伝統文化紹介 Relationship

我が民族の歴史が始まった以来幾多の外的の侵犯があったがその時ごとにうちの先祖たちは熱い救国(求国)の意志とすごい闘志で国難(国難)を乗り越えて来た. 外的の侵犯で国と同胞が戦乱(戦乱)の渦に巻き込まれる度に卓越な統率力と輝く知恵を発揮して敵侵(敵侵)を退けて祖国を危機で求め出した救国の英雄は多かったが忠武公(忠武公) 李舜臣(李舜臣)が韓国歴史上最高の戦争英雄という事実には誰も異意を申し立てることができないだろう.

李舜臣は壬辰の乱(壬辰倭乱)という未曽有の災いにあって国と同胞の滅亡が目の前に至った時空がこの地に降りてくれた救世主だった. 彼は貧しい士の息子に生まれて 54年の長くない一生を送る間あらゆる苦難の中でもひたすら忠孝人の(忠孝仁義)と愛国愛族(愛国愛族) 精神に一貫した民族の辞表だった.

戦地では死を恐ろしがらないでいつも先に立って戦闘をしたし, 不利な与件の中でも必勝の信念とすごい戦略戦術で勝ちっ放し(連戦連勝)をおさめた不世出の名将李舜臣. 彼は 16世紀東アジア最大の戦乱(戦乱)だった壬辰の乱(壬辰倭乱)と丁酉災乱(丁酉再乱) 7年の間朝鮮水軍の総指揮官として南海岸海を守って 23回の海上戦闘で戦勝無敗(全勝無敗)の専攻(戦功)を立てて, 神妙(神気)に近い用兵術(用兵術)で日本軍を恐怖に震えるようにした戦略家だった. また祖国に対しては至極な忠誠心で献身したし家庭では手厚い孝誠と慈愛をつくしたし, 部下たちには寛大な包容力でかばってやって創意力を培ってくれるなど真の生の道を提示してくれた同胞の大きい師匠だった.

イギリス海軍の准将(准将)で第2次世界大戦に参戦した海戦社が(海戦史家) バラード(G.A. Ballard) 将軍は ¥”東洋にネルソン(Horatio Nelson)に劣らない海戦の英雄が存在したという事実をイギリス人たちはよく分からないが朝鮮の李舜臣が東洋最高の海軍司令官というのは否認することができない事実だ.¥”と李舜臣を高く評価した.

● 32歳に武科及第, 微官末職(微官末職)で戦前

李舜臣(李舜臣)は 1545年 3月 8日ソウル乾川洞でドックス李さん家門の士里程(李貞)の三番目息子に生まれた. 李舜臣の祖父だった李白鹿(李百録)は己卯士禍(己卯士禍)に掛かり合って悔しい死にあったし, 父親はこのために宮仕えをそっぽを向いたまま無名の平凡な士に勤めた. だから李舜臣が生まれて育つ頃の加勢(家勢)は非常に貧しかった. ますます都合が貧乏になると父親は現在燎忠祠(顯忠祠) 席にあった忠南牙山市廉恥なら白岩里の妻家で都落ちした. 李舜臣はこちらで 32歳の時に武科に合格するまで生活したから, 白岩里こそ彼の故郷に違いなかった. 20歳の時に常住部屋さん家門の無関防塵(方震)の娘を妻に当たって婚姻した後しゅうとの影響を受けて武科試験に見つめるために兵書を読んで武術を磨く演習を始めた. しかし 28歳の時に武科試験に見つめたがギマスル(騎馬術) 種目で落馬するせいで負傷を負って落ちてしまった.

それから 4年がすぎた 1576年 2月に 32歳の年でまた武科に応試, 合格した彼はその年 12月鴨緑江上流グックジョングジデである咸境道東欧秘宝の権官で初官職生活を始めた. 3年後 35歳の時訓練院奉仕に転勤されてソウルに来たが, 元々口数が少ないイスンシンウ黙黙と自分が引き受けたあいさつ関係業務にだけ専念するだけわき目をふる事がなかった. あの時上官である兵曹情郎ソイック(徐益)が自分の打ってから一つを特進させようと思ったが李舜臣はこれを頑として拒否した. 明らかな功労もなしに序列を無視したら当然昇進する人が上がる事ができなくて国の法道にも行き違うというのだった. ソイックは本当に5稟議階級を先に立たせて強圧的に意味を貫徹しようと思ったが結局李舜臣の意を折ることができなかった. うわさが広がると一部は通快に思ったが一部はソイックの恨みで李舜臣が後患にあうか心配した.

当時兵曹判書金帰営(金貴栄)はこんな李舜臣の良い人になることが気に入って自分の庶女を消失で与えようとした. しかし李舜臣は権力者に付いて出世しようとすることは正しくない事だと言いながら断った. こんなに性分が強直だから金力と権謀術数が横行する中央関係に長く付いていることができなかった. 訓練院奉仕に任官されてから 8ヶ月ぶりに彼は忠清道兵馬節度使の軍官に左遷された. しかし彼はどんなけぶりもなしに赴任して引き受けた仕事だけ熱心にしたし, たまに出張を行って来る時にも残った様式を返るほどに工事(公私)が明らかで清廉で潔白な生活をした.

李舜臣は 1580年 36歳の時に全裸左水営管内の発砲万戸に転勤された. 水軍と初めて縁を結んだ彼は相変らず自分の任務にだけ充実しようと思ったが強直で清廉で潔白な性分のせいに絶えず姑息な人たちの重傷と謀略にあった. 一度は直属上官である全裸左水使ソングバック(成搏)が琴を作ると客舎庭の前の桐を切って送りなさいと言った時, 李舜臣は ¥”が木は国の物で多年育てて来たことなのでむやみに切ることができない.¥” とぴったり折れるように断った.

このように正しくない事は堪えることができなかったウルゴッは性分のため十回危機にあった李舜臣は 1582年に訓練院奉仕時代の上官だったソイックの何をするにかかって罷兔されてしまった. しかしその時は李舜臣がウルゴッは人物という事実がもう調整内外に広く知られていた. こんな事実をよく分かっていた当時吏曹判書である栗谷(栗谷) 李イ(李理)が大司諌柳成竜(柳成竜)を通じて一度会おうと伝えて来た. 栗谷は李舜臣と同姓同本(同姓同本)で年は 3歳の上だったが身内の序列は 19村甥程度だった. 李舜臣は今度にも ¥”出て栗谷は家族の間だから会う事ができないこともないが彼が関西である限りは会う会うのが正しくない.¥” しながら結局会わなかった.

彼は罷職されてから 4ヶ月ぶりのその年 5月, 前に勤めた訓練院奉仕に復職された. 鐘4身幅で鐘8解くことでむちゃくちゃに降等されたわけだが彼は一言不平もなしに引き受けた仕事だけまじめにした. そしてひまさえあれば弓術(弓術) 研磨も熱心にした. ところである日李舜臣の伝統(箭桶)を見た右議政遺伝(柳填)がこれを貪ってくれと言った. 李舜臣が ¥”これを差し上げることは難しくないがこの事によって大鑑と私が汚い音を聞くか恐ろしいです.¥” と言ったら遺伝が ¥”君ではなく正しい!¥” と歎服しながら二度と口にあげなかった.

● 豆満江辺国境で搖り返し族と争っている途中白衣従軍

その翌年李舜臣はハムギョン都兵馬使の軍官を経って搖り返し族の侵犯がひんぱんな二だけ川端建元補の権官に専任された. こちらで搖り返し族酋長を捕らえる武功(武功)を立てたが病魔社金優で(金禹瑞)の酸っぱいことにどんな褒賞も受けることができなかったし官職も上がることができなかった. そして来月の 11月に故郷で父親が帰ったという消息を聞いて牙山に駆け付けて喪服を着て 3ニョンサングをチルオッダ.

42三時に鐘6身幅司僕寺主婦に復職してから 16日ぶりに建元補と近い早産補万戸に任命された. 翌年には早産補でちょっと落ちた豆満江の中ノックドンも屯田官も兼ねるようになった. 兵力は不足なのに搖り返し族が随時に攻め寄せて北兵使二日(李鎰)に数次増援軍を要請したがいつも黙殺された. その年収穫期に幾多の搖り返し族が侵犯して掠奪と殺人を事とすると李舜臣はやっと 10人余りの部下を従えて悪戦苦闘(悪戦苦闘) あげく敵軍を打ち破って虜になった住民 60人余りも求め出した. しかし二日は李舜臣を敗将(敗将)で駆って殺そうと思った. 李舜臣が敗戦(敗戦)の責任を問う二日にこんなに抗言した.

¥”これがどうして敗戦(敗戦)と言います? そして何回兵力を増員してくれと言って要請したが一人も送ってくれたことがオブオッザンソ? その公文書写本が皆ここにあったら調整で分かれば私に罪があるとはくぎするよ.¥”

この仕事の言うものがないで玉に閉じこめた後調整には適当に報告した. 結局李舜臣に白衣従軍(白衣従軍)という不当な命令が下がった. 官職で退いて休んでいた彼は 1589年 45歳の時に全羅監事李光の軍官と鐘5身幅井邑県監に任命された. 井邑県監在任の時李舜臣は老母を含めて先に間二人の兄さんの子, すなわち甥たちまで連れて来て扶養した. この事であまりにも多い食率を従えるという非難が日付け彼は ¥”私がかえって官職が落ちてもこの頼る所ないものなどの面倒を見ざるを得ない¥” と結婚も自分の子たちより先にさせてくれるなど暖かく面倒を見てくれた.

1590年 7月に李舜臣は柳成竜の薦挙で鐘 3プムジックである考査リジン晨辞に任命されたが司諌院(司諌院)の反対に発令が取り消しされたし, また 1ヶ月後には満浦陣晨辞に任命されたがこれもやっぱり司諌院の反対に発令が取り消しされた. 翌年 2月には進度軍需に任命されてから部なこともする前に仮里布陣晨辞に任命されたし, 任地で赴任する直前の 2月 13日程3身幅堂上官である全裸左水使に任命された. やっぱり西人たちの反対を押し切る左議政柳成竜(柳成竜)の力強い薦挙があった.

