伝統文化

今日の東京地方は晴れ渡っておりますが、とにかく風が強い!

さきほど外出から戻ってきましたが、自転車はふらつくわ、看板は倒れるわで、外出は避けた方がよろしいようです。そんな訳で、おとなしく部屋に引きこもることにしましたが、余った時間で真面目な投稿でも作ろうと思い立ったわけです。

この投稿も、ずいぶん前にEnjoyに投稿した物の修正版です。間違いの修正と、宝物を追加をしてみましたので、どうぞご覧下さい。

 

 

前回の投稿で「古代の鏡」をご紹介しましたが、そこで正倉院の鏡も紹介しました。その中で、漫背鏡は新羅から購入したものが多数あると考えられると申¥しましたが(現存しているかは不明)、このほかにも楽器や薬剤、文房四宝などにそれと考えられるものがあります。
そこで今回は、正倉院の宝物の中から朝鮮半島に縁がある物を集めてご紹介することとしました。まぁ「縁」と申¥しましても、新羅や百済で作られたものから、他国で生産されたものが朝鮮半島経由で伝来したものまで、その濃度については広い幅があることをご承知おきください。

 

◆佐波里の食器と付属の新羅文書
佐波里とは銅約80%、錫約20%の合金のことである。食器などに用いられる事が多く、今でも韓国で使用されている食器に通じるものがあることが理解できる。正倉院にはこれらの皿が700枚、匙が346枚、加盤が437口伝存している。これらと同様の物が慶州・雁鴨池から出土していることと、後述する「新羅文書」が付属していたことから、新羅伝来のものと見て間違いないだろう。

 

皿は、東大寺の法要に参列した僧侶達に供された食器と考えて間違いないだろうが、中には群青、白緑、緑青、金泥、銀泥などが付着したものもあり、絵の具皿として転用されていたものもあるようだ。

 

 

 

匙はもともと「銅匙」と呼ばれていたが、分析の結果から「佐波里匙」であることが判明した。匙は円形の物と木の葉形の物があるが、それぞれを1本ずつ組み合わせて1セットとし、それを10セットあわせて1組としている。それぞれ麻糸で縛っているが、写真にもあるように反古紙で巻いてあるものもある。これらの紙はいまだに全て解かれておらず、今後の研究・整理が進むにつれ、新羅の社会の様子が解明されていく可能¥性を秘めており、その意味で青組の諸君にも注目してもらいたい遺物である。 

 

 

加盤とは、写真の通り蓋付きの鋺が入れ子状になって重ねあわされているもので、五重、八重、十¥重など鋺の数は一定していない。十¥重が最高のようである。なにやら現代のキャンプ用品に似ていない事もないが、それだけ合理的な道具と言えるのではなかろうか。これらを包んでいたものに、新羅の村落関係文書の反古紙が伝わっており、貴重な資料となっている。

 

 

 

こちらが佐波里加盤の梱包に使われていた文書である。
文中には、巴川村の地名や新羅の官位、計量単位などが散見され、また朝鮮固有の造字や吏読(りと)も使用されているようである。さらに馬肉や尾などの畜産物、大豆などの貢進物が日付と共に記載されている。このため本文書は、地方からの貢進物を月ごとに集計、記録した帳簿の控えであろうと思われる。裏には官人に対する俸禄¥を支給したものの控えが記されているようである。

※吏読:朝鮮における漢字の特殊な使い方。日本の万葉仮名のようなものだろうか。

 

 

 

◆華厳経論帙
要するに「お経の包み」である。東大寺は華厳経の教えに従って建立されたものであり、華厳宗大本山である。
数巻の経典をまとめて包んでいたものであるが、内貼¥に使われていたものが前述の「佐波里の食器」で使用されていた新羅の村落文書と同様の反古紙であることが修理中に発見され、この論帙が新羅からもたらされたものであることに間違いない。当時の日本が、唐や新羅から仏典を輸入していたことを物語っている。
内容は新羅の村落関係の記録で、景徳王15年(756)頃か、または憲徳王7年(815)頃のものと思われるが断定はできない。この文書には新羅の県村名をはじめ村の広さ、戸口数、牛馬数、田数などが記されている。

華厳経論帙と華厳経論帙内貼¥の新羅官文書

 

