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猫が言った。「貴方のような下種なやから(人間のくず)は

 

無視するのが一番だと思いますが、

 

愚か者が返事をしたので仕方ないですね。以下引用。「

 

李容洙(イ・ヨンス)さん証言集会
  日時:2005年4月21日(木曜日)午後
  場所:同志社大学今出川キャンパス・寒梅館(クローバーホール)


    司会:森 類臣
    通訳:李 其珍


森:私の方からイ・ヨンス・ハルモニを紹介したいと思います。ヨンス・ハルモニは、1928年、韓国の大邱(テグ)に生まれました。1944年・16歳の時に日本軍に連行されて、台湾の方へ行きました。移動中の船の中で、兵隊たちに繰り返し犯されるという悲劇に見舞われました。ハルモニは1992年6月に名乗り出た後に、現在この日本軍慰安婦の問題に積極的に行動されて、証言なさっています。では、イ・ヨンス・ハルモニに登場していただきたいと思います。


李:今日通訳を務めさせていただきます、李と申¥します。大学院生です。私は日本語のネイティブではないので、少し日本語が聞き取りづらいかと思いますが、どうかご理解の上、お聞きください。それでは、ハルモニの話の会を始めたいと思います。


ハルモニ:皆さんサランハムニダ(「愛しています」の韓国語)。こんにちは。こういう風に学生の皆さんと会えて、本当に嬉しいです。私がこれから話すことは、皆さんが本当に知らなければならないことです。私は皆さんを憎んでいません。罪は憎んでも、人は憎んでいません。

 私は韓国の大邱(テグ)というところで二人目の子供として生まれました。上には兄がいました。下には弟が三人いて、その中の二人は双子の弟でした。我が家は貧乏ではありませんでした。農業をやっていて、金持ちではなかったけれども、ご飯を豊かに食べていける、そういう家庭でした。
 しかし日本は、韓国・朝鮮に来て農業をやって作ったものは全部奪っていき、人も全部連れて行きました。なぜそんなことがあったのか、私はわかりませんでした。
 なぜ日本が朝鮮に来て人をも奪い、物も奪っていくのかとてもわからなかったのですが、その時私は韓国の年齢で16歳でした。日本の年齢で言うと14歳か、15歳です。私は1928年12月13日生まれです。
 証言するイ・ヨンスさん
 ある日、友達が来て「川のところにヨモギを取りに行こう」と言いました。それでヨモギをたくさんとって、川の砂のところに隠しておいて、タニシという貝類を採っていました。その時、堤防のほうで、軍服を着た人と、白い服を着た人2人が、私たちのところを指差して、何かを話していました。それで私はとても怖くて、その時採った貝やヨモギなどを全部捨てて、堤防の方に上がって、その時父はいなかったのですが、まるで一緒にいるように「お父さん、一緒に行こう。一緒に行こう」と叫びました。堤防に上がりながら見ると、軍服を着た人が、友達がいるところに向かっていました。その時私は、 何が起きたのかもわからず、私は何も考えず走って家に帰ったんです。
その後1ヵ月か2ヵ月が経った頃でしょうか。私たちの家はわらぶき屋根だったのですが、その家の裏に小さい道があって、その道に向けて小さい丸い窓がありました。
 私はいつも母と一緒に寝ていたのですが、ある日の夜寝ていたら、コソ¥コソ¥と音が聞こえました。起きて見てみたら、ある女性が首のほうに何かを突きつけられながら、こちらを覗いていました。それでそこをよく見てみたら、帽子を深くかぶった軍人が立っていました。その女性が、私を見て何も言わずに手振りで私を呼んでいたので、私は怖くなり、部屋を出て外の居間のところで座っていました。するとその女性と軍人が一緒に居間まで入ってきて、その女性が片手で私の肩を抱いて、もうひとつの手で口を塞いで私を連れて行きました。その時軍人が、私の背中に何かを突きつけていました。そういう風に私は連れ去られていきました。

 その日の夜はとても月が明るかったのですけれども、連れ去られて行った先には、上は汽車が走って、下は車が走る、両端には人が通れるようになっているトンネルがありました。その中を見ると、女性が3人と軍人が1人いました。そこに私も行きました。すると、女性の1人が私に風呂敷をくれました。それを触ってみると靴や、ワンピースのような洋服が入っているように思われました。私の家と駅は近かったんですが、そのまま駅のほうに連れて行かれて、汽車に乗せられました。その時、韓国の年齢で16歳でした。初めて汽車に乗ったので、酔ってわけがわからなくなって、「お母さん、お母さん、お母さんのところに行く」と言ったら、軍人が「朝鮮人」と言ったか「朝鮮ピー」と言ったかはっきり覚えていないんですけれども、一つにくくっている5人の女性の髪をつかんで、椅子のところに打ち付けて、暴¥力を振るいました。
 その時、その汽車の中に人がいたかどうかはっきり覚えてないのですが、その汽車の中で、そういう風に人が連れられていくのを見たのか、どうやって連れてこられたのか今でもよくわかりません。
 
 そういう風に汽車に乗って、京州(キョンジュ)というところに降りて旅館に入りました。入るとみんな「手と足を前に出せ」と言われました。そして棒で手と足の裏を何度も叩かれました。なんでそんなに手と足の裏を叩くのかわからなかったのですが、今思うと逃げられないようにするためだったのかと思います。そこに3日間いたのですが、毎日叩かれましした。そこで、一緒に連れられてきた、お姉さんたちに「怖くてここにはいられない。私はお母さんのところに帰りたい」と言ったら、軍人たちが来て「朝鮮語を使うな」と言ってまた暴¥力を振るわれました。次の日になると、女性がまた2人連れられてきたのですが、彼女たちも同じように手と足の裏を叩かれていました。
その翌日、なぜか白いご飯とご馳走がたくさん用意されていたので、「なんでこんなものがあるの、どこか行くの」と聞くと、お姉さんが「お母さんのところに行くんだよ」と言うので、とても嬉しくてご飯も食べずに、「お母さんのところに行く。お母さんのところに行く」と飛び跳ねていました。
 そこで朝、顔と手でも洗おうと思って、小川のところに行って手を洗おうとすると、痛すぎて洗うことができませんでした。そんな風に手を洗おうとしていると、目の前に紫の小さい花が小川の中に咲いて揺れていました。まるで人が震えるように花が咲いていたので、私は思わず「あなたも誰かに暴¥力を振るわれているの、あなたの名前は何。」と声をかけました。その時隣に大きい黒いゴムの靴を履いた男の子がいて、彼は「お前はそれも知らないの、バカヤロウ。それは桔梗の花だよ」と教えてくれました。
 私は、男の子の履いていた黒の大きいゴムの靴を奪って、その靴を履いて汽車に乗りました。
汽車に乗って、お母さんのところに行くと思って私はとても嬉しかったのです。しかし汽車は私の家を過ぎていきました。汽車には窓はあったのですが、ガラスがなかったので、私は体を乗り出して「お母さん、お母さん。この人たちが私のことを殺すよ、私のことを殴るよ、助けてお母さん」と泣いて叫びました。すると軍人がまた来て、髪の毛をつかんで中に入れて、頭をこぶしで殴りました。足でも蹴られ、私は気絶してしまいました。
 どれくらい経ったか、どこまで行ったかわからなかったのですが、どこかに着いたらトラックが置いてありました。そのトラックに乗っていくと、平壌(ピョンヤン)に着きました。
 
 ある家に行ったのですが、そこには頭にタオルを巻いたおばさんがいました。その家には水を汲むポンプがあって「それをやれ」と言われたのですが、私は一回もやったことがなかったので出来ませんでした。それができないということで、また連れて行かれて、5人の女性がまた殴られました。その時はとても寒い季節で、手が荒れて痛かったです。
 それで、白菜と大根を採りにトラックに乗ってどこかへ行きました。「大きい大根を採れ」と言われたのですが、力がないので、上の部分だけ折れて、大根が採れませんでした。すると、白菜の畑に連れて行かれて、白菜を採ったその土の上へ5人の女性を投げて、土を掘る道具で頭を殴りつけ、血まみれになるまで殴りました。
 白菜と大根を採る作業が終わって帰るとき、私は遅れてしまい、トラックが出発してしまい乗れなかったのです。私が「私も行く、私も行く」と言ってお姉さんたちをつかんで、やっとトラックに手をかけることが出来たと思うと、そこを軍靴で蹴られて、私はそのまま丘の下に落ちてしまいました。それでも血まみれになってトラックを追いかけて、白菜が乗ったトラックにやっと追いついて、お姉さんたちに助けられて血まみれになったまま帰った記憶があります。
 帰ってみると、その白菜と大根に塩を振って、塩漬けにしていました。それを大きい袋に入れて、トラックに乗せて、またどこかへ持っていくんです。ご飯が出て、「食べなさい」と言われたんですけど食べられませんでした。
 ずっとご飯が食べられない状態だったのですが、「今度は本当にお母さんのところに行くから、最初に貰った風呂敷の中身に着替えて」とお姉さんに言われました。中を見ると、赤いワンピースと靴が入っていました。ワンピースは着られたのですが、靴は足が浮腫んで入らなかったのです。今回は本当にお母さんのところに行くと言われたので、嬉しくてついていくと、今回もまた汽車に乗りました。
 
 そして降りたところが大連(ダイレン)でした。海があり、船が浮かんでいました。そこの港に船が11隻ほどあって、その最後の船に乗ろうとすると「ちょっと待って」と言われました。そこで立って待っていると、海軍の軍人が300人位その船に乗りました。その時私は、本当にお母さんのところに行けると思っていました。正座をして「お母さんのところに行かせてください」と天の神様にお祈りをしていたら、軍人が近づいてきて、私を軍靴で蹴りました。海に落ちそうになったところを、他の4人のお姉さんたちが私の足をつかんで助けてくれました。
そして私たちも「船に乗れ」と言われたので、「これに乗るとお母さんのところに行けるの」と聞くと「本当に行くから。行くから」と言われました。その時逃げようと思って、一緒にいたお姉さんに「ちょっとあっちに行ってくるわ」と言うと「あんたそっちに行くと殺されるから、もう船に乗りましょう」と言われて乗りました。
考えてみると、どうして軍人が300人乗っている船に幼い女の子を5人乗せるのかわからないのです。その時は本当にもう死にたいということしか考えなかったのですが、死ぬことがどういうことかということもあまりわからない年齢だったのです。

