伝統文化

 

解凍帝国期(海東諸国記)の多くの木版本指導たちの中で特に人目を引く指導が一枚ある. おおよそ八十二つの潟が詳らかに描かれた島指導, それは天然のこの頃と同時に倭寇(倭寇)の本拠である対馬島(対馬島) 指導だった. 高麗言葉から朝鮮超までおおよそ 500回以上侵略と盗みをほしいままにした対馬島の倭寇, 遂に朝鮮は大規模遠征船団を編成してこれらの本拠を討伐しに出る!

対馬島は釜山から最短距離(通り)で 49.5km, そして日本の福岡では 134km 程度離れている. 距離(通り)上では韓半島の方にもっと近くの島だ. その島がすぐ三軍島体察使李宗務(李従茂) 将軍を中心にした朝鮮精鋭軍が倭寇の足だまりを征伐した現場, 対馬島であることだ. 朝鮮がこちらを攻撃した一番目理由は倭寇たちのためだった. 1281年高麗, モンゴル連合軍の日本遠征以後  高麗と正常な貿易が支えると対馬島を含めた多くの 倭 人らは物資不足に苦しむ. するとこれらが群れをなしてヘゾックジルをするようになるのに, これらがまさに倭寇であることだ. それで朝鮮は倭寇の本拠である対馬島を打つために大規模軍事を起こす. 1419年 5月, 遂に太宗(太宗)は全軍に非常召集令を下げて朝鮮水軍の主力艦隊を巨済のギョンネリャングに集結させる.

ギョンネリャングは巨済島と高声統営側陸地の間の狭い海だ. 島と陸地が一番近くは 500m 余りされる. 陸地と島の間が狭くて潮流が瓶の首現象を起こすギョンネリャングは概して水勢が急だ. ギョンネリャングも地形的特性の上水の流れが早い所だ. それなら対馬島征伐前(対馬島征伐戦) 当時朝鮮水軍はどうしてこの狭くて水勢が荒い海に集結しただろうか? 巨済島が持っている条件をよく見ればその理由が分かる. ギョンネリャング外の方のジセポだけは巨済島を守る前哨基地だった. 指導には性が描かれている. 船を作った先唱村ドイサンにはまだ性がそのまま残っている. 長さ 735メートル, 高さ 5メートルのジセポ聖恩朝鮮初期からあったが今の物は人造(仁祖)台にまた改築されたのだ. ジセポ聖恩その原型がわりとよく保存していて海岸酸性の特徴をよく見せてくれる. ジセポ聖恩堅固な構造を持っている. 東門には瓮城を設置して防御に有利にさせている. 地税砲声は特に東城郭の原型がよく残っているのに東は対馬島方向だ. 対馬島の倭寇たちを阻むために逐造した大人のだ. 巨済島には皆 25個の酸性がある. 狭い面積に比べて多い酸性, それは倭寇との熾烈な関連性を言ってくれる.

李宗務が総指揮する征討軍がギョンネリャングに集結したもう一つの理由は何だろう? それはギョンネリャングの水勢と関連がある. ギョンネリャングは一日に二度潮流によって水勢の方向が変わる. 引潮を待ってからその水勢に乗れば苦労しないで広い海に出ることができる. そんな後海流に乗れば苦労しないで対馬島に近付くことができることと知られている. 今もギョンネリャングの波路は潮流を利用している. 北東方へ決まった方向を持ったまま流れる黒潮海流! 巨済で引潮をタゴナが北東陣する海流に会えばじっといても対馬島中心に着くことができるのだ. ギョンネリャングは堅固な防御施設で征討軍の安全が保障された. そして潮流と海流の流れは朝鮮水軍に有利だった. 対馬島征討軍が釜山浦代わりにギョンネリャングに集結したわけがここにあったのだ.

遠征艦隊の総指揮官は三軍島節制社李宗務(李従茂) 将軍が職責を引き受けたし, 左軍島節制社には遺習(柳習), 友軍島節制社には理知室(李智実)が任命されて全羅道, 京畿道, 忠清道地域の水軍兵力を差出したし軍事 1万 7千名余, 戦艦 227尺で大韓海峡(大韓海峡)を渡って対馬島を攻撃するようになる.

左軍節制社に任命されて対馬島征伐に参戦した朴硝(朴礎), 彼が残したトホンジブ(土軒集)には当時の水軍訓練方法と係わって賃金にあげた上書がある. 上書は彼の長年の数軍生活から出た経験を土台でスィになった. 伝えることは腐食防止のためにフンヨンした木材を使うことを勧奨して, 水軍の訓練を強調したし, 多様な進法学びと弓術など個人戦闘能力を向上するための方案たちが盛られている. 太宗(太宗) 世宗(世宗) 年間には特に水軍訓練に対する上訴が多かった. 兵船に使われる火筒が足りないから鋳鉄をとかして作ろうという主張が申し立てられたりしたし, 湿り気に敏感な火薬に付いて上でよく保管する方法などが報告されたりした.

