伝統文化

 

このスレは、
 日本の甲冑の変遷・その1(古代−室町)[日本版韓国版

 日本の甲冑の変遷・その2(当世具足編:戦国末から江戸初期にかけて)[日本版

の続編になります。(※その2については、なぜか韓国側で表¥示されません…orz)
今回は「江戸時代編」として、甲冑の終焉までをまとめた物を投稿しますので、どうぞご覧下さい。

 

◆前期(江戸開府:1603〜)
江戸時代に入ってからも、甲冑の主流は依然として当世具足であったが、桃山時代の一部にあった尚古趣味が江戸時代にも引き継がれ、加えて泰平の時代の威儀的形式を好む傾向から古式指向が芽生えてくる。
しかし、戦国にかけて当世具足があまりにも流行し、甲冑師も数代に亘って当世具足を製作し続けたことから、古式の甲冑は遺物を正確に模造しない限り、なかなか正確な物を作ることはできなかった。さらに、単に研究不足と言うことだけでなく、当時の戦闘様式と、武士の着心地を無視してまで古式を忠実に再現することには躊躇があったと思われる。
この時代の武士達は、家格も祖先伝来の物と思わせるために、自家に縁が無くとも古式の甲冑を求め、損傷したものでも補修して先祖伝来の品として示すことがあった。江戸中期以降の復古調新作の時代ではなく、あくまで古物改造の時代であり、中には正しい補修を知らぬ故に惜しい改造物が散見される。
まずは江戸初期における、当世具足を何領か挙げておく。

 

 

●越中具足:紺糸威伊予¥札皺革包胴丸具足
利休七哲の一人、細川三斎忠興(越中守)が考案した具足であり、細川家においては藩主以下、家中一統これを用いたことから世に「越中具足」と呼ばれたものである。非常に実用的で優れた具足であるが、戦場での自己顕揚と、威儀的な装飾を好む当代の武士達からは人気が無く、もっぱら九州・熊本藩で用いられた。
本品は細川家の家臣が用いたものであり、越中具足の基本的な構¥成を良く伝える一領である。越中頭形鉢に熊毛の引廻しをあしらい、袖はなく、籠手・佩楯・臑当は小篠で統一され、胴を革包みとした丸胴の仕立てである。

 

 

●仙台胴:黒漆五枚胴具足(宮城 仙台市博物館蔵)
鉄板に黒漆を施した五枚胴具足で、兜は筋兜、胴はいわゆる雪下具足の形式である。仙台藩では、足軽の御貸具足までこの形式で統一されていたことから「仙台胴」とも呼ばれる。重要文化財の黒漆五枚胴具足や瑞鳳殿出土の黒漆五枚胴具足(いずれも伊達政宗所用)とほぼ同型である。
本品は、伊達家の家臣である菅野家に政宗からの拝領品として長く伝えられてきたもので、五枚胴具足の優品である。拝領者の菅野正左衛門重成は、幼少の頃から政宗に仕え、長じて薬込役となり、41歳で殉死した譜代の臣である。

 

 

●鉄唐獅子打出五枚胴具足(京都 井伊美術館蔵)
「水戸の黄門様」として有名な水戸徳川家第二代藩主・徳川光圀公所用の可能¥性が考えられる具足である。堅牢な鉄製五枚胴で、大型の額袖を具足する。喉輪、籠手、佩楯、臑当に甲懸と呼ばれる履き物まで皆具している。
未だ戦国の遺風が残る時代の甲冑らしく、すこぶる堅固でかつ奇抜な意匠の当世具足である。

 

 

江戸時代には、明珍派を代表¥とする甲冑師達が活躍し、鉄板打ち出しで龍や不動明王などの像を装飾しその技を競った。この具足にも胴と袖には唐獅子が精巧に打出されており、射向の杏葉には光圀の花押が打出で据えられている。

 

 

●銀溜白糸威具足(愛知 徳川美術館蔵)
銀色に包まれた中に朱と萌黄の色が鮮やかに映える華麗な具足である。この具足は、尾張徳川家初代・義直の所用である。義直は正月の具足祝いの儀式のために毎年具足を新調して多数の具足を所持していたが、中でも特にこの銀溜具足を好み、旅行の際には必ず携帯していたと伝えられる。製作年は不明であるが、製作者は加藤彦十¥郎正勝と伝えられている。正勝は奈良の春日派のながれをくむ尾張の甲冑師である。

 

 

●金小札緋威具足・金小札緋威中人具足(茨城 水戸・徳川博物館蔵)
水戸徳川家に伝来した具足である。この二領の具足は、徳川家康の所用で「代々様御譲品」として伝えられてきた物であり、いずれも筋兜を具足した金小札緋威の二枚胴具足である。さすがに御三家に伝えられた逸品だけに、煌びやかな具足である。

 

金小札緋威具足には栴檀板と鳩尾板が付属し、籠手と臑当には金蒔絵が施されるなど、豪華で威儀的な仕立てに重きが置かれている。また、前胴発手部に組紐が出ているところを見ると、この種の胴には珍しく「連尺胴」となっているようである。鉢裏には明珍信家の銘があり、享禄¥4年(1531)の年号が見えるが、兜鉢は流用されることも多く、全体の構¥成はもう少し新しい時代になる。さらに、兜の前正中には「神武不殺」の文字が金象嵌され、いかにも「神君家康」の召料といった演出に感じる。
これほど豪華で実用から離れた具足は、やはり天下が定まった後に設えられたと見るべきであろう。

※「連尺胴」とは、前胴発手部と首の後ろあたりに孔を開け、ここに紐(連尺)を通して胴の内部から紐で持ち上げるようにして着用するようにしたものである。こうすることで肩上(わだかみ)が肩に食い込むことを防ぐのであるが、通常は「仙台胴」や「南蛮胴」など、重量のある甲冑に用いられる細工である。


金小札緋威中人具足の方は、家康が少年期に着用したと言われている。伝来に基づけば江戸期の具足ではなく戦国末期にまで遡ることになるが、前回の「金陀美具足」でも述べたように、家康は少年時代には人質生活を送っており、とてもこのような高級品の具足を所持する余裕があったとは思われない。系図での粉飾は別として、源平藤橘などの名門との繋がりが無かった徳川氏(松平氏)は家康神格化に腐心しており、いわゆる「神君崇拝」の産物で、この時代にしばしば行われている「箔付け」ではないかと思われる。実のところ「金陀美具足」についても同様の疑惑があり、先の金小札緋威具足と共に、江戸初期になってから徳川家の権威付けのために製作されたのではないかと思えるのである。

 

二領とも、水戸家九代・斉昭の頃に明珍派の甲冑師の手により補修されており、江戸末期の色も出ているのではないかと思われる。

 

 

◆中期(元禄¥以降:1688年〜)
江戸時代は、1637年に勃発した「島原の乱」を最後として、幕末に到るまで200年以上に亘って泰平の世が続く。そのため、江戸も中期になると甲冑は実用品としての意義を失い、次第に威儀的目的で飾るための「武家の表¥道具」となっていった。このためには着用には少々適していなくとも見た目が立派であることが望ましく、また古式の採用は先祖の武勲を誇示する意味においても有効であったので、熱心な研究が行われるようになった。
こうした風潮により着用上の適否は別として、外観上は古式に近い物が数多く作られた時代である。しかし一部に残る尚武的武士の影響もあり、当世具足の利点も捨てきれなかったことから、正確なる古式を用いるには到らなかった。

 

 

●金小札緋威童具足(茨城 水戸・徳川博物館蔵)
先に示した水戸徳川家の金小札緋威具足と類似の一領であるが、この金小札緋威童具足のみは明らかに製作年代が下がる。水戸家三代・綱篠の五男・金松君(1692-96)のために新調された童具足である。
明らかに「代々様御譲品」に範を採ったものであり、江戸中期における徳川一門の貴重な遺品である。なお、金松君はわずか五歳で水戸城で没している。

 

 

ちなみに、三領を並べると以下のようである。それぞれの具足のサイズがお分かり頂けるだろう。

 

 

●紺糸威大鎧(京都 井伊美術館蔵)
全体の構¥成は江戸中期の物であるが、兜鉢は室町時代の「四十¥八間総覆輪二方白筋兜鉢」を用いている。筋兜を大鎧に具足するところなどは、ある意味「江戸らしい」ということか。おそらく南北朝時代の大鎧を意識して製作されたものと考えられ、小型の小札を用いて丈を小さくし、胴は裾窄まりで、二間に分けられた草摺裾板には撓が入れられ「徒に対応した大鎧」となっている。草摺の撓の入れ方は全体に緩く掛けられており、むしろ室町期の胴丸や腹巻に近い。草摺は全体に小さく、左右の段を増やしていないことから、騎乗した際に大腿部を完全に防護するには不足であろう。それでいて佩楯が付属していないところは、虚飾化とは別の意味で実用から遠い物となっている。
入念な仕立てであるが、古式研究が不十¥分な時代の大鎧らしく、いかにも机上の研究に基づいた構¥成と言えよう。

 