証言会場の様子
証言会場の様子

 
 ある日、船で「今日が日本のお正月だ」という放送がされました。そこで、女性が一人船の上に上がって、歌を歌えと言われました。私は小学校の3年生まで勉強をしていました。弟が多くて、「女の子は勉強しなくていいから、弟を勉強させなければならない」と隣のおばあちゃんが話しているのを聞いたことがあります。それを聞いて私は、夜間の学校に通っていました。その学校は正式の学校ではなく、いろんな大人が来て、子供を教えるというもので、そこには日本人の先生がいました。その先生が歌を教えてくれました。
 
 “何にも言えず 靖国の宮の木 交わしきれふせば 熱い涙が出るときは そうだ 感謝のその気持ち そろそろ気持ちがこり守る”

 という歌でした。船の上に上がってこの歌と、他にもう1曲を歌いました。そして、歌を歌ったということで、お正月の餅を箱にたくさん詰めたものを2つくれました。それで、一緒にいたお姉さんたちのところに行って、「歌を歌ってこれをもらったの。今日が日本のお正月だって」と言いながら、分けてあげると、お姉さんたちは泣きました。
 そうしているうちに、ここがどこか、いつなのかもわからなかったので、聞いてみると、上海(シャンハイ)だと言われました。平壌から大連に行って、大連から上海まで行ったんです。

 そういう風に時間が過ぎて、そのときが何年か何月何日だったのか、今でもよくわからないのですが、確かなのは、私がその時、韓国の年齢で16歳だったことは覚えています。
 ある日、船がとても揺れて、おなかの調子が悪くなって酔ってしまったので、吐いてトイレに行きました。その時、トイレに行って立ち上がろうとしたら、目の前に軍人の靴が見えました。そして私が出られないように道を塞いでいました。それでも、私が立ち上がって出ようとすると、さらに出られないように覆い被さってきたので、私は腕に強く噛み付きました。するとその人はとても強く私の頬を叩き、私はそのまま気を失ってしまい、そのままどうなってしまったのか覚えていません。私が帰って来ないので、お姉さんたちは心配になって探しに来てくれたのですが、私は全身血まみれになって倒れていたそうです。4人のお姉さんたちが私を引きずって、連れ戻してくれました。
 その時お姉さんたちが私の血を拭いたりしてくれていたら、軍人たちが4人に襲い掛かったんです。私は男と女という意識はあったんですけれども、それが何を意味するのかもその時はわからなくて、いたずらをして遊んでいるように見えて、お姉さんたちに「噛み付け、噛み付け」と言いました。

 その時はそれがどういう意味かもわからなかった私ですけれども、本当に今思います。皆さん考えてみてください。船に300人の男の軍人が乗って、その船に幼い女性を5人乗せたのです。それがどんなことを意味するのか、考えてみてください。とても辛いことでした。

 そうしているとある日、とても大きな爆撃音がして、外から人が「助けて、助けて」と言う大きな声がしてきました。ものすごい爆撃音で、私たちが乗っている船も先頭の部分が爆撃でなくなってしまって、これ以上行けないと言われました。その時「救命ジャケットを着ろ」と言われて、5人でそれをつけて、「死んだとしても、生き残ったとしても一緒だよ」と言って私が5人を紐で結びました。
 次の日明るくなって、紐をはずして窓から外を覗いてみたら、帽子や靴も浮いているという状態でした。そして船の中の軍人たちもいなくなっていました。
そして閉まっていた扉を壊したと言われて、またたくさん殴られました。

 そこでいけないと言われたんですけれども、無理やり船から降りて、陸についてみると、またトラックが準備されていました。そこに5人で乗りました。そのトラックに乗っていったら、三角屋根の高い家がありました。その家の前で降りました。その家の中は、小さい間に分かれていて、扉の変わりに毛布がかけられていました。大きい部屋には10人くらいのきれいなお姉さんたちが、きれいな着物を着けて正座をして座っていました。
 私はそこに一番最後に入ったんですが、きれいなお姉さんの一人が、私の腕を引っ張って「あんたは幼すぎるから、ここにいたらだめだよ。私がかくまってあげるから」と言って私を連れて行きました。そして私を、とても狭い押入れの中に入れて、隠してくれました。

 そんなある日、そのお姉さんが私に「平壌にいってきたの。その家にタオルで頭を巻いたおばさんがいたの。」と尋ねました。そして「そのおばさんが、私のお母さんだ。そこが私の家だよ。」と言いました。
 ある日軍人がきて、そのお姉さんにひどい暴¥力を振るい、刀で斬りつけました。目からはすごく血が出ていました。そして軍人は「お前が隠した朝鮮ピーを出せ」と言いました。それで私はすごく怖くなって、押入れから出てしまいました。すると髪の毛をつかまえられて、刀で服を全部脱がされ、その服を切り刻まれ、その布で口をふさがれました。
 そしてお姉さんと私に毛布をかけて、軍靴で踏みつけながら、「この朝鮮ピーはもう死んだだろう、死んだだろう」と言いながら殴りました。しかしその中でもお姉さんが、足の指を使って、私の口の中に入っていた布を出してくれました。そして毛布も少しずらして、呼吸が出来るようにしてくれました。
 軍人が去った後布団から出てみると、お姉さんは血だらけの目に服を破った布を当てて、包帯にして応急処置をしていました。そして私の血を拭いてくれながら「あなたは言うことを聞かなかったら殺されるから、これからは言うことを聞きなさい」と言いました。

 2、3日経ったあと、その軍人が戻ってきて、お姉さんと何かコソ¥コソ¥話していました。するとお姉さんが着物を持ってきて、私に着せてくれました。そしてまだ残っている傷を隠すようにして、化粧もしてくれました。
 私はその時いったい何が起こっているのか、考えることすら出来ない状況にいて、その軍人に会うと殴られるというただ怖いという思いしかなかったのです。見ると、小さい部屋の中に軍人がいました。外から見ると軍人が立っていて、お姉さんがわたしの背中を押しながら「言うことを聞かないと殺されるから、言うことを聞きなさい」と泣きながら言いました。怖くて、震えながら少しずつそこへ歩いていくと、毛布を取って「そこへ入れ」と言われて、見るとそこにまた軍人が座っていました。
 私は嫌だったので「部屋には入らない。何で入らなくてはならないの」と言って戻ろうとすると、後ろから髪をつかまれて、引きずって倉庫に連れて行かれました。

 倉庫の扉を開けてみると、大きい丸いテーブルと小さい丸い椅子がありました。そしてそこへ、私を押し込みました。
 入った途端に髪をつかまれて、椅子に座ろうとすると、石よりも硬い軍靴で私の腰を蹴飛ばしました。蹴られたときに内臓がえぐられたように痛くて、床に横たわっていると、また髪の毛をつかまれて、椅子に座らされて、刀で太ももの肉をえぐられました。今でも大きな傷跡が残っています。また、足のすねを軍靴で蹴られました。そしてその足を火であぶられました。そして私の両手をテーブルの上にのせて、何かをかけました。
 痛いのか何かもわからなくなって、されるがままでいると、急に全身に強い痺れがきました。そして「お母さん」と大きく叫んであとの記憶がないのです。そのときの自分が叫んだ声が、今も耳に残っています。
 どうして人の大事な娘を連れて行ってそんなことをするのですか。私が言うことを聞かないからですか。どうして私が日本人の言うことを聞かなくてはならないのですか。 軍人の部屋に入らないからってどうして、刀で斬られたりしなくてはならないのですか。昔韓国は、夜中に泥棒が入って女性に「命を出すか、体を出すか」と言われると、命を出すという国でした。それなのに、なぜ私が夜中に連れ去られて、日本人の言うことを聞かなくてはならないのですか。
 その時、入ることを拒否した部屋にいた軍人が、他の4人のお姉さんたちに「とても幼い子が、部屋に入らないといって、連れて行かれた。死んだかもしれない。殺されたかもしれないから、探してみてくれ」と言って懐中電灯を渡したそうです。そして「もし死んでいたら、裏の山に私が埋めてあげるから」と言ったそうです。
 お姉さんたちは「この子が死んでいたら、私たちも死ぬしかない」と言って、夜中に懐中電灯を持って私を探しに行ったそうです。

 私を見つけたとき、お姉さんたちはやかんにいれた水を持ってきて、自分の口に含んで、私に水を与えてくれました。私が水を飲み込めないのを見て、もう死んだと思ったそうです。そしてお姉さんの一人が、指を噛んで血を出して、その血を私に与えました。すると、他の3人のお姉さんも指を噛んで血を飲ませてくれたのですが、私は飲むことができませんでした。
 すると、探して来いと言った軍人がきて「お前たちの部屋に連れて行ってくれ。もし死んだら、私が埋めてあげるから」と言ったそうです。その軍人は、3日間栄養薬を持ってきて、自分の口に溶かして飲ませたり、自分の指を切って血を飲ませたりしたそうです。
 ある日、私はやっと目を覚ますことができました。するとお姉さんの一人が私に鏡を見せてくれました。鏡を見ると、顔の肉がほとんどなくて、このように小さい私の目が、大きく見えました。「お姉さん、どうして私はこんなことになってしまったの」と聞くと、お姉さんは「あなたは病気だったのよ」と泣きながら言いました。
 すると、その軍人がやってきて、「ここにいてはいけないから、この子の部屋に連れて行こう」と言って、私の部屋に連れて行ってくれました。
 その時は、そこがどこなのかわからなかったのですが、とても暑いところでした。食べ物もなかったので、家の前にあるサトウキビをとって食べたりしました。またその軍人は、袋にいっぱいの血を持ってきて「注射ができないから、これを飲め」と言いました。それを少しずつ飲んだこともあります。