それなら対馬島征伐を断行した李宗務朝鮮水軍の訓練と全力はどうだったろうか? 征伐前当時の直接的な記録はない. 代わりに朝鮮中期の統制営水槽島で対馬島征討軍の陣容を類推して見られる. 中央には指揮船があって  地域の水軍たちが編制を成して決まった進法によってチンを形成した. 三道水軍の合同訓練だった. 各艦隊には連絡と普及を引き受けた部属船があったがムルドングイを積んだ部属船が異彩だ. 午方陣を成した艦隊は終りが尖ったような添え字型ジンヤングルル成す. こんな進法は朝鮮初期から出るのに太宗は直接漢江に出て五衛のチンを査閲したという記録がある. それなら対馬島征伐に出た 15世紀初朝鮮水軍の滲むどんなのだったろうか? 最近木浦前ダリ島の干潟では船舶一隻が発掘された. 干潟の中の滲む数百年前の原型をそのまま持っていた. 保存と復元のための処理の盛りなのに, この梨は大麻も征伐より約 1, 2世紀位先に進んだ時期に作られた船で判明された. それならこのお腹が今まで発見されたお腹の中で朝鮮初期のメングソンと一番似たり寄ったりではないか? ダリも滲む先に進んだ時期高麗のお腹に似ている構造だがいっそう発達された製作技術を見せてくれる. 配意左舷と右舷はがリョングモックという丸太で連結したが外板にはがリョングモックを挟んだ跡がある. このがリョングモックは配意構造を丈夫にさせてくれる役目をする. こんながリョングモックがあったから砲射撃ができるほどに配意構造は堅固だったのだ. ダリも滲む選手と船尾が高くて禿びて鋭くない. そしてがリョングモックで丈夫な構造を持つようになった. 外板は木針に固定されて水を含むほど堅固になった. 太宗は戦艦改良事業課進法訓練に多い関心を持った. それが対馬島征伐ができるようにしたはずだ.

1万 7千の軍事が 227尺の船舶に分けて乗った. 滲む少なくとも 60人以上がもらうことができる規模ではなければならなかった. 遠征艦隊の司令官李宗務が乗った艦船, 堅固な構造と最小 100人余りが乗った大きさの当時としては最高の戦艦だったろう. 火薬は特別な所に保管した. 湿り気防止のために炭火を使う大きな火ばちの上にシロングを上げて管理した. 底に水毒が積まれてそのウィカンには米とはったいなど 65日分の戦闘食糧があった. 体系化された動員システムと優秀な戦艦, これが倭寇の見たのよ対馬島を征伐するようにした力だった.

対馬島征伐のために朝鮮を徹底的な準備をしたし大軍を出動させる前に事前地均し作業を実施する. 釜山浦と内耳胞衣倭館を閉鎖するよ日本商人たちと倭寇(倭寇)らの間の連絡を途絶させて情報漏れを阻むための措置で 591人の 倭 人らを監禁する. また朝鮮官憲の統制に抵抗する 倭 人 21人は現場で惨殺する. すなわち, 悶着を起こす余地をつぶしてしまったのだ. そして大麻逃走(対馬島主)に朝鮮で掠奪をほしいままにした海賊たちを逮捕して送還することを要求する. 対馬島を攻撃する名分を積むためのことだ. 征伐途中国内防御対策を樹立, 争うことができる壮丁たちを皆動員して軍事要衝地に配置させる. このように朝鮮は対馬島征伐のために辞書作業を徹底的にした後いよいよ出征の旗をあげる.

巨済島を出発した朝鮮水軍は海流に乗ってただハルッぶりに大韓海峡を渡って対馬島に到着する.

李宗務が導く朝鮮水軍は先に二G-4沖合に船舶を停泊して大麻逃走(対馬島主)に降参を慫慂した. しかし大麻逃走が降参を拒否すると朝鮮水軍は上陸作戦を敢行した. 一方的な戦闘が展開されて倭寇の軍船 129尺が撃沈されたし 倭 人 120人余りが射殺されたし, 倭寇につかまっていた中国人虜 131人も救出された. 倭寇たちが島深深とスムオドルザ李宗務は新しい拠点を用意する. フンネゴッは上対馬島と下対馬島を引き継ぐ要衝地だ. 今は海埋め立てで陸地が広くなったが当時にはフンネゴッを中心に両方の海がほとんど付いてイッダシピした. それで小さなお腹は陸地に引き上げて移動したがフンネゴッは日本から来るお腹がアソマンと朝鮮に行く町角だ. こちらに李宗務は木柵を設置して対馬島海岸を封鎖してしまったのだ.

