伝統文化

KJCLUBでもお馴染みのIDが多くなりましたね。しかし、テキスト板はだいぶ賑わってきた様ですが、こちらはまだまだ投稿が少ないようです。

今回もEnjoyで投稿したネタの焼き直しですが、「井戸茶碗」について投稿します。16〜18世紀にかけての名品が数多く残っていますが、元々は朝鮮の雑器・下手物であったため、かつてのEnjoy青組などは「犬茶碗」などと揶揄して嗤っております。千利休が集大成した侘茶の風情に適う物として日本人の感性に嵌りましたが、むしろ青組の反応の方が普通なのかもしれません。技巧を凝らし、均整の取れた青磁や白磁の方が分かりやすいでしょうし、世界的に見ても普通の感覚だと思います。
まぁ難しい御託は置いておいて、井戸の名品をご鑑賞あれ。

 

◆大井戸
大井戸茶碗は、別に名物手井戸、あるいは本手井戸とも呼ばれ、のびのびとした、こだわりのない形である。口径はおよそ15cm前後の丈高の碗形で、高台が竹の節のようになっている竹節高台、高台脇の力強い削りあと、胴に巡らされた轆轤目、見込みの茶溜まり、枇杷色の釉膚、高台付近の梅華皮などが見所とされている。しかしこれらの条件を全て備えた茶碗は少なく、「喜左衛門」「筒井筒」「細川」「有楽」「美濃」「本阿弥」「蓬莱」「越後」などが名碗中の名碗と評されている。

 

・喜左衛門
高麗茶碗の中で唯一国宝に列せられる名碗である。茶道史上最大の茶器蒐集家であった松平不昧公の手になる『雲州蔵帳』に記された「天下三井戸」の一つである。典型的な大井戸の作風を示す名器として知られるが、一方で不吉な茶器としての伝説がある。
もともと大阪の豪商・竹田喜左衛門が所持していたものであるが、喜左衛門は事業に失敗し乞食のような境遇で死んでいった。この井戸茶碗を売れば大金が手にはいるのにそれをせず、大事に袋に入れて首からぶら下げていたという。その後、この井戸茶碗を所持した者は首の腫れ物に悩まされたといい、江戸後期、松江藩主・松平不昧公がこの井戸茶碗を手に入れた際にも首に腫れ物が出来てしまった。この井戸茶碗を首からぶら下げていた喜左衛門の呪いであろうか?不昧の妻は茶碗を手放すよう夫を説得したが、不昧は聞き入れなかった。運良く不昧の腫れ物は直ったが、次代の松平月箪¥の首にも腫れ物が出た為、不昧の妻はその呪いを抑える為、京都大徳寺にこの井戸茶碗を納めたという。

 

 

・細川
千利休に茶の湯を学んだ細川三斎忠興が所持したことからこの銘がある。忠興の実父は「古今伝授継承者」として当代随一の風流人と称された細川幽斎藤孝である。「天下三井戸」の一つで重要文化財指定。
どことなく凄みを感じる「喜左衛門」と異なり、おおらかな作振りの茶碗である。高台脇の削り込みが深くなく、高台際から口作りにかけてゆったりとした椀形に立ち上がっている。しかし高台周りの梅華皮(カイラギ)は荒く鮮やかに表¥れ、茶碗の景色に変化をもたらせている。

 

 

・加賀
もと、加賀・前田家に伝えられたことからこの銘がある。一名を「獅子」と言われるが、茶碗の無上絶品の様を謡曲の「実にも上なき獅子王の勢」に因んだものという。「天下三井戸」の一つである。
総体に青みを帯びた地釉中に、赤または白釉が打ち混ざる景色が何とも素晴らしく、内外に濃い鼠色の染みが群雲のように現れ、内部の赤溜はきりりと捻って巴状をなし、作域は非常に精巧である。外側の胴廻りには幅の広い轆轤目がある。竪樋が大小五、六本見られるものの、大井戸茶碗としてはむしろ瑕疵の少ない方であろう。

 

 