 ある日その軍人が来て「あなたの名前は」と聞きました。私は「知らない」と首を振って伝えました。すると「苗字は」と聞きました。当時、李という苗字だったのですが、日本名で“安原”と名乗っていました。「名前はないのか」と聞かれたので、「ない」と言うと、「私があなたに名前をつけてあげよう」と言って“トシコ”と名づけてくれました。彼は21歳の特攻隊だと言っていました。「特攻隊って何」と聞くと「飛行機に2人が乗って、敵に向かって突っ込んで死ぬのが特攻隊だよ」と教えてくれました。
 その軍人はいつも私に乾パンなどの食べ物を持ってきてくれて、「ご飯を食べなかったりしては駄目だよ。僕が君を助けてあげるから」と言ってくれました。

 ある日飛行機が飛んできて、私は家の下の防空壕に行きました。外に出ている人もいました。すると、私の隠れていた家が爆撃で潰れてしまいました。その家が木造だったので、助かったのだと思います。その時友達が、外が見えるように土に小さな穴を掘っていました。外を見ようと思って穴を覗こうとすると、煙か何かを吸ってしまい、体中から血が噴き出しました。口からは血の塊が出ました。外に出ると、爆撃のあとが残っていて、私はその穴に滑って落ちてしまいました。すると人が集まってきて私を助けてくれました。
 穴から抜け出すと、友達の新井さんという人と、昔私を隠して助けてくれたお姉さんが、土の上に横になっていました。死んだかどうかもわからず、「お姉さん起きて、起きて。ここにいたら危ないよ」と言って上に乗って体を揺さぶったのですが、起きませんでした。周りの人が「もう死んだのよ」と言って私を連れてきました。
彼女は9人のお姉さんの中で、私より1歳か2歳くらいしか変わらないお姉さんだったんです。本当に可愛い娘さんでした。北朝鮮の平壌から来たあのお姉さんも死にました。
 なぜ、何も知らない人の娘を強制連行して、「爆弾に当たって死にました」と言えるのでしょう。
 その後、私は血が止まらなくなってしまったのですが、以前私を助けてくれた軍人が、薬をくれたり、注射をしたりして、面倒を見てくれました。

 ある日の夜、川の堤防のところでその軍人と話をしました。彼は私に「僕は明後日死にに行く」と言いました。夜だったので、月ととてもたくさんの星がありました。私は月を見て「私の国の月はとても明るいのに、ここの月は小さいね」と言うと、軍人が「それは違うよ。月はこの世に一つだけだよ」と言いました。そして彼は持っていた洗面用具を全部私のところに持ってきて、星を見ながら「トシコの両親も僕の両親も、そして君も僕もあの星の中にいるよ。明後日僕が死ぬと、星が一つ落ちるんだ」と言いました。そして歌を教えてくれました。

 “還幸離陸よ台湾離れ 金波金波の苦も乗り越えて 
 誰でも見送る人さえいなけりゃ 泣いてくれるはトシコ一人だ
 還幸離陸よ新竹離れ 金波金波の苦も乗り越えて
 誰だって見送る人さえいなけりゃ 泣いてくれるはこの子一人だ”

 私はこの日を境に彼を見なくなりました。
 私はこの歌を聞いた事も特に覚えたこともなくて、その夜にたった3回聞いただけなのですが、50年以上が過ぎた今でも、3回聞いただけの歌を覚えている。今歌うことができる。本当に自分で考えても、すごいと思います。
私は1992年6月25日に名乗り出ました。名乗り出てから、こうしてどこかで証言する時、私はこの歌を歌います。何の歌かも知らずに、証言をしてこの歌を歌いました。

 私が18歳の時に日本が敗戦して、今年が60周年です。私は韓国の年齢で今年78歳になりました。どうして私は70歳を超えてまで、皆さんの前で泣きながらこんな話をしなくてはならないのですか。
彼は私に「天上に上がって、トシコを必ずお母さんの所に戻してあげるから、どこかに隠れて、人の目に触れないようにして必ず生きてくれ」と言ってくれました。
 私はこの話を韓国ですると、「どうして日本人を良く言うのですか。何で日本人を褒めるのですか」と言われます。しかしその軍人が「自分も被害者だ」という風に話したことを覚えています。

 以前防空壕が潰れたときに、私がその小さい穴から煙を吸って、血の塊を吐いたり、体から血の塊が出たりしたのですが、そんなはずが無いじゃないですか。今思えば妊娠だったと思います。その軍人が私に「トシコに赤ちゃんがいるよ」と言ってくれたことがあります。その時はどういう事かも私はわからなかったです。今ここでこの話をして良いかもわからないのですが、韓国でその話をすると、気違いとか、頭がどうかなっているという風に言われます。日本に来たときはこんな話もします。日本は良いと褒めるのではなく、あの軍人が私の、本当の命の恩人なのです。
 あの軍人が私の初恋の相手だったと思いますが、初恋が何かはよくわかりません。それでも私は本当に待っていました。ずっとその軍人を待っていました。私を可愛がってくれたその人を待っていました。その軍人一人しかいないです。可愛がってくれるし、いつも抱いてくれた、名前をつけてくれたし、歌も教えてくれました。
 
イ・ヨンスさん 
   イ・ヨンスハルモニ ©2005

 そして戦争が終わってから、私と同じくらいの歳の男の子が来て「収容所に行かないとだめだ」と言って収容所に連れて行ってくれました。収容所にいるとご飯を貰えるのですが、すごく虫に食われたご飯が出てきて、お姉さんたちが虫を全部とって白いところを私にくれました。
 そうしているとある日船が来ました。私は「船に乗ったらまたどこかへ連れて行かれるから嫌だ」と言って乗ろうとしなかったんです。しかし「乗らないと死ぬから」と言われてその船に乗って行きました。その船に乗って行くと、釜山(プサン)という韓国の南の港湾都市に着きました。そこでは、DDTという殺虫剤を体にまいてくれました。そしてお金を300ウォンくれたんですけど、私はお金が何かもわからなかったので捨てました。そしてやっと自分の家に向かったのです。また汽車に乗ったのですが、家に帰るのが嬉しくて、酔ったかどうかもわかりませんでした。
 駅から家は近かったのですが、駅から走って家に行く途中で転んだりして、口やひざやひじから血が出ました。家の門の外に立っていましたが、門の外から母が何かを拭きながら、泣いていて、独り言を言っているのが見えました。そして私の弟のチョングンにお母さんは「チョングン、豆腐を買って来て」と言いつけました。「豆腐は何に使うの」と弟が聞いたら、お母さんは「今日はあなたのお姉さんの法事じゃないか」と言いました。

 その当時、私の家には人に貸していた部屋がたくさんあったんですけど、そこに住んでいたおばちゃんたちが私を見て、幽霊だと思って、裏の門に逃げて行きました。私の父は、私がいなくなってからお酒ばっかり飲んで、体が半身不随になっていました。立っている私の姿を見ると父は、何もしゃべれずにそのまま後ろに倒れてしまいました。  
 韓国の法事では、木の根からとった油を二つ皿に入れて、扉の両方に置いて火をつけておくと、魂が来る、その幽霊が来るといわれているんです。その日もその火をつけていたんです。私が来る途中に転んだりして血を出したりしていたので、みんなが私を幽霊だと思ったわけです。私が母に近づいて「お母さん」と言ったら、母は怖がって部屋に入ってしまいました。すると隣に住んでいたおばさんが戻って来て、「違いますよ。これ本当のチョングンのお姉さんですよ」と言ったら、母はそのまま気を失ってしまいました。私も母が気絶してしまったので、母を抱えて、米をすってそれを飲ませたりしました。母は信じられない様子で、「肌をつねると痛いから、痛ければと本当だ」と言って私の手の肌をつねって、「痛い」と聞きました。私が「痛いよ」と言うと、「お母さんもつねって」と言って痛かったので、次は「噛んで」って言われて、何回も何回も噛んで、母の手首が傷だらけになりました。それで、母がそんなに傷だらけになってからやっと、「これは本当だ。よく帰ってきてくれたね」と何も聞かずになでてくれました。
 帰ってきたら、父も母もいて、何もなかったように暮らしていても、この胸の中には、何で私は連れて行かれたのか、何で連れて行かれなければならなかったのか、そういう事がずっと胸の中にありました。私は何か罪を犯したのか、それとも私の父と母が何か罪を犯したのか、何かを間違ったのか。どのような理由で連れて行かれたのかという痛みがずっと、胸の中にありました。

 私が強制連行されたその夜、いつもなら一緒に寝ているはずの母が隣にいなかったのです。私は実は今まで、この日本に来る20日位前まで、何でその時母が私の隣にいなくて、私の側にいなくて、父のとこにいたのか、ということをすごく恨んでいました。
 私の下には9歳下の4番目の弟がいます。ここに来る20日前にその弟から、何で母が私の側にいなかったのかという話を聞きました。その当時、母は一番下の5番目の弟を産んだばっかりだったんですね。その赤ちゃんが泣いていたので、部屋から離れていたということを、こっちに来るわずか20日前に初めて聞いたのです。

 皆さん、本当に本当に日本は悪い。私は両親の大事な娘でした。大韓民国の大事な娘だっただけです。それが罪ですか?私はその時日本に連れ去られました。すると私は日本の物になるんですか?現在竹島、独島について何か話が出ています。私は無知です。何も知識がありません。しかしこういう私も、竹島と独島は違うということをわかっています。しかしあの時日本が侵略して来て、何でも自分の物だと言いました。今は、大韓民国という国が、ちゃんと存在しています。大統領がいて、国民もいて、大韓民国という名前もあります。その当時の罪に対して、日本は必ず償うべきではないでしょうか。私は歴史の生きた証人です。日本は、私を強制的に夜中に連れて行って、性奴隷にしたその罪を反省もせずに、未だに暴¥言を吐いています。