二G-4とフンネゴッを占領した後, 朝鮮征討軍はお前だな地域に上陸する. しかしここで思いがけない状況に会う. 地形に暗かった朝鮮水軍は時の待ち伏せにかかって 180人余りの戦死者を出す被害を被ったのだ. 対馬島征伐途中李宗務船団の唯一の敗北だったこの戦闘に対する日本側の記録が残っている. デズピョンニョンリャックは対馬島征伐に関する実力のない記事を残したが, ニログンの戦うことで朝鮮軍 2千名余を射殺したと書いている. 朝鮮王朝実録(朝鮮王朝実録)より 10倍以上脹らまされている. また, 当時日本本土では朝鮮の征討軍を朝鮮と明連合軍で把握していた. 150余年前の高麗, モンゴル連合軍のような場合でここはのだ.

それなら朝鮮はどうしてこの時期に対馬島征伐に出ただろうか? それは当時の対馬島の内部事情と連関がある. 当時対馬島与える小史多毛里[宗貞盛], 幼い年令でお父さん後を引き継いだ彼は対馬島倭寇たちに対する押しが弱かった. その隙間で倭寇たちの盗みはひどくなったしとうとう朝鮮朝廷は足だまり討伐を決めたのだ. 李宗務の遠征艦隊は速かに作戦を展開した. 高麗ではない朝鮮初期, 盗みを事とした倭寇. 彼らの見たのよ対馬島を完全に掌握したのだ. それは朝鮮最大遠征艦隊の完璧な鎭圧だった.

対馬島はひと目に見るにも非常に複雑な海岸線を持った島だ. しかし李宗務の遠征艦隊は帰化した 倭 人を道案内に先に立たせて海流と風に乗ってただ一日ぶりに対馬島に到着する. そして何回の交戦を経ってその誰も易しく征腹しにくかった対馬島を受け付ける. それなら朝鮮が大軍を起こして対馬島を打ったわけは何だろう? いくら倭寇掃討だっても私は兵力の 3分の 1を動員した大規模征伐前をよりによって建国初期にしたわけは何だろう? 朝鮮の対馬島征伐, ここには絶妙の外交的政治的方程式が隠れている.

倭寇の足だまりを討伐するために大規模遠征船団を派遣した朝鮮, それなら倭寇掃討という直接的な理由外に他の理由はないか? 東京大学学校史料編纂所には当時倭寇の実際を詳らかに見られる資料が一点ある. 明で製作した継ぎ紙絵がそれだ. 縦 32cm, 長さ 5. 2mの倭寇島圏, この絵は明海岸に現われて盗みを事とした倭寇を詳らかに描いている. 倭寇の出兵と航海, 上陸と盗みの全過程を非常に緻密に描いておいている. 仲間の肩の上で網を見る場面も見えて盗みした品物を移す場面, そして討伐に出た明軍事たちと熾烈な戦闘をする場面などがリアルで描かれている. こんなに絵で倭寇の弊害を警戒するほど当時明も倭寇から大きい被害を被っていたのだ. 明が力強い海封鎖政策を広げると倭寇たちは中国南にその活動範囲を広げて行った.

当時倭寇たちの極甚な盗みと活動範囲を見せてくれる現場がある. Ozakiの領主牛に住んだ所で約 500余m 離れた所で驚きべきな遺物が発見された. それは倭寇が韓半島, 中国, 東南アジア地域で盗みした陶磁器の破片たちだった. 火におかず弾跡が明らかな小銭たちも一緒に発見されたが連帯測定結果これらは李宗務の対馬島征伐時期に火に燃えたことで現われた.

それなら倭寇たちはどうして危険を冒しながら遠く東南アジアまで活動範囲を広げただろうか? それは明の政策と触れている. 明は倭寇の盗みがひどくなると力強い解禁政策, すなわち, 海を統制する政策を咲いた. 大麻も配意海岸接近禁止は勿論, 一体の事務役を禁止させた. 掠奪とともに事務役にも寄り掛かった対馬島の倭寇たちは深刻な打撃を受けた. 一年に一二度だけ許可されたギョンミョングソンによる貿易だけでは対馬島の経済を維持することができなかった. 結局物資不足に苦しんだ倭寇たちはその活動範囲を広げるしかなかったのだ. しかし解禁政策が強化されるほど倭寇たちの盗みはもっと押しを利かそうとしたしそれは明の負担になった. 遂に明は軍船 1マンチォックを動員して直接倭寇を打つという意思を朝鮮に送った. 朝鮮朝廷は緊張した. 明が倭寇討伐のために直接軍事を起こしたら高麗, モンゴル連合軍の日本遠征の時のようにおびただしい負担が後に従うことが明らかだった. それで下った結論が対馬島先制攻撃だった. 強い水軍養成と戦艦改良事業で十分な国防力を確保した朝鮮朝廷は遂に独自的に対馬島征伐に出たのだ.