これらの新羅文書は、当時の新羅の様子を伝える貴重な文書であるが、いかんせん断簡であることと、同時代の新羅の関連文書が全く残されていないことから完全な内容を理解することができない。仮に吏読の全容が解明されれば、古代朝鮮半島の言語研究も飛躍的に進展するのだが、佐波里匙の包紙にこれらを解明する手掛かりが秘められているのだろうか?調査が待たれる。

 

 

◆聖語蔵大方広仏華厳経
聖語蔵とは、東大寺尊勝院の経蔵を移築したもので、鎌倉時代の建物である。ここに収蔵されていた経巻類約5,000点は明治27年(1894)に皇室に献納され、現在は他の宝物と同様に宮内庁正倉院事務所が管理している。厳密に言えば、本来の正倉院の宝物とは区別されるものであるが、今回はここで取り上げさせていただく。
ここに収蔵されている大方広仏華厳経は、比較的最近になって新羅で写経された可能¥性が指摘されたものであり、ご記憶の方もいるのではなかろうか。以下に当時の報道記事を引用する。

 

奈良・正倉院の宝物「大方広仏華厳経」は、統一新羅の時代(677−935年)に朝鮮半島で写経した可能¥性が高いことが分かり、宮内庁正倉院事務所が23日、発表¥した。 調査した山本信吉・元奈良国立博物館長(古代史)によると、新羅は日本と緊密に国交し、金属製品が正倉院にあるなど文化的影響も大きいが、新羅時代の写経は日本で未確認だった。
朝鮮半島に現存する最古の写経とされる韓国の国宝「新羅白紙墨書大方広仏華厳経」(755年)とほぼ同時期で、筆遣いの特徴から、さらに古い可能¥性もあるという。
55枚の紙をつなぎ合わせ幅26センチ、長さ30.8メートル。コウゾでつくった白い紙は、当時の日本に使用例がなかった。
力強い楷書(かいしょ)は日本の官立写経所で写した経に見られない筆遣いで、端正な鋭い線は新羅の特徴を伝え、中国・唐(618−907年)前期の影響をうかがわせるという。

2006/5/23 共同通信

聖語蔵大方広仏華厳経(上:巻首 下:巻末)

 

 

新羅白紙墨書大方広仏華厳経 

 

 

参考までに、正倉院の聖語蔵大方広仏華厳経と韓国の新羅白紙墨書大方広仏華厳経を並べてみたが、素人目ながらその書体は非常に近い物に見える。しかし残念なことに、新羅白紙墨書大方広仏華厳経の方は風化が進行しており、経典の相当部分が毀損している。一方、正倉院の聖語蔵大方広仏華厳経は完全な形で残されている。
同時代の、同等の紙を用いた経典の保存状態にこれほどの差があることを見ると、改めて正倉院という存在が稀有のものであることを思い知るのである。

 

 

◆墨
次は文書繋がりで墨をご紹介しよう。宝庫には15挺の墨が収められており、うち大仏開眼に用いられた大型墨は別とすると、他は実用品である。
これらのうち第9号と第10号の墨は新羅製であり、それぞれ「新羅楊家上墨」「新羅武家上墨」と刻印されている。楊家や武家は墨の工房の名称であろうと考えられ、いずれも未使用の完全な状態で残っている。この2つの墨には国名・メーカー名・品質が刻印されているわけで、輸出用の製品であったと考えるべきだろう。
ちなみに、他に中国製が1挺、日本製は11挺である。いずれも船の形に似せられて作られていることから、墨の単位を1舟、2舟と表¥すこともある。

 

 

 

◆新羅琴
新羅琴とは現在、朝鮮半島で「伽耶琴」と呼ばれている民族楽器の祖にあたる物である。
ここで、正倉院に伝わる琴の種類を大まかに説明しておこう。


・和琴(わごん)
 6弦で琴柱(ことじ)がある。右手に持ったヘラのような琴軋(ことさぎ)でかき鳴らしたり、左手でつま弾くものである。
・新羅琴
 12弦で琴柱がある。肩から紐がけにして演奏する。
・箏(そう)
 13弦で琴柱がある。右手の指にはめた爪で弾く。現在の琴の先駆けである。
・琴(きん)
 7弦で琴柱がない。徽(き)という目印をもとに左手で弦を押さえ、右手で弾く。

 

 

新羅琴以外にも様々な楽器が伝来しており、特に『螺鈿紫壇五弦琵琶』は世界唯一の五弦琵琶として有名であるが、ここではひとまず置いておく。

 

