伝統文化

 

 我が民族の歴史が始まった以来幾多の外的の侵犯があったがその時ごとにうちの先祖たちは熱い救国(救国)の意志とすごい闘志で国難(国難)を乗り越えて来た. 国難にあう度に卓越なリーダーシップを発揮して民族的気象を高くふるった救国の英雄はいちいち数え切れないだけ多いが, 李舜臣こそその多い英雄, 豪傑, 忠臣, 烈士の中にもきっての偉人という事実にはその誰も異意を申し立てることができないだろう.

李舜臣(李舜臣)は韓国歴史上最高の戦争英雄で壬辰の乱(壬辰倭乱), 丁酉災乱(丁酉再乱)という未曽有の災いにあって国と同胞の滅亡が目の前に至った時朝鮮水軍を総指揮していろいろの不利な与件の中でも必勝の信念とすごい戦略で勝ちっ放し(連戦連勝)をあげた不世出の名将だった. 彼は貧しい士の息子に生まれて 54年の長くない一生を送る間あらゆる苦難の中でもひたすら忠孝(忠孝), 仁義(仁義)と愛国愛族精神(愛国愛族精神)に一貫した民族の大きい師匠だった.

イギリス海軍兵学校校長を勤めたビルラド(G.A.Billard) 所長(少将)は ¥”朝鮮の李舜臣という海軍提督がネルソン(Horatio Nelson)に劣らないすぐれた指揮官という事実をイギリス人たちは認めにくいが李舜臣が東洋最高の海軍提督という点は否定することができない事実だ.¥”と李舜臣を評価した. 中国係アメリカ人歴史学者でアメリカワシントン州立大学校教授であるレイ硫黄(Ray Hwang) 博士は東洋史 3台戦争英雄で朝鮮の李舜臣(李舜臣), ベトナム多異美瑛王朝のチェンフンダオ[千訓道], 中国明のワンスングファン(袁崇煥)を持ちながらその中でも李舜臣が一番偉い手柄を残した英雄だとほめたたえた.

今日国内外の情勢, 特に再び抜けた政治的, 経済的危機に照らして見る時李舜臣は今まで知られて来た節税の名将, 救国の英雄という面貌に加えてすごいリーダーシップを取り揃えた最高経営者だったという事実を今更節減するようになる. 21世紀という新しい激変の時代, 激動の時代を迎えて強大国たちとの無限競争で生き残るためにしても私たちは東西古今(東西古今)のどんな偉人よりも偉かった聖雄(聖雄) 李舜臣のリーダーシップを通じて国難克服の知恵を捜さなければならないでしょう.

◆ ¥”閑散島甘い明るい夜に...¥”

李舜臣は不世出の名将ながらもまあまあの程な士たちに劣らず文章力が良かった. 閑山島(閑山島) 雲洲だ(運籌堂)で国の運命を心配する悲感幼い詩もたくさん詠じた.

その中で一番広く知られていることが次の作品だ.

¥”閑山島月明夜 上戍樓撫大刀 深愁時何処 一声羌笛更添愁 [閑散島甘い明るい夜に垂涙に一人きり座って大きい刀横にガレージ深い憂いなげきする車にどこで一声呼値は他人の子をクンナなの...]¥”

しかしこの詩中で ¥”大きい刀横にガレージ¥”は ¥”大きい刀撫でて[撫]¥”を過ち翻訳したという指摘がある. ¥”閑山島の夜に詠ずる[閑山島夜吟]¥”という一時(漢詩)も同じな心境を詠じたのだ.

¥”水国秋光暮 驚寒雁陣高 憂心輾転夜 残月照弓刀 [海に秋の気配暮れたら寒さに驚いたギロギテ高く出るね. 心配に眠れなくて掻き回す夜, 傾く月が弓と刀を照らすのね]¥”

李舜臣は外では空の下かけがえのない名将ながら中では至極な親孝行です, 優しい夫でお父さんだった. 戦乱(戦乱)にあってあらゆる難関を乗り越えながらいろいろな戦略を樹立して敵軍を打ち破って国を守るのに身が十個aも足りない位だったが李舜臣は寂しく年を取って行くお母さん哨戒ビョン氏をつけた一日も忘れることができなかった.

乱中日記(乱中日記) あちこちで彼のこのように熱い孝誠心を読めるが, 彼がお母さんをお伺いするために体察使イワンイック(李元翼)に送ったお休み申し込み書は読む人にとって今更襟をただすようにする.

¥”...私は元々低劣な人で重い牛なのを不名誉に引き受けて仕事には不始末にしてはいけない責任があって, 身は自由に動くことができなくて余計に両親をしのぶ情だけ加えるだけです. 子心配するその心を慰めて上げることができないところ朝に出て及んで帰って来なくても両親は戸外に立ってバラドンダハゴヌル, ましてお会いする事ができないか 3年目もなります.