対馬島上陸作戦に成功した李宗務の朝鮮水軍はフンネゴッに駐屯して木柵を設置した後長期戦を準備した. ところで大麻逃走の降参意思を受けるやいなや朝鮮水軍は突然撤兵をする. 対馬島に到着してからわずか十日ぶりに撤兵をするのだ. 徹底的な準備と最精鋭部隊の投入, 戦闘の勝利で足場確保に成功した征伐前, それなのに李宗務の朝鮮水軍はこのすべての有利な条件を捨てて撤兵をしたのだ. そのせいで李宗務の対馬島征伐は勝利をおさめた戦争なのに妙な惜しさを残したりするのだ. 対馬島側の降参を受け出した朝鮮の征討軍が撤兵を一本当の理由は果して何だろう?

その秘密は東洋最初の世界地図である混一おごのり歴代局地も(混一疆里歴代国地図)で捜してみることができる. 建国初期, 泥灰がグリーン朝鮮の八道も(八道図)と朴豚脂(朴敦之)が日本から持って来た仕事をしたのも, そして中国とアラブの地図を合して作った. この指導には朝鮮南海岸の島々が比較的詳らかに描かれているのに対馬島が一緒に描かれている. 日本人が描いた日本指導に対馬島は抜けていたのだ. 対馬島が朝鮮領土というのは日本人が作った地図にも現われる. 日本の朝鮮指導にも対馬島は朝鮮の領域に属している. 豊臣秀吉[豊臣秀吉]が朝鮮侵略のために使った指導にも対馬島は朝鮮地で描かれている. このように長年の期間対馬島は朝鮮領土という認識が日本にも広く広がっていた.

私たちが作った指導には対馬島がどんなに表現されているか? 朝鮮防疫指導に対馬島は済州島とともに韓半島を差す二つの足に認識されたりした. 初めから対馬島が慶尚道に編入された指導が普遍化された. このような対馬島の領土認識は征伐を宣布した朝鮮王朝第3代国王太宗の宣伝布告文にもよく現われている.

¥”対馬島は本来私たちの領土だった. しかし草深いすみにかたよっているので倭人たちが居住するように置いたら犬や鼠のように盗みを働いて人を殺す癖を持って京人年から暴れ狂い始めて自分勝手に殺傷して父兄を捕えて連れ行ったら孤児とやもめが海を眺めて泣く事が毎年ない時がなかった. 案外にこれからビインポに入って来て人民を殺して略奪したのがほとんど 3百が越えてお腹を燃やして私たちの商売をかきわけて将来明地境まで侵犯しようと思ったらこのどうしてひどくないとするのか.¥”

太宗も対馬島はゾソンタングなのを強調しながら倭寇たちに降参を慫慂した. 結局堪えた倭寇は降参をしたし彼ら自ら朝鮮朝廷に  帰属されるのを願った. 李宗務の艦隊は予想よりずっと速かに対馬島を圧して倭寇の降参を受けた. 以後対馬島の倭寇たちは朝鮮の政治秩序の中に編入される. 朝鮮の国王が官職を下げて倭寇統制の義務を酒庫, 代わりに貿易を承諾する. 対馬島人である被告だから(皮考理羅)に官職を下げた朝鮮国王の校誌だ. 倭寇たちに垂直(授職), すなわち官職を下げることで彼らを朝鮮の影響力の下置き始めたのだ. 以後対馬島は長い間朝鮮の影響力の下あった. 対馬島が正式で日本の領土になったことは 1868年, 明治維新(明治維新) 時であった. 対馬島征伐(対馬島征伐), それは十日間の戦闘に過ぎなかったが高麗末期から続いた 70年倭寇問題に終止符を取った遠征だった


조선 정예군의 특수작전. "대마도를 정벌하라!"

 

해동제국기(海東諸國記)의 많은 목판본 지도들 중에서 유난히 눈길을 끄는 지도가 한 장 있다. 무려 여든 두 개의 포구가 자세히 그려진 섬 지도, 그것은 천연의 요새이자 일본인(倭寇)의 본거지인 대마도(對馬島) 지도였다. 고려 말부터 조선 초까지 무려 500차례 이상 침략과 노략질을 자행한 대마도의 일본인, 마침내 조선은 대규모 원정선단을 편성하여 이들의 본거지를 토벌하러 나선다!

대마도는 부산에서 최단 거리로 49.5km, 그리고 일본의 후쿠오카에서는 134km 정도 떨어져 있다. 거리상으로는 한반도 쪽에 더 가까운 섬이다. 그 섬이 바로 삼군도체찰사 이종무(李從茂) 장군을 중심으로 한 조선 정예군이 일본인의 근거지를 정벌한 현장, 대마도인 것이다. 조선이 이곳을 공격한 첫번째 이유는 일본인들 때문이었다. 1281년 고려, 몽고 연합군의 일본 원정 이후  고려와 정상적인 무역이 막히자 대마도를 비롯한 많은 倭 人들은 물자부족에 시달린다. 그러자 이들이 무리를 지어 해적질을 하게 되는데, 이들이 바로 일본인인 것이다. 그래서 조선은 일본인의 본거지인 대마도를 치기 위해 대규모 군사를 일으킨다. 1419년 5월, 마침내 태종(太宗)은 전군에 비상 소집령을 내려 조선 수군의 주력함대를 거제의 견내량에 집결시킨다.