・筒井筒
先の「喜左衛門」と共に、大井戸の双璧と謳われる名器である。重要文化財指定。
元々は戦国武将の筒井順慶が所持していたことからこの銘がある。その後、順慶から豊臣秀吉に贈られ秘蔵されていたが、ある日、近習の小姓が誤って取り落とし、5つに割ってしまった。激怒した秀吉が小姓を手討にしようとしたところ、たまたま居合わせた細川幽斎藤孝が、「筒井筒 五つに割れし井戸茶碗 咎をば我に負ひしけらしな」と即興で詩を詠んだので、秀吉の勘気が解けたという逸話が残っている。山上宗二が「天下一」と称した井戸茶碗がこの筒井筒ではないかと見られている。
五つに割れた碗を漆で接いで補修してあるが、かえって趣のある景色として賞美されるようになった。

 

 

・越後
こちらも重要文化財に指定されている。内箱蓋表¥に「越後殿」と墨書されていることからこの銘がある。「越後殿」とはいかなる人物かは知られていないが、豪商三井家初代の高利の祖父・高安は越後守を名乗り、またその子高俊は「越後殿の酒屋」と呼ばれていたことから、それと関連付ける説がある。
碗をほぼ真っ二つにしている大きな割れを繕った痕が残るが、むしろ歴史の深みを感じさせる景色といえよう。碗の内外に轆轤(ロクロ)目が鋭く立っており、引き締まった姿の、堂々たる名碗である。この越後の竹節高台の様は、井戸茶碗のなかでも一際見事なものである。

 

 

・金地院
もと京都南禅寺塔頭の金地院の什物であったとの伝承からこの銘がある。重要美術品。
先の「越後」よりも大振りな造りであるが、むしろおとなしく優美な作域である。全体に細かな貫入が走る淡い枇杷色の釉は胴の一方で流れ、所々に赤身の斑文が表¥れている。高台脇はかっきりと削られ、小さく引き締まった高台は竹節状で大粒の梅華皮が見られる。

 

 

・有楽
織田信長の弟・織田有楽斎が所持していたことからこの銘がある。「天下五作」に挙げられる名碗で重要美術品。
まことにはんなりとした優美な大井戸で、ゆるりとした曲線美はいかにも女性的であり、赤みを含んだ枇杷色の釉薬もしめやかである。高台際の梅華皮も整っておとなしい。豪放な喜左衛門井戸とは対照的な作風を示している。

 

 

・大高麗
深々としたこだわりのない形は無類である。釉調も明るい枇杷色で、高台付近の梅華皮は控え目でありながら力が漲っている。元々は三好長慶の弟である安宅冬康が所持していたものだが、徳川家康の手に渡り、家康の遺産「駿府御分物」として尾張徳川家に伝えられた名器である。一時、荒木村重の所持するところであったことから「荒木高麗」とも呼ばれる。(※唐草文染付茶碗の「荒木高麗」とは別物である。)
明らかに大井戸に属するものであるが、古来より「大高麗」と称されてきた。茶会記に井戸茶碗の名が初めて表¥れるのは、天正六年一〇月二五日の「ヤふの内(藪内)宗和」の茶会で、以降、慶長三年までの主要な茶会で使用された井戸茶碗は10碗前後と非常に数が限られている。いわゆる「井戸手」の茶碗も古くは「高麗茶碗」で一括されていたようであるが、天正六年以降になってある種の「井戸手」の茶碗を「井戸」として区別するようになったと考えられる。「井戸茶碗」の名の起こりを考える上で、興味深い示唆を与えてくれる一碗である。

 

 

・荒木高麗
荒木摂津守村重が所持していたことからこの銘がある。一見、安南茶碗のように見えるが、釉が柔らかく、特に内部に白釉なだれがあるのが高麗茶碗の特色である。
もと千利休が所持し、荒木村重を経て尾張徳川家に伝わった。

※この茶碗は「井戸」ではありません。先の「大高麗」の項で述べている唐草文染付茶碗の「荒木高麗」がこの茶碗です。ご参考までに。

 