お母さんがこの間下人便にグルワルを送ったが, ¥”老けた身の病気が日々につのったら未来だっていくらなろうか. 死ぬことの前に君の顔をもう一度見たい¥” と言いました. 他人が入っても涙が出るマルスムイゴヌルましてそのお母さんの子はどうですか? その便りを聞いてからは心がもっと産卵するだけ他の事には心が落ち着かないです.

私が先日建元補権官である時にお父さんがお亡くなりになって千里を粉状した仕事があったが, 生きていらっしゃる時に弱い包み煎じて上げることができずに永訣さえできなくていつもそれで一生限りになりました. もうまたお母さんが七十を越して日が瑞山に着いたようだこんなにしていてもしまた一瞬にまた仕える道ない悲しみに会う日が来るとこれは私がもう一度親不孝した子になるだけでなくお母さんも地下で死ぬことができないだろう.

だからこの冬にお母さんを行ってお目にかかることができずに春になって防備するのに忙しくなったら到底陣営を発ちにくいだろう. この切ないとどめ(情曲)を察して何日の間のお休みをくださったら一度行くようになることで老けたお母さん心が少なく慰労になることができるでしょう. そしてその間にもし何の変故が生じたらどうしてお休みの中と言っても敢えて仲立ちした事を誤るようにしますか?¥”

そうして李舜臣はお母さんをお伺いすることができたが, 息子を見たお母さんは子が心配するか心配で少しもさびしいとか身が体が悪い気配を見せようと思わなかったから, まことにそのお母さんにその野郎だった.

お母さんは任地に帰るために下直あいさつをする息子にこんなに言ったと言う.

¥”よく行きなさい. 国の不名誉さを大きく洗いなさい.¥”

現在宝物第326号で牙山燎忠祠(顯忠祠)に保管されている二つの袋の有名な大将も(大長刀)を作ったことも閑山島にある時の 1574年だった. 道場(刀匠) テグィヨン(太貴連)と吏務生(李茂生)が作ったこの大将も(大長刀)は大人のツマ先から肩までの道と厚い重さを持っていて実戦用刀ではないようにする. 刃には李舜臣の親筆偽名(刀銘)が刻まれているのに内容は次のようだ.

¥”三尺誓天 山河動色 一揮掃蕩 血染山河 [席子される刀で空に誓ったら山と水が震えて一度振り回して掃いてしまったら血が江山を染める.]¥”

統制使でいるうちに李舜臣は人才を抜擢して養成するために特別過去を実施したりした. 過去は調整でばかり施行することで権限のない李舜臣は特別に許しを得てチンの中で武科試験を受けたのだ. 1594年 4月 6日から 3日間行われたこの過去で 1百人の合格者が出た. 李舜臣は彼らの名簿をいちいち書いて調整に報告した.

このように李舜臣の一日一日は身に10ケ, 百個でも足りない位だった. そして倭軍たちはいつ退くか何らの気味がなかった.

◆ 第2次タンハン布海戦(唐項浦海戦)とザングムンポヘゾン(長門浦海戦).

閑山島(閑山島)の統制営(統制営)で李舜臣は軍費を拡充して軍事と民たちのために不撤昼夜で心を労し気を碎きながらも一時も油断しないで敵軍の動態を見詰めた. 李舜臣は情報戦(諜報戦)の大切さをかつて悟った戦略家だ. 彼は一日も漏らさないで四方で探望船を送って敵軍の動きを見張って把握した. また軍事的要衝地には伏兵を配置してもしあるかも知れない敵軍の奇襲攻撃に備えた.

また日が変わって壬辰の乱(壬辰倭乱) 3年目である 1594年春になった. 去年李舜臣の知略と朝鮮水軍の威勢に押されて熊川等地の巣窟に平たく伏せて死んだ振りをしながらびくともしなかった日本水軍がそろそろ動くの始めた.

¥”倭軍が巣窟を出て近くの金海, 昌原, 高声等地の民家を掠奪している.¥”は慶尚察使到韓孝純(韓孝純)の公文書を受けた李舜臣は日本水軍の動きを詳しく把握した後イオックギと元均などに出場指示を下げる一方, 陸地の巡辺使イビン(李賓)にも公文書を送って水陸合同作戦(水陸合同作戦)を要請した.

そうな中 3月 3日に適正を見張ったマングザング(望将) 制限国(諸漢国)から ¥”外敵(倭敵)の大統領選挙 10尺, 中線 14尺, 小船 7隻等 31尺が永登浦から出て 21尺はタンハン布に行って, 7尺は鴨量に行って, 残り 3尺は制度に行った.¥”は急報を受けた.

李舜臣は朝鮮三道数だね連合船団(朝鮮三道水軍連合船団)を皆閑山島で集結させてその晩闇の中で出動した. ギョンネリャングを経って指導で休息を取った後, 明くる日夜明け 2時に出発したが粗放場御影談(魚泳潭)にとって軽快船(軽快船) 31尺を従えて賊船があるタンハン布と鴨量で先に進むようにした. そして李舜臣はイオックギ, 元均と一緒にの中も前海上に進んで鶴翼陣(鶴翼陣)を広げて敵の応援君が来る進路をあらかじめ遮断した.