● 柳成竜の薦挙で 47歳の時に全裸左水使任命

当時全裸左水営は旅愁にあったし, 南海岸防御の重責を引き受けた李舜臣は近付く戦争を見越して防備に最善の努力を傾けた. 彼は将来日本の大大的な侵略があることであらかじめ眺めた何ならない人だった. 彼は君王先祖(宣祖)を含めて無能な調整代わりと長寿たちがどんな対策もなしに益体もない党争で虚送歳月をするうちに日夜をわかたないで管内を巡視して伝えることを新たに作るとか修理して武器を手入れした. そして熱心に水軍を訓練させた.

特に李舜臣は寝食を忘れて日本の軍船たちを效果的に圧することができる特殊戦闘突撃では製作に心血を傾けたが, 彼の部下の中にはゾソンスル(造船術)に天性の才能を持ったナデョン(羅大用)と言う(のは)軍官があった. ナデョンは李舜臣の戦績な信任を受けて亀船[亀船]を設計, 乾燥するのに力をつくして壬辰の乱(壬辰倭乱) 勃発直前に完工段階になるようになった. 亀船といっしょに李舜臣が気を使ったことは海戦で使う各種火薬武器を開発する事だった. 特に当時までは海戦で駐兵期で使わなかった天子総統(天字銃筒), 知者総統(地字銃筒), 賢者総統(玄字銃筒), 皇子総統(黄字銃筒), 次大戦(次大箭), 大将軍箭(大将軍箭), 鉄丸(鉄丸) など打ち上げ武器と火薬準備に降った力を傾けた.

遂に日本のテハブ(泰合) 豊臣秀吉[豊臣秀吉]は 1592年 4月 14日に 20余万人の軍事と 7百余隻の軍船を派遣して朝鮮侵略を開始した. 李舜臣の憂慮が現実で現われたのだ. 大韓海峡を渡って来る間どんな抵抗も受けないで釜山浦に上陸した日本軍は釜山津晨辞ゾングバル(鄭撥)と東莱副詞宋象賢(宋象賢)の虚弱な防御線を崩して無人之境(無人之境)を行くように北進(北進)を続いた. 4月 17日には梁山を占領して, 相次いで彦陽, 金海, 慶州, 昌原等地を占領してずっと北進した. その間グキヨシダカ[九鬼嘉隆], ドドダカートーラー[藤堂高虎]が従えた 1万名余の日本水軍は朝鮮水軍の全力を無力化させる作戦を広げた.

● 李舜臣のすぐれたリーダーシップと朝鮮水軍の勝ちっ放し(連戦連勝)

4月 17日には急報を受けた調整では当代最高の名将と認められたシンリブを送り届けて日本軍の北上を沮止するようにして柳成竜をドチェチァルサにして軍事たちを総指揮するようにした. しかし朝鮮官軍は軍隊らしい軍隊の模様さえ取り揃えることができなかった都合だからおよそ 1百年の間の内戦(内戦)を通じて強兵に変貌した日本軍が弔銃(鳥銃)という新武器まで先に立たせて攻め寄せるとあう道理がなかった.

巡辺使二日(李鎰)は常住で日本軍の不意打ちで軍事 8百名余を失って敗れて逃走したし, 都巡弁士シンリブ(申〓)も忠州で防御線を形成して日本軍の急先ぽうである小西ユキナが[小西行長]に迎え争ったが戦術不在でやっぱり敗北, 戦死した. 国王と朝廷の大臣たちはソウルを捨てて密かに臨津江を渡って開城, 平壌を経って国境である義州まで避難の道を急き立てた. 日本軍がソウルを陷落させたことは 5月 2日, また半月が経ったその月 13日には平壌まで占領したからやっと 2ヶ月ぶりにほとんど全国土が日本軍の足に無惨に染躪されたのだった.

一方水軍の都合はどうだったのか. 初めて日本軍の大船団を見つけたカトク島晨辞ゾンウングリン(田応麟)の報告を受けた朴泓(朴泓)は軽傷右水使元均(元均)に知らせて応戦態勢を取り揃えるようだったが日本軍の勢力があまりにも強大にしよう武器と軍糧を海に捨てて陸地で逃げたし, 元均も 1百余隻の軍船を磁針(自沈)させて 1万名余の軍事を解散させた後やっと少数の軍船を導いて閑山島近くへ来て全裸左水使李舜臣(李舜臣)に救援を要請した. 元均の要請を受けた李舜臣は全裸右水使イオックギ(李檍祺)に知らせて一緒に出場する事にしたが彼が期日を守ることができないと全裸左水営艦隊だけ導いて出動した. その日が 5月 4日だった. 明くる日板屋船(板屋船) 24尺を従えて唐布に至ったが約束した元均はその翌日閑山島近海で捜すことができたが彼が従えた軍勢(軍勢)と言う(のは)板屋船 4尺と協では(狭船) 2チォックプンだった.

5月 7日に巨済島南側玉浦に賊船たちが停泊しているという報告を受けた李舜臣は艦隊を指揮して玉浦にある日本水軍を攻撃した. 朝鮮水軍はこの戦闘でドドダカートーラー[藤堂高虎]が従えた 30余隻の日本軍船の中で 26尺を撃沈させて 4千 5百余名医日本水軍兵士を殺傷する勝利をおさめた. 引き継いで合浦で賊船 5尺を撃沈させてゾックジンポでは賊船 13尺を粉碎したが, 我軍の損失は負傷者 2人だけだった. 李舜臣の百戦百勝(百戦百勝)する卓越な指揮能力が輝き始めたのだ.

29日には四千沖合で賊船 13尺を撃沈させて敵兵 3千名余を殺傷する戦果をあげたが, この時李舜臣とナデョンが負傷を負うようになった. 6月 2日には唐布に停泊していた日本軍船 30余隻を攻撃して 21尺を打ち破って敵兵 4千名余を殲滅したが, 賊将旧塁シマミチユキ[来島通之]がこの戦闘で戦死した. 6月 4日には全裸右水使イオックギが 25尺の軍船を従えて合流して朝鮮水軍の買うのが空を突くように高くなった. 全力が増強された朝鮮三道数だね連合船団(朝鮮三道水軍連合船団)はタンハン布にあった日本水軍を攻撃して賊船 26尺を撃沈させたし賊将の需給(首級)も七個も切って得た戦果をあげた.

7月 8日に李舜臣はまた元均, イオックギと力を合わせて軍船 55尺を従えてギョンネリャングに停泊していた日本軍船 76尺を閑山島沖合で誘引して鶴翼陣(鶴翼陣)でワキサカヤスハで[脇坂安治]の艦隊をかこんで無差別砲撃で賊船 59尺を撃沈させたが, すぐ韓国歴史に道が輝く閑山島大勝(閑山島大捷)だった. 9月初に起った釜山浦海戦(釜山浦海戦)では 100余隻の賊船を燃やして打ち破った. こういうわけで南海岸東一部を除いた 80% 以上の災害圏を朝鮮水軍が掌握するのに至った. これはまた西南海を通じて穀倉である全羅道を掌握してひいては黄海に北上して中部以北を攻略しようとする敵軍の祈祷を余地もなく無産させる戦略的勝利を意味したりした.

日本水軍が李舜臣の艦隊さえ会えば余地もなく大敗するという報告を受けた豊臣秀吉はついに ¥”朝鮮水軍とでくわせば争わずに逃げなさい.¥” と言う命令を下す一方, 全国各地に大大的な戦艦乾燥を指示した. 日が変わって 1592年 2月, 李舜臣が導く朝鮮水軍は軍船 8百余隻に増強された日本水軍を約 1ヶ月の間七回にわたった海上戦闘あげく撃滅させたら日本水軍は完全に戦意を喪失して巨済島西の方海上では賊船の影も見られなかった. その年 7月 15日に李舜臣は旅愁で釜山浦が近くの閑山島で本営を移して伝えることと武器を新たに作る一方軍事たちの調練も熱心にした. 忠青捜査ゾングゴルが戦艦数十尺を従えて合流したこともこの時だった.

● 朝鮮数だね総司令官三道水軍統制使に任命

8月 1日君王先祖は李舜臣を全裸左水使かたがた三道水軍統制使で任命した. 発令は 8月 1日付けだったが命令を受けたことは 10月 9日だった. この時彼の年 49歳の時だった. こういうわけで朝鮮水軍の総司令官になった李舜臣は今枝まったく同じな階級だった全羅道, 慶尚道, 忠清道の捜査たちを指揮監督して作戦命令権を行使することができるようになった. 抜群な長寿だったイオックギと停車をなどは普段李舜臣の高邁な人柄と卓越な統率力に感服したところなので忠心で昇進を祝ってくれて服従の念をおしたが, 年も多くて軍でも先輩だった元均は火だけの気配を隠さなかった.

元均の不平と独断的な行動で郡心(軍心)が物騷になると李舜臣はかえって自分が退くという考えで職責を変えてくれることを要請した. 重要な戦闘を控えて自中之乱(自中之乱)が起きればその結果は自滅だけと言うのを気づかった忠実な気持ちの発露だった. 調整でも何回も李舜臣と元均の問題を論議した結果元均を転出させることで結末を見た. 彼は忠青兵士を経って全裸兵士に行ってから又の日李舜臣が何をするに凝って口惜しく怨めしくて悔しく死ぬ峠を越して白衣従軍するうちにそんなに望んだ統制使席を占めるようになる. 李舜臣が閑山島に泊まったことはその年 7月から 1597年 2月まで 3年 7ヶ月間だった. 元均の後任軽傷右水使では排泄(〓楔)が来た.

