うちの町内

 

新宿副都心は、(主として)1970年代に開発された、200m級の超高層ビルが建ち並ぶ、ビジネス(business)地区です。新宿副都心は、1970年代に開発された日本で最初の200m級超高層ビル群です。1970年代は、第2次世界大戦後の復興と高度経済成長が、一段落し(落ち着き)、(東京夏季オリンピック(Olympics)が開催され、1961年に設立されたOECDに、日本が加盟した、1964年は、「もはや戦後では無い=第2次世界大戦による荒廃からの復興は終った。」と言われました)、日本が成熟した先進工業国としての道を歩き始めた年代です。それまでの、経済発展最重視の政策から、公害や環境に対する取り組みが本格的に行われるようになり(これにより、1970年代を通じて、日本の環境は、ずいぶん改善されました)、1975年に設立した、サミット(summit)には、日本は、アメリカ、イギリス、西ドイツ、フランス、イタリアと供に、G6として、設立当初のメンバー(member)として参加しました。1960年代までの、東京のビジネス(business)の中心地区と言えば、やはり圧倒的に東京駅を最寄り駅とする丸の内(marunouchi)でした(東京都心部の中でも、中心的な地域に位置するmarunouchiは、今でも東京のbusinessの中心地区です)。丸の内(marunouchi)は、日本における産業革命から第2次世界大戦直前までの19世紀末から1930年代にかけて、西洋先進国の大都市中心部のビジネス(business)街と比べても見劣りしないビジネス(business)街を東京に造ろうと、当時のロンドン(London)のビジネス(business)街を模範として街単位で本気で開発がなされてきた地区です。このような、丸の内(marunouchi)に対して、第2次世界大戦後の経済復興を終えて、成熟した先進工業国としての道を歩き始めた日本の首都東京の、新しい顔を造ろうと、1970年代に、本気で開発された、新ビジネス(business)地区が、新宿副都心です。1960年代において、日本は、日本の様な地震地帯の大地震でも、大丈夫な超高層ビルを設計・建築する技術が成熟するに至り、1968年に、日本初の超高層ビル、霞ヶ関(kasumigaseki)ビル(日本初且つアジア初の超高層ビルであり、完成当時、アジアで最も高かったビル)が東京の霞ヶ関(kasumigaseki)に完成しました(尚、高層towerに関しては、日本では、既に、1950年代には、日本の様な地震地帯の大地震でも、耐えられる様な、建築設計技術が確立しており、1950年代から1960年代初期にかけて、名古屋(nagoya)の、名古屋(nagoya)TV tower(1954年完成。高さ180m。1929年に完成した、高さ250mの日本の依佐美送信所鉄塔の様な支線式の鉄塔を除けば、完成当時アジアで最も高い建築物)、東京の、東京tower(1958年完成、高さ約333m。完成当時は、世界一高い塔であると供に、nagoya TV towerを抜かし、アジアで、最も高い建築物)等、日本の大都市で、展望台付き高層towerの建築boomがありました)。こうした流れを受けて、新宿副都心は、日本初の200m級、超高層ビル街として1970年代に開発されました。1970年代に入ると、日本では、超高層ビルの建設が、本格化し、東京を中心として、次々と超高層ビルが、建てられる様になりました。これは、日本と同じく地震地帯にある、Los Angelsや、San Francisco等のアメリカ西海岸の大都市で、本格的に超高層ビルが建てられる様になった時期と一致しています。逆に、1970年代に入るまでは、アメリカの地震地帯では無い地域を除けば、世界に超高層ビルは、ほとんど存在しませんでした。1970年代に建てられた、新宿副都心の超高層ビルの設計者は、全て日本人建築家又は、日本の建築設計会社の手によるものです。新宿副都心の超高層ビル群は、1970年代当時の、日本の超高層ビルの設計技術力及びデザイン(design)力を試す場でもあった事でしょう。新宿副都心の超高層ビル郡は、先進国日本の首都東京の新しい顔として、本気で開発がなされた地区なので、主として1970年代に超高層ビルが建てられたエリア(area)は、超高層ビルとビルとの間隔、ビルのデザイン(design)や色の個性と調和等、ビル郡全体としての調和が、かなりよく考えられており、世界的に見ても、第一級の都市景観となっていると思います(もっとも、近年出来た、新しい超高層ビルによって、新宿の超高層ビル郡全体の景観の調和は、現在、やや崩れつつありますが。。。)。日本以外のアジアで、超高層ビルを最初に建て始めたのは、香港とシンガポール(Singapore)です。香港と、シンガポール(Singapore)は、日本やアメリカ西海岸と違って、特に地震地帯ではありませんが、まだ、経済的に、発展途上であった為、日本と比べて超高層ビルが建てられ始める様になった時期が、若干遅れました(それでも、ほぼ同時期)。1970年代には、アジアにおける、超高層ビル建設をリード(lead)した日本ですが、日本に引き続き、1980年代に入ると、香港とシンガポール(Singapore)で、本格的な超高層ビル建設ラッシュ(rush)が始まります。また、1985年に、韓国のソウルに完成した、63ビルは、当時アジアで、最も、高いビルであった、日本のSunshine60ビルを追い抜き、完成当時アジアで最も高いビルでした。この様に、1980年代に入ると、日本に続いて、香港、シンガポール(Singapore)、韓国が、まず、アジアにおける、超高層ビル建設をリード(lead)する様になりました。さらに、1990年代半ばに入ると、超高層ビル建設の波は、当時東南アジアで、最も勢い良く発展していた発展途上国、Thai,Malaysia,Indonesiaまで、広がり、最早、超高層ビルは、先進国、準先進国・地域(香港、Singapore、韓国)(当時)、中進国(中南米、南アフリカ)だけの物では、無くなりました。さらに、90年代末以降は、中国が、超高層ビルの建設において、急速に台頭する様になり、超高層ビルの建設は、他の発展途上国にまで広がると供に、中東では、ドバイ(dubai)を中心とした、過熱とも言える超高層ビル建築ブーム(boom)が起りました。

 

 

写真以下12枚(写真は、新宿住友(新宿sumitomo)ビルの内部写真を除き借り物)、1970年代に建てられた、新宿副都心の超高層ビル。設計は、全て日本人建築家又は、日本の建築設計会社の手によるものです。新宿副都心の超高層ビル群は、1970年代当時の、日本の超高層ビルの設計技術力及びデザイン(design)力を試す場でもあった事でしょう。 

 

写真以下2枚。keio plazaホテル。1971年完成。高さは、178m。当時、アジアで最も高いビルであった、同じく日本の世界貿易センタービル(world trade center building)を追い抜き、完成当時アジアで最も高いビルでした。日本で、最初、また、アジアでも最初の超高層ホテルです。


 

 

 

 

 

 

写真以下4枚。新宿住友(新宿sumitomo)ビル。1974年3月に完成した、高さ210mの、オフィス(office)用ビルです。日本のみならず、アジアでも最初の高さ200m以上のビルです。完成当時アジアで最も高いビルでした。断面が、3角形(の様な形)の、個性的なデザイン(design)の超高層ビルである事から、3角ビルと呼ばれています。

 

 

 

 

 

写真以下2枚。前にkjでアップ(upload)した写真の再利用。新宿住友(新宿sumitomo)ビルの、1階のロビー(lobby)から上を見上げる。。。新宿住友(新宿sumitomo)ビルの内側は、断面が三角状の、吹き抜けとなっています。

 

 

 

 

 

 

写真以下2枚。新宿三井(新宿mitsui)ビル。新宿三井(新宿mitsui)ビルは、1974年9月に完成した、高さ、225mの、オフィス(office)用ビルです。新宿住友(新宿sumitomo)ビルを追い抜き、完成当時、アジアで最も高いビルでした。新宿住友(新宿sumitomo)ビルの高さ210m及び、新宿三井(新宿mitsui)ビルの高さ225mは、1972年に完成した、フランスで最初の高さ100mを越す超高層ビルであり、且つ、完成当時、西ヨーロッパで最も高いビルであった、Tour Montparnasseの高さ、210mを意識した物なのかも知れません(ちなみに、Tour Montparnasseは、1990年まで、西ヨーロッパで最も高いビルでした)。

 

 

 

 

 

 

KDDIビル。高さ164.7m。1974年完成。

 

 

損保ジャパン(Sompo Japan)本社ビル(手前のビル)。高さ200m。1976年完成。損保ジャパン(sompo japan)本社ビルの、ほぼ最上階には、損保ジャパン(sompo japan)美術館があります。

 

 

新宿野村(nomura)ビル。高さ209.9m。1978年完成。

 

 

新宿centerビル。高さ216m。1979年完成。

 

 

写真以下4枚(写真は、借り物)、新宿副都心風景。新宿副都心の超高層ビル郡は、先進国日本の首都東京の新しい顔として、本気で開発がなされた地区なので、高層ビルとビルとの間隔、ビルのデザイン(design)や色の個性と調和等、ビル郡全体としての調和が、かなりよく考えられており、世界的に見ても、第一級の都市景観となっていると思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


