伝統文化

『日本の名産事典』(遠藤元男・児玉幸多・宮本常一編、東洋経済新報社)によれば、戦前は台湾から中国大陸まで輸出していた団扇も、今では竹でなくポリエステルの骨を丸亀から取り寄せ、紙を来民で張って仕上げるようになったという。その紙もかつては地元の和紙を使っていたが、現在では多くが四国から取り寄せる泉貨紙に変っている。また糊ふすまも、麩のかすで作ったものから合成糊に変ったと述べられている。
 私は上田真理子さんの案内で、来民で今も手作りの団扇を製作している栗川商店を訪ねた。そこで、最後の来民団扇師といわれる高田正輔氏の話を聞くことができた。
 高田正輔氏によれば、団扇の竹は真竹でなければならず、それも虫の食わない、寒の真竹を切って使ったという。かつての来民は真竹の産地だったが、大分県から真竹の供給をあおぐようになって競争力をおとし、ここで製作している手漉きの和紙を使った団扇は、今では民芸品の存在となり、紙も福岡県の八女から仕入れているという。
 団扇の原材料は、紙と竹と糊である。『鹿本町史』の説明にあるように、来民が団扇製造の原材料に恵まれていたということは、真竹だけでなく紙の産地でもあったということである。「かつて熊本県の各地では良質の手漉き和紙を産し、とくに玉名郡・鹿本郡で作る引きの強い和紙は有名な山鹿燈籠だけでなく、うちわの材料にも適していた」(『日本の名産事典』)のである。
 この引きの強い和紙のはじまりは、成田潔英氏の『九州の製紙業』(丸善書店)に「加藤清正は高麗から紙漉工の道慶、慶春の兄弟を連れて来た。そして清正は、道慶を玉名郡木葉村の浦田谷に、慶春を鹿本郡廣見村の川原谷に配置して製紙に従事させた」とあるそれであることはいうまでもない。この『九州の製紙業』には、一九四七年現在、熊本県和紙工業協同組合城北支部(鹿本、玉名、菊池各部を含む)傘下に七四戸の手漉製紙業者が存在していることが記されていて、その二〇年前の一九二八年の農林省農務局「手漉製紙二関スル調書」では、同地域に一六六戸の手漉製紙業者が居たとある。しかし一九七三年の調査によると、一戸の手漉製紙業者も存在しないとのことである。
 八女から和紙を仕入れているのは、来民団扇だけでなく、山鹿燈籠もそうである。森田誠一氏の『熊本県の歴史』(山川出版社)には、「川原紙は隣接の玉名郡緑村一帯にのこり、有名な山鹿燈籠の原料は今日も緑村の手漉紙を用いている」とあるが、山鹿燈籠工芸協同組合の中島二人理事長によると、玉名郡の方へは戦後二、三回たのんだだけで、今は福岡県八女市の柳瀬に注文しているという。
 この山鹿燈籠は、和紙と糊とを用いて精巧な細工により種々の構築物を模造し、その中に燈火を入れるもので、それが大宮神社に奉納される八月十六日の夜は、九州を代表する夏の祭りになっている。特に、頭に金燈籠をつけて娘たちが踊る「千人燈籠踊り」は有名である。
 来民に隣接した山鹿市内の町内には、燈籠師の一年の成果があふれている。ざっと二八箇の燈籠が町々に展示されていた。これらの山鹿燈籠のことを、土地では「上り燈籠」と呼んでいる。それから、温泉プラザ内にある「山鹿燈籠センター」では、女燈籠師による「金燈籠」の製作実演を見学した。燈籠の生命は和紙であり、八女に特注しているのだと、説明していた。千人燈籠踊りは「よへほ節」に合わせて踊るのだが、その歌詞に「主は山鹿の骨なし燈籠」とあるように、いかに大きな燈籠でも、紙だけでつくられているのだから、その紙質が生命であることがよくわかった。


(二)

 来民団扇と山鹿燈籠、そして今はその歴史的使命を終えている山鹿和傘は、慶春に始まる玉名郡.鹿本郡産の引きの強い和紙によって成立していた。この「引きの強い和紙」とは、「朝鮮紙の主要原料は前述の通り朝鮮産楮皮紙料にして、紙質の純真にして強靭なる亦池の追従を許さざるものがある」(王子製紙『日本紙業綜覧』昭和十二年版)といわれる、朝鮮紙の紙質の強靭さと通ずるものであるといえる。
 朝鮮紙の製造方法については、日本が朝鮮を植民地化した一九一〇年に刊行された『朝鮮産業誌』に次のようにある。少し長くなるが、朝鮮紙の製造方法がよくとらえられているので引用したい。

     楮より其皮を採るには適当の地を選び、楮茎を容るるに足る深さ六七尺の穴を穿ち、之と接近して深さ四五尺の穴を掘り、細き溝により此の両口を連絡し、深き穴には楮茎を充たし其上を密閉し、浅き穴は其上面を石にて塞ぎ、其側面に一口を設け竈の如くす。此くして此の浅口内に火を燃し、上面の石の紅熱するに及び之に水を注入す。此の沸湯は細溝を通じ深き孔に流入し、孔内は為に蒸気充満して数時間の後楮茎蒸熟す。此に於て之を取出し皮を脱離し乾燥す。之より紙を製するには粗皮を水に浸し小刀の類にて茶褐色の外皮を除去して之を灰汁にて煮沸し、日光に曝し、石上にて棒を以て擲き、繊維分解して後水に浸し、之に糊を加へ、簀を用ひて漉す。漉糊は黄蜀葵叉は楡の根を採り煎じて製造す。