その間陸上の戦況はどうだったのか. 開戦超官軍が弔銃を先に立たせた倭軍の攻撃にけんからしいけんか一度ろくにできなかったまま余地もなく敗退を繰り返えす時慶尚道で洪議長君クァクゼウ(郭再祐)が一番先に義兵部隊を組織して倭軍を退けたのに相次ぎ朝憲(趙憲), 高敬命(高敬命), 金悳領(金徳令), キムチョンである(金千鎰), 正門部(鄭文孚), 休廷(休静), 有情(惟政) などが相次いで義兵を起こして官軍と合同で争うとか, または単独作戦を敢行して各地で日本軍を苦しめた. また朝鮮の救援要請を受けた人(明)でも支援軍を送ってイヨソング(李如松)が軍事 4万名余を従えて鴨緑江を越えて朝鮮軍と連合作戦(連合作戦)を広げて平壌を収復した.

一方軽傷罪兵士迫真(朴晉)は李長孫(李長孫)が発明した飛撃震天雷(飛撃震天雷)という火薬武器を戦闘に使って競走性を奪い返して倭軍を西生け捕りで追い出したし, 真珠牧師金市民(金時敏)も 6日間の決死抗戦(決死抗戦)で倭軍 3万名余の攻撃を受け止めて晋州城を射手しながら殉国したし, 全羅道巡察使権慄(権慄)は幸州山城で軍事 2500人余りを指揮してウキだヒデイに[宇喜多秀家], ゴバヤカとダカカなの[小早川隆景]が導く倭軍 3万名余を撃退させる幸州大捷(幸州大捷)を記録したりした.

本来日本軍の戦略はソウルを落ちた後小西ユキナが[小西行長]は平安道を, 加藤清政[加藤清正]は咸境道を占領して, 水軍は黄海をさかのぼって朝鮮全域を席巻することだったが, 李舜臣の艦隊がぞくぞく日本水軍を撃破して義兵たちと僧軍が遊撃戦(遊撃戦)で日本軍に打撃を加えて進路が支えて補給路さえ遮られながら戦況は支離滅裂(支離滅裂), 膠着状態に陷ってしまった.

● 明と日本の強化交渉で戦況は膠着状態

この時明の遊撃将軍シムユギョング(沈維敬)が朝鮮に渡って名君と倭軍陣営を行き交って強化交渉(講和協商)を進行させて 1593年一応日本軍を南に撤兵させた. しかしこれは士気が低下された日本軍にまた力を育ててくれる機会だけ提供したわけになった. 朝鮮官軍の長寿と義兵大将たちは怒ったが独自的に日本軍を撃退させる力がなかったし, 無能な調整で要請した名君は対局君(大国軍)という慢心で朝鮮のデシンドア将兵たちをおこがましく思うことはもちろん一部地域では倭軍に劣らず残忍で悪辣な蛮行をやらかす都合だった.

李舜臣は閑山島統制営で軍糧を用意して武器を製作して伝えることを乾燥して軍事を調練するなどいつどこで起るかも知れない戦闘に備えてちっとも準備を怠らなかった. 彼は三道水軍統制使という最高位職にありながらも兵士らとまったく同じな生活をしたし軍律は厳に施行するが部下が戦死すれば生みの子を失ったように悲しんで親しく葬ったら軍事たちと民たち皆が生みの親に従うようにした. このように不撤昼夜(不撤昼夜)で将兵たちとともに国を心配して敵軍を朝鮮党で完全に追い出す方途だけ思案した李舜臣だったが再び悪運が尋ねて来た.

丁酉災乱(丁酉再乱)が起きた 1597年の初め, 日本の諜者ヨシラが軽傷優兵士ギムウングで(金応瑞)を尋ねて来て加藤紀要マーサと仲が良くない小西ユキナがの計策だと言いながら , 本国に帰った加藤紀要マーサがどんな日どこに来るのに朝鮮水軍にとって守っている途中寸なら殺すことができると言った. これは李舜臣が守っている一海を渡って朝鮮を侵攻することができないと判断した日本軍の奸計だったが兵法に対して無知な無能な長寿と大臣たちはこの言葉をそのまま信じた. ギムウングでは桃源数権慄に報告して調整は李舜臣に釜山にザンギョックして加藤紀要マーサを要撃しなさいという命令を下した. まことに出たらめな事だった.

李舜臣は敵軍の奸計という事実を看破したが調整の命令を逆うことができなくて艦隊を出動させる代わりにまず斥候船を送って敵軍の動態を偵察するようにした. 敵軍の落とし穴にズボンだない慈しんでからだった. 一番目計略に失敗した日本軍首脳部はまたヨシラをギムウングソに送って ¥”李舜臣が海を阻まない間に紀要マーサが朝鮮に上陸した.¥”と離間策を使った. ところで加藤紀要マーサが海を渡って来たことは権慄が李舜臣に調整の命令を下逹するもう一週間の前だった.

● 倭軍の奸計に移って二番目白衣従軍

当時朝廷は戦乱で国が亡びる直前に至ったにも東西に割れた党争は避難の中にも止むことができなかったし, 先祖(宣祖)は今日は同人の手をあげてやってから明日は西人の手をあげてやったと言いながら自分の王権安保にだけ関心をこぼした. ところで李舜臣が悪巧みにズボンを頃には元均と近い西人たちの発言権がもっと強かった. 尹斗寿(尹斗寿)を中心にした西人たちは御前回の度に李舜臣をおとし入れる一方元均を薦挙するのにいろいろな労力した. そんな中にちょうど決定的な好材が生じたのだった.

その年 2月 6日李舜臣は大騷ぎが起これば逃亡や張って水掛け論や事とする大臣たちのわめきによって解任されて ¥”調整を欺いて敵軍を打たなかった¥” と言う罪目を被って禁府都事につかまって上がるようになった. 彼はあとがまである元均に軍事, 武器, 軍糧などを正確に引き継いでその日 26日豚小屋みたいなナムゴに積まれて幾多の民と軍事たちが泣き叫ぶ中にソウルに引かれて行った. そして義禁府(義禁府)に閉じこめられていた拷問にあった.

パンズングツブサ鄭琢(鄭琢)が積極出て顧問だけはしないことを訴えて, これに先たちドチェチァルサイワンイック(李元翼)も文を書いて ¥”倭軍が一番恐れることは私たち水軍で, 李舜臣を変えてはいけないし, 元均を送ってもだめだ.¥”と上訴した. また李徳馨(李徳馨)も救命を訴えたし, 李舜臣の腹心であるゾングギョングダル(丁〓逹)は死をかえりみず ¥”将軍をおかゆなら国が亡びる¥”は上書をあげた.

仮ガスで死を兔れた李舜臣は 4月 1日に釈放されたが二番目で白衣従軍(白衣従軍)しなさいという御名(御命)を受けて無等病に降等されて権慄の元帥府(元帥府)に属して禁府都事に引かれて行った. 元帥府があった陜川郡哨戒に下がった途中にスンチョンに戦乱を避けて住まいを移した 83歳の老母哨戒ビョン氏が息子がザブヒョガッダは消息を聞いて船に乗って上って来てから世を去ったという秘宝を持った. まことに無情な空だった. 悲痛な心情で死体を家で仕えたが禁府都事の催促に葬礼も行うことができずにどしゃ降が零れ落ちる中に往川に発った.

● 元均の七川量海戦(漆川梁海戦) 敗北で朝鮮水軍が全滅される.

一方三道水軍統制使で赴任した元均は李舜臣が大事にした逆転の長寿たちを大部分取り替えて自分の意に盲従する者等をその席に座らすうえ, 軍費は不始末にする代わりに雲洲だ(運鋳堂)に納まって酒色にだけ抜けた. 部下たちはこんな姿を見て異口同声で ¥”敵軍に会えば逃げるしかない.¥” と歎息した. 李舜臣がザブヒョがザ日本軍長寿たちも ¥”李舜臣が消えたからもうどんな心配がない.:その好きで宴までした.

6月下旬, それでも朝鮮水軍に対する恐ろしさが残っていた倭軍は再びこの中スパイヨシラをギムウングソに送って後続部隊がすぐ海を渡るから朝鮮水軍が守っていてから攻撃すれば成功するはずだという密書を伝えた. 諜報を受けたドチェチァルサイワンイックは桃源数権慄と相談して水軍の出動を言い付けた. 倭軍のまったく同じな奸計に三回も移ったわけだった. 命令を受けた権菌は先に陸軍がアンゴ−ルポとカトク島の倭軍を打ち破った後水陸連合作戦(水陸連合作戦)を開いて釜山を開かなければならないと言いながらめったに艦隊を出動させなかった. 何回も急がされてからやむを得ず艦隊をひいて出てから 6月 18日にカトク島隣近で日本軍の襲撃を受けて軍船シブヨチォックが損失される敗北に喫すると権慄は元均を四天まで呼び出して棍杖を打ちながら再出動を言い付けた. 閑山島に帰って来た元均は仕方なく戦艦 200余隻を従えて出動した.

7月 4日閑山島を出発した元均の艦隊は 5日に七川量を経って 6日は玉浦に泊って 7日に多大表を経って釜山浦に向けた. ところで絶影島で賊船 1000余隻を見つけて彼らを追撃したが風浪が荒れると閑山島から 4日間もまともに食べるのも寝ることもできなくて船をこいで来た軍事たちだからけんかがまともにできるあごがなかった. 一部は西生け捕りで押しのけて撃破されて元均は残った軍船を従えてカトク島で後退したが背後を守っていた日本水軍が事情なしに攻撃を浴びせると大きく敗れてまた七川量で後退した.

元均が指揮する朝鮮水軍がむちゃくちゃだと思った倭軍は 7月 14日巨済島まで追って来て明くる日夜七川量で総攻撃を浴びせた. この戦闘で全裸右水使イオックギと忠青捜査最好などが戦死したし軍船 130余隻が撃沈された. ただ軽傷右水使排泄だけが軍船 12尺を導いて脱出に成功, 閑山島に至ると皆逃げるようにした後軍糧と武器たちを燃やしてそのやっぱり全羅道で逃げた. こういうわけで李舜臣が血の汗で育成して来た莫強した水軍の全力は一瞬に全滅された. 水軍が全滅されると海は倭軍の独り舞台になったし全羅道もこれ以上安全ではなかった. 四天, 河東, 求礼に引き続き南原, 全州まで陷落されたのだ. 危機を意識した明も急に救援病を増派して朝鮮官軍も倭軍の北上を沮止するために総力を傾けたが戦争の主導権はまた倭軍に移るようだった.

