伝統文化

 

 

我が民族の歴史が始まった以来幾多の外的の侵犯があったがその時ごとにうちの先祖たちは熱い救国(救国)の意志とすごい闘志で国難(国難)を乗り越えて来た. 国難にあう度に卓越なリーダーシップを発揮して民族的気象を高くふるった救国の英雄はいちいち数え切れないだけ多いが, 李舜臣こそその多い英雄, 豪傑, 忠臣, 烈士の中にもきっての偉人という事実にはその誰も異意を申し立てることができないだろう.

李舜臣(李舜臣)は韓国歴史上最高の戦争英雄で壬辰の乱(壬辰倭乱), 丁酉災乱(丁酉再乱)という未曽有の災いにあって国と同胞の滅亡が目の前に至った時朝鮮水軍を総指揮していろいろの不利な与件の中でも必勝の信念とすごい戦略で勝ちっ放し(連戦連勝)をあげた不世出の名将だった. 彼は貧しい士の息子に生まれて 54年の長くない一生を送る間あらゆる苦難の中でもひたすら忠孝(忠孝), 仁義(仁義)と愛国愛族精神(愛国愛族精神)に一貫した民族の大きい師匠だった.

イギリス海軍兵学校校長を勤めたビルラド(G.A.Billard) 所長(少将)は ¥”朝鮮の李舜臣という海軍提督がネルソン(Horatio Nelson)に劣らないすぐれた指揮官という事実をイギリス人たちは認めにくいが李舜臣が東洋最高の海軍提督という点は否定することができない事実だ.¥”と李舜臣を評価した. 中国係アメリカ人歴史学者でアメリカワシントン州立大学校教授であるレイ硫黄(Ray Hwang) 博士は東洋史 3台戦争英雄で朝鮮の李舜臣(李舜臣), ベトナム多異美瑛王朝のチェンフンダオ[千訓道], 中国明のワンスングファン(袁崇煥)を持ちながらその中でも李舜臣が一番偉い手柄を残した英雄だとほめたたえた.

今日国内外の情勢, 特に再び抜けた政治的, 経済的危機に照らして見る時李舜臣は今まで知られて来た節税の名将, 救国の英雄という面貌に加えてすごいリーダーシップを取り揃えた最高経営者だったという事実を今更節減するようになる. 21世紀という新しい激変の時代, 激動の時代を迎えて強大国たちとの無限競争で生き残るためにしても私たちは東西古今(東西古今)のどんな偉人よりも偉かった聖雄(聖雄) 李舜臣のリーダーシップを通じて国難克服の知恵を捜さなければならないでしょう.

◆ 無謀な攻撃より防御に力を注ぐ.

そんな命令を受けた李舜臣将軍は旗下長寿たちに召集命令を下げて全裸右水使(全羅右水使) イオックギ(李億祺)にも知らせて 5月 7日再び出場に出た. その日はすぐ 1年前玉浦海戦(玉浦海戦)で感激の初勝利をおさめた日でもあった.

その間いろいろな苦楚を経験して全力を増強して来たやりがいがあってあの時李舜臣が従えた全裸左水営(全羅左水営) 艦隊の規模は戦闘船 42尺, 斥候船 52尺にのぼった. また全裸右水営(全羅右水営) 艦隊の規模も戦闘船 54尺, 斥候船 52尺で合わせると 202尺の堂々な大艦台を成した. また兵力を見れば戦艦 1戚党平均 100人の軍事が乗ると計算する時 2万名余に至った.

南海美爪港で一日を泊って, 明くる日 5月 8日にはシャラン島沖合を通って 9日にはゴルマングポに至った. 軽傷右水使(慶尚右水使) 元均(元均)はこの時にもやっと 2尺の軍船で合流した. 10日ギョンネリャングまで進出して戦闘態勢を点検しているのに調整では明長寿である経略(経略) ソングウングチァング(宋応昌)の指示を受けて作戦を遂行しなさいという有り難くない指示を下した.

李舜臣は長計を通じてあの時まで思っていたところ, すなわち釜山再攻撃の危険性, 水陸合同作戦の不可避性, 水軍増強の必要性などをこんなに明らかにした.

¥”.....ギョンネリャングに至って時の形勢を探望して見たところ熊川の少ない相変らず雄拠しています. ところで釜山に出ようとすれば熊川が町角になるわけに釜山に深く入って行ったら敵軍が先後にあるようになります. したがっていくら思って見ても水軍だけでは引っ張り出すあてがないので仕方なく陸軍とハブゴングした後水陸で殲滅しなければなりません.

.....伏せて請ずるが忠清道水軍を送って空に着く恥辱を洗うようにしてください.¥”


当時敵軍の形勢は李舜臣の長計によれば ¥”おおよそ 800余隻の倭船が釜山と金海から熊川, ゼポ, アンゴ−ルポ, 永登浦などに移動したし, 釜山から巨済まで行き来するお腹たちが常に竝びをイッダシピ¥”とあった. だからどうして劣勢の全力で無謀な作戦を敢行することができるか.

今後李舜臣は無謀な単独作戦を避けて適正を察して防御にだけ力を注いだ. 忠青捜査(忠清水使) 停車を(丁傑)と力を合わせたことは 6月 1日, 以後続いて小規模追撃戦と探索前だけ持続するだけこれと言う合戦は起らなかった.

軍船 8百余隻に増強された日本水軍に対して水陸合同作戦ではない単独作戦を広げて敵軍の落とし穴に抜けないということが李舜臣の判断だったことだ.

閑山島ドウルポで陣営を移したことは 7月 14日だった. 李舜臣は調整にあげた長計で閑山島で本営を移した理由に対してこんなに言った.

¥”信義考えでは要路をしっかり守って楽にあってから疲れる少ない待って先に先鋒を破ればたとえ百万大軍でも生気を失って心が折れて逃げるのに忙しいだろうし, その上に閑散イルヘは去年に敵の大軍が殲滅された所なのでこちらに駐屯して時の動態を待って童心挟攻することに決死誓約しました.¥”

も李舜臣が 7月 16日付けで地平ヒョンドックスングと言う(のは)人に送った手紙にはこんなに書かれている.