 

・美濃
もともとの所有者は不明である。大正6年(1917)の赤星家の入札で、団琢磨が20万円で購入した。
釉肌が枇杷色で綺麗である。緑がかかった釉の部分が見事な景色になっている。高台が高く、堂々としている。高台の梅華皮が見事である。

 

 

・坂本
元々は、明智光秀の所持するところだったことから、その居城・坂本城にちなんでこの銘がつけられたという。轆轤目が鋭く立ち、堂々として力強く、いかにも井戸らしい茶碗といえよう。碗の割れ目を金で繕っており、素朴な井戸茶碗の中にあって、ある種の華やぎが景色にある。
光秀の子左馬介より秀吉に献上された62種の道具の一つと伝えられている。その後、幾たびか所有者が代わっているが、野村財閥の創業者・野村得庵翁が前田利為公を招いてこの茶碗で茶を振る舞ったとき、そのつなぎ目がはずれてしまったが、主客ともにいささかも動じなかったという逸話が残されている。

 

 

 

・野分
轆轤目、高台脇の切り回し、高台の竹の節などすべてが顕著で、梅華皮はおとなしいがはっきりとしている。内面の批杷色の釉が美しい。茶溜りは小深く、それをめぐって白雲のような目痕が五つ見られる。高台は高く、胴には轆轤目が立ち、正面口の辺りに大きな割れがあり、金で繕っているが大井戸の風格は充分である。
「野分」の名称は、小堀遠州の二男、篷雪によって三重の内箱の甲に金粉書きされ、さらに墨書の原本が添えられている。

 

 

・蓬莱
神仙の住まう蓬莱島の松樹が鬱蒼としているのを、その釉色に連想してこの銘が付けられたのであろう。その色合いから青井戸に数えられることもある碗である。一名「武野井戸」とも称し、武野紹鴎が愛用した。
全面に轆轤目が強く巡り、高台辺は切りまわしも立ち、竹の節が鮮明である。枇杷色も格段に美しく、青みをおびたところもあり、上釉も厚く艶高くかかり、その景色がまた蓬莱山とも結びつくのであろう。梅華皮は腰から高台へかけてさまざまな変化を見せながら表¥れ、高台内も全面を覆っている。高台内中央には兜巾が鮮明である。

 

 

・松永
信長と並ぶ戦国の異端児・松永弾正久秀の所持と言われている。釉色は若干白味がかっているが、外部底廻りの梅華皮が見事な逸品である。
万治年間以前から鴻池家所蔵であるが、それ以前の伝来は不詳であり、松永久秀の由来も不明である。

 

 

・宗及
千利休、今井宗久とともに「茶湯の三大宗匠」と称せられた津田宗及の所持である。
神尾備前守に伝わり、のち根津嘉一郎家に入った。

 

 

・八文字
京都の豪商・八文字屋所持であったことからこの銘がある。のち鴻池家に伝わった。

八文字屋疋田栄甫と言えば、天下の三肩衝「初花」を織田信長に召し上げられてしまった気の毒な人物である。

 

 


・三芳埜

 

 

◆小井戸
小井戸は古井戸とも書かれるが、古いと言うよりは大井戸に比べて小振りところから付けられた名称であろう。素地、釉調、釉色など、その作振りは大井戸と似ているものもあるが、形が小さく締まって大井戸のような量感は見られない。しかしそこには大井戸には伺えない、よりいっそうの侘びた佇まいが感じられる。

 

・老僧
古来、小井戸茶碗中の最高のものとされる。古田織部の命銘で、内箱蓋表¥に自ら「老僧 御茶椀」と墨書している。時代は古く、梅華皮の脱落したところがあり、その老い寂びた風情から「老僧」と銘された。この茶碗を前にすると、まるで悟得した老僧と対面しているような心持ちとなる。
高台が割合に大きく、頑丈な造りが特徴の碗である。大井戸なみの高さや口径がありながら小井戸とされるのは、その造形が小井戸の形式をとっていること、また高台が大きくがっしりしているので、かえって全体を小ぶりに見せているためと思われる。

