이 많이 있으니까요.나의 인생에 대하고, 확실히 좋은 시기였다.다양한 사람들을 만날 수 있었고, 한국에 있을 때와 같이, 팬들로부터도 많이 응원을 받았어.잊기에도 잊을 수 없는 것 뿐이다」

―제프 시대는 오심 감독, 쥬빌로 시대는 야마모토 마사쿠니 감독, 한국 대표때는 히딩크 감독 등, 많은 외국인 감독아래에서 플레이해 왔습니다.현재는 FC소울로 전 터키 대표감독의 세노르·규네스와 함께 팀을 지도하고 있습니다만, 그 중에서도 특히 영향을 받은 감독은?

 

내가 접한 지도자중에서 제일의 지도자는 누군가와 추궁 당하면, 오심 감독이구나.오심 감독은 언뜻 보면 무섭고 어렵고, 선수들을 잘 달리게 하는 감독이었다.표현도 독특하고, 때에 그것이 불쾌한 언동 같게 들려 화날 때도 있었지만, 실은 안보이는 곳으로 선수를 배려해, 실로 선수를 생각해 주는 감독이었다.마치 아버지(부친)와 같은 따뜻함과 품의 깊이가 있다.그 상냥함과 팀의 모든 것을 적확하게 파악해 바로잡아 나무 방향으로 이끌어 가는 카리스마성은, 지도자로서 절대 필요한 요소라고 생각한다

 

고정운

1997년, 세렛소오사카에서 플레이.

 

――실제로 J리그에서 플레이하면서 놀란 것이나 느낀 것은 무엇입니까?


「클럽의 프런트 운영이나 체계가 확실히 하고 있다고 느꼈어요.매스컴의 인터뷰 대응도 빈틈없이 하고 있었군요.한국에서는 클럽을 통하지 않고 , 기자가 다이렉트로 선수의 휴대 전화를 울려 온다.당시의 한국의 기자들은, 감독보다 선수의 전화 번호를 많이 알고 있었어요.그만큼까지 선수와 미디어의 관계가 가까워, 프라이버시도 없었다.그러나.일본에서는 그러한 부분이 확실히 하고 있고, 인터뷰 스케줄을 홍보가 확실히 관리해 주었습니다.선수에게 전화하고 이야기를 (듣)묻는 것은 없고, 그 갭에 놀랐습니다.그라운드에 가면, 기자가 30분전에는 홍보의 직원과 기다리고 있고, 인터뷰 시간도 정해진 시간에 확실히 끝난다.그것이 선수에게의 기본적인 예의다배웠습니다.클럽 운영, 선수 관리의 면에서는 정말로 일본에 배워야 할 부분이 많았다.당시의 K리그는 그러한 운영이 이루어지고 있지 않았기 때문에, 부럽다고 생각했어요.단지, 그러한 축구에 전념할 수 있는 환경이 갖추어지고 있는 것에도 불구하고, 일부의 선수들의 프로 의식의 낮음에도 놀라게 해졌습니다.프로인데, 먹을 것이나 컨디션 관리의 방법이 엉성하고, 시합에 이기든지 지든지, 아무 변화도 없는 것입니다.나는 시합에 져 매우 분한데, 주위의 일부의 선수들은 케록으로 한 표정을 하고 있다.승패에 대해서, 담박하다라고 생각했습니다.물론, 지금은 많이 개선되었겠지요 지만」

――지금도 J리그는 봅니까?


「봅니다.무엇보다 관심이 있는 것이 우라와 레즈입니다.렛즈는 그 힘은 물론이고, 열광적인 써포터도 훌륭하다.렛즈의 시합은 브라운관으로 보고 있으면, J리그와 같이 느낌이 들지 않습니다.마치 유럽의 톱 클럽의 시합을 보고 있는 착각마저 느낄 정도입니다」

――텔레비전으로 J리그를 보면서 무엇을 느낍니까? 좋아졌다든가 발전하고 있다든가 느낍니까?


「착실하게 발전하고 있는 것처럼 느낍니다만, 리그 전체의 화려함이라고 하는 점에서는 발족 당시 쪽이 있었다는은 아닐것인가 라고 하는 마음도 있습니다.당시는 유명한 외국인 선수가 각 팀에 있고, 분위기가 살고 있었으니까」


――세렛소오사카 재적 시대, 에 제일 사이의 좋았던 선수는 누구입니까?


「모리시마 히로아키와 요네쿠라성의 2명이군요.자주(잘) 나에게 찾아 오고, 이것저것 (들)물어 왔습니다.모리시마와 요네쿠라의 좋은 면은, 스스로가 배우지 않으면 안 되는 부분이 조금이라도 있다고 생각하면, 몇번이나 오고 어드바이스를 받자고 할 곳.그들의 자세에 매우 호감을 가질 수 있었습니다.주위의 선수들이 배워야 할 자세였지요」

――지금도 세렛소오사카의 관계자들을 만나거나 연락하거나 하는 사람은 있습니까?


「요네쿠라가 이따금 한국에 옵니다.그럴 때는 서로 연락을 해 만나는군요.J리그 의장의 무서운 무켄지씨와도, 이전, 오래간만에 만났습니다.무서운 타케시씨는 내가 세렛소에 재적한 당시는, 클럽 사장으로 매우 신세를 졌어요」

――세렛소오사카의 팬은 어땠습니까?