写真以下26枚は、私が撮影した、新宿副都心の風景。

 

写真以下2枚は、新宿三井(新宿mitsui)ビルと新宿centerビルの間から眺めた、東京都庁第一本庁舎ビル。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真左、新宿野村(nomura)ビル。写真右端、損保ジャパン(Sompo Japan)本社ビル。

 

 

写真以下3枚。新宿三井(新宿mitsui)ビル。

 

 

 

 

 

 

 

 

写真以下2枚。新宿住友(新宿sumitomo)ビル。

 

 

 

 

 

 

左、新宿住友(新宿sumitomo)ビル。右、新宿三井(新宿mitsui)ビル。真ん中奥の高層ビル、Hilton東京(ホテル)。Hilton東京は、元々、東京の別の場所(東京都心部の中でも、中心的な地域)に、1963年に開業しましたが、後に、新宿副都心に移って来ました。

 

 

写真以下2枚。keio plazaホテル。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東京都庁第一本庁舎ビル(右)、東京都庁第二本庁舎ビル(左)。

 

 

写真以下5枚。東京都庁第一本庁舎ビル(一般的に、東京都庁ビルと言う場合、このビルを指す事が多い様です)。1991年完成。高さは、243.4m。新宿副都心の超高層ビルの中では、比較的、新しい方のビルですが、現在は、新宿副都心を代表する超高層ビルとなっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真以下2枚。東京都庁第一本庁舎ビルの中庭から。。。

 

 

 

 

 

 

 

 

写真以下3枚。東京都庁第二本庁舎ビル。高さは、163m。1991年完成。

 

 

 

 

 

 

東京都庁ビルは、東京都(日本の47の都道府県(prefecture)の内の一つ。主に、東京中心部(東京23区)と東京の西部郊外・近郊から成る)の庁舎(government building)となっているビルで、東京都庁第一本庁舎ビル、東京都庁第二本庁舎ビル等から成ります。設計は、丹下健三(Tange Kenzo)(下の補足説明参照)です。ちなみに、東京都庁ビルを設計した丹下健三(Tange Kenzo)は、シンガポール(Singapore)で、最も高い三つのビルの内、二つの設計を手掛けています(OUB center(1986年完成)、UOB plaza one(1995年完成))。シンガポール(Singapore)のスカイライン(skyline)で、目立つビルのデザイン(design)の傾向が、何となく、東京都庁ビルに似ているのは、その為です。ちなみに、シンガポール(Singapore)で、最も高い三つのビルの内、残りの一つ(republic plaza。1995年に完成)は、丹下健三(Tange Kenzo)弟子であり、日本の、世界最高水準の建築家の一人で有る、黒川 紀章(kurokawa kisyo)が、設計しました。
丹下 健三(Tange Kenzo):日本の世界最高水準の建築家の一人。1950年代から、亡くなる近くまで活躍。日本人建築家の中で、初めて世界に名が知られた建築家であると供に、1960年代に、日本を、現代建築設計の分野において、世界最高水準の国の一つに、引き上げた人物として知られています。1913年に生れ、90歳以上生きて、2005年に、亡くなりました。丹下健三(Tange Kenzo)の弟子には、磯崎 新(Isozaki Arata)、黒川 紀章(kurokawa kisyo)、槇 文彦(maki fumihiko)と言った、世界的に有名な、日本人建築家達が、名を連ねています。黒川 紀章(kurokawa kisyo)は、既に亡くなりましたし、他の弟子達も、既に、80歳代の高齢です。

 

新宿Park Towerビル。高さ235m。1994年完成。設計は、丹下健三(Tange Kenzo)。三つに連なった、三角屋根が特徴のビルです。

 

 

写真以下3枚。私の街から。。。

 

 

 

私の街に2つ有る、渋谷(shibuya)区が運営する公立の中学校の内の一つから眺めた、東京opera city tower、新宿Park Tower等(新宿Park Towerの横に、東京都庁第一本庁舎ビルの頭も見えます)。


 

 

私の街の、公営の老人ホーム(高齢者が入居する施設)から眺めた新宿Park Tower(写真右側)等。写真左側の、この写真では、一番高く見えるビルは、東京opera city tower。1996年完成。高さは、約234m。新宿Park Towerも、東京opera city towerも、新宿副都心の超高層ビル群の西南端に位置します。

 

 

 

私の街の、住宅街の道から眺めた、新宿Park Tower。道は、狭いですが、ほとんど住民しか使わないので、自動車の通行も少なく、静かです(自動車が、多く走る、自動車が主体の幅の広い道路は、別にあります)。私の街の道路からは、この他、超高層ビルは、(新宿副都心の超高層ビルではありませんが)、東京midtownの中心的なビルである、ミッドタウン・タワー(Midtown Tower)、六本木ヒルズ(roppongi hills)の中心的なビルである、森(mori)tower等を見る事が出来ます。

 

写真以下5枚。新宿副都心の超高層ビルの一つ、損保ジャパン(Sompo Japan)本社ビル(高さ200m。1976年完成)の展望台から眺めた景色。損保ジャパン(sompo japan)本社ビルは、新宿副都心の、北東端地区にあり、また、損保ジャパン(sompo japan)本社ビル(損保ジャパン(sompo japan)美術館)の展望台は、東に面している為、損保ジャパン(sompo japan)本社ビル(損保ジャパン(sompo japan)美術館)の展望台からは、新宿副都心の超高層ビル郡は眺める事が出来ませんが、(同展望台からは)、東京都心部の中でも、中心的な地区(新宿(東京都心部の西部に位置する)から見ると、東から東南方向)や、東京中心部の東部から北東部方面を眺める事が出来ます。

 

写真以下3枚。損保ジャパン(sompo japan)美術館の展望台から見た、東京都心部の中でも、中心的な地区(展望台からだと、東から東南方向)。

 

 

ちなみに、写真右端の、すぐ近くの超高層ビル(写真では、頭の部分の一部が写っている)は、Mode学園Cocoon Tower(高さ約204m。2008年完成)。Mode学園Cocoon Towerは、新宿副都心の超高層ビルの中では、最も新しい物の一つです。ファッションデザイナー(fashion designer)等を養成する専門学校、Mode学園(1966年創立。本部は、名古屋(nagoya)。東京校は、1980年開校)の、東京校の校舎ビルとなっています。

 

 

 

 

 

 

 

写真中央の背の高いタワー(tower)は、東京tower。高さは約333mで、1958年に完成した当時は、パリのEiffel tower(約324m)を抜かし、世界一高い、(観光用の展望台を有する)塔でした。今となっては、世界的には、それ程は、背の高いタワー(tower)では無くなってしまいましたが、今でも、東京を象徴する建物の一つとなっています。東京towerは、来るべきTVの大衆化時代(日本では、TV放送は、1953年に始まり、当初は、TVは、庶民にとっては、中々手が届かない贅沢品で有ったが、1950年代末には、テレビ(TV)が、庶民の家庭にも普及する様になった)に備えて、東京areaにTV電波を大量に送信する為に建てられたTV電波塔ですが、展望台を有し、観光施設の側面も有しています。

 

 

写真以下2枚。損保ジャパン(sompo japan)美術館の展望台から見た、東京中心部の東部から北東部方面(展望台からだと、東から北東方向)。向こうに見える、一際、背の高いタワー(tower)は、東京ski treeです。

 

 

 

 

 