 

●紺糸威鎧(静岡 久能¥山東照宮博物館蔵)
「暴¥れん坊将軍」こと八代将軍・徳川吉宗所用の大鎧である。作者は奈良の春田故明故明吉宗の命で諸国の寺社旧家の古武器類の調査・模写に従事した函工(甲冑師)である。吉宗は古武器の調査に熱心で、御嶽神社の紫裾濃威鎧赤糸威鎧など、現在残る国宝級の鎧の修理を命じたりしている。
この兜は、山城・鞍馬寺の龍頭の兜を復元模造した物であり、胴と大袖も皆具する。兜は二十¥六間四方白星兜で、全身龍の立物が配されている。胴と袖は黒漆盛上本小札を紺糸で毛引きに威してある。高肉彫と透彫を駆使して金物を飾り立て、弦走には三匹の獅子牡丹文染韋が張られている。各所の装飾は江戸調のものだが、将軍直々の召料であるだけに、さすがに良好な作域を見せる一領である。

 

ちなみに源氏八領の一つ「八龍」の兜はこれに近い物ではなかったかと推定されている。兜の他に栴檀板や鳩尾板、大袖冠板など全身八カ所に龍の彫金物があしらわれていたらしい。

 

 

●加賀具足:白絲威二枚胴具足(石川県立歴史博物館蔵)
加賀百万石の前田家は京都から職人を招き寄せ、蒔絵・象嵌ほか様々な工芸を奨励した。これらの技術が加賀具足と呼ばれる独特な装飾を施した甲冑を生み出すこととなる。鉄錆地の部分には銀のろう流し、梅花を象った鐶座、縮緬鎖や真鍮鎖の籠手など、他藩には見られない技巧を凝らした華やかな甲冑が藩主以下、家中で広く用いられた。
本品の兜と面頬には、加賀藩の甲冑師として有名な雲海光尚の銘がある。眉庇、吹返、胸板、佩楯には金唐韋を張り、胴は黄色のビロードで包んだ上で前は鳳凰、後ろは雲に銀のろう流しで飾っている。面頬の垂の裾板を二色で菱縫にしたり、箔と黒漆を交互に配置したりなど、加賀具足特有の手の込んだ仕立てである。

 

 

●紫糸威二枚胴具足(栃木 國學院大學栃木学園参考館蔵)
鹿角の脇立と巴文の前立を付した烏帽子形の兜、頬面具、紫糸威の二枚胴、草摺、袖、篭手、伊予¥佩楯、臑当、履物を備えた具足である。いずれも金箔が貼¥られた華麗な仕立てながらも、桃山期の当世具足と変わらぬ実用的な造りであり、所用者の心構¥えが伺える。

 

 

●瑠璃斎胴
当世具足の胸板から立挙にかけての部分が開くか、取り外しが出来るように細工された具足である。寛永の頃の軍学者で、源右衛門瑠璃斎という人物が考案したと言われているが、伝記も不明で寛永の頃の遺物には見られない。むしろ江戸中期以降に見られる形式である。
胴の一部を取り外すようにした理由は、懐中の小物を取り出しやすくするためとも言われるが、その場合は胴の引き合わせを開いた方が早く、戦闘中に脱落するようなことがあれば大問題である。何か机上の考案の小細工的な手法に思われ、実用からかけ離れた仕様である。
この具足は、泉州岸和田城主・岡部美濃守所用の具足で、瑠璃斎胴の中では特に美麗な逸品として知られる。

 

 

 

●朱漆塗紺糸威二枚胴具足(滋賀 彦根城博物館蔵)
彦根藩九代藩主・井伊直定の所用と伝えられる一領である。伝統の「井伊の赤備え」であり、金の大天衝脇立と菖蒲の前立が付けられている。彦根藩にあっては、金の大天衝脇立は藩主のみが用いることが許された。
譜代筆頭の家柄として彦根を鎮守し、西国諸藩へ睨みを利かせる役割を担っていただけに、復古趣味に傾かず、初代・直政以来、「赤備え」を踏襲して当世具足一本槍で来た彦根藩らしい一領である。非常に重武装の仕立てながら佩楯に家紋をあしらうなど、太平の世らしい装飾性も垣間見える。
しかしこの伝統に縛られた重武装主義が幕末にいたって時代遅れとなり、悲惨な結果をもたらせることになるのである。

 

 

 

●紺糸威白熊毛当世具足(長野 上田市立博物館蔵)
上田藩松平氏初代・松平忠周所用と記録に明記されている具足である。横矧桶側五枚胴で、黒漆塗紺糸を用いている。胴には五三桐紋の金具を配し、また袖の縁金化粧板にも五三桐紋をちりばめ、佩楯には牡丹と唐獅子が金蒔絵と銀泥で描かれる。兜には巻竜を金泥で描き、水牛の角を象った前立が配され、鉢には白いヤクの毛が植えられるなど工芸品としても見事なものである。
胴には鉄砲で試し撃ちをした跡が三箇所残っており、非常に堅牢な仕立てであることが分かるが、袖や佩楯までが鉄製板物で構¥成された重量のある甲冑であり、戦陣での着用に堪えうるとは思えない。長らく続いた太平の世が、当世具足にも虚飾化をもたらせた例と言えよう。

 

 

●頭形五輪塔頭立兜(京都国立博物館蔵)
ここで一旦、甲冑本体から話が逸れるが、下に示すのは伊予¥今治藩主・松平定基が享保7年(1722)に岩井家の甲冑師に作らせた「変わり兜」である。安土・桃山時代以降の武将達は様々な意匠の兜を設えており、神仏の加護を期待するような文様を採る者も多かったが、通常は敵を威嚇するような意匠としている。しかしこの兜は、長大な五輪塔のシルエットを象った頭立に梵字を透かし、「南無阿弥陀佛」の六字名号が大書されたものである。
頭立は桐の一枚板であり、いかに軽量の素材を用いて製作したとは言え実用からほど遠い物と言えよう。定基の信仰心の篤さが偲ばれるが、ここにも江戸中期における当世具足の虚飾化の例が見て取れる。

 

 

ちなみに、立物の巨大さで言えば、仙石家に伝来した越中具足に付属する「越中頭形大釘後立兜」はこれを凌駕する。ただし、こちらは実用重視の越中具足らしく、戦時には容易に取り外すことができた。
仙石家初代・秀久の所用と伝わることから、時代は戦国末から江戸初期に遡る。

 

 

●紺糸威胴丸(京都 建勲神社蔵:重要文化財)
この胴丸は織田信長の所用と伝えられ、桶狭間の合戦(1560)で着用していたものと言われている。当時としても古式の胴丸であり、「大うつけ」と言われ、傾奇者として有名な信長にしては古式ゆかしい出で立ちである。
では何故この胴丸を江戸中期の物として取り上げたかと言うと、子細に見ると胴と大袖の小札が不揃いであり、研究者によっては、江戸中期に古物を合わせて仕立て直したものと見ているからである。今回は一応、江戸中期の仕立てとの立場に立って紹介する。
信長の子孫にあたる柏原藩に伝来していた物であり、記録には残っていないが、祖先の偉勲を偲んで入念に再現を試みたか、「本能¥寺の変」以後の混乱の中で大破してしまった残欠を大修理したのでは無いだろうか。修理をしたとしても、新調するに等しい大がかりな物であったに違いなく、その意味で江戸中期の作と見なして良いだろう。
ほぼ完璧に室町後期の胴丸の制を整えており、江戸中期における復古研究の、一つの到達点と言えるものではないだろうか。

 

 

◆後期(寛政以降:1789年〜)
江戸も後期にはいると、経済面を町人に握られて武士の生活に余裕が無くなってきたこともあって、甲冑を新作する武士は少なくなり、父祖より受け継いだ品を所有するのみの場合が多くなった。
それでも余裕のある武士が召料を新作する場合は、その実用性を無視してまで威儀的に立派に見えるような形式を好んだことから、当世具足はよほど心がけの良い武士でない限り作らず、江戸時代特有の虚飾も加味された美々しい甲冑が作られるようになる。これらの甲冑の注文書も残っており、その製作費を現在の金銭感覚に直すと「家一軒分」に相当したようである。
それとは別に古式の研究も進展したことから、より忠実に古式を再現した優品も見られるようになった。寛政4年(1792)には老中・松平定信「集古十¥種」を刊行し、古式研究の貴重な資料となっている。

集古十¥種

 

 

●紫裾濃威鎧(個人蔵)
兜は痩せた黒漆塗りの星鉢で明珍系の「作の兜」であり、平安から鎌倉時代の形式を採った鍬形を打っている。錣は五段杉立形で四段を吹き返し、本小札を紫裾濃に威してある。草摺は四間五段、大袖は六段下がり、籠手は義経籠手、栴檀板と鳩尾板も全て古式に適っている。絵韋は平安時代の優美な図柄であるが、胴の形姿は裾窄まりで鎌倉時代後期から南北朝時代にかけてのものである。
江戸後期の復古調の優品として挙げられる大鎧であるが、佩楯は伊予¥札を紫糸で威し、大きく外に張り出した大立挙などには、当世具足の研究を主とする甲冑師による模写の限界も感じられる。