七川量海戦(漆川梁海戦)をきっかけで朝鮮水軍がほとんど全滅されて再び危機にあうと先祖は急に御前会議を開いたが党争と水掛け論で日々を過ごして危急ならば逃げる才しかない偉人たちだからこれといった対策の出るあごがなかった. 先祖は兵曹判書李恒福(李恒福)と刑曹版で金人院(金命元)の真言を受け入れてひとときは殺そうと思ったし今は白衣従軍(白衣従軍)とある李舜臣をまた三道水軍統制使で任命した.

● 不可思議な勝利鳴梁海戦(鳴梁海戦)

官職はこの前どおり帰って来たが血の汗流して育成した強兵と艦隊は間所がなかった. 李舜臣は 15日間南海岸地方を歩き回りながら残った軍船 13尺を引き受けて 120人の軍事を集めてやっと水軍の姿を取り揃えた. 8月 29日進度劈破陣に移動して進度と海南間の品種である鳴梁海峡を最後の防御線にして作戦を構想した. ところで前から臆病だった軽傷右水使排泄の逃げる事件が起こったし, 引き継いで百余隻が超える敵軍艦隊が現われたという正札報告が入って来た. 前には賊船を捜し回って撃滅した朝鮮水軍だったがこれからは待ってから争わなければならない都合だった. そして遂に 9月 16日に軍船 13尺で日本水軍戦艦 133尺と対立して戦わなければならない世界海戦思想類例ない鳴梁海戦(鳴梁海戦)が起るようになった.

しかし李舜臣は軍船と兵力の絶対的な劣勢を乗り越えて敵軍艦隊を潮流の変化がひどくて早い級水勢が流れるウルドルモックで誘引して海底にあらかじめ設置した鉄鎖(鉄鎖)に賊船をかかるようにして連続衝突を起こすようにした. 日本水軍がこれから進撃することができずに配意中心を取ることができなくて右往左往している途中朝鮮水軍の砲撃を受けて支離滅裂(支離滅裂)して大きい打撃を受けた. 朝鮮水軍はこの戦闘で賊船 31尺を撃沈させて 8千名余の敵兵を殺傷する大勝利をおさめた. 日本水軍の急先ぽうである旧塁シマミチフサ[来島道総]も李舜臣の弓矢(弓矢)にあって海に落ちて戦死した. 一方朝鮮水軍の被害は戦死者 2人と負傷者 3人が全部だったし, 13尺の郡では中ただ一尺も損失されなかったから, 東西古今(東西古今)に空前絶後(前無後無)一奇蹟の勝捷である鳴梁海戦(鳴梁海戦)で丁酉災乱は再び転機を用意するようになる.

鳴梁海戦(鳴梁海戦)で日本水軍が軍船 133尺と軍事 3万名余の大兵力で軍船 13尺と軍事 120人余りだけな瓦解された朝鮮水軍に信じられない敗北に喫すると小西ユキナがを含めた賊将たちは惨敗のさげすみを抱かれてくれた李舜臣に仕返しするために牙山に兵力を送って李舜臣のセッチェアドル裏面を殺害する蛮行をやらかしたりした.

1598年 2月に朝鮮水軍の新しい本営を莞島古今島で決めた李舜臣はここで水軍の全力を復旧するためでいた努力を傾けた結果軍船を 40余隻もう乾燥して軍事も 8000人余りでふやすことができるようになった. ところで明から支援軍に来た水軍渡独ジンリン(陳〓)が慢心に欲心も多くて暴悪で朝鮮水軍の作戦遂行さえ邪魔を与えるようになったら, 新しい苦手に違いなかった. 李舜臣はこんなジンリンを撫でさして専攻(戦功)があれば彼に回して結局は彼をギムボックシキョ明水軍の指揮圏も掌握した. 李舜臣の高邁な人柄と卓越な指揮力と広い学識がこの無智で暴悪な中国人長寿まで感服させて後には強姦と掠奪を事とする自分の部下に対する処罰権限まで渡してやったら明水軍将卒たちも李舜臣を恐れるのに至った.

● 露梁沖合の最後の戦闘で殉国

その年 8月 18日戦争を起こした元凶豊臣秀吉[豊臣秀吉]が死ぬと朝鮮にあった倭軍も撤収するしかなかった. 小西ユキナがにわいろを受けたジンリンはそうでなくても争いたくないのによくできたとしながら道を出てくれようと言ったが不具戴天元首外敵(倭敵)をつけたしたやつもいかして送らないという固い決意をした李舜臣が承諾するわけなかった. わいろを受けたジンリンは対局長寿の言葉を聞かないと刀まで抜いて入ってかんかんになって暴れ狂ったが李舜臣は搖之不動(搖之不動)だった.

結局ジンリンが密かに道を出てくれたすきに乗じて日本軍のフェリーボート一尺が抜けて救援を要請して日本軍船 3百余隻が南海の露梁沖合に寄り集まった. 諜報を手に入れた李舜臣が全軍に出征命令を下げるとジンリンもやむを得ずより出た. 11月 19日夜明けに露梁では照明連合数だね(朝明連合水軍)と日本水軍の間に最後の対決前(大結戦)が起った. 熾烈な接近戦(接近戦)で開かれたこのノリャン海戦(露梁海戦)で日本水軍は 6千名余が越える戦死者と 5百名余に至る負傷者が出て軍船 4百余隻がこなごなに壊れる打撃を受けたが, 朝鮮水軍も 2百名余に至る戦死者を出す被害を被った. 李舜臣は賊船たちに包囲されたジンリンの大長線を救援して逃走する賊船 50余隻を追い掛けている途中敵軍の銃弾を当たって悲壮な最後を終えた. しかし死ぬ前に ¥”私の身を盾で選り分けなさい. 戦闘の終わるまで私が死んだというものを言わない.¥”は遺言を残したので軍事たちは李舜臣将軍が戦死したという事実が分からなかった.

戦闘が大勝で終わった後李舜臣将軍が戦死したという消息が全軍船と軍事たちに伝わると海はいちめん泣き喚き性でむかむかしたし, 明長寿と軍事たちも泣いた. 1598年 11月 19日, 李舜臣将軍の年あの時 54歳だった. 彼の永久(霊柩)はまず南海露梁現在の忠烈寺(忠烈祠) 席にしばらく安置されてからすぐ本陣があった古今島に移された. そしてまた故郷である牙山に運柩された. 翌年 2月 11日牙山に到着した永久は金星山下に葬ってから 16年後現在の席であるアラ山岸に天井した. 1604年に調整では李舜臣に船務1ドングゴングシンに左議政かたがた徳風府院君(徳豊府院君)が追贈されたし, 1643年には忠武(忠武)という諡号が下ろされたしまた 1793年には領議政に加増された.

燎忠祠(顯忠祠)は李舜臣将軍が殉国してから 108年後の 1706年に建立されてその翌年肅宗(肅宗)の親筆懸板が王の命名された. その後 200余年間追慕の香華が絶えなかったり日帝強制占領期間には取り払われる危機に落ち込んだりした. ここに 1932年忠武公遺跡保存委員会が先に立って祠堂を再建して影幀を奉安したし, 1945年光復以後毎年 4月 28日将軍のタンシンイルに祭享をあげている. 1956年牙山君ウンボン面三叉路にある将軍の墓所が史蹟第112号に指定されたのに相次いで 1967年には燎忠祠も浄化, 飾りつけて聖域化されて史蹟第155号に指定された.

戦地ではすぐれた知略で勝ちっ放し(連戦連勝)一卓越な名将だったし, 家庭では孝誠手厚い親孝行だったし, 部下たちを寛大にかばってやって民たちを愛した李舜臣将軍. 真の愛国の道, 真の人の道を提示してくれた李舜臣将軍こそ武人(武人)の次元を越してうちの同胞の住む道を開いてくれた救世主と言っても度が外れた話にならないことだ.



한국의 역사 인물 1.이순신(李舜臣)

