伝統文化紹介 Relationship
● 独立軍の自由詩(自由市) 集結と韓人軍事委員会(韓人軍事委員会)の成立

 

1920年 10月以後日本軍の満洲出兵と時を合わせて灰だけ(在満) 独立軍は新しい活動基地を尋ねて小満(蘇満) 国境誌どおり移動を開始した. 青山里戦闘(青山里戦闘)で日本軍を打ち破った北路軍政署(北路軍政署), 振付(安武)が率いる対韓国民回(大韓国民会), 催震動(崔振東)が指揮する群舞都督府(軍務都督府), 洪範図(洪範図)の大韓独立軍(大韓独立軍)とその他義軍部(義軍府), 光復団(光復団), 臣民団(研トブ? などの多くの独立軍たちが小満国境に位したミルサン(密山)に集結したが, これら独立軍は安全地帯であるソ連(蘇連) 沿海州(沿海州)で越境して新たに装備の補充と軍事訓練を行うことに決めて入京の前に一つの統合軍団を結成する事にした. そして大韓独立軍団(大韓独立軍団)が編成された. この軍団は私は兵力を 3個大隊で編成して 1代代を 3中隊で, 1中隊を 3牛どおり分けたが小隊総帥が 27個であったし兵力が 3500人に達した.

 

大韓独立軍団の幹部陣をよく見れば総裁に徐一(徐一), 副総裁に洪範図(洪範図) キム・ジャジン(金佐鎭) チョ・ソンファン(〓成煥), 総司令官にキムキュシック(金〓植), 参謀総長に李章寧(李章寧), 連隊長に李青天(李青天), 中隊長にギムチァングファン(金昌煥) 早冬式(趙東植) ユンギョングチォン(尹〓天) 五光では(呉光鮮) などがそれぞれ就任したということが分かる.

 

大韓独立軍団は部隊編成を終えた後にソ連地これでに入って行った. しかし最初の目的とは違いこの軍団はソ連の敵軍(赤軍)・白軍(白軍)の間の内戦に荒されて入ってソ連に利用だけあって一部はまっすぐに満洲に帰還したが一部は黒竜江(黒竜江) 沿岸の自由詩(自由市)に移動したがその後自由詩思弁(自由市事変)を経験してからは結局ソ連軍によって武将解除される悲劇を経験した.

 

 

が当時の前から沿海州に在留していた大韓国民議会(大韓国民議会)の文昌範(文昌範), 盛りして(韓滄海)と自由代代(自由大隊)のオハムック(呉夏黙), バックスングギル(朴承吉) などがその年 12月初にハバロフスクの敵軍(赤軍) 第2軍団本部に交渉して沿海州に入って来た満洲(満州)で活動した独立軍を1ヶ所で集結するように交渉した. かくして国民議会は自由詩に軍事駐屯地を用意する一方独立軍に人を派遣して自由詩で集結するように導いた.

 

 

1921年 3月中旬まで自由詩に集結した独立軍は催震動(崔振東) 許在旭(許在旭)の群舞都督府(軍務都督府), 振付(安武) ゾングイルム(鄭一武)の対韓国民回(大韓国民会), 洪範図(洪範図) 李青天(李青天) 旗下の独立軍と軍政書だったし前からシベリアで武将活動をして来た金表石(金票突), 朴公序(朴公瑞)の二万軍隊, ニコライ最の茶盤軍隊, グリゴ−ルリ朴の独立軍団, 林表(林彪) 高名数(高明秀)のニハンググン(尼港軍)とオハムック(呉夏黙)の韓人歩兵自由代代(韓人歩兵自由大隊) などとして総兵力が 1900人余りだった.

 

このように修改の武将団体が自由詩(自由市)に集結することで大軍団の結成と軍拡の機会は渡来したがそれぞれ事情が他の数種の部隊集結は自然意図しない紛争を持って来た. すなわち敵軍の第2軍団 6連隊長としてフックハジバング守備大将を兼任しているオハムックとニハンググンというゾックギェ(赤系) パルチサン部隊を導いて活動した朴一理夜間の軍事力掌握のための暗闘がそれだった.

 

 

1921年 1月利用(李〓), チェヤング(蔡英) などは韓人軍事委員会(韓人軍事委員会)を結成して当時黒竜株(黒竜州) 一帯を管轄する極東共和国政府(極東共和国政府) 軍部(軍部)に交渉した. ここに軍部ではバックチァングは(朴昌殷)を総司令官に, グレゴ−ルレプを参謀部長に任命して自由詩で派遣する同時にニハンググンの名称をサハリン義勇隊で改称して独立軍及び自由代代などすべての武将団体はサハリン義勇隊の管轄の下に二人のを言い付けた. 韓人軍事委員会は極東政府政府に秘密協定を結んだがその内容は韓国人軍隊の編成を無制限に承認して武器被服食糧を無制限で供給するというの, 軍事委員会以外にいかなる団体を問わず軍事力を許容値ないということを明示した.

 

数日後バックチァングウンが総司令官職を辞任すると極東政府ではグリゴ−ルレプを連隊長でバックイルリヤを軍政委院長でそれぞれ任命した. この命令を受けたグリゴ−ルレプとバックイルリヤは直ちに軍隊管理に取り掛かったところ, まず部隊駐屯地を自由詩西北部屋に位したマサノ−プで決めて各部隊をこちらに移動させた.

 

しかしこれらは極東政府当局者たちから再老令(在露領) 韓国人たちに関する問題はイルクーツクにある国際共産党(国際共産党)の東洋秘書部(東洋秘書部)で扱うということを聞いてイルクーツクに行った. その所で電路共産党(全露共産党)と力を合わせて東洋秘書部に韓国人武将君を統括することができる権限を自分たちに委任してくれるのを要請した. この結果誕生されたことが高麗革命軍政議会(高麗革命軍政議会)だった.