「이기면 많이 열광적인 팬이 많이 스타디움에 와 주었습니다만, 성적이 나쁘면 역시 적었습니다.오사카의 나가이 육상 경기장은 큰 스타디움이기 때문에, 사람이 없다고 가란으로 한 느낌이 드는군요.오사카는 한신 타이거스의 영향으로 야구 인기가 강하면 듣고 있었습니다만, 그런데도 열심히 응원해 준 후워자들의 열의는, 지금도 잊을 수 없습니다」

――그 외 , 세렛소오사카의 선수들과의 교류로 잊을 수 없는 에피소드 등은 있습니까?


「한국의 음식점에 많이 간 것입니까(웃음).특히 불고기가게에 많이 간 기억이 있습니다」

――그럴 때는 고정운 코치가 맛있는 음식 해 줍니다?


「그랬지요.일본에서는 각자 부담 문화가 있습니다만, 내가 제일 연상였고, 고급 잡기였으니까요 (웃음)」

――실제로 생활해 보고 오사카는 어땠습니까?


「정말 즐거웠습니다.재일의 분들도 많고, 오사카인의 기질이 한국인을 닮아 있고 친근감이 끓었어요.나도 가족들도 곧바로 익숙해졌고, 특히 맛있는 음식이 많이 있어 좋은 거리군요」

――무엇이 마음에 들었습니까? 오코노미야키라든지?


「오코노미야키나 타코야끼라든지도 그렇습니다만, 어쨌든 전부 입맛에 맞았어요.낫토도 몸에 좋다고 듣고, 매일 먹었습니다.오사카인은 별로 낫토를 먹지 않는다고 들었습니다만, 나의 입에는 맞고 있었어요.지금도 한국의 초밥집에 가면, 반드시 낫토말이를 주문합니다.나의 아내도 일본을 좋아하고, 지금도 1년에 2회는 가고 있어요」

――일본생활로 제일 그리운 것은 무엇이지요?


「역시 음식에 좋은 추억이 있습니다.스시도 좋아하네요.나니와에도 자주 가고 있었습니다.역시 오사카가 음식은 제일 맛있는 장소라고 생각해요」

김 남일 

2008년부터 뷔셀 고베에서 플레이.

 

――J리그에 오고 수개월이 지났습니다만, 코베에서의 생활에도 익숙해졌습니까?


「예.매우 마음에 들어요.코베는 항구가 있어 바다도 가까워, 마치 내가 태어나 자란 인천(인천)에 있는 착각을 기억하는 만큼, 기분이 좋네요.거리풍경도 예쁘고 세련 되고 있고, 특히 교통 시스템이 매우 자주(잘) 정비되고 있는 것에 놀랐습니다.교통 정체도 별로 없고, 차의 클락션을 함부로 울어 어지르는 사람도 없기 때문에, 매우 조용하고 안정됩니다.그리고, 음식도 맛있다.유명한 코베소는 물론, 초밥에 스키야키 등, 뭐든지 맛있어요.라면도 먹었고, 오코노미야키였지? 저것도 맛있었지요.낫토입니까? 한국 시대부터 먹고 있었으므로, 물론, 여기에서도 먹고 있습니다」

――팀메이트와의 관계는 어떻습니까?


「매우 좋은 관계를 쌓아 올릴 수 있고 있다고 생각하는군요.감독이나 코칭 스탭과도 잘 되고 있습니다.코베에 와 아직 시작한지 오래되지 않음에도 불구하고, 그러한 관계를 쌓아 올릴 수 있던 것은 박·칸죠 선수 덕분에도 있다고 생각합니다.칸죠는 혼트스바라시이(일본어로).그의 존재는, 정말로 터무니없고 큽니다.그와는 시드니 올림픽 대표시대에도 함께 플레이한 사이입니다만, 말도 통하고, 여러가지 자기일 같이 도와 줍니다.그러니까 그에게는 언제나 말합니다.“너가 코베에 있기 때문에 나는 여기에 왔다”라고.그것이 결코 농담은 아닌 만큼, 나에게 있어서는 그가 있으면 없으면에서는, 큰 차이가 있었다고 생각합니다」

――팀메이트는 김 남일 선수를“형(형(오빠))”라고 부른다든가?


「나의 이름은 일본의 사람들에게는 발음하기 힘들고, 코베에게는 젊은 선수가 많지요.그래서 입단한지 얼마 안된 무렵에 무려 부르면 좋으면 (들)물은으로, “형”이라고 불러 준다면 좋은다고 했습니다.한국에서는 연하의 사람이 연상의 사람에 대해서 친밀감을 담고, “형”이라고 서로 부담없이 부르므로 그렇게 부탁했습니다만, 무엇인가의 전달 미스나 설명 부족한가, 이상한 것에 마츠다 감독까지 나를“형”이라고 부릅니다(쓴웃음).이것에는 조금 갔던 (웃음)」

――어쨌든 팀의 분위기에 용해하고 있는 것은 잘못해 없을 것 같네요.