 あの特攻隊の軍人が教えてくれた歌を、私は一人で考えてみました。その軍人が教えてくれた歌の中に台湾の新竹という言葉があったので、自分で新竹を探しました。そこには、1944年から日本の特攻隊の部隊がありました。知り合いの新聞記者が、ある大学に行くとそこにそれに関する本があると教えてくれました。今はその台湾の新竹というところは、台湾の空軍基地になっています。私は97年と98年にそこへ行ってその軍人の慰霊祭をやって来ました。そこに海もありました。男と女の人形を買って、結婚させました。その霊だけでも天に行って、幸せに結婚して幸せに過ごして欲しいと思ったからです。
 98年にそこへ行くと、ちょうど戦争が終わったときに私を収容所に送ってくれた人がいました。その人は17歳か18歳の時に特攻隊の部隊で、労務者をやっていたと言いました。その人たちによると家が一つあって、そこに女の人がたくさんいたそうです。それが特攻隊の部隊の中だったのです。その人が全てを証言してくれました。台湾の国会議員と台湾の大学、台湾のその空軍基地で、全てを調査しました。日本の東京の中・高校の女性の先生4人と、昨日の夜友人(浅井さん)の家に行きました。浅井さんの家には、以前映画で見た“蛍”の本がありました。その本の中に、特攻隊の初恋という話が出ているのを見て、本当にたくさん泣きました。特攻隊の軍人が夜でも服を脱がないという姿が、今でも目に鮮やかに焼きついています。
 私は、その軍人が教えてくれた歌が軍歌かどうか、ちょっと人に聞いてみましたが、この当時特攻隊をやっていた方たちは「日本にいた人は生きていても、他の地域に行っていた人はみんな死んでいてわからない」ということでした。沖縄で特攻隊だった人も、それが軍歌かどうかわからなくて「軍歌にちょっと歌詞を変えてそういう風にしたのかも」という話をしていました。

 た、浅井さんの知り合いに上杉さんという方がいますが、上杉さんの出した小さい本には、“還幸”という飛行機のことが載っていました。二人乗りの、戦闘機だったのです。私はそれを読んでから、一晩眠れず、いろんなことを思い出しながら泣きました。
 本当に今更ですが、その軍人が私をどんなに愛してくれて、どんなに思ってくれたのかを感じます。全部見守ってくれて。本当に命の恩人です。
 
 私は、皆さんが悪いとは思っていません。日本の政府が、皆さんに被害を与えているのです。私は歴史の生きた証人です。こんなに明白にこんなにはっきりと調査しています。私は右翼が何かもよくわからないんですけど、彼らはあらゆる暴¥言を吐きました。私たちを「北朝鮮のスパイ」だと言いました。北朝鮮は同じ民族です。同じ同胞です。スパイなんてとんでもありません。私たちは、韓国だけでこういう被害者の声を出しているのではなくて、北朝鮮にいる被害者も共に、協力して声を出しています。2002年に平壌に10日間会議に行きました。同じ声を、同じ被害者が、南北共に声を出そうという話をしました。2003年には上海でやりました。2004年にはソ¥ウルでやりました。こういう風に一緒に声を出しているのにどうしてスパイだと言えるのでしょうか。今こういう風に生きた証人がいるのに、どうして違うと言えるのでしょうか?日本政府は、まだ遅くはありません。よく考えてみて下さい。
北朝鮮が、日本人を拉致したと言ってものすごい騒ぎがあったでしょう。それも勿論間違った事です。可哀想です。だから先にですね、昔数十¥万人を連れて行って性奴隷にしたその罪を認めて、反省して、それから北朝鮮を相手取ってやりなさい。それが筋だと思います。

 日本政府は、将来のある学生たちに被害を与えてはいけません。私は韓国と日本の、両方の若者たちを本当に大事に思っています。愛しています。だから若者に被害を与えないで、両方が平和的に仲良くできるように、解決して欲しい。被害を与えてはいけません。

 日本の政府や、罪は憎いけれども、人間は絶対に憎くないです。愛していますので、皆様一緒に頑張りましょう。日本政府が早く解決をするように。ありがとうございました。(了)」

 

暗記するまで繰り返し読むことをお勧めしますね。

 

ヤオング。」と言うと猫は居なくなった。

 


 


re:re:딸(아가씨)나 그녀가 위안부로 될 것 같은 때에 조선의 남들은····

고양이가 말했다.「당신과 같이 비열한 패거리(인간의 쓰레기)는

 

무시하는 것이 제일이라고 생각합니다만,

 

바보가 대답을 했으므로 어쩔 수 없네요.이하 인용.「

 

리용수(이·욘스)씨증언 집회
  일시:2005년 4월 21일(목요일) 오후
  장소:도시샤 대학 이마데가와 캠퍼스·한중에 피는 매화 관(클로버-홀)


    사회:삼류신
    통역:리기진


숲:제 쪽으로부터 이·욘스·할머니를 소개하고 싶습니다.욘스·할머니는, 1928년, 한국의 대구(대구)로 태어났습니다.1944년·16세 때에 일본군에 연행되고, 대만에 갔습니다.이동중의 배 중(안)에서, 군인들에게 반복해 범해진다고 하는 비극에 휩쓸렸습니다.할머니는 1992년 6월에 자칭하기 나온 후에, 현재 이 일본군위안부의 문제에 적극적으로 행동되고, 증언 하고 계십니다.그럼, 이·욘스·할머니에게 등장해 주시길 바란다고 생각합니다.


이:오늘 통역을 맡겠습니다 , 이와 신합니다.대학원생입니다.나는 일본어의 네이티브는 아니기 때문에, 조금 일본어가 알아 듣기 힘들까 생각합니다만 아무쪼록 이해하신 후에, (들)물어 주세요.그러면, 할머니의 이야기의 회를 시작하고 싶습니다.


할머니:여러분 사란함니다( 「사랑하고 있습니다」의 한국어).안녕하세요.와 말하는 바람으로 학생 여러분과 만날 수 있고, 정말로 기쁩니다.내가 지금부터 이야기하는 것은, 여러분이 정말로 모르면 안 되는 것입니다.나는 여러분을 미워하고 있지 않습니다.죄는 미워해도, 사람은 미워하고 있지 않습니다.

 나는 한국의 대구(대구)라고 하는 (곳)중에 두 명눈의 아이로서 태어났습니다.위에는 형(오빠)가 있었습니다.아래에는 남동생이 세 명 있고, 그 중의 두 명은 쌍둥이의 남동생이었습니다.우리 집은 가난하지는 않았습니다.농업을 하고 있고, 부자는 아니었지만도, 밥을 풍부하게 먹어서 갈 수 있는, 그러한 가정이었습니다.
 그러나 일본은, 한국·조선에 오고 농업을 해 만든 것은 전부 빼앗아서 가 사람도 전부 데리고 갔습니다.왜 그런 일이 있었는지, 나는 몰랐습니다.
 왜 일본이 조선에 오고 사람도 빼앗아, 물건도 빼앗아 가는지라고도 몰랐습니다만, 그 때 나는 한국의 연령으로 16세였습니다.일본의 연령으로 말하면 14세인가, 15세입니다.나는 1928년 12월 13일 태생입니다.
 증언하는
 어느A 날, 친구가 와 「강의 곳에 쑥을 취하러 가자」라고 했습니다.그래서 쑥을 많이 취하고, 강의 모래의 곳에 숨겨 두고, 타니시라고 하는 조개류를 뽑고 있었습니다.그 때, 제방 쪽으로, 군복을 입은 사람과 흰 옷을 입은 사람 2명이, 우리의 곳을 가리키고, 무엇인가를 이야기하고 있었습니다.그래서 나는 매우 무서워서, 그 때 뽑은 조개나 쑥등을 전부 버리고, 제방에 오르고, 그 때 아버지는 없었습니다만, 마치 함께 있도록(듯이) 「아버지, 함께 가자.함께 가자」라고 외쳤습니다.제방에 오르면서 보면, 군복을 입은 사람이, 친구가 있는데 향하고 있었습니다.그 때 나는, 무엇이 일어났을지도 알지 않고, 나는 아무것도 생각하지 않고 달리고 집에 돌아갔습니다.
그 앞으로 1개월이나 2개월이 지났을 무렵입니까.우리의 집은 초가 지붕이었습니다만, 그 집의 뒤에 작은 길이 있고, 그 길로 향해서 작은 둥근 창이 있었습니다.
 나는 언제나 어머니와 함께 자고 있었습니다만, 어느A 날의 밤에 자고 있으면, 코소코소와 소리가 들렸습니다.일어나 보면, 어느A 여성이 목 쪽에 무엇인가를 들이댈 수 있는이면서, 이쪽을 들여다 보고 있었습니다.그래서 거기를 잘 보면, 모아이를 깊게 쓴 군인이 서있었습니다.그 여성이, 나를 보고 아무것도 말하지 않고 손짓으로 나를 부르고 있었으므로, 나는 무서워져, 방을 나와 밖의 거실의 곳에서 앉아 있었습니다.그러자(면) 그 여성과 군인이 함께 거실까지 들어 오고, 그 여성이 한 손으로 나의 어깨를 안고, 또 하나의 손으로 구를 차지하고 나를 데리고 갔습니다.그 때 군인이, 나의 등에 무엇인가를 들이대고 있었습니다.그러한 식으로 나는 데리고 사라져서 갔습니다.

 그 날의 밤은 매우 달이 밝았습니다 그러나, 데리고 사라져서 간 먼저는, 위는 기차가 달리고, 아래는 차가 달리는, 양단에는 사람이 지나갈 수 있게 되어 있는 터널이 있었습니다.그 중을 보면, 여성이 3명과 군인이 1명 있었습니다.거기에 나도 갔습니다.그러자(면), 여성의 1명이 나에게 보자기를 주었습니다.그것을 손대어 보면 구두나, 원피스와 같은 양복이 들어가 있는 것처럼 생각되었습니다.나의 집과 역은 가까웠었지만, 그대로 역 쪽에 데리고 가지고, 기차에 실렸습니다.그 때, 한국의 연령으로 16세였습니다.처음으로 기차를 탔으므로, 취하고 (뜻)이유가 모르게 되고, 「엄마, 엄마, 엄마에게 간다」라고 하면, 군인이 「한국인」이라고 했는지 「조선 피」라고 했는지 분명히 기억하지 않습니다만도, 하나 어려워서 있는 5명의 여성의 머리카락을 잡고, 의자의 곳에 부딪히고, 폭힘을 발휘했습니다.
 그 때, 그 기차안에 사람이 있었는지 어떠했는지는 잘라 기억하지 않습니다만, 그 기차안에서, 그러한 식으로 사람이 데릴 수 있어 가는 것을 보았는지, 어떻게 데려 올 수 있었는지 지금도 잘 모릅니다.
 
