또, 토쿠가와막부와 이조 조선과의 사이에 「조선 통신사」에 의한 교류가 있던 것은 알려져 있지만, 그 통신사에 대해서도 「
일본은 조선을 문화의 선진국이라고 생각해 사절을 파견하도록(듯이) 요청해 왔다.이것에 대해, 조선에서는 통신사를 파견했지만,
일본은 통신사의 일행을 이라고 눌러 선진 학문과 기술을 배우려고 열심이었다」(중학), 「토쿠가와막부는, 선진 문물을 받아 들이기 위해서,
교섭을 허가하도록(듯이) 간청 했다」(고등학교)이라고 쓰여져 있다.즉, 중세나 근세라도, 조선은 「선진 학문과 기술」을 가지는 선진국으로서 그려져 일본은 그 선진 문물을 「간청」해, 조선은 그것을 「허가」하는 입장의 나라였다고 하는 것으로 있다.요컨데, 여기에 공통되는 것은 조선을 「문화적 우월자」라고 평가해 일본은 「열등」이다라는 자세이다.
また、徳川幕府と李朝朝鮮との間で「朝鮮通信使」による交流があったことは知られているが、その通信使についても「……日本は朝鮮を文化の先進国と考え、使節を派遣するよう要請してきた。これに対し、朝鮮では通信使を派遣したが、……日本は通信使の一行をとおして先進学問と技術を学ぼうと懸命であった」(中学)、「徳川幕府は、先進文物を受け入れるために、……交渉を許可するよう懇請した」(高校)と書かれている。つまり、中世や近世でも、朝鮮は「先進学問と技術」をもつ先進国として描かれ、日本はその先進文物を「懇請」し、朝鮮はそれを「許可」する立場の国だったというわけである。要するに、ここに共通するのは朝鮮を「文化的優越者」と位置づけ、日本は「劣等」であるとの姿勢である。
しかし、ここでいう朝鮮の「先進学問」とは要は漢文・漢詩であり、通信使の書画をもとめた、いわばミーハー的な日本人がいたという話に過ぎない。念のために事実を記せば、中世の交易は朝鮮の綿布と日本の銅(のちには銀)との交易であり、室町前期から朝鮮側は日本の水車や和紙(彼らは倭紙と書く)の製造技術の導入をはかろうとしているが、結局は成功しなかった(下條正男氏)。「先進学問と技術を学ぼうと懸命であった」のは、むしろ朝鮮側だったというのもまた事実なのである。さらに江戸期に入ると、通信使の通訳が、江戸市街をみて「かつて見た北京にも劣らないと驚嘆した」と記していることもあげておきたい。