正倉院で「新羅琴」として伝わっている楽器は南倉と北倉にそれぞれ現存している。北倉の『国家珍宝帳』によれば、「金鏤新羅琴」が二面あったが、弘仁14年(823)2月19日に出蔵し、同年4月19日に返納されたときにはもとの楽器ではなく「金泥絵木形」「金薄輪草形鳳形」と称する二面の新羅琴が代納されている。なぜ代品が返納されたのか?貸し出された琴を破損してしまったのであろうか?しかし、この両方とも繊細な絵が描かれた琴で、桐の一木作りで見事な名品である。おそらく、貸し出された元の楽器と遜色のない物が収められたのではないかと考えられる。
また、南倉に伝えられている新羅琴は当初からの宝物であるが、痛みが進んでいる。こちらも桐材で、腹中に「東大寺」の銘が刻まれている。
 

上:金薄輪草形鳳形  下:銘・東大寺 

 

 

 

◆白銅剪子
この鋏は、灯明の芯切りに使われたものである。この鋏とほぼ同じ形式のものが雁鴨池から出土している。
鋏の組成を分析したところ、銅約68%、錫約18%、鉛4%、砒素0.5%、銀0.1%などで、砒素の含有量から考えると日本製ではなさそうである。新羅製と見ていいだろう。

白銅剪子(正倉院蔵)

 

金銅剪子(雁鴨池出土)

 

 

◆銀平脱合子
『国家珍宝帳』に由緒が明らかになっている宝物であり、百済の義慈王が、内大臣・藤原鎌足に贈った「赤漆欟木厨子」に収められていた四つの合子である。惜しいことに「赤漆欟木厨子」は現存していない。1−3号は樹葉を銜えている2羽の鳥が表¥されており、4号は象が描かれている。延暦12年(793)の曝涼の際の記録から、これらの合子に収められていた碁石は本来600枚あったことが確認できる。


銀平脱合子(1−3号)

 

銀平脱合子(4号) 

 

 

◆棊子(緑牙・紅牙・黒・白)
先の合子に収められていた碁石である。『国家珍宝帳』には「銀平脱合子四合、各納棊子」とあるので、東大寺に献納された時には、先の合子にこれらの棊子が納められていたと見て間違いないだろうが、百済から贈られた当初からそうであったかと言えば疑問符が付く。
正倉院には、この棊子が付属していたと思われる『木画紫檀棊局』と、二局の『桑木木画棊局』が伝わっているが、『木画紫檀棊局』は唐製と見られており、『桑木木画棊局』は日本製と考えられている。素直に解釈すれば、棊局(碁盤)に付属して唐から輸入され、後に棊子を納めるのに適当な寸法であった『銀平脱合子』に移し替えられた、となる。厨子が失われながら合子が伝存しているのも、別の用途に転用されたからではないだろうか。

上:木画紫檀棊局(唐製)  下:桑木木画棊局(日本製)

 

 

いずれにしても、棊子を使うべき棊局に朝鮮半島製がないことから、ここに挙げる宝物の中では根拠が薄いことを一応断っておく。

 

左から象牙を緑と紅に染めた物、黒石は蛇紋岩、白石は石英である。現在、緑牙は120枚、紅牙は132枚、黒は119枚、白は145枚伝わっている。象牙の棊子には花喰鳥の文様が施されている。
碁石の数が延暦12年の記録と一致しないのは、宝庫を開けた武将達が1枚2枚と記念に持ち去ったためである。足利義満や織田信長が碁石を持ち出していることが伝わっている。

 

 

 

◆色氈・花氈
正倉院には51枚の色氈・花氈が伝わっているが、これらの中には新羅の貴族が「所有する毛氈を売る代価に日本の絹・綿製品を入手するよう」と指示した付札を貼¥付したものが1枚ある。 

色氈 第6号(部分)

 

 

現在、下のような色氈は北倉に14枚収められているが、いずれもカシミヤなどで製作されているので、シルクロードを経て新羅に輸入された物が日本に持ち込まれたのだろう。なお『国家珍宝帳』には色氈の記載がないことから、後になって新羅との交易で入手されたものと考えられる。

色氈 第2号 

 

 

また、中倉の花氈にも同様の付札が残されているものが1枚ある。いずれにしても、残された色氈や花氈の一部は、新羅を経由して持ち込まれたものであろう。

 

 

 