その日 3月 4日に賊船 10尺が昌原から出て沿岸に付いて行くことを御影談の機動打撃艦隊(機動打撃艦隊) が見つけて猛追撃して攻撃を開始, ウブゾンポで 10尺, オソンポで 2尺, 字句尾浦で 2尺の賊船をそれぞれ粉碎した. しかし大部分の敵兵たちは素早く陸で這い上がって逃げてしまった. 朝鮮水軍はタンハン布沖合に集結したがちょうど助手が引潮に変わって潟の中に攻めこむことができなかった.

3月 5日には御影談の特攻艦隊が潟の中に突撃を敢行した. しかし夜来に敵兵たちは皆お腹を捨てて陸地で逃げて敵軍の軍船は皆空いていた. それで賊船 21尺だけ燃やしてしまった. 3月 6日, 李舜臣は大大的な殲滅作戦を広げるには軍船と兵力が皆不足だから形勢を見てまた出場する事にして閑山島に帰港した.

ところで今度作戦の終わった後元均が専攻(戦功)を独り占めするつもりですべての功労が軽傷牛島数だね(慶尚右道水軍)にあることのように長計を作成してあげたのでこんな事実が分かった将兵たちが皆憤慨した. 李舜臣は各道別で賊船を燃やした前科と有功将兵たちの名簿をまた作って調整に報告した. また賊船で捕獲した様式と衣服なんかを軍事たちに分けてやって不平を撫でさした.

が頃李舜臣はよほど健康が悪かったが, 閑山島に帰還した後にもわがまま病席に横になることができなかったまま汗をだらだら流して公務を見た. あの時日本軍と強化交渉のために熊川に来ていた明の管理人仙遊道士(宣諭都使) ダムゾングである(譚宗仁)がグムトペムン(禁討牌文)を送って李舜臣を非常に怒るようにした.

李舜臣が指揮する朝鮮水軍に百戦白牌(百戦百敗)にあって幾多の軍船と兵力を失ったグキヨシダカ[九鬼嘉隆], ドドダカー島だと[藤堂高虎], グワヤママーサ一日[桑山貞晴] など日本水軍の長寿たちが李舜臣を恐れて人(明) 側と強化会談(講和会談)を持つうちに朝鮮水軍が日本水軍を攻撃することができaようにしてくれと言うずにダムゾングである(譚宗仁)に哀願して作われたのがすぐグムトペムン(禁討牌文)だった.

ダムゾングインが三道水軍統制営(三道水軍統制営)に送ったグムトペムンにはこんな書き入れ時があって李舜臣の心機(心気)をもっと不便にさせた.

¥”倭軍の多くの長寿たちが心を回して帰化しない者がいなくて, 皆が武器を入れて軍事たちを休息させて彼らの本国に帰ろうと思ったら君逹(朝鮮の) すべての軍船たちもそれぞれ私の故障に帰って倭軍の陣営に近付けて悶着を起こさないようにしなさい.¥”

第2次タンハン布海戦(唐項浦海戦) 以前から扁桃腺(扁桃腺)が腫れて, 身に熱が出て関節と筋肉に痛症がひどくなって頭痛で病患を病み始めた李舜臣はこのグムトペムンを読んで見てから血を吐いたと言う. 彼は明が朝鮮を排除して日本と進行中の強化交渉(講和協商)に対して絶対認めることができなかった. なによりも戦犯(戦犯)である日本のテハブ(泰合) 豊臣秀吉[豊臣秀吉]のお詫びさえない所に戦争を起こした日本軍が賠償もしないで自分勝手に本国に帰る体たらくをそのまま時間をかけて見られなかった. それに日本軍は釜山で兵力を撤収させていなかった. これはいつは休戦條約(休戦條約)を壊していつでも再侵入(再侵)する可能性を開いておく事や違うことがなかった.

李舜臣は身が非常に調子が悪くて副官に大臣答書を作るようにしたが文内容が気に入らなくて病中に無理やりに起きて座って下のような答書を使ってダムゾングインに送った.

¥”朝鮮の三道水軍統制使(三道水軍統制使) 李舜臣(李舜臣)はご遠慮大命国(大明国) 仙遊道士(宣諭都使) 大人に答書をあげます.

外敵(倭敵)が自ら混乱を起こして軍事を導いて海を渡って来て罪のないうちの民たちを殺して, またソウルを侵攻して凶悪な仕業たちをやらかしたのが言えないから全国の臣下と民たちの痛憤することが骨の中にくすぶってこれら外敵(倭敵)とは同じ空児して生きないことに誓っています.