 

 

●白糸威大鎧(香川県立ミュージアム蔵)
高松・松平家
に伝来した甲冑のひとつであるが、所用者などは不明である。本品の特徴は、佩楯と臑当が古い形式をとっている点にあるが、実用性には乏しいと考えられる。
弦走には三匹の獅子牡丹文染韋が張られて、義経籠手と七段下がりの大袖を具足するなど古式の大鎧を模しているが、様々な時代の様式が混在しているようである。総体の仕立ては細密丁寧であるが、大立挙の形状や一饅¥頭形の錣に吹き返しが一段の兜などを見ると、正確なる古体とは言えず、あくまで「らしき大鎧」である。

 

 

●紺裾濃胴丸具足(香川県立ミュージアム蔵)
高松藩に仕えた甲冑師・明珍家の製作である。大きく広がりやや浅めの笠錣をもつ兜は室町時代の形式を採っている。明細に調べると古式とは言えないものではあるものの、総体にまとまりが良く、胴丸としては古式の研究が進んだ一領であろう。
前立の兎は甲冑のイメージに合わないにように思えるが、月信仰や俊敏さの象徴として武士には好まれた意匠である。

 

 

●紫絲威胴丸(東京 靖国神社蔵)
名奉行「遠山の金さん」こと遠山左衛門尉景元所用の胴丸である。江戸も後期に入り、なかなか古式研究が進んだ作域を見せる一領である。金具廻りは黒漆塗りで、小札は全て黒漆塗盛上本小札であるが、草摺の増札が少ないために裾広がりが僅かであり、これは当世具足以来の傾向である。
兜は六十¥二間の筋鉢で錣は四段であるが、菱縫を三段に取る点などは江戸調の仕立てである。

 

 

●黒糸威胴丸具足(兵庫 本多文庫蔵)
現在の兵庫県宍粟郡山崎町。ここは江戸時代は一万石の大名、本多肥前守の領地であった。一万石の小大名とはいえ、徳川四天王・本多忠勝の後裔であり、江戸城での伺候席は「帝鑑間」をあてがわれる格式を誇っていた。明治維新により子爵を授けられ、190年にわたる治世に幕を降ろしたが、今でも数々の武具が遺されている。
この鎧はおそらく幕末近く、文化文政の頃の藩主・本多忠鄰かその前代・忠敬あたりのものと推察される。兜の前立には、本多家の家紋「立ち葵紋」が立てられている
幕末になって復古の研究が大いに進んだころの製作であるが、多分に戦国期の意匠を取り入れた物となっており、袖は揺るぎに組まれ、古様とも当世とも言えないものであるが実用を考慮した造りである。華美に走らず、忠勝以来の武門の名流の心意気が感じられる一領である。面頬、喉輪、杏葉、籠手、臑当、履物を皆具した優品であり、幕末の鎧を研究する上での好資料である。

 

 

ちなみにこちらは「馬鎧」である。龍を象った「馬面」に骨牌板の「馬甲」を具足している。
このような馬鎧は大名家には無くてはならない道具の一つであったが、江戸の泰平にあっては馬揃えのときなどに付けて威儀を示す物であり、実戦的な装備ではなかった。馬にとっては重くて迷惑だった事だろう。

 

 

●加賀具足:萌黄絲威胴丸(富山市郷土博物館蔵)
加賀・前田家の支藩、大聖寺藩五代藩主の八男で、富山藩九代藩主・前田利幹の所用である。本来大鎧にしか具備されていないはずの栴檀板と鳩尾板が取り付けられているが、弦走韋は張られておらず、錣・面頬・草摺に加え、佩楯の下草摺の裾板にまで金銅の飾り金具が用いられている。美術品とも言うべき精緻な装飾であり、実用よりも装飾重視であることが顕著な一領である。
 

 

 

●鉄黒漆塗盛上本小札紫裾濃胴丸(千葉 麻賀多神社蔵)
佐倉藩主・堀田正愛所用の甲冑で、文化14年(1817)に大石忠治仲八幡武保に作らせた胴丸である。最後の佐倉藩主・堀田正倫公が明治3年(1870)に家系図と共に麻賀多神社に奉納している。
籠手と臑当に佩楯は金箔押し研ぎ出しの豪華な仕立てであり、膝の大立挙は大きく外に張り出した江戸期特有の形状である。こちらの胴丸も栴檀板と鳩尾板が付属した不規則な仕立てで、佩楯には下草摺が付き、全体を裾濃に威した高級な仕立てである。精巧緻密な作域であるが、実用から離れて虚飾化が極まったとも言える。
藩の財政再建に取り組み、質素倹約を旨とした堀田正愛の所用としては意外に思えるほど華美な一領であるが、当時の武士はそれほど体面を気にしたと言うことであろう。

 

 

●紺匂威大鎧(京都 井伊美術館蔵)
佐賀藩・鍋島家伝来の大鎧である。幕末の名君・鍋島閑叟直正所用と伝わる。紺匂威で全体の構¥成は江戸末期のものであるが、兜鉢は残存稀な鎌倉末期の星兜を流用しており、倶利伽羅龍王の前立に、鍬形には羽毛の毛彫が施されている。金具廻りも精緻な作域であり、古様な杏葉紋が総角と大袖水呑鐶頭に刻されている。韋所の図案は江戸調に消化されたものだが、杉立形の錣に大きな吹き返しと、義経籠手に裾広がりの胴の形姿はすこぶる古風な様式を示しており、鎌倉期の大鎧をなかなか良く再現している。

※匂威とは、裾濃威とは逆に上を濃く、下方をしだいに薄い色で威したもの。

 

 

●卯花威胴丸(静岡 久能¥山東照宮博物館蔵)
徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜が一橋家を相続したときに新調した胴丸である。作者は明珍宗次。ちなみに明珍派は平安時代から続く甲冑師の家系で、分家も多い。現在の宗家は室町時代末期から続き、第25代目の当主・明珍宗恭氏が文化財の鎧を復元・修復したり、写しを製作したりなされている。
兜は、金鍬形に全身龍の立物が付けられた錆地二十¥四間二方白星鉢である。総体を萌葱糸で毛引きに威し、草摺は八間五段の定型となっているなど、古制の胴丸を良く再現している。大袖・杏葉・喉輪・面頬・籠手・臑当を皆具しており、兜をはじめ胴丸の小具足にまで及ぶ紫錦韋の使用は、慶喜有栖川宮織仁親王の外孫であるからだという(※紫錦韋は皇族にしか許されないものである)。

 

 

 

◆明珍派・作の兜
甲冑師としては、古くから岩井派春日派の名が知られていたが、江戸時代に入ってからは早乙女派と並んで明珍派が隆盛する。鍛えの良さから大名家に多く使用されたが、その宣伝もかなりの物であり、刀剣鑑定に「折紙」を付ける本阿弥家に対抗して鑑定書を発行し、その血脈は武内宿禰に繋がると粉飾していた。
江戸時代における甲冑は総合美術工芸品であり、金物・糸打・染革・彫刻・仕立てなど多くの職人の分業により成り立っていたが、誰の作かといった場合には本来であれば仕立ての者をもって代表¥とされるべきであろうが、多くの場合には兜を重視したため兜鉢の制作者を持って甲冑製作者と見る向きが多い。そのため、兜を得意としていた明珍派の名が大いに広まった。
ここでは、今回の投稿でもしばしば出てきた明珍派の兜を取り上げてみる。

 

 

●鉄黒漆塗十¥六間四方白星兜
この兜は、肥前国島原藩主・松平主殿頭着用のもので、その華麗さにおいて江戸兜随一のものである。鉢は明珍派の「作の兜」形式の大円山形の大星である。製作者は明珍宗保である。

 

 

●鉄錆地二十¥八間二方白星兜
本品は、伊予¥国今治藩・松平定勝の五男・定房の系統に伝来したもので、江戸明珍の代表¥的復古調作品である。鉢裏には明珍紀宗親の銘があり、やや頭高の「作の兜」である。

 

 

●鉄黒漆塗十¥二間四方白星兜
本品は、紀州徳川家伝来のもので、復古調全盛時代の優品である。明確な銘は確認できず、明珍派の作か不明であるが、大円山形で「作の兜」に似通った造りである。

 

 

◆幕末の軽装具足
江戸末期には、幕藩体制への反動と西洋列強の東洋進出が刺激となり、尊皇攘夷の思想が蔓延して社会情勢が不穏になってくる。京都では脱藩浪士や幕府治安組織との斬り合いが頻発し、再び実戦仕様が求められる世相となった。しかし、この時代には洋式戦術の研究と火器の発達もあって、甲冑の存在価値自体が危ぶまれる状態に至る。鉄で鎧った「彦根の赤鬼」が、軽武装・寄せ集めの「奇兵隊」に完敗する事態に及んでも、武士達は「戦場の晴れ着」たる甲冑を捨て去るに忍びがたかったようであり、苦心しながらも軽装の具足が用いられるようになる。