 

● 高麗革命軍政議会(高麗革命軍政議会)の成立

 

 

韓人軍事委員会(韓人軍事委員会)が再老令(在露領) 武将部隊を管轄するようになったことに不満を解くことは自由代代(自由大隊)のオハムック(呉夏黙) などは 1921年 2月 27日代表 6人をチーターの極東共和国政府に派遣して武将部隊の管轄を自分たちに渡してやることを交渉した.

 

軍政議会を組織することを前提にまず臨時軍政議会を立てて総司令官にガルナンダラシビルリ, 副指令官にオハムック, 臨時参謀部長にユズヨン(兪柱淵), 委員にギムハソック(金夏錫) チェジャキチャン(蔡成竜)を任命した. そして軍政議会の兵力強化のために敵軍(赤軍) 5軍団の騎兵 6百人と東(同) 軍団内に属した電動民族君(全同民族軍) 韓国人 6百人を部属させて共産主義宣伝のためにイルクーツク共産党政治学校第1回卒業生 16人を同行した.

 

これら軍政議会幹部たちは 1921年 4月 14日イルクーツクを出発して 17日チーターに到着した. これらはすなわち極東共和国政府(極東共和国政府) 軍部総長に軍政議会成立頃とを通告して各武将団体を導くことを要求した. ここに軍部総長は敵軍第2軍団に武将団体の引き継ぎを命じてチーターにいた韓人部(韓人部)を解体こんにちはだった.

 

5月 2日自由詩に到着した軍政議会は韓国人武将部隊の自由詩集結を強行した. しかしサハリン義勇隊を含めたマサノ−プに駐屯中の韓人軍事委員会はこれを拒否した. このようになると軍政議会側はイルクーツク東洋秘書部にこのような事情を報告した. しかし当時兵力面の劣勢に処していた軍政議会としてはなすすべがなかった. その後 5月 28日電動民族君 6百人が自由詩に到着して, 6月 2日にはマサノ−プに駐屯中だった洪範図の独立軍 440人余りが自由詩で合流したし 6月 6日には総司令官ガルナンダラシビルリと委員ユドングヨル(柳東説) 催高麗(崔高麗) 仲間がコカシャスギ兵士 6百名余を率いて自由詩に到着することで情勢は一変して軍政議会が優位を占めるようになった. しかしまだマサノ−プにはニハンググン, 銃軍部, 茶盤君, これで君など総 1400人余りが駐屯していた.

 

● 軍政議会(軍政議会)と韓国義勇軍(韓国義勇軍)の間の内戦発生

 

軍事力で優位を占めるようになった軍政議会はすなわち力強い措置を取り始めたしマサノ−プ駐屯軍は自然劣勢に置かれるようになった. 総司令官の命令でクラスナヤにまで部隊を移動させたマサノ−プ駐屯軍は軍政議会に掌握された. 軍政議会ではサハリン義勇隊の連隊長グリゴ−ルレプと副官金しては(金海先)を命令不服従で逮捕してすぐ部隊を自由詩で率いようとした.

 

軍政議会のこのような取り計いに対して韓国義勇軍(韓国義勇軍) 側では連隊長と副官の釈放を要求しながらここに応じなかったし軍政議会のオハムックと催高麗に対する懲戒を要求して出た. しかし韓国義勇軍側は自由詩に集結する場合軍政議会が義勇軍将校を皆逮捕するだろうと言ううわさがあってずっと自由詩への移動を拒否しただけでなく部隊を他の所に移動しようと計画した. しかし軍政議会側は韓国義勇軍の武将解除をさせることを計画して兵力を動員して韓国義勇軍をかこんだ.

 

ここに韓国義勇軍側はまたオハムック, 催高麗, ギムハソック 3人を軍政議会で追放灸箚?要求した. しかしこの要求は受諾することができなかったし結局韓国義勇軍は自由詩で少し落ちたスラブセカに移動された. しかしその後にもずっと義勇軍側はオハムックなどの処罰を主張して出たが総司令官ガルナンダラシビルリはこれらの要求を黙殺して将校と副詞官を合して 1百人を 1個の中どおり編成しながら 3個中隊を 1個大対廬, 3個大隊を 1個連帯に編成する事にした. しかし義勇軍側は 150人を単位で 1個中隊を編成することを主張したがこの主張は受け入れられることができなかった. 6月 25日総司令官は具体的な部隊編成に取り掛かったし各部隊は次のように構成された.

 

第1連帯は銃軍部(総軍府)と合同民族連帯(合同民族連隊), 第2連帯はニハンググンと独立軍団(独立軍団), 第3連帯は自由代代(自由大隊), 国民回(国民会), 独立軍団, 本隊はこれで君とダマングンがそれぞれ含まれたのだ.

 

軍政議会の以上のような部隊編成は計画的に義勇軍の兵力を分散して弱化させようとするのだった. ここに義勇軍側は満洲出身独立軍とサハリン義勇隊は決して分離することができないから一緒に編成されるようにしてくれるのを要求して出た. しかし義勇軍の兵力を分散させて全軍を掌握しようと祈る軍政議会がこれらの要求を聞き入れるわけはずがなかった. このような軍政議会の仕打ちを続いて頑として反対して来る義勇軍に対して軍政議会は強制で武将解除を断行することを決めて 6月 28日部隊をスラブセカで出動させた. 軍政議会は自由屍水肥大第29連帯と交渉して 4個中隊の敵軍増員兵力を得た後敵軍 2軍団に装甲車の内院を要請した.

 

 

この日午後 6時まで両軍の最後談判が決裂されると結局悲劇は発生したあと巻いた. 2代の装甲車と 30余門の機関銃を先に立たせた軍政議会兵力はすぐ義勇軍を攻撃した. 弱気に処していた義勇軍は交戦 1時間ぶりに敗走こんにちはだった. この戦闘で義勇軍側は 272人が戦死して 864人が虜につかまれたし行方不明された者が 250人にのぼる大きい被害を被った.