...ところでペムン(牌文)のお話中に ¥”倭将(倭将)らに悶着を起こさないでね¥”と言ったが, 外敵(倭敵)らが巨済, 熊川, 金海, 東莱等地に陣を張っているところその所がすべて私たちタングイゴヌル私たちに倭軍陣営に近く枝ないでねと言うのは何のお話であり, また私たちに速く私の故障でダルアがだと言ったら私の故障と言う(のは)またどの所にいるのか分かるあてがなくて, また悶着を起こした者は私たちの軍事ではなく外敵(倭敵)らです.

も 倭 人らはずるくてしょうがなくて古くから信義(信義)を守ったという話を聞いた事がないです. 凶悪で狡い赤道(賊徒)らがまだそのポアックスロウン行動を止めなくて海辺にチンをやにまだ日が経つように退かないで多くの所を侵犯して人殺しをしてエックタルするのを前日より一倍や加えたら兵器(兵器)をおさめて海を渡って本国に帰ろうとする意味が果してどこにあってしますか.

もう強化(講和)するということは実にまやかしと偽りしかないです.¥”

李舜臣は病状のますます悪くなって行ったが一日も楽に横になって元気を出す考えをしなかった. 見るに耐えない第一息子泥灰(李獪)が休息を勧めても怒ってこんなに言った.

¥”もう少ない相手で勝敗の決断が近かった. 大将としてまだ竹紙アンアッゴヌルどうして横になることができるという話なのか!¥”

第2次タンハン布海戦(唐項浦海戦)があった後敵軍は再び朝鮮水軍に要撃(邀撃)あうか心配でめったに海に出る考えをすることができなかった.

そのように 4ヶ月がザナッダ. 7, 8月から敵軍がまた動き始めて巨済島とアンゴ−ルポを中心にその一帯に長期間とどまる準備をしているという適正報告が入って来た. 8月初に李舜臣は桃源数権慄と何回も水陸合同作戦(水陸合同作戦)の必要性に対して論議して戦闘準備を取り揃えた. やがて権慄から 9月 27日に軍事を起こすという通知を受けた.

李舜臣将軍は海戦の時角度指揮官の仕分けのために全裸左図数だね(全羅左道水軍)は黄色, 全裸牛島数だね(全羅右道水軍)は赤色, 軽傷牛島数だね(慶尚右道水軍)は黒い色転覆をそれぞれ作ってくれた. そして 27日には約束どおり閑山島を出発した. そして統営赤道沖合で権慄の命令に従って駆けて来たクァクゼウ(郭再祐), 金悳領(金徳令) など義兵大将たちと会って彼らを軍船に乗せて水陸合同作戦(水陸合同作戦)を相談した.

9月 29日には私は艦隊を導いてザングムンポ沖合で突撃したが敵兵たちが軍船を捨てて陸で逃げたまま争おうと思わなくてこれと言う戦果をあげることができなかった. クァクゼウと金悳領の義兵たちを上陸させて挟攻するようにしたが兵力と訓練の不足などで何の成果を得ることができなかった. 10月 6日まで続いた戦闘で前科(戦果)とは敵兵 70人余りを惨殺して賊船 2尺を燃やしたことだけだった.

李舜臣は明くる日の 10月 7日に惜しさを後にして水陸連合軍を解体した後に閑山島に帰還した.

参照書籍; ファングワンガブ(黄源甲) 著述 ¥”復活する李舜臣¥” エコービーズニス(EcoBusiness) 2004, キム・ジョンデ(金宗代) 著述 ¥”神さま(臣)にはまだヨルドチォックの軍船があります.¥” ブックポス(BookFors) 2001, ツェドソック(崔頭錫) 著述 ¥”壬辰の乱(壬辰倭乱)と李舜臣(李舜臣)¥” 一刻 1999, 金蛍光(金炯光) 著述 ¥”人物に見る朝鮮社(朝鮮史)¥” シアツルパンサ 2003.

{引き続き}


「불패의 명장 이순신(李舜臣)」10.백의종군(白衣從軍) (1)

 

 우리 민족의 역사가 시작된 이래 수많은 외적의 침범이 있었으나 그때마다 우리 선조들은 뜨거운 구국(救國)의 의지와 비상한 투지로 국난(國難)을 극복해왔다. 국난을 당할 때마다 탁월한 리더십을 발휘하여 민족적 기상을 높이 떨친 구국의 영웅은 일일이 헤아릴 수 없을 만큼 많지만, 이순신이야말로 그 숱한 영웅, 호걸, 충신, 열사 가운데서도 으뜸가는 위인이라는 사실에는 그 누구도 이의를 제기할 수 없을 것이다.

이순신(李舜臣)은 한국 역사상 최고의 전쟁 영웅으로 임진왜란(壬辰倭亂), 정유재란(丁酉再亂)이라는 미증유의 재앙을 당해 나라와 겨레의 멸망이 눈앞에 이르렀을 때 조선 수군을 총지휘하여 갖가지 불리한 여건 속에서도 필승의 신념과 비상한 전략으로 연전연승(連戰連勝)을 올린 불세출의 명장이었다. 그는 가난한 선비의 아들로 태어나 54년의 길지 않은 일생을 보내는 동안 온갖 고난 속에서도 오로지 충효(忠孝), 인의(仁義)와 애국애족정신(愛國愛族精神)으로 일관한 민족의 큰 스승이었다.