東京ski tree(写真中央)は、東京中心部の北東部areaに建設中のTV電波塔で、来月末(2月末)に完成し、5月後半に、展望台が開業する予定です。もう外観は完成しており(去年の3月の後半に、完成時の高さ、634mに達しました)、あとは内装を仕上げるだけと言った感じの様です。東京ski treeは、東京towerに代わる、東京areaにTV電波を送信する為の、(東京圏の)主力TV電波塔となる、TV電波塔で、東京tower同様、展望台を有し、観光施設の側面も有しています。高さは、TV電波等を送信する上で、東京都心部に立ち並ぶ200m級の超高層ビルの影響を受けない高さに設定され(ちなみに、東京tower(高さ約333m)が完成した時は、東京には、超高層ビルは存在しませんでした)、634mあり、完成時には、日本で最も高い、また、世界でも、Burj Khalifa(Burj Dubai)に次いで、二番目に高い、(自立式の)建築物となる予定です。また、東京towerは、1958年に完成した当時、世界一高い、(観光用の展望台を有する)塔でしたが、それと同じ様に、東京ski treeも、完成時には、世界一高い、(観光用の展望台を有する)塔となる予定です。ただ、東京towerが完成した時は、調度、日本は、第二次世界大戦後の、奇跡と言われた高度経済成長期だったのですが、現在は、日本は、経済が、長期に渡って(ここ20年程)、不況(停滞中)であると言う点が、大きく異なります。日本は、第一次世界大戦(1914年から1918年)が終る頃には、名実供に、工業国且つ世界の大国(列強)の一つとなりましたが(日本は、第一次世界大戦後は、戦勝国且つ資本主義工業国且つ大国として、イギリス、フランス、イタリアと供に、国際連盟(League of nations)の発足時の常任理事国となりました)、その一方で、日本と、(日本よりも遥かに前から、強力に工業化やインフラ(infrastructure)整備を推し進めていた)イギリス、ドイツ、アメリカ等との差は、ずっと大きく、また、日本は、途中、第二次世界大戦において、各産業が壊滅的な損害を被った事等もあって、(日本は)、1960年代初め頃まで(特に1950年代頃まで)は、南欧諸国(イタリア、スペイン、ポルトガル(Portugal)、ギリシア(Greece))等と供に、資本主義工業国(若しくは、資本主義的な工業国。第二次世界大戦後は、西側先進工業国)の中では、最も貧しく後進的なグループ(group)に属していました。その後、日本は、先進工業国の中で、最も貧しいグループ(group)を抜け出て、ヨーロッパの、豊かな先進工業大国と、豊かさにおいて肩を並べ、さらに、追い抜かしました。国民一人当りのGNPにおいて、日本がアメリカを追い抜かした1980年代から、まだバブル景気(economic bubble)の余韻が残っていた1990年代半ば頃にかけては、おそらく、歴史上、日本の経済が、最も勢いが有った時期だと思います。日本の国民一人当りのGDPが、アメリカ、ドイツ、イギリス、フランス等の2倍程に達し(確か)、ルクセンブルク(Luxembourg)、スイスと並んで、世界最高水準だった時期も有ります(これは、人口5,000万人以上の先進工業大国としては、異例の事です。第2次世界大戦後においては、他は、全盛期のアメリカ位かな。。。)。しかしながら、日本経済が、勢いを失ってから、あまりに長く経ち(不況(経済停滞)が、あまりに長引いた為)、日本は、世界の経済成長から取り残されて、(日本は、豊富な先端技術を有しているので、後進的なグループ(group)に属する訳ではありませんが(その点においては、個人的に、この先、まだまだ大丈夫だと思います))、先進国の中で、最も貧しいグループ(group)に、再び足を踏み入れかけている感じもあり、少し悲観的な見方をすれば、このままだと、完全に足を踏み入れるのも、そう遠くはないかもしれません(そうは、ならない可能性もあると思いますが。。。)。これについて、少し付け加えておくと、日本は、過去に比べて、絶対的に貧しくなったと言う訳ではなく、世界経済の成長に取り残された為(日本が、長期に渡り踏み止まっている間(日本の豊かさが、長期に渡って増えない間)に、他の国が、豊かさを着々と増した為)、(日本は)、先進国の中で、相対的に、貧しくなったと言う事です。ちなみに、個人的に、韓国の経済は、朝鮮戦争(Korean War)による荒廃等を経て、1970年代初め頃までは、発展途上国の水準であったと思いますが、韓国は、1960年代半ば頃からの漢江の奇跡(奇跡の経済成長)により、1980年代には、アジアの四龍(Four Asian Tigers)の一つとして、シンガポール(Singapore)、香港、台湾と共に、完全に中進国(地域)となったと思います。また、個人的には、韓国は、1990年代半ば頃に、完全ではありませんが、ほぼ、先進工業国の仲間入りを果たしたと考えています(個人的に、韓国が、完全に先進国の一員になったのは、IMF危機を克服した後の事だと思います)。それ以降、しばらく、韓国は、先進国の中で、最も貧しいグループ(group)に属していましたが、現在、韓国は、もう少しで、先進国の中で、最も貧しいグループ(group)を抜け出せるかどうかと言う所まで来ており(ちなみに、韓国は、現在、応用技術力においては、先進国の中でも、かなり高い水準にあり、一部の分野(情報通信・造船業の製造技術等)においては、世界最先端にあり、自動車産業も、アメリカ、ヨーロッパ、日本の自動車会社の、強力なライバル(rival)になりつつあると思います)、物価を考慮した、一人当りの実質(PPP )GDP(それぞれの国・地域の物価の違いを考慮している為、それぞれの国や地域の人々の実質的な生活水準を比較する指標の一つともなっています)においては、最新の統計において、イタリア(アメリカ、日本、イギリス、西ドイツ、フランスと供に、G6として、サミット(summit)に、設立当初のメンバー(member)として参加)と、既に、ほぼ同水準か、追い抜かす所まで来ており、日本・フランス・イギリスとも、大差がなくなって来ています。個人的には、韓国の一人当たりの実質(PPP )GDPが、日本に、間も無く(ここ2、3年の間に)追いつく可能性は、かなり高いと思います(外れたら、済みません)。日本に追いつけば、現在、日本と、ほぼ同水準のフランス・イギリスに追いついた事と同じで、そのまま、韓国の、一人当たりの実質(PPP )GDPが伸び続ければ、(現在、日本及びフランス・イギリスと大差ない)ドイツに追いつくのも時間の問題でしょう(韓国の、一人当たりの実質(PPP )GDPが、そこまで行くのかは、まだ、ちょっと分かりませんが。。)。ただ、各国・地域の物価の違いを考慮せず、単純に、実際の、お金で表した一人当りの経済水準・豊かさの指標で有る、一人当りの名目(nominal)GDPは、やはり、古くからの先進国が、高い傾向に有り、一人当りの名目(nominal)GDPにおいて、韓国が、古くからの先進大国(アメリカ、日本、ドイツ、イギリス、フランス、イタリア)に追い付くのは、まだまだ、ずっと先の事だと思います(これも、外れたら、済みません)。実際の、お金で表した一人当りの経済水準・豊かさの指標で有る、一人当りの名目(nominal)GDPが高い場合(自国の通貨の価値が高い場合)、企業の海外駐在員として外国に暮らす場合や、海外留学、海外旅行に有利なのは、もちろんですが、例えば、美術館等が、外国から美術品を買う場合や、建物の設計やレストランの内装のデザイン(design)を、外国の建築家やデザイナー(designer)に依頼する場合も有利になります。また、実際の、お金で見た経済の規模面においても有利に働く事から、国際社会における、自国の存在感と、発言力が増す事になります。

 

写真以下、去年の12月の下旬、損保ジャパン(sompo japan)美術館で、セガンティーニ(Giovanni Segantini)の展覧会(exhibition)を見て来ました。

 

損保ジャパン(sompo japan)美術館は、損保ジャパン(sompo japan)本社ビルの、ほぼ最上階を占める美術館です。損保ジャパン(sompo japan)は、安田火災海上保険(前身で有る、東京火災保険は、1888年創業)と日産火災海上保険(1911年設立)と言う二つの損害保険会社が、合弁して2002年に発足した、損害保険会社で、損保ジャパン(sompo japan)発足前は、損保ジャパン(sompo japan)本社ビルは、安田火災海上保険本社ビル、損保ジャパン(sompo japan)美術館は、安田火災美術館(又は、東郷 青児(togo seiji)美術館)でした。損保ジャパン(sompo japan)は、安田火災海上保険時代から、日本有数の損害保険会社です(日本で、3本の指に入る損害保険会社)。損保ジャパン(sompo japan)美術館は、安田火災海上保険が、社会貢献の一環として、安田火災海上保険の新本社ビル(現在の損保ジャパン(sompo japan)本社ビル)が完成した1976年に、同ビルに開館(open)した、私営の美術館です。

 

損保ジャパン(sompo japan)美術館の収蔵品(collection)の中心は、美術館の設立趣旨に共鳴した、安田火災海上保険と縁の有る(下の補足説明参照)、東郷 青児(togo seiji。1897年生まれ。1978年に亡くなる。日本の有名な、近代・現代画家)が、安田火災海上保険に寄贈した作品となっています。
補足説明:損保ジャパン(sompo japan)美術館のhpを参考にしました(ほぼ引用)。歴代の安田火災海上保険(及び、安田火災海上保険の前身の東京火災保険)の社長のお気に入りの画家であった、東郷 青児(togo seiji)は、1920年代後半、(安田火災海上保険の前身の)東京火災保険の営業案内や記念品等のデザイン(design)を次々に手がけ、特に1935年頃からの、東郷 青児(togo seiji)作の同社のカレンダー(calendar)は、現在も根強いファン(fan)を持っている。

 

損保ジャパン(sompo japan)美術館は、おそらく、世界最大級の、東郷 青児(togo seiji)の作品のコレクション(collection)を有しています。

 

写真以下3枚。絵葉書の写真で、(しかも一部、ブレてしまって)申し訳有りませんが、損保ジャパン(sompo japan)美術館収蔵の、東郷 青児(togo seiji)の作品例です。

 

 

1914年の作品。「自画像」です。

 

 

1926年の作品です。

 

 

1958年の作品です。

 

 

 

 