 그러한 식으로 기차를 타고, 경주(경주)라고 하는데 내리고 여관에 들어갔습니다.들어가면 모두 「손과 다리를 앞에 두고 낼 수 있다」라고 해졌습니다.그리고 봉으로 손과 다리의 뒤를 몇번이나 얻어맞았습니다.어째서 그렇게 손과 다리의 뒤를 두드리는지 몰랐습니다만, 지금 생각하면 도망가지 않게 하기 위한(해)였는가라고 생각합니다.거기에 3일간 있었습니다만, 매일고이바지했다.거기서, 함께 데릴 수 있어 온, 언니(누나)들에게 「무서워서 여기 견딜 수 없다.나는 엄마에게 돌아가고 싶다」라고 하면, 군인들이 와 「조선어를 사용하지 말아라」라고 해 또 폭힘을 발휘해졌습니다.다음날이 되면, 여성이 또 2명 동반라고 왔습니다만, 그녀들도 똑같이 손과 다리의 뒤를 얻어맞고 있었습니다.
그 다음날, 왠지 흰 밥과 맛있는 음식이 싶고 씨준비되어 있었으므로, 「 어째서 이런 것이 있는 것, 어딘가 가」라고 (들)물으면, 언니(누나)가 「엄마에게 가」라고 하므로, 매우 기뻐서 밥도 먹지 않고 , 「엄마에게 간다.엄마로 간다」라고 날아 뛰고 있었습니다.
 거기서 아침, 얼굴과 손이라도 씻으려고 하고, 오가와에게 가서 손을 씻으려고 하면, 너무 아파서 씻을 수 없었습니다.그런 식으로 손을 씻으려 하고 있으면, 눈앞에 보라색의 작은 꽃이 오가와안에 피어 흔들리고 있었습니다.마치 사람이 떨리도록(듯이) 꽃이 피어 있었으므로, 나는 무심코 「당신도 누군가에게 폭힘을 발휘해지고 있는 것, 당신의 이름은 무엇.」라고 얘기했습니다.그 때 근처에 큰 검은 고무의 구두를 신은 사내 아이가 있고, 그는 「너는 그것도 모르는 것, 바카야로우.그것은 도라지의 꽃이야」라고 가르쳐 주었습니다.
 나는, 사내 아이가 신고 있던 흑의 큰 고무의 구두를 빼앗고, 그 구두를 신고 기차를 탔습니다.
기차를 타고, 엄마에게 간다고 생각해 나는 매우 기뻤습니다.그러나 기차는 나의 집을 지나서 갔습니다.기차에는 창은 있었습니다만, 유리가 없었기 때문에, 나는 몸을 나서 「엄마, 엄마.이 진`l들이 나를 죽여, 나를 때려, 돕고 엄마」라고 울어 외쳤습니다.그러자(면) 군인이 또 오고, 머리카락을 잡고 안에 넣고, 머리를 주먹으로 때렸습니다.다리에서도 차져 나는 기절해 버렸습니다.
 어느 정도 지났는지, 어디까지 갔는지 몰랐습니다만, 어디엔가 도착하면 트럭이 놓여져 있었습니다.그 트럭에 타고 가면, 평양(평양)에 도착했습니다.
 
 어느A 집에 갔습니다만, 거기에는 머리에 타올을 감은 아줌마가 있었습니다.그 집에는 물을 참작하는 펌프가 있어 「그것을 할 수 있다」라고 해졌습니다만, 나는 한번도 했던 적이 없었기 때문에 할 수 없었습니다.그것을 할 수 없다고 하는 것으로, 또 데리고 가지고, 5명의 여성이 또 맞았습니다.그 때는 매우 추운 계절로, 손이 거칠어져 아팠습니다.
 그래서, 배추와 무를 채집에 트럭을 타 어딘가에 갔습니다.「큰 무를 얻어」라고 해졌습니다만, 힘이 없기 때문에, 위의 부분만큼 접히고, 무가 얻지 않았습니다.그러자(면), 배추의 밭에 데리고 가지고, 배추를 채집한 그 흙 위에 5명의 여성을 던지고, 흙을 파는 도구로 머리를 후려갈기고 피투성이가 될 때까지 때렸습니다.
 흰색 나물과 무를 채집하는 작업이 끝나 돌아갈 때, 나는 늦어 버려, 트럭이 출발해 버려 탈 수 없었습니다.내가 「 나도 가는, 나도 간다」라고 해 언니(누나)들을 잡고, 겨우 트럭에 손을 댈 수 있었다고 생각하면, 거기를 군화로 차지고, 나는 그대로 언덕아래에 떨어져 버렸습니다.그런데도 피투성이가 되고 트럭을 뒤쫓고, 배추가 탄 트럭에 겨우 따라잡고, 언니(누나)들이 도울 수 있고 피투성이가 된 채로 돌아간 기억이 있습니다.
 돌아가 보면, 그 배추와 무에 소금을 뿌리고, 소금절이로 하고 있었습니다.그것을 큰 봉투에 넣고, 트럭에 싣고, 또 어딘가에 가지고 갑니다.밥이 나오고, 「먹으세요」라고 해졌습니다만 먹을 수 없었습니다.
 쭉 밥을 먹을 수 없는 상태였습니다만, 「이번은 정말로 엄마에게 가기 때문에, 최초로 받은 보자기의 내용으로 갈아 입어」라고 언니(누나)에게 들었습니다.안을 보면, 붉은 원피스와 구두가 들어가 있었습니다.원피스는 입을 수 있었습니다만, 구두는 다리가 부어 올라 들어가지 않았습니다.이번은 정말로 엄마에게 간다고 들었으므로, 기뻐서 따라가면, 이번도 또한 기차를 탔습니다.
 
 그리고 내린 곳(점)이 대련(다이 렌)이었습니다.바다가 있어, 배가 떠올라 있었습니다.그곳의 항구에 배가 11척 정도 있고, 그 마지막 배를 타려고 하면 「조금 기다려」라고 해졌습니다.거기서 서서 기다리고 있으면, 해군의 군인이 300명 정도 그 배를 탔습니다.그 때 나는, 정말로 엄마에게 갈 수 있다고 생각했습니다.정좌를 해 「엄마의 곳을 보내 주세요」라고 하늘의 신에게 기원을 하고 있으면, 군인이 가까워져 오고, 나를 군화로 찼습니다.바다에 떨어질 것 같게 된 것을을, 다른 4명의 언니(누나)들이 나의 다리를 잡아 도와 주었습니다.
그리고 우리도「배를 타라」라고 해졌으므로, 「이것을 타면 엄마에게 갈 수 있어」라고 (들)물으면 「정말로 가기 때문에.가기 때문」이라고 해졌습니다.그 때 도망치려고 하고, 함께 있던 언니(누나)에게 「조금 저쪽에 다녀 와요」라고 하면 「너그쪽에 가면 살해당하기 때문에, 이제(벌써) 배를 탑시다」라고 해져 탔습니다.
생각해 보면, 어째서 군인이 300명 타고 있는 배에 어린 여자 아이를 5명 싣는지 모릅니다.그 때는 정말로 이제 죽고 싶다고 할 수 밖에 생각하지 않았습니다만, 죽는 것이 어떤 와 라든가라고 하는 일도 별로 모르는 연령이었습니다.

증언
증언 회장의 모습

 
 어느A 날, 배로 「오늘책의 설날이다」라고 하는 방송이 되었습니다.거기서, 여성이 일인선 위에 오르고, 노래를 부르라고 말해졌습니다.나는 초등학교의 3 학년까지 공부를 하고 있었습니다.남동생이 많아서,「여자 아이는 공부하지 않아 좋으니까, 남동생을 공부시키지 않으면 안 된다」라고 근처의 할머니가 이야기하고 있는 것을 (들)물었던 적이 있습니다.그것을 (들)물어 나는, 야간의 학교에 다니고 있었습니다.그 학교는 정식의 학교가 아니고, 여러 어른이 오고, 아이를 가르친다고 하는 것으로, 거기에는 일본인의 선생님이 있었습니다.그 선생님이 노래를 가르쳐 주었습니다.
 
 “아무것도 말하지 못하고 야스쿠니의 궁의 나무 주고 받아 뜨거운 눈물이 나올 때는 한다 감사의 그 기분 이제 기분이 넌더리나 지킨다”

 그렇다고 하는 노래였습니다.배 위에 올라 이 노래와 그 밖에도 1곡을 노래했습니다.그리고, 노래를 불렀다고 하는 것으로, 설날의 떡을 상자에 많이 채운 것을 2만들 수 있었습니다.그래서, 함께 있던 언니(누나)들에게 가서, 「노래를 부르고 이것을 받았어.오늘책의 설날이래」라고 하면서, 나누어 주면, 언니(누나)들은 울었습니다.
 그렇게 해서 있을 때에/`A여기가 어딘가, 언제인지도 몰랐기 때문에, (들)물어 보면, 샹하이(상해)라고 말해졌습니다.평양으로부터 대련으로 가서, 대련으로부터 샹하이까지 갔습니다.

