200数十¥年間続いた遣唐使の派遣は、宇多天皇の時、菅原道真の建議によって中止されたとされています。所謂「遣唐使の廃止」と呼ばれている件ですが、そういえばお恥ずかしながらこの建議書の原文をこれまで通してちゃんと読んだことがありませんでした。そこでググった結果見付けたのが以下です。
寛平6年(894年)
菅原道眞「請令諸公卿議定遣唐使進止状」 日
請令諸公卿議定遣唐使進止状
諸公卿をして遣唐使の進止を議定せしめんことを請ふの状
右臣某謹案在唐僧中瓘去年三月附商客王訥等所到之録記大唐凋弊載之具矣更告不朝之問終停入唐之人
右、臣某、謹んで在唐の僧中瓘、去年三月商客王訥(おうとつ)等に附して到す
所の録記を案ずるに、大唐の凋弊、之を載すること具(つぶさ)なり。更に不朝の
問を告げ、終に入唐の人を停む。
中瓘雖區々之旅僧爲聖朝盡其誠代馬越鳥豈非習性
中瓘、区々の旅僧と雖も、聖朝の為に其の誠を尽くす。代馬・越鳥、豈に習性に非ざらんや。
臣等伏撿舊記度々使等或有渡海不堪命者或
臣等伏して旧記を検するに、度々の使等、或いは海を渡りて命に堪へざる者有り。
有遭賊遂亡身者
或いは賊に遭ひて遂に身を亡ぼす者有り。
唯未見至唐有難阻飢寒之悲如
唯、未だ唐に至りては、難阻飢寒の悲しみ有りしことを見ず。
中瓘所申¥報未然之事推而可
中瓘申¥し報ずる所の如くんば、未然の事、推して知るべし。
知臣等伏願以中瓘録記之状遍下公卿博士詳被定其可否
臣等伏して願はくは、中瓘の録記の状を以て、遍(あまね)く公卿・博士に下し、詳(つまびらか)に其の可否を定められんことを。
國之大事不獨爲身且陳欵誠伏請處分謹言
国の大事にして独り身の為のみにあらず。且つは欵誠(かんせい)を陳べて、伏して処分を請ふ。謹んで言(もう)す。
寛平六年九月十¥四日
大使參議勘解由次官從四位下兼守左大辨行式部權大輔春宮亮菅原朝臣某
- 『日本古典文学大系72菅家文草 菅家後集(川口久雄校注、岩波書店、昭和41年10月5日第1刷発行)』のうち『菅家文草』の巻第九に「大系の一連番号601」として収録される内容からの引用です。
- 「更告不朝之問、終停入唐之人」について、大系本文には、「(二句、意未詳)」と注がついています。
- それに拠ると「區々之旅僧」の「旅」について「(旅字、底本・板本並作レ旋、今據2本朝文集1)」底本:凡例『明暦2年藤井懶斎奥書3冊青表¥紙本』(校注者架蔵)とあります。
- 「代馬越鳥」については代(中国の北方地方)に産する馬と越(中国の南方の国)の鳥のことで、「代馬依北風」「越鳥巣南枝」といい、馬や鳥でも故郷の忘れがたい事をいうとあります。また「代馬依北風」は「胡馬依北風、越鳥巣南枝」(『文選』「古詩十¥九首」)とある様に「北方の胡に生まれて今ほかの地方にいる馬は、北方から吹いてくる風に身を寄せて故郷を慕っていななく。故郷は忘れがたい」といった情景を表¥す定型句との事です。
- 「越鳥巣南枝」については「南方の越の国から来た鳥は、故郷を恋しがり、木に巣をつくるときも南のほうの枝を選ぶ」とあり、これも故郷の忘れがたいことのたとえとされています。
- 「欵誠(かんせい)」の「欵」は「款」の異体字でまこと。「欵誠」で、まごころ、の意とあります。
「最近の唐(行き)は物騒だからしばらく様子を見ようよ(その存廃について一寸真面目に考えてみようよ)」としか書いてない様に見て取れます。
そして様子を見てるうちに907年、既に実質上地方政権の一つみたいな立場に降格していた唐がとうとう滅んでしまったというだけの話としか思えません。
違うのでしょうか? それ以上詳しい事は素人には判りません。
200N