◆薬物
正倉院には60種を超える薬物が現存しており、特に『種々薬帳』に記載されている薬物はいずれも外国産の物である。『種々薬帳』とは、天平勝宝8年(756)に光明皇后が東大寺に献上した薬物を記載した文書である。なお、この文書の末尾には必要があれば薬の出蔵を認めている文言があり、ために度々薬物が持ち出され、消費されることになった。
光明皇后は実に多種かつ大量の薬物を収集していたが、日本の外交使節が持ち帰ったものや、新羅の使節が来日した際に購入したものが光明皇后の下に集められたと考えられる。

種々薬帳(巻頭) 

 

 

『買新羅物解』という文書には、天平勝宝4年(752)6月に新羅使が来日した際に、日本の王侯貴族が様々な物を購入した記録があり、その中に多量の薬物が含まれていたことが分かる。工芸品と異なり、どの薬物がいつどこで採取・生産されたかなどは、なおさら判別しがたいが、私の独断と偏見により朝鮮半島縁の薬物代表¥として『竹節人参』を挙げさせて頂く。
これは『種々薬帳』に“人参”と記載されている物にあたる。かつて誤って竹節人参と考えられていたが、中国東北部から朝鮮半島の樹陰地に自生していた物で、いわゆる「高麗人参」である。
なお、薬は通常数十¥年で薬効が消滅するようであるが、正倉院薬物の中には、1200年を経た現在でも、一部の薬物には薬効が認められるというから恐れ入る。

竹節人参(実は高麗人参) 

 

 

また、百済由来の宝物として『百済画屏風六扇』が「国家珍宝帳」に記載されているが、残念ながらこれも現在では失われている。







 

数万点に上る正倉院宝物の中には、新羅に関係しそうな物が他にもあるようですが、その推測を補強する材料に乏しく、判断が保留されている状態です。仏典や薬物などには意外と朝鮮半島経由の物が多いのではないかと考えているのですが、どうなのでしょう。
というわけで、現時点で朝鮮半島に関係すると言えそうな主な宝物は、おおよそここで紹介したものに絞られるのではないでしょうか。
最後に言っておきますが、「日本は新羅と百済の遺産を返還しなさい!」なんて言わないように。「朝鮮王室儀軌」などの無茶な実例を見ていると、冗談でなく心配だから。


정창원의 보물-한반도편

오늘의 도쿄 지방은 활짝 개이고 있습니다만, 어쨌든 바람이 강하다!

조금 전 외출로부터 돌아왔습니다만, 자전거는 휘청거려요, 간판은 넘어져요로, 외출은 피하는 것이 좋은 것 같습니다.그런 (뜻)이유로, 점잖게 방에 틀어박히기로 했습니다만, 남은 시간에 성실한 투고라도 만들려고 생각난 것입니다.

이 투고도, 대단히 전에 Enjoy에 투고한 것의 수정판입니다.실수의 수정과 보물을 추가를 해 보았으므로, 아무쪼록 봐 주세요.

 

 

전회의 투고로「고대의 거울」을 소개했습니다만, 거기서 정창원의 거울도 소개했습니다.그 중으로, 만배경은 신라에서 구입한 것이 다수 있다고 생각되면 신했습니다만(현존 하고 있을까는 불명), 이 밖에도 악기나 약제, 문방네개의 옥 등에 그것이라고 생각되는 것이 있습니다.
거기서 이번은, 정창원의 보물중에서한반도에 가장자리가 있는 것을 모아 소개하는 것으로 했습니다.아무튼 「인연」이라고 신해도, 신라나 (쿠다라)백제에서 만들어진 것으로부터, 타국에서 생산된 것이 한반도 경유로 전래한 것까지, 그 농도에 대해서는 넓은 폭이 있는 것을 아시는 바 일어나 주세요.

 

◆사바 마을의 식기와 부속의 신라 문서
사바 마을과는 동약 80%, 주석 약 20%의 합금이다.식기 등에 이용되는 것이 많아, 지금도 한국에서 사용되고 있는 식기에 통하는 것이 있는 것을 이해할 수 있다.정창원에는 이러한 접시가 700매, 숟가락이 346매, 가반이 437 구전 간직하고 있다.이것들과 같은 물건이경주·안압지로부터 출토하고 있는 것으로, 후술 하는「신라 문서」가 부속되어 있던 것으로부터, 신라 전래의 것이라고 봐 틀림없을 것이다.