우리 민족의 역사가 시작된 이래 수많은 외적의 침범이 있었으나 그때마다 우리 선조들은 뜨거운 구국(求國)의 의지와 비상한 투지로 국난(國難)을 극복해왔다. 외적의 침범으로 나라와 겨레가 전란(戰亂)의 소용돌이에 휘말릴 때마다 탁월한 통솔력과 빛나는 지혜를 발휘하여 적침(敵侵)을 물리치고 조국을 위기에서 구해 낸 구국의 영웅은 많았지만 충무공(忠武公) 이순신(李舜臣)이 한국 역사상 최고의 전쟁 영웅이라는 사실에는 아무도 이의를 제기할 수 없을 것이다. 이순신은 임진왜란(壬辰倭亂)이라는 미증유의 재앙을 당해 나라와 겨레의 멸망이 눈앞에 이르렀을 때 하늘이 이 땅에 내려준 구세주였다. 그는 가난한 선비의 아들로 태어나 54년의 길지 않은 일생을 보내는 동안 온갖 고난 속에서도 오로지 충효인의(忠孝仁義)와 애국애족(愛國愛族) 정신으로 일관한 민족의 사표였다. 전쟁터에서는 죽음을 두려워하지 않고 항상 앞장서서 전투를 벌였으며, 불리한 여건 속에서도 필승의 신념과 비상한 전략 전술로 연전연승(聯戰聯勝)을 거두었던 불세출의 명장 이순신. 그는 16세기 동아시아 최대의 전란(戰亂)이었던 임진왜란(壬辰倭亂)과 정유재란(丁酉再亂) 7년 동안 조선 수군의 총지휘관으로서 남해안 바다를 지키며 23회의 해상전투에서 전승무패(全勝無敗)의 전공(戰功)을 세우고, 신기(神氣)에 가까운 용병술(用兵術)로 일본군을 공포에 떨게 한 전략가였다. 또한 조국에 대해서는 지극한 충성심으로 헌신했고 가정에서는 극진한 효성과 자애를 다했으며, 부하들에게는 너그러운 포용력으로 감싸주고 창의력을 길러주는 등 참다운 삶의 길을 제시해준 겨레의 큰 스승이었다. 영국 해군의 준장(准將)으로 제2차 세계대전에 참전했던 해전사가(海戰史家) 발라드(G.A. Ballard) 장군은 "동양에 넬슨(Horatio Nelson)에 버금가는 해전의 영웅이 존재했다는 사실을 영국인들은 잘 알지 못하지만 조선의 이순신이 동양 최고의 해군 사령관이라는 것은 부인할 수 없는 사실이다."라고 이순신을 높게 평가했다. ● 32세에 무과 급제, 미관말직(微官末職)으로 전전 이순신(李舜臣)은 1545년 3월 8일 서울 건천동에서 덕수 이씨 가문의 선비 이정(李貞)의 셋째 아들로 태어났다. 이순신의 조부였던 이백록(李百錄)은 기묘사화(己卯士禍)에 연루되어 억울한 죽음을 당했고, 부친은 이 때문에 벼슬살이를 외면한 채 무명의 평범한 선비로 지냈다. 그러므로 이순신이 태어나고 자랄 무렵의 가세(家勢)는 매우 궁핍했다. 갈수록 형편이 곤궁해지자 부친은 현재 현충사(顯忠祠) 자리에 있던 충남 아산시 염치면 백암리의 처가로 낙향했다. 이순신은 이곳에서 32세 때에 무과에 급제할 때까지 생활했으니, 백암리야말로 그의 고향이나 다름없었다. 20세 때에 상주 방씨 가문의 무관 방진(方震)의 딸을 아내로 맞아 혼인한 뒤 장인의 영향을 받아 무과시험에 응시하기 위해 병서를 읽고 무술을 닦는 연습을 시작했다. 그러나 28세 때에 무과시험에 응시했으나 기마술(騎馬術) 종목에서 낙마하는 바람에 부상을 입고 낙방하고 말았다. 그로부터 4년이 지난 1576년 2월에 32세의 나이로 다시 무과에 응시, 합격한 그는 그해 12월 압록강 상류 국졍지대인 함경도 동구비보의 권관으로 첫 관직 생활을 시작하였다. 3년 뒤 35세 때 훈련원 봉사로 전근되어 서울로 왔는데, 원래 말수가 적은 이순신으 묵묵히 자신이 맡은 인사 관계 업무에만 전념할 뿐 한눈파는 일이 없었다. 그때 상관인 병조정랑 서익(徐益)이 자신의 친지 하나를 특진시키려고 했는데 이순신은 이를 완강히 거부했다. 뚜렷한 공로도 없이 서열을 무시한다면 당연히 승진할 사람이 못 올라가고 나라의 법도에도 어긋난다는 것이었다. 서익은 정5품의 계급을 앞세워 강압적으로 뜻을 관철하려 했으나 끝내 이순신의 뜻을 꺾을 수가 없었다. 소문이 퍼지자 일부는 통쾌하게 여겼지만 일부는 서익의 앙심으로 이순신이 후환을 당할까 걱정했다. 당시 병조판서 김귀영(金貴榮)은 이런 이순신의 사람됨이 마음에 들어 자신의 서녀를 소실로 주고자 했다. 그러나 이순신은 권력자에게 붙어 출세하려는 것은 옳지 못한 일이라면서 거절했다. 이렇게 성품이 강직하니 금력과 권모술수가 난무하는 중앙 관계에 오래 붙어 있을 수가 없었다. 훈련원 봉사로 임관된 지 8개월만에 그는 충청도병마절도사의 군관으로 좌천당했다. 그러나 그는 아무 내색도 없이 부임해 맡은 일만 열심히 했고, 간혹 출장을 다녀올 때에도 남은 양식을 반납할 정도로 공사(公私)가 분명하고 청렴결백한 생활을 했다. 이순신은 1580년 36세 때에 전라좌수영 관내의 발포만호로 전근되었다. 수군과 처음으로 인연을 맺은 그는 여전히 자신의 임무에만 충실하려고 했지만 강직하고 청렴결백한 성품 탓에 끊임없이 소인배들의 중상과 모략을 당했다. 한번은 직속상관인 전라좌수사 성박(成搏)이 거문고를 만들겠다며 객사 뜰 앞의 오동나무를 베어 보내라고 했을 때, 이순신은 "이 나무는 나라의 것이고 여러 해 길러온 것이므로 함부로 벨 수 없다." 면서 딱 부러지게 거절했다. 이처럼 옳지 못한 일은 참지 못한 울곧은 성품 때문에 열 차례 위기를 당하던 이순신은 1582년에 훈련원 봉사 시절의 상관이던 서익의 모함에 걸려 파면당하고 말았다. 그러나 그때는 이순신이 울곧은 인물이라는 사실이 이미 조정 안팎에 널리 알려져 있었다. 이런 사실을 잘 알고 있던 당시 이조판서인 율곡(栗谷) 이이(李理)가 대사간 유성룡(柳成龍)을 통해 한번 만나자고 전해왔다. 율곡은 이순신과 동성동본(同姓同本)으로 나이는 3세 위였지만 항렬은 19촌 조카뻘이었다. 이순신은 이번에도 "나와 율곡은 집안간이니 못 만날 것도 없지만 그가 관서로 있는 한은 만나는 만나는 것이 옳지 못하다." 하면서 끝내 만나지 않았다. 그는 파직된 지 4개월 만인 그해 5월, 전에 근무하던 훈련원 봉사로 복직되었다. 종4품에서 종8품으로 형편없이 강등당한 셈이지만 그는 한마디 불평도 없이 맡은 일만 성실히 했다. 그리고 틈만 나면 궁술(弓術) 연마도 열심히 했다. 그런데 어느 날 이순신의 전통(箭桶)을 본 우의정 유전(柳塡)이 이를 탐내 달라고 했다. 이순신이 "이것을 드리기는 어렵지 않지만 이 일로 인해 대감과 제가 더러운 소리를 들을까 두렵습니다." 라고 말했더니 유전이 "그대 말이 옳다!" 고 탄복하면서 다시는 입에 올리지 않았다. ● 두만강변 국경에서 여진족과 싸우다가 백의종군 그 이듬해 이순신은 함경도병마사의 군관을 거쳐 여진족의 침범이 잦은 두만강가 건원보의 권관으로 전임되었다. 이곳에서 여진족 추장을 사로잡는 무공(武功)을 세웠지만 병마사 김우서(金禹瑞)의 시기로 아무 포상도 받지 못했고 벼슬도 올라가지 못했다. 그리고 다음달인 11월에 고향에서 부친이 돌아가셨다는 소식을 들고 아산으로 달려가 상복을 입고 3년상을 치르었다. 42세 때에 종6품 사복시 주부로 복직했다가 16일만에 건원보와 가까운 조산보만호로 임명되었다. 이듬해에는 조산보에서 좀 떨어진 두만강 가운데 녹둔도 둔전관도 겸하게 되었다. 병력은 부족한데 여진족이 수시로 쳐들어오고 해서 북병사 이일(李鎰)에게 수차 증원군을 요청했으나 번번이 묵살당했다. 그해 수확기에 수많은 여진족이 침범하여 약탈과 살인을 일삼자 이순신은 겨우 10여명의 부하를 거느리고 악전고투(惡戰苦鬪) 끝에 적군을 무찌르고 포로가 된 주민 60여명도 구해냈다. 하지만 이일은 이순신을 패장(敗將)으로 몰아 죽이려 했다. 이순신이 패전(敗戰)의 책임을 묻는 이일에게 이렇게 항변했다. "이것이 어찌 패전(敗戰)이라고 하시오? 그리고 수차례 병력을 증원해달라고 요청했는데 한 명도 보내준 적이 없었잖소? 그 공문 사본이 모두 여기 있으니 조정에서 알면 내게 죄가 있다고는 못하리다." 이일이 할 말이 없자 옥에 가둔 뒤 조정에는 적당히 보고했다. 결국 이순신에게 백의종군(白衣從軍)이라는 부당한 명령이 떨어졌다. 벼슬에서 물러나 쉬고 있던 그는 1589년 45세 때에 전라감사 이광의 군관과 종5품 정읍현감으로 임명되었다. 정읍현감 재임시 이순신은 노모를 비롯해 먼저 간 두 형의 자식, 즉 조카들까지 데려다가 부양했다. 이 일로 너무나 많은 식솔을 거느린다는 비난이 일자 그는 "내가 차라리 벼슬이 떨어지더라도 이 의지할 곳 없는 것들을 돌보지 않을 수 없다" 면서 결혼도 자기 자식들보다 먼저 시켜주는 등 따뜻이 보살펴주었다. 