 楮より皮を採るところに、朝鮮独特のものがあるようだが、大筋において和紙の製法と変らない。それは、「小川和紙の歴史は遠く奈良時代の『武蔵紙』にまでさかのぼり、その技術は朝鮮渡来人による」(埼玉県高等学校社会科教育研究会歴史部会『埼玉県の歴史散歩』山川出版社)とされる、和紙の歴史そのものの反映でもある。関義城氏は『手漉紙史の研究』(木耳社)の中で、朝鮮紙について「原産の楮を唯一の原料として、その紙質の純真にして、強靭性と保存性とを有する点に於て、他にその類を見ない朝鮮独特の製品である」と定義づけ、その技術について「昔より些の改良をも施さるることなく、後年に及び時代の進運に伴わざるの憾みがある」と、その伝統技術の保存の確かさを言葉は悪いが証言している。つまり、朝鮮紙の製造技術は和紙のそれの祖型をなすものだということである。が、朝鮮紙の特長は強靭さと保存性にあるが、先に述べたように、熊本県北部の来民団扇や山鹿燈籠、山鹿和傘に使用されたのも、引きの強い和紙である。ここで、成田潔薬氏の『九州の製紙業』をもう一度ひらいてみると、

     玉名郡は鹿本郡に接続した郡で、其の緑村の板楠、中十町、上板楠、山十町、春富、束吉池、上和仁等が紙漉部落である。ここも他村と同じく農家の副業として障子紙、半紙、温床紙などを漉いている。玉名郡菊池川ぞいの楮は、昔から朝鮮楮と称して一時は県下第一の優良種の名をほしいままにし、その大量が他県に移出されていた。

 と述べられている。ここにある緑村の製紙業については、すでに引用したが(『熊本県の歴史』)、朝鮮紙漉工・慶春が十七世紀初めに川原谷で始めた製紙の流れをくむものである。つまり、引きの強い和紙である。
 緑村は一九五五年、隣村と合併して三加和村となり、一九六八年に町制を施行して今は三加和町である。菊池川の支流の十町川と和仁川が筑肥山地をきりきざんだいわゆる山村である。その筑肥山地の中心部に県境が走っていて、背中あわせに福岡県八女郡がある。
 江戸時代において九州を代表する工芸作物といえば、綿、櫨、菜種、楮である。そして、この四品種ともに、朝鮮とかかわりが深い。櫨をのぞいて、他の三品種の名称には「朝鮮」がついている。菜種が江戸の夜を色どり、江戸文化を支えたことは知られているが、その種子名が朝鮮であることはあまり知られていない。そのことはともかく、菊池川ぞいの朝鮮楮に話をもどそう。
 李朝末の朝鮮紙の生産地は、国の南半に限られ、全羅北道が一番の生産量をほこり、慶尚南北道がこれに次いでいて、この三道の生産量が国の約七、八割を占めていた。全羅北道の全州は朝鮮紙の集産地であった。その全羅北道では「原料楮は本道に於ては野生のものを見ず、悉く植付けたるものにして、比較的栽培の方法行届けり」(『朝鮮産業誌』)という状態であったという。そして朝鮮における団扇の産地は統営、光州、栄山浦、羅州、全州と国の南半に偏している。とりわけ全州は扇子、紙細工、竹細工で有名だった。


일본인 교육 자료(일본어)

「일본의 명산 사전」(엔도원남·코다마행다·미야모토 쓰네이치편, 토요 경제신보사)에 의하면, 전쟁 전은 대만에서 중국 대륙까지 수출하고 있던 부채도, 지금은 대나무가 아니고 폴리에스텔의 뼈를 마루가메로부터 들여오고 종이를 와 백성으로 쳐 마무리하게 되었다고 한다.그 종이도 이전에는 현지의 일본 종이를 사용하고 있었지만, 현재는 대부분이 시코쿠로부터 들여오는 선화지 로 변하고 있다.또 풀맹장지도, 부가 빌려주는 것으로 만든 것으로부터 합성풀 로 변했다고 진술되고 있다.
 나는 우에다 마리코씨의 안내에서, 와 백성으로 지금도 손수 만든 부채를 제작하고 있는 률천상점을 방문했다.거기서, 마지막 와 민단선사라고 하는 타카다 타다시보씨의 이야기를 들을 수 있었다.
 타카다 타다시보씨에 의하면, 부채의 대나무는 참대가 아니면 안되어, 그것도 벌레가 먹지 않는, 한의 참대를 잘라 사용했다고 한다.한 때의 와 백성은 참대의 산지였지만, 오이타현으로부터 참대의 공급을 들이키게 되고 경쟁력을 떨어뜨려, 여기서 제작하고 있는 손으로 종이 만들기의 일본 종이를 사용한 부채는, 지금은 민예품의 존재가 되어, 종이도 후쿠오카현의 야메로부터 구매하고 있다고 한다.
 부채의 원재료는, 종이와 대나무와 풀이다.「카모토마치사」의 설명에 있도록(듯이), 와 백성이 부채 제조의 원재료를 타고 났다고 하는 것은, 참대 뿐만이 아니라 종이의 산지에서?`봉



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