 

 

●畳具足
当世具足の一種で、骨牌金または亀甲金などを鎖輪で連接して構¥成した具足である。折り畳むことができることから「畳具足」と称されたもので、室町後期にはその原型ができあがっていた。家地に甲を縫いつける形式であるので、奈良時代に用いられた「綿墺甲」の系統に属するものと言えるが、その構¥造から刺突には弱い。
江戸時代では参勤交代や公務の旅行、宿直などの際には、武士の心得として具足を持参する建前があったことから、持ち運びに便利な畳具足が重宝された。また、大量生産と大量保管に適していることから御貸具足としても準備され、特に幕末に軽装武具の需要が高まると粗製濫造された。これらの多くは戦闘で消耗されていったが、大身の武士の高級品は比較的多く遺されている。

 

 

兜も同様の骨牌金や亀甲金を用いた「頭巾兜」と呼ばれる物や、兜鉢の部材を錣のように連結して畳めるようにした「提灯兜」と言われるものが具足される。 

 

 

●空小札具足:紺糸威胴丸(東京 靖国神社蔵)
煉革札を裏から打ち出して、古式の盛上本小札のように見せた物を「空小札」と言う。薩摩の栗原柳庵の考案したものと言われ、厳めしく重武装に見えながら、非常に軽量で幕末に流行した形式である。銃火器に対抗できないなら、せめて刀槍には耐えられるものをと割り切った甲冑である。しかし、新調した時は良いが、年数が経つと革の弾力が失われ脆くなるという欠点があり、防具という意味からも、遠い虚飾のものが多かった。
本品は空小札の甲冑の中でも古式を範としたもので、星兜に大袖、面頬、喉輪、佩楯を具足した胴丸仕立てである。
 

 

 

●鎖帷子
洋の東西を問わず、最も基本的な防具の一つである。軽装備の防具としては最も手軽で、携帯にも便利な物である。元来は具足の下に着用する「着込み」であったが、幕末には鎖頭巾に鎖帷子のみの軽装が大いに流行している。人斬りで有名な「新選組」も、大体この程度の武装で戦闘に従事している。また高位の武士は、鎖を錦や緞子、白綾で包んだ華麗な帷子を用いていた。

 

 

幕末の動乱が過ぎ去り、1869年に戊辰戦争が終結すると、富国強兵が推進されていく。軍隊にも近代化の波が押し寄せ、侍階級は解体されて国民軍隊に改編されていった。戦法も火力と機動力が重視されるようになり、銃火器に対抗できない甲冑は過去の遺物として戦場から姿を消していくことになるのである。
しかし、現在でも美術・工芸品として賞翫され、伝統工芸の結集としてその匠の技が引き継がれている。甲冑師達も、文化財の補修や写しの製作と共に、映画の小道具の製作などを監修し、伝統を守り続けているのである。

 




 

さて、3回に亘って日本の甲冑の歴史を、数々の遺物を眺めながら、大雑把に整理してみましたがいかがでしたでしょうか?
今回の投稿でも申¥し上げましたが、江戸時代には武士が家格を誇示するために、由緒の不明な古い鎧を先祖伝来の物と称したこともあり、「伝○○所用」という謳い文句には虚偽が混じっていることも少なくありません。古い時代の甲冑も英雄豪傑に仮託されることもあり、さらに現代でも何の根拠もなく伝来を捏造するケースもあります(その最たる例が「森蘭丸所用・伊予¥札胴具足」ですが)。
実は今回紹介した甲冑についても、どうも胡散臭いと思っている物があります。とは言え、専門家でもないのでそのあたりには目を瞑りつつ、甲冑を通して古の武将にロマンを感じるのもまた一興であります。


일본의 투구와 갑옷의 변천·그 3(에도시대편:투구와 갑옷의 임종까지)

 

이 스레는,
 일본의 투구와 갑옷의 변천·그 1(고대-무로마치)[일본판·한국판

 일본의 투구와 갑옷의 변천·그 2(무로마치시대 말기부터 사용된 편:전국말부터 에도 초기에 걸쳐)[일본판

의 속편이 됩니다.(※그 2에 대해서는, 왠지 한국측에서 겉(표)나타나지 않습니다…orz)
이번은「에도시대편」으로서 투구와 갑옷의 임종까지를 정리한 것을 투고하기 때문에, 아무쪼록 봐 주세요.

 

◆전기(에도 관청을 설치함:1603~)
에도시대에 들어가고 나서도, 투구와 갑옷의 주류는 여전히 무로마치시대 말기부터 사용된 이었지만, 모모야마 시대의 일부에 있던 상고 취미가 에도시대에도 인계되어 더해 태평의 시대의 위의 마토가타식을 좋아하는 경향으로부터 옛 식 지향이 싹터 온다.
그러나, 전국에 걸쳐 무로마치시대 말기부터 사용된 이 너무 유행해, 갑주사도 수대에 긍은 무로마치시대 말기부터 사용된 을 계속 한 것 로부터, 옛 식의 투구와 갑옷은 유물을 정확하게 모조하지 않는 한, 좀처럼 정확한 물건을 만들 수 없었다.게다가 단지 연구 부족이라고 하는 것 뿐만이 아니고, 당시의 전투 양식과 무사의 입는 기분을 무시해서까지 옛 식을 충실히 재현하는 것에는 주저가 있었다고 생각된다.
이 시대의 무사들은, 가문의 품격도 조선전래의 물건이라고 생각하게 하기 위해서, 자가에 인연이 없어도 옛 식의 투구와 갑옷을 요구해 손상한 것이라도 보수해 선조 전래의 물건으로서 가리키는 일이 있었다.에도 중기 이후의 복고조 신작의 시대가 아니고, 어디까지나고물 개조의 시대이며, 안에는 올바른 보수를 알지 않는 고로 아까운 개조물이 산견된다.
우선은 에도 초기에 있어서의, 무로마치시대 말기부터 사용된 을 무슨령인가 들어 둔다.

 

 

●월중 도구:감실위이요지폐주름혁포통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷 도구
토시야스7철의 한 명,호소카와 산사이 타다코우(월중수)가 고안 한 도구이며, 호소카와가에 대해 지방 영주 이하, 집안 통일 이것을 이용한 것으로부터 세상에「월중 도구」로 불린 것이다.매우 실용적이고 뛰어난 도구이지만, 전장에서의 자기 선양과 위의적인 장식을 좋아하는 당대의 무사들에게서는 인기가 없고, 오로지 큐슈·쿠마모토번으로 이용되었다.
본품은 호소카와가의 가신이 이용한 것이어, 월중 도구의 기본적인 구성을 잘 전하는 한 벌이다.월나카가미형 하치에 쿠마게의 인회 해를 다루어, 소매는 없고, 호구·패순·경갑은 코시노로 통일되어 몸통을 가죽 소포로 한 환동의 완성이다.

 

 

●센다이동:흑 옻나무5매 몸통 도구(미야기 센다이시 박물관창고)
철판에 흑 옻나무를 베푼 5매 몸통 도구로, 두는 근두, 몸통은 이른바유키시타 도구의 형식이다.선대번에서는, 최하급 무사의 대도구까지 이 형식에서 통일되고 있던 것으로부터「센다이몸통」이라고도 불린다.중요문화재의 흑 옻나무5매 몸통 도구나 즈이호덴 출토의 흑 옻나무5매 몸통 도구(모두다테 마사무네소용)와 거의 동형이다.
본품은, 다테가의 가신인 칸노가에정종으로부터의 배령품으로서 길게 전해져 온 것으로, 5매 몸통 도구의 우수품이다.배령자칸노 쇼우자에몬 시게나리는, 유소의 무렵부터 정종을 시중들어 거대해 약입역이 되어, 41세에순사 한 대대로 이어옴의 신이다.

 

 

●철사자 우치데5매 몸통 도구(쿄토우물 이미술관장)
「미토의 황문 모양」으로서 유명한 미토 토쿠가와가 제2대 지방 영주·도쿠가와 미쓰쿠니구조용의 가능성이 생각되는 도구이다.견뢰한 철제5매 몸통으로, 대형의 액 수를 도구 한다.갑옷의 부속품, 호구, 패순, 경갑에 갑현으로 불리는 신발까지 모두 갖추고 있다.
아직도 전국의 유풍이 남는 시대의 투구와 갑옷인것 같고, 대단히 견고하고 한편 기발한 생각의 무로마치시대 말기부터 사용된 이다.

 

 

에도시대에는,묘친파를 대표로 하는 갑주사들이 활약해, 철판 종연으로 용이나 부동명왕등의 상을 장식해 그 기술을 겨루었다.이 도구에도 몸통과 소매에는 사자가 정교하게 내세워지고 있어 쏘아 맞혀 향의 행엽에는광국의 도안화한 서명을 우치데에서 자리잡을 수 있고 있다.