 

● イルクーツクへの強制移送

 

無力(武力)で義勇軍の武将解除を強行した軍政議会は虜 864人の中 5百人は自軍に編入させて残り 364人に対して審査して重大犯罪者に判明された 72人はイルクーツクに押送して 482人は敵軍(赤軍) 第2軍団に越してしまった.

 

 

7月 5日高麗革命軍政議会(高麗革命軍政議会)はイルクーツクの東洋秘書部から一通の電報を受け付けたところその内容は高麗革命軍隊(高麗革命軍隊)を満洲で出動させる計画を停止してイルクーツクでイブレ(入来)しなさいというのだった. このような命令の理由は原動政府(遠東政府)と日本間に対連回の(大連会議)が開催されることで国際上問題に関してやむなくズングジハムというのだった. ソ連政府のこのような一方的な仕打ちはすべての韓国人を激怒するようにした. 速く満洲に出動して対日抗戦(対日抗戦)に参戦することが地上の念願だった韓国人武将勢力はソ連政府の裏切り行為にがっかりして一部はイルクーツク行を反対して脱営したりした.

 

しかしイルクーツク行は強行されて 8月末に移動を完了した. この時イルクーツクに到着した純粋韓国人兵力が 1745人だった. この兵力は敵軍 5軍団管轄の 1個旅団で編成されて旅団長にガルナンダラシビルリ, 軍政委院長に縛繩だけが任命された. しかし 10月 3日ガルナンダラシビルリが買えば良いし新たに旅団長にオハムック, 政治部長にチェドングスン(蔡東順)が任命されたし同年 10月 28日旅団内に 6ヶ月授業期間の士官学校を設立して 2百人の士官を養成した. 高麗革命軍官学校(高麗革命軍官学校)の校長は李青天(李青天)だったし, 教官はチェヤング(蔡英), ギムスングビン(金勝彬) 軍政委院長はソンウゾング(鮮于政)がそれぞれ担当した.

 

● これででの韓国義勇軍社会(韓国義勇軍事会)

 

自由詩思弁(自由市事変)を避けて身を隠した利用(李〓)は 1921年 7月沿海州に到着した. 当時これでには満洲から独立運動をしたギムギュなら(金圭冕), 張機影(張基英), 朴上春(朴常春), 催期学(崔基学), 旱雲用(韓雲用) などが集まっていたし自由詩思弁以後こちらへ来た朴一理夜盗あった. かくしてこれでにはまた多い韓国の武将勢力が集結することができた. 1921年 10月 29日には再び韓国義勇軍社会(韓国義勇軍事会)が組職されて委員長にギムギュミョンが任命されて資金の調逹と武器購入に努力する一方韓国義勇軍司令部(韓国義勇軍司令部)を設置して司令官に利用, 参謀長に林表(林彪), 参謀官に旱雲用, 金弘一(金弘一)が任命されたし, 第1中隊長は林表, 第2中隊長に金弘一, 第3中隊長に旱雲用がそれぞれ先任されて部隊編成を完了したし士官養成のための韓国義勇軍無関学校(韓国義勇軍武官学教)を設立した.

 

韓国義勇軍は敵軍(赤軍) 沿海州司令部の当局者が彼らの白軍(白軍) 掃討作戦に協力してくれるのを要請すると幹部会議をしたあげく沿海州司令部と次のような軍事協定を締結した.

 

「第一, 韓国義勇軍は赤緯だね(赤衛軍)の白糖掃討前(白党掃蕩戦)を手伝って参戦する. 第二, 韓国義勇軍の装備と食糧及び給料は敵軍と等しい大宇でソ連政府が負担する. 第三, 見た作戦間(作戦間) 級作戦後にも韓国義勇軍はその募集兵力の人員に制限を受けないでこれらの装備と兵力をソ連政府がずっと支援する. 第四, 見た協定はソ連政府の承認を得て沿海州司令官がここに署名する.」

 

が協定に 1921年 11月 12日ギムギュミョンが韓国義勇軍の代表で署名こんにちはだった. そして 11月 13日義勇軍の第1中隊と第2中隊がすなわち出動こんにちはだった. 敵軍側から新武器弾薬装備を普及受けた義勇軍はこれでの時の西の方と半端川辺の間を作戦地球で引き受けた. 二万戦闘で第3中隊長旱雲用は第1小隊 45人と一緒に白軍の騎兵部隊と合戦をして 6百人を射殺してからは田園壮烈に戦死することで敵軍兵士らを感嘆するようにしたし韓国軍の勇猛性を広くふるった. その後ハバロフスク攻撃前にも参戦して多くの成果をあげた. その後韓国義勇軍はハバロフスク黒竜江(黒竜江) 北岸(北岸)のニコルライェブカからインスクの間のえんえん 5白里に達する地域内の鉄道橋梁及び地方治安を維持する黒竜江鉄道守備隊の任務を受けた.

 

当時韓国義勇軍司令部と敵軍間の関係はたとえソ連政府の軍需普及を受けてからはあったが義勇軍は敵軍に属した部隊ではないあくまでも敵軍(赤軍)と対等な位置で前後装備のサポート約束によって参戦したのだ. しかし前後(戦後) 敵軍側は完全に義勇軍を裏切ったのだ.

 

またイルクーツク派による謀略が義勇軍内部で起きたが軍政委員集まろう朴が何人の老令出身将校たちを集めて司令官を更迭しなければならないと先導してからは司令官が親日派であるザングザックリム(張作霖)と連絡を取りながら部隊を導いて満洲で脱出しようと祈るとおとし入れた. そしてギムハソック(金河錫), オハムック(呉夏黙), 催高麗(崔高麗) などもイルクーツクのソ連秘密機関に利用などは自由詩思弁の責任者でザングザックリムと連絡を取る反革命分子なので逮捕しなければならないと罪のなくてとうとう利用(李〓) 逮捕領をソ連各機関に発送した. 司令官利用は仕方なく辞職書を残しておいてこれだけで去った. ソ連政府が参戦の前に義勇軍と密約した装備の普及, 軍事教育などを履行しないだけでなくオハムックなどの謀略で義勇軍の立場(入場)はすごく困るようになった.