「팀메이트들과 자주(잘) 식사에도 나갑니다.여기에 와 놀란 것의 하나가, 팀메이트의 생일을 축하하는 식사회나 모임이 많은 일.단지, 그러한 교류의 장소가 있는 덕분도 있고, 선수들과 빠를 때 가까운 관계가 있다고 생각합니다」

――써포터와의 관계도 좋다고 들었습니다.연습 후에는 싸인을 하거나 기념 촬영을 하거나.한국에서는 과묵하고 쿨해서, 자칫하면 접근하기 어려운 이미지의 김 남일 선수였지만, 코베에 와 무엇인가 심경의 변화에서도?


「확실히, 한국 시대는 팬 서비스에 소극적이었고, 이러한 개별 인터뷰도 별로 받지 않았던 것은 사실입니다.남의 앞에 나서 무엇인가 하는 것이 서투릅니다.그런 일도 있고, 코베에 온지 얼마 안된 무렵은 연습이 끝나도 숨겨, 허둥지둥 로커 룸으로 돌아오거나 하고 있었습니다만, J리그에서는 팬 서비스도 선수의 의무라고 배웠고, 기뻐해 주시는 팬의 모습을 보고 있으면 이상하게 자신도 기분이 좋아집니다」

――그러한 변화는 스스로의 의지에 의하는 것?혹은 환경에 의하는 것입니까?


「양쪽 모두군요.나자신도 바뀌려 하고 있고, 주위의 사람들의 대응이 나를 바꾸고 있는 부분도 있습니다.어쨌든, 나자신으로서는 한국 시대보다 소후트가 되려고 의식하고 있습니다.새로운 환경에 적응하지 않으면 안 되고, 그러기 위해서는 무엇보다도 우선, 팀메이트들과 친밀한 관계가 될 필요가 있다.평상시의 관계가 피치상에서도 영향을 주니까요.그러니까, 자신으로부터 팀메이트들의 고리에 참가하려고 의식하고 있습니다만, 주위의 대응이 나를 바꾸었고 말이야 키라고 있는 부분도 있습니다.코베의 팀메이트나 프런트·스탭, 또 써포터 등, 주위의 사람들이 매우 친절하고 쉽게 해 주므로, 나도 거기에 응하고 싶다고 할까……·.어느 것에도 해도, 자기 자신도 변하지 않으면이라고 생각했고, 주위의 사람들이 나의 변화를 재촉해 주고 있는 것은 확실하겠지요」

――코베의 클럽 관계자나 후워자들이 대는 기대는 큽니다만, 그것이 압력이 되거나는 하지 않겠습니까?


「마츠다 감독도 프런트·스탭도 모두, “코베는 젊은 선수가 많기 때문에 너가 구이 구이와 끌어들여 주어”라고 하십니다.“한국 대표로 하고 있도록(듯이) 강한 리더쉽을 발휘해 주었으면 한다.한국 대표와 같이 행동해도 상관없다”라고.단지, 나로는 갑자기“리더”와 같이 행동할 수 있지 않아요(쓴웃음).어디까지나 코베에서는 신입인 나눕니까들 , 우선은 선수들과 친하게 안 되면 배워 , 그러기 위해서는 시간이 필요.그러니까“우선은 차분히 신뢰 관계를 쌓아 올려 가고 싶다”라고 하면, “사양할 것은 없다.점점 자신의 색을 내라!”(이)라고 합파를 걸칠 수 있다.그때마다 나에 대한 기대를 느낍니다만, 조금 압력이기도 한군요(쓴웃음)」

――그런데도 김 남일 선수의 리더쉽에는 기대하지 않고에 들어가지지 않습니다.J리그의 데뷔전에서는 갑자기, 캡틴도 맡았습니다.


「그 때는 본래의 캡틴인 오오쿠보가 결장했으므로 내가 그 대리를 맡았을 뿐입니다만, 솔직히 말해 놀랐습니다.로커 룸에 가면, 유니폼과 함께 캡틴 마크가 있습니다.캡틴 마크를 붙이면 그 만큼 책임도 커지므로, 나로서는 하고 싶지 않았습니다만, 마츠다 감독으로부터“명령이다!”(이)라고 말해져(쓴웃음).어쨌든, 커뮤니케이션도 아직 10분은 아닌 만큼 당분간은 캡틴 마크를 붙일 것은 없을 것입니다 (웃음).캡틴은 오오쿠보에 맡깁니다」

――오오쿠보 선수에 대한 인상은?
「한마디로 말하면, 진짜의 점수따기가게.디펜스에 둘러싸여 그 전방을 방해되어도, 히 늘어뜨리기 전에 뛰쳐나오려고 하는 불도저와 같이 강력함과 야생마와 같이 날카로움이 있다.골을 놓치면 마음속으로부터 분해하는 만큼, 득점에의 집착심도 강하다.믿음직한 존재입니다」

 

 

 

 

김·진규

2005~06년의 2년간, J리그의 쥬빌로 이와타에서 플레이.

 

――김·진규 선수가 일본에 건너 왔을 때는, 아직 20세로 젊었지요.일본에서의 2년간은 어떠한 날마다였습니까?