견내량은 거제도와 고성 통영쪽 육지 사이의 좁은 바다이다. 섬과 육지가 가장 가까운 곳은 500m 남짓된다. 육지와 섬 사이가 좁아 조류가 병목 현상을 일으키는 견내량은 대체로 물살이 급하다. 견내량 역시 지형적 특성상 물의 흐름이 빠른 곳이다. 그렇다면 대마도 정벌전(對馬島征伐戰) 당시 조선 수군은 왜 하필 이 좁고 물살이 거센 바다에 집결했을까? 거제도가 갖고 있는 조건을 살펴보면 그 이유를 알수 있다. 견내량 바깥 쪽의 지세포만은 거제도를 지키는 전초기지였다. 지도에는 성이 그려져 있다. 배를 만들던 선창마을 뒤산에는 아직도 성이 그대로 남아 있다. 길이 735미터, 높이 5미터의 지세포 성은 조선 초기부터 있었는데 지금의 것은 인조(仁祖)대에 다시 개축된 것이다. 지세포 성은 그 원형이 비교적 잘 보존되고 있어 해안산성의 특징을 잘 보여준다. 지세포 성은 견고한 구조를 갖고 있다. 동쪽 문에는 옹성을 설치하여 방어에 유리하도록 하고 있다. 지세포성은 특히 동쪽 성곽의 원형이 잘 남아 있는데 동쪽은 대마도 방향이다. 대마도의 일본인들을 막기 위해 축조한 성인 것이다. 거제도에는 모두 25개의 산성이 있다. 좁은 면적에 비해 많은 산성, 그것은 일본인와의 치열한 관련성을 말해준다.

이종무가 총지휘하는 정벌군이 견내량에 집결한 또다른 이유는 무엇일까? 그것은 견내량의 물살과 관련이 있다. 견내량은 하루에 두 번 조류에 의해 물살의 방향이 바뀐다. 썰물을 기다렸다가 그 물살을 타면 힘들이지 않고 넓은 바다로 나갈 수 있다. 그런 다음 해류를 타면 힘들이지 않고 대마도로 접근할 수 있는 것으로 알려져 있다. 지금도 견내량의 뱃길은 조류를 이용하고 있다. 북동쪽으로 일정한 방향을 지닌채 흐르는 쿠로시오 해류! 거제에서 썰물을 타고나가 북동진하는 해류를 만나면 가만히 있어도 대마도 중심에 닿을 수 있는 것이다. 견내량은 견고한 방어시설로 정벌군의 안전이 보장되었다. 그리고 조류와 해류의 흐름은 조선 수군에게 유리했다. 대마도 정벌군이 부산포 대신 견내량에 집결한 까닭이 여기 있었던 것이다.

원정함대의 총지휘관은 삼군도절제사 이종무(李從茂) 장군이 직책을 맡았으며, 좌군도절제사에는 유습(柳習), 우군도절제사에는 이지실(李智實)이 임명되어 전라도, 경기도, 충청도 지역의 수군 병력을 차출하였고 군사 1만 7천여명, 전함 227척으로 대한해협(大韓海峽)을 건너 대마도를 공격하게 된다.

좌군절제사에 임명되어 대마도 정벌에 참전했던 박초(朴礎), 그가 남긴 토헌집(土軒集)에는 당시의 수군 훈련방법과 관련하여 임금에게 올린 상소문이 있다. 상소문은 그의 오랜 수군 생활에서 나온 경험을 토대로 씌여졌다. 전함은 부식 방지를 위해 훈연한 목재를 사용할 것을 권장하고, 수군의 훈련을 강조했으며, 다양한 진법 익히기와 활쏘기 등 개인 전투 능력을 향상하기 위한 방안들이 담겨있다. 태종(太宗) 세종(世宗) 연간에는 유난히 수군 훈련에 대한 상소가 많았다. 병선에 쓰이는 화통이 모자라니 주철을 녹여 만들자는 주장이 제기되기도 했고, 습기에 민감한 화약을 배 위에서 잘 보관하는 방법 등이 보고되기도 했다.