 

● イルクーツク脱出記も

 

イルクーツクに移動して敵軍(赤軍)に編入された満洲出身独立軍たちは最初の目的な満洲に出兵して対日抗戦(対日抗戦)を展開するという夢が消えて敵軍に編入されてしまうと脱出の機会を狙っていた. 特にこれらを刺激させたことは沿海州での利用(李〓)の韓国義勇軍(韓国義勇軍)が白軍(白軍)とのけんかで宣伝を広げているという消息だった. そしてこれらはイルクーツクを脱出してどのようにすれば沿海州の韓国義勇軍と力を合わせることができるか思案するようになった. 特に日本との外交的紛争を憂慮するソ連政府の態度では満洲への出兵と言う(のは)夢も見られない事だったし日々に悪くなって行く貧弱な給食はもっとこれらの脱出計画を急ぐようにした. かくしてチェヤング(蔡英), イダムル(李多勿), 黄河である(黄河一), 宋歳酒(宋世柱) などは 1次で 30人を脱出させて 2次でまた兵力を脱出させようとしたがばれた. これは 1922年 3月 9日の仕事として李青天(李青天), チェヤング, 黄河であるなど 14人がフィッシェされて敵軍第5軍団軍事法院から軍隊叛乱罪に起訴されて拘禁された.

 

その後にイルクーツク駐在オハムック(呉夏黙) などはソ連政府と協議して自分たちも沿海州に移動させてくれるのを懇請するようになった. それは利用が導く韓国義勇軍の勢力と名声が高めることを心配したから自分たちも沿海州に行こうと思ったのだった. そして 1922年 8月 15日からオハムックのイルクーツク駐屯軍は沿海州に輸送され始めたが人々の当時名称はゴリョトックリブヨンデ(高麗特立連隊)として敵軍の指揮の下に入っていた. このようになって黒竜株(黒竜州)であった自由詩思弁の後遺症はまた沿海州に移されることで再び両軍の間に花火が散ることは紛争が起きた. その後いくらならなくて韓国義勇軍は結局また武将解除にあって多くの兵力がウスムン労動病で引かれて行って酷使にあってしまった.  

 

● 韓国人軍事団体の武将解除

 

自由詩思弁(自由市事変) 以後高麗革命軍政議会(高麗革命軍政議会)を含めた多くの韓国人武将団体が敵軍(赤軍)に編入されてしまったがそれでも少なくない韓国人武将部隊が沿海州方面で日本軍と白軍(白軍)に対抗して争っていた. これででは利用(李〓)と金光で(金光瑞)の部隊が, 秋風(秋風) 方面では神佑で(申禹汝), 催敬天(崔慶天), キムキュシック(金〓植)の部隊が, ニコルスク方面にもイビョングフィ(李炳煕), ザングインヒョック(張仁赫)の部隊がそれぞれ 200人‾600人 ほどの兵力で活動した. これら武将部隊はこの時までも敵軍側との約束を信頼していた. すなわち敵軍と連合して白軍を撃退した後敵軍の装備支援をもらって国内に進入して大規模の抗日前(抗日戦)を展開することができるというのだった.

 

1922年 10月白軍が敵軍に完全に制圧されて同年 10月末に日本軍がシベリアで撤兵こんにちはだった. この時を待った韓国人たちがまだ喜びを感じる前にソ連は韓国人軍隊に対して強制で武将解除を実施した. ソ連は日時自分たちの必要によって韓国人たちを利用してから所期の目的を達すると韓国人武将勢力のレゾンデートルを否定してしまったのだ. すなわち韓国人部隊の武将解除を断行することでシベリアの治安を維持する一方対日(対日) 国交上の紛争のさんをとり除いたのだ. 高い血をこぼして対価を得ることができなかった韓国人武将勢力はソ連政府の仕打ちに激怒したがどうする 数がなかった. そして韓国人部隊は満洲方面で敵軍の目を避けて移動するとか武器を包み隠して後日再起をはかるとか敵軍(赤軍)に編入されてしまったりした. 以後ソ連政府は敵軍に編入された者または徹底的な共産主義者を除いた前韓人(全韓人)の武将を厳禁することで 1923年以後シベリアでの抗日独立運動(抗日独立運動)は終止符を 取ってしまったのだ. 

 

解説=> 韓国学中央研究員韓国独立運動史研究委員 シンゼホング(申載洪) 博士

 

「引き続き」


1920·30년대 일제강점기(日帝强占期) 항일독립전쟁(抗日獨立戰爭) ⑶

● 독립군의 자유시(自由市) 집결과 한인군사위원회(韓人軍事委員會)의 성립

 

1920년 10월 이후 일본군의 만주 출병과 때를 맞추어 재만(在滿) 독립군은 새로운 활동기지를 찾아 소만(蘇滿) 국경지대로 이동을 개시하였다. 청산리전투(靑山里戰鬪)에서 일본군을 무찌른 북로군정서(北路軍政署), 안무(安武)가 인솔하는 대한국민회(大韓國民會), 최진동(崔振東)이 지휘하는 군무도독부(軍務都督府), 홍범도(洪範圖)의 대한독립군(大韓獨立軍)과 기타 의군부(義軍府), 광복단(光復團), 신민단(硏텁? 등의 여러 독립군들이 소만국경에 위치한 밀산(密山)에 집결하였는데, 이들 독립군은 안전지대인 소련(蘇聯) 연해주(沿海州)로 월경하여 새로이 장비의 보충과 군사훈련을 행하기로 결정하고 입경 전에 하나의 통합군단을 결성키로 하였다. 그리하여 대한독립군단(大韓獨立軍團)이 편성되었다. 이 군단은 전 병력을 3개 대대로 편성하고 1대대를 3중대로, 1중대를 3소대로 나누었는데 소대 총수가 27개였으며 병력이 3500명에 달하였다.

