시사/경제 PositiveNegativeFreeStyleArguments

中央が事件の総指揮を行ったモーナル・ダオ

事件の責任を感じ自決したモーナル・ダオと
ダッキス・ナウイの遺書

台湾高砂族との戦い


1906年 佐久間総督のよる「理蕃五カ年計画」を推進。警察隊や陸軍部隊(合わせて約10,000人)までも投入してタロコ族の討伐を行い。最後まで英雄的に抵抗した北蕃のタロコ族を一応は屈服させ、南蕃では武器の押収(銃器約2万など)を行った。この討伐に費やされた国費1600万円、日本人死傷者は2000名を数えた。
1915年 これらの武力鎮圧で「多くの人員や費用がかさむわりに効果が少ない」と学んだ総督府は方針の方向転換を図る。威圧から撫育である。また、総督府は小林保祥氏などの調査・著書による「蕃族調査報告書」「習慣調査報告書」などの膨大な研究書を刊行し、彼らの慣習を理解・活用した事などが実を結び、1922年以降は、台東関山付近のプヌン族数百を除いて反抗する蕃族は無くなり、山地の大討伐の歴史は終わったものとされていた。



1930年 霧社事件発生
この事件は総督府には衝撃的であった。何故なら
1.隆起を起こした犯人が教育水準を他を凌いでいた霧社人であったこと。
2.理蕃政策成果の象徴として、原住民とのパイプ役として育成されてきた日本名「花岡一郎(ダッキス・ノービン=モーナル・ダオ)・台中師範講習科卒・教育担当・巡査」と花岡二郎(ダッキス・ナウイ)・日本人小学校卒・警官)と、現職の警官でありながら隆起に参加し、最後は投降勧告を拒否して自害(一郎は割腹)したこと。
3.反乱が長期にわたり周到に準備された計画的、組織的なものだったこと。
4.日本人だけを狙い、老若男女に至るまで130名~145名が無差別に襲撃され首をはねられた事件だった。
この事件の討伐で警察・軍人の戦死28人、戦傷26、費やした支出711万円だった。

この事件は、これだけでは終わらず、その後、収監されていた投降者・約500人の内の210名が、日本側に協力した親日派タロコ族により報復殺害された。


事件前日の霧社公学校。運動会の予行練習。国旗を振る児童は殆ど殺害された。
味方についた現地人を射撃訓練する日本討伐隊
公学校宿舎の便所で11人の子供を守った小島夫人と救われた子供達。


その後の台湾統治
簡 福源氏(74)の証言より




戦後、日本人は兵も一般人も帰還していった。なぜ僕らも帰らないのかと、お爺さんに聞くと、内地の人とは違うという。「ああ、僕は日本人じゃあなかったのか」自分が日本人でなかった事を初めて知り落胆したといいます。

簡氏は台湾人である。台湾はスペインとオランダによる占領を経て、17世紀末からは清朝の支配を受けました。日清戦争後の1895年、下関条約によって日本統治下に入りました。


日本が台湾のために国内と同様に帝国大学を設け、鉄道を敷き、水利工事を行うなど当時の国力としては精一杯の力を尽くしました。少年期にこの日本人の努力を見続け、「山田正太郎」を名乗った簡氏は日本語による基礎教育に感謝し、「日本精神は誠の精神。真っ直ぐで正しい」と説き続けます。


簡氏は「高砂族」と総称された台湾先住民の一つ、タイヤル族に属しました。
族語で温泉を意味するウライの部族長一族の出身で、戦後は20代で台北県議にも当選し、町村長に相当する烏来郷長を60歳過ぎまで努められました。


「烏来教育処ではタイヤルの子も日本の子も一緒に学んだ。国語(日本語)に歴史、算数…。担任のオオクボ先生は憶えが悪い生徒をよく殴ったけれど、分け隔てはしなかった」同化した「日本」への情熱の中に簡氏は生きている。
「日本が無ければ、今の私の恵まれた暮らしはなかった」このような恩義の気持ちを、「多くの日本人は忘れてしまった。」