損保ジャパン(sompo japan)美術館の収蔵品(collection)の中心は、東郷 青児(togo seiji)の作品となっていますが、損保ジャパン(sompo japan)美術館は、東郷 青児(togo seiji)以外の、(西洋及び日本の)有名な、近代・現代画家の作品も所蔵しています。上の絵葉書となっている作品、ゴッホ(Vincent van Gogh)の、「ひまわり」(1888年又は1889年)は、その代表的な物の一つです。ゴッホ(Vincent van Gogh)は、7点の、花瓶に挿された、ひまわり(sunflowers)の作品を制作した事が、広く認められていますが(wikiより)、その7点の作品の内、現存する6点の内の一つです(残りの1点は、第2次世界大戦前に、日本の個人の金持ち(芦屋(ashiya。大阪、京都、神戸を中心とする関西areaを代表する高級住宅地)に居住していた、大阪の実業家)が所有していましたが、第2次世界大戦中の、アメリカ軍の空襲により焼失してしまいました)。
以下、ゴッホ(Vincent van Gogh)の、7点の、花瓶に挿された、ひまわり(sunflowers)の作品のList(現存する物は、この内、6点)。wikiを参考にしました。
12本の向日葵(1888年。Neue Pinakothek(ドイツの美術館)が所有)、15本の向日葵(1888年。National Gallery(イギリス、ロンドン)が所有)、3本の向日葵(1888年。個人所有(アメリカ))、5本の向日葵(1888年。個人所有(日本)。前述の通り、第二次世界大戦中の空襲で消失)、15本の向日葵(1889年。ゴッホ(Gogh)美術館(オランダ)が所有)、15本の向日葵(1889年。損保ジャパン(sompo japan)美術館(日本)が所有)、12本の向日葵(1889年。フィラデルフィア(Philadelphia)美術館(アメリカ)が所有)。

 

写真以下3枚。この時、損保ジャパン(sompo japan)美術館で行われていた、セガンティーニ(Giovanni Segantini)の展覧会(exhibition)のチラシ(leaflet)。

 

この展覧会(exhibition)の展示作品は、スイスのセガンティーニ(Segantini)美術館を始めとして、日本国内外の、美術館、個人コレクター(collector)から、厳選して集められ、(質が高いのは、もちろんの事)、これまで、世界で開催された、セガンティーニ(Giovanni Segantini)の展覧会(exhibition)の中で、展示作品数において、最大規模の物だそうです。
 

 

 

 

 

 

 

セガンティーニ(Giovanni Segantini)は、浮世絵(ukiyoe。日本の17世紀から19世紀の、大衆画・大衆版画)の影響を受けています(もっとも、それは、セガンティーニ(Giovanni Segantini)が受けた、多様な影響の、ほんの、極一部に過ぎませんが。。。)。

 

以下、セガンティーニ(Giovanni Segantini)の絵の、浮世絵(ukiyoe)の影響についての説明は、展覧会(exhibition)の展示解説文等を参考にして書きました。

 

19世紀半ばに、日本が開国した(長年に渡る鎖国を解いた)為、19世紀後半に、ヨーロッパの、上流階級(及び、その他の富裕層)・芸術家達の間で、Japonismと呼ばれる、日本文化の流行が巻き起こりました。これにより、当事の、ヨーロッパの、多くの画家達が、日本の浮世絵(ukiyoe)等の影響を受けました。セガンティーニ(Giovanni Segantini)も、例外ではなく、浮世絵(ukiyoe)の影響を受けています(もっとも、前述の通り、浮世絵(ukiyoe)からの影響は、セガンティーニ(Giovanni Segantini)が受けた、多様な影響の、ほんの、極一部に過ぎません)。

 

セガンティーニ(Giovanni Segantini)の作品の、浮世絵(ukiyoe)からの影響例。これは、「生の天使」と言う、1892年の、セガンティーニ(Giovanni Segantini)の作品ですが、木の枝が、絵の端で、途切れると言うのは、浮世絵(ukiyoe)の、典型的な、表現方法の一つとなっています。

 

 

 

これは、木の枝が、絵の端で、途切れると言う、浮世絵(ukiyoe)の表現方法の参考写真です(写真は、借り物)、写真左は、歌川 広重(utagawa hiroshige。1797年生まれ。1858年に亡くなる。日本の有名な浮世絵(ukiyoe)画家・版画家)の1850年代の作品。写真右は、その作品を模写した、1887年の、ゴッホ(Vincent van Gogh)の作品。

 

 

 


일본에서 최초의 200 m급 초고층 빌딩군등.

 

신쥬쿠 부도심은, (주로) 1970년대에 개발된, 200 m급의 초고층 빌딩이 늘어서는, 비지니스(business) 지구입니다.신쥬쿠 부도심은, 1970년대에 개발된 일본에서 최초의 200 m급 초고층 빌딩군입니다.1970년대는, 제2차 세계대전 후의 부흥과 고도 경제성장이, 일단락해(침착성), (도쿄 하계 올림픽(Olympics)이 개최되어 1961년에 설립된 OECD에, 일본이 가맹한, 1964년은, 「이미 전후는 아니다= 제2차 세계대전에 의한 황폐로부터의 부흥은 끝났다.」라고 해졌습니다), 일본이 성숙한 선진 공업국으로서의 길을 걷기 시작한 연대입니다.지금까지의, 경제발전최중시의 정책으로부터, 공해나 환경에 대한 대처가 본격적으로 행해지게 되어(이것에 의해, 1970년대를 통해서, 일본의 환경은, 대단히 개선되었습니다), 1975년에 설립한, 서미트(summit)에는, 일본은, 미국, 영국, 서독, 프랑스, 이탈리아와 보조자에, G6로서 설립 당초의 멤버(member)로서 참가했습니다.1960년대까지의, 도쿄의 비지니스(business)의 중심지구라고 말하면, 역시 압도적으로 도쿄역을 근처역으로 하는 마루노우치(marunouchi)였습니다(도쿄도심표`패후중에서도, 중심적인 지역에 위치하는 marunouchi는, 지금도 도쿄의 business의 중심지구입니다).마루노우치(marunouchi)는, 일본에 있어서의 산업혁명으로부터 제2차 세계대전 직전까지의 19 세기말로부터 1930년대에 걸치고, 서양 선진국의 대도시 중심부의 비지니스(business) 거리와 비교해도 열등하지 않는 비지니스(business) 거리를 도쿄에 만들려고, 당시의 런던(London)의 비지니스(business) 거리를 모범으로서 거리 단위로 진심으로 개발이 이루어져 온 지구입니다.이러한, 마루노우치(marunouchi)에 대해서, 제2차 세계대전 후의 경제 부흥을 끝내고, 성숙한 선진 공업국으로서의 길을 걷기 시작한 일본의 수도 도쿄의, 새로운 얼굴을 만들려고, 1970년대에, 진심으로 개발된, 신비지니스(business) 지구가, 신쥬쿠 부도심입니다.1960년대에 있고, 일본은, 일본의 같은 지진 지대의 대지진에서도, 괜찮은 초고층 빌딩을 설계·건축하는 기술이 성숙하기에 이르러, 1968년에, 일본 최초의 초고층 빌딩, 가스미가세키(kasumigaseki) 빌딩(일본 최초 한편 아시아 첫 초고층 빌딩이며, 완성 당시 , 아시아에서 가장 비쌌던 빌딩)이 도쿄의 가스미가세키(kasumigaseki)에 완성했습니다(상, 고층 tower에 관해서는, 일본에서는, 이미, 1950년대에는, 날 책의 같은 지진 지대의 대지진에서도, 견딜 수 있는 것 같은, 건축 설계 기술이 확립하고 있어, 1950년대부터 1960년대 초기에 걸치고, 나고야(nagoya)의, 나고야(nagoya) TV tower(1954년 완성.높이 180 m.1929년에 완성한, 높이 250 m의 일본의 의사비 송신소 철탑의 같은 지선식의 철탑을 제외하면, 완성 당시 아시아에서 가장 높은 건축물), 도쿄의, 도쿄 tower(1958년 완성, 높이 약 333 m.완성 당시는, 세계 제일 높은 탑이라고 보조자에, nagoya TV tower를 빠뜨려, 아시아에서, 가장 높은 건축물) 등 , 일본의 대도시에서, 전망대 첨부 고층 tower의 건축 boom가 있었습니다).이러한 흐름을 받고, 신쥬쿠 부도심은, 일본 최초의 200 m급, 초고층 빌딩거리로서 1970년대에 개발되었습니다.1970년대에 들어오면, 일본에서는, 초고층 빌딩의 건설이, 본격화해, 도쿄를 중심으로서 차례차례로 초고층 빌딩이, 지어지는 것처럼 되었습니다.이것은, 일본과 같이 지진 지대에 있는, Los Angels나, SanFrancisco등의 미국 서해안의 대도시에서, 본격적으로 초고층 빌딩이 지어지는 것처럼 되었던 시기와 일치하고 있습니다.반대로, 1970년대에 들어올 때까지는, 미국의 지진 지대는 아닌 지역을 제외하면, 세계에 초고층 빌딩은, 거의 존재하지 않았습니다.1970년대에 지어진, 신쥬쿠 부도심의 초고층 빌딩의 설계자는, 모두 일본인 건축가 또는, 일본의 건축 설계 회사의 손에 의하는 것입니다.신쥬쿠 부도심의 초고층 빌딩군은, 1970년대 당시의, 일본의 초고층 빌딩의 설계 기술력 및 디자인(design) 력을 시험하는 장소이기도 한 일이지요.신쥬쿠 부도심의 초고층 빌딩군은, 선진국 일본의 수도 도쿄의 새로운 얼굴로서 진심으로 개발이 이루어진 지구이므로, 주로 1970년대에 초고층 빌딩이 지어진 에리어(area)는, 초고층 빌딩과 빌딩과의 간격, 빌딩의 디자인(design)이나 색의 개성과 조화등 , 빌딩군 전체적으로의 조화가, 꽤 잘 생각되고 있어 세계적으로 봐도, 제일급의 도시 경관이 되고 있다고 생각합니다(가장, 근년 할 수 있던, 새로운 초고층 빌딩에 의해서, 신쥬쿠의 초고층 빌딩군 전체의 경관의 조화는, 현재, 약간 무너지고 있습니다가...).일본 이외의 아시아에서, 초고층 빌딩을 최초로 짓기 시작한 것은, 홍콩과 신가타 `|르(Singapore)입니다.홍콩과 싱가폴(Singapore)은, 일본이나 미국 서해안과 달리, 특히 지진 지대가 아닙니다만, 아직, 경제적으로, 발전도상인 때문, 일본과 비교해서 초고층 빌딩이 지어지기 시작하는 것처럼 되었던 시기가, 약간 늦었습니다(그런데도, 거의 동시기).1970년대에는, 아시아에 있어서의, 초고층 빌딩 건설을 리드(lead)한 일본입니다만, 일본에 계속해, 1980년대에 들어오면, 홍콩과 싱가폴(Singapore)에서, 본격적인 초고층 빌딩 건설 러쉬(rush)가 시작됩니다.또, 1985년에, 한국의 서울에 완성한, 63 빌딩은, 당시 아시아에서, 가장, 비싼 빌딩인, 일본의 Sunshine60 빌딩을 앞질러, 완성 당시 아시아에서 가장 비싼 빌딩이었습니다.이와 같게, 1980년대에 들어오면, 일본에 잇고, 홍콩, 싱가폴(Singapore), 한국이, 우선, 아시아에 있어서의, 초고층 빌딩 건설을 리드(lead)하는 것처럼 되었습니다.게다가 1990년대 중반에 들어가면, 초고층 빌딩 건설의 물결은, 당시 동남아시아로, 가장 기세 좋게 발전하고 있던 개발 도상국, Thai,MalaysiaIndonesia까지, 퍼져, 최조, 초고층 빌딩은, 선진국, 준선진국·지역(홍콩, Singapore, 한국)(당시 ), 중진국(중남미, 남아프리카)만의 물건에서는, 않게 되었습니다.게다가 90년대말 이후는, 중국이, 초고층 빌딩의 건설에 대하고, 급속히 대두하는 것처럼 되어, 초고층 빌딩의 건설은, 다른 개발 도상국에까지 퍼지면 보조자에, 중동에서는, 도바이(dubai)를 중심으로 한, 과열이라고도 말할 수 있는 초고층 빌딩 건축 붐(boom)이 일어났습니다.