 

 

・小塩
茶器収集家の大家・松平不昧公愛蔵の茶碗である。不昧公は「天下三井戸」を始めとして、他にも大井戸、小井戸を多数所持していたが、彼が最もよく使ったのがこの「小塩」である。不昧公は優雅で綺麗なものが好みであり、「小塩」はそうした趣好に適ったものといえる。大井戸の美を知りながらも、自己の好みは好みとして確立しているところは、いかにも風流大名らしい風格が感じられる。

 

 

・六地蔵
小堀遠州がかつて山城・伏見在番の時に六地蔵の道具屋でこれを見出し、以後代々小堀家に秘蔵されたことからこの銘がある。慶応3年(1867)谷松屋弥七が金3500両でこれを購入。ところがこの茶碗で当時の河原者(芝居役者)が茶を喫したと評判を落とし、翌年、加賀の福久屋瓢斎に譲られた。

 

 

・宇治
「六地蔵」と並び称される小井戸の名碗である。織田有楽斎の所持と伝わる。「宇治」の銘は、謡曲「頼政」の一節「げにや遠国にて聞き及びにし宇治の里、山の姿、川の流れ、をちの里、橋の景色、見所多き名所かな」に因み、見所の多さから有楽斎が銘したと伝えられる。

 

 

・利休
千利休の所持と伝わる。のち松平備前守正信の所蔵となり、寛文10年(1670)に徳川将軍家に献じられた。

 

 


・楽天

加賀能¥久家から能¥登国主畠山氏の後裔・畠山即翁へと伝来した小井戸茶碗である。轆轤目が鋭く立ち、梅華皮も力強い。割目を繕った金と相まって、小振りながらも変化に富んだ景色が楽しめる碗である。

 

 

・忘水
忘水とは人目に触れぬ所を絶え絶えに流れる水のことである。茶碗のうち寂びた様を忘水になぞらえて名付けられたと思われる。
もとは小堀遠州の所持であったが、土屋相模守、松平伊賀守、東京・赤星家、坂本金弥を経て根津嘉一郎家に伝わった。

 

 

◆青井戸
青井戸とは、釉色が枇杷色ではなく、青みを帯びていることから起こった名称であると言われているが、青井戸の中には小井戸とほとんど釉調の同じ物がありその区別は難しい、韓国の研究家の間では、青井戸と小井戸の区別を付けない傾向が強くある。また、雑器ではなく祭器であったとする説もある。
一般に青井戸は小井戸に比べて扁平な形で、釉色よりもむしろ形によって分類され、その釉色が青みを帯びているものが比較的多かったことから付けられた名称であろう。

 

・柴田
かつて柴田勝家が所持していたことからこの銘がある。青井戸茶碗第一の名碗として声価が高い。
青井戸といわれるものの、この「柴田」の釉膚はさほど青みの深いものではなく、大井戸とほとんど変わらない。この碗が青井戸に分類されているのは、釉の色調よりもその形態に特徴があるからであろう。大井戸に比べて高台がやや低く、高台脇から数段の轆轤目を巡らせながら、ほぼ直線的に開いている。青井戸に見られる形姿の典型を示しており、茶碗としてのまとまりの良さも高麗茶碗中屈指の物である。総体の厚み、高さと口径の均衡の良さ、釉の適度な厚み、そしてその釉膚の柔らかさと梅華皮の味わいなど全く申¥し分のない名器である。

 

 

・春日野
草色の青味わたった麗らかな春日野を偲ばせる景色からこの銘が付けられたのだろう。大きさも頃合い良く、作行の優れた茶碗である。「茶会漫録」によれば、「瀬尾」「竹屋」とともに青井戸三名物と称されたという。
もと加賀・松岡松生庵旧蔵。明治31年(1898)の豊公三百年祭大茶湯のおりに大徳寺真珠庵で使用され、その後益田家に伝わった。

 

 