영국 해군사관학교 교장을 지냈던 빌라드(G.A.Billard) 소장(少將)은 "조선의 이순신이라는 해군 제독이 넬슨(Horatio Nelson)에 버금가는 뛰어난 지휘관이라는 사실을 영국인들은 인정하기 힘들겠지만 이순신이 동양 최고의 해군 제독이라는 점은 부정할 수 없는 사실이다."라고 이순신을 평가하였다. 중국계 미국인 역사학자로 미국 워싱턴 주립대학교 교수인 레이 황(Ray Hwang) 박사는 동양사 3대 전쟁 영웅으로 조선의 이순신(李舜臣), 베트남 다이비에이 왕조의 첸 훈다오[千訓道], 중국 명나라의 원숭환(袁崇煥)을 들면서 그 중에서도 이순신이 가장 위대한 공훈을 남긴 영웅이라고 칭송하였다.

오늘날 나라 안팎의 정세, 특히 또다시 빠진 정치적, 경제적 위기에 비추어볼 때 이순신은 지금까지 알려져 왔던 절세의 명장, 구국의 영웅이라는 면모에 더해 비상한 리더십을 갖춘 최고 경영자였다는 사실을 새삼 절감하게 된다. 21세기라는 새로운 격변의 시대, 격동의 시대를 맞이하여 강대국들과의 무한경쟁에서 살아남기 위해서도 우리는 동서고금(東西古今)의 그 어떤 위인보다도 위대했던 성웅(聖雄) 이순신의 리더십을 통해 국난극복의 지혜를 찾아야 할 것이다.

◆ "한산 섬 달 밝은 밤에..."

이순신은 불세출의 명장이면서도 웬만한 선비들에 못지않게 문장력이 좋았다. 한산도(閑山島) 운주당(運籌堂)에서 나라의 운명을 걱정하는 비감 어린 시도 많이 읊었다.

그 가운데서 가장 널리 알려져 있는 것이 다음 작품이다.

"閑山島月明夜 上戍樓撫大刀 深愁時何處 一聲羌笛更添愁 [한산 섬 달 밝은 밤에 수루에 홀로 앉아 큰 칼 옆에 차고 깊은 시름 하는 차에 어디서 일성호가는 남의 애를 끊나니...]"

그러나 이 시 가운데서 "큰 칼 옆에 차고"는 "큰 칼 어루만지며[撫]"를 잘못 번역했다는 지적이 있다. "한산도의 밤에 읊다[閑山島夜吟]"라는 한시(漢詩)도 같은 심경을 읊은 것이다.

"水國秋光暮 驚寒雁陣高 憂心輾轉夜 殘月照弓刀 [바다에 가을빛 저무니 추위에 놀란 기러기떼 높이 나는구나. 걱정에 잠못이뤄 뒤척이는 밤, 기우는 달이 활과 칼을 비추네]"

이순신은 밖으로는 하늘 아래 둘도 없는 명장이면서 안으로는 지극한 효자요, 자상한 남편이며 아버지였다. 전란(戰亂)을 당해 온갖 난관을 극복하며 갖은 전략을 수립하여 적군을 무찌르고 나라를 지키기에 몸이 열 개라도 모자랄 정도였지만 이순신은 쓸쓸히 늙어가는 어머니 초계 변씨를 단 하루도 잊지 못했다.

난중일기(亂中日記) 곳곳에서 그의 이처럼 뜨거운 효성심을 읽을 수 있지만, 그가 어머니를 찾아뵙기 위해 체찰사 이원익(李元翼)에게 보낸 휴가 신청서는 읽는 사람으로 하여금 새삼 옷깃을 여미게 한다.

"...저는 원래 용렬한 사람으로 무거운 소임을 욕되게 맡아 일에는 허술히 해서는 안될 책임이 있고, 몸은 자유로이 움직일 수 없어 부질없이 어버이를 그리워하는 정만 더할 뿐입니다. 자식 걱정하시는 그 마음을 위로해 드리지 못하는 바 아침에 나가 미쳐 돌아오지 않아도 어버이는 문밖에 서서 바라돈다 하거늘, 하물며 못 뵌 지 3년째나 됩니다.

어머님께서 얼마 전 하인 편에 글월을 보내셨는데, "늙은 몸의 병이 나날이 더해가니 앞날인들 얼마 되랴. 죽기 전에 네 얼굴을 다시 한 번 보고 싶다" 라고 하셨습니다. 남이 들어도 눈물이 날 말씀이거늘 하물며 그 어머니의 자식이야 어떠하겠습니까? 그 기별을 듣고서는 마음이 더욱 산란할 뿐 다른 일에는 마음이 잡히지 않습니다.