1590년 7월에 이순신은 유성룡의 천거로 종 3품직인 고사리진첨사로 임명되었으나 사간원(司諫院)의 반대로 발령이 취소되었고, 다시 1개월 뒤에는 만포진첨사로 임명되었으나 이것도 역시 사간원의 반대로 발령이 취소되었다. 이듬해 2월에는 진도군수로 임명되었다가 부임도 하기 전에 가리포진첨사로 임명되었으며, 임지로 부임하기 직전인 2월 13일 정3품 당상관인 전라좌수사로 임명되었다. 역시 서인들의 반대를 무릅쓴 좌의정 유성룡(柳成龍)의 강력한 천거가 있었다. ● 유성룡의 천거로 47세 때에 전라좌수사 임명 당시 전라좌수영은 여수에 있었으며, 남해안 방어의 중책을 맡은 이순신은 다가올 전쟁을 예견하고 방비에 최선의 노력을 기울였다. 그는 장차 일본의 대대적인 침략이 있을 것으로 미리 내다본 몇 안 되는 사람이었다. 그는 군왕 선조(宣祖)를 비롯하여 무능한 조정 대신과 장수들이 아무 대책도 없이 쓸모없는 당쟁으로 허송세월을 하는 동안 밤낮을 가리지 않고 관내를 순시하고 전함을 새로 만들거나 수리하고 무기를 손질했다. 그리고 열심히 수군을 훈련시켰다. 특히 이순신은 침식을 잊고 일본의 군선들을 효과적으로 제압할 수 있는 특수 전투 돌격선 제작에 심혈을 기울였는데, 그의 부하 중에는 조선술(造船術)에 천부적인 재능을 가진 나대용(羅大用)이란 군관이 있었다. 나대용은 이순신의 전적인 신임을 받고 거북선[龜船]을 설계, 건조하는데 힘써 임진왜란(壬辰倭亂) 발발 직전에 완공 단계에 이르게 되었다. 거북선과 더불어 이순신이 신경을 썼던 것은 해전에서 사용할 각종 화약 무기를 개발하는 일이었다. 특히 당시까지는 해전에서 주병기로 사용하지 않던 천자총통(天字銃筒), 지자총통(地字銃筒), 현자총통(玄字銃筒), 황자총통(黃字銃筒), 차대전(次大箭), 대장군전(大將軍箭), 철환(鐵丸) 등 발사무기와 화약 준비에 온 힘을 기울였다. 마침내 일본의 태합(泰合) 도요토미 히데요시[豊臣秀吉]는 1592년 4월 14일에 20여만명의 군사와 7백여척의 군선을 파견하여 조선 침략을 개시했다. 이순신의 우려가 현실로 나타났던 것이다. 대한해협을 건너오는 동안 아무 저항도 받지 않고 부산포에 상륙한 일본군은 부산진첨사 정발(鄭撥)과 동래부사 송상현(宋象賢)의 허약한 방어선을 무너뜨리고 무인지경(無人之境)을 가듯 북진(北進)을 계속했다. 4월 17일에는 양산을 점령하고, 잇따라 언양, 김해, 경주, 창원 등지를 점령하며 계속 북진했다. 그 사이 구키 요시다카[九鬼嘉隆], 도도 다카토라[藤堂高虎]가 거느린 1만여명의 일본 수군은 조선 수군의 전력을 무력화시키는 작전을 펼쳤다. ● 이순신의 뛰어난 지도력과 조선 수군의 연전연승(聯戰聯勝) 4월 17일에야 급보를 받은 조정에서는 당대 최고의 명장으로 인정받던 신립을 내려보내 일본군의 북상을 저지하도록 하고 유성룡을 도체찰사로 삼아 군사들을 총지휘하게 했다. 하지만 조선 관군은 군대다운 군대의 모양조차 갖추지 못한 형편인지라 근 1백년 동안의 내전(內戰)을 통해 강병으로 변모한 일본군이 조총(鳥銃)이라는 신무기까지 앞세우고 쳐들어오자 당할 도리가 없었다. 순변사 이일(李鎰)은 상주에서 일본군의 기습으로 군사 8백여명을 잃고 패배하여 도주했으며, 도순변사 신립(申砬)도 충주에서 방어선을 형성하고 일본군의 선봉장인 고니시 유키나가[小西行長]를 맞아 싸웠으나 전술 부재로 역시 패배, 전사하였다. 국왕과 조정의 대신들은 서울을 버리고 몰래 임진강을 건너 개성, 평양을 거쳐 국경인 의주까지 피난길을 재촉했다. 일본군이 서울을 함락시킨 것은 5월 2일, 다시 보름이 지난 그 달 13일에는 평양까지 점령했으니 겨우 2개월 만에 거의 전 국토가 일본군의 발길에 무참하게 유린된 것이었다. 한편 수군의 형편은 어떠했던가. 처음 일본군의 대선단을 발견한 가덕도첨사 전응린(田應麟)의 보고를 받은 박홍(朴泓)은 경상우수사 원균(元均)에게 통보하고 응전 태세를 갖추는 듯했으나 일본군의 세력이 너무나 강대하자 무기와 군량을 바다에 버리고 육지로 도망쳤으며, 원균 또한 1백여척의 군선을 자침(自沈)시키고 1만여명의 군사를 해산시킨 뒤 겨우 소수의 군선을 이끌고 한산도 근처에 와서 전라좌수사 이순신(李舜臣)에게 구원을 요청했다. 원균의 요청을 받은 이순신은 전라우수사 이억기(李檍祺)에게 통보하고 함께 출전하기로 했으나 그가 기일을 지키지 못하자 전라좌수영 함대만 이끌고 출동했다. 그날이 5월 4일이었다. 이튿날 판옥선(板屋船) 24척을 거느리고 당포에 이르렀으나 약속한 원균은 그 다음날 한산도 근해에서 찾을 수 있었는데 그가 거느린 군세(軍勢)란 판옥선 4척과 협선(狹船) 2척뿐이었다. 5월 7일에 거제도 남쪽 옥포에 적선들이 정박해 있다는 보고를 받은 이순신은 함대를 지휘하여 옥포에 있는 일본 수군을 공격했다. 조선 수군은 이 전투에서 도도 다카토라[藤堂高虎]가 거느린 30여척의 일본 군선 중에서 26척을 격침시키고 4천 5백여명의 일본 수군 병사를 살상하는 승리를 거두었다. 뒤이어 합포에서 적선 5척을 격침시키고 적진포에서는 적선 13척을 분쇄했는데, 아군의 손실은 부상자 2명뿐이었다. 이순신의 백전백승(百戰百勝)하는 탁월한 지휘능력이 빛나기 시작했던 것이다. 29일에는 사천 앞바다에서 적선 13척을 격침시키고 적병 3천여명을 살상하는 전과를 올렸는데, 이때 이순신과 나대용이 부상을 입게 되었다. 6월 2일에는 당포에 정박해 있던 일본 군선 30여척을 공격하여 21척을 쳐부수고 적병 4천여명을 섬멸했는데, 적장 구루시마 미치유키[來島通之]가 이 전투에서 전사하였다. 6월 4일에는 전라우수사 이억기가 25척의 군선을 거느리고 합류하여 조선 수군의 사기가 하늘을 찌를 듯 높아졌다. 전력이 증강된 조선 삼도수군 연합선단(朝鮮三道水軍聯合船團)은 당항포에 있던 일본 수군을 공격하여 적선 26척을 격침시켰으며 적장의 수급(首級)도 일곱 개나 베어 얻은 전과를 올렸다. 7월 8일에 이순신은 다시 원균, 이억기와 합세하여 군선 55척을 거느리고 견내량에 정박해 있던 일본 군선 76척을 한산도 앞바다로 유인하여 학익진(鶴翼陣)으로 와키사카 야스하루[脇坂安治]의 함대를 포위하고 무차별 포격으로 적선 59척을 격침시켰는데, 바로 한국 역사에 길이 빛날 한산도대첩(閑山島大捷)이었다. 9월 초에 벌어진 부산포해전(釜山浦海戰)에서는 100여척의 적선을 불태우고 쳐부수었다. 이로써 남해안 동쪽 일부를 제외한 80% 이상의 재해권을 조선 수군이 장악하기에 이르렀다. 이는 또한 서남해를 통해 곡창인 전라도를 장악하고 나아가 황해로 북상하여 중부 이북을 공략하려는 적군의 기도를 여지없이 무산시키는 전략적 승리를 뜻하기도 했다. 일본 수군이 이순신의 함대만 만나면 여지없이 대패한다는 보고를 받은 도요토미 히데요시는 마침내 "조선 수군과 마주치면 싸우지 말고 도망쳐라." 는 명령을 내리는 한편, 전국 각지에 대대적인 전함 건조를 지시했다. 해가 바뀌어 1592년 2월, 이순신이 이끄는 조선 수군은 군선 8백여척으로 증강된 일본 수군을 약 1개월 동안 일곱 차례에 걸친 해상전투 끝에 격멸시키니 일본 수군은 완전히 전의를 상실하고 거제도 서쪽 해상에서는 적선의 그림자도 볼 수 없었다. 그해 7월 15일에 이순신은 여수에서 부산포가 가까운 한산도로 본영을 옮겨 전함과 무기를 새로 만드는 한편 군사들의 조련도 열심히 했다. 충청수사 정걸이 전함 수십 척을 거느리고 합류한 것도 이때였다. ● 조선 수군 총사령관 삼도수군통제사에 임명 8월 1일 군왕 선조는 이순신을 전라좌수사 겸 삼도수군통제사로 임명했다. 발령은 8월 1일자였으나 명령을 받은 것은 10월 9일이었다. 이때 그의 나이 49세 때였다. 이로써 조선 수군의 총사령관이 된 이순신은 지금가지 똑같은 계급이었던 전라도, 경상도, 충청도의 수사들을 지휘 감독하여 작전명령권을 행사할 수 있게 되었다. 출중한 장수였던 이억기와 정걸 등은 평소 이순신의 고매한 인품과 탁월한 통솔력에 감복하던 바여서 충심으로 승진을 축하해주고 복종을 다짐했으나, 나이도 많고 군에서도 선배였던 원균은 불만의 기색을 감추지 않았다. 원균의 불평과 독단적인 행동으로 군심(軍心)이 뒤숭숭해지자 이순신은 차라리 자신이 물러나겠다는 생각에서 직책을 바꿔줄 것을 요청했다. 