¥”思うが湖南は国の垣根だと, もし湖南がなければすぐ国が消えます. それで昨日チンを閑山島に移して打って, こういうわけで海岸道路を塞ぐ計画です.¥”

閑山島で本陣を移すことはしたがすべてのものがつぼにはまらなかった. 増強された敵軍を水軍の力だけではわがまま打って退けることもできなかっただけでなく, 連合船団を構成しても他の道義捜査たちのような職級として思った通りに統率することができない指揮体系問題もあった.

特に軽傷優秀が元均は公明心が強いうえ癬忌心まで高くて連合作戦にむしろ障害になる時も多かった. ここに伏せたのにドッチンように陣中に伝染病がはびこって死亡者が続出したので軍事たちの充員と訓練も不如意だった.

◆ 最悪の敗戦(敗戦) 第2次晋州城戦闘(晉州城戦闘)

李舜臣が閑山島で本陣を移す半月前のその年 6月 29日に陸地では壬辰の乱(壬辰倭乱) 中一番さんたんな敗戦(敗戦)に記録された第2次晋州城戦闘(晉州城戦闘)があった.

明で支援軍が鴨緑江を渡ったが, 碧蹄館戦闘(碧蹄館戦闘)で敗れると一斉に話頭を回して平壌に撤収したまま二度と争う考えをしないで可哀相な朝鮮の民たちとビョスングラチだけ暮す事ができなくふるまった.

当時民たちの惨状がいくらグックシムヘッドンがは避難民たちがお互いに子供を変えて食ったという無惨な記録が朝鮮王朝実録(朝鮮王朝実録)に出ることを見てもよく分かる.

朝鮮が滅亡すれば自分の私でも危ないことがそらぞらしかったからやむを得ず支援軍は送ったが明長寿たちは碧蹄館戦闘(碧蹄館戦闘)で負けるようになると争う意欲を忘れてしまってしまった. その代わり和平を通じて双方の犠牲を阻むという言い立ての下朝鮮は除いたまま一方的に日本と強化会談(講和会談)をボルオギ始めた. それが 1593年 4月からだった.

第2次晋州城戦闘(晉州城戦闘)はまさにこの強化会談が起っている途中に起きた対決前(大決戦)だった. 時は 1593年旧暦 6月 19日, 場所は晋州城に帰る.

日本の 10万大軍が第1次晋州城戦闘(晉州城戦闘)の敗北を雪辱しようとアグィテのように群がって来るという消息に城中は緊張と不安でスルロングデであった. 当時晋州城中には 6, 7万名の人員があったが戦闘ができる正規兵力は 3千名余に過ぎなかった. 争う前に怖がればそのけんかはもうチンのと同じだ. 又の日閑山島大勝(閑山島大捷), 幸州大捷(幸州大捷)といっしょに壬辰の乱(壬辰倭乱) サムデチォブ(三大捷)に記録された第1次晋州城戦闘(晉州城戦闘)で大勝した勇気と気迫は皆どこに消えてしまったのか.

1592年 10月 6日から始まった第1次晋州城戦闘(晉州城戦闘)から真珠牧師(晉州牧使) 金市民(金時敏)の悽絶な毒箭(督戦) 下の晋州城の軍(軍), 管(官), 民(民)がヒョブシム(協心)して 6日間の猛烈な死闘(死闘) あげく敵軍の大攻勢を撃退させた事があったが, これからは日が変わって事情が変わったのだ.

平壌城で照明連合軍(朝明連合軍)の総攻撃に滞ってソウルを経って南海岸に退却した日本軍は戦争の元凶豊臣秀吉[豊臣秀吉]が本国で下した命令に従って第1次晋州城戦闘(晉州城戦闘)の敗北を雪辱しようと晋州城で進撃した. しかし明軍事たちは退却する日本軍を力をつくして追撃しなかったので戦争は純然と朝鮮民たちと軍事たちの分け前になった.

名君総病有情(劉〓)は賊将加藤紀要マーサ[加藤清正]に晋州城侵攻計画を詰責して, シムユギョング(沈惟敬)も小西ユキナが[小西行長]に晋州城侵攻を引き止めたがそれはソグィに頃読み取りと同じく無駄だった.

当時朝鮮官軍は調整の命令に従って桃源数(都元帥) 金人院(金命元), 全羅道巡察使(全羅道巡察使) 権慄(権慄)の引率の下皆宣寧に某ですいたが敵軍の勢いがあまりにもヒュングメング(兇盟)欠点敢えて対立して戦う戦意を忘れてしまってしまった.

明軍隊が腕を拱く間我軍首脳部は晋州城に入って行って守ろうという水性派(守城派)と性を留守にしたまま周辺で撹乱させながら攻撃しようという功城派(空城派)で変わった. 金人院, 権慄とクァクゼウなど比較的優秀な戦闘力を取り揃えた官軍と義兵部隊たちが大部分晋州城を捨てる方を選んだ.

この時水性を主張した倡義使(倡義使) キムチョンである(金千鎰)が多くの長寿を見回しながら老漢声で叫んだ.

¥”真珠は湖南と悉歯の間(盾歯之間)以外だ! 真珠がなしにどうして湖南を守ることができよう! 性を捨てて外敵(倭敵)を避けて外敵に喜ばれることこそ計策(計策) 中でもハチェック(下策)というはずです. 力を合して力をつくして外敵を阻むことだけが上策(上策)ではなくてムオッイリオ!¥”

金天日が軍事を従えて晋州城に入って行ったら, 軽傷優兵士(慶尚右兵使) 催軽灰(崔慶会), 忠青兵士(忠清兵使) 黄塵(黄進), 義兵大将高従厚(高従厚), 姜喜悦(姜希悦), 四天県監(泗川県監) ザングユン(張潤), 巨済県令(巨済県令) キムチュン民(金俊民) などが相次いで入城した. しも入って行って見たら金海副詞(金海府使) 異種である(李宗仁)がもう先に入って来ていた.

日本軍は晋州城を畿重にもかこんだ後荒しい勢いでのべつ幕無しに波状的な攻撃を始めた. ところで守城軍(守城軍)の主張(主将)である真珠牧師(晉州牧使) 書道院(徐礼元)は兵法(兵法)に門外漢だったし弱虫に責任意識もない無能で低劣な人物だった. したがって結局金天日が戦闘を総指揮するようになった.