 

 

사진 이하 12매(사진은, 신쥬쿠 스미토모(니이쥬쿠 sumitomo) 빌의 내부 사진을 제외해 차용물), 1970년대에 지어진, 신쥬쿠 부도심의 초고층 빌딩.설계는, 모두 일본인 건축가 또는, 일본의 건축 설계 회사의 손에 의하는 것입니다.신쥬쿠 부도심의 초고층 빌딩군은, 1970년대 당시의, 일본의 초고층 빌딩의 설계 기술력 및 디자인(design) 력을 시험하는 장소이기도 한 일이지요. 

 

사진 이하 2매.keio plaza 호텔.1971년 완성.높이는, 178 m.당시 , 아시아에서 가장 비싼 빌딩인, 같은 일본의 세계 무역센터빌딩(world trade center building)을 앞질러, 완성 당시 아시아에서 가장 비싼 빌딩이었습니다.일본에서, 최초, 또, 아시아에서도 최초의 초고층 호텔입니다.


 

 

 

 

 

 

사진 이하 4매.신쥬쿠 스미토모(니이쥬쿠 sumitomo) 빌.1974년 3월에 완성한, 높이 210 m의, 오피스(office) 용 빌딩입니다.일본 뿐만 아니라, 아시아에서도 최초의 높이 200 m이상의 빌딩입니다.완성 당시 아시아에서 가장 비싼 빌딩이었습니다.단면이, 3 각형(의 같은 형태)의, 개성적인 디자인(design)의 초고층 빌딩인 일로부터, 3각 빌딩으로 불리고 있습니다.

 

 

 

 

 

사진 이하 2매.전에 kj로 업(upload) 한 사진의 재이용.신쥬쿠 스미토모(니이쥬쿠 sumitomo) 빌의, 1층의 로비(lobby)에서 위를 올려본다...신쥬쿠 스미토모(니이쥬쿠 sumitomo) 빌의 안쪽은, 단면이 삼각장의, 불어되고 있습니다.

 

 

 

 

 

 

사진 이하 2매.신쥬쿠 미츠이(니이쥬쿠 mitsui) 빌.신쥬쿠 미츠이(니이쥬쿠 mitsui) 빌은, 1974년 9월에 완성한, 높이, 225 m의, 오피스(office) 용 빌딩입니다.신쥬쿠 스미토모(니이쥬쿠 sumitomo) 빌을 앞질러, 완성 당시 , 아시아에서 가장 비싼 빌딩이었습니다.신쥬쿠 스미토모(니이쥬쿠 sumitomo) 빌의 높이 210 m 및, 신쥬쿠 미츠이(니이쥬쿠 mitsui) 빌의 높이 225 m는, 1972년에 완성한, 프랑스에서 최초의 높이 100 m를 넘는 초고층 빌딩이며, 한편, 완성 당시 , 서유럽에서 가장 비싼 빌딩인, Tour Montparnasse의 높이, 210 m를 의식한 것인지도 모릅니다(덧붙여서, Tour Montparnasse는, 1990년까지, 서유럽에서 가장 비싼 빌딩이었습니다).

 

 

 

 

 

 

KDDI 빌딩.높이 164.7m.1974년 완성.

 

 

손해보험 재팬(Sompo Japan) 본사 빌딩(앞의 빌딩).높이 200 m.1976년 완성.손해보험 재팬(sompo japan) 본사 빌딩의, 거의 최상층에는, 손해보험 재팬(sompo japan) 미술관이 있습니다.

 

 

신쥬쿠 노무라(nomura) 빌.높이 209.9m.1978년 완성.

 

 

신쥬쿠 center 빌딩.높이 216 m.1979년 완성.

 

 

사진 이하 4매(사진은, 차용물), 신쥬쿠 부도심 풍경.신쥬쿠 부도심의 초고층 빌딩군은, 선진국 일본의 수도 도쿄의 새로운 얼굴로서 진심으로 개발이 이루어진 지구이므로, 고층빌딩과 빌딩과의 간격, 빌딩의 디자인(design)이나 색의 개성과 조화등 , 빌딩군 전체적으로의 조화가, 꽤 잘 생각되고 있어 세계적으로 봐도, 제일급의 도시 경관이 되고 있다고 생각합니다.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


사진 이하 26매는, 내가 촬영한, 신쥬쿠 부도심의 풍경.

 

사진 이하 2매는, 신쥬쿠 미츠이(니이쥬쿠 mitsui) 빌과 신쥬쿠 center 빌딩의 사이부터 바라본, 도쿄도청제일 본청사빌딩.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

사진왼쪽, 신쥬쿠 노무라(nomura) 빌.사진 우단, 손해보험 재팬(Sompo Japan) 본사 빌딩.

 

 

사진 이하 3매.신쥬쿠 미츠이(니이쥬쿠 mitsui) 빌.

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하 2매.신쥬쿠 스미토모(니이쥬쿠 sumitomo) 빌.

 

 

 

 

 

 

왼쪽, 신쥬쿠 스미토모(니이쥬쿠 sumitomo) 빌.오른쪽, 신쥬쿠 미츠이(니이쥬쿠 mitsui) 빌.한가운데안쪽의 고층빌딩, Hilton 도쿄(호텔).Hilton 도쿄는, 원래, 도쿄의 다른 장소(도쿄도심부안에서도, 중심적인 지역)에, 1963년에 개업했습니다만, 후에, 신쥬쿠 부도심으로 옮겨 왔습니다.