高砂族とは後から名づけられた部族名で、1895年に下関条約に基づき清国から台湾統治を譲り受け、統治を開始した日本が先住少数民族のタイヤル、パイワン、ヤミ族など8種類の部族を総称してそう呼びました。
彼ら山岳先住民族はテリトリー意識が非常に厳しく、平地に住む人々が無断で山に侵入してきた場合は首を狩られるなど、野蛮な風習があり「蕃人」などと呼ばれ蔑まれていました。事実、清国は彼らを完全に隔離し平地と山岳部には柵を作り、無闇に領域を侵さないようにして平和を保っていたのです。


そんな彼ら先住民に対し、日本は統治初期は平地に住む人々と隔離する政策を引き継ぎましたが、大きく違ったのは、積極的に警官を駐在させたり教師や技術者などを送り住まわせて、文化や教育、土木技術などを取り入れさせる、俗に言う皇民化政策を推し進めたのです。(未開人と見なされた人々へ文化の恩恵を与えて導くのは当時の強国の正当な義務でした。しかし欧米は植民地化して搾取することしか考えておらず、生真面目に実行したのは日本だけでした。)


その際、台湾の美しい海岸線を見た日本人は、日本の高砂にも劣らぬ素晴らしさだと評価し、そこから彼ら先住民族の総称を「高砂族」とする事に決めたそうです。台湾を訪問した昭和天皇が、蛮族と紹介した将軍に対し「朕の国民を蛮族呼ばわりするとは何事か!」とたしなめられたので、慌てて呼称を付けたと言う逸話もあります。
また明治天皇は 新高山の麓の民草も繁りますると聞くや嬉しき と言う歌を詠んで日本統治の元に発展していく台湾民族を喜び、特に新高山と書いているので高砂族を気にかけていたことが伝わってきます。


こうして日本文化を浸透させる事で、韓国と同じように原住民を文明人に引き上げようとしたのです。しかし、インフラ整備に伴う過酷な労役は彼ら先住民族に強制され、それに駆り出された彼らの不満は「霧社事件」という先住民による小学校の運動会襲撃事件を引き起こしたりしました。
この事件で児童、教員、警察官など、在住日本人370名の内、134名(145名とも)が殺害され、日本の警察や日本軍は航空機を投入する徹底的な討伐作戦を行い、決起した1000余名のうち事件の首謀者であるモーナル・ダオ(自殺)以下685名を殺害(死者の半数は他の高砂部族の手や自決によると言われる)し、投降者551名を受け入れこの暴動を終結させました。


モーナルダオ率いるマライ系高砂族による暴動という事態が起き、総督以下関係官吏が罷免されましたが、それ以後大きな衝突は起こらずインフラ整備が軌道に乗ると生活も豊かになってきます。国語として定められた日本語は今まで全く無かった部族間の交流を実現させ、公学校が建設され一般家庭の子供たちが教育を受けれるようになり、教育勅語などの教えはモラルも上げていきました。


こうして事実上、台湾人は中国本土に住む人々より文化や精神レベルは高くなったのです。そしてこれは、日本が「植民地政策」を行っていない、という論拠でもあります。(有名な逸話で、台湾を接収しにきた国民党軍の兵士が蛇口を捻れば水が出てくる事に驚いて、金物屋で蛇口だけを買って壁に取り付けたが当然水が出ない。騙されたと怒ったその兵士は金物屋の主人を殺した、と言うのがあります。)これは当時同じく欧米列強の植民地となっていたアフリカ、インド、東南アジアの悲惨な状況を見れば、その差は歴然と言えると思います。(韓国の皆さんは残念ながら日本が敗戦すると、裏切り、恩恵は綺麗に忘れて搾取を受けたと今でも謝罪・賠償を要求してますが、恩恵を忘れない台湾の方々は違いました。)