 그러한 식으로 시간이 지나고, 그 때가 몇 년이나 몇월 몇일이었는가, 지금도 잘 모릅니다만, 확실한 것은, 내가 그 때, 한국의 연령으로 16세였던 (일)것은 기억하고 있습니다.
 어느A 날, 배가 매우 흔들리고, 배의 상태가 나빠져서 취해 버렸으므로, 토하고 화장실에 갔습니다.그 때, 화장실에 가서 일어서려고 하면, 눈앞에 군인의 구두가 보였습니다.그리고 내가 나올 수 없게 길을 차지하고 있었습니다.그런데도, 내가 일어서 나오려고 하면, 한층 더 나올 수 없게 지워졌기 때문에, 나는 팔에 강하게 씹어 붙었습니다.그러자(면) 그 사람은 매우 강하게 나의 뺨을 두드려, 나는 그대로 정신을 잃어 버려, 그대로 어떻게 되어 버렸는지 기억하고 있지 않습니다.내가 돌아오지 않기 때문에, 언니(누나)들은 걱정으로 되어 찾으러 와 주었습니다만, 나는 전신 피투성이가 되어 쓰러지고 있었다고 합니다.4명의 언니(누나)들이 나를 질질 끌고, 데리고 돌아와 주었습니다.
 그 때 언니(누나)들이 나의 피를 닦아 충분해 해 주고 있던 들 , 군인들이 4명에 덤벼 들었습니다.나는 남자와 여자라고 하는 의식은 있었습니다만, 그것이 무엇을 의미하는지도 그 때는 몰라서, 장난을 해 놀고 있는 것처럼 보이고, 언니(누나)들에게 「씹어 붙여 씹어 부」라고 했습니다.

 그 때는 그것이 어떤 의미일지도 몰랐던 나입니다 그러나, 정말로 지금 생각합니다.여러분 생각해 보세요.배에 300명의 남자의 군인이 타고, 그 배에 어린 여성을 5명 실었습니다.그것이 어떤 일을 의미하는지, 생각해 보세요.매우 괴로운 일이었습니다.

 그렇게 해서 있으면 있는 날, 매우 큰 폭격 소리가 나고, 밖으로부터 사람이「돕고, 도와」라고 하는 큰 소리가 나 왔습니다.아주 대단한 폭격음으로, 우리가 타고 있는 배도 선두의 부분이 폭격이 아니게 되어 버리고, 더 이상 갈 수 없다고 말해졌습니다.그 때 「구명 쟈켓을 입어라」라고 말해지고, 5명이서 그것을 붙이고, 「죽었다고 해도, 살아 남았다고 해도 함께야」라고 해 내가 5명을 끈으로 묶었습니다.
 다음날 밝아지고, 끈을 떼어 창으로부터 밖을 보면, 모자나 구두도 떠 있다고 하는 상태였습니다.그리고 배안의 군인들도 없어지고 있었습니다.
그리고 폐라고 있던 문을 부수었다고 말해지고, 또 많이 맞았습니다.

 거기서 안 된다고 들었습니다만, 억지로선으로부터 내리고, 육지에 대해서 보면, 또 트럭이 준비되어 있었습니다.거기에 5명이서 탔습니다.그 트럭을 타고 가면, 삼각 지붕의 비싼 집이 있었습니다.그 집 앞으로 내렸습니다.그 집안은, 작은 동안으로 나누어져 있고, 문의 대신에 모포를 걸칠 수 있고 있었습니다.큰 방에는 10명정도의 예쁜 언니(누나)들이, 예쁜 옷(기모노)를 입고 정좌를 해 앉아 있었습니다.
 나는 거기에 제일 마지막에 들어갔습니다만, 예쁜 언니(누나)의 한 명이, 나의 팔을 이끌어 「너는 너무 어리기 때문에, 여기에 있으면 안돼.내가 숨겨두어 주기 때문」이라고 하고 나를 데리고 갔습니다.그리고 나를, 매우 좁은 반침안에 넣고, 숨겨 주었습니다.

 그렇게 있는 날, 그 언니(누나)가 나에게 「평양에 갔다 왔어.그 집에 타올로 머리를 감은 아줌마가 있었어.」라고 물었습니다.그리고 「그 아줌마가, 나의 엄마다.거기가 나의 집이야.」라고 했습니다.
 어느A 날군인이 오고, 그 언니(누나)에게 심한 폭힘을 발휘해, 칼로 베어 붙였습니다.눈에서는 몹시 형태 `격나와 있었습니다.그리고 군인은 「너가 숨긴 조선 피를 낼 수 있다」라고 했습니다.그래서 나는 몹시 무서워지고, 반침에서 나와 버렸습니다.그러자(면) 머리카락을 잡을 수 있고, 칼로 옷을 전부 탈의해 그 옷을 잘게 잘려져 그 옷감으로 입을 채워졌습니다.
 그리고 언니(누나)와 나에게 모포를 걸고, 군화로 짓밟으면서, 「이 조선 피는 벌써 죽었을 것이다, 죽었을 것이다」라고 하면서 때렸습니다.그러나 그 중에서도 언니(누나)가, 다리의 손가락을 사용하고, 나의 입속에 들어가 있던 옷감을 내 주었습니다.그리고 모포도 조금 늦추고, 호흡을 할 수 있도록(듯이) 해 주었습니다.
 군인이 떠난 후 이불로부터 나와 보면, 언니(누나)는 피투성이의 눈에 옷을 찢은 옷감을 맞히고, 붕대로 하고 응급 처치를 하고 있었습니다.그리고 나의 피를 닦아라고 주면서 「당신은 말하는 것을 (듣)묻지 않으면 살해당하기 때문에, 지금부터는 말하는 것을 (들)물으세요」라고 했습니다.

 2, 3 일경그리고, 그 군인이 돌아오고, 언니(누나)와 무엇인가 코소코소이야기하고 있었던.그러자(면) 언니(누나)가 옷(기모노)를 가져오고, 나에게 덮어 씌워 주었습니다.그리고 아직 남아 있는 상처를 숨기도록(듯이) 하고, 화장도 해 주었습니다.
 나는 그 때 도대체 무엇이 오코시개?`트 있는지, 생각하는 것조차 할 수 없는 상황에 있고, 그 군인을 만나면 맞는다고 하는 단지 무섭다고 하는 생각 밖에 없었습니다.보면, 작은 방안에 군인이 있었습니다.밖에서 보면 군인이 서있고, 언니(누나)가 나의 등을 누르면서 「말하는 것을 (듣)묻지 않으면 살해당하기 때문에, 말하는 것을 (들)물으세요」라고 울면서 말했습니다.무서워서, 떨리면서 조금씩 거기에 걸어가면, 모포를 취해 「거기에 들어갈 수 있어」라고 해지고, 보면 거기에 또 군인이 앉아 있었습니다.
 나는 싫었기 때문에 「방에는 들어가지 않는다.무엇으로 들어가지 않으면 안 되는거야」라고 해 돌아오려고 하면, 뒤에서 머리카락을 잡힐 수 있고, 질질 끌고 창고에 데리고 가졌습니다.

 창고의 문을 열어 보면, 큰 둥근 테이블과 작은 둥근 의자가 있었습니다.그리고 거기에, 나를 밀어넣었습니다.
 들어간 바로 그때 머리카락을 잡힐 수 있고, 의자에 앉으려고 하면, 돌보다 딱딱한 군화로 나의 허리를 차버렸습니다.차졌을 때에 내장이 도려내진 것처럼 아파서, 마루에 가로 놓여 있으면, 또 머리카락을 잡힐 수 있고, 의자에 앉혀지고, 칼로 허벅지의 고기를 도려내졌습니다.지금도 큰 상처 자국이 남아 있습니다.또, 다리의 무릎을 군화로 차졌습니다.?`오라고 그 다리를 불로 구워졌습니다.그리고 나의 양손을 테이블 위에 태우고, 무엇인가를 걸쳤습니다.
 아픈 것인지 무엇인가도 모르게 되고, 되는 대로로 있으면, 갑자기 전신에 강한 저려가 왔습니다.그리고 「엄마」라고 크게 외쳐 나머지의 기억이 없습니다.그 때의 자신이 외친 소리가, 지금도 귀에 남아 있습니다.
 어째서 사람의 소중한 딸(아가씨)를 데려서 가서 그런 일을 합니까.내가 말하는 것을 (듣)묻지 않기 때문입니다인가.어째서 내가 일본인이 말하는 것을 (듣)묻지 않으면 안 됩니까.군인의 방에 들어가지 않기 때문이라고 해도 어째서, 칼로 베어지거나 하지 않으면 안 됩니까.옛날 한국은, 한밤중에 도둑이 들어 여성에게 「생명을 내는지, 몸을 낼까」라고 해지면, 생명을 낸다고 하는 나라였습니다.그런데도, 왜 내가 한밤중에 데리고 사라지고, 일본인이 말하는 것을 (듣)묻지 않으면 안 됩니까.
 그 때, 들어가는 것을 거부한 방에 있던 군인이, 다른 4명의 언니(누나)들에게 「매우 어린 아이가, 방에 들어가지 않는다고 하고, 데리고 가졌다.죽었을지도 모른다.살해당했을지도 모르기 때문에, 찾아 봐 줘」라고 해 회중 전등을 건네주었다고 합니다.그리고 「만약 죽어 있으면, 뒤의 산에 내가 묻어 주기 때문」이라고 했다고 합니다.
 언니(누나)들은 「이 아이가 죽어 있으면, 우리도 죽을 수 밖에 없다」라고 하고, 한밤중에 회중 전등을 가지고 나를 찾으러 갔다고 합니다.