중요한 전투를 앞두고 자중지란(自中之亂)이 일어나면 그 결과는 자멸뿐이란 것을 염려한 충정의 발로였다. 조정에서도 여러 차례 이순신과 원균의 문제를 논의한 결과 원균을 전출시키는 것으로 결말을 보았다. 그는 충청병사를 거쳐 전라병사로 갔다가 뒷날 이순신이 모함에 결려 원통하고 억울하게 죽을 고비를 넘기고 백의종군할 동안 그렇게 원하던 통제사 자리를 차지하게 된다. 이순신이 한산도에 머문 것은 그해 7월부터 1597년 2월까지 3년 7개월간이었다. 원균의 후임 경상우수사로는 배설(裵楔)이 왔다. 그동안 육상의 전황은 어떠했던가. 개전 초 관군이 조총을 앞세운 왜군의 공격에 싸움다운 싸움 한번 변변히 못한 채 여지없이 패퇴를 거듭할 때 경상도에서 홍의장군 곽재우(郭再祐)가 가장 먼저 의병부대를 조직하여 왜군을 물리친 데 이어 조헌(趙憲), 고경명(高敬命), 김덕령(金德齡), 김천일(金千鎰), 정문부(鄭文孚), 휴정(休靜), 유정(惟政) 등이 잇달아 의병을 일으켜 관군과 합동으로 싸우거나, 또는 단독작전을 감행하여 각지에서 일본군을 괴롭혔다. 또한 조선의 구원요청을 받은 명(明)에서도 지원군을 보내 이여송(李如松)이 군사 4만여명을 거느리고 압록강을 넘어 조선군과 연합작전(聯合作戰)을 펼쳐 평양을 수복했다. 한편 경상죄병사 박진(朴晉)은 이장손(李長孫)이 발명한 비격진천뢰(飛擊震天雷)라는 화약 무기를 전투에 사용하여 경주성을 탈환하고 왜군을 서생포로 내쫓았으며, 진주목사 김시민(金時敏)도 6일간의 결사항전(決死抗戰)으로 왜군 3만여명의 공격을 막아내고 진주성을 사수하면서 순국했으며, 전라도순찰사 권율(權慄)은 행주산성에서 군사 2500여명을 지휘하여 우키다 히데이에[宇喜多秀家], 고바야카와 다카카게[小早川隆景]가 이끄는 왜군 3만여명을 격퇴시키는 행주대첩(幸州大捷)을 기록하기도 했다. 본래 일본군의 전략은 서울을 함락한 뒤 고니시 유키나가[小西行長]는 평안도를, 가토 기요마사[加藤淸正]는 함경도를 점령하고, 수군은 황해를 거슬러 올라가 조선 전역을 석권하는 것이었으나, 이순신의 함대가 연이어 일본 수군을 격파하고 의병들과 승군이 유격전(遊擊戰)으로 일본군에 타격을 입혀 진로가 막히고 보급로마저 차단되면서 전황은 지리멸렬(支離滅裂), 교착상태에 빠지고 말았다. ● 명나라와 일본의 강화교섭으로 전황은 교착상태 이때 명나라의 유격장군 심유경(沈維敬)이 조선으로 건너가 명군과 왜군 진영을 오가며 강화협상(講和協商)을 진행시켜 1593년 일단 일본군을 남쪽으로 철군시켰다. 그러나 이는 사기가 저하된 일본군에게 다시 힘을 길러주는 기회만 제공한 셈이 되었다. 조선 관군의 장수와 의병대장들은 분노했으나 독자적으로 일본군을 격퇴시킬 힘이 없었고, 무능한 조정에서 요청한 명군은 대국군(大國軍)이라는 자만심에서 조선의 대신돠 장병들을 우습게 여기는 것은 물론 일부 지역에서는 왜군에 못지않게 잔악한 만행을 저지르는 형편이었다. 이순신은 한산도 통제영에서 군량을 마련하고 무기를 제작하고 전함을 건조하며 군사를 조련하는 등 언제 어디서 벌어질지 모를 전투에 대비하여 잠시도 준비를 게을리하지 않았다. 그는 삼도수군통제사라는 최고위직에 있으면서도 병사들과 똑같은 생활을 했으며 군율은 엄히 시행하되 부하가 전사하면 친자식을 잃은 듯 슬퍼하며 친히 장사지내니 군사들과 백성들 모두가 친부모를 따르듯 하였다. 이처럼 불철주야(不撤晝夜)로 장병들과 함께 나라를 걱정하며 적군을 조선 당에서 완전히 몰아낼 방도만 궁리하던 이순신이었지만 또다시 악운이 찾아왔다. 정유재란(丁酉再亂)이 일어나던 1597년 초, 일본의 첩자 요시라가 경상우병사 김응서(金應瑞)를 찾아와 가토 기요마사와 사이가 나쁜 고니시 유키나가의 계책이라면서 , 본국에 돌아갔던 가토 기요마사가 아무 날 어디로 오는데 조선 수군으로 하여금 지키고 있다가 치면 죽일 수 있을 것이라고 했다. 이것은 이순신이 지키고 있는 한 바다를 건너 조선을 침공할 수 없다고 판단한 일본군의 간계였으나 병법에 대해 무지한 무능한 장수와 대신들은 이 말을 그대로 믿었다. 김응서는 도원수 권율에게 보고하고 조정은 이순신에게 부산으로 잔격하여 가토 기요마사를 요격하라는 명령을 내렸다. 참으로 어처구니없는 일이었다. 이순신은 적군의 간계라는 사실을 간파했으나 조정의 명령을 거역할 수 없어서 함대를 출동시키는 대신 우선 척후선을 보내 적군의 동태를 정찰토록 했다. 적군의 함정에 바지지 않기 위해서였다. 첫번째 계략에 실패한 일본군 수뇌부는 다시 요시라를 김응서에게 보내 "이순신이 바다를 막지 않는 사이에 기요마사가 조선에 상륙했다."고 이간책을 썼다. 그런데 가토 기요마사가 바다를 건너온 것은 권율이 이순신에게 조정의 명령을 하달하기 이미 일주일 전이었다. ● 왜군의 간계에 넘어가 두번째 백의종군 당시 조정은 전란으로 나라가 망하기 직전에 이르렀음에도 동서로 갈라진 당쟁은 피난 중에도 그칠 줄 몰랐고, 선조(宣祖)는 오늘은 동인의 손을 들어줬다가 내일은 서인의 손을 들어줬다 하면서 자신의 왕권안보에만 관심을 쏟았다. 그런데 이순신이 흉계에 바질 무렵에는 원균과 가까운 서인들의 발언권이 더욱 강했다. 윤두수(尹斗壽)를 중심으로 한 서인들은 어전회의 때마다 이순신을 모함하는 반면 원균을 천거하기에 갖은 애를 썼다. 그런 중에 마침 결정적인 호재가 생긴 것이었다. 그해 2월 6일 이순신은 난리가 나면 도망이나 치고 탁상공론이나 일삼는 대신들의 아우성에 따라 해임되고 "조정을 속이고 적군을 치지 않았다" 는 죄목을 뒤집어쓰고 금부도사에게 잡혀 올라가게 되었다. 그는 후임자인 원균에게 군사, 무기, 군량 등을 정확히 인계하고 그날 26일 돼지우리 같은 남거에 실려 수많은 백성과 군사들이 울부짖는 가운데 서울로 끌려갔다. 그리고 의금부(義禁府)에 갇혀 갖은 고문을 당했다. 판중추부사 정탁(鄭琢)이 적극 나서서 고문만은 하지 말 것을 하소연하고, 이에 앞서 도체찰사 이원익(李元翼)도 글을 올려 "왜군이 가장 두려워하는 것은 우리 수군이고, 이순신을 바꿔서는 안 되며, 원균을 보내서도 안 된다."고 상소했다. 또한 이덕형(李德馨)도 구명을 호소했고, 이순신의 심복인 정경달(丁擎達)은 죽음을 무릅쓰고 "장군을 죽이면 나라가 망한다"는 상소문을 올렸다. 가가스로 죽음을 면한 이순신은 4월 1일에 풀려났지만 두번째로 백의종군(白衣從軍)하라는 어명(御命)을 받고 무등병으로 강등당해 권율의 원수부(元帥府)에 소속되어 금부도사에게 끌려갔다. 원수부가 있던 합천군 초계로 내려가던 도중에 순천에 피난갔던 83세의 노모 초계 변씨가 아들이 잡혀갔다는 소식을 듣고 배를 타고 올라오다가 세상을 떴다는 비보를 들었다. 참으로 무심한 하늘이었다. 비통한 심정으로 시신을 집으로 모셨으나 금부도사의 재촉에 장례도 치르지 못하고 장대비가 쏟아지는 가운데 합천으로 떠났다. ● 원균의 칠천량해전(漆川梁海戰) 패배로 조선 수군이 전멸되다. 한편 삼도수군통제사로 부임한 원균은 이순신이 아끼던 역전의 장수들을 대부분 갈아치우고 자신의 뜻에 맹종하는 자들을 그 자리에 앉히는가 하면, 군비는 허술히 하는 대신 운주당(運鑄堂)에 들어앉아 주색에만 빠졌다. 부하들은 이런 모습을 보고 이구동성으로 "적군을 만나면 도망치는 수밖에 없다." 고 탄식했다. 이순신이 잡혀가자 일본군 장수들도 "이순신이 없어졌으니 이젠 아무 걱정이 없다.:고 좋아하면서 잔치까지 벌였다. 6월 하순, 그래도 조선 수군에 대한 두려움이 남아있던 왜군은 또다시 이중간첩 요시라를 김응서에게 보내 후속부대가 곧 바다를 건너오니 조선 수군이 지키고 있다가 공격하면 성공할 것이라는 밀서를 전했다. 첩보를 받은 도체찰사 이원익은 도원수 권율과 상의하여 수군의 출동을 명령했다. 왜군의 똑같은 간계에 세 차례나 넘어간 셈이었다. 명령을 받은 권균은 먼저 육군이 안골포와 가덕도의 왜군을 무찌른 뒤 수륙연합작전(水陸聯合作戰)을 펴서 부산을 펴야 한다면서 좀처럼 함대를 출동시키지 않았다. 여러 차례 독촉을 받고서야 마지못해 함대를 끌고 나갔다가 6월 18일에 가덕도 인근에서 일본군의 습격을 받고 군선 십여척이 손실되는 패배를 당하자 권율은 원균을 사천까지 호출하여 곤장을 치면서 재출동을 명령했다. 한산도로 돌아온 원균은 할 수 없이 전함 200여척을 거느리고 출동했다. 7월 4일 한산도를 출발한 원균의 함대는 5일에 칠천량을 지나 6일은 옥포에서 묵고 7일에 다대표를 거쳐 부산포로 향했다. 