晋州城は洛東江支流ナムカンをはめて東は咸安, 鎭海, 南側は四天, 高声, 北は宣寧ご遠慮と接して, 西の方は単性, ゴンヤング, 河東を経って湖南で通じる戦略的要衝地だった. 晋州城はグブイジョ流れるナムガングが絶壁に頼っている天険のこの頃だったがこのような地理的利点も賎視と人才をまともに会うと守ることができるものだ. それに団結すれば暮して散らばれば死ぬという話もあるように有力な我軍が力を合して守らないで性を捨てたうえに明軍事まで座視したら幾重に包囲された晋州城はまさに孤立無援(孤立無援)であり風前のともしび(風前燈火)の運命だった.

金天日は長寿たちにとって区域を分けて守るようにして黄塵, 異種である, ザングユンなどには機動打撃台役目を任せた.

性が包囲された翌日の 6月 20日, 敵軍の斥候台が性身近に現われるとイザム(李潜)と烏有(呉流)が軍事たちを従えて出て敵兵 10人余りの首を枕にしていて帰って来たら我軍の士気が高くなった. またひと晩が経った 6月 21日には 5万名にのぼる敵軍が性をセギョブで囲んで攻撃を開始した. 遂に本格的な攻防戦(攻防戦)が始まったのだった.

豆を煎るように叫ぶ弔銃音といっしょに弾丸が雨降るように飛んで来た. これに対立して我軍ものべつ幕無しに弓を射って石ころを投げて城壁を這い上がる敵兵たちには沸いているお湯を浴びせるなどある力をつくして抵抗した. 頭数で優勢な敵軍は 1陣が退けば 2陣が攻撃して, 2陣が退けば 3振が攻撃する車戦法を駆使したが黄塵や高従厚みたいな盲膓(猛将)たちの眩しい活躍でいつも敵軍の侵攻を退けた.

7日目になった日には昼に敵軍の 3回攻撃を撃退させて, 夜には敵軍の 4回攻撃を撃退させたりしたから悪戦苦闘(悪戦苦闘)が別になかった. 敵軍は城の東と西の方に五つ軍隊や高い丘を作ってその上に木柵を立てて弔銃を雨脚のようにソアデッダ. ここに黄塵(黄進)が素早く軍事たちを督励して火田(火箭)で木柵を燃やしてしまうようにした.

敵軍はまた大きな管(棺) 模様のひつを作って多くの重の牛皮で表を包んで車に積んで城を攻撃したが今度にもファン・ジニ ¥”今日内が死ぬ時と場所を尋ねてり!¥”と叫びながら走って行って油を注いでたいまつで乗せてしまった. すると敵軍は今度は性下をほって密かにスムオドルリョで言ったが催軽灰(崔慶会)の軍事たちがこれをあらかじめ見つけて日本軍 1千名余を惨殺こんにちはだった.

そのように熾烈な攻防戦をする間にいつのまにか十日が過ぎ去った. ヨルベもなる日本の大軍を迎え十日や堪えたからまことに奇蹟みたいな事だった.

しかし運命の 6月 28日は晋州城の官軍と義兵たちに挫折と死を抱かれてくれてしまった. 粘り強く殺到する暴雨(暴雨)によって性の一角が崩れてしまった. 黄塵(黄進)とキムチュン民(金俊民)が死力をつくして阻んで見ようと思ったが力不足だった. 日本軍はシマズYoshihiro[島津義弘]が導く先鋒部隊を先に立たせて崩れた城壁を向けてゲミテのように寄り集まった.

黄塵は城樓で環刀(環刀)を高く持ち上げて毒箭している途中額に敵兵の銃弾を当たって壮烈に戦死した. 死ぬ瞬間までも彼の刃先は相変らず敵陣を向けて伸びていた. ザングユン(張潤)が叫びを打ちながら走って行って刀を振り回して敵兵数十人を切って越しながら奮戦したが, そのやっぱり日本軍の弔銃射撃に戦死した. 二人の勇将(勇将)を失った晋州城の軍事たちと民たちの士気は忽ち地面で墜落した.

明くる日の 6月 29日が晋州城最後の日だった. 敵軍は晋州城同窓城壁下の下敷石たちを抜き出して城壁を崩して城中に零れ落ちて入って来た. 異種である(李宗仁)が両手にそれぞれザンググン(長斤)と短刀(短刀)を持って左衝右突(左衝右突)して勇ましく争ったがやっぱり力不足だった. 敵軍が性の上と下に精神なしに降り注いで入って来ると真珠牧師(晉州牧使) 書道院(徐礼元)が一番先に逃げた. まことに去年第1次晋州城戦闘(晉州城戦闘)を勝利に導いて殉国した金市民(金時敏)とは比較もならない超ダメ人間だった.

最高責任者が逃げると軍事たちも生計を捜してあちらこちらにファングマングヒ逃げ始めた. けんかになるあごがなかった. 異種である(李宗仁), イザム(李潜), 姜喜悦(姜希悦) など 10人余りの長寿が各々敵兵たちを次から次へ惨殺して孤軍奮闘(孤軍奮闘)を広げている途中順に戦死した. 異種人は死ぬ前に敵兵の頭を両わきに抱えて ¥”金海副詞異種人がここで死ぬ!¥” して叫んで川水で跳びこんだ.

十日の間戦闘を指揮したキムチョンである(金千鎰)はこれ以上堪える力がないで息子である上件(上乾), 高従厚(高従厚), 催軽灰(崔慶会) など残った長寿といっしょにボックヒャングゼベ(復享再拜)とナムカンに跳びこんで未練なしに自ら命を切った.

指揮部がこんなに全滅すると今度は敵軍の殺戮(殺戮)が後に従った. 敵兵たちは性を完全に占領すると城中を隅隅まで探して民たちを老若男女仕分けなしに甚だしくは豚, 犬, ニワトリなど家畜たちまでも残らず屠戮してしまった.

性を陷落させて戦闘が終わると賊将たちは晋州城轟石桜に上がって承前(勝戦)を身内の祝する酒宴をした. あの時ギッカとヒロイに[吉川広家]という日本長寿が轟石桜(矗石樓) 下を眺めながら叫んだ.

¥”ひや! あそこあの岩に立っていることが朝鮮女ではないか!¥”

女という言葉に倭将たちが欄干に押しかけて樓閣下を見下ろした. 果たして, 樓閣の下ナムガングが岩の上に若い朝鮮美女一人が立っているのではないか.