 

접시는, 도다이사의 법요에 참례한 승려들에게 제공된 식기라고 생각해 틀림없을 것이지만, 안에는 군청, 백록, 녹청, 금니, 은니등이 부착한 것도 있어, 그림도구접시로서 전용되고 있던 것도 있는 것 같다.

 

 

 

숟가락은 원래 「동시」라고 불리고 있었지만, 분석의 결과로부터「사바리시」인 것이 판명되었다.숟가락은 원형의 물건과 나뭇잎형의 물건이 있지만, 각각을 1개씩 조합해 1 세트로 해, 그것을 10 세트 아울러 1조로 하고 있다.각각 마사로 묶고 있지만, 사진에도 있도록(듯이)휴지지로 감아 있는 것도 있다.이러한 종이는 아직껏 모두 풀리지 않고, 향후의 연구·정리가 진행되는 것에 따라, 신라의 사회의 모습이 해명되어 가는 가능성을 은밀한이라고 내려 그 의미로 청조의 제군에게도 주목 해 주기를 바라는 유물이다. 

 

 

가반이란, 사진대로 뚜껑부의 원이 상자상태가 되어 거듭해 합쳐질 수 있고 있는 것으로, 오층, 여덟 겹, 10겹 등 원의 수는 일정하고 있지 않다.10겹이 최고같다.어쩐지 현대의 캠프 용품을 닮지 않은 것도 없지만, 그 만큼 합리적인 도구라고 말할 수 있는 것은 아닌가.이것들을 싸고 있던 것에,신라의 촌락 관계 문서의 휴지지가 전해지고 있어 귀중한 자료가 되고 있다.

 

 

 

이쪽이 사바리가반의 곤포에 사용되고 있던 문서이다.
문중에는, 도모에가와마을의 지명이나 신라의 관직의 등급, 계량 단위등이 산견되어 또 조선 고유의 조자나 이두(와)도 사용되고 있는 것 같다.한층 더 말고기나 꼬리등의 축산물, 대두등의 공선물이 일자와 함께 기재되어 있다.이 때문에 본문서는, 지방으로부터의 공선물을 달 마다 집계, 기록한 장부의 대기여도 생각된다.뒤에는 관리에 대한 녹봉을 지급했지만 대기가 기록되고 있는 것 같다.

※이두:조선에 있어서의 한자의 특수한 사용법.일본의 망요 가명과 같은 것일까.

 

 

 

◆화엄경론질
요컨데 「불경의 소포」이다.도다이사는 화엄경의 가르침에 따라서 건립된 것이어, 게곤종대본산이다.
수권의 경전을 정리해 싸고 있던 것이지만, 내첩에 사용되고 있던 것이 전술의 「사바 마을의 식기」로 사용되고 있던 신라의 촌락 문서와 같은휴지지인 것이 수리중에 발견되어 이 론 질이 신라로부터도 늘어뜨려진 것인 것에 틀림없다.당시의 일본이, 당이나 신라로부터 불전을 수입하고 있던 것을 이야기하고 있다.
내용은 신라의 촌락 관계의 기록으로, 경덕왕 15년(756) 경인가, 또는 헌덕왕 7년(815) 경의 것이라고 생각되지만 단정은 할 수 없다.이 문서에는 신라의 현촌명을 시작해 마을의 넓이, 호구수, 우마수, 전수등이 기록되고 있다.

화엄경론질과 화엄경론질내첩의 신라관 문서

 

이러한 신라 문서는, 당시의 신라의 모습을 전하는 귀중한 문서이지만, 안돼 전단간인 것으로, 동시대의 신라의 관련 문서가 전혀 남아 있지 않은 것으로부터 완전한 내용을 이해할 수 없다.만일 이두의 전모가 해명되면, 고대 한반도의 언어 연구도 비약적으로 진전하지만, 사바리시의 포지에 이것들을 해명하는 실마리를 숨길 수 있고 있는 것일까?조사가 기다려진다.

 

 

◆성어장 대부분 광불화엄경
성어장이란, 도다이사존승원의 경장을 이축한 것으로, 가마쿠라 시대의 건물이다.여기에 수장 되고 있던 경권류 약 5,000점은 메이지 27년(1894)에 황실에 헌납되어 현재는 다른 보물과 같게 궁내청 정창원 사무소가 관리하고 있다.엄밀하게 말하면, 본래의 정창원의 보물과는 구별되는 것이지만, 이번은 여기서 채택한다.
여기에 수장 되고 있는 대부분 광불화엄경은, 비교적 최근이 되어 신라에서 사경된 가능성이 지적된 것이어, 기억도 있는 것은 아닌가.이하에 당시의 보도 기사를 인용한다.