「자신이 지금까지 축구를 해 온 것 중으로, 제일 좋은 시기가 일본에서의 2년간이었지요.많은 일을 배웠고, 말에서는 모두를 말해 겉(표)등 있어만큼 좋은 일도 많이 있었다.예를 들면 J리그에서 플레이하고 있는 동안에 한국 대표에 불려 독일·월드컵·에도 출장할 수 있어 거기서 자신의 플레이에 대한 반응같은 것도 얻을 수 있었으니까」

――2003, 2004년에 전남에서 플레이한 뒤 쥬빌로 이와타에 이적했습니다만, 일본에 가려고 결심한 이유나 계기는?


「나는 고교시절부터 프로로 플레이할 것을 결정하고 있었습니다.프로 선수가 되는 목표를 가지고 연습에 힘쓰고 있었습니다만, 어느A 날, J리그의 시합을 볼 기회가 있고, 그 때에 「자신은 J리그에 가지 않으면 안된다.J리그에서 플레이해 보고 싶다」라고 생각했습니다.실은 고등학교 때에 일본에 갈 찬스가 있었습니다만 실현되지 않고, 그대로 전남 드래곤즈에 입단했습니다.전남에서 플레이하고 있는 동안에, 쥬빌로 이와타의 야마모토 마사쿠니 감독으로부터 필요하다고 소리가 나돌았습니다」

――쥬빌로는 당시부터 명문 클럽이었지만, 젊은 시기부터 해외에서 플레이한다고 하는 불안이나 걱정은 없었습니까?


「그러한 걱정은 없었지요.불안도 두려워할 것도 없었다.해외 합숙에 가는 기분으로 있었으니까 (웃음).그렇지만, 실제로 팀에 들어가면 그런 기분은 없어졌어요.그렇다고 하는 것도, 한국과 일본은 문화가 비슷한 것 같고, 닮지 않은 부분도 있었으니까」

――어떠한 부분에서 문화의 차이를 느꼈습니까?


「한국의 선수의 경우는 곧바로 친하게 접해 줍니다만, 일본의 선수의 경우는, 처음은 쌀쌀하게 맞이할 수 있다고 할까.조금 거리를 느꼈어요.그러한 부분에서 팀에 용해하는 것은 어렵다고 느꼈습니다만, 당시는 쥬빌로에 최 용수 선배도 있었으므로, 다양하게 도와 주었습니다.물론 자신으로부터도 일본의 선수들에게 적극적으로 가까워지고 가고, 특히 젊은 선수들과는 함께 식사하거나 목욕탕도 들어가거나 그렇게 하는 것으로 모두가 마음을 열어 주었어요」

――사이가 좋았던 것 선수는 역시, 나이가 가까웠던 카렌·로버트입니까?


「그렇네요.특히 카렌, 키크치(키쿠치 나오야), 켄야(마츠이 켄미), 케이스케(후나다니규우)들과는 사이가 좋았어요.자주(잘) 함께 식사하고 커뮤니케이션을 취하고 있었습니다.반대로 코우타(우에다 야스시태)라든지는 나보다 세하였으므로, 잘 불러내 식사를 맛있는 음식 해 주었던 (웃음)」

――김·진규 선수는 FK를 찰 때의 모습에 강렬한 임펙트가 있고, 그것이 J리그에서 매우 유명합니다.FK를 차기 위해서 영향을 받은 선수나 배운 선수는 있습니까?당시는 FK의 명수 나나미 히로시 선수도 있었습니다만.


「나나미씨에게서는 정말로, 여러가지를 배웠어요.실제로 가르쳐도 주었으니까.나나미씨는 말수가 적지 않습니까.그런데도 나의 FK의 기술에 관해서는 한마디 말하지 않고서는 견딜 수 없었었지요.나의 FK를 조용하게 응시한 후에, 정중하게 가르쳐 주었습니다.“함부로 강하게 차면 좋다고 하는 것 것이 아니다”는.그것과 나는 언제나 6, 7보의 조주로부터 FK를 차고 있었습니다만, 나나미씨가“너는 3보의 조주로부터 차면 된다”라고 어드바이스를 해 주고, 연습에도 교제해 주었습니다.단지, 유감인 것은 거기까지 연습했음에도 불구하고, 시합에서는 FK를 한 개도 결정할 수 없었습니다.아까운 슛(뿐)만이었지요.머지 않아 골이라고 하는 FK가 정말로 많았다(쓴웃음).분했고, 지금 생각하면 가르쳐 준 나나미씨에게는 신해 나누지 않는 기분입니다.덧붙여서 최근에는, FC소울에서도 FK를 좀처럼 차게 해 주지 않습니다(쓴웃음)」

――그 외에 영향을 받은 선수나 인상에 남아 있는 선수는 있습니까?


「쥬빌로에 가고 처음으로 후쿠니시 타카시라고 하는 존재를 알았습니다만, 나는 옛날도 지금도 후쿠니시씨가 아시아 최고의 MF라고 생각합니다.나카무라 šœ스케 선수도 훌륭한 선수입니다만, 후쿠니시씨는 그이상이라고 생각해요.패스 워크, 전개력, 공수의 밸런스 감각 등, 나는“어째서 이렇게 능숙한 선수가 일본에서 플레이하고 있지?더 레벨의 높은 장소나 팀에 있어야 하는 것인데”는 생각했고, 그것을 통역에도 몇번이나 말했습니다만…….후쿠니시씨, 아직 일본에 있는거죠? 내가 말하는 것도 건방질지도 모릅니다만, 후쿠니시씨는 절대, 유럽에서도 성공할 수 있다고 생각해요」

 

――최근의 J리그에 관한 뉴스는 많이 볼 수 있습니까?