 

 

사진 이하 2매.keio plaza 호텔.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

도쿄도청제일 본청사빌딩( 오른쪽), 도쿄도청제2 본청사빌딩(왼쪽).

 

 

사진 이하 5매.도쿄도청제일 본청사빌딩(일반적으로, 도쿄도청빌딩이라고 하는 경우, 이 빌딩을 가리키는 것이 많은 같습니다).1991년 완성.높이는, 243.4m.신쥬쿠 부도심의 초고층 빌딩 중(안)에서는, 비교적, 새로운 분 빌딩입니다만, 현재는, 신쥬쿠 부도심을 대표하는 초고층 빌딩이 되고 있습니다.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하 2매.도쿄도청제일 본청사빌딩의 안뜰로부터...

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하 3매.도쿄도청제2 본청사빌딩.높이는, 163 m.1991년 완성.

 

 

 

 

 

 

도쿄도청빌딩은, 도쿄도(일본의 47의 도도부현(prefecture) 중의 하나.주로, 도쿄 중심부(도쿄 23구)와 도쿄의 서부 교외·근교로부터 완성된다)의 청사(government building)가 되고 있는 빌딩에서, 도쿄도청제일 본청사빌딩, 도쿄도청제2 본청사빌딩등으로부터 완성됩니다.설계는, 단게 겐조(Tange Kenzo)(아래의 보충 설명 참조)입니다.덧붙여서, 도쿄도청빌딩을 설계한 단게 겐조(Tange Kenzo)는, 싱가폴(Singapore)에서, 가장 높은 세 개의 빌딩중, 두 개의 설계를 다루고 있습니다(OUB center(1986년 완성), UOB plaza one(1995년 완성)).싱가폴(Singapore)의 스카이라인(skyline)으로, 눈에 띄는 빌딩의 디자인(design)의 경향이, 웬지 모르게, 도쿄도청빌딩을 닮아 있는 것은, 그 때문입니다.덧붙여서, 싱가폴(Singapore)에서, 가장 높은 세 개의 빌딩중, 나머지의 하나(republic plaza.1995년에 완성)은, 단게 겐조(Tange Kenzo) 제자이며, 일본의, 세계 최고 수준의 건축가의 혼자서 있는, 구로카와 기쇼(kurokawa kisyo)가, 설계했습니다.
단게 겐조(TangeKenzo):일본의 세계 최고 수준의 건축가의 한 명.1950년대부터, 죽는 근처까지 활약.일본인 건축가중에서, 처음으로 세계에 이름이 알려진 건축가이라고 보조자에, 1960년대에, 일본을, 현대 건축 설계의 분야에 있고, 세계 최고 수준의 나라의 하나에, 끌어올린 인물로서 알려져 있습니다.1913년에 태어나 90세 이상 살고, 2005년에, 돌아가셨습니다.단게 겐조(Tange Kenzo)의 제자에게는, 이소자키 아라타(Isozaki Arata), 구로카와 기쇼(kurokawa kisyo), 마키 후미히코(maki fumihiko)라고 말한, 세계적으로 유명한, 일본인 건축가들이, 일원이 되고 있습니다.구로카와 기쇼(kurokawa kisyo)는, 이미 돌아가셨고, 다른 제자들도, 이미, 80대의 고령입니다.

 

신쥬쿠 Park Tower 빌딩.높이 235m.1994년 완성.설계는, 단게 겐조(Tange Kenzo).셋에 늘어선, 삼각 지붕이 특징의 빌딩입니다.

 

 

사진 이하 3매.나의 거리로부터...

 

 

 

나의 거리에 2개 있는, 시부야(shibuya) 구가 운영하는 공립의 중학교 중의 하나로부터 바라본, 도쿄 opera city tower, 신쥬쿠 Park Tower등 (신쥬쿠 Park Tower의 옆에, 도쿄도청제일 본청사빌딩의 머리도 보입니다).


 

 

나의 거리의, 공영의 양로원(고령자가 입주하는 시설)으로부터 바라본 신쥬쿠 Park Tower(사진 우측) 등.사진 좌측의, 이 사진에서는, 제일 높게 보이는 빌딩은, 도쿄 opera city tower.1996년 완성.높이는, 약 234 m.신쥬쿠 Park Tower도, 도쿄 opera city tower도, 신쥬쿠 부도심의 초고층 빌딩군의 서남단에 위치합니다.

 

 

 

나의 거리의, 주택가의 길로부터 바라본, 신쥬쿠 Park Tower.길은, 좁습니다만, 거의 주민 밖에 사용하지 않기 때문에, 자동차의 통행도 적고, 조용합니다(자동차가, 많이 달리는, 자동차가 주체의 폭의 넓은 도로는, 따로 있습니다).나의 거리의 도로에서는, 이 외, 초고층 빌딩은, (신쥬쿠 부도심의 초고층 빌딩이 아닙니다만), 도쿄 midtown의 중심적인 빌딩인, 미드타운·타워(Midtown Tower), 록뽄기 힐즈(roppongi hills)의 중심적인 빌딩인, 숲(mori) tower등을 볼 수가 있습니다.

 

사진 이하 5매.신쥬쿠 부도심의 초고층 빌딩의 하나, 손해보험 재팬(Sompo Japan) 본사 빌딩(높이 200 m.1976년 완성)의 전망대로부터 바라본 경치.손해보험 재팬(sompo japan) 본사 빌딩은, 신쥬쿠 부도심의, 북동단 지구에 있어, 또, 손해보험 재팬(sompo japan) 본사 빌딩(손해보험 재팬(sompo japan) 미술관)의 전망대는, 동쪽에 접하고 있기 때문에(위해), 손해보험 재팬(sompo japan) 본사 빌딩(손해보험 재팬(sompo japan) 미술관)의 전망대에서는, 신쥬쿠 부도심의 초고층 빌딩군은 바라볼 수가 없습니다만, (같은 전시회망대에서는), 도쿄도심부안에서도, 중심적인 지구(신쥬쿠(도쿄도심부의 서부에 위치한다)로부터 보면, 동쪽에서 동남 방향)나, 도쿄 중심부의 동부에서 북동부 방면을 바라볼 수가 있습니다.

 

사진 이하 3매.손해보험 재팬(sompo japan) 미술관의 전망대로부터 본, 도쿄도심부안에서도, 중심적인 지구(전망대로부터라고, 동쪽에서 동남 방향).

 

 

덧붙여서, 사진 우단의, 곧 가까이의 초고층 빌딩(사진에서는, 머리의 부분의 일부가 비치고 있다)은, Mode 학원 Cocoon Tower(높이 약 204 m.2008년 완성).Mode 학원 Cocoon Tower는, 신쥬쿠 부도심의 초고층 빌딩 중(안)에서는, 가장 새로운 것의 하나입니다.패션 디자이너(fashion designer) 등을 양성하는 전문학교, Mode 학원(1966년 창립.본부는, 나고야(nagoya).도쿄교는, 1980년 개교)의, 도쿄교의 교사 빌딩이 되고 있습니다.

 

 

 

 

 

 

 

사진 중앙의 키가 큰 타워(tower)는, 도쿄 tower.높이는 약 333 m로, 1958년에 완성한 당시는, 파리의 Eiffel tower( 약 324 m)를 빠뜨려, 세계 제일 높은, (관광용의 전망대를 가진다) 탑이었습니다.이제 와서는, 세계적으로는, 그렇게는, 키가 큰 타워(tower)는 아니어져버렸습니다만, 지금도, 도쿄를 상징하는 건물의 하나가 되고 있습니다.도쿄 tower는, 와야 할 TV의 대중화 시대(일본에서는, TV방송은, 1953년에 시작해, 당초는, TV는, 서민에게 있어서는, 꽤 손이 닿지 않는 사치품으로 있었지만, 1950년대말에는, 텔레비젼(TV)이, 서민의 가정에도 보급하는 것처럼 되는 것)에 대비하고, 도쿄 area에 TV전파를 대량으로 송신하기 위해 지어진 TV전파탑입니다만, 전망대를 가져, 관광 시설의 측면도 가지고 있습니다.

 

 

사진 이하 2매.손해보험 재팬(sompo japan) 미술관의 전망대로부터 본, 도쿄 중심부의 동부에서 북동부 방면(전망대로부터라고, 동쪽에서 북동 방향).저 편으로 보인다, 한층 더, 키가 큰 타워(tower)는, 도쿄 ski tree입니다.