 나를 찾아냈을 때, 언니(누나)들은 주전자에 넣은 물을 가져오고, 자신의 입에 넣고, 나에게 물을 주었습니다.내가 물을 삼킬 수 없는 것을 보고, 벌써 죽었다고 생각했다고 합니다.그리고 언니(누나)의 한 명이, 손가락을 씹고 피를 내고, 그 피를 나에게 주었습니다.그러자(면), 다른 3명의 언니(누나)도 손가락을 씹고 피를 먹여 주었습니다만 , 나는 마실 수 없었습니다.
 그러자(면), 찾아 오라고 한 군인이 와 「너희의 방에 데려가 주어.만약 죽으면, 내가 묻어 주기 때문」이라고 했다고 합니다.그 군인은, 3일간 영양약을 가져오고, 자신의 입에 녹여 먹이거나 자신의 손가락을 자르고 피를 먹이거나 했다고 합니다.
 어느A 날, 나는 겨우 눈을 뜰 수 있었습니다.그러자(면) 언니(누나)의 한 명이 나에게 거울을 보여 주었습니다.거울을 보면, 얼굴의 고기가 거의 없어서, 이와 같이 작은 나의 눈이, 크게 보였습니다.「언니(누나), 어째서 나는 이렇게 되어 버린 것」이라고 (들)물으면, 언니(누나)는 「당신은 병이었던 것」(이)라고 울면서 말했습니다.
 그러자(면), 그 군인이 오고, 「여기에 있어선 안 되기 때문에, 이 아이의 방에 데리고 가자」라고 하고, 나의 방에 데려가 주었습니다.
 그 때는, 거기가 어디인가 몰랐습니다만, 매우 더운 곳이었습니다.음식도 없었기 때문에, 집 앞에 있는 사탕수수를 취해 먹거나 했습니다.또 그 군인은, 봉투에 가득한 피를 가져와 「주사를 할 수 없기 때문에, 이것을 마실 수 있다」라고 했습니다.그것을 조금씩 마신 적도 있습니다.

 어느A 날 그 군인이 와 「당신의 이름은」이라고 (들)물었습니다.나는 「모른다」라고 고개를 저어 전했습니다.그러자(면) 「성씨는」이라고 (들)물었습니다.당시 , 이라고 하는 성씨였습니다만, 일본명으로“야스하라”라고 자칭하고 있었습니다.「이름은 없는 것인가」라고 (들)물었으므로, 「없다」라고 하면, 「내가 당신에게 이름을 붙여 주자」라고 해“트시코”라고 명명해 주었습니다.그는 21세의 특공대라고 말했습니다.「특공대는 무엇」이라고 (들)물으면 「비행기에 2명이 타고, 적을 향해 돌진해 죽는 것이 특공대야」라고 가르쳐 주었습니다.
 그 군인은 언제나 나에게 건빵등의 음식을 가져와 주고, 「밥을 먹지 않거나 해 안되어.내가 너를 도와 주기 때문」이라고 해 주었습니다.

 어느A 날비행기가 날아 오고, 나는 집아래의 방공호에 갔습니다.밖에 나와 있는 사람도 있었습니다.그러자(면), 내가 숨어 있던 집이 폭격으로 무너져 버렸습니다.그 집이 목조였으므로, 살아났던 것이라고 생각합니다.그 때 친구가, 밖이 보이도록(듯이) 흙에 작은 구멍을 파고 있었습니다.밖을 보려고 하고 구멍을 들여다 보려고 하면, 연기나 무엇인가를 들이마셔 버려, 체내로부터 피가 분출했습니다.입에서는 피의 덩어리가 나왔습니다.밖에 나오면 , 폭격뒤가 남아 있고, 나는 그 구멍에 미끄러져 떨어져 버렸습니다.그러자(면) 사람이 모여 오고 나를 도와 주었습니다.
 구멍으로부터 빠져 나가면, 친구 아라이씨라고 하는 사람과 석 나를 숨겨 도와 준 언니(누나)가, 흙 위에 눕고 있었습니다.죽었는지도 알지 않고, 「언니(누나) 일어나고, 일어나.여기에 있으면 위험해」라고 하고 위를 타고 몸을 흔들었습니다만, 일어나지 않았습니다.주위의 사람이 「벌써 죽었어요」라고 하고 나를 데려 왔습니다.
그녀는 9명의 언니(누나)중에서, 나보다 1세나 2세 정도 밖에 변하지 않는 언니(누나)였던 것입니다.정말로 귀여운 따님이었습니다.북한의 평양으로부터 온 그 언니(누나)도 죽었습니다.
 왜, 아무것도 모르는 사람의 딸(아가씨)를 강제 연행하고, 「폭탄에 해당되어 죽었습니다」라고 할 수 있겠지요.
 그 후, 나는 피가 멈추지 않게 되어 버렸습니다만, 이전 나를 도와 준 군인이, 약을 주거나 주사를 하거나 하고, 돌봐 주었습니다.

 어느A 날의 밤, 강의 제방의 곳에서 그 군인과 이야기를 했습니다.그는 나에게 「나는 모레 죽으러 간다」라고 했습니다.밤이었으므로, 달과 매우 많은 별이 있었습니다.나는 달을 보고 「 나의 나라의 달은 매우 명?`「의에, 여기의 달은 작다」라고 하면, 군인이 「그것은 달라.달은 이 세상에 하나 뿐이야」라고 했습니다.그리고 그는 가지고 있던 세면 용구를 전부 나에게 가져오고, 별을 보면서 「트시코의 부모님도 나의 부모님도, 그리고 너나 나도 그 별안에 있어.모레내가 죽으면, 별이 하나 떨어진다」라고 했습니다.그리고 노래를 가르쳐 주었습니다.

 “환행 이륙이야 대만 떨어져 금빛 물결 금빛 물결의 근심도 넘어 
 누구라도 전송하는 사람마저 없으면 울어 주고는 트시코 한 명이다
 환행 이륙이야 신죽 떨어져 금빛 물결 금빛 물결의 근심도 넘어
 누구라도 전송하는 사람마저 없으면 울어 주고는 이 아이 한 명이다”

 나는 이 날을 경계로 그를 보지 않게 되었습니다.
 나는 이 노래를 들은 일도 특별히 기억한 적도 없어, 그 밤에 단 3회 들었을 뿐입니다만, 50년 이상이 지난 지금도, 3회 들었을 뿐의 노래를 기억하고 있다.지금 노래할 수 있다.정말로 스스로 생각해도, 대단히라고 생각합니다.
나는 1992년 6월 25일에 자칭하기 나왔습니다.자칭하기 나오고 나서, 이렇게 해 어디선가 증언할 때, 나는 이 노래를 부릅니다.무슨노래일지도 알지 못하고 , 증언을 해 이 노래를 불렀습니다.

 내가 18세 때에 일본이 패전해 , 금년이 60주년입니다.나는 한국의 연령으로 금년 78세가 되었습니다.어째서 나는 70세를 넘어서까지, 여러분의 앞에서 울면서 이런 이야기를 하지 않으면 안 됩니까.
그는 나에게 「천상에 오르고, 트시코를 반드시 엄마 곳에 되돌려 주기 때문에, 어디엔가 숨고, 사람의 눈에 닿지 않게 해서 반드시 살아 줘」라고 해 주었습니다.
 나는 이 이야기를 한국에서 하면, 「어째서 일본인을 잘 말합니까.무엇으로 일본인을 칭찬합니까」라고 해집니다.그러나 그 군인이 「자신도 피해자다」와 같이 이야기한 것을 기억하고 있습니다.

 이전 방공호가 무너졌을 때에, 내가 그 작은 구멍으로부터 연기를 들이마시고, 피의 덩어리를 토하거나 몸으로부터 피의 덩어리가 나오거나 했습니다만, 그런은 도화 없지 않습니까.지금 생각하면 임신이었다고 생각합니다.그 군인이 나에게 「트시코에 아기가 있어」라고 해 주었던 적이 있습니다.그 때는 어떤 일일지도 나는 몰랐습니다.지금 여기서 이 이야기를 해 좋을지도 모릅니다만, 한국에서 그 이야기를 하면, 미치광이라든지, 머리가 어떻게 되고 있다고 하는 바람으로 말해집니다.일본에 왔을 때는 이런 이야기도 합니다.일본은 좋다고 칭찬하는 것이 아니라, 그 군인이 나의, 진짜 생명의 은인입니다.
 그 군인이 나의 첫사랑의 상대였다고 생각합니다만, 첫사랑이 무엇인가는 잘 모릅니다.그런데도 나는 정말로 기다리고 있었습니다.쭉 그 군인을 기다리고 있었습니다.나를 귀여워해 준 그 사람을 기다리고 있었습니다.그 군인 한 명 밖에 없습니다.귀여워해 주고, 언제나 안아 준, 이름을 붙여 주었고, 노래도 가르쳐 주었습니다.
 
이·욘스씨 
   이·욘스하르모니 ©2005

 그리고 전쟁이 끝나고 나서, 나와 같은 정도의 나이의 사내 아이가 와 「수용소에 가지 않으면 안된다」라고 하고 수용소에 데려가 주었습니다.수용소에 있으면 밥을 받을 수 있습니다만, 몹시 벌레에 먹어진 밥이 나오고, 언니(누나)들이 벌레를 전부와는 흰 곳을 나에게 주었습니다.
 그렇게 해서 있으면 있는 날선이 왔습니다.나는 「배를 타면 또 어딘가에 데리고 가지기 때문에 싫다」라고 해 타려고 하지 않았습니다.그러나「타지 않으면 죽기 때문」이라고 해져 그 배를 타고 갔습니다.그 배를 타고 가면, 부산(부산)이라고 하는 한국의 남쪽의 항만 도시에 도착했습니다.그곳에서는, DDT라고 하는 살충제를 몸에 뿌려 주었습니다.그리고 돈을 300원 주었습니다만, 나는 돈이 무엇인가도 몰랐기 때문에 버렸습니다.그리고 겨우 자신의 집으로 향했습니다.또 기차를 탔습니다만, 집에 돌아가는 것이 기뻐서, 취했는지도 몰랐습니다.
 역에서 집은 가까웠습니다만, 역으로부터 달리고 집에 가는 도중에 구르거나 하고, 입이나 무릎이나 팔꿈치로부터 피가 나왔습니다.집의 몬노소토에 서있었습니다만, 몬노소토로부터 어머니가 무엇인가를 닦으면서/`A 울고 있고, 혼잣말을 말하는 것이 보였습니다.그리고 나의 남동생의 쵸군에 엄마는 「쵸군, 두부를 사 와」라고 해 붙였습니다.「두부는 무엇에 사용해」라고 남동생이 (들)물으면, 엄마는 「오늘은 당신의 언니(누나)의 제사가 아닌가」라고 했습니다.

