江戸は世界に比類のない庭園都市だった 幕末の欧米人が高評価 内藤克彦
2023/8/19 20:00
第五代将軍徳川綱吉の側用人、柳沢吉保が築園した六義園(東京・本駒込)。「回遊式築山泉水庭園」という
江戸の町は100万都市でありながら、幕末に訪れた欧米人から「庭園都市」として評価されていた。英国のプラントハンター(植物収集家)、ロバート・フォーチュンは次のように江戸を評した。
「江戸には(英ロンドンの)聖パウロ大聖堂やウエストミンスター寺院もないし、(仏パリの)エリゼ宮殿やベルサイユ宮殿もない。パリのブールバールやロンドンのリーゼント街のように見るべきものはない。(中略)にもかかわらず、江戸は不思議なところで、常に外来人の目をひき付ける特有のものを持っている。江戸は東洋における大都市で、城は深い堀、緑の堤防、諸侯の邸宅、広い街路などに囲まれている。城に近い丘から展望した風景は、ヨーロッパや諸外国のどの都市と比較しても、勝るとも決して劣りはしない。それらの谷間や樹木の茂る丘、木々で縁取られた静かな道や常緑樹の生け垣などの美しさは、世界のどこの都市も及ばない」
幕末の駐日英国公使、ラザフォード・オールコックは、こんな記録を残している。
「この首都には、ヨーロッパのいかなる首都も自慢できないすぐれた点がある。(中略)都心から出発して、どの方向に向かっても、木の生い茂った丘があり、常緑の植物や大きな木で縁取られたにこやかな空間や木陰の小道がある。特に官庁街の城壁沿いの道路や、そこから田舎の方向に向かって走る多くの道路や並木道には、広々とした緑の斜面とか、寺の庭園とか、樹木の良く茂った公園があって目を楽しませてくれる」(オールコック著『大君の都』)
前出のフォーチュンは、並木道の美しさに触れている。
「大きな並木道、松、とくに杉の並木にしばしば出会ったが、道ばたに大変快い日陰をつくっている。種々の種類の常緑の樫や、時には杉やほかの常緑樹で作られた見事な生け垣に注目した。生け垣は丁寧に刈り込まれて、時にはかなりの高さに整枝されて、英国の貴族の庭園や公園でよく見かける、柊やイチイの高い生け垣を思い出させる」
プロイセン特命全権公使のフリードリヒ・アルブレヒト・オイレンブルク伯爵の『日本遠征記』によれば、江戸を特徴付けているのは「バロック的な人工性」であり、「ここでは、自然はサロンのように着飾られ髪結われている」(渡辺京二著『逝きし世の面影』)と語られる。
幕末には、江戸の町は、随所に季節の植栽が植えられ、欧米人から江戸は町全体が庭園都市と称賛された。
江戸は自然植生ではなく、武家、寺社、町民が、おのおの手をかけて町全体を庭園のように丁寧に形づくっていたことが分かる。今日の東京からは想像がつかないが、幕末に来日した欧米人は、石づくりの欧米の街とは異なり、緑により作庭された庭園都市江戸の美しさを高く評価していたのである。
庭園都市・江戸は、江戸の郊外にも広がる。先に引用したフォーチュンの記録には、こう記されている。
「馬で郊外のこぢんまりとした住居や農家や小屋の傍らを通り過ぎると、家の前に日本人好みの草花を少しばかり植え込んだ小庭を作っている。日本人の国民性の著しい特色は、下層階級でもみな生来の花好きであることだ」
残念ながら、明治とともに世界に比類なき庭園都市・江戸は消滅した。明治14(1881)年に来日したフランスの作家、エドモン・コトーは「かつての日本への訪問者を魅了した不思議な美しさの大部分は街に見られなくなってしまった」(『ボンジュール・ジャポン』新評論)と語っている。
庭園都市は、江戸の街の身だしなみだったのであろう。
https://www.sankei.com/article/20230819-JIZTIKJCVNEHPFEMFU5PLSXTSI/