그런데 절영도에서 적선 1000여척을 발견하고 그들을 추격했지만 풍랑이 거칠어지자 한산도에서부터 4일간이나 제대로 먹지도 자지도 못하고 배를 저어온 군사들인지라 싸움이 제대로 될 턱이 없었다. 일부는 서생포로 밀려가 격파당하고 원균은 남은 군선을 거느리고 가덕도로 후퇴했지만 배후를 지키고 있던 일본 수군이 사정없이 공격을 퍼붓자 크게 패하여 다시 칠천량으로 후퇴했다. 원균이 지휘하는 조선 수군이 형편없다고 생각한 왜군은 7월 14일 거제도까지 쫓아와 이튿날 밤 칠천량에서 총공격을 퍼부었다. 이 전투에서 전라우수사 이억기와 충청수사 최호 등이 전사했고 군선 130여척이 격침되었다. 다만 경상우수사 배설만이 군선 12척을 이끌고 탈출에 성공, 한산도에 이르자 모두 도망치게 한 뒤 군량과 무기들을 불태우고 그 역시 전라도로 도망쳤다. 이로써 이순신이 피땀으로 육성해온 막강한 수군의 전력은 하루아침에 전멸되었다. 수군이 전멸되자 바다는 왜군의 독무대가 되었고 전라도도 더 이상 안전할 수 없었다. 사천, 하동, 구례에 이어 남원, 전주까지 함락된 것이다. 위기를 의식한 명나라도 급히 구원병을 증파하고 조선 관군도 왜군의 북상을 저지하기 위해 총력을 기울였으나 전쟁의 주도권은 다시 왜군에게 넘어가는 듯했다. 칠천량해전(漆川梁海戰)을 계기로 조선 수군이 거의 전멸당하고 또다시 위기를 맞자 선조는 급히 어전회의를 열었지만 당쟁과 탁상공론으로 나날을 보내고 위급하면 도망치는 재주밖에 없는 위인들인지라 뾰족한 대책이 나올 턱이 없었다. 선조는 병조판서 이항복(李恒福)과 형조판서 김명원(金命元)의 진언을 받아들여 한때는 죽이려 했고 지금은 백의종군(白衣從軍)하고 있는 이순신을 다시 삼도수군통제사로 임명했다. ● 불가사의한 승리 명량해전(鳴梁海戰) 벼슬은 예전대로 돌아왔으나 피땀 흘려 육성한 강병과 함대는 간 곳이 없었다. 이순신은 15일간 남해안 지방을 돌아다니며 남은 군선 13척을 인수하고 120명의 군사를 모아 가까스로 수군의 모양새를 갖추었다. 8월 29일 진도 벽파진으로 이동하여 진도와 해남간의 물목인 명량해협을 최후의 방어선으로 삼고 작전을 구상했다. 그런데 전부터 겁이 많던 경상우수사 배설이 도망치는 사건이 일어났고, 이어서 백여척이 넘는 적군 함대가 나타났다는 정찰보고가 들어왔다. 전에는 적선을 찾아다니며 격멸하던 조선 수군이었으나 이제는 기다렸다가 싸워야 하는 형편이었다. 그리고 마침내 9월 16일에 군선 13척으로 일본 수군 전함 133척과 맞서 싸워야 하는 세계 해전사상 유례없는 명량해전(鳴梁海戰)이 벌어지게 되었다. 하지만 이순신은 군선과 병력의 절대적인 열세를 극복하고 적군 함대를 조류의 변화가 심하고 빠른 급물살이 흐르는 울돌목으로 유인하여 해저에 미리 설치한 철쇄(鐵鎖)에 적선을 걸리게 해서 연속충돌을 일으키게 했다. 일본 수군이 앞으로 진격하지 못하고 배의 중심을 잡지 못해 우왕좌왕하다가 조선 수군의 포격을 받고 지리멸렬(支離滅裂)하여 큰 타격을 입었다. 조선 수군은 이 전투에서 적선 31척을 격침시키고 8천여명의 적병을 살상하는 대승리를 거두었다. 일본 수군의 선봉장인 구루시마 미치후사[來島道總]도 이순신의 궁시(弓矢)를 맞고 바다에 떨어져 전사하였다. 반면 조선 수군의 피해는 전사자 2명과 부상자 3명이 전부였으며, 13척의 군선 가운데 단 한 척도 손실되지 않았으니, 동서고금(東西古今)에 전무후무(前無後無)한 기적의 승첩인 명량해전(鳴梁海戰)으로 정유재란은 또다시 전기를 마련하게 된다. 명량해전(鳴梁海戰)에서 일본 수군이 군선 133척과 군사 3만여명의 대병력으로 군선 13척과 군사 120여명뿐인 와해된 조선 수군에 믿을 수 없는 패배를 당하자 고니시 유키나가를 비롯한 적장들은 참패의 수모를 안겨준 이순신에게 보복하기 위해 아산에 병력을 보내어 이순신의 셋째아들 이면을 살해하는 만행을 저지르기도 했다. 1598년 2월에 조선 수군의 새 본영을 완도 고금도로 결정한 이순신은 여기서 수군의 전력을 복구하기 위해 갖은 노력을 기울인 결과 군선을 40여척 더 건조하고 군사도 8000여명으로 늘릴 수 있게 되었다. 그런데 명나라에서 지원군으로 온 수군도독 진린(陳璘)이 자만심에다 욕심도 많고 포악하여 조선 수군의 작전수행마저 방해를 주게 되니, 새로운 골칫거리가 아닐 수 없었다. 이순신은 이런 진린을 무마하여 전공(戰功)이 있으면 그에게 돌리고 결국은 그를 김복시켜 명나라 수군의 지휘권도 장악했다. 이순신의 고매한 인품과 탁월한 지휘력과 넓은 학식이 이 무지막지한 중국인 장수까지 감복시켜 나중에는 강간과 약탈을 일삼는 자기 부하에 대한 처벌 권한까지 넘겨주니 명나라 수군 장졸들도 이순신을 두려워하기에 이르렀다. ● 노량 앞바다의 마지막 전투에서 순국 그해 8월 18일 전쟁을 일으킨 원흉 도요토미 히데요시[豊臣秀吉]가 죽자 조선에 있던 왜군도 철수할 수밖에 없었다. 고니시 유키나가에게 뇌물을 받은 진린은 그렇지 않아도 싸우기 싫은데 잘됐다면서 길을 터주자고 했으나 철천지원수 왜적(倭敵)을 단 한 놈도 살려 보내지 않겠다는 굳은 결의를 했던 이순신이 허락할 리 없었다. 뇌물을 받은 진린은 대국 장수의 말을 듣지 않는다고 칼까지 빼어 들고 길길이 날뛰었으나 이순신은 요지부동(搖之不動)이었다. 결국 진린이 몰래 길을 터준 틈을 타 일본군의 연락선 한 척이 빠져나가 구원을 요청하여 일본 군선 3백여척이 남해의 노량 앞바다에 몰려들었다. 첩보를 입수한 이순신이 전군에 출정명령을 내리자 진린도 마지못해 따라나왔다. 11월 19일 새벽에 노량에서는 조명연합수군(朝明聯合水軍)과 일본 수군 사이에 최후의 대결전(大結戰)이 벌어졌다. 치열한 접근전(接近戰)으로 펼쳐진 이 노량해전(露梁海戰)에서 일본 수군은 6천여명이 넘는 전사자와 5백여명에 이르는 부상자가 나오고 군선 4백여척이 박살나는 타격을 입었으나, 조선 수군도 2백여명에 이르는 전사자를 내는 피해를 입었다. 이순신은 적선들에게 포위된 진린의 대장선을 구원하고 도주하는 적선 50여척을 뒤쫓다가 적군의 총탄을 맞고 비장한 최후를 마쳤다. 그러나 숨을 거두기 전에 "나의 몸을 방패로 가려라. 전투가 끝날 때까지 내가 죽었다는 말을 하지 말라."는 유언을 남겼으므로 군사들은 이순신 장군이 전사했다는 사실을 알지 못했다. 전투가 대승으로 끝난 뒤 이순신 장군이 전사했다는 소식이 온 군선과 군사들에게 전해지자 바다는 온통 통곡성으로 울렁거렸고, 명나라 장수와 군사들도 울었다. 1598년 11월 19일, 이순신 장군의 나이 그때 54세였다. 그의 영구(靈柩)는 우선 남해 노량 현재의 충렬사(忠烈祠) 자리에 잠시 안치되었다가 곧 본진이 있던 고금도로 옮겨졌다. 그리고 다시 고향인 아산으로 운구되었다. 이듬해 2월 11일 아산에 당도한 영구는 금성산 밑에 장사지냈다가 16년 뒤 현재의 자리인 아라산 기슭으로 천장했다. 1604년에 조정에서는 이순신에게 선무1등공신에 좌의정 겸 덕풍부원군(德豊府院君)이 추증되었고, 1643년에는 충무(忠武)라는 시호가 내려졌으며 다시 1793년에는 영의정으로 가증되었다. 현충사(顯忠祠)는 이순신 장군이 순국한 지 108년 뒤인 1706년에 건립되어 그 이듬해 숙종(肅宗)의 친필 현판이 사액되었다. 그 뒤 200여년간 추모의 향화가 끊이지 않다가 일제강점기에는 헐릴 위기에 빠지기도 했다. 이에 1932년 충무공 유적 보존 위원회가 앞장서 사당을 재건하고 영정을 봉안했으며, 1945년 광복 이후 해마다 4월 28일 장군의 탄신일에 제향을 올리고 있다. 1956년 아산군 음봉면 삼거리에 있는 장군의 묘소가 사적 제112호로 지정된 데 이어 1967년에는 현충사도 정화, 단장하고 성역화되어 사적 제155호로 지정되었다. 전쟁터에서는 뛰어난 지략으로 연전연승(聯戰聯勝)한 탁월한 명장이었고, 가정에서는 효성 극진한 효자였으며, 부하들을 너그럽게 감싸주고 백성들을 사랑했던 이순신 장군. 참다운 나라 사랑의 길, 참다운 인간의 도리를 제시해준 이순신 장군이야말로 무인(武人)의 차원을 넘어 우리 겨레의 살 길을 열어준 구세주라고 해도 지나친 말이 아닐 것이다.



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