 

 

 

 

 

도쿄 ski tree(사진 중앙)는, 도쿄 중심부의 북동부 area에 건설중의 TV전파탑에서, 다음 달말(2월말)에 완성해, 5월 후반에, 전망대가 개업할 예정입니다.이제(벌써) 외관은 완성하고 있어(작년의 3월의 후반에, 완성시의 높이, 634 m에 이르렀습니다), 나머지는 내장을 마무리할 뿐(만큼)이라고 한 느낌의 같습니다.도쿄 ski tree는, 도쿄 tower에 대신하는, 도쿄 area에 TV전파를 송신하기 때문에(위해)의, (동경권의) 주력 TV전파탑이 되는, TV전파탑에서, 도쿄 tower 같이, 전망대를 가져, 관광 시설의 측면도 가지고 있습니다.높이는, TV전파등을 송신하는데 있어서, 도쿄도심부에 나란히 서는 200 m급의 초고층 빌딩의 영향을 받지 않는 높이로 설정되어(덧붙여서, 도쿄 tower(높이 약 333 m) 가 완성되었을 때는, 도쿄에는, 초고층 빌딩은 존재하지 않았습니다), 634 m 있어, 완성시에는, 일본에서 가장 높은, 또, 세계에서도, Burj Khalifa(Burj Dubai)에 이어, 두번째에 높은, (자립식의) 건축물이 될 예정입니다.또, 도쿄 tower는, 1958년에 완성한 당시 , 세계 제일 높은, (관광용의 전망대를 가진다) 탑이었지만, 그것과 같게, 도쿄 skitree도, 완성시에는, 세계 제일 높은, (관광용의 전망대를 가진다) 탑이 될 예정입니다.단지, 도쿄 tower가 완성했을 때는, 세간, 일본은, 제이차 세계대전 후의, 기적이라고 해진 고도 경제성장기였습니다만, 현재는, 일본은, 경제가, 장기에 걸치고(최근 20년 정도), 불황(정체중)이다고 하는 점이, 크게 다릅니다.일본은, 제1차 세계 대전(1914년부터 1918년)이 끝나는 무렵에는, 명실보조자에, 공업국 한편 세계의 대국(열강)의 하나가 되었습니다만(일본은, 제1차 세계 대전 후는, 전승국 한편 자본주의 공업국 한편 대국으로서 영국, 프랑스, 이탈리아와 보조자에, 국제연맹(League ofnations)의 발족시의 상임이사국이 되었습니다), 그 한편, 일본과(일본보다 훨씬 더 전부터, 강력하게 공업화나 인프라(infrastructure) 정비를 추진하고 있던) 영국, 독일, 미국등과의 차이는, 훨씬 크고, 또, 일본은, 도중 , 제이차 세계대전에 대하고, 각 산업이 괴멸적인 손해를 입은 일등도 있고, (일본은), 1960년대 초 무렵까지(특히 1950년대무렵까지)는, 남 유럽 제국(이탈리아, 스페인, 포르투갈(Portugal), 그리스(Greece)) 등과 보조자에, 자본주의 공업국(혹은, 자본주의적인 공업국.제이차 세계대전 후는, 서쪽 선진 공업국) 중(안)에서는, 가장 궁핍하게 후진적인 그룹(group)에 속하고 있었습니다.그 후, 일본은, 선진 공업국안에서, 가장 궁핍한 그룹(group)을 빠져 나오고, 유럽의, 풍부한 선진 공업 대국과 풍부함에 두어 어깨를 나란히 해 게다가 쫓아 빠뜨렸습니다.국민 한 명당의 GNP에 대하고, 일본이 미국을 쫓아 빠뜨린 1980년대부터, 아직 버블 경기(economicbubble)의 여운이 남아 있던 1990년대 중반무렵에 있어서는, 아마, 역사상, 일본의 경제가, 가장 기세가 있었던 시기라고 생각합니다.일본의 국민 한 명당의 GDP가, 미국, 독일, 영국, 프랑스등의 2배 정도에 이르러(확실히), 룩셈부르크(Luxembourg), 스위스와 함께, 세계 최고 수준이었던 시기도 있습니다(이것은, 인구 5000만명 이상의 선진 공업 대국으로서는, 이례의 일입니다.제2차 세계대전 후에 대해서는, 외는, 전성기의 미국위일까...).그렇지만, 일본 경제가, 기세를 잃고 나서, 너무나 길게 지나(불황(경제 정체)이, 너무나 길어진 때문), 일본은, 세계의 경제성장으로부터 뒤쳐지고, (일본은, 풍부한 첨단기술을 가지고 있으므로, 후진적인 그룹(group)에 속하는 것이 아닙니다만(그 점에 있어서는, 개인적으로, 이 앞, 아직도 괜찮다고 생각합니다)), 선진국 중(안)에서, 가장 궁핍한 그룹(group)에, 다시 발을 디뎌 걸치고 있는 느낌도 있어, 조금 비관적인 견해를 하면, 이대로라면, 완전하게 발을 디디는 것도, 그렇게 멀지는 않을지도 모릅니다(그렇게는, 안 될 가능성도 있다고 생각합니다만...).이것에 대해서, 조금 덧붙여 두면, 일본은, 과거에 비해, 절대적으로 궁핍해졌다고 하는 것이 아니고, 세계경제의 성장에 남겨진 때문(일본이, 장기에 걸쳐 밟아 멈추어 있는 동안(일본의 풍부함이, 장기에 걸쳐 증가하지 않는 동안)에, 다른 나라가, 풍부함을 순조롭게 늘어난 때문), (일본은), 선진국 중(안)에서, 상대적으로, 궁핍해졌다고 하는 일입니다.덧붙여서, 개인적으로, 한국의 경제는, 한국 전쟁 (Korean War)에 의한 황폐등을 거치고, 1970년대 초 무렵까지는, 개발 도상국의 수준이었다고 생각합니다만, 한국은, 1960년대 중반무렵부터의 한강의 기적(기적의 경제성장)에 의해, 1980년대에는, 아시아의 4용(Four AsianTigers)의 하나로서 싱가폴(Singapore), 홍콩, 대만과 함께, 완전하게 중진국(지역)이 되었다고 생각합니다.또, 개인적으로는, 한국은, 1990년대 중반무렵에, 완전하지는 않습니다만, 거의, 선진 공업국의 동참을 완수했다고 생각하고 있습니다(개인적으로, 한국이, 완전하게 선진국의 일원이 된 것은, IMF 위기를 극복한 후의 일이라고 생각합니다).그 이후, 당분간, 한국은, 선진국 중(안)에서, 가장 궁핍한 그룹(group)에 속하고 있었습니다만, 현재, 한국은, 머지 않아, 선진국 중(안)에서, 가장 궁핍한 그룹(group)을 빠져 나갈 수 있을지라고 하는 곳까지 오고 있어(덧붙여서, 한국은, 현재, 응용 기술력에 대해서는, 선진국 중(안)에서도, 꽤 높은 수준에 있어, 일부의 분야(정보 통신·조선업의 제조 기술등 )에 있어서는, 세계 최첨단에 있어, 자동차 산업도, 미국, 유럽, 일본의 자동차 회사의, 강력한 라이벌(rival)이 되고 있다고 생각합니다), 물가를 고려한, 한 명당의 실질(PPP) GDP(각각의 나라·지역의 물가의 차이를 고려하고 있기 때문에(위해), 각각의 나라나 지역의 사람들의 실질적인 생활수준을 비교하는 지표의 하나나 되고 있습니다)에 대해서는, 최신의 통계에 대하고, 이탈리아(미국, 일본, 영국, 서독, 프랑스와 보조자에, G6로서 서미트(summit)에, 설립 당초의 멤버(member)로서 참가)와 이미, 거의 동수준인가, 쫓아 빠뜨리는 곳까지 오고 있어 일본·프랑스·영국 모두, 큰 차이가 없어져 와있습니다.개인적으로는, 한국의 일인당의 실질(PPP ) GDP가, 일본에, 이윽고(최근 2, 3년간에) 따라잡을 가능성은, 꽤 높다고 생각합니다(빗나가면, 끝나지 않습니다).일본에 따라 잡으면, 현재, 일본과 거의 동수준의 프랑스·영국에 따라 잡은 일과 같고, 그대로, 한국의, 일인당의 실질(PPP ) GDP가 계속 성장하면 , (현재, 일본 및 프랑스·영국과 큰 차이 없다) 독일에 따라 잡는 것도 시간의 문제지요(한국의, 일인당의 실질(PPP) GDP가, 거기까지 가는지는, 아직, 잘 모릅니다만..).단지, 각국·지역의 물가의 차이를 고려하지 않고, 단순하게, 실제의, 돈으로 나타낸 한 명당의 경제 수준·풍부함의 지표로 있는, 한 명당의 명목(nominal) GDP는, 역시, 옛부터의 선진국이, 높은 경향에 있어, 한 명당의 명목(nominal) GDP에 대하고, 한국이, 옛부터의 센신대국(미국, 일본, 독일, 영국, 프랑스, 이탈리아)에 따라붙는 것은, 아직도, 쭉 앞의 일이라고 생각합니다(이것도, 빗나가면, 끝나지 않습니다).실제의, 돈으로 나타낸 한 명당의 경제 수준·풍부함의 지표로 있는, 한 명당의 명목(nominal) GDP가 높은 경우(자국의 통화의 가치가 높은 경우), 기업의 해외 주재원으로서 외국에 사는 경우나, 해외 유학, 해외 여행에 유리한 것은, 물론입니다만, 예를 들면, 미술관등이, 외국으로부터 미술품을 사는 경우나, 건물의 설계나 레스토랑의 내장의 디자인(design)을, 외국의 건축가나 디자이너(designer)에 의뢰하는 경우도 유리하게 됩니다.또, 실제의, 돈으로 본 경제의 규모면에 있어도 유리하게 일하는 일로부터, 국제사회에 있어서의, 자국의 존재감과 발언력이 늘어나는 일이 됩니다.