그렇다면 대마도 정벌을 단행한 이종무 조선 수군의 훈련과 전력은 어땠을까? 정벌전 당시의 직접적인 기록은 없다. 대신 조선 중기의 통제영 수조도에서 대마도 정벌군의 진용을 유추해 볼 수 있다. 중앙에는 지휘선이 있고  지역의 수군들이 편제를 이루어 정해진 진법에 따라 진을 형성했다. 삼도수군의 합동훈련이었다. 각 함대에는 연락과 보급을 맡은 부속선이 있었는데 물동이를 실은 부속선이 이채롭다. 오방진을 이룬 함대는 끝이 뾰족한 첨자형 진영를 이룬다. 이런 진법은 조선 초기부터 나오는데 태종은 직접 한강에 나가 오위의 진을 사열했다는 기록이 있다. 그렇다면 대마도 정벌에 나선 15세기 초 조선 수군의 배는 어떤 것이었을까? 최근 목포 앞 달리도의 갯벌에서는 선박 한척이 발굴되었다. 갯벌 속의 배는 수백년 전의 원형을 그대로 갖고 있었다. 보존과 복원을 위한 처리가 한창인데, 이 배는 대마도 정벌보다 약 1, 2세기 정도 앞선 시기에 만들어진 배로 판명되었다. 그렇다면 이 배가 지금까지 발견된 배 중에서 조선 초기의 맹선과 가장 유사하지 않을까? 달리도 배는 앞선 시기 고려의 배와 비슷한 구조이지만 한층 발달된 제작 기술을 보여준다. 배의 좌현과 우현은 가룡목이라는 통나무로 연결했는데 외판에는 가룡목을 끼웠던 흔적이 있다. 이 가룡목은 배의 구조를 튼튼하게 해주는 역할을 한다. 이런 가룡목이 있었기 때문에 포사격을 할 수 있을 정도로 배의 구조는 견고했던 것이다. 달리도 배는 선수와 선미가 높고 뭉툭하다. 그리고 가룡목으로 튼튼한 구조를 갖게 되었다. 외판은 나무못으로 고정되어 물을 머금을수록 견고해 졌다. 태종은 전함 개량 사업과 진법 훈련에 많은 관심을 가졌다. 그것이 대마도 정벌을 가능하게 했을 것이다.

1만 7천의 군사가 227척의 선박에 나누어 탔다. 배는 적어도 60명 이상이 탈 수 있는 규모여야 했다. 원정함대의 사령관 이종무가 탔던 함선, 견고한 구조와 최소 100여명이 탔던 크기의 당시로서는 최고의 전함이었을 것이다. 화약은 특별한 곳에 보관했다. 습기 방지를 위해 화덕 위에 시렁을 얹어 관리했다. 바닥에 물 독이 실리고 그 위칸엔 쌀과 미숫가루 등 65일분의 전투 식량이 있었다. 체계화된 동원시스템과 우수한 전함, 이것이 일본인의 본거지 대마도를 정벌하게 한 힘이었다.

대마도 정벌을 위해 조선을 철저한 준비를 했고 대군을 출동시키기 전에 사전 정지 작업을 실시한다. 부산포와 내이포의 왜관을 폐쇄하여 일본 상인들과 일본인(倭寇)들 간의 연락을 두절시키고 정보누출을 막기위한 조치로 591명의 倭 人들을 감금한다. 또한 조선 관헌의 통제에 저항하는 倭 人 21명은 현장에서 참살한다. 즉, 말썽을 일으킬 여지를 없애버린 것이다. 그리고 대마도주(對馬島主)에게 조선에서 약탈을 자행한 해적들을 체포해서 송환할 것을 요구한다. 대마도를 공격하는 명분을 쌓기 위한 것이다. 정벌 도중 국내방어 대책을 수립, 싸울 수 있는 장정들을 모두 동원하여 군사요충지에 배치시킨다. 이처럼 조선은 대마도 정벌을 위해 사전 작업을 철저히 한 후 드디어 출정의 깃발을 올린다.

거제도를 출발한 조선 수군은 해류를 타고 단 하룻만에 대한해협을 건너 대마도에 도착한다.

이종무가 이끄는 조선 수군은 먼저 두지포 앞바다에 선박을 정박하고 대마도주(對馬島主)에게 항복을 종용했다. 그러나 대마도주가 항복을 거부하자 조선 수군은 상륙작전을 감행했다. 일방적인 전투가 전개되어 일본인의 군선 129척이 격침되었고 倭 人 120여명이 사살됐으며, 일본인에게 붙잡혀 있던 중국인 포로 131명도 구출되었다. 일본인들이 섬 깊숙이 숨어들자 이종무는 새로운 거점을 마련한다. 훈내곶은 상 대마도와 하 대마도를 잇는 요충지이다. 지금은 바다 매립으로 육지가 넓어졌지만 당시에는 훈내곶을 중심으로 양쪽의 바다가 거의 붙어 있다시피 했다. 그래서 작은 배는 육지로 끌어 올려 이동했는데 훈내곶은 일본에서 오는 배가 아소만과 조선으로 가는 길목이다. 이곳에 이종무는 목책을 설치하고 대마도 해안을 봉쇄해 버렸던 것이다.