そして、植民地政策を進める欧米列強に対抗しアジアを開放し、八紘一宇という目標を達成するために戦っていた日本に協力しようと大勢の高砂族の若者が志願をします。一時は100人応募しても採用されるのは2~3人程度という競争率で、中には血で書いた嘆願書を持ってくる方もいたそうです。
同時期、太平洋戦争で日本軍は南方戦線でのジャングル戦に悩まされます。それで、フィリピン攻略戦で損害を被った陸軍は、密林の山岳地帯を戦える素質を持った兵隊として山岳民族であった高砂族に白羽の矢を立てました。
こうして、第一次高砂義勇隊500名を皮切りに7000名前後の高砂族の若者が太平洋戦争に身を投じたわけです。先祖伝来の蕃刀(ばんとう)で密林を切り開き方向感覚を失わず、夜目が効き勇猛果敢な性質だった彼らは大活躍しました。

フィリピン攻略だけでなく、メナドやパレンバンの空挺作戦など数々の作戦に参加して南方作戦に従事していた日本兵を助けています。日本人にも「彼らは素直で純真、そして責任感がある」と感嘆する程の立派な英雄としてその名を響かせていました。

高砂義勇隊を語るには外せないエピソードの一つに、戦友の食料を調達するために出かけていった高砂族の兵士が、両腕に一切手をつけていない食料を抱えたまま餓死した状態で発見されたというものがあります。自分が餓死しようとも、戦友の為の食料には最後まで手を付けない。欧米人から見れば到底理解不能な話ではありますが、その愚直なまでの高潔な精神性には胸が熱くなるものを感じます。そして、彼ら高砂族の方々はそういった精神は日本人から学んだと胸を張って語られています。このように日本人と台湾人は、協力し合い、助け合いながら、お互いを信頼して戦ってきたわけです。

前線で半数が戦死したと言われる高砂義勇隊ですが、戦争終結後も苦難が待っていました。前述したように日本軍が撤退し、アメリカの援助を受けて戦勝国という立場の国民党軍が台湾を接収してしまった為、無理やり中国籍にされてしまいました。国籍が中国になったので、恩給や補償を受け取れずにいましたが訴訟裁判なんて起こしていませんし、日本を恨んでもいません。むしろ彼らは、今でも賠償ばかり要求する韓国とは真逆に「日本と共に戦えた事を今も誇りに思う」と発言しています。

素晴らしい戦友となった、台湾人に感謝




戦後も親友のままの台湾

中央が事件の総指揮を行ったモーナル・ダオ

事件の責任を感じ自決したモーナル・ダオと
ダッキス・ナウイの遺書

台湾高砂族との戦い


1906年 佐久間総督のよる「理蕃五カ年計画」を推進。警察隊や陸軍部隊(合わせて約10,000人)までも投入してタロコ族の討伐を行い。最後まで英雄的に抵抗した北蕃のタロコ族を一応は屈服させ、南蕃では武器の押収(銃器約2万など)を行った。この討伐に費やされた国費1600万円、日本人死傷者は2000名を数えた。
1915年 これらの武力鎮圧で「多くの人員や費用がかさむわりに効果が少ない」と学んだ総督府は方針の方向転換を図る。威圧から撫育である。また、総督府は小林保祥氏などの調査・著書による「蕃族調査報告書」「習慣調査報告書」などの膨大な研究書を刊行し、彼らの慣習を理解・活用した事などが実を結び、1922年以降は、台東関山付近のプヌン族数百を除いて反抗する蕃族は無くなり、山地の大討伐の歴史は終わったものとされていた。



1930年 霧社事件発生
この事件は総督府には衝撃的であった。何故なら
1.隆起を起こした犯人が教育水準を他を凌いでいた霧社人であったこと。
2.理蕃政策成果の象徴として、原住民とのパイプ役として育成されてきた日本名「花岡一郎(ダッキス・ノービン=モーナル・ダオ)・台中師範講習科卒・教育担当・巡査」と花岡二郎(ダッキス・ナウイ)・日本人小学校卒・警官)と、現職の警官でありながら隆起に参加し、最後は投降勧告を拒否して自害(一郎は割腹)したこと。
3.反乱が長期にわたり周到に準備された計画的、組織的なものだったこと。
4.日本人だけを狙い、老若男女に至るまで130名~145名が無差別に襲撃され首をはねられた事件だった。
この事件の討伐で警察・軍人の戦死28人、戦傷26、費やした支出711万円だった。