 

 

●은류백사권세 도구(아이치 토쿠가와 미술관창고)
은빛에 싸인 안에 주홍과 연두빛의 색이 선명하게 빛나는 화려한 도구이다.이 도구는, 오와리 토쿠가와가 초대·의직의 소용이다.의직은 정월의 도구 축하의 의식을 위해서 매년 도구를 신조 해 다수의 도구를 소지하고 있었지만, 안에서도 특히 이 은류도구를 좋아해, 여행 시에는 반드시 휴대하고 있었다고 전해진다.제작년은 불명하지만, 제작자는카토언10츠카사 마사카츠라고 전하고 있다.마사카츠는 나라의카스가파의 것가 오와리의 갑주사이다.

 

 

●금소찰비위도구·금소찰비위중인 도구(이바라키 미토·토쿠가와 박물관창고)
미토 토쿠가와가에 전래한 도구이다.이 2령의 도구는,도쿠가와 이에야스의 소용으로「대대모양 양품」으로서 전해져 온 것이며, 모두 근두를 도구 한 금소찰비위의 2매 몸통 도구이다.과연 세 대가에게 전할 수 있었던 일품인 만큼, 눈부신 도구이다.

 

금소찰비위도구에는 멀구슬나무판과 명치판이 부속되어, 호구와 경갑에는 금 금칠한 그림이 베풀어지는 등, 호화롭고 위의적인 완성에 중점이 놓여져 있다.또, 전동발수부에 꼰 끈이 나와 있는 곳(중)을 보면, 이런 종류의 몸통에는 드물고「등짐 도구몸통」이 되고 있는 것 같다.하치뒤에는묘친 노부이에의 명이 있어, 향녹4년(1531)의 연호가 보이지만, 투구의 머리를 덮는 부분은 유용되는 것도 많아, 전체의 구성은 좀 더 새로운 시대가 된다.게다가 두의 전 정중에는「카미타케불살」의 문자가 금상감 되어 그야말로「덕,공적이 있는 주군 이에야스」의 소료라고 하는 연출에 느낀다.
이 정도 호화롭고 실용으로부터 멀어진 도구는, 역시 천하가 정해진 뒤에 설치할 수 있었다고 봐야 하는 것일 것이다.

※「등짐 도구몸통」이란, 전동발수부와 목의 뒤근처에 구멍을 뚫어 여기에 끈(등짐 도구)을 통해 몸통의 내부로부터 끈으로 들어 올리도록(듯이) 해 착용하도록(듯이) 한 것이다.이렇게 하는 것으로 견상(원일까 봐)이 어깨에 먹혀드는 것을 막는 것이지만, 통상은 「센다이몸통」이나 「남만몸통」 등, 중량이 있는 투구와 갑옷에 이용되는 세공이다.


금소찰비위중인 도구는,이에야스가 소년기에 착용했다고 말해지고 있다.전래에 근거하면 에도기의 도구는 아니고 전국 말기에까지 거슬러 올라가게 되지만, 전회의「금타미도구」로도 말한 것처럼,이에야스는 소년 시대에는 인질 생활을 보내고 있어 도저히 이러한 고급품의 도구를 소지할 여유가 있었다고는 생각되지 않는다.계도로의 겉치레는 별개로,백과 홍등귤등의 명문과의 연결이 없었던 토쿠가와집안(마쓰다이라씨)은이에야스신격화에 부심 하고 있어, 이른바「덕,공적이 있는 주군 숭배」의 산물로, 이 시대에 자주 행해지고 있는 「박 붙여」는 아닐까 생각된다.사실 「금타미도구」에 대해서도 같은 의혹이 있어, 앞의금소찰비위도구와 함께, 에도 초기가 되고 나서 토쿠가와가의 권위 부여를 위해서 제작된 것은 아닐까 생각되는 것이다.

 

2령 모두, 미토가9대·제소의 무렵에묘친파의 갑주사의 손에 의해 보수되고 있어 에도 말기의 색도 나와 있는 것은 아닐까 생각된다.

 

 

◆중기(겐로쿠이후:1688년~)
에도시대는, 1637년에 발발한「시마바라의 난」을 최후로서 에도막부 말기에 도달할 때까지 200년 이상으로 긍은 태평의 세상이 계속 된다.그 때문에, 에도도 중기가 되면 투구와 갑옷은 실용품으로서의 의의를 잃어, 점차 위의적 목적으로 장식하기 위한「무가의 겉(표)도구」가 되어 갔다.이 때문에는 착용에는 조금 적합하지 않아도 외형이 훌륭하다라고 하는 것이 바람직하고, 또 옛 식의 채용은 선조 무훈을 과시하는 의미에 대해도 유효했어로, 열심인 연구를 하게 되었다.
이러한 풍조에 의해 착용상의 적부는 별개로, 외관상은 옛 식에 가까운 것이 많이 만들어졌던 시대이다.그러나 일부에 남는 상무적 무사의 영향도 있어, 무로마치시대 말기부터 사용된 의 이점도 다 버릴 수 없었던 것으로부터, 정확한 옛 식을 이용하려면 도달하지 않았다.

 

 

●금소찰비위동도구(이바라키 미토·토쿠가와 박물관창고)
먼저 가리킨 미토 토쿠가와가의금소찰비위도구와 유사한 한 벌이지만, 이 금소찰비위동도구만은 분명하게 제작 년대가 흐른다.미토가 삼대·강소의 5남·금 마츠군(1692-96)을 위해서 신조 된 동도구이다.
분명하게「대대모양 양품」에 범을 뽑은 것이어, 에도 중기에 있어서의 토쿠가와 한 집안의 귀중한 유품이다.덧붙여금 마츠군은 불과5세에 미토성에서 잠기고 있다.

 

 

덧붙여서, 산료를 늘어놓으면 이하같다.각각의 도구의 사이즈가 알아 주실 것이다.

 

 

●감실위대요로이(쿄토우물 이미술관장)
전체의 구성은 에도 중기의 물건이지만, 투구의 머리를 덮는 부분은 무로마치 시대의 「408간총복륜후타카타백근투구의 머리를 덮는 부분」을 이용하고 있다.근두를 대요로이에 도구 하는 곳(중) 등은, 어느 의미 「에도인것 같다」라고 하는 것인가.아마 남북조 시대의 대요로이를 의식해 제작된 것이라고 생각되어 소형의 소지폐를 이용해 키를 작게 해, 몸통은 옷자락착로, 2간으로 나눌 수 있었던 초접 옷자락판에는 요를 넣을 수 있는 「도에게 대응한 대요로이」가 되고 있다.초접의 요의 넣는 방법은 전체에 느슨하게 걸 수 있고 있어 오히려 무로마치기의 통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷이나 복대에 가깝다.초접은 전체에 작고, 좌우의 단을 늘리지 않은 것으로부터, 승마했을 때에 대퇴부를 완전하게 방호하려면 부족하겠지.그래서 있어 패순이 부속되지 않은 곳은, 허식화와는 다른 의미로 실용으로부터 먼 것이 되고 있다.
꼼꼼한 완성이지만, 옛 식 연구가 불10분인 시대의 대요로이인것 같고, 그야말로 탁상의 연구에 근거한 구성이라고 말할 수 있자.

 

 

●감실위 요로이(시즈오카 쿠노산토우 테루궁박물관창고)
「폭응방장군」일야시로 장군·도쿠가와 요시무네소용의 대요로이이다.작자는 나라의하루타 고 명.고 명요시무네의 생명으로 제국의 지샤 옛집의 후루타케기류의 조사·모사에 종사한 함공(갑주사)이다.요시무네
는 후루타케기의 조사에 열심이고, 온타케 신사의보라색 아래로 갈수록 진하게 하는 염색권세요로이적실위 요로이등, 현재 남는 국보급의 요로이의 수리를 명하거나 하고 있다.
이 두는, 산성·안마절의 용두의 두를 복원 모조한 것이며, 몸통과 대소매도 모두 갖춘다.두는 206간 사방 승리두로, 전신용의 립물이 배치되고 있다.몸통과 소매는 흑 옻나무성우에모토소지폐를 감실로 털 당겨에 위협해 있다.고육 조와 투조를 구사하고 철물을 성장해 현주에는 3마리의 사자 모란문염위가 쳐지고 있다.각처의 장식은 에도조의 것이지만, 장군 직접의 소료인 만큼, 과연 양호한 작 역을 보이는 한 벌이다.

 

덧붙여서겐지8령의 하나「8용」의 두는 이것에 가까운 것은 아니었는가 하고 추정되고 있다.두 외에 멀구슬나무판이나 명치판, 대수관판 등 전신8개소에 용의 조금물이 다루어지고 있던 것 같다.