두지포와 훈내곶을 점령한 다음, 조선 정벌군은 니로군 지역에 상륙한다. 그러나 여기에서 뜻밖의 상황을 만난다. 지형에 어두웠던 조선 수군은 적의 매복에 걸려 180여명의 전사자를 내는 피해를 입은 것이다. 대마도 정벌 도중 이종무 선단의 유일한 패배였던 이 전투에 대한 일본 측의 기록이 남아 있다. 대주편년략은 대마도 정벌에 관한 짧은 기사를 남겼는데, 니로군의 싸움에서 조선군 2천여명을 사살했다고 적고 있다. 조선왕조실록(朝鮮王朝實錄)보다 10배 이상 부풀려져 있다. 또한, 당시 일본 본토에서는 조선의 정벌군을 조선과 명나라 연합군으로 파악하고 있었다. 150여년전의 고려, 몽고 연합군과 같은 경우로 여긴 것이다.

그렇다면 조선은 왜 이 시기에 대마도 정벌에 나섰을까? 그것은 당시의 대마도의 내부사정과 연관이 있다. 당시 대마도주는 소사다모리[宗貞盛], 어린 나이로 아버지 뒤를 이은 그는 대마도 일본인들에 대한 통제력이 약했다. 그 틈새로 일본인들의 노략질은 심해졌고 급기야 조선 조정은 근거지 토벌을 결정했던 것이다. 이종무의 원정함대는 신속하게 작전을 전개했다. 고려 말기 조선 초기, 노략질을 일삼던 일본인. 그들의 본거지 대마도를 완전히 장악한 것이다. 그것은 조선 최대 원정함대의 완벽한 진압이었다.

대마도는 한눈에 보기에도 매우 복잡한 해안선을 가진 섬이다. 그러나 이종무의 원정함대는 귀화한 倭 人을 길잡이로 앞세워 해류와 바람을 타고 단 하루만에 대마도에 도착한다. 그리고 몇차례의 교전을 거쳐 그 누구도 쉽게 정복하기 힘들었던 대마도를 접수한다. 그렇다면 조선이 대군을 일으켜 대마도를 친 까닭은 무엇일까? 아무리 일본인 소탕이라지만 전 병력의 3분의 1을 동원한 대규모 정벌전을 하필 건국 초기에 벌인 까닭은 무엇일까? 조선의 대마도 정벌, 여기에는 절묘한 외교적 정치적 방정식이 숨어 있다.

일본인의 근거지를 토벌하기 위해 대규모 원정선단을 파견한 조선, 그렇다면 일본인 소탕이라는 직접적인 이유 외에 다른 이유는 없을까? 도쿄대학교 사료편찬소에는 당시 일본인의 실상을 자세히 볼 수 있는 자료가 한 점 있다. 명나라에서 제작한 두루마리 그림이 그것이다. 세로 32cm, 길이 5. 2m의 일본인도권, 이 그림은 명나라 해안에 나타나 노략질을 일삼던 일본인를 자세히 묘사하고 있다. 일본인의 출병과 항해, 상륙과 노략질의 전 과정을 매우 치밀하게 그려놓고 있다. 동료의 어깨 위에서 망을 보는 장면도 보이고 노략질한 물건을 옮기는 장면, 그리고 토벌에 나선 명나라 군사들과 치열한 전투를 벌이는 장면 등이 사실적으로 그려져 있다. 이렇게 그림으로 일본인의 폐해를 경계할 만큼 당시 명나라도 일본인로부터 큰 피해를 입고 있었던 것이다. 명나라가 강력한 바다 봉쇄 정책을 펴자 일본인들은 중국 남쪽으로 그 활동범위를 넓혀갔다.

당시 일본인들의 극심한 노략질과 활동 범위를 보여주는 현장이 있다. 오자끼의 영주 소다가 살던 곳에서 약 500여m 떨어진 곳에서 깜짝 놀랄만한 유물이 발견되었다. 그것은 일본인가 한반도, 중국, 동남아시아 지역에서 노략질한 도자기의 파편들이었다. 불에 찬 탄 흔적이 뚜렷한 동전들도 함께 발견되었는데 연대측정 결과 이들은 이종무의 대마도 정벌 시기에 불에 탄 것으로 드러났다.

그렇다면 일본인들은 왜 위험을 무릅쓰면서 멀리 동남아시아까지 활동 범위를 넓혔을까? 그것은 명나라의 정책과 닿아 있다. 명나라는 일본인의 노략질이 심해지자 강력한 해금정책, 즉, 바다를 통제하는 정책을 폈다. 대마도 배의 해안 접근 금지는 물론, 일체의 사무역을 금지시켰다. 약탈과 함께 사무역에도 의존하던 대마도의 일본인들은 심각한 타격을 입었다. 일년에 한 두차례만 허가되던 견명선에 의한 무역만으로는 대마도의 경제를 유지할 수 없었다. 결국 물자 부족에 시달린 일본인들은 그 활동 범위를 넓힐 수 밖에 없었던 것이다. 그러나 해금정책이 강화될수록 일본인들의 노략질은 더욱 극성을 부렸고 그것은 명나라의 부담이 되었다. 마침내 명나라는 군선 1만척을 동원하여 직접 일본인를 치겠다는 의사를 조선에 보내왔다. 조선 조정은 긴장했다. 명나라가 일본인 토벌을 위해 직접 군사를 일으킨다면 고려, 몽고 연합군의 일본원정 때처럼 엄청난 부담이 뒤따를 것이 분명했다. 그래서 내린 결론이 대마도 선제공격이었다. 강한 수군양성과 전함 개량사업으로 충분한 국방력을 확보했던 조선 조정은 마침내 독자적으로 대마도 정벌에 나섰던 것이다.