 

나라·정창원의 보물「대부분 광불화엄경」은, 통일 신라의 시대(677-935년)에 한반도에서 사경한 가능성이 높은 것이 밝혀져, 궁내청 정창원 사무소가 23일, 발표했다. 조사한 야마모토 신키치·겐 나라 국립 박물관장(고대사)에 의하면, 신라는 일본과 긴밀히 국교해, 금속제품이 정창원에 있는 등 문화적 영향도 크지만, 신라시대의 사경은 일본에서 미확인이었다.
한반도에 현존 하는 최고의 사경으로 여겨지는 한국의 국보 「신라 백지묵서 대부분 광불화엄경」(755년)과 거의 동시기로, 필치의 특징으로부터, 한층 더 낡은 가능성도 있다고 한다.
55매의 종이를 이어 맞댐폭 26센치, 길이 30.8미터.닥나무로 만든 흰 종이는, 당시의 일본에 사용예가 없었다.
강력한 진서(해서)는 일본의 관립 사경소에서 찍은 불경으로 보여지지 않는 필치로, 단정한 날카로운 선은 신라의 특징을 전해 중국·당(618-907년) 전기의 영향을 엿보게 한다고 한다.

2006/5/23 쿄오도통신

성어장 대부분 광불화엄경(상:권두하:권말)

 

 

신라 백지묵서 대부분 광불화엄경 

 

 

참고까지, 정창원의 성어장 대부분 광불화엄경과 한국의 신라 백지묵서 대부분 광불화엄경을 늘어놓아 보았지만, 아마추어의 눈이면서 그 서체는 매우 가까운 것으로 보인다.그러나 유감스럽게, 신라 백지묵서 대부분 광불화엄경은 풍화가 진행하고 있어, 경전의 상당 부분이 훼손하고 있다.한편, 정창원의 성어장 대부분 광불화엄경은 완전한 형태로 남아 있다.
동시대의, 동등의 종이를 이용한 경전의 보존 상태에 이 정도의 차이가 있는 것을 보면, 재차 정창원이라고 하는 존재가 희유의 것임을 깨닫는 것이다.

 

 

◆묵
다음은 문서 연결로 먹을 소개하자.보고에는 15정의 먹을 거둘 수 있고 있어 집대불 개안에 이용된 대형먹은 구별로 하면, 외는 실용품이다.
이러한 집 제 9호와 제10호의 먹은 신라제이며, 각각「신라양가상먹」 「신라 무가상먹」과 각인 되고 있다.양가나 무가는 먹의 공방의 명칭이어도 생각되어 모두 미사용의 완전한 상태로 남아 있다.이 2개의 먹에는 국명·메이커명·품질이 각인 되고 있는 것으로, 수출용의 제품이었다고 생각해야 할 것이다.
덧붙여서, 그 밖에 중국제가 1정, 일본제는 11정이다.모두 배의 형태를 닮아 다투어져 만들어지고 있는 것으로부터, 먹의 단위를 1배, 2배와 겉(표)일도 있다.

 

 

 

◆신라금
신라금과는 현재, 한반도에서 「가야금」이라고 불리고 있는 민족 악기의 선조에 해당하는 것이다.
여기서, 정창원에 전해지는 거문고의 종류를 대략적으로 설명해 두자.


·와코토(일본어응)
 6현으로 안족(일 글자)이 있다.오른손에 가진 헤라와 같은 금알(일사기)로 써 울리거나 왼손 나와 연주하는 것이다.
·신라금
 12현으로 안족이 있다.어깨로부터 끈벼랑으로 해 연주한다.
·쟁(그렇게)
 13현으로 안족이 있다.오른손의 손가락에 낀 손톱으로 연주한다.현재의 거문고의 선구이다.
·거문고(오지 않아)
 7현으로 안족이 없다.휘(나무)라고 하는 표적을 기초로 왼손으로 현을 누르고 오른손으로 연주한다.