 

대한독립군단의 간부진을 살펴보면 총재에 서일(徐一), 부총재에 홍범도(洪範圖) 김좌진(金佐鎭) 조성환(曺成煥), 총사령관에 김규식(金奎植), 참모총장에 이장녕(李章寧), 연대장에 이청천(李靑天), 중대장에 김창환(金昌煥) 조동식(趙東植) 윤경천(尹擎天) 오광선(吳光鮮) 등이 각각 취임하였다는 것을 알 수 있다.

 

대한독립군단은 부대편성을 마친 뒤에 소련 땅 이만으로 들어갔다. 그러나 당초의 목적과는 달리 이 군단은 소련의 적군(赤軍)·백군(白軍)간의 내전에 휩쓸려 들어 소련에 이용만 당하고 일부는 곧장 만주로 귀환하였으나 일부는 흑룡강(黑龍江) 연안의 자유시(自由市)로 이동하였는데 그 뒤 자유시사변(自由市事變)을 겪고는 끝내 소련군에 의해 무장해제되는 비극을 겪었다.

 

이 당시 전부터 연해주에 재류하고 있던 대한국민의회(大韓國民議會)의 문창범(文昌範), 한창해(韓滄海)와 자유대대(自由大隊)의 오하묵(吳夏默), 박승길(朴承吉) 등이 그해 12월초에 하바로프스크의 적군(赤軍) 제2군단 본부에 교섭하여 연해주로 들어온 만주(滿州)에서 활동하던 독립군을 한 곳으로 집결할 수 있도록 교섭하였다. 이리하여 국민의회는 자유시에 군사주둔지를 마련하는 한편 독립군에 사람을 파견하여 자유시로 집결하도록 인도하였다.

 

1921년 3월 중순까지 자유시에 집결한 독립군은 최진동(崔振東) 허재욱(許在旭)의 군무도독부(軍務都督府), 안무(安武) 정일무(鄭一武)의 대한국민회(大韓國民會), 홍범도(洪範圖) 이청천(李靑天) 휘하의 독립군과 군정서였으며 전부터 시베리아에서 무장 활동을 하여 오던 김표돌(金票突), 박공서(朴公瑞)의 이만 군대, 니콜라이 최의 다반 군대, 그리골리 박의 독립군단, 임표(林彪) 고명수(高明秀)의 니항군(尼港軍)과 오하묵(吳夏默)의 한인보병자유대대(韓人步兵自由大隊) 등으로서 총병력이 1900여명이었다.

 

이와 같이 수개의 무장 단체가 자유시(自由市)에 집결함으로써 대군단의 결성과 군비확장의 기회는 도래하였으나 각기 사정이 다른 수종의 부대집결은 자연 뜻하지 않는 분쟁을 가져 왔다. 즉 적군의 제2군단 6연대장으로서 흑하지방 수비대장을 겸임하고 있는 오하묵과 니항군이라는 적계(赤系) 빨치산 부대를 이끌고 활동하던 박일리야간의 군권장악을 위한 암투가 그것이었다.

 

1921년 1월 이용(李鏞), 채영(蔡英) 등은 한인군사위원회(韓人軍事委員會)를 결성하고 당시 흑룡주(黑龍州) 일대를 관할하는 극동공화국정부(極東共和國政府) 군부(軍部)에 교섭하였다. 이에 군부에서는 박창은(朴昌殷)을 총사령관에, 그레골레프를 참모부장에 임명하여 자유시로 파견하는 동시에 니항군의 명칭을 사할린 의용대라 개칭하고 독립군 및 자유대대 등 모든 무장 단체는 사할린 의용대의 관할 아래에 둘 것을 명령하였다. 한인군사위원회는 극동정부 당국에 비밀협정을 맺었는데 그 내용은 한국인 군대의 편성을 무제한으로 승인하고 무기 피복 식량을 무제한으로 공급하겠다는 것, 군사위원회 이외에 여하한 단체를 막론하고 군권을 허용치 않겠다는 것을 명시하였다.

 

얼마 후 박창은이 총사령관직을 사임하자 극동정부에서는 그리골레프를 연대장으로 박일리야를 군정위원장으로 각각 임명하였다. 이 명령을 받은 그리골레프와 박일리야는 즉시 군대관리에 착수하였던 바, 우선 부대주둔지를 자유시 서북방에 위치한 마사노프로 정하고 각 부대를 이곳으로 이동시켰다.

 

그러나 이들은 극동정부 당국자들로부터 재노령(在露領) 한국인들에 관한 문제는 이르쿠츠크에 있는 국제공산당(國際共産黨)의 동양비서부(東洋秘書部)에서 취급한다는 것을 듣고 이르쿠츠크로 갔다. 그곳에서 전로공산당(全露共産黨)과 합세하여 동양비서부에 한국인 무장군을 통괄할 수 있는 권한을 자기들에게 위임하여 줄 것을 요청하였다. 이 결과 탄생된 것이 고려혁명군정의회(高麗革命軍政議會)였다.

 

● 고려혁명군정의회(高麗革命軍政議會)의 성립

 

한인군사위원회(韓人軍事委員會)가 재노령(在露領) 무장부대를 관할하게 된 것에 불만을 품은 자유대대(自由大隊)의 오하묵(吳夏默) 등은 1921년 2월 27일 대표 6인을 치타의 극동공화국정부에 파견하여 무장부대의 관할을 자기들에게 넘겨 줄 것을 교섭하였다.