この事件は、これだけでは終わらず、その後、収監されていた投降者・約500人の内の210名が、日本側に協力した親日派タロコ族により報復殺害された。


事件前日の霧社公学校。運動会の予行練習。国旗を振る児童は殆ど殺害された。
味方についた現地人を射撃訓練する日本討伐隊
公学校宿舎の便所で11人の子供を守った小島夫人と救われた子供達。


その後の台湾統治
簡 福源氏(74)の証言より




戦後、日本人は兵も一般人も帰還していった。なぜ僕らも帰らないのかと、お爺さんに聞くと、内地の人とは違うという。「ああ、僕は日本人じゃあなかったのか」自分が日本人でなかった事を初めて知り落胆したといいます。

簡氏は台湾人である。台湾はスペインとオランダによる占領を経て、17世紀末からは清朝の支配を受けました。日清戦争後の1895年、下関条約によって日本統治下に入りました。


日本が台湾のために国内と同様に帝国大学を設け、鉄道を敷き、水利工事を行うなど当時の国力としては精一杯の力を尽くしました。少年期にこの日本人の努力を見続け、「山田正太郎」を名乗った簡氏は日本語による基礎教育に感謝し、「日本精神は誠の精神。真っ直ぐで正しい」と説き続けます。


簡氏は「高砂族」と総称された台湾先住民の一つ、タイヤル族に属しました。
族語で温泉を意味するウライの部族長一族の出身で、戦後は20代で台北県議にも当選し、町村長に相当する烏来郷長を60歳過ぎまで努められました。


「烏来教育処ではタイヤルの子も日本の子も一緒に学んだ。国語(日本語)に歴史、算数…。担任のオオクボ先生は憶えが悪い生徒をよく殴ったけれど、分け隔てはしなかった」同化した「日本」への情熱の中に簡氏は生きている。
「日本が無ければ、今の私の恵まれた暮らしはなかった」このような恩義の気持ちを、「多くの日本人は忘れてしまった。」


高砂族とは後から名づけられた部族名で、1895年に下関条約に基づき清国から台湾統治を譲り受け、統治を開始した日本が先住少数民族のタイヤル、パイワン、ヤミ族など8種類の部族を総称してそう呼びました。
彼ら山岳先住民族はテリトリー意識が非常に厳しく、平地に住む人々が無断で山に侵入してきた場合は首を狩られるなど、野蛮な風習があり「蕃人」などと呼ばれ蔑まれていました。事実、清国は彼らを完全に隔離し平地と山岳部には柵を作り、無闇に領域を侵さないようにして平和を保っていたのです。


そんな彼ら先住民に対し、日本は統治初期は平地に住む人々と隔離する政策を引き継ぎましたが、大きく違ったのは、積極的に警官を駐在させたり教師や技術者などを送り住まわせて、文化や教育、土木技術などを取り入れさせる、俗に言う皇民化政策を推し進めたのです。(未開人と見なされた人々へ文化の恩恵を与えて導くのは当時の強国の正当な義務でした。しかし欧米は植民地化して搾取することしか考えておらず、生真面目に実行したのは日本だけでした。)


その際、台湾の美しい海岸線を見た日本人は、日本の高砂にも劣らぬ素晴らしさだと評価し、そこから彼ら先住民族の総称を「高砂族」とする事に決めたそうです。台湾を訪問した昭和天皇が、蛮族と紹介した将軍に対し「朕の国民を蛮族呼ばわりするとは何事か!」とたしなめられたので、慌てて呼称を付けたと言う逸話もあります。
また明治天皇は 新高山の麓の民草も繁りますると聞くや嬉しき と言う歌を詠んで日本統治の元に発展していく台湾民族を喜び、特に新高山と書いているので高砂族を気にかけていたことが伝わってきます。