江戸は世界に比類のない庭園都市だった 幕末の欧米人が高評価 内藤克彦
2023/8/19 20:00
第五代将軍徳川綱吉の側用人、柳沢吉保が築園した六義園(東京・本駒込)。「回遊式築山泉水庭園」という
江戸の町は100万都市でありながら、幕末に訪れた欧米人から「庭園都市」として評価されていた。英国のプラントハンター(植物収集家)、ロバート・フォーチュンは次のように江戸を評した。
「江戸には(英ロンドンの)聖パウロ大聖堂やウエストミンスター寺院もないし、(仏パリの)エリゼ宮殿やベルサイユ宮殿もない。パリのブールバールやロンドンのリーゼント街のように見るべきものはない。(中略)にもかかわらず、江戸は不思議なところで、常に外来人の目をひき付ける特有のものを持っている。江戸は東洋における大都市で、城は深い堀、緑の堤防、諸侯の邸宅、広い街路などに囲まれている。城に近い丘から展望した風景は、ヨーロッパや諸外国のどの都市と比較しても、勝るとも決して劣りはしない。それらの谷間や樹木の茂る丘、木々で縁取られた静かな道や常緑樹の生け垣などの美しさは、世界のどこの都市も及ばない」
幕末の駐日英国公使、ラザフォード・オールコックは、こんな記録を残している。
「この首都には、ヨーロッパのいかなる首都も自慢できないすぐれた点がある。(中略)都心から出発して、どの方向に向かっても、木の生い茂った丘があり、常緑の植物や大きな木で縁取られたにこやかな空間や木陰の小道がある。特に官庁街の城壁沿いの道路や、そこから田舎の方向に向かって走る多くの道路や並木道には、広々とした緑の斜面とか、寺の庭園とか、樹木の良く茂った公園があって目を楽しませてくれる」(オールコック著『大君の都』)
前出のフォーチュンは、並木道の美しさに触れている。
「大きな並木道、松、とくに杉の並木にしばしば出会ったが、道ばたに大変快い日陰をつくっている。種々の種類の常緑の樫や、時には杉やほかの常緑樹で作られた見事な生け垣に注目した。生け垣は丁寧に刈り込まれて、時にはかなりの高さに整枝されて、英国の貴族の庭園や公園でよく見かける、柊やイチイの高い生け垣を思い出させる」
プロイセン特命全権公使のフリードリヒ・アルブレヒト・オイレンブルク伯爵の『日本遠征記』によれば、江戸を特徴付けているのは「バロック的な人工性」であり、「ここでは、自然はサロンのように着飾られ髪結われている」(渡辺京二著『逝きし世の面影』)と語られる。
幕末には、江戸の町は、随所に季節の植栽が植えられ、欧米人から江戸は町全体が庭園都市と称賛された。
江戸は自然植生ではなく、武家、寺社、町民が、おのおの手をかけて町全体を庭園のように丁寧に形づくっていたことが分かる。今日の東京からは想像がつかないが、幕末に来日した欧米人は、石づくりの欧米の街とは異なり、緑により作庭された庭園都市江戸の美しさを高く評価していたのである。
庭園都市・江戸は、江戸の郊外にも広がる。先に引用したフォーチュンの記録には、こう記されている。
「馬で郊外のこぢんまりとした住居や農家や小屋の傍らを通り過ぎると、家の前に日本人好みの草花を少しばかり植え込んだ小庭を作っている。日本人の国民性の著しい特色は、下層階級でもみな生来の花好きであることだ」
残念ながら、明治とともに世界に比類なき庭園都市・江戸は消滅した。明治14(1881)年に来日したフランスの作家、エドモン・コトーは「かつての日本への訪問者を魅了した不思議な美しさの大部分は街に見られなくなってしまった」(『ボンジュール・ジャポン』新評論)と語っている。
庭園都市は、江戸の街の身だしなみだったのであろう。
https://www.sankei.com/article/20230819-JIZTIKJCVNEHPFEMFU5PLSXTSI/