제가 지난날 건원보 권관으로 있을 적에 아버님이 돌아가셔서 천리를 분상한 일이 있었는데, 살아계실 때에 약 한 첩 달여 드리지 못하고 영결조차 하지 못하여 언제나 그것으로 평생 한이 되었습니다. 이제 또 어머님께서 일흔을 넘기셔서 해가 서산에 닿은 듯한바 이러다가 만일 또 하루아침에 다시 모실 길 없는 슬픔을 만나는 날이 오면 이는 제가 또 한 번 불효한 자식이 될 뿐만 아니라 어머님께서도 지하에서 눈을 감지 못하실 것입니다.

그러므로 이 겨울에 어머님을 가 뵙지 못하고 봄이 되어 방비하기에 바쁘게 된다면 도저히 진영을 떠나기가 어려울 것입니다. 이 애틋한 정곡(情曲)을 살피셔서 며칠 동안의 휴가를 주신다면 한 번 가게 됨으로써 늙으신 어머님 마음이 적이 위로가 될 수 있을 것입니다. 그리고 그 사이에 혹시 무슨 변고가 생긴다면 어찌 휴가 중이라 하더라도 감히 중개한 일을 그르치게 하겠습니까?"

그렇게 해서 이순신은 어머니를 찾아뵐 수 있었는데, 아들을 본 어머니는 자식이 걱정할까봐 조금도 외롭거나 몸이 편찮은 기색을 보이려고 하지 않았으니, 참으로 그 어머니에 그 자식이었다.

어머니는 임지로 돌아가기 위해 하직인사를 하는 아들에게 이렇게 말했다고 한다.

"잘 가거라. 나라의 욕됨을 크게 씻어라."

현재 보물 제326호로 아산 현충사(顯忠祠)에 보관되어 있는 두 자루의 유명한 대장도(大長刀)를 만든 것도 한산도에 있을 때인 1574년이었다. 도장(刀匠) 태귀연(太貴連)과 이무생(李茂生)이 만든 이 대장도(大長刀)는 성인의 발끝에서 어깨까지의 길이와 두꺼운 무게를 지니고 있어 실전용 칼은 아닌 듯 하다. 칼날에는 이순신의 친필 도명(刀銘)이 새겨져 있는데 내용은 다음과 같다.

"三尺誓天 山河動色 一揮掃蕩 血染山河 [석자되는 칼로 하늘에 맹세하니 산과 물이 떨고 한번 휘둘러 쓸어 버리니 피가 강산을 물들인다.]"

통제사로 있는 동안 이순신은 인재를 발탁하고 양성하기 위해 특별 과거를 실시하기도 했다. 과거는 조정에서만 시행하는 것으로 권한이 없는 이순신은 특별히 허락을 받아 진중에서 무과시험을 치렀던 것이다. 1594년 4월 6일부터 3일간 치러진 이 과거에서 1백명의 합격자가 나왔다. 이순신은 그들의 명단을 일일이 적어 조정에 보고했다.

이처럼 이순신의 하루하루는 몸에 열개, 백개라도 모자랄 정도였다. 그리고 왜군들은 언제 물러갈지 아무런 기미가 없었다.

◆ 제2차 당항포해전(唐項浦海戰)과 장문포해전(長門浦海戰).

한산도(閑山島)의 통제영(統制營)에서 이순신은 군비를 확충하고 군사와 백성들을 위해 불철주야로 노심초사하면서도 한시도 방심하지 않고 적군의 동태를 주시했다. 이순신은 첩보전(諜報戰)의 중요성을 일찍이 깨달았던 전략가였다. 그는 하루도 빼놓지 않고 사방으로 탐망선을 보내 적군의 움직임을 감시하고 파악했다. 또한 군사적 요충지에는 복병을 배치해 혹시 있을지 모를 적군의 기습공격에 대비했다.

다시 해가 바뀌어 임진왜란(壬辰倭亂) 3년째인 1594년 봄이 되었다. 지난해 이순신의 지략과 조선 수군의 위세에 눌려 웅천 등지의 소굴에 납작 엎드려 죽은 척 꼼짝도 하지 않던 일본 수군이 슬슬 움직이지 시작했다.

"왜군이 소굴을 나와 가까운 김해, 창원, 고성 등지의 민가를 약탈하고 있다."는 경상감사 한효순(韓孝純)의 공문을 받은 이순신은 일본 수군의 움직임을 상세히 파악한 뒤 이억기와 원균 등에게 출전지시를 내리는 한편, 육지의 순변사 이빈(李賓)에게도 공문을 보내 수륙합동작전(水陸合同作戰)을 요청했다.

그러는 가운데 3월 3일에 적정을 감시하던 망장(望將) 제한국(諸漢國)으로부터 "왜적(倭敵)의 대선 10척, 중선 14척, 소선 7척 등 31척이 영등포에서 나와 21척은 당항포로 가고, 7척은 오리량으로 가고, 나머지 3척은 제도로 갔다."는 급보를 받았다.