「J리그에 관해서는 한국에서도 흥미롭게 보고 있습니다.인터넷의 뉴스 사이트에서도 J리그가 잘 보도되고, 한국에는 J리그 애호자들이 모이는 팬 사이트같은 것도, 많이 있으니까요.그러한 곳부터 정보를 얻고 있군요」

――일본의 음식이나 문화로 인상 깊은 것은 있습니까?옛날은 낫토를 좋아한다고 하고 있었습니다만, 지금도 먹습니까?


「쥬빌로 시대는 하루에 한 번 입어 안되어 낫토를 먹었어요.물론, 지금도 먹어요.매일이 아니지만.그리고는 라면이군요.집 앞에 라면집이 있었습니다만, 거기서 잘 먹고 있었어요.스시도 좋아하네요」


하·소츄

98년부터 2000년까지 뷔셀 고베에서 플레이.

――코베와 (들)물어 연상하는 것은?

「산이 있고 바다가 있어 거리풍경은 활기에 넘치고 있고, 한국의 부산(부산)과 닮아 있는군요.아름다운 거리예요.거기에 나를 아주 좋아하는 사우나가 많아, 온천도 근처에 여러가지 있었고, 생선회도 맛있다」

――그 일본 시대의 추억으로부터 듣고 싶습니다만, 처음으로 J리그에서 플레이했을 때의 인상은?

「최초로 세렛소오사카에서 플레이했습니다만, 전술적인 면에서 익숙해지는데 고생했어요.한국에서는 3-5-2에 익숙해 있었습니다만, 일본에서는 4-4-2였기 때문에.3 가방 때에는 윙크 가방으로서 파워풀한 오버랩이 구할 수 있어 나도 빈번히 앞에 나왔습니다만, 4 가방은 윙 가방이라고 하는 것보다도 사이트 가방적인 움직여, 그것도 수비적인 움직임이 구할 수 있었으므로 익숙해지는데 상당한 고생이었습니다.감독이 요구하는 스타일도 차이가 났어요.한국의 감독들은 스피드가 있어 파워풀한 선수를 좋아합니다만, 일본의 감독은 브라질적인 개인기라고 해 째 세세한 움직임을 선수들에게 요구한다.그렇게 말한 상반되는 차이에 적응하는데 고생했습니다.단지, 코베에 이적하고 나서는?`i리그의 스타일에도 익숙해졌고, 감독도 보다 공격적인 움직임을 요구해 나 자신도 구이 구이와 전에 나가고 싶은 타입이었으므로, 전혀 문제 없었습니다」

――코베 시대는 닉네임이“두목”이었습니다.선수들과 어떻게 용해하려고 했습니까?

「코베에게는 벌써 후배 김도훈이 플레이하고 있고, 나는 세렛소오사카에서 코베에 가입한 것이지만, 벌써 J리그나 일본인 선수의 특성은 어느 정도 파악했으므로, 그다지 문제 없었다.예를 들면 일본에는, 한국과 같은 상하 관계가 없겠지요.그러니까 최초의 무렵은, 나도 너무 연장자 같게 행동하지 않았고, 일본의 선수들도 보통으로 나와 접하고 있었습니다.하지만, 최·소욘 선수가 더해져 한국인 선수가 3명이 된 근처로부터, 불분위기가 바뀌고 간 (웃음)」

――어떤 바람으로, 입니까?

「한국인 선수중에서는 내가 연장자로, 그 다음에 드훈, 막내가 소욘이었던 것이지만, 그들이 무엇인가 나를 선배 취급하는 것 예요 (웃음).내가 벗어 던진 유니폼을 개 버리거나 연습 후에 도시락이나 음료를 사 와 주거나 맛사지실에서 맛사지를 받고 있어도 내가 오면 차례를 양보해 간다 충분해.그 모습을 본 일본의 선수들도 불가사의가는, 나를“오야분”이라고 부르게 된 것입니다만, “하·소츄는 한국에서도 어려운 선배”라고 하는 소문이 퍼져 특히 코베의 젊은 선수들은 나를 무서워하고 있었던 것에는 곤란했습니다.나로서는 일본에 친숙해 지기 위해서도, 팀메이트들과 친하게 안 되면 안 되었던 것이니까요」

――“오야분(두목)”라는 말의 의미는 알고 있었습니까?

「물론, 의미는 알고 있었어요.일본에는 무서운 조직의 사람들의 리더도, “오야분”이라고 합니다 (웃음).처음은 조금 곤란했지만, “아무튼, 그런 닉네임으로 불러 주는 것도 친해진 증거구나”라고 받아 들였습니다.“오야분”으로 불리는 만큼, 의지가 된다는 것이기 때문에」

――코베 시대에서 가장 친했던 선수는?

「당시의 코베는 시게씨(하세베 시게토시)가 캡틴으로, 그와 나는 거주지도 가까웠어요.거기서 서로의 집을 왕래하거나 함께 식사하거나 때로는 골프도 함께 플레이하면서, 그와 친해졌어요.나보다 연하입니다만, 가짜와는 친구와 같은 관계였습니다」

――J리그 시대에 제일 잊을 수 없는 시합은?