こうして日本文化を浸透させる事で、韓国と同じように原住民を文明人に引き上げようとしたのです。しかし、インフラ整備に伴う過酷な労役は彼ら先住民族に強制され、それに駆り出された彼らの不満は「霧社事件」という先住民による小学校の運動会襲撃事件を引き起こしたりしました。
この事件で児童、教員、警察官など、在住日本人370名の内、134名(145名とも)が殺害され、日本の警察や日本軍は航空機を投入する徹底的な討伐作戦を行い、決起した1000余名のうち事件の首謀者であるモーナル・ダオ(自殺)以下685名を殺害(死者の半数は他の高砂部族の手や自決によると言われる)し、投降者551名を受け入れこの暴動を終結させました。


モーナルダオ率いるマライ系高砂族による暴動という事態が起き、総督以下関係官吏が罷免されましたが、それ以後大きな衝突は起こらずインフラ整備が軌道に乗ると生活も豊かになってきます。国語として定められた日本語は今まで全く無かった部族間の交流を実現させ、公学校が建設され一般家庭の子供たちが教育を受けれるようになり、教育勅語などの教えはモラルも上げていきました。


こうして事実上、台湾人は中国本土に住む人々より文化や精神レベルは高くなったのです。そしてこれは、日本が「植民地政策」を行っていない、という論拠でもあります。(有名な逸話で、台湾を接収しにきた国民党軍の兵士が蛇口を捻れば水が出てくる事に驚いて、金物屋で蛇口だけを買って壁に取り付けたが当然水が出ない。騙されたと怒ったその兵士は金物屋の主人を殺した、と言うのがあります。)これは当時同じく欧米列強の植民地となっていたアフリカ、インド、東南アジアの悲惨な状況を見れば、その差は歴然と言えると思います。(韓国の皆さんは残念ながら日本が敗戦すると、裏切り、恩恵は綺麗に忘れて搾取を受けたと今でも謝罪・賠償を要求してますが、恩恵を忘れない台湾の方々は違いました。)

そして、植民地政策を進める欧米列強に対抗しアジアを開放し、八紘一宇という目標を達成するために戦っていた日本に協力しようと大勢の高砂族の若者が志願をします。一時は100人応募しても採用されるのは2~3人程度という競争率で、中には血で書いた嘆願書を持ってくる方もいたそうです。
同時期、太平洋戦争で日本軍は南方戦線でのジャングル戦に悩まされます。それで、フィリピン攻略戦で損害を被った陸軍は、密林の山岳地帯を戦える素質を持った兵隊として山岳民族であった高砂族に白羽の矢を立てました。
こうして、第一次高砂義勇隊500名を皮切りに7000名前後の高砂族の若者が太平洋戦争に身を投じたわけです。先祖伝来の蕃刀(ばんとう)で密林を切り開き方向感覚を失わず、夜目が効き勇猛果敢な性質だった彼らは大活躍しました。

フィリピン攻略だけでなく、メナドやパレンバンの空挺作戦など数々の作戦に参加して南方作戦に従事していた日本兵を助けています。日本人にも「彼らは素直で純真、そして責任感がある」と感嘆する程の立派な英雄としてその名を響かせていました。

高砂義勇隊を語るには外せないエピソードの一つに、戦友の食料を調達するために出かけていった高砂族の兵士が、両腕に一切手をつけていない食料を抱えたまま餓死した状態で発見されたというものがあります。自分が餓死しようとも、戦友の為の食料には最後まで手を付けない。欧米人から見れば到底理解不能な話ではありますが、その愚直なまでの高潔な精神性には胸が熱くなるものを感じます。そして、彼ら高砂族の方々はそういった精神は日本人から学んだと胸を張って語られています。このように日本人と台湾人は、協力し合い、助け合いながら、お互いを信頼して戦ってきたわけです。

前線で半数が戦死したと言われる高砂義勇隊ですが、戦争終結後も苦難が待っていました。前述したように日本軍が撤退し、アメリカの援助を受けて戦勝国という立場の国民党軍が台湾を接収してしまった為、無理やり中国籍にされてしまいました。国籍が中国になったので、恩給や補償を受け取れずにいましたが訴訟裁判なんて起こしていませんし、日本を恨んでもいません。むしろ彼らは、今でも賠償ばかり要求する韓国とは真逆に「日本と共に戦えた事を今も誇りに思う」と発言しています。

素晴らしい戦友となった、台湾人に感謝





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