女人は倭将たちを誘惑するように轟石桜を眺めて殷殷と笑みをたたえるようだった. だしぬけな女人の姿態に魅入った倭将たちが一様に飢えたオオカミになって打つことをだらだら流したが水におぼれるか心配で恐ろしくて気経に身近に行こうとする者がいなかった.

あの時一倭将がむっくり起きて豪気を使った.

¥”私が行って抱いて来る! お酒があれば女もいなくてはならない!¥”

ゲヤムだとログスケ[毛谷村六助]というこの倭将は樓閣を下がって川端に近付いた. そして勇気を出して女人が立っている岩で飛ばした. あの時, その女人がログスケに突然飛びかかった. そしてその力で倭将を抱えこんだ瞬間そのまま深くて青いナムカンで身を飛ばしてしまってしまった.

その女人がすぐ当時 19歳のノンゲ(論介)だった. 彼女は全羅道長寿出身で真珠の官妓(官妓)であったし, 催軽灰の消失だと言った.

第2次晋州城戦闘(晉州城戦闘)はこのように悽絶で血なまぐさい敗北で済ましたが第1次晋州城戦闘(晉州城戦闘)の勝利に劣らず朝鮮民の不屈の闘魂を明らかにするように見せてくれた民族史蹟大事件だった. そして心意気(義妓) ノンゲ(論介)はこの歴史的大事件である第2次晋州城戦闘(晉州城戦闘)に画竜点蕭(画竜点睛)同じ輝く役目をした.

 

 

◆ 朝鮮数だね総司令官三道水軍統制使(三道水軍統制使)

その年 8月 1日に先祖(宣祖)は李舜臣を全裸左水使(全羅左水使) かたがた三道水軍統制使(三道水軍統制使)で任命した. 忠清道, 全羅道, 慶尚道の水軍を皆統べる総司令官で任命するという校誌(教旨)を下げたのだ. 発令は 8月 1日付けだったから命令を受けたことは 10月 9日だった. あの時李舜臣の年 49数えた.

新設された統制使に任命しながら先祖は校誌にこんなに使った.

¥”.....君はひたすら一生苦節(一生苦節)を守って国の万里長城(万里長城)になってり. 残った軍事を集めて全羅道及び慶尚道の要路で強い外敵(倭敵)を打って閑散(閑山) 及びタンハン布海戦(唐項浦海戦)の奇妙な専攻(戦功)を立てて, 力をつくして働いた功労がすべての英文(営門)にすぐれて賞してスングジックハブが三回勝捷(勝捷)に重ねて輝いてり.

振り返えて見るが軍事上一番憂わしいことはいわゆる統率する人がオブウムインバお互いにそれぞれ私の都合さえ守ったらどうして腕が指を冷やかすようにすることができ, またお互いに干渉(管攝)がなければあるいは遅くも来てあるいは先立って逃げる肺が免れることができないだろうし, そうするうちに遂に危急さを会えば取り計いする方途がないだろったらましてもう敵軍の形勢が衰えなくて欺いて偽りされることがますますつのることをどうしようか.

(外敵が) ブッガンで矛と刀たちをおさめて表では撤兵する意味を見せるようで実は軍糧を海で運んで心の中ではまた起きる謀を持ったようだが, そこ応じて対策を立てるのはこの前よりもっと難しい事があるはずなのでここに君を起用して本職に慶尚道, 忠清道, 全羅道三道水軍統制使を兼ねるようにハノ−だから来ます, 威厳が愛を勝てばこそ真実で成功するはずであり, 功労は私の意味どおりすればこそ成すことができることだな.

捜査以下で命令を奉じない者は軍法どおり施行するはずであり, 部下の中で鈍い寝る君が忠孝としてチェックリョ(策励)するすべきだ...¥”


こういうわけで朝鮮水軍の総司令官になった李舜臣は今までまったく同じな階級だった全羅道, 慶尚道, 忠清道の捜査たちを指揮監督して作戦命令権を行使することができるようになった.

抜群な長寿だったイオックギ(李億祺)と停車を(丁傑) などは普段李舜臣の高邁な人柄と卓越な統率力に感服したところなので忠心で昇進を祝ってくれて服従の念をおしたが, 年も多かったし軍でも先輩だったし癬忌心が人並みはずれて多かった元均は露骨的に火だけの気配を隠さなかった.

参照書籍; ファングワンガブ(黄源甲) 著述 ¥”復活する李舜臣¥” エコービーズニス(EcoBusiness) 2004, キム・ジョンデ(金宗代) 著述 ¥”神さま(臣)にはまだヨルドチォックの軍船があります.¥” ブックポス(BookFors) 2001, ツェドソック(崔頭錫) 著述 ¥”壬辰の乱(壬辰倭乱)と李舜臣(李舜臣)¥” 一刻 1999, 金蛍光(金炯光) 著述 ¥”人物に見る朝鮮社(朝鮮史)¥” シアツルパンサ 2003.

{引き続き}


「불패의 명장 이순신(李舜臣)」9.삼도수군통제사(三道水軍統制使) (2)

 

 

우리 민족의 역사가 시작된 이래 수많은 외적의 침범이 있었으나 그때마다 우리 선조들은 뜨거운 구국(救國)의 의지와 비상한 투지로 국난(國難)을 극복해왔다. 국난을 당할 때마다 탁월한 리더십을 발휘하여 민족적 기상을 높이 떨친 구국의 영웅은 일일이 헤아릴 수 없을 만큼 많지만, 이순신이야말로 그 숱한 영웅, 호걸, 충신, 열사 가운데서도 으뜸가는 위인이라는 사실에는 그 누구도 이의를 제기할 수 없을 것이다.

이순신(李舜臣)은 한국 역사상 최고의 전쟁 영웅으로 임진왜란(壬辰倭亂), 정유재란(丁酉再亂)이라는 미증유의 재앙을 당해 나라와 겨레의 멸망이 눈앞에 이르렀을 때 조선 수군을 총지휘하여 갖가지 불리한 여건 속에서도 필승의 신념과 비상한 전략으로 연전연승(連戰連勝)을 올린 불세출의 명장이었다. 그는 가난한 선비의 아들로 태어나 54년의 길지 않은 일생을 보내는 동안 온갖 고난 속에서도 오로지 충효(忠孝), 인의(仁義)와 애국애족정신(愛國愛族精神)으로 일관한 민족의 큰 스승이었다.

