조선 통신사는, 한국에서 정규 교육을 받은 사람이라면, 누구라도 한 번은 들었던 적이 있어, 알고 있는 사실일 것이다.
그런데 , 이 조선 통신사는, 한국의 국사 교과서에서는, 마치 진행되고 있던 조선의 문화나 문물을 일본에게 전하러 간 사자 행렬단으로 하는 만큼 역사 왜곡되고 있다.
이번은, 그것은 다르다고 하는 취지의 기사를 써 보고 싶다.
위의 사진이라도 보면 알겠지만, 조선 통신사의 행렬은, 당시 , 한국인을 자력으로 갈 수 있는 가장 먼 거리의 여행이라고 보면 된다.
당시의 조선은, 동남아시아나 서양 세력과 무역을 하고 있던 일본이나 청과는 달라, 조공 무역으로 청나라의 북경이나 연경에 행렬을 만들고 있었다.그리고 당시 , 일본에 가는 외교 사절단을 제외해서는, 외국에 여행이나 비즈니스 출장하러 가는 한국인들은 없었다.
다만, 1명의 예외는 있지만, 그 사람의 이름은 조완벽이라고 말하고, 경상남도 진주 출신의 사람으로, 당시 , 한국인으로서 처음으로 베트남에 2회, 필리핀에 1회 방문한 인물이다.이 사람은, 한국인으로서는 가장 넓은 세계를 봐 온 양반 출신의 사람이다 다.
그런데, 그 사람이 왜 그렇게 넓은 세계를 볼 수 있었다고 생각해?
그것은, 확실히 그가 임진왜란에서 진주성이 함락 당한 20세 때, 일본군의 포로가 되어, 일본에 데리고 가져 노예 생활을 하고 있었는데, 일본인 상인의 눈에 멈추어, 상담돕기로서 채용되고 동남아시아까지 갈 기회를 얻었기 때문이었다.
어쨌든 당시 , 왕복 4000킬로미터 있다 일본의 에도까지의 여로는, 한국인을 갈 수 있는 가장 먼 거리였다.
응?`네 조선과는 달라, 일본의 경우, 벌써 임진왜란의 꽤 전부터 동남아시아나 중국 남부등과 무역을 하면서, 포르투갈, 스페인등의 서양 세력과도 조우해, 그들과 소규모의 해전이나 상업 거래등을 실시했던 것이 몇차례 있었다.
아래의 동남아시아의 지도에 나타난 지역은, 당시의 일본의 무역 거점이 있던 장소에서, 점선과 화살표는 일본의 해상 무역 루트를 나타내고 있다.
덧붙여서, 일본이 포르투갈의 화승총을 얻은 것은, 임진왜란이 개시되는 반세기 이상이나 전다.
위의 지도가 나타내 보이도록(듯이), 마락카, 프놈펜, 호 이언, 마닐라, 방콕, 톤킨 등, 현재도 동남아시아의 거점 도시인데, 일본은 수백 년 전부터 스스로의 무역 거점인 일본인마을을 만들고 있었다.이것은 니혼마치로 불리고 있었다.
21 세기의 현대 일본을 상징하는 것의 1개가 경제대국이라고 하는 지루한 이야기도 있지만, 일본이라고 하면 세계가 많은 사람들이 애니메이션이나 일본식 디자인, 패션등을 떠올린다.
에도시대의 일본에서는, 일본인의 생활을 그린 강호시대의 풍속화라고 하는 것이, 몹시 인기를 끌어 일본식 예술의 하나로서 지위를 확립했지만, 이 일본의 강호시대의 풍속화는, 지구의 반대측 유럽에서 대히트를 기록했다.
인상파의 화가로서 알려진 고호는, 서양이 많은 유명 화가들중에서도, 특히 일본을 좋아하고, 일본에 관심을 가지고 있던 것에서도 유명하지만, 고호의 작품은 일본식 화풍인 강호시대의 풍속화의 영향을 많이 받았다.
그리고, 고호의 자화상이라고 하는 작품을 보면, 일본 강호시대의 풍속화의 그림이 벽에 걸려 있는 님 아이를 볼 수 있다.
이 사진 중(안)에서 귀를 잘린 인물의 우측에 있는 것이, 확실히 일본의 강호시대의 풍속화 작품이다.
KBSも朝鮮通信使の歪曲を認定
朝鮮通信史は、韓国で正規教育を受けた人なら、誰でも一度は聞いたことがあり、知っている事実であろう。
ところが、この朝鮮通信使は、韓国の国史教科書では、まるで進んでいた朝鮮の文化や文物を日本に伝えに行った使者行列団とするほど歴史歪曲されている。
今回は、それは違うとする趣旨の記事を書いてみたいと思う。
上の写真でも見れば分かるだろうが、朝鮮通信使の行列は、当時、朝鮮人が自力で行ける最も遠い距離の旅行と見ればいい。
当時の朝鮮は、東南アジアや西洋勢力と貿易をしていた日本や清とは異なり、朝貢貿易で清国の北京や延慶に行列を作っていた。そして当時、日本に行く外交使節団を除いては、外国に旅行やビジネス出張に行く朝鮮人たちはいなかった。
ただし、1人の例外はいるが、その人の名前は趙完璧と言って、慶尚南道晋州出身の人で、当時、朝鮮人として初めてベトナムに2回、フィリピンに1回訪問した人物だ。この人は、朝鮮人としては最も広い世界を見てきた両班出身の人だっだ。
ところで、その人がなぜそんなに広い世界を見ることができたと思う?