・竹屋
もともとは、京都の道具商・竹屋忠兵衛の所持であったことからこの銘が付けられたが、現在は「何陋」の銘で知られる。「論語」の「子、九夷に居らんと欲す。或るひと曰く、陋しきことこれれを如何せん。子曰く、君子これに居らば、何の陋しきことかこれあらん」の故事に因むという。
景色が多く、瑕疵の少ない絶品で、青井戸三名物の一つ。竹屋家代々の愛蔵であったが、後に朱座尾本に譲られ、同家から「何陋」と命銘された。

 

 

・落葉
青井戸の名に相応しく、深い青味を持った釉膚が特徴的である。そのいかにも侘びた肌合いから「落葉」の銘が付けられたという。
青釉中の所々に白釉の溜まりをみせ、轆轤目は腰のあたりで強く立っている。このあたりに白釉の溜まりがあり、梅華皮は薄めであるがその溜まりがこれを補っている。高台の竹節は食い違いとなり、高台内に兜巾が立つ。見込みは深く広く、このあたりにも梅華皮がみられる。割目を繕った金が、あたかも落葉の葉脈のように見える味わい深い茶碗である。

 

 

・雲井
銘は「千載集」雑上権中納言実宗の歌「播磨がた須磨の晴間に見渡せば波は雲居のものにぞありける」から採られたものであるという。総体青釉の上に白釉が浮かび出た風情からこの銘をよんだものであろう。
青井戸の特徴である荒い轆轤が巡り、高台の竹節も鮮明で、周辺および高台内の梅華皮がみごとである。見込みの景色も面白く、青色と枇杷色が半々に分かれ、見込みの目跡四つ、そしてそのそばに白い飛釉二つが景色となっている。

 

 

・緑毛
利休愛用の茶碗である。利休七哲の一人、細川三斎忠興が創建した細川家の菩提寺・高桐院に伝わる。緩やかな曲線を持つ碗形と割高台が、井戸には珍しい造形美を形作っている。

 

 

・隼
小型の茶碗ですこぶる気の利いたものなので「隼」と命銘されたのであろう。益田家の旧蔵であるが、その後の伝来は不明。現在は藤田美術館に収蔵されている。

 

 

・久田
京都の久田宗全家の伝来である。天明(1781-9)の頃、久田家は火災に遭い、尾張・大野村の浜島家に救われたという。この恩を謝し、同家にこれを譲った。のち内海屋良松、八木平兵衛を経て森本善七家に伝わった。

 

 

・蓬壷
その釉色を深山の鬱蒼とした景色に見立ててこの銘が付けられた。蓬壷とは、神仙の住まう山であるという。白楽天の詩に「何必蓬壷峰」とあるのがそれであろう。
もと京都の道具商・松岡嘉兵衛の所持で、大阪・藤田彦三郎家に伝わった。

 

 

・宝樹庵
もと尾張・犬山にあり、京都の道具商・樽屋を経て、大阪の道具商・勝兵衛(号・宝樹庵)に伝わったことからこの銘がある。明治初年に加賀・松岡忠良家に移った。

 

 

・升屋
酒井の豪商・升屋所持であったことからこの銘がある。
後に加賀能¥久家、同石黒家を経て三井高保家に伝わった。

 

 

◆井戸脇
井戸脇と小貫入は、ともに井戸の傍系にあたるものである。井戸脇は「井戸ではないが井戸の脇に位するべきもの」という意味であろう。井戸茶碗の条件の幾つかを欠くものの、全体の雰囲気は井戸に近いものをもつ。

 

・長崎
もと京都の医師・長崎昌斎の所持であることからこの銘がある。のち大阪・平瀬家に伝来した。

 

 


・松島

 

 

◆小貫入
「小貫入」は、小ひび手井戸、あるいは井戸小貫入などとも呼ばれる。釉がかりが薄く、貫入が細かく入っていることから起こった名称と思われる。必ずしも井戸茶碗に近い物ではなく、窯も井戸茶碗とは別であると考えられている。

 

・雄蔵山
紅葉の名所・小倉山の変字を銘としている。これは茶碗の赤釉・青釉を紅葉の色に見立てたものであろう。

 