영국 해군사관학교 교장을 지냈던 빌라드(G.A.Billard) 소장(少將)은 "조선의 이순신이라는 해군 제독이 넬슨(Horatio Nelson)에 버금가는 뛰어난 지휘관이라는 사실을 영국인들은 인정하기 힘들겠지만 이순신이 동양 최고의 해군 제독이라는 점은 부정할 수 없는 사실이다."라고 이순신을 평가하였다. 중국계 미국인 역사학자로 미국 워싱턴 주립대학교 교수인 레이 황(Ray Hwang) 박사는 동양사 3대 전쟁 영웅으로 조선의 이순신(李舜臣), 베트남 다이비에이 왕조의 첸 훈다오[千訓道], 중국 명나라의 원숭환(袁崇煥)을 들면서 그 중에서도 이순신이 가장 위대한 공훈을 남긴 영웅이라고 칭송하였다.

오늘날 나라 안팎의 정세, 특히 또다시 빠진 정치적, 경제적 위기에 비추어볼 때 이순신은 지금까지 알려져 왔던 절세의 명장, 구국의 영웅이라는 면모에 더해 비상한 리더십을 갖춘 최고 경영자였다는 사실을 새삼 절감하게 된다. 21세기라는 새로운 격변의 시대, 격동의 시대를 맞이하여 강대국들과의 무한경쟁에서 살아남기 위해서도 우리는 동서고금(東西古今)의 그 어떤 위인보다도 위대했던 성웅(聖雄) 이순신의 리더십을 통해 국난극복의 지혜를 찾아야 할 것이다.

◆ 무모한 공격보다 방어에 주력하다.

그런 명령을 받은 이순신 장군은 휘하 장수들에게 소집명령을 내리고 전라우수사(全羅右水使) 이억기(李億祺)에게도 통보하여 5월 7일 또다시 출전에 나섰다. 그날은 바로 1년 전 옥포해전(玉浦海戰)에서 감격의 첫 승리를 거두었던 날이기도 했다.

그동안 갖은 고초를 겪으며 전력을 증강해온 보람이 있어서 그때 이순신이 거느린 전라좌수영(全羅左水營) 함대의 규모는 전투선 42척, 척후선 52척에 이르렀다. 또 전라우수영(全羅右水營) 함대의 규모도 전투선 54척, 척후선 52척으로 합하면 202척의 당당한 대함대를 이루었다. 또한 병력을 보면 전함 1척당 평균 100명의 군사가 탄다고 계산할 때 2만여명에 이르렀다.

남해 미조항에서 하루를 묵고, 이튿날 5월 8일에는 사량도 앞바다를 지나 9일에는 걸망포에 이르렀다. 경상우수사(慶尙右水使) 원균(元均)은 이때에도 겨우 2척의 군선으로 합류했다. 10일 견내량까지 진출하여 전투태세를 점검하고 있는데 조정에서는 명나라 장수인 경략(經略) 송응창(宋應昌)의 지시를 받아서 작전을 수행하라는 달갑지 않은 지시를 내렸다.

이순신은 장계를 통해 그때까지 생각하고 있던 바, 즉 부산 재공격의 위험성, 수륙 합동작전의 불가피성, 수군 증강의 필요성 등을 이렇게 밝혔다.

".....견내량에 이르러 적의 형세를 탐망해 본 바 웅천의 적은 여전히 웅거하고 있습니다. 그런데 부산으로 나가려면 웅천이 길목이 되는 까닭에 부산으로 깊이 들어간다면 적군이 앞뒤에 있게 됩니다. 따라서 아무리 생각해 보아도 수군만으로는 끌어낼 길이 없으므로 부득이 육군과 합공한 뒤 수륙에서 섬멸해야 하겠습니다.

.....엎드려 청하건대 충청도 수군을 보내 하늘에 닿는 치욕을 씻게 해 주시기 바랍니다."


당시 적군의 형세는 이순신의 장계에 따르면 "무려 800여척의 왜선이 부산과 김해로부터 웅천, 제포, 안골포, 영등포 등으로 이동했고, 부산에서 거제까지 오고가는 배들이 늘 줄을 잇다시피"하고 있었다. 그러니 어찌 열세의 전력으로 무모한 작전을 감행할 수 있겠는가.

이로부터 이순신은 무모한 단독작전을 피하고 적정을 살피며 방어에만 주력했다. 충청수사(忠淸水使) 정걸(丁傑)과 합세한 것은 6월 1일, 이후 계속해서 소규모 추격전과 탐색전만 지속될 뿐 이렇다 할 접전은 벌어지지 않았다.

군선 8백여척으로 증강된 일본 수군에 대해 수륙합동작전이 아닌 단독작전을 펼쳐 적군의 함정에 빠지지 않겠다는 것이 이순신의 판단이었던 것이다.

한산도 두을포로 진영을 옮긴 것은 7월 14일이었다. 이순신은 조정에 올린 장계에서 한산도로 본영을 옮긴 이유에 대해 이렇게 말했다.

"신의 생각으로는 요로를 굳게 지키며 편히 있다가 피로한 적을 기다려 먼저 선봉을 깨뜨리면 비록 백만대군이라도 기운을 잃고 마음이 꺾여서 도망치기에 바쁠 것이며, 더구나 한산 일해는 작년에 적의 대군이 섬멸당한 곳이므로 이곳에 주둔하고 적의 동태를 기다려 동심협공하기로 결사 서약하였습니다."

또한 이순신이 7월 16일자로 지평 현덕승이란 사람에게 보낸 편지에는 이렇게 적혀 있다.

"생각하건대 호남은 나라의 울타리라, 만일 호남이 없으면 곧 나라가 없어집니다. 그래서 어제 진을 한산도로 옮겨 치고, 이로써 바닷길을 가로막을 계획입니다."

한산도로 본진을 옮기기는 했지만 모든 것이 뜻대로 되지는 않았다. 증강된 적군을 수군의 힘만으로는 마음대로 쳐서 물리칠 수도 없었을 뿐만 아니라, 연합선단을 구성해도 다른 도의 수사들과 같은 직급으로서 뜻대로 통솔할 수 없는 지휘체계 문제도 있었다.