 

군정의회를 조직할 것을 전제로 우선 임시군정의회를 세워 총사령관에 갈난다라시빌리, 부사령관에 오하묵, 임시참모부장에 유주연(兪柱淵), 위원에 김하석(金夏錫) 채성룡(蔡成龍)을 임명하였다. 그리고 군정의회의 병력강화를 위하여 적군(赤軍) 5군단의 기병 6백명과 동(同) 군단내에 소속된 전동민족군(全同民族軍) 한국인 6백명을 부속시키고 공산주의 선전을 위하여 이르쿠츠크 공산당 정치학교 제1회 졸업생 16명을 대동하였다.

 

이들 군정의회 간부들은 1921년 4월 14일 이르쿠츠크를 출발하여 17일 치타에 도착하였다. 이들은 곧 극동공화국정부(極東共和國政府) 군부총장에게 군정의회 성립경과를 통고하고 각 무장 단체를 인도할 것을 요구하였다. 이에 군부총장은 적군 제2군단에 무장 단체의 인계를 명하고 치타에 있던 한인부(韓人部)를 해체하였다.

 

5월 2일 자유시에 도착한 군정의회는 한국인 무장부대의 자유시집결을 강행하였다. 그러나 사할린 의용대를 비롯한 마사노프에 주둔중인 한인군사위원회는 이를 거부하였다. 이렇게 되자 군정의회 측은 이르쿠츠크 동양비서부에 이와 같은 사정을 보고하였다. 그러나 당시 병력면의 열세에 처하여 있던 군정의회로서는 속수무책이었다. 그후 5월 28일 전동민족군 6백명이 자유시에 도착하고, 6월 2일에는 마사노프에 주둔중이던 홍범도의 독립군 440여명이 자유시로 합류하였으며 6월 6일에는 총사령관 갈난다라시빌리와 위원 유동열(柳東說) 최고려(崔高麗) 일행이 코카샤쓰기 병사 6백여명을 인솔하고 자유시에 도착함으로써 정세는 일변하여 군정의회가 우위를 점하게 되었다. 그러나 아직도 마사노프에는 니항군, 총군부, 다반군, 이만군 등 총 1400여명이 주둔하고 있었다.

 

● 군정의회(軍政議會)와 한국의용군(韓國義勇軍)간의 내전 발생

 

군사력에서 우위를 점하게 된 군정의회는 곧 강력한 조치를 취하기 시작하였으며 마사노프 주둔군은 자연 열세에 놓이게 되었다. 총사령관의 명령으로 크라스나야로까지 부대를 이동시킨 마사노프 주둔군은 군정의회에게 장악되었다. 군정의회에서는 사할린 의용대의 연대장 그리골레프와 부관 김해선(金海先)을 명령 불복종으로 체포하고 곧 부대를 자유시로 인솔하고자 하였다.

 

군정의회의 이러한 조처에 대하여 한국의용군(韓國義勇軍) 측에서는 연대장과 부관의 석방을 요구하면서 이에 불응하였으며 군정의회의 오하묵과 최고려에 대한 징계를 요구하고 나섰다. 그러나 한국의용군 측은 자유시에 집결하는 경우 군정의회가 의용군 장교를 모두 체포하리라는 소문이 있어 계속 자유시로의 이동을 거부하였을 뿐만 아니라 부대를 다른 곳으로 이동코자 계획하였다. 그러나 군정의회 측은 한국의용군의 무장해제를 시킬 것을 계획하고 병력을 동원하여 한국의용군을 포위하였다.

 

이에 한국의용군 측은 다시 오하묵, 최고려, 김하석 3인을 군정의회에서 추방灸箚?요구하였다. 그러나 이 요구는 수락되지 못하였으며 결국 한국의용군은 자유시에서 조금 떨어진 수랍세까로 이동되었다. 그러나 그후에도 계속 의용군 측은 오하묵 등의 처벌을 주장하고 나섰지만 총사령관 갈난다라시빌리는 이들의 요구를 묵살하고 장교와 부사관을 합쳐 1백명을 1개 중대로 편성하면서 3개 중대를 1개 대대로, 3개 대대를 1개 연대로 편성하기로 하였다. 그러나 의용군 측은 150명을 단위로 1개 중대를 편성할 것을 주장하였으나 이 주장은 받아들여지지 못하였다. 6월 25일 총사령관은 구체적인 부대편성에 착수하였고 각 부대는 다음과 같이 구성되었다.

 

제1연대는 총군부(總軍府)와 합동민족연대(合同民族聯隊), 제2연대는 니항군과 독립군단(獨立軍團), 제3연대는 자유대대(自由大隊), 국민회(國民會), 독립군단, 본대는 이만군과 다만군이 각각 포함되었던 것이다.

 

군정의회의 이상과 같은 부대편성은 계획적으로 의용군의 병력을 분산하여 약화시키려는 것이었다. 이에 의용군 측은 만주 출신 독립군과 사할린 의용대는 결코 분리될 수 없으니 같이 편성되도록 하여 줄 것을 요구하고 나섰다. 그러나 의용군의 병력을 분산시켜 전군을 장악하려고 기도하는 군정의회가 이들의 요구를 들어줄리 만무하였다. 이러한 군정의회의 처사를 계속하여 완강히 반대하여 오는 의용군에 대하여 군정의회는 강제로 무장해제를 단행할 것을 결정하고 6월 28일 부대를 수랍세까로 출동시켰다. 군정의회는 자유시수비대 제29연대와 교섭하여 4개 중대의 적군 증원병력을 얻은 후 적군 2군단에 장갑차의 내원을 요청하였다.

 

이날 오후 6시까지 양군의 최후 담판이 결렬되자 끝내 비극은 발생하고야 말았다. 2대의 장갑차와 30여문의 기관총을 앞세운 군정의회 병력은 곧 의용군을 공격하였다. 약세에 처하고 있던 의용군은 교전 1시간만에 패주하였다. 이 전투에서 의용군 측은 272명이 전사하고 864명이 포로로 붙들렸으며 행방불명된 자가 250명에 이르는 큰 피해를 입었다.