・無銘

 

 

朝鮮の文物の中で、日本人に最も評価されているのが「井戸茶碗」ではないでしょうか?しかし残念ながら韓国ではいまだに「犬茶碗」と蔑む人も多く、本格的な研究も近年になって始められた状態です。

ですが考えてみると、日本の浮世絵も輸出物の陶磁器の包装紙として使われていた物がヨーロッパで大評判になり、日本国内でも再評価されたということがあります。身近な雑器に評価が付かなかったことも仕方ないのかも知れませんね。

現代の韓国では、名だたる作家が試行錯誤を繰り返して「現代井戸茶碗」を造っています。どちらがどうとは言いませんが、これも時代の変化だなぁと感じた次第です。


고려의 밥공기의 하나

KJCLUB에서도 친숙한 ID가 많아졌어요.그러나, 텍스트판은 많이 활기차 온 같습니다만, 이쪽은 아직도 투고가 적은 것 같습니다.

이번도 Enjoy로 투고한 재료의 재탕입니다만,「고려의 밥공기의 하나」에 대해 투고합니다.16~18 세기에 걸친 명품이 많이 남아 있습니다만, 원래는 조선의 잡기·별난것이었기 때문에, 한 때의 Enjoy청조 등은「개밥공기」등과 야유하고 치는 내립니다.센리큐우가 집대성 한 차다의 풍치에 필적하는 것으로서 일본인의 감성에 감했지만, 오히려 청조의 반응이 보통인지도 모릅니다.기교를 집중시켜, 균정을 잡힌 청자나 백자가 알기 쉬울 것입니다 해, 세계적으로 봐도 보통 감각이라고 생각합니다.
아무튼 어려운 주장은 놓아두고, 우물의 명품을 감상 어.

 

◆오이도
오이도 밥공기는, 별로 명물손우물, 혹은 묘수 우물이라고도 불려 느긋하게 한, 조건이 없는 형태이다.구경은 대략 15 cm전후의 장고의 완형으로, 돈대가 대나무의 마디와 같이 되어 있는 죽절 타카다이, 타카다이겨드랑이의 강력한 깎기 그리고, 몸통에 순등 된 녹노목, 전망의 차 모여, 비파색의 유부, 돈대 부근의 매화피등이 볼만한 곳으로 되어 있다.그러나 이러한 조건을 모두 갖춘 밥공기는 적고, 「키자에몬」 「관우물의 안벽」 「호소카와」 「유라쿠」 「미노」 「혼나미」 「호라이」 「에치고」등이 명완중의 명완과 평 되고 있다.

 

·키자에몬
고려 밥공기 중(안)에서 유일 국보에 열 다투어지는 명완이다.다도 사상 최대의 찻그릇 수집가인 마쓰다이라 후마이공의 손이 되는 「운슈장장」에 기록된「천하 미츠이문」의 하나이다.전형적인 오이도의 작풍을 나타내는 명기로서 알려지지만, 한편으로 불길한 찻그릇으로서의 전설이 있다.
원래 오사카의 호상·타케다 키자에몬이 소지하고 있던 것이지만, 키자에몬은 사업에 실패해 거지와 같은 경우에서 죽어 갔다.이 고려의 밥공기의 하나를 팔면 큰 돈이 손에 들어가는데 그것을 하지 않고, 소중하게 봉투에 넣고 목으로부터 매달고 있었다고 한다.그 후, 이 고려의 밥공기의 하나를 소지한 사람은 목의 종기에 골치를 썩였다고 해, 에도 후기, 마츠에 지방 영주·마쓰다이라 후마이공이 이 고려의 밥공기의 하나를 손에 넣었을 때에도 목에 종기가 생기게 되었다.이 고려의 밥공기의 하나를 목으로부터 매달고 있던 키자에몬의 저주일까?불매의 아내는 밥공기를 손놓도록(듯이) 남편을 설득했지만, 불매는 들어주지 않았다.운 좋게 불매의 종기는 회복되었지만, 차세대의 마츠다이라월단의 목에도 종기가 나온 때문, 불매의 아내는 그 저주를 억제하기 때문에(위해), 쿄토대덕사에 이 고려의 밥공기의 하나를 납입했다고 한다.