「내가 있었던 시대의 코베는 격하 위기에 있고, 98년 시즌은 J1참가 결정전을 싸우지 않으면 안 되었다.코베와 콘사도레 삿포로에서 시합을 해, 이기는 편이 J1에 남는다고 하는 시스템이었습니다만, 코베는 홈에서 2-1으로 이겨, 어웨이에서도 삿포로에 비기고 J1에 남았다.그 2 시합이라고 하는지, 그 시즌 종반의 사건을 잊을 수 없어요」

――그 때의 코베는 전혀 기분을 허락할 수 없는 시즌이었다고 기억하고 있습니다.

「예.그 때는 격하권이 될지의 빠듯한 싸움이 매주와 같이 계속 되었습니다만, 나는 홈에서의 벨마레 히라츠카전의 종반에 상대 선수와의 접촉으로 광대뼈를 골절해 버렸습니다.하지도인가, 그것까지 1-0으로 코베가 이기고 있었습니다만, 내가 들것으로 옮겨져 피치의 밖에 있는 동안에 골을 허락해, 1-1으로 비겨 버렸다.코베에 있어서는 확실히 통한의 드로였습니다만, 시합을 끝마치고 병원에 가면, 수술이 필요하고 1주간은 병원에 없으면 안 된다고 의사는 말씀하시지 않습니까.눈앞이 캄캄하게도 되었습니다」

――그렇지만, 수술을 받지 않았지요.

「예.“농담글자 없다!”(이)라고 먹어서 걸렸어요 (웃음).팀은 소중한 시기에 있어, 하물며 4일 후에도 시합이 대기하고 있었으니까.그래서“시즌이 끝난 뒤에 수술한다”라고 하면, “복잡하게 접히고 있으므로 수술하지 않으면, 후후 입이 열려 운데 부자유스럽게 된다”라고…···.그런데도 하루라도 빨리 피치로 돌아올 수 있는 방법은 없을까 묻으면, “마취를 하지 않고 수술하면 다음날에는 퇴원할 수 있다”라고 합니다만, 마취 없이 수술한 사람은 과거에 없다고 한다.“마취 없이의 수술로 죽거나 하지 않는 것인가”라고 묻으면, “죽지 않는다.그렇지만, 상당히 아프다”라고 하는 것이에요 (웃음).“본인의 의지에 의하지만, 4일 후의 시합도 페이스가드등을 붙이면 출장할 수 있다”와도.결국, “좋아, 알았다.마취 없이 수술합시다”되었습니다만, 실은 그것이 나에게 있어서 첫 수술이었던 것이에요.그러니까, 이것은 지금이니까 말할 수 있는 것입니다만, 내심에서는, 많이 위축되고 있었습니다(쓴웃음)」

――“오야분”도 위축되는 일이 있습니다.

「실제, 수술은 정말로 무서운 것이었어요.수술대에 오르면, 의사나 간호사에 양손 양 다리를 속박되어 얼굴에 헝겊과 같은 것을 걸 수 있는 것입니다.물론, 마취는 하고 있지 않기 때문에, 의사와 간호사가 이야기하고 있는 목소리가 들려 온다.다행히, 그들이 말하고 있는 내용은 일본어이므로 틴푼칸푼이었지만, 메스나 가위가 카치카치 되는 소리도 귀에 들려와 등골이 조크조크 하고 오는 것입니다.게다가, 믿을 수 없을 정도 아프다!수술은 40분 정도로 끝났습니다만, 나에게 있어서는과라고 개도 없고 길고 괴로운, 마치 생지옥과 같은 40분이었어요」

――(듣)묻고 있는 것만으로도 통들주위의 것입니다만, 왜 거기까지 했습니까?

「클럽내에서“오야분”으로 불리고 있었으니까.고집을 보이지 않으면 안 되었고, 팀이 소중한 시기에 나만 쉬고 있을 수는 없지 않습니까.거기에 격하 싸움에 져 J2에 격하해 버리면, 소욘이나 드훈이라고 하는 한국의 후배만이 아니고, 코베가 젊은 팀메이트들까지 J2로 플레이하지 않으면 안 되게 된다.선배로서의 책임감과 팀의 돕는 사람으로서의 사명감이, 나에게 그렇게 통지의 것입니다.“죽지는 않으니까 해 보자”라고」

――돕는 사람으로서의 고집, “오야분”으로서의 책임감이 조작키 익살떨어군요.

「 그렇지만, 이것이 정말로 아파요.미간 상 근처로부터 철사와 같은 것을 넣고, 접힌 뼈를 이끌었습니다만, 뇌의 내용이 모두 불거져 나오고 하지 않는다 그렇게일 정도 아팠다……(절구).
이를 악물어 참으려고 해도, 신음 소리가 멈추지 않았다.전신땀빗쇼리로, 수술후도 수술대로 2~3시간 방심 상태였어요.그런데도 다음날에는 연습에 합류해 조깅 하며 있어?`효니, 팀메이트나 감독이 몹시 놀라 놀라고 있는 것입니다.당시의 코베는 카리스마성의 강한 일로 유명한 카와카츠 료이치 감독이었습니다만, 감독이 걸쳐 준 말이 기뻤지요.“하씨의 기상은 알았다.지금부터는 다소 어딘가를 손상시켜도, 하씨가 플레이할 수 있다고 한다면 사용하기 때문에, 하씨가 스스로 확실히 자기 관리만 확실히 해 줘”라고.그 말에, 큰 기대와 신뢰를 느꼈습니다」

――하·소츄씨다운 무용전이라고 하는지, 에피소드군요.