 

 

신라금 이외에도 여러가지 악기가 전래하고 있어, 특히 「나전자단오현 비파」는 세계 유일한 오현 비파로서 유명하지만, 여기에서는 일단 놓아둔다.

 

정창원에서 「신라금」으로서 전해지고 있는 악기는 남창과 북창에 각각 현존 하고 있다.북창의 「국가진보장」에 의하면,「금루신라금」이 이면 있었지만, 홍인 14년(823) 2월 19일에 출 소장해, 동년 4월 19일에 반납되었을 때에는 원래의 악기는 아니고「금니회목형」「금박륜초형봉형」으로 칭하는 이면의 신라금이 대납되고 있다.왜 대용품이 반납되었는가?대출된 거문고를 파손해 버린 것일까?그러나, 이 양쪽 모두 섬세한 그림이 그려진 거문고로, 동의 한 그루의 나무 만들기로 훌륭한 명품이다.아마, 대출된 원의 악기와 손색이 없는 것을 거둘 수 있던 것은 아닐까 생각된다.
또, 남창에게 전할 수 있고 있는 신라금은 당초부터의 보물이지만, 아픔이 악화되고 있다.이쪽도 동재로, 마음 속에 「도다이사」의 명이 새겨지고 있다.
 

상:금박륜초형봉형하:명·도다이사 

 

 

 

◆백동전자
이 가위는, 등 명의 심지 잘라에 사용된 것이다.이 가위와 거의 같은 형식의 것이 안압지로부터 출토하고 있다.
가위의 조성을 분석했는데, 동약 68%, 주석 약 18%, 납 4%, 비소 0.5%, 은0.1%등에서, 비소의 함유량으로부터 생각하면 일본제에서는 없을 것 같다.신라제라고 봐도 좋을 것이다.

백동전자(정창원창고)

 

금동전자(안압지 출토)

 

 

◆은평탈합자
「국가진보장」에 유서가 밝혀지고 있는 보물이며, (쿠다라)백제의 의자왕이, 내대신·후지와라노 가마타리에게 준 「빨강옻나무규목 두개의 문짝이 달린 궤」에 거둘 수 있고 있던 네 개의 합자이다.아까운 것에 「빨강옻나무규목 두개의 문짝이 달린 궤」는 현존 하고 있지 않다.1-3호는 나뭇잎을 함네라고 있는 2마리의 새가 겉(표)되고 있어 4호는 코끼리가 그려져 있다.연력 12년(793)의 널어 말리기때의 기록으로부터, 이러한 합 아이가 거둘 수 있고 있던 바둑돌은 본래 600매 있었던 것이 확인할 수 있다.


은평탈합자(1-3호)

 

은평탈합자(4호) 

 

 

◆기자(록아·홍아·흑·백)
앞의 합 아이가 거둘 수 있고 있던 바둑돌이다.「국가진보장」에는「은평탈합자4합, 각 납기자」어떤의 것으로, 도다이사에 헌납되었을 때에는, 앞의 합자에게 이러한 기자가 납입할 수 있고 있었다고 봐 틀림없을 것이지만, (쿠다라)백제에서 주어진 당초부터 그랬는지 라고 하면 물음표가 붙는다.
정창원에는, 이 기자가 부속되어 있었다고 생각되는 「목화 자단기국」과 2국의 「쿠와기목화기국」이 전해지고 있지만, 「목화 자단기국」은 당제라고 볼 수 있고 있어 「쿠와기목화기국」은 일본제라고 생각되고 있다.솔직하게 해석하면, 기국(기판)에 부속되어 당으로부터 수입되어 후에 기자를 납입하는데 적당한 치수인 「은평탈합자」가 바꿀 수 있었다, 된다.두개의 문짝이 달린 궤가 없어지면서 합자가 전존하고 있는 것도, 다른 용도에 전용되었기 때문에는 아닐까.

상:목화 자단기국(당제) 하:쿠와기목화기국(일본제)

 

 

어쨌든, 기자를 사용해야 할 기국에 한반도제가 없는 것으로부터, 여기에 올리는 보물 중(안)에서는근거가 얇은일을 일단 끊어 둔다.

 

왼쪽에서 상아를 초록과 다홍색에 물들인 것, 쿠로이시는 사문암, 시라이시는 석영이다.현재, 록아는 120매, 홍아는 132매, 흑은 119매, 흰색은 145매 전해지고 있다.상아의 기자에게는 화식조의 문양이 베풀어지고 있다.
바둑돌의 수가 연력 12년의 기록과 일치하지 않는 것은, 보고를 연 무장들이 1매 2매로 기념에 가지고 사라졌기 때문이다.아시카가의만이나 오다 노부나가가 바둑돌을 꺼내고 있는 것이 전해지고 있다.