 그 당시 , 나의 집에는 사람에게 빌려 주고 있던 방이 많이 있었습니다만, 거기에 살고 있던 아줌마들이 나를 보고, 유령이라고 생각하고, 뒤의 문에 도망쳐 갔습니다.나의 아버지는, 내가 없어지고 나서 술만 마시고, 몸이 반신불수가 되어 있었습니다.서있는 나의 모습을 보면 아버지는, 아무것도 말하지 못하고 그대로 뒤로 넘어져 버렸습니다.  
 한국의 제사에서는, 키노네로부터 잡은 기름을 두 개사라에 들어갈 수 있고, 문의 양쪽 모두에 두어 불붙여 두면, 영혼이 오는, 그 유령이 온다고 합니다.그 날도 그 불붙이고 있었습니다.내가 오는 도중에 구르거나 하고 피를 내거나 하고 있었으므로, 모두가 나를 유령이라고 생각한 것입니다.내가 어머니에게 다가가 「엄마」라고 하면, 어머니는 무서워하고 방에 들어가 버렸습니다.그러자(면) 근처에 살고 있던 아줌마가 돌아오고, 「달라요.이것 진짜 쵸군의 언니(누나)예요」라고 한?`역A어머니는 그대로 정신을 잃어 버렸습니다.나도 어머니가 기절해 버렸으므로, 어머니를 거느리고, 미를 들이마시고 그것을 먹이거나 했습니다.어머니는 믿을 수 없는 모습으로, 「피부를 꼬집으면 아프기 때문에, 아파야 한다고 사실이다」라고 해 나의 손의 피부를 꼬집어는, 「아프다」라고 (들)물었습니다.내가 「아파」라고 하면, 「엄마도 꼬집어는」이라고 해 아팠기 때문에, 다음은 「씹어」라고 말을 듣고, 몇번이나 몇번이나 씹고, 어머니의 손목이 상처 투성이가 되었습니다.그래서, 어머니가 그렇게 상처 투성이가 되고 나서 겨우, 「이것은 사실이다.잘 돌아와 주었군요」라고 아무것도 (듣)묻지 않고 어루만져 주었습니다.
 돌아오면, 아버지나 어머니도 있고, 아무것도 없는 것처럼 살고 있어도, 이 가슴안에는, 무엇으로 나는 데리고 가졌는지, 무엇으로 데리고 가지지 않으면 안 되었던 것일까, 그러한 일이 쭉 가슴안에 있었습니다.나는 무엇인가 죄를 범했는지, 그렇지 않으면 나의 아버지와 어머니가 무엇인가 죄를 범했는지, 무엇인가를 틀렸는가.어떠한 이유로 데리고 가졌는지라고 하는 아픔이 쭉, 가슴안에 있었습니다.

 내가 강제 연행된 그 밤, 평상시라면 함께 자고 있어야할 어머니가 근처에 없었습니다.나는 실은 지금까지, 이 일본에 오는 20일 정도전까지, 무엇으로 그 찬`군독나의 근처에 없어서, 나의 측에 없어서, 아버지의 곳에 있었는지, 라고 하는 것을 몹시 원망하고 있었습니다.
 나아래에는 9세하의 4번째의 남동생이 있습니다.여기에 오는 20일전에 그 남동생으로부터, 무엇으로 어머니가 나의 측에 없었던 것일까라고 하는 이야기를 들었습니다.그 당시 , 어머니는 맨 밑의 5번째의 남동생을 낳는지 얼마 안됨이었군요.그 아기가 울고 있었으므로, 방으로부터 떨어져 있었다고 하는 것을, 여기에 와요 두나 20일전에 처음으로 (들)물었습니다.

 여러분, 정말로 정말로 일본은 나쁘다.나는 부모님의 소중한 딸(아가씨)였습니다.대한민국의 소중한 딸(아가씨)였다 뿐입니다.그것이 죄입니까?나는 그 때 일본에 데리고 사라졌습니다.그러자(면) 나는 일본이 쓸모 있게 됩니까?현재 타케시마, 독도에 대해 무엇인가 이야기가 나와 있습니다.나는 무지합니다.아무것도 지식이 없습니다.그러나 이런 나도, 타케시마와 독도는 다른 것을 알고 있습니다.그러나 그 시일책이 침략해 오고, 뭐든지 자신의 물건이라고 말했습니다.지금은, 대한민국이라고 하는 나라가, 제대로 존재하고 있습니다.대통령이 있고, 국민도 있고, 대한민국이라는 이름도 있습니다.그 당시의 죄에 대해서, 일본은 반드시 갚아서는 안될까요.나는 역사가 산 증인입니다.일본은, 나를 강제적으로 모`수·노 데려서 가서, 성 노예로 한 그 죄를 반성도 하지 않고 , 아직도 폭언을 토하고 있습니다.

 그 특공대의 군인이 가르쳐 준 노래를, 나는 혼자서 생각해 보았습니다.그 군인이 가르쳐 준 노래안에 대만의 신죽라는 말이 있었으므로, 스스로 신죽을 찾았습니다.거기에는, 1944년부터 일본의 특공대의 부대가 있었습니다.아는 사람의 신문기자가, 어느A 대학에 가면 거기에 거기에 관한 책이 있으면 가르쳐 주었습니다.지금은 그 대만의 신죽이라고 하는 곳은, 대만의 공군 기지가 되어 있습니다.나는 97년과 98년에 거기에 가서 그 군인의 위령제를 왔습니다.거기에 바다도 있었습니다.남자와 여자형을 사고, 결혼시켰습니다.그 영혼만으로도 하늘에 가서, 행복하게 결혼해 행복하게 보냈으면 좋겠다고 생각했기 때문에입니다.
 98년에 거기에 가면, 정확히 전쟁이 끝났을 때에 나를 수용소에 보내 준 사람이 있었습니다.그 사람은 17세나 18세 때에 특공대의 부대에서, 노무자를 주고 있었다고 했습니다.그 사람들에 의하면 집이 한 개 있고, 거기에 여자가 많이 아픈 것 같습니다.그것이 특공대의 부대안이었습니다.그 사람이 모두를 증언해 주었습니다.대만의 국회 의원과 대만의 대학, 대만의 그 공군 기지에서, 모두를 조사했습니다.일본의 도쿄안·고등학교의 여성의 선생님 4명으로 어제 밤친구(아사이씨)의 집에 갔습니다.아사이씨의 집에는, 이전 영화로 본“반디”의 책이 있었습니다.그 책안에, 특공대의 첫사랑이라고 하는 이야기가 나와 있는 것을 보고, 정말로 많이 울었습니다.특공대의 군인이 밤이라도 옷을 벗지 않는다고 하는 모습이, 지금도 눈에 선명하게 구워 붙어 있습니다.
 나는, 그 군인이 가르쳐 준 노래가 군가인지 어떤지, 조금 사람에게 (들)물어 보았습니다만, 이 당시 특공대를 하고 있던 (분)편들은 「일본에 있던 사람은 살아 있어도, 다른 지역에 가고 있던 사람은 모두 죽어 있어 모른다」라고 하는 것이었습니다.오키나와에서 특공대였던 사람도, 그것이 군가인지 어떤지 몰라 「군가에 조금 가사를 바꾸어 그러한 식으로 했을지도」라고 하는 이야기를 하고 있었습니다.

 , 아사이씨의 아는 사람에게 우에스기 씨라는 분이 있습니다만, 우에스기씨가 낸 작은 책에는, “환행”이라고 하는 비행기가 실려 있었습니다.두 명 타기의, 전투기였습니다.나는 그것을 읽고 나서, 하룻밤 자지 못하고, 여러가지 일을 생각해 내면서 울었습니다.
 정말로 지금 갱입니다만, 그 군인이 나를 아무리 사랑해 주고, 아무리 생각해 주었는지를 느낍니다.전부 지켜봐 주어.정말로 생명의 은인입니다.
 
 나는, 여러분이 나쁘다고는 생각하지 않습니다.일본의 정부가, 여러분에게 피해를 주고 있습니다.나는 역사가 산 증인입니다.이렇게 명백하게 이렇게는 송곳과 조사하고 있습니다.나는 우익이 무엇인가도 잘 모르는데, 그들은 모든 폭언을 토했습니다.우리를 「북한의 스파이」라고 말했습니다.북한은 같은 민족입니다.같은 동포입니다.스파이는 천만에요.우리는, 한국에서만 이런 피해자가 소리를 내고 있는 것이 아니라, 북한에 있는 피해자도 모두, 협력해 소리를 내고 있습니다.2002년에 평양에 10일간 회의하러 갔습니다.같은 소리를, 같은 피해자가, 남북 모두 소리를 내려는 이야기를 했습니다.2003년에는 샹하이에서 했습니다.2004년에는 소울로 했습니다.이런 식으로 함께 소리를 내고 있는데 어째서 스파이라고 말할 수 있는 것입니까.지금 이런 식으로 산 증인이 있는데, 어째서 다르다고 말할 수 있는 것입니까?일본 정부는, 아직 늦지는 않습니다.잘 생각해 봐 주세요.
북한이, 일본인을 납치했다고 말해도의 대단한 소란이 있었겠지요.그것도 물론 잘못된 일입니다.불쌍합니다.그러니까 앞에군요, 석진`박만명을 데려 가서 성 노예로 한 그 죄를 인정하고, 반성하고, 그리고 북한을 상대로 해 주세요.그것이 줄기라고 생각합니다.

 일본 정부는, 장래가 있는 학생들에게 피해를 주어서는 안됩니다.나는 한국과 일본의, 양쪽 모두의 젊은이들을 정말로 소중하게 생각합니다.사랑하고 있습니다.그러니까 젊은이에게 피해를 주지 않고, 양쪽 모두를 평화적으로 사이좋게 지낼 수 있도록(듯이), 해결해 주었으면 한다.피해를 주어서는 안됩니다.

 일본의 정부나, 죄는 밉지만, 인간은 절대로 밉지 않습니다.사랑하고 있기 때문에, 여러분 함께 노력합시다.일본 정부가 빨리 해결을 하도록(듯이).감사합니다.(끝)」

 

암기 할 때까지 반복해 읽는 것을 추천하네요.

 

야옹.」라고 하면 고양이는 없게 되었다.

 


 



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