이순신은 조선 삼도수군 연합선단(朝鮮三道水軍聯合船團)을 모두 한산도로 집결시켜 그 날 밤 어둠 속에서 출동했다. 견내량을 지나 지도에서 휴식을 취한 뒤, 이튿날 새벽 2시에 출발했는데 조방장 어영담(魚泳潭)으로 하여금 경쾌선(輕快船) 31척을 거느리고 적선이 있는 당항포와 오리량으로 앞서 가게 하였다. 그리고 이순신은 이억기, 원균과 함께 중도 앞 해상으로 전진하여 학익진(鶴翼陣)을 펼치고 적의 응원군이 오는 진로를 미리 차단하였다.


그날 3월 4일에 적선 10척이 창원에서 나와 연안을 따라 가는 것을 어영담의 기동타격함대(機動打擊艦隊) 가 발견하고 맹추격하여 공격을 개시, 읍전포에서 10척, 어선포에서 2척, 자구미포에서 2척의 적선을 각각 분쇄하였다. 그러나 대부분의 적병들은 재빨리 뭍으로 기어올라 도망쳐 버렸다. 조선 수군은 당항포 앞바다에 집결했으나 마침 조수가 썰물로 변해 포구 안으로 쳐들어갈 수가 없었다.

3월 5일에는 어영담의 특공함대가 포구 안으로 돌격을 감행했다. 그러나 밤사이에 적병들은 모두 배를 버리고 육지로 달아나 적군의 군선은 모두 비어 있었다. 그래서 적선 21척만 불태워 버렸다. 3월 6일, 이순신은 대대적인 섬멸작전을 펼치기에는 군선과 병력이 모두 부족하기 때문에 형세를 보아 다시 출전하기로 하고 한산도로 귀항했다.

그런데 이번 작전이 끝난 뒤 원균이 전공(戰功)을 독차지할 생각에서 모든 공로가 경상우도수군(慶尙右道水軍)에게 있는 것처럼 장계를 작성하여 올렸으므로 이런 사실을 안 장병들이 모두 분개했다. 이순신은 각도별로 적선을 불태운 전과와 유공 장병들의 명단을 다시 만들어 조정에 보고했다. 또 적선에서 노획한 양식과 의복 따위를 군사들에게 나누어주어 불평을 무마했다.

이 무렵 이순신은 상당히 건강이 나빴는데, 한산도로 귀환한 후에도 마음대로 병석에 눕지 못한 채 땀을 뻘뻘 흘리며 공무를 보았다. 그때 일본군과 강화 교섭을 위해 웅천에 와 있던 명나라의 관리인 선유도사(宣諭都使) 담종인(譚宗仁)이 금토패문(禁討牌文)을 보내와 이순신을 매우 분노하게 했다.

이순신이 지휘하는 조선 수군에게 백전백패(百戰百敗)를 당하고 수많은 군선과 병력을 잃었던 구키 요시다카[九鬼嘉隆], 도도 다카도라[藤堂高虎], 구와야마 마사하루[桑山貞晴] 등 일본 수군의 장수들이 이순신을 두려워하여 명(明) 측과 강화회담(講和會談)을 갖는 동안 조선 수군이 일본 수군을 공격하지 못하도록 해달라고 담종인(譚宗仁)에게 애걸하여 만들어진 것이 바로 금토패문(禁討牌文)이었다.

담종인이 삼도수군통제영(三道水軍統制營)에 보낸 금토패문에는 이런 대목이 있어서 이순신의 심기(心氣)를 더욱 불편하게 했다.

"왜군의 여러 장수들이 마음을 돌려 귀화하지 않는 자가 없고, 모두가 무기를 집어넣고 군사들을 휴식시키며 그들의 본국으로 돌아가려 하니 너희(조선의) 모든 군선들도 각각 제 고장으로 돌아가고 왜군의 진영에 가까이하여 말썽을 일으키지 않도록 하라."

제2차 당항포해전(唐項浦海戰) 이전부터 편도선(扁桃腺)이 붓고, 몸에 열이 나고 관절과 근육에 통증이 심해지고 두통으로 병환을 앓기 시작했던 이순신은 이 금토패문을 읽어보고 나서 피를 토했다고 한다. 그는 명나라가 조선을 배제하고 일본과 진행중인 강화협상(講和協商)에 대해 절대 인정할 수 없었다. 무엇보다도 전범(戰犯)인 일본의 태합(泰合) 도요토미 히데요시[豊臣秀吉]의 사죄조차 없는 판국에 전쟁을 일으킨 일본군이 배상도 하지 않고 제멋대로 본국으로 돌아가는 꼴을 그대로 두고 볼 수가 없었다. 게다가 일본군은 부산에서 병력을 철수시키지 않고 있었다. 이것은 언제는 휴전조약(休戰條約)을 깨고 언제든 재침(再侵)할 가능성을 열어두는 일이나 다름이 없었다.

이순신은 몸이 매우 불편해 부관에게 대신 답서를 짓도록 했으나 글 내용이 마음에 들지 않아서 병중에 억지로 일어나 앉아 아래와 같은 답서를 써서 담종인에게 보냈다.

