朝鮮
奴婢は古代から李朝末期まで存在する。古くは戦争捕虜,後には人身売買,債務,刑罰を契機にして奴婢が生み出された。
新羅時代から官庁に所属する公奴婢と私人に所属する私奴婢の2種があり,この区分は李朝末期にまでうけつがれた。
高麗時代には奴婢に対する厳格な法的規制が定められ,身分的に上昇する機会が閉ざされたが,
武人政権期には主人とともに出世し,政治権力を握る者も現れた。
また万積(まんせき)の乱(1198)などの集団的抵抗運動も展開されたが,まだ身分解放をかちとることはできなかった。
李朝時代にはさらに奴婢制度が発達し,全時代を通じて公私奴婢とも40万~50万人ずつが存在した。
公奴婢(公賤)は所属する官衙によって,寺奴婢(一般官衙),内奴婢(内需司),駅奴婢(駅)などと呼ばれ,中央と地方の官衙に世襲的に所属して各種労役に従うほか,匠人,楽工,歌童,舞工,庫直,妓生(キーセン),針線婢,医女などにも使役され,またソウルでは官員に割り当てられ召使(根随)として雑役に従事した。公奴婢の中には職務を利用して貢物代納を行い,蓄財する者も出た。公奴婢は人頭税として綿布1匹,米2斗の〈身貢〉を収めたため,所属官衙の財源の一部でもあった。
私奴婢(私賤)は,主家に同居する率居奴婢と別居する外居奴婢があるが,いずれも主家にとっては生産手段の一部であるし,売買,贈与,入質,相続の対象となる貴重な財産である。
このため奴婢・良民間,公私奴婢間に生まれた子の帰属が問題となった。原則として母の身分を継承することになったが,時代によりさまざまな規定が生まれた。
これは奴婢所有者間の争いだけでなく,良民数を確保して税収を維持しようとする国家と自己の財産を守ろうとする奴婢所有者との争いでもあった。
奴婢の解放は,1801年の政府による公奴婢原簿焼却と1886年の奴婢身分世襲の禁止をうけ1894年の甲午改革による身分制廃止で実現した。
→賤民
執筆者:吉田 光男
正解は、20世紀までではなくて、「19世紀末まで」でした。
朝鮮
奴婢は古代から李朝末期まで存在する。古くは戦争捕虜,後には人身売買,債務,刑罰を契機にして奴婢が生み出された。
新羅時代から官庁に所属する公奴婢と私人に所属する私奴婢の2種があり,この区分は李朝末期にまでうけつがれた。
高麗時代には奴婢に対する厳格な法的規制が定められ,身分的に上昇する機会が閉ざされたが,
武人政権期には主人とともに出世し,政治権力を握る者も現れた。
また万積(まんせき)の乱(1198)などの集団的抵抗運動も展開されたが,まだ身分解放をかちとることはできなかった。
李朝時代にはさらに奴婢制度が発達し,全時代を通じて公私奴婢とも40万~50万人ずつが存在した。
公奴婢(公賤)は所属する官衙によって,寺奴婢(一般官衙),内奴婢(内需司),駅奴婢(駅)などと呼ばれ,中央と地方の官衙に世襲的に所属して各種労役に従うほか,匠人,楽工,歌童,舞工,庫直,妓生(キーセン),針線婢,医女などにも使役され,またソウルでは官員に割り当てられ召使(根随)として雑役に従事した。公奴婢の中には職務を利用して貢物代納を行い,蓄財する者も出た。公奴婢は人頭税として綿布1匹,米2斗の〈身貢〉を収めたため,所属官衙の財源の一部でもあった。
私奴婢(私賤)は,主家に同居する率居奴婢と別居する外居奴婢があるが,いずれも主家にとっては生産手段の一部であるし,売買,贈与,入質,相続の対象となる貴重な財産である。
このため奴婢・良民間,公私奴婢間に生まれた子の帰属が問題となった。原則として母の身分を継承することになったが,時代によりさまざまな規定が生まれた。
これは奴婢所有者間の争いだけでなく,良民数を確保して税収を維持しようとする国家と自己の財産を守ろうとする奴婢所有者との争いでもあった。
奴婢の解放は,1801年の政府による公奴婢原簿焼却と1886年の奴婢身分世襲の禁止をうけ1894年の甲午改革による身分制廃止で実現した。
→賤民
執筆者:吉田 光男
正解は、20世紀までではなくて、「19世紀末まで」でした。