 

 

 

◆색전·화전
정창원에는 51매의 색전·화전이 전해지고 있지만, 이러한 안에는 신라의 귀족이 「소유하는 양탄자를 파는 대가에 일본의 비단·면제품을 입수하는 듯」이라고 지시한 부찰을 첩교부한 것이 1매 있다. 

색전 제 6호(부분)

 

 

현재, 아래와 같은 색전은 북창에 14매 거둘 수 있고 있지만, 모두 캐시미어등에서 제작되고 있으므로, 실크 로드를 거쳐 신라에 수입된 것이 일본에 반입되었을 것이다.또한 「국가진보장」에는 색전의 기재가 없는 것으로부터, 나중이 되어 신라와의 교역으로 입수된 것이라고 생각된다.

색전 제 2호 

 

 

또, 나카쿠라의 화전에도 같은 부찰이 남아 있는 것이 1매 있다.어쨌든, 남겨진 색전이나 화전의 일부는, 신라를 경유해서 반입된 것일 것이다.

 

 

 

◆약물
정창원에는 60종을 넘는 약물이 현존 하고 있어, 특히 「여러 가지약장」에 기재되어 있는 약물은 모두 외국산의 물건이다.「여러 가지약장」이란, 나라시대의 연호 8년(756)에 고묘 고고가 도다이사에 헌상 한 약물을 기재한 문서이다.덧붙여 이 문서의 말미에는 필요가 있으면 약의 출장을 인정하고 있는 문언이 있어, 위해(때문에) 종종 약물이 꺼내져 소비되게 되었다.
고묘 고고는 실로 다종 또한 대량의 약물을 수집하고 있었지만, 일본의 외교 사절이 가지고 돌아간 것이나, 신라의 사절이 일본 방문했을 때에 구입한 것이 고묘 고고아래에 모아졌다고 생각된다.

여러 가지약장(권두) 

 

 

「매신라물해」라고 하는 문서에는, 나라시대의 연호 4년(752) 6월에 신라사가 일본 방문했을 때에, 일본의 왕후 귀족이 여러가지 물건을 구입한 기록이 있어, 그 중에 다량의 약물이 포함되어 있던 것을 안다.공예품과 달리, 어느 약물이 언제 어디서 채취·생산되었는지 등은, 더욱 더 판별하기 어렵지만, 나의 독단과 편견에 의해 한반도연의 약물 대표로서「죽절인삼」을 올린다.
이것은 「여러 가지약장」에“인삼”이라고 기재되어 있는 것에 해당한다.일찌기 잘못하고 죽절인삼이라고 생각되고 있었지만, 중국 동북부로부터 한반도의 나무 그늘지에 자생하고 있던 것으로, 이른바「고려 인삼」이다.
덧붙여 약은 통상 수십년에 약효가 소멸하는 것 같지만, 정창원 약물안에는, 1200년을 거친 현재에도, 일부의 약물에는 약효가 인정된다고 하기 때문에 송구한다.

죽절인삼( 실은 고려 인삼) 

 

 

또, (쿠다라)백제 유래의 보물로서 「(쿠다라)백제화 병풍6부채」가 「국가진보장」에 기재되어 있지만, 유감스럽지만 이것도 현재는 없어지고 있다.


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수만점에 오르는 정창원 보물안에는, 신라에 관계할 것 같은 것이 그 밖에도 있는 것 같습니다만, 그 추측을 보강하는 재료가 부족하고, 판단이 보류되고 있는 상태입니다.불전이나 약물등에는 의외로 한반도 경유의 물건이 많은 것이 아닐까 생각하고 있습니다만, 어떨까요.
그래서, 현시점에서 한반도에 관계한다고 말할 수 있을 것 같은 주된 보물은, 대체로 여기서 소개한 것에 좁혀지는 것은 아닐까요.
마지막에 말해 둡니다만, 「일본은 신라와 (쿠다라)백제의 유산을 반환해 주세요!」(이)라고 말하지 않게.「조선 왕실 의궤」등이 터무니 없는 실례를 보고 있으면, 농담이 아니고 걱정이기 때문에.



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