"조선의 삼도수군통제사(三道水軍統制使) 이순신(李舜臣)은 삼가 대명국(大明國) 선유도사(宣諭都使) 대인에게 답서를 올립니다.

왜적(倭敵)이 스스로 혼란을 일으켜 군사를 이끌고 바다를 건너와 죄 없는 우리 백성들을 죽이고, 또 서울을 침공하여 흉악한 짓들을 저지른 것이 말할 수 없으니 온 나라의 신하와 백성들의 통분함이 뼛속에 맺혀 이들 왜적(倭敵)과는 같은 하늘 아해서 살지 않기로 맹세하고 있습니다.

...그런데 패문(牌文)의 말씀 중에 "왜장(倭將)들에게 말썽을 일으키지 말라"고 하였는데, 왜적(倭敵)들이 거제, 웅천, 김해, 동래 등지에 진을 치고 있는바 그곳이 모두 다 우리 땅이거늘 우리더러 왜군 진영에 가까이가지 말라는 것은 무슨 말씀이며, 또 우리에게 속히 제 고장으로 달아가라 하니 제 고장이란 또한 어느 곳에 있는지 알 길이 없고, 또 말썽을 일으킨 자는 우리 군사가 아니라 왜적(倭敵)들입니다.

또한 倭 人들은 간사스럽기 짝이 없어 옛부터 신의(信義)를 지켰다는 말을 들은 적이 없습니다. 흉악하고 교활한 적도(賊徒)들이 아직도 그 포악스러운 행동을 그치지 아니하고 바닷가에 진을 진 채 해가 지나도록 물러가지 않고 여러 곳을 침범하여 살인하고 액탈하기를 전일보다 곱절이나 더하니 병기(兵器)를 거두어 바다를 건너 본국으로 돌아가려는 뜻이 과연 어디에 있다 하겠습니까.

이제 강화(講和)한다는 것은 실로 속임수와 거짓밖에 아닙니다."

이순신은 병세가 날로 악화되어 갔지만 하루도 편히 누워 몸을 추스릴 생각을 하지 않았다. 보다 못한 첫째 아들 이회(李獪)가 휴식을 권해도 화를 내며 이렇게 말했다.

"이제 적을 상대로 승패의 결단이 가까웠다. 대장으로서 아직 죽지 않았거늘 어찌 누울 수 있단 말이냐!"

제2차 당항포해전(唐項浦海戰)이 있고 난 뒤 적군은 또 다시 조선 수군에게 요격(邀擊)당할까봐 좀처럼 바다로 나올 생각을 하지 못했다.

그렇게 4개월이 자났다. 7, 8월부터 적군이 다시 움직이기 시작하여 거제도와 안골포를 중심으로 그 일대에 장기간 머물 준비를 하고 있다는 적정보고가 들어왔다. 8월 초에 이순신은 도원수 권율과 여러 차례 수륙합동작전(水陸合同作戰)의 필요성에 대해 논의하며 전투준비를 갖추었다. 이윽고 권율로부터 9월 27일에 군사를 일으킨다는 통지를 받았다.

이순신 장군은 해전시 각도 지휘관의 구분을 위해 전라좌도수군(全羅左道水軍)은 노란색, 전라우도수군(全羅右道水軍)은 붉은색, 경상우도수군(慶尙右道水軍)은 검은색 전복을 각각 만들어 주었다. 그리하여 27일에는 약속대로 한산도를 출발했다. 그리고 통영 적도 앞바다에서 권율의 명령에 따라 달려온 곽재우(郭再祐), 김덕령(金德齡) 등 의병대장들과 만나 그들을 군선에 태우고 수륙합동작전(水陸合同作戰)을 상의했다.

9월 29일에는 전 함대를 이끌고 장문포 앞바다로 돌격했으나 적병들이 군선을 버리고 뭍으로 도망친 채 싸우려 하지 않아 이렇다 할 전과를 올릴 수 없었다. 곽재우와 김덕령의 의병들을 상륙시켜 협공하도록 했지만 병력과 훈련의 부족 등으로 별다른 성과를 얻지 못했다. 10월 6일까지 계속된 전투에서 전과(戰果)라고는 적병 70여명을 참살하고 적선 2척을 불태운 것 뿐이었다.

이순신은 이튿날인 10월 7일에 아쉬움을 뒤로 하고 수륙연합군을 해체한 뒤에 한산도로 귀환했다.

참고서적; 황원갑(黃源甲) 저술 "부활하는 이순신" 에코비즈니스(EcoBusiness) 2004, 김종대(金宗代) 저술 "신(臣)에게는 아직도 열두척의 군선이 있습니다." 북포스(BookFors) 2001, 최두석(崔頭錫) 저술 "임진왜란(壬辰倭亂)과 이순신(李舜臣)" 일각 1999, 김형광(金炯光) 저술 "인물로 보는 조선사(朝鮮史)" 시아출판사 2003.

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