특히 경상우수가 원균은 공명심이 강한데다가 시기심까지 높아 연합작전에 오히려 장애가 될 때도 많았다. 여기에 엎친 데 덫친 격으로 진중에 전염병이 만연하여 사망자가 속출하였으므로 군사들의 충원과 훈련도 여의치 못했다.

◆ 최악의 패전(敗戰) 제2차 진주성전투(晉州城戰鬪)

이순신이 한산도로 본진을 옮기기 보름 전인 그해 6월 29일에 육지에서는 임진왜란(壬辰倭亂) 중 가장 참담한 패전(敗戰)으로 기록된 제2차 진주성전투(晉州城戰鬪)가 있었다.

명나라에서 지원군이 압록강을 건너왔지만, 벽제관전투(碧蹄館戰鬪)에서 패배하자 일제히 말머리를 돌려 평양으로 철수한 채 다시는 싸울 생각을 하지 않고 불쌍한 조선의 백성들과 벼승라치만 못살게 굴었다.

당시 백성들의 참상이 얼마나 극심했던가는 피난민들이 서로 아이를 바꾸어서 잡아먹었다는 끔찍한 기록이 조선왕조실록(朝鮮王朝實錄)에 나오는 것을 보아도 잘 알 수 있다.

조선이 멸망하면 자기네 나라도 위험할 것이 뻔했기에 마지못해 지원군은 보냈지만 명나라 장수들은 벽제관전투(碧蹄館戰鬪)에서 지게 되자 싸울 의욕을 잃어버리고 말았다. 그 대신 화평을 통해 쌍방의 희생을 막는다는 구실 아래 조선은 제외한 채 일방적으로 일본과 강화회담(講和會談)을 벌어기 시작했다. 그것이 1593년 4월부터였다.

제2차 진주성전투(晉州城戰鬪)는 바로 이 강화회담이 벌어지고 있는 도중에 일어난 대결전(大決戰)이었다. 때는 1593년 음력 6월 19일, 장소는 진주성으로 돌아간다.

일본의 10만 대군이 제1차 진주성전투(晉州城戰鬪)의 패배를 설욕하려고 아귀떼처럼 몰려온다는 소식에 성안은 긴장과 불안으로 술렁대고 있었다. 당시 진주성 안에는 6, 7만명의 인원이 있었지만 전투를 할 수 있는 정규병력은 3천여명에 불과했다. 싸우기 전에 겁부터 먹으면 그 싸움은 이미 진 것이나 마찬가지다. 뒷날 한산도대첩(閑山島大捷), 행주대첩(幸州大捷)과 더불어 임진왜란(壬辰倭亂) 삼대첩(三大捷)으로 기록된 제1차 진주성전투(晉州城戰鬪)에서 대승했던 용기와 기백은 모두 어디로 사라져 버렸는가.

1592년 10월 6일부터 시작된 제1차 진주성전투(晉州城戰鬪)에서 진주목사(晉州牧使) 김시민(金時敏)의 처절한 독전(督戰) 아래 진주성의 군(軍), 관(官), 민(民)이 협심(協心)하여 6일간의 맹렬한 사투(死鬪) 끝에 적군의 대공세를 격퇴시킨 바 있었지만, 이제는 해가 바뀌어 사정이 달라졌던 것이다.

평양성에서 조명연합군(朝明聯合軍)의 총공격에 밀려 서울을 거쳐 남해안으로 퇴각하던 일본군은 전쟁의 원흉 도요토미 히데요시[豊臣秀吉]가 본국에서 내린 명령에 따라 제1차 진주성전투(晉州城戰鬪)의 패배를 설욕하려고 진주성으로 진격했다. 그러나 명나라 군사들은 퇴각하는 일본군을 힘써 추격하지 않았으므로 전쟁은 순전히 조선 백성들과 군사들의 몫이 되었다.

명군 총병 유정(劉綎)은 적장 가토 기요마사[加藤淸正]에게 진주성 침공계획을 힐책하고, 심유경(沈惟敬)도 고니시 유키나가[小西行長]에게 진주성 침공을 만류했지만 그것은 소귀에 경 읽기와 같이 아무 소용이 없었다.

당시 조선 관군은 조정의 명령에 따라 도원수(都元帥) 김명원(金命元), 전라도순찰사(全羅道巡察使) 권율(權慄)의 인솔 아래 모두 의령에 모요 있었지만 적군의 기세가 너무나 흉맹(兇盟)하자 감히 맞서 싸울 전의를 잃어버리고 말았다.

명나라 군대가 수수방관하는 동안 아군 수뇌부는 진주성으로 들어가 지키자는 수성파(守城派)와 성을 비운 채 주변에서 교란시키며 공격하자는 공성파(空城派)로 갈렸다. 김명원, 권율과 곽재우 등 비교적 우수한 전투력을 갖춘 관군과 의병부대들이 대부분 진주성을 버리는 쪽을 택했다.

이때 수성을 주장하던 창의사(倡義使) 김천일(金千鎰)이 여러 장수를 둘러보며 노한 목소리로 소리쳤다.

"진주는 호남과 순치지간(盾齒之間)이외다! 진주가 없이 어찌 호남을 지킬 수 있으리오! 성을 버리고 왜적(倭敵)을 피하여 왜적을 기쁘게 하는 것이야말로 계책(計策) 중에서도 하책(下策)이라 할 것이오. 힘을 합치고 힘을 다해 왜적을 막는 것만이 상책(上策)이 아니고 무엇이리오!"

김천일이 군사를 거느리고 진주성으로 들어가니, 경상우병사(慶尙右兵使) 최경회(崔慶會), 충청병사(忠淸兵使) 황진(黃進), 의병대장 고종후(高從厚), 강희열(姜希悅), 사천현감(泗川縣監) 장윤(張潤), 거제현령(巨濟縣令) 김준민(金俊民) 등이 잇달아 입성했다. 성에 들어가 보니 김해부사(金海府使) 이종인(李宗仁)이 이미 먼저 들어와 있었다.

일본군은 진주성을 겹겹이 포위한 뒤 사나운 기세로 쉴 새 없이 파상적인 공격을 시작했다. 그런데 수성군(守城軍)의 주장(主將)인 진주목사(晉州牧使) 서예원(徐禮元)은 병법(兵法)에 문외한이었고 겁쟁이에다가 책임의식도 없는 무능하고 용렬한 인물이었다. 따라서 결국 김천일이 전투를 총지휘하게 되었다.