대마도 상륙작전에 성공한 이종무의 조선 수군은 훈내곶에 주둔하고 목책을 설치한 뒤 장기전을 준비했다. 그런데 대마도주의 항복 의사를 받자마자 조선 수군은 돌연 철군을 한다. 대마도에 도착한지 고작 열흘만에 철군을 하는 것이다. 철저한 준비와 최정예 부대의 투입, 전투의 승리로 교두보 확보에 성공한 정벌전, 그런데도 이종무의 조선 수군은 이 모든 유리한 조건을 버리고 철군을 했던 것이다. 그 바람에 이종무의 대마도 정벌은 승리를 거둔 전쟁인데도 묘한 아쉬움을 남기기도 하는 것이다. 대마도 측의 항복을 받아낸 조선의 정벌군이 철군을 한 진짜 이유는 과연 무엇일까?

그 비밀은 동양 최초의 세계지도인 혼일강리역대국지도(混一疆里歷代國地圖)에서 찾아볼 수 있다. 건국 초기, 이회가 그린 조선의 팔도도(八道圖)와 박돈지(朴敦之)가 일본에서 가져온 일본 지도, 그리고 중국과 아랍의 지도를 합쳐 만들었다. 이 지도에는 조선 남해안의 섬들이 비교적 자세히 그려져 있는데 대마도가 함께 그려져 있다. 일본인이 그린 일본 지도에 대마도는 빠져 있었던 것이다. 대마도가 조선 영토라는 것은 일본인이 만든 지도에도 나타난다. 일본의 조선 지도에도 대마도는 조선의 영역에 속해 있다. 도요토미 히데요시[豊臣秀吉]가 조선 침략을 위해 사용한 지도에도 대마도는 조선 땅으로 그려져 있다. 이처럼 오랜 기간 대마도는 조선 영토라는 인식이 일본에도 넓게 퍼져 있었다.

우리가 만든 지도엔 대마도가 어떻게 표현돼 있을까? 조선방역지도에 대마도는 제주도와 함께 한반도를 받치는 두 다리로 인식되기도 했다. 아예 대마도가 경상도로 편입된 지도가 보편화되었다. 이러한 대마도의 영토 인식은 정벌을 선포한 조선왕조 제3대 국왕 태종의 선전포고문에도 잘 나타나 있다.

"대마도는 본래 우리의 영토였다. 그러나 궁벽한 구석에 치우쳐 있으므로 왜인들이 거주하게 두었더니 개나 쥐처럼 도둑질하고 사람을 죽이는 버릇을 가지고 경인년부터 날뛰기 시작하여 제멋대로 살상하고 부형을 잡아가니 고아와 과부가 바다를 바라보고 우는 일이 해마다 없는 때가 없었다. 뜻밖에 이제 비인포에 들어와서 인민을 죽이고 노략한 것이 거의 3백이 넘고 배를 불사르며 우리의 장사를 헤치고 장차 명나라 지경까지 침범하려고 하니 이 어찌 심하지 아니하다고 하겠는가."

태종 역시 대마도는 조선땅임을 강조하면서 일본인들에게 항복을 종용했다. 결국 버티던 일본인는 항복을 했고 그들 스스로 조선 조정에  귀속되기를 원했다. 이종무의 함대는 예상보다 훨씬 신속하게 대마도를 제압하고 일본인의 항복을 받았다. 이후 대마도의 일본인들은 조선의 정치질서 속으로 편입된다. 조선의 국왕이 관직을 내려 일본인 통제의 의무를 주고, 대신 무역을 허락한다. 대마도 사람인 피고이라(皮考理羅)에게 벼슬을 내린 조선 국왕의 교지이다. 일본인들에게 수직(授職), 즉 벼슬을 내림으로써 그들을 조선의 영향력 아래 두기 시작한 것이다. 이후 대마도는 오랜기간 조선의 영향력 아래 있었다. 대마도가 정식으로 일본의 영토가 된 것은 1868년, 명치유신(明治維新) 때였다. 대마도 정벌(對馬島征伐), 그것은 열흘 간의 전투에 불과했지만 고려 말기부터 계속된 70년 일본인 문제에 종지부를 찍은 원정이었다



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