それは、まさに彼が壬辰倭乱で晋州城が陷落させられた20歳の時、日本軍の捕虜となり、日本に連れて行かれ、奴隷生活をしていたところ、日本人商人の目にとまり、商談の手伝いとして採用され、東南アジアまで行く機会を得たからだった。
とにかく当時、往復4000キロメートルある日本の江戸までの旅路は、朝鮮人が行ける最も遠い距離だった。
そんな朝鮮とは異なり、日本の場合、すでに壬辰倭乱のかなり前から東南アジアや中国南部などと貿易をしながら、ポルトガル、スペインなどの西洋勢力とも遭遇し、彼らと小規模な海戦や商業取引などを行ったことが数回あった。
下の東南アジアの地図に示された地域は、当時の日本の貿易拠点があった場所で、点線と矢印は日本の海上貿易ルートを示している。
ちなみに、日本がポルトガルの火縄銃を得たのは、壬辰倭乱が開始される半世紀以上も前のことだ。
上の地図が示すように、マラッカ、プノンペン、ホイアン、マニラ、バンコク、トンキンなど、現在も東南アジアの拠点都市であるところに、日本は数百年前から自分たちの貿易拠点である日本人村を作っていた。これはニホンマチと呼ばれていた。
21世紀の現代日本を象徴するものの1つが経済大国というような退屈な話もあるが、日本と言えば世界の多くの人々がアニメや日本式デザイン、ファッションなどを思い浮かべる。
江戸時代の日本では、日本人の生活を描いた浮世絵というのが、すごく人気を集めて日本式芸術の1つとして地位を確立したが、この日本の浮世絵は、地球の反対側欧州で大ヒットを記録した。
印象派の画家として知られるゴッホは、西洋の多くの有名画家たちの中でも、特に日本が好きで、日本に関心を持っていたことでも有名だが、ゴッホの作品は日本式画風である浮世絵の影響をたくさん受けた。
そして、ゴッホの自画像という作品を見ると、日本浮世絵の絵が壁にかかっている様子を見ることができる。
この写真の中で耳を切られた人物の右側にあるのが、まさに日本の浮世絵作品だ。
朝鮮通信史は、韓国で正規教育を受けた人なら、誰でも一度は聞いたことがあり、知っている事実であろう。
ところが、この朝鮮通信使は、韓国の国史教科書では、まるで進んでいた朝鮮の文化や文物を日本に伝えに行った使者行列団とするほど歴史歪曲されている。
今回は、それは違うとする趣旨の記事を書いてみたいと思う。
上の写真でも見れば分かるだろうが、朝鮮通信使の行列は、当時、朝鮮人が自力で行ける最も遠い距離の旅行と見ればいい。
当時の朝鮮は、東南アジアや西洋勢力と貿易をしていた日本や清とは異なり、朝貢貿易で清国の北京や延慶に行列を作っていた。そして当時、日本に行く外交使節団を除いては、外国に旅行やビジネス出張に行く朝鮮人たちはいなかった。
ただし、1人の例外はいるが、その人の名前は趙完璧と言って、慶尚南道晋州出身の人で、当時、朝鮮人として初めてベトナムに2回、フィリピンに1回訪問した人物だ。この人は、朝鮮人としては最も広い世界を見てきた両班出身の人だっだ。
ところで、その人がなぜそんなに広い世界を見ることができたと思う?
それは、まさに彼が壬辰倭乱で晋州城が陷落させられた20歳の時、日本軍の捕虜となり、日本に連れて行かれ、奴隷生活をしていたところ、日本人商人の目にとまり、商談の手伝いとして採用され、東南アジアまで行く機会を得たからだった。
とにかく当時、往復4000キロメートルある日本の江戸までの旅路は、朝鮮人が行ける最も遠い距離だった。
そんな朝鮮とは異なり、日本の場合、すでに壬辰倭乱のかなり前から東南アジアや中国南部などと貿易をしながら、ポルトガル、スペインなどの西洋勢力とも遭遇し、彼らと小規模な海戦や商業取引などを行ったことが数回あった。
下の東南アジアの地図に示された地域は、当時の日本の貿易拠点があった場所で、点線と矢印は日本の海上貿易ルートを示している。
ちなみに、日本がポルトガルの火縄銃を得たのは、壬辰倭乱が開始される半世紀以上も前のことだ。
上の地図が示すように、マラッカ、プノンペン、ホイアン、マニラ、バンコク、トンキンなど、現在も東南アジアの拠点都市であるところに、日本は数百年前から自分たちの貿易拠点である日本人村を作っていた。これはニホンマチと呼ばれていた。
21世紀の現代日本を象徴するものの1つが経済大国というような退屈な話もあるが、日本と言えば世界の多くの人々がアニメや日本式デザイン、ファッションなどを思い浮かべる。
江戸時代の日本では、日本人の生活を描いた浮世絵というのが、すごく人気を集めて日本式芸術の1つとして地位を確立したが、この日本の浮世絵は、地球の反対側欧州で大ヒットを記録した。
印象派の画家として知られるゴッホは、西洋の多くの有名画家たちの中でも、特に日本が好きで、日本に関心を持っていたことでも有名だが、ゴッホの作品は日本式画風である浮世絵の影響をたくさん受けた。
そして、ゴッホの自画像という作品を見ると、日本浮世絵の絵が壁にかかっている様子を見ることができる。
この写真の中で耳を切られた人物の右側にあるのが、まさに日本の浮世絵作品だ。