진주성은 낙동강 지류 남강을 끼고 동쪽은 함안, 진해, 남쪽은 사천, 고성, 북쪽은 의령 삼가와 접하고, 서쪽은 단성, 곤양, 하동을 거쳐 호남으로 통하는 전략적 요충지였다. 진주성은 굽이져 흐르는 남강가 절벽에 의지하고 있는 천험의 요새였지만 이같은 지리적 이점도 천시와 인재를 제대로 만나야 지킬 수 있는 법이다. 게다가 뭉치면 살고 흩어지면 죽는다는 말도 있듯이 유력한 아군이 힘을 합쳐 지키지 않고 성을 버린 데다 명나라 군사까지 방관하니 겹겹으로 포위된 진주성은 그야말로 고립무원(孤立無援)이요 풍전등화(風前燈火)의 운명이었다.

김천일은 장수들로 하여금 구역을 나누어 지키게 하고 황진, 이종인, 장윤 등에게는 기동타격대 역할을 맡겼다.

성이 포위된 다음날인 6월 20일, 적군의 척후대가 성 가까이 나타나자 이잠(李潛)과 오유(吳流)가 군사들을 거느리고 나가 적병 10여명의 목을 베어가지고 돌아오니 아군의 사기가 높아졌다. 다시 하룻밤이 지난 6월 21일에는 5만명에 이르는 적군이 성을 세겹으로 에워싸고 공격을 개시했다. 마침내 본격적인 공방전(攻防戰)이 시작된 것이었다.

콩 볶듯 터지는 조총 소리와 더불어 탄환이 비 오듯 날아왔다. 이에 맞서 아군도 쉴 새 없이 활을 쏘고 돌멩이를 던지고 성벽을 기어오르는 적병들에게는 끓는 물을 퍼붓는 등 있는 힘을 다해 저항했다. 머릿수에서 우세한 적군은 1진이 물러가면 2진이 공격하고, 2진이 물러가면 3진이 공격하는 차륜전법을 구사했지만 황진이나 고종후 같은 맹장(猛將)들의 눈부신 활약으로 번번이 적군의 침공을 물리쳤다.

7일째 되던 날에는 낮에 적군의 3회 공격을 격퇴시키고, 밤에는 적군의 4회 공격을 격퇴시키기도 했으니 악전고투(惡戰苦鬪)가 따로 없었다. 적군은 성의 동쪽과 서쪽에 다섯 군대나 높은 언덕을 만들고 그 위에 목책을 세우고 조총을 빗발처럼 쏘아댔다. 이에 황진(黃進)이 재빨리 군사들을 독려하여 화전(火箭)으로 목책을 불태워 버리도록 했다.

적군은 또 커다란 관(棺) 모양의 궤짝을 만들어 여러 겹의 쇠가죽으로 겉을 싸고 수레에 실어 성을 공격했는데 이번에도 황진이 "오늘 내가 죽을 때와 장소를 찾았도다!"라고 소리치며 달려나가 기름을 붓고 횃불로 태워버렸다. 그러자 적군은 이번에는 성 밑을 파고 몰래 숨어들려고 했으나 최경회(崔慶會)의 군사들이 이것을 미리 발견하여 일본군 1천여명을 참살하였다.

그렇게 치열한 공방전을 벌이는 사이에 어느덧 열흘이 지나갔다. 열배나 되는 일본의 대군을 맞아 열흘이나 버텼으니 참으로 기적 같은 일이었다.

하지만 운명의 6월 28일은 진주성의 관군과 의병들에게 좌절과 죽음을 안겨주고 말았다. 줄기차게 쏟아지는 폭우(暴雨)로 인해 성의 한 모퉁이가 무너지고 말았다. 황진(黃進)과 김준민(金俊民)이 사력을 다해 막아보려 했지만 역부족이었다. 일본군은 시마즈 요시히로[島津義弘]가 이끄는 선봉부대를 앞세우고 무너진 성벽을 향해 개미떼처럼 몰려들었다.

황진은 성루에서 환도(環刀)를 높이 쳐들고 독전하다가 이마에 적병의 총탄을 맞고 장렬히 전사했다. 죽는 순간까지도 그의 칼끝은 여전히 적진을 향해 뻗어 있었다. 장윤(張潤)이 고함을 치며 달려나가 칼을 휘둘러 적병 수십명을 베어 넘기며 분전했지만, 그 역시 일본군의 조총 사격에 전사했다. 두 용장(勇將)을 잃은 진주성의 군사들과 백성들의 사기는 금세 땅바닥으로 곤두박질쳤다.

이튿날인 6월 29일이 진주성 최후의 날이었다. 적군은 진주성 동문 성벽 밑의 받침돌들을 뽑아내 성벽을 무너뜨리고 성안으로 쏟아져 들어왔다. 이종인(李宗仁)이 양손에 각각 장근(長斤)과 단도(短刀)를 들고 좌충우돌(左衝右突)하며 용감하게 싸웠지만 역시 역부족이었다. 적군이 성 위와 아래로 정신없이 쏟아져 들어오자 진주목사(晉州牧使) 서예원(徐禮元)이 가장 먼저 도망쳤다. 참으로 지난해 제1차 진주성전투(晉州城戰鬪)를 승리로 이끌고 순국한 김시민(金時敏)과는 비교도 되지 않는 인간쓰레기였다.

최고 책임자가 도망치자 군사들도 살길을 찾아 이리저리 황망히 도망치기 시작했다. 싸움이 될 턱이 없었다. 이종인(李宗仁), 이잠(李潛), 강희열(姜希悅) 등 10여명의 장수가 저마다 적병들을 닥치는 대로 참살하며 고군분투(孤軍奮鬪)를 펼치다가 차례로 전사했다. 이종인은 죽기 전에 적병의 머리를 양쪽 겨드랑이에 끼고 "김해부사 이종인이 여기서 죽는다!" 하고 소리치며 강물로 뛰어들었다.

열흘 동안 전투를 지휘한 김천일(金千鎰)은 더 이상 버틸 힘이 없자 아들인 상건(上乾), 고종후(高從厚), 최경회(崔慶會) 등 남은 장수와 더불어 복향재배(復享再拜)하고 남강에 뛰어들어 미련 없이 스스로 목숨을 끊었다.