 

● 이르쿠츠크로의 강제이송

 

무력(武力)으로 의용군의 무장해제를 강행한 군정의회는 포로 864명 가운데 5백명은 자군에 편입시키고 나머지 364명에 대해 심사하여 중대 범죄자로 판명된 72명은 이르쿠츠크로 압송하고 482명은 적군(赤軍) 제2군단에 넘겨 버렸다.

 

7월 5일 고려혁명군정의회(高麗革命軍政議會)는 이르쿠츠크의 동양비서부로부터 한 통의 전보를 접수하였는 바 그 내용은 고려혁명군대(高麗革命軍隊)를 만주로 출동시킬 계획을 정지하고 이르쿠츠크로 입래(入來)하라는 것이었다. 이와 같은 명령의 이유는 원동정부(遠東政府)와 일본간에 대련회의(大連會議)가 개최됨으로 국제상 문제에 관하여 부득히 중지함이라는 것이었다. 소련당국의 이러한 일방적인 처사는 모든 한국인을 격분케 하였다. 속히 만주로 출동하여 대일항전(對日抗戰)에 참전하는 것이 지상의 염원이었던 한국인 무장세력은 소련당국의 배신행위에 실망하여 일부는 이르쿠츠크행을 반대하고 탈영하기도 하였다.

 

그러나 이르쿠츠크행은 강행되어 8월말에 이동을 완료하였다. 이때 이르쿠츠크에 도착한 순수 한국인 병력이 1745명이었다. 이 병력은 적군 5군단 관할의 1개 여단으로 편성되어 여단장에 갈난다라시빌리, 군정위원장에 박승만이 임명되었다. 그러나 10월 3일 갈난다라시빌리가 사면되고 새로이 여단장에 오하묵, 정치부장에 채동순(蔡東順)이 임명되었으며 동년 10월 28일 여단내에 6개월 수업기간의 사관학교를 설립하여 2백명의 사관을 양성하였다. 고려혁명군관학교(高麗革命軍官學校)의 교장은 이청천(李靑天)이었고, 교관은 채영(蔡英), 김승빈(金勝彬) 군정위원장은 선우정(鮮于政)이 각각 담당하였다.

 

● 이만에서의 한국의용군사회(韓國義勇軍事會)

 

자유시사변(自由市事變)을 피하여 은신하였던 이용(李鏞)은 1921년 7월 연해주에 도착하였다. 당시 이만에는 만주에서 독립운동을 하던 김규면(金圭冕), 장기영(張基英), 박상춘(朴常春), 최기학(崔基學), 한운용(韓雲用) 등이 모여 있었으며 자유시사변 이후 이곳에 온 박일리야도 있었다. 이리하여 이만에는 다시 많은 한국의 무장세력이 집결할 수 있었다. 1921년 10월 29일에는 재차 한국의용군사회(韓國義勇軍事會)가 조직되어 위원장에 김규면이 임명되어 자금의 조달과 무기 구입에 노력하는 한편 한국의용군사령부(韓國義勇軍司令部)를 설치하고 사령관에 이용, 참모장에 임표(林彪), 참모관에 한운용, 김홍일(金弘一)이 임명되었으며, 제1중대장은 임표, 제2중대장에 김홍일, 제3중대장에 한운용이 각각 선임되어 부대편성을 완료하였고 사관양성을 위한 한국의용군무관학교(韓國義勇軍武官學敎)를 설립하였다.

 

한국의용군은 적군(赤軍) 연해주사령부의 당국자가 그들의 백군(白軍) 소탕작전에 협력하여 주기를 요청하자 간부회의를 벌인 끝에 연해주사령부와 다음과 같은 군사협정을 체결하였다.

 

「첫째, 한국의용군은 적위군(赤衛軍)의 백당소탕전(白黨掃蕩戰)을 도와 참전한다. 둘째, 한국의용군의 장비와 식량 및 봉급은 적군과 동일한 대우로 소련 정부가 부담한다. 셋째, 본 작전간(作戰間) 급 작전 후에도 한국의용군은 그 모집 병력의 인원에 제한을 받지 않고 이들의 장비와 병력을 소련 정부가 계속 지원한다. 넷째, 본 협정은 소련 정부의 승인을 얻어 연해주사령관이 이에 서명한다.」

 

이 협정에 1921년 11월 12일 김규면이 한국의용군의 대표로 서명하였다. 그리하여 11월 13일 의용군의 제1중대와 제2중대가 곧 출동하였다. 적군 측으로부터 신무기 탄약 장비를 보급받은 의용군은 이만시의 서쪽과 우수리강변 사이를 작전지구로 맡았다. 이만 전투에서 제3중대장 한운용은 제1소대 45명과 함께 백군의 기병부대와 접전을 벌여 6백명을 사살하고는 전원 장렬하게 전사함으로써 적군 병사들을 감탄케 하였으며 한국군의 용맹성을 널리 떨쳤다. 그 뒤 하바로프스크 공격전에도 참전하여 많은 성과를 올렸다. 그후 한국의용군은 하바로프스크 흑룡강(黑龍江) 북안(北岸)의 니꼴라예브까로부터 인스크 사이의 장장 5백리에 달하는 지역내의 철도 교량 및 지방치안을 유지하는 흑룡강 철도수비대의 임무를 부여받았다.

 

당시 한국의용군사령부와 적군간의 관계는 비록 소련 정부의 군수보급을 받고는 있었으나 의용군은 적군에 속한 부대가 아닌 어디까지나 적군(赤軍)과 대등한 위치에서 전후 장비의 지원 약속에 의하여 참전하였던 것이다. 그러나 전후(戰後) 적군 측은 완전히 의용군을 배신하였던 것이다.