「단지, 그 때의 수술의 대상은 대 잘랐다군요.지금에 와서 후유증이 나옵니다.뇌에 가까운 곳에 메스를 가하면 뇌에 악영향이 있다고 합니다만, 건망증이 심하거나, 무의식적으로 무엇인가를 잘못 잡아 있거나.방의 키를 가린 채로 외출해 버리거나 리모콘으로는 아니게 휴대 전화를 손에 넣어 텔레비전의 채널을 바꾸려고 소치……(웃음)」

――그러한 후유증이 남아 버렸던 것에 후회는 없습니까?

「없겠네요.바꾸어 말하면, 그만큼까지 뷔셀에의 애착이 강했으니까.다 그렇게 말할 수 있을 정도로 코베에서의 날마다는 최고였습니다.코칭 스탭에게 팀메타 `C트, 프런트 관계자 등 팀과 관계되는 모든 사람들은 정말로 잘 해 주었고, 코베에 사는 재일 한국인의 분들도 자기일 같이 주었다.물론, 써포터의 사람들의 뜨거운 성원도 잊지 않는다.당시의 코베는 J리그에서도 하위권에 있는 클럽이었지만, 써포터는 정말로 뜨겁고 따뜻하게 응원주었다.그런 성원을 받으면 불타지 않는 것에는 가지 않았고, 우리는 돕는 사람이며, 그 돕는 사람중에서도 나는 최연장.연장자로서 무엇인가를 나타내지 않으면 안 되지 않습니까?코베를 떠날 때, 앞으로도 이 클럽에서 플레이하는 한국인이 나온 가지고 싶다고 생각했습니다만, 이번 시즌 김 남일이 코베를 선택해 준 것을 매우 기쁘게 생각해요」

――당시의 코베는 「노력하자!코베」가 캐치프레이즈이기도 했습니다.

「지진는 잘 알고 있었고, 실제로 코베에 와 지진 재해의 상처 자국같은 것을 보았을 때, “노력하자!! 코베”라는 말이 매우 마음에 스며들었습니다.지진 재해의 피해를 당하시고 집을 잃어, 컨테이너 하우스와 같은 가설 주택으로 사는 사람들의 이야기를 듣거나 코베에 사는 재일 코리안의 사람들도 지진 재해 당시의 이야기를 잘 해 주었습니다.그러한 이야기를 들을 때마다, 나라는·`담, 이지만 스스로가 코베의 사람들을 용기를 북돋워 희망을 주지 않으면 안 된다고 생각했고, 그 때문에(위해)도 승리하는 것이 최대의 위로라고 생각해 노력했습니다.단지 당시의 코베는 하위 권내에서 우승할 수 있을 정도의 팀이 아니었습니다지만····(쓴웃음).그러니까 J1의 포지션을 사수하고 싶었고, 그렇게 있던 생각이 마취 없음의 수술이라고 하는 광기가 선택된 것입니다 (웃음).어쨌든 코베에서의 추억은 너무 많이 있습니다.예를 들면 매년 연말에 행해지는 르미나르.정말로 아름답고 환상적인 빛의 제전이에요.그것과 초밥이 그립네요.나는 생선회가 좋아하는 음식입니다만, 코베시내에 있는 도착할 수 있는의 초밥집은 정말로 능숙했다.그리고는 온천이군요.코베는 일본 최대 온천의 아리마 온천시골이 가깝지요.한국으로부터 가족이나 아는 사람이 오면, 거기에 가서 뜨거운 물에 잠겼고, 나는 평상시부터 시내에 사우나에 잘 나갔어요.사우나, 정말 좋아합니다」

――그 외 , 코베의 생활로 그리운 것은?

「코베에 한정한 것은 아닐 것입니다가, 일본은 프라이빗이 확실히 확보되고 있는군요.기자는 물론, 코칭 스탭도 사생활에는 관여하지 않는다.그것이 한국에서 자란 나에게는 신선하고, 진`S지야 있어 자유를 느꼈습니다.금년, 팬·소혼이 부산 아이파크의 감독이 되었습니다만, 그도 말합니다.선수들을 종래의 한국식에서 묶어 관리하는 것보다도, 어느 정도의 자유로운 분위기를 주어 구김살없이 플레이시키고 싶으면.나도 동감입니다만, 그렇게 있던 발상은 일본에서의 경험이 크다고 말할 수 있군요」

 

 

 

안·효욘

2001년부터 2002년까지의 2 시즌, 쿄토 상가에서 플레이.

 

-그 일본 시대의 이야기를 합시다.J리그에서의 2년간은 어떤 날마다였습니까?