 

 

·호소카와
센리큐우에 다도를 배운 호소카와 산사이 타다코우가 소지한 것으로부터 이 명이 있다.타다코우의 친아버지는 「고금 전수 계승자」로서 당대 제일의 풍류인과 칭해진 호소카와 유사이등효이다.「천하 미츠이문」의 하나로 중요문화재 지정.
어딘지 모르게 무서움을 느끼는「키자에몬」과 달리, 너글너글한 작 모습의 밥공기이다.돈대겨드랑이의 깎기 포함이 깊지 않고, 돈대때부터 입만들기에 걸쳐 느긋한 완형에 일어서 있다.그러나 돈대 주위의 매화피(카이라기)는 난폭하고 선명하게 겉(표), 밥공기의 경치에 변화를 가져올 수 있고 있다.

 

 

·카가
아래, 카가·마에다가에게 전할 수 있던 것으로부터 이 명이 있다.한명을 「사자」라고 해지지만, 밥공기의 무상 절품의 님을 사장곡의「실로도 위없는 시시오우의 기세」에 연관된 것이라고 한다.「천하 미츠이문」의 하나이다.
총체에 푸른 기를 띤 지유중에, 빨강 또는 백유가 쳐 섞이는 경치가 왠지 훌륭하고, 내외에 진한 쥐색이 스며들어가 군운과 같이 나타나 내부의 적류는 꽉 궁리해 파장을 이루어, 작 역은 매우 정교하다.외측의 몸통 회전에는 폭의 넓은 녹노 안목이 있다.수통이 대소5, 6개 볼 수 있지만, 오이도 밥공기로서는 오히려 하자의 적은 분일 것이다.

 

 

·관우물의 안벽
앞의「키자에몬」과 함께, 오이도의 쌍벽과 구가해지는 명기이다.중요문화재 지정.
원래는 전국 무장의 쓰쓰이 준케이가 소지하고 있던 것으로부터 이 명이 있다.그 후, 순경으로부터 도요토미 히데요시에 주어져서 비장 되고 있었지만, 어느 날, 근습의 시동이 잘못해 떨어뜨려, 5로 나누어 버렸다.격노한 히데요시가 시동을 수토로 하려고 했는데, 우연히 마침 있던 호소카와 유사이등효가, 「관우물의 안벽 다섯 개로 갈라져 해 고려의 밥공기의 하나구나에게 부히 눅눅해져다운」과 즉흥으로 시를 읊었으므로, 히데요시의 꾸지람이 풀렸다고 하는 일화가 남아 있다.야마노우에 소지가 「천하 제일」이라고 칭한 고려의 밥공기의 하나가 이 관우물의 안벽은 아닐까 보여지고 있다.
다섯 개로 갈라진 완을 옻나무로 접목해 보수되어 있지만, 오히려 정취가 있는 경치로서 칭찬되게 되었다.

 

 

·에치고
이쪽도 중요문화재로 지정되어 있다.내상개표에 「에치고전」이라고 묵서 되고 있는 것으로부터 이 명이 있다.「에치고전」이란 어떠한 인물인가는 알려지지 않지만, 호상 초대의 고리의 조부·타카야스는 에치고 마모루를 자칭해, 또 그 아이 재주가 아주 뛰어남은 「에치고전의 술집」이라고 불리고 있던 것으로부터, 그것과 관련짓는 설이 있다.
완을 거의 두동강이로 하고 있는 큰 분열을 고친 자국이 남지만, 오히려 역사의 깊은 곳을 느끼게 하는 경치라고 할 수 있자.완의 내외에 녹노(녹로) 목이 날카롭게 서서 있어 긴장된 모습의, 당당한 명완이다.이 에치고의 죽절 돈대의 님은, 고려의 밥공기의 하나중에서도 한층 더 훌륭한 것이다.