 

다시 이르쿠츠크파에 의한 모략이 의용군 내부에서 일어났는데 군정위원 모이세 박이 몇 사람의 노령 출신 장교들을 모아 사령관을 경질해야 한다고 선동하고는 사령관이 친일파인 장작림(張作霖)과 연락을 취하면서 부대를 이끌고 만주로 탈출하고자 기도한다고 모함하였다. 그리고 김하석(金河錫), 오하묵(吳夏默), 최고려(崔高麗) 등도 이르쿠츠크의 소련 비밀기관에 이용 등은 자유시사변의 책임자이며 장작림과 연락을 취하는 반혁명분자이므로 체포하여야 한다고 무고하여 급기야 이용(李鏞) 체포령을 소련 각 기관에 발송하였다. 사령관 이용은 할 수 없이 사직서를 남겨놓고 이만으로 떠났다. 소련당국이 참전 전에 의용군과 밀약한 장비의 보급, 군사 교육 등을 이행하지 않을 뿐만 아니라 오하묵 등의 모략으로 의용군의 입장은 대단히 난처하게 되었다.

 

● 이르쿠츠크 탈출기도

 

이르쿠츠크로 이동하여 적군(赤軍)에 편입된 만주 출신 독립군들은 당초의 목적인 만주로 출병하여 대일항전(對日抗戰)을 전개한다는 꿈이 사라지고 적군에 편입되어 버리자 탈출의 기회를 노리고 있었다. 특히 이들을 자극시킨 것은 연해주에서의 이용(李鏞)의 한국의용군(韓國義勇軍)이 백군(白軍)과의 싸움에서 선전을 펼치고 있다는 소식이었다. 그리하여 이들은 이르쿠츠크를 탈출하여 어떻게 하면 연해주의 한국의용군과 합세할 수 있을까 궁리하게 되었다. 특히 일본과의 외교적 분쟁을 우려하는 소련 당국의 태도로는 만주로의 출병이란 꿈도 꾸지 못할 일이었으며 나날이 악화되어 가는 빈약한 급식은 더욱 이들의 탈출계획을 서두르게 하였다. 이리하여 채영(蔡英), 이다물(李多勿), 황하일(黃河一), 송세주(宋世柱) 등은 1차로 30명을 탈출시키고 2차로 다시 병력을 탈출시키려다가 발각되었다. 이것은 1922년 3월 9일의 일로서 이청천(李靑天), 채영, 황하일 등 14명이 피체되어 적군 제5군단 군사법원에서 군대 반란죄로 기소되어 구금되었다.

 

그 후에 이르쿠츠크 주재 오하묵(吳夏默) 등은 소련 당국과 협의하여 자기들도 연해주로 이동시켜 줄 것을 간청하게 되었다. 그것은 이용이 이끄는 한국의용군의 세력과 명성이 높아감을 근심하였기 때문에 자신들도 연해주로 가려고 한 것이었다. 그리하여 1922년 8월 15일부터 오하묵의 이르쿠츠크 주둔군은 연해주로 수송되기 시작하였는데 이들의 당시 명칭은 고려특립연대(高麗特立聯隊)로서 적군의 지휘하에 들어가 있었다. 이렇게 되어 흑룡주(黑龍州)에서 있었던 자유시사변의 후유증은 다시 연해주로 옮겨짐으로서 재차 양군 사이에 불꽃 튀기는 분쟁이 일어났다. 그후 얼마 되지 아니하여 한국의용군은 결국 다시 무장해제를 당하고 많은 병력이 우수문 노동병으로 끌려가 혹사를 당하고 말았다.  

 

● 한국인 군사단체의 무장해제

 

자유시사변(自由市事變) 이후 고려혁명군정의회(高麗革命軍政議會)를 비롯한 많은 한국인 무장 단체가 적군(赤軍)에 편입되어 버렸으나 그래도 적지 않은 한국인 무장부대가 연해주 방면에서 일본군과 백군(白軍)에 대항하여 싸우고 있었다. 이만에서는 이용(李鏞)과 김광서(金光瑞)의 부대가, 추풍(秋風) 방면에서는 신우여(申禹汝), 최경천(崔慶天), 김규식(金奎植)의 부대가, 니콜스크 방면에도 이병희(李炳熙), 장인혁(張仁赫)의 부대가 각각 200명~600명 가량의 병력으로 활동하였다. 이들 무장부대는 이때까지도 적군 측과의 약속을 신뢰하고 있었다. 즉 적군과 연합하여 백군을 격퇴한 후 적군의 장비지원을 받아 국내로 진입하여 대규모의 항일전(抗日戰)을 전개할 수 있다는 것이었다.

 

1922년 10월 백군이 적군에게 완전히 제압당하고 동년 10월말에 일본군이 시베리아에서 철병하였다. 이때를 기다리던 한국인들이 미처 기쁨을 느끼기도 전에 소련은 한국인 군대에 대하여 강제로 무장해제를 실시하였다. 소련은 일시 자신들의 필요에 의하여 한국인들을 이용하였다가 소기의 목적을 달하자 한국인 무장 세력의 존재가치를 부정하여 버린 것이다. 즉 한국인 부대의 무장해제를 단행함으로써 시베리아의 치안을 유지하는 한편 대일(對日) 국교상의 분쟁의 씨를 제거한 것이다. 비싼 피를 흘리고 대가를 얻지 못한 한국인 무장 세력은 소련 당국의 처사에 격분하였으나 어쩔 수가 없었다. 그리하여 한국인 부대는 만주 방면으로 적군의 눈을 피하여 이동하거나 무기를 은닉하여 후일 재기를 도모하거나 적군(赤軍)에 편입되어 버리기도 하였다. 이후 소련 당국은 적군에 편입된 자 또는 철저한 공산주의자를 제외한 전한인(全韓人)의 무장을 엄금함으로써 1923년 이후 시베리아에서의 항일독립운동(抗日獨立運動)은 종지부를 찍고 말았던 것이다. 

 

해설=> 한국학중앙연구원 한국 독립운동사 연구위원 신재홍(申載洪) 박사

 

「계속」



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