지휘부가 이렇게 전멸하자 이번에는 적군의 살육(殺戮)이 뒤따랐다. 적병들은 성을 완전히 점령하자 성안을 샅샅이 뒤져 백성들을 남녀노소 구분 없이 심지어 돼지, 개, 닭 등 가축들까지도 남김없이 도륙해 버렸다.

성을 함락시키고 전투가 끝나자 적장들은 진주성 촉석루에 올라가 승전(勝戰)을 자축하는 술판을 벌였다. 그때 깃카와 히로이에[吉川廣家]라는 일본 장수가 촉석루(矗石樓) 아래를 바라보며 소리쳤다.

"히야! 저기 저 바위에 서 있는 것이 조선 여자가 아닌가!"

여자라는 말에 왜장들이 난간으로 몰려가 누각 밑을 내려다보았다. 과연, 누각 아래 남강가 바위 위에 젊은 조선 미녀 하나가 서 있는 것이 아닌가.

여인은 왜장들을 유혹하듯 촉석루를 쳐다보며 은은히 웃음 짓는 듯했다. 난데없는 여인의 자태에 홀린 왜장들이 하나같이 굶주린 늑대가 되어 침을 질질 흘렸지만 물에 빠질까봐 두려워 선뜻 가까이 가려는 자가 없었다.

그때 한 왜장이 벌떡 일어나 호기를 부렸다.

"내가 가서 안고 오겠다! 술이 있으면 여자도 있어야지!"

게야무라 로구스케[毛谷村六助]라는 이 왜장은 누각을 내려가 강가로 다가갔다. 그리고 용기를 내어 여인이 서 있는 바위로 건너뛰었다. 그때, 그 여인이 로구스케에게 와락 달려들었다. 그리고 그 힘으로 왜장을 껴안은 순간 그대로 깊고 푸른 남강으로 몸을 날려버리고 말았다.

그 여인이 바로 당시 19세의 논개(論介)였다. 그녀는 전라도 장수 출신으로 진주의 관기(官妓)였으며, 최경회의 소실이라고 했다.

제2차 진주성전투(晉州城戰鬪)는 이같이 처절하고 참혹한 패배로 끝맺었지만 제1차 진주성전투(晉州城戰鬪)의 승리에 못지않게 조선 백성의 불굴의 투혼을 극명하게 보여준 민족사적 대사건이었다. 그리고 의기(義妓) 논개(論介)는 이 역사적 대사건인 제2차 진주성전투(晉州城戰鬪)에 화룡점정(畵龍點睛)같은 빛나는 역할을 했다.

 

◆ 조선 수군 총사령관 삼도수군통제사(三道水軍統制使)

그해 8월 1일에 선조(宣祖)는 이순신을 전라좌수사(全羅左水使) 겸 삼도수군통제사(三道水軍統制使)로 임명했다. 충청도, 전라도, 경상도의 수군을 모두 총괄하는 총사령관으로 임명한다는 교지(敎旨)를 내린 것이다. 발령은 8월 1일자였으니 명령을 받은 것은 10월 9일이었다. 그때 이순신의 나이 49세였다.

신설된 통제사에 임명하면서 선조는 교지에 이렇게 썼다.

".....그대는 오로지 일생고절(一生苦節)을 지켜 나라의 만리장성(萬里長城)이 되었도다. 남은 군사를 모아 전라도 및 경상도의 요로에서 강한 왜적(倭敵)을 쳐서 한산(閑山) 및 당항포해전(唐項浦海戰)의 기이한 전공(戰功)을 세우고, 힘써 일한 공로가 모든 영문(營門)에 뛰어나서 표창하고 승직합이 세 차례 승첩(勝捷)에 거듭 빛났도다.

돌이켜보건대 군사상 가장 걱정스러운 것은 이른바 통솔할 사람이 없음인바 서로 각각 제 형편만 지킨다면 어찌 팔이 손가락을 놀리듯 할 수가 있으며, 또 서로 관섭(管攝)이 없으면 혹은 뒤늦게도 오고 혹은 앞서 도망치는 폐를 면치 못할 것이며, 그러다가 마침내 위급함을 만나면 조처할 방도가 없을 것이니 하물며 이제 적군의 형세가 쇠하지 아니하여 속이고 거짓됨이 갈수록 더해가는 것을 어찌하랴.

(왜적이) 붓간에서 창과 칼들을 거두어 겉으로는 철병할 뜻을 보이는 듯하면서 실은 군량을 바다로 운반하여 마음 속으로는 다시 일어날 꾀를 가진 듯한데, 거기 응하여 대책을 세우기란 지난번보다 더욱 어려운 일이 있을 것이므로 이에 그대를 기용하여 본직에다 경상도, 충청도, 전라도 삼도 수군통제사를 겸하게 하노니 오오, 위엄이 사랑을 이겨야만 진실로 성공할 것이며, 공로는 제 뜻대로 해야만 이룰 수 있을 것이로다.

수사 이하로 명령을 받들지 않는 자는 군법대로 시행할 것이며, 부하 중에서 둔한 자는 그대가 충효로써 책려(策勵)할지어다..."


이로써 조선 수군의 총사령관이 된 이순신은 지금까지 똑같은 계급이었던 전라도, 경상도, 충청도의 수사들을 지휘 감독하며 작전명령권을 행사할 수 있게 되었다.

출중한 장수였던 이억기(李億祺)와 정걸(丁傑) 등은 평소 이순신의 고매한 인품과 탁월한 통솔력에 감복하던 바여서 충심으로 승진을 축하해주고 복종을 다짐했으나, 나이도 많았고 군에서도 선배였으며 시기심이 남달리 많았던 원균은 노골적으로 불만의 기색을 감추지 않았다.

참고서적; 황원갑(黃源甲) 저술 "부활하는 이순신" 에코비즈니스(EcoBusiness) 2004, 김종대(金宗代) 저술 "신(臣)에게는 아직도 열두척의 군선이 있습니다." 북포스(BookFors) 2001, 최두석(崔頭錫) 저술 "임진왜란(壬辰倭亂)과 이순신(李舜臣)" 일각 1999, 김형광(金炯光) 저술 "인물로 보는 조선사(朝鮮史)" 시아출판사 2003.

{계속}



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