 

 

●카가 도구:백사위2매 몸통 도구(이시카와현립 역사 박물관창고)
카가 햐쿠만고쿠의 마에다가는 쿄토에서 직공을 불러 대어 금칠한 그림·상감 외 여러가지 공예를 장려했다.이러한 기술이카가 도구로 불리는 독특한 장식을 가한 투구와 갑옷을 낳게 된다.철장지의 부분에는 은오르자 흘려, 매화꽃을 코끼리환좌, 지지미쇠사슬이나 놋쇠쇠사슬의 호구 등, 타번에는 볼 수 없는 기교를 집중시킨 화려한 투구와 갑옷이 지방 영주 이하, 집안에서 넓게 이용되었다.
본품의 두와 무구에는, 카가번의 갑주사로서 유명한운해광상의 명이 있다.미비, 취반, 흉판, 패순에는 금당위를 쳐, 몸통은 황색의 비로드로 싼 다음 전은 봉황, 뒤는 구름에 은오르자 개수대로 장식하고 있다.무구의 수의 옷자락판을 니시키에서 릉봉으로 하거나 박과 흑 옻나무를 교대로 배치하거나, 카가 도구 특유가 공이 많이 든 완성이다.

 

 

●자실위2매 몸통 도구(토치기국학원대학토치기 학원 참고관장)
카스미의 큰 갑옷의 일부와 파문의 전립을 교부한 까마귀 모자형의 두, 뺨면구, 자실위의 2매 몸통, 초접, 소매, 바구니손, 이요패순, 경갑, 신발을 갖춘 도구이다.모두 금박이 첩화려한 지으면서도, 모모야마기의 무로마치시대 말기부터 사용된 과 다르지 않는 실용적인 구조이며, 소용자의 심구네를 물을 수 있다.

 

 

●유리재동
무로마치시대 말기부터 사용된 의 흉판으로부터 립 거에 걸친 부분이 열리는지, 제외를 할 수 있도록(듯이) 세공된 도구이다.에도초기의 연호의 무렵의 병법자로,겐에몬 유리금기라고 하는 인물이 고안 했다고 말해지고 있지만, 전기도 불명하고 에도초기의 연호의 무렵의 유물에는 볼 수 없다.오히려 에도 중기 이후로 보여지는 형식이다.
몸통의 일부를 떼어내도록(듯이) 한 이유는, 회중의 소품을 꺼내기 쉽게하기 위해(때문에)라고도 말하지만, 그 경우는 몸통의 소계를 여는 것이 빨리, 전투중에 탈락 하는것 같은 일이 있으면 대문제이다.무엇인가 탁상의 고안의 세공적인 수법으로 생각되고 실용으로부터 동떨어진 사양이다.
이 도구는, 센슈 키시와다 성주·오카베 미노 마모루소용의 도구로,유리재동중(안)에서는 특히 미려인 일품으로서 알려진다.

 

 

 

●주홍옻나무도감실위2매 몸통 도구(시가 히코네성박물관창고)
히코네번9대 지방 영주·정이직정의 소용과 전해지는 한 벌이다.전통의「정이의 빨강 갖추어」여, 돈의 대천충큰 갑옷의 일부와 창포의 전립을 붙일 수 있고 있다.히코네번에 있어서는, 돈의 대천충큰 갑옷의 일부는 지방 영주만이 이용하는 것이 허락되었다.
대대로 이어옴 필두의 집안으로서 히코네를 고장을 지키는 신 해, 서쪽 지방제번에 위엄을 보이는 역할을 담당해 받을 수 있어에, 복고 취미에 기울지 않고, 초대·직정이래,「빨강 갖추어」를 답습해 무로마치시대 말기부터 사용된 창을 한번 찔러 승부를 정함으로 온 히코네번인것 같은 한 벌이다.매우 시게타케장이 지으면서 패순에 가문을 다루는 등, 태평의 세상인것 같은 장식성도 엿볼 수 있다.
그러나 이 전통에 묶인 시게타케장주의가 에도막부 말기에 이르러 시대착오가 되어, 비참한 결과를 가져올 수 있게 되는 것이다.

 

 

 

●감실위백곰털무로마치시대 말기부터 사용된 (나가노 우에다시립 박물관창고)
우에다번마쓰다이라씨 초대·마츠다이라 타다시주소용과 기록에 명기되어 있는 도구이다.횡신통널5매 몸통으로, 흑 옻나무도감실을 이용하고 있다.몸통에는 고산노키리문의 쇠장식을 배치해, 또 소매의 연 금 화장판에도 고산노키리문을 아로 새겨 패순에는 모란과 사자가 금 금칠한 그림과 은니로 그려진다.두에는 권룡을 금니로 그려, 물소의 모퉁이를 코끼리전립이 배치되어 하치에는 흰 야크의 털이 심어지는 등 공예품이라고 해도 훌륭한 것이다.
몸통에는 총으로 시험해 격를 한 자취가 상가소 남아 있어 매우 견뢰한 완성인 것을 알지만, 소매나 패순까지가 철제판물로 구이루어진 중량이 있는 투구와 갑옷이며, 전진으로의 착용에 견딜 수 있는이라고는 생각되지 않는다.오랫동안 계속 된 태평의 세상이, 무로마치시대 말기부터 사용된 에도허식화를 가져올 수 있었던 예라고 말할 수 있자.

 

 

●두형 오륜탑두립두(쿄토 국립 박물관창고)
여기서 일단, 투구와 갑옷 본체로부터 이야기가 빗나가지만, 아래에 나타내는 것은 이요이마지 지방 영주·마츠다이라정기가 향보 7년(1722)에 이와이가의 갑주사에게 만들게 한「변화두」이다.아즈치 모모야마 시대 이후의 무장들은 여러가지 생각의 두를 설치하고 있어 신불의 가호를 기대하는 문양을 뽑는 사람도 많았지만, 통상은 적을 위협하는 생각으로 하고 있다.그러나 이 두는, 장대한 오륜탑의 실루엣을 코끼리두립에 범자를 틈새를 만들어, 「나무 아미타불불」의6자 명호가 대서 된 것이다.
두립은 동의 한 장판이며, 얼마나 경량의 소재를 이용해 제작했다고는 말할 수 있어 실용으로부터만큼 먼 것이라고 말할 수 있자.정기의 신앙심의 독실함이 그리워해지지만, 여기에도 에도 중기에 있어서의 무로마치시대 말기부터 사용된 의허식화의 예를 간파할 수 있다.

 

 

덧붙여서, 립물의 거대함으로 말하면, 센고쿠가에 전래한 월중 도구에 부속되는「월나카가미형대정 후립두」는 이것을 능가한다.다만, 이쪽은 실용 중시의 월중 도구인것 같고, 전시에는 용이하게 떼어낼 수 있었다.
센고쿠가 초대·히데히사의 소용과 전해지는 것으로부터, 시대는 전국말부터 에도 초기에 거슬러 올라간다.

 

 

●감실위통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷(쿄토건훈신사창고:중요문화재)
이 통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷은오다 노부나가의 소용과 전해져 오케하자마의 전투(1560)에서 착용하고 있던 것이라고 말해진다.당시라고 해도 옛 식의 통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷이며, 「대속이 비어 있음」이라고 해져 경기자로서 유명한노부나가으로서는 옛 식 그윽한 복장이다.
그럼 왜 이 통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷을 에도 중기의 물건으로서 채택했는지라고 말하면, 자세에 보면 몸통과 대소매의 소지폐가 고르지 않음이며, 연구자에 따라서는, 에도 중기에고물을 맞추어고쳐 지은 것이라고 보고 있기 때문이다.이번은 일단, 에도 중기의 완성과의 입장에 서서 소개한다.
노부나가
의 자손에 해당하는 카시하라번에 전래하고 있던 것이며, 기록에는 남지 않지만, 조상의 훌륭한 공훈을 그리워해 꼼꼼하게 재현을 시도했는지, 「본능절의 변」이후의 혼란 중(안)에서 대파해 버린 잔결을 대수리한 것은 없을까.수리를 했다고 해도, 신조 하는에 동일한 대규모인 것인 것임에 틀림없고, 그 의미로 에도 중기의 작이라고 봐 좋을 것이다.
거의 완벽하게 무로마치 후기의 통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷의 제를 정돈하고 있어에도 중기에 있어서의 복고 연구의, 하나의 도달점이라고 할 수 있는 것은 아닐까.

 

 

◆후기(너그러운 정치 이후:1789년~)
에도도 후기에 들어가면, 경제면을 읍인에게 잡아져 무사의 생활에 여유가 없어져 온 적도 있고, 투구와 갑옷을 신작하는 무사는 적게 되어, 조상보다 계승한 물건을 소유할 뿐의 경우가 많아졌다.
그런데도 여유가 있는 무사가 소료를 신작하는 경우는, 그 실용성을 무시해서까지 위의적으로 훌륭하게 보이는 형식을 좋아한 것으로부터, 무로마치시대 말기부터 사용된 은 상당히 배려의 좋은 무사가 아닌 한 만들지 않고, 에도시대 특유의 허식도 가미된 비비 주위 투구와 갑옷이 만들어지게 된다.이러한 투구와 갑옷의 주문서도 남아 있어 그 제작비를 현재의 금전 감각으로 고치면 「집한 채분 」에 상당한 것 같다.
그것과는 별도로 옛 식의 연구도 진전한 것으로부터, 보다 충실히 옛 식을 재현한 우수품도 볼 수 있게 되었다.너그러운 정치 4년(1792)에는 노중·마쓰다이라 사다노부「집고10종」을 간행해, 옛 식 연구의 귀중한 자료가 되고 있다.