 

 

·금지원
아래 쿄토 난젠사 탑두의 금지원의 집기였다는 전승으로부터 이 명이 있다.중요미술품.
앞의「에치고」보다 큼직한 구조이지만, 오히려 점잖고 우아한 작 역이다.전체에 섬세한 꿰뚫어서 속에 넣는 것이 달리는 희미한 비파색의 유는 몸통의 한편으로 흘러 곳곳에 살코기의 반문이 겉(표)라고 있다.돈대겨드랑이는 확연히깎아져 작게 긴장된 돈대는 죽절장으로 굵은 매화피를 볼 수 있다.

 

 

·유라쿠
오다 노부나가의 남동생·오다 유라쿠금기가 소지하고 있던 것으로부터 이 명이 있다.「천하5작」으로 거론되는 명완으로 중요미술품.
정말로는 든지로 한 우아한 오이도에서, 로 한 곡선미는 그야말로 여성적이고, 붉은 빛을 포함한 비파색의 유약도 조용하다.돈대때의 매화피도 갖추어져 점잖다.호방인 키자에몬 우물과는 대조적인 작풍을 나타내고 있다.

 

 

·오다카려
조용히 한 조건이 없는 형태는 비길 데 없음이다.유조도 밝은 비파색으로, 돈대 부근의 매화피는 조심스럽면서 힘이 넘치고 있다.원래는 미요시 나가요시의 남동생인 아타카동강이 소지하고 있던 것이지만, 도쿠가와 이에야스의 손에 건너, 이에야스의 유산 「슨푸분물」로서 오와리 토쿠가와가에게 전할 수 있었던 명기이다.한때, 아라키 무라시게의 소지하는 (곳)중에 있던 것으로부터「아라키 고려」라고도 불린다.(※당초문염부밥공기의 「아라키 고려」란 별개이다.)
분명하게 오이도에 속하는 것이지만, 고래보다 「오다카려」라고 칭해져 왔다.다과회기에 고려의 밥공기의 하나의 이름이 처음으로 겉(표)의 것은, 덴쇼(연호)6년 10월 25일의 「야중(야부우치) 무네카즈」의 다과회에서, 이후, 게이쵸 3년까지의 주요한 다과회에서 사용된 고려의 밥공기의 하나는 10완전후와 매우 수가 한정되어 있다.이른바 「우물손」의 밥공기도 옛날에는 「고려 밥공기」로 일괄되어 있던 것 듯하지만, 덴쇼(연호)6년 이후가 되어 어떤 종류의 「우물손」의 밥공기를 「우물」로서 구별하게 되었다고 생각된다.「고려의 밥공기의 하나」의 이름의 시초를 생각하는데 있어서, 흥미로운 시사를 주는 일완이다.

 

 

·아라키 고려
아라키 셋츠 모리무라겹이 소지하고 있던 것으로부터 이 명이 있다.일견, 아난 밥공기와 같이 보이지만, 유가 부드럽고, 특히 내부에 백유눈사태가 있는 것이 고려 밥공기의 특색이다.
아래 센리큐우가 소지해, 아라키 무라시게를 거쳐 오와리 토쿠가와가에 전해졌다.

※이 밥공기는 「우물」이 아닙니다.앞의「오다카려」의 항으로 말하고 있는당초문염부밥공기의 「아라키 고려」가 이 밥공기입니다.참고까지.

 

 

·미노
원래의 소유자는 불명하다.타이쇼 6년(1917)의 아카보시가의 입찰로, 단 타쿠마가 20만엔으로 구입했다.
유기가 비파색으로 깨끗하다.초록이 걸린 유의 부분이 훌륭한 경치가 되어 있다.돈대가 비싸고, 당당하고 있다.돈대의 매화피가 훌륭하다.

 

 

·사카모토
원래는, 아케치 미쓰히데의 소지하는 곳(중)이었던 일로부터, 그 거성·사카모토성을 기념하여 이 명이 붙여졌다고 한다.



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