 

사진 이하, 작년의 12월의 하순, 손해보험 재팬(sompo japan) 미술관에서, 세간티니(Giovanni Segantini)의 전람회(exhibition)를 보고 왔습니다.

 

손해보험 재팬(sompo japan) 미술관은, 손해보험 재팬(sompo japan) 본사 빌딩의, 거의 최상층을 차지하는 미술관입니다.손해보험 재팬(sompo japan)은, 야스다 화재해상보험(전신으로 있는, 도쿄 화재보험은, 1888년 창업)과 닛산 화재해상보험(1911년 설립)이라고 하는 두 개의 손해보험 회사가, 합작 해 2002년에 발족한, 손해보험 회사에서, 손해보험 재팬(sompo japan) 발족전은, 손해보험 재팬(sompo japan) 본사 빌딩은, 야스다 화재해상보험 본사 빌딩, 손해보험 재팬(sompo japan) 미술관은, 야스다화재 미술관(또는, 도고 세이지(togo seiji) 미술관)였습니다.손해보험 재팬(sompo japan)은, 야스다 화재해상보험 시대부터, 일본 유수한 손해보험 회사입니다(일본에서, 3개의 손가락에 들어오는 손해보험 회사).손해보험 재팬(sompo japan) 미술관은, 야스다 화재해상보험이, 사회공헌의 일환으로서 야스다 화재해상보험의 새책사 빌딩(현재의 손해보험 재팬(sompo japan) 본사 빌딩) 이 완성된 1976년에, 동빌딩에 개관(open)한, 사영의 미술관입니다.

 

손해보험 재팬(sompo japan) 미술관의 수장품(collection)의 중심은, 미술관의 설립 취지에 공명한, 야스다 화재해상보험과 인연이 있는(아래의 보충 설명 참조), 도고 세이지(togo seiji.1897 년생.1978년에 죽는다.일본의 유명한, 근대·현대 화가)가, 야스다 화재해상보험에 기증한 작품이 되고 있습니다.
보충 설명:손해보험 재팬(sompo japan) 미술관의 hp를 참고로 했습니다(거의 인용).역대의 야스다 화재해상보험(및, 야스다 화재해상보험의 전신의 도쿄 화재보험)의 사장의 마음에 드는 화가인, 도고 세이지(togo seiji)는, 1920년대 후반, (야스다 화재해상보험의 전신의) 도쿄 화재보험의 영업 안내나 기념품등의 디자인(design)을 차례차례로 다루어 특히 1935년경부터의, 도고 세이지(togo seiji) 작의 동사의 캘린더(calendar)는, 현재도 뿌리 깊은 팬(fan)을 가지고 있다.

 

손해보험 재팬(sompo japan) 미술관은, 아마, 세계 최대급의, 도고 세이지(togo seiji)의 작품의 콜렉션(collection)을 가지고 있습니다.

 

사진 이하 3매.그림 엽서의 사진으로, (게다가 일부, 흔들려 한쪽으로 기울어) 죄송합니다만, 손해보험 재팬(sompo japan) 미술관 수장의, 도고 세이지(togo seiji)의 작품예입니다.

 

 

1914년의 작품.「자화상」입니다.

 

 

1926년의 작품입니다.

 

 

1958년의 작품입니다.

 

 

 

 

손해보험 재팬(sompo japan) 미술관의 수장품(collection)의 중심은, 도고 세이지(togo seiji)의 작품이 되고 있습니다만, 손해보험 재팬(sompo japan) 미술관은, 도고 세이지(togo seiji) 이외의, (서양 및 일본의) 유명한, 근대·현대 화가의 작품도 소장하고 있습니다.위의 그림 엽서가 되고 있는 작품, 고호(Vincent van Gogh)의, 「해바라기」(1888년 또는 1889년)은, 그 대표적인 것의 하나입니다.고호(Vincent van Gogh)는, 7점의, 화병에 꽂아진, 해바라기(sunflowers)의 작품을 제작한 일이, 넓게 인정되고 있습니다만(wiki보다), 그 7점의 작품중, 현존 하는 6점 중의 하나입니다(나머지의 1점은, 제2차 세계대전전에, 일본의 개인의 부자(아시야(ashiya.오사카, 쿄토, 코베를 중심으로 하는 칸사이 area를 대표하는 고급 주택지)에 거주하고 있던, 오사카의 실업가)가 소유하고 있었습니다만, 제2차 세계대전중의, 미군의 공습에 의해 소실해 버렸습니다).
이하, 고호(Vincent vanGogh)의, 7점의, 화병에 꽂아진, 해바라기(sunflowers)의 작품의 List(현존 하는 것은, 이 안, 6점).wiki를 참고로 했습니다.
12개의 해바라기(1888년.Neue Pinakothek(독일의 미술관)가 소유), 15개의 해바라기(1888년.National Gallery(영국, 런던)가 소유), 3개의 해바라기(1888년.개인 소유(미국)), 5개의 해바라기(1888년.개인 소유(일본).상술한 대로, 제이차 세계대전중의 공습으로 소실), 15개의 해바라기(1889년.고호(Gogh) 미술관(네델란드)이 소유), 15개의 해바라기(1889년.손해보험 재팬(sompo japan) 미술관(일본)이 소유), 12개의 해바라기(1889년.필라델피아(Philadelphia) 미술관(미국)이 소유).

 

사진 이하 3매.이 때, 손해보험 재팬(sompo japan) 미술관에서 행해지고 있던, 세간티니(Giovanni Segantini)의 전람회(exhibition)의 광고지(leaflet).

 

이 전람회(exhibition)의 전시 작품은, 스위스의 세간티니(Segantini) 미술관을 시작으로 하고, 일본 내외의, 미술관, 개인 컬렉터(collector)로부터, 엄선해 모아지고(질이 높은 것은, 물론의 일), 지금까지, 세계에서 개최된, 세간티니(Giovanni Segantini)의 전람회(exhibition)안에서, 전시 작품수에 대하고, 최대 규모의 물건이라고 합니다.
 

 

 

 

 

 

 

세간티니(Giovanni Segantini)는, 강호시대의 풍속화(ukiyoe.일본의 17 세기부터 19 세기의, 대중화·대중 판화)의 영향을 받고 있습니다(가장, 그것은, 세간티니(Giovanni Segantini)가 받은, 다양한 영향의, 그저, 극히 일부에 지나지 않습니다만...).

 

이하, 세간티니(Giovanni Segantini)의 그림의, 강호시대의 풍속화(ukiyoe)의 영향에 대한 설명은, 전람회(exhibition)의 전시 해설문등을 참고로 하고 썼습니다.

 

19 세기 중반에, 일본이 개국한(오랜 세월에 걸치는 쇄국을 푼) 때문, 19 세기 후반에, 유럽의, 상류계급(및, 그 외의 부유층)·예술가들의 사이로, Japonism로 불리는, 일본 문화의 유행이 일어났습니다.이것에 의해, 당사의, 유럽의, 많은 화가들이, 일본의 강호시대의 풍속화(ukiyoe) 등의 영향을 받았습니다.세간티니(Giovanni Segantini)도, 예외가 아니고, 강호시대의 풍속화(ukiyoe)의 영향을 받고 있습니다(가장, 상술한 대로, 강호시대의 풍속화(ukiyoe)로부터의 영향은, 세간티니(Giovanni Segantini)가 받은, 다양한 영향의, 그저, 극히 일부에 지나지 않습니다).

 

세간티니(Giovanni Segantini)의 작품의, 강호시대의 풍속화(ukiyoe)로부터의 영향예.이것은, 「생의 천사」라고 하는, 1892년의, 세간티니(Giovanni Segantini)의 작품입니다만, 나뭇가지가, 그림의 구석에서, 중단된다고 하는 것은, 강호시대의 풍속화(ukiyoe)의, 전형적인, 표현 방법의 하나가 되고 있습니다.

 

 

 

이것은, 나뭇가지가, 그림의 구석에서, 중단된다고 하는, 강호시대의 풍속화(ukiyoe)의 표현 방법의 참고 사진입니다(사진은, 차용물), 사진왼쪽은, 두타가와 히로시게(utagawa hiroshige.1797 년생.1858년에 죽는다.일본의 유명한 강호시대의 풍속화(ukiyoe) 화가·판화가)의 1850년대의 작품.사진 오른쪽은, 그 작품을 모사한, 1887년의, 고호(Vincent van Gogh)의 작품.

 

 

 

 



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