집고10종

 

 

●보라색 아래로 갈수록 진하게 하는 염색권세요로이(개인창고)
두는 야윈 흑 옻나무 칠의 별 하치에서 묘친계의「작의 두」이며, 평안으로부터 가마쿠라 시대의 형식을 뽑은 쿠와가타를 치고 있다.드림은 5단 스기다테형으로 4단을 되살려, 본소지폐를 보라색 아래로 갈수록 진하게 하는 염색에 위협해 있다.초접은 4간5단, 대소매는 육단 내려, 호구는 의경 호구, 멀구슬나무판과 명치판도 모두 옛 식에 필적하고 있다.회위는 헤이안 시대의 우아한 도안이지만, 몸통의 형 자는 옷자락착로 가마쿠라 시대 후기부터 남북조 시대에 걸친 것이다.
에도 후기의 복고조의 우수품으로서 들고 있는 대요로이이지만, 패순은 이요지폐를 자실로 위협해, 크게 밖에 내다 붙인 오타치거등에는, 무로마치시대 말기부터 사용된 의 연구를 주로 하는 갑주사에 의한 모사의 한계도 느껴진다.

 

 

●백사위대요로이(카가와현립 박물관창고)
타카마츠·마츠다이라가
에 전래한 투구와 갑옷의 하나이지만, 소용자 등은 불명하다.본품의 특징은, 패순과 경갑이 낡은 형식을 취하고 있는 점에 있지만, 실용성에는 부족하다고 생각된다.
현주에는 3마리의 사자 모란문염위가 쳐지고, 의경 호구와 7 단시타 꾸중의 대소매를 도구 하는 등 옛 식의 대요로이를 본뜨고 있지만, 여러가지 시대의 양식이 혼재하고 있는 것 같다.총체의 완성은 세밀 정중하지만, 오타치거의 형상이나 일만두형의 드림에 역송풍이 한층 더한두등을 보면, 정확한 고체라고는 말하지 못하고, 어디까지나「같은 대요로이」이다.

 

 

●감색 아래로 갈수록 진하게 하는 염색 통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷 도구(카가와현립 박물관창고)
타카마츠번을 시중든 갑주사·묘친가의 제작이다.크고 확대 약간 얕은 삿갓드림을 가지는 두는 무로마치 시대의 형식을 뽑고 있다.명세에 조사하면 옛 식이라고는 할 수 없는 것으로는 있지만, 총체에 정리가 좋고, 통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷으로서는 옛 식의 연구가 진행된 한 벌일 것이다.
전립의 토끼는 투구와 갑옷의 이미지에 맞지 않는 같게 생각되지만, 달신앙이나 준민 사노 상징으로서 무사에게는 선호된 생각이다.

 

 

●자사위통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷(도쿄 야스쿠니 신사창고)
명봉행 「토야마의 김씨」일토야마 사에몬위경원소용의 통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷이다.에도도 후기에 들어가, 꽤 옛 식 연구가 진행된 작 역을 보이는 한 벌이다.쇠장식 회전은 흑 옻나무 칠로, 소지폐는 모두흑 옻나무도성우에모토소지폐이지만, 초접의 증찰이 적기 위해(때문에) 옷자락 확대가 적어, 이것은 무로마치시대 말기부터 사용된 이래의 경향이다.
두는 602간의 줄기하치에서 드림은 4단이지만, 릉봉을 삼단에 취하는 점 등은 에도조의 완성이다.

 

 

●흑실위통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷 도구(효고 혼다 문고창고)
현재의 효고현 시소우군 야마사키쵸.여기는 에도시대는 1만석의 영주,혼다 히젠수의 영지에서 만났다.1만석의 소영주라고 해도, 토쿠가와 사천왕·혼다 다다카쓰의 후예이며, 에도성에서의 사후석은 「제감간」을 나누어주어지는 격식을 자랑하고 있었다.메이지 유신에 의해 자작을 하사할 수 있어 190년에 걸치는 치세에 막을 내렸지만, 지금도 수많은 무기가 남겨지고 있다.
이 요로이는 아마 에도막부 말기 근처, 문화 분세의 무렵의 지방 영주·혼다 타다시인과소의 전대·타다요시근처의 것이라고 추측된다.두의 전립에는, 혼다가의 가문 「서 규문」을 세울 수 있고 있다
에도막부 말기가 되어 복고의 연구가 많이 진행되었을 무렵의 제작이지만, 적지 않이 전국기의 생각을 도입한 것이 되고 있어 소매는 동요에 짜여져 고 모양과도 당세라고도 말할 수 없는 것이지만 실용을 고려한 구조이다.화려하게 달리지 않고,충승
이래의 무문의 명사의 기상이 느껴지는 한 벌이다.무구, 갑옷의 부속품, 행엽, 호구, 경갑, 신발을 모두 갖춘 우수품이며, 에도막부 말기의 요로이를 연구하는데 있어서의 호자료이다.

 

 

덧붙여서 이쪽은「말 요로이」이다.용을 코끼리「긴 얼굴」에 카드판의 「마 갑」을 도구 하고 있다.
이러한 말 요로이는 영주가에는 없으면 안 되는 도구의 하나였지만, 에도의 태평에 있어서는 말 가지런히 해 때 등에 붙이고 위의를 나타내는 것이며, 실전적인 장비는 아니었다.말에 있어서는 무겁고 귀찮았던 일일 것이다.

 

 

●카가 도구:연두빛사위통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷(토야마시 향토 박물관창고)
카가·마에다가의 지번, 다이쇼우지번고다이 지방 영주의 8남으로, 토야마번9대 지방 영주·마에다리간의 소용이다.본래대요로이 밖에 구비되어 있지 않아야 할 멀구슬나무판과 명치판이 장착되고 있지만, 현주위는 쳐지지 않고, 드림·무구·초접에 가세해 패순의 그늘의 잡초접의 옷자락판에까지 금동의 장식 쇠장식이 이용되고 있다.미술품이라고도 말해야 한다 정밀한 장식이며, 실용보다 장식 중시인 것이 현저한 한 벌이다.
 

 

 

●철흑 옻나무도성우에모토소찰자아래로 갈수록 진하게 하는 염색 통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷(치바마하다신사창고)
사쿠라 지방 영주·홋타 타다시 사랑소용의 투구와 갑옷으로, 문화 14년(1817)에오오이시 츄우지·사이 야와타무보에 만들게 한 통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷이다.마지막 사쿠라 지방 영주·홋타 타다시륜공이 메이지 3년(1870)에 가계도와 함께 마하다신사에 봉납하고 있다.
호구와 경갑에 패순은 금박 밀기 연마의 호화로운 완성이며, 무릎의 오타치거는 크게 밖에 내다 붙인 에도기 특유의 형상이다.이쪽의 통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷도 멀구슬나무판과 명치판이 부속된 불규칙한 완성으로, 패순에는 그늘의 잡초접이 붙어, 전체를 아래로 갈수록 진하게 하는 염색에 위협한 고급완성이다.정교 치밀한 작 역이지만, 실용으로부터 멀어져허식화가 극히 기다렸다고도 말할 수 있다.
번의 재정재건에 임해, 검소 검약을 취지로 했다홋타 타다시 사랑
의 소용으로서는 의외로 생각될 만큼 화려한 한 벌이지만, 당시의 무사는 그만큼 체면을 신경썼다고 하는 것일 것이다.

 

 

●감내위대요로이(쿄토우물 이미술관장)
사가번·나베시마 가전 이래의 대요로이이다.에도막부 말기의 명군·나베시마 간소 나오마사소용과 전해진다.감내위로 전체의 구성은 에도 말기의 것이지만, 투구의 머리를 덮는 부분은 잔존 드문 카마쿠라 말기의 성두를 유용하고 있어, 구리카라 류우오의 앞립에, 쿠와가타에는 깃털의 모조가 베풀어지고 있다.쇠장식 회전도 정밀한 작 역이며, 고 같은 행엽문이 총각과 대소매 미즈노미환두에 각 되고 있다.위소의 도안은 에도조에 소화된 것이지만, 스기다테형의 드림에 큰 역송풍과 의경 호구에 옷자락 확대의 몸통의 형 자는 대단히 고풍스러운 양식을 나타내고 있어 카마쿠라기의 대요로이를 꽤 자주(잘) 재현하고 있다.

※내위란, 아래로 갈수록 진하게 하는 염색권세와는 반대로 위를 진하고, 하부를 차츰 얇은 색으로 위협한 것.