「매우 귀중한 날들로 하고.“즐거운 모험”이라고 하면 적절하지 않을지도 모르지만, 그 2년간은 나에게 있어서 잊을 수 없는 날들였고, 쿄토 시대에 알게 된 사람들과는 지금도 이따금 연락을 합니다.감독이었던 키무라 분지씨, 팀메이트였던 아트타(아츠타 마코토)나 노구치(노구치 히로시)씨.프랑스에서 플레이하는 마트이(마츠이 다이스케)와도, 그가 일본으로 돌아왔을 때 등은 연락을 하거나 하고 있습니다.그렇게 말한 생애의 친구들과 알게 된 것도 포함하고, 정말로 행복한 날들이었다고 생각하는군요」

-실제로 일본에서 플레이해 보고 느낀 것은 무엇입니까?


「나는 대학을 졸업해 그대로 일본에 갔으므로, 우선은 매우 도전심이 왕성했지요.물론, 첫 외국 생활이었으므로 불안도 있었습니다만, 일본은 한국과 문화적으로도 가깝기 때문에 적응하기 쉬울 것이라고 말할 확신이 있었고, 쿄토에는 벌써 후배의(박)·치소가 있어 그로부터 여러가지 일본의 이야기를 듣고 있었으므로, “절대 성공해 보인다”라고 하는 기분이 있었습니다.지금 되돌아 보면 프로 경험도 없는데 건방졌다고 생각합니다만, 자신같은 것도 있었습니다.당시의 나는“한국의 젊은이중에서도 기술적으로 능숙하다”라고 유명했습니까들(웃음).단지, 실제로 일본에 오고, “기술면에서는 자신은 아직도구나”라고 하는 것을 깨닫아졌어요.그 정도 일본의 선수들은 기술이 우수해 해, 창조력이 있었다.
특히 마츠이는, 마치 축구 만화에 등장할 것 같은 환상적인 플레이를, 연습은 물론 시합에서도 결정하고 있었으니까.“이놈은 스고이!”(이)라고 솔직하게 생각했고, 치소와 둘이서 언제나 말했어요.“일본의 선수들의 기술력이나 창조적인 자세는, 배우지 않으면 안 된다”는」

-반대로, 반응을 느낀 적도 있던 것은 아니고 해 인가?


「있었어요.예를 들면 드리블로의 돌파입니다.사이드를 키로 하면서 구이 구이와 전에 돌진하는 추진력이라고 할까 돌파에 관해서는, 반응을 느끼고 있었고, 자신이 붙었습니다.감독도 그렇게 말한 나의 특징을 발휘할 수 있는 자유를 주었고, 무엇보다도 후워자들이 나의 플레이를 기쁨 응원해 주었던 것이 기쁘고, 자신이 되었어요.“이것이 나의 무기이며, 스타일이야”라고 자각할 수 있었어요.선수는 써포터의 성원이나 지지가 있어야만, 그 능력을 풀로 발휘할 수 있어 한층 더 늘릴 수도 있다고 하는, 프로 축구의 묘미 (참다운 즐거움)을 피부로 느낄 수 있었다고 생각합니다.프로 경험의 스타트를 J리그에서 자를 수 있고, 정말로 좋았다고 생각하는군요」

-그 쿄토 시대로, 잊을 수 없는 추억을 하나 든다고 하면 무엇이지요?


「역시, J1승격이에요.그 길고 어렵고, 게다가 원정도 많은 J2의 과밀 스케줄을 싸워내, 최후는 J1승격이라고 하는 형태로 매듭지을 수 있었을 때는, 정말로 감개 무량했습니다.개인적으로는 프로 1년째였지만, 무엇인가라고 개도 없고 큰 일을 완수했다고 하는 달성감이 있었고, 무엇보다도 그 과정을 잊을 수 없습니다.프런트 스탭, 팀메이트를 포함하고, 그 때의 쿄토는 정말로 일치단결하고 있었고, 우리들 한국인 선수에게도 대등하게 접해 주었다.“외국인 돕는 사람”이 되면, 자칫하면 국내 선수들과의 사이에 거리를 할 수 있거나 하는 것입니다만, 그 때의 쿄토는 전혀 그런 일이 없었습니다.마치 가족과 같은 관계였으니까요.인간적으로 접해 준 쿄토의 팀메이트들에게는, 지금도 감사의 기분으로 가득합니다」

―일본에서의 생활에서는 즐거운 추억도 많았다고 (듣)묻습니다.


「많이 있었어요.미팅이었지 (웃음)?그것도 했던 적이 있었고, 거기서 알게 된 동료끼리바다나 온천에 당일치기 여행을 떠나 걸기도 했습니다.동세대의 일본의 친구들이 많이 할 수 있었고, 그들과 즐겁게 보냈습니다.쿠로베씨랑 노구치씨라고 하는 연상의 선배들도, 나나 치소의 귀찮음을 정말로 잘 봐 주었어요.오프가 되면, 쇼핑이나 식사 제의를 해 주거나 해.음식에서는, 기온에 있는 일식의 가게가 매우 맛있어서, 잘 발길을 옮겼어요.어쩐지 그리워져 버렸다(웃음)」

 

http://www.kfa.or.kr/japan_kfa/main/main.asp

대한 축구 협회(일본어) 공식 HP,인터뷰 기사보다 일부 발췌



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