 

 

●묘화위통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷(시즈오카 쿠노산토우 테루궁박물관창고)
토쿠가와막부 마지막 장군·도쿠가와 요시노부가 이치하시가를 상속했을 때에 신조 한 통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷이다.작자는묘친 소오지.덧붙여서 묘친파는 헤이안 시대부터 계속 되는 갑주사의 가계로, 분가도 많다.현재의 종가는 무로마치 시대 말기부터 계속 되어, 제25대째의 당주·묘친종 야스시씨가 문화재의 요로이를 복원·수복하거나 사본을 제작하거나 되고 있다.
두는, 금 쿠와가타에 전신용의 립물을 붙일 수 있었던 장지 204간 후타카타 승리하치이다.총체를 모에총실로 털 당겨에 위협해, 초접은 8간5단의 정형이 되고 있는 등, 옛 제도의 통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷을 자주(잘) 재현하고 있다.대수·행엽·갑옷의 부속품·무구·호구·경갑을 모두 갖추고 있어 두를 시작해 통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷의 소도구에까지 미치는자금위의 사용은,요시노부아리스가와노미야직 히토시 황태자의 외손이기 때문이라고 한다(※자금위는 황족 밖에 용서되지 않는 것이다).

 

 

 

◆묘친파·작의 두
갑주사로서는, 옛부터이와이파카스가파의 이름이 알려져 있었지만, 에도시대에 들어가고 나서는사오토메파와 함께묘친파가 융성 한다.단련해의 좋은 점으로부터 영주가에 많이 사용되었지만, 그 선전도 상당한 물건이며, 도검 감정에 「둘로 접은 종이」를 붙이는 혼나미가에 대항해 감정서를 발행해, 그 혈맥은다케시우치노 스쿠네에게 연결되면 겉치레하고 있었다.
에도시대에 있어서의 투구와 갑옷은 종합 미술 공예품이며, 철물·실타·염혁·조각·완성 등 많은 직공의 분업에 의해 성립되고 있었지만, 누구의 작일까하고 말했을 경우에는 본래이면 완성의 사람을 가지고 대표와 되는 것이 당연하든지, 많은 경우에는 두를 중시했기 때문에 투구의 머리를 덮는 부분의 제작자를 가져 투구와 갑옷 제작자라고 보는 방향이 많다.그 때문에, 두를 자랑으로 여기고 있던 묘친파의 이름이 많이 퍼졌다.
여기에서는, 이번 투고에서도 자주 나온 묘친파의 두를 채택해 본다.

 

 

●철흑 옻나무도106간 사방 승리두
이 두는, 히젠 쿠니시마원지방 영주·마츠다이라 토노모두착용의 것으로, 그 화려함에 두어 에도두제일의 것이다.하치는 묘친파의「작의 두」형식의 대원 야마가타의 오오호시이다.제작자는묘친 무네야스이다.

 

 

●철장지 208간 후타카타 승리두
본품은, 이요국 이마지번·마쓰다이라 사다카쓰의 5남·정방의 계통에 전래한 것으로, 에도 묘친의 대표적 복고조 작품이다.하치뒤에는묘친기종친의 명이 있어, 약간 두고의「작의 두」이다.

 

 

●철흑 옻나무도102간 사방 승리두
본품은,기슈 토쿠가와가전래의 것으로, 복고조 전성 시대의 우수품이다.명확한 명은 확인하지 못하고, 묘친파의 작인가 불명하지만, 대원 야마가타에서 「작의 두」를 닮아 다닌 구조이다.

 

 

◆에도막부 말기의 경장 도구
에도 말기에는, 막번체제에의 반동과 서양 열강의 동양 진출이 자극이 되어,존왕양이의 사상이 만연해 사회 정세가 불온하게 된다.쿄토에서는 번을 벗어나 떠돌이가 되는 것 섦길 영주를 잃은 무사나 막부 치안 조직과의 베어 합겉껍데기 빈발해, 다시 실전 사양이 요구되는 세태가 되었다.그러나, 이 시대에는 서양식 전술의 연구와 화기의 발달도 있고, 투구와 갑옷의 존재 가치 자체가 의심되어지는 상태에 이른다.철로 요로이「히코네의 적귀」가, 경무장·모아의「진기함 군인」에게 완패하는 사태에 이르러도, 무사들은「전장의 나들이 옷」인 투구와 갑옷을 버리고 가는에 참기 어려웠던 것 같고, 고심하면서도 경장의 도구가 이용되게 된다.

 

 

●다다미 도구
무로마치시대 말기부터 사용된 의 일종으로, 카드금 또는 귀갑금등을 쇄륜으로 연접해 구이룬 도구이다.작게 접을 수 있는 것으로부터「다다미 도구」라고 칭해진 것으로, 무로마치 후기에는 그 원형이 완성되고 있었다.가지에 갑을 꿰매는 형식이므로, 나라시대에 이용된「면오갑」의 계통에 속할 것이라고 말할 수 있지만, 그 구조로부터 자돌에는 약하다.
에도시대로는 다이묘를 일정기간 교대로 머무립 공무의 여행, 숙직등의 때는, 무사의 마음가짐으로서 도구를 지참하는 표면이 있던 것으로부터, 운반에 편리한 다다미 도구가 귀중한 보물 되었다.또, 대량생산과 대량 보관에 적절하고 있는 것으로부터 대도구라고 해도 준비되어 특히 에도막부 말기에 경장 무기의 수요가 높아지면 조세남조 되었다.이러한 많게는 전투로 소모되어 갔지만, 날이 큼의 무사의 고급품은 비교적 많이 남겨지고 있다.

 

 

두도 같은 카드금이나 귀갑금을 이용한「두건두」로 불리는 것이나, 투구의 머리를 덮는 부분의 부재를 드림과 같이 연결해 정리할 수 있도록(듯이) 한「제등두」라고 해지는 것이 도구 된다. 

 

 

●공소지폐 도구:감실위통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷(도쿄 야스쿠니 신사창고)
련혁찰을 뒤로부터 밝히고, 옛 식의 성우에모토소지폐와 같이 보인 것을「공소지폐」라고 말한다.사츠마의쿠리하라유암의 고안 한 것이라고 말해져 엄하고 시게타케장으로 보이면서, 매우 경량으로 에도막부 말기에 유행한 형식이다.총화기에 대항할 수 없으면, 적어도 칼과 창에는 견딜 수 있는 것을 이라고 결론 지은 투구와 갑옷이다.그러나, 신조 했을 때는 좋지만, 연수가 지나면 가죽의 탄력이 없어져 무러진다고 하는 결점이 있어, 방어용 기구라고 하는 의미로부터도, 먼 허식의 것이 많았다.
본품은 공소지폐의 투구와 갑옷 중(안)에서도 옛 식을 범으로 한 것으로, 성두에 대소매, 무구, 갑옷의 부속품, 패순을 도구 한 통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷완성이다.
 

 

 

●쇠사슬 홑옷
양의 동서를 불문하고, 가장 기본적인 방어용 기구의 하나이다.경장비의 방어용 기구로서는 가장 간편하고, 휴대폰에도 편리한 것이다.원래는 도구아래에 착용하는 「웃옷 밑에 간편한 방호구를 입음」이었지만, 에도막부 말기에는 쇠사슬 두건에 쇠사슬 홑옷만의 경장이 많이 유행하고 있다.인 참로 유명한「신센구미」도, 대개 이 정도의 무장으로 전투에 종사하고 있다.또 고위의 무사는, 쇠사슬을 금이나 단자, 백능으로 싼 화려한 홑옷을 이용하고 있었다.

 

 

에도막부 말기의 동란이 지나가 버려, 1869년에보신 전쟁이 종결하면, 부국 강병이 추진되어 간다.군대에도 근대화의 물결이 밀려 들어 사무라이 계급은 해체되어 국민 군대에 개편되어 갔다.전법도 화력과 기동력이 중시되게 되어, 총화기에 대항할 수 없는 투구와 갑옷은 과거의 유물로서 전장으로부터 자취을 감추어 가게 되는 것이다.
그러나, 현재에도 미술·공예품으로서 칭찬되어 전통 공예의 결집으로서 그 장의 기술이 인계되고 있다.갑주사들도, 문화재의 보수나 사본의 제작과 함께, 영화의 소도구의 제작등을 감수 해, 전통을 계속 지키고 있는 것이다.

 

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그런데, 3회에 긍은 일본의 투구와 갑옷의 역사를, 수많은 유물을 바라보면서, 대략적으로 정리해 보았습니다만 어땠습니까?
이번 투고에서도 신했습니다만 , 에도시대에는 무사가 가문의 품격을 과시하기 위해서, 유서의 불명한 낡은 요로이를 선조 전래의 물건이라고 칭한 적도 있어, 「전 00소용」이라고 하는 구가해 불평에는 허위가 섞이고 있는 것도 적지는 않습니다.낡은 시대의 투구와 갑옷도 영웅 호걸에게 핑계되기도 해, 한층 더 현대라도 아무 근거도 없게 전래를 날조 하는 케이스도 있습니다(그 제일의 예가 「모리 란마루 소용·이요찰동도구」입니다만).
실은 이번 소개한 투구와 갑옷에 대해서도, 아무래도 어쩐지 수상하다고 생각하는 것이 있습니다.그렇지만, 전문가도 아니기 때문에 그 근처에는 눈명개개, 투구와 갑옷을 통해 고의 무장에 로망을 느끼는 것도 또 일흥입니다.



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