◆600명이서 1만 7000명을 깬다
대마도에 상륙한 이씨 조선군은 대마도 수호·무네사다성에 책을 보냈지만, 대답은 없었다.그러자(면) 시마우치의 수색을 개시.그 과정에서 배를 다 태워, 1939호의 집을 구워, 114명을 다치게 해(다치게 해), 논의 곡물을 베고 갔다.이 때, 대마도를 지키는 무사의 수는 600명 정도이며, 이씨 조선군의 불과 30분의 1에 지나지 않는다.어떻게 생각해도 다수의 의견이 힘이 있고, 이길 수 있어야할 않는 싸움이었다.
그러나, 이씨 조선군은 생각하지 않는 고전을 강요당한다.6월 29일, 3군을 구성해 진공하며 갔지만, 그 중의 2군은 종자무 인솔하는 대마도세에 방해되었다.대마도세는 온전히 도전하고는 이길 수 없다고 판단하고, 이씨 조선군을 내륙부로 끌여들여 급습하려고 생각했던 것이다.
이 작전이, 보기 좋게 빠졌다.대마도세가 발하는 화살은 재미있게 명중해, 또 땅의 이익을 살려 몹시 나쁘게 기습공격을 행해, 이씨 조선군에 대타격을 준다.일본측의 사료에 의하면 이씨 조선군은 2500것 손해를 냈다고 한다.전력차이를 생각하면, 생각할 수 없는 전과이다(강악〈노가악〉의 싸움).
이에 따라, 이씨 조선군은 일시 철퇴.이렇게 해 교착(교착) 상태에 빠지면, 무네사다성은 「7월에 들어가면 폭풍이 불기 위해, 대군이 장기간 머무는 것은 좋지 않다」라는 문서를 보내, 수호와 철퇴를 호소했다.간단하게 공락할 수 없으면 알았다 이씨 조선군도 이것을 수용한다.결과, 7월 3일에 대마도로부터 조선에 철수하게 되었다.
지금과 같이 정보 전달 수단이 발달하고 있지 않는 무로마치 시대, 이 일련의 흐름은 막부에 정확하게 전해지지 않았었다.당시 , 아시카가의지가 명의 사용을 되돌려 보내는 등 날명관계가 악화되고 있던 적도 있어, 쿄토에서는 「명이 습격해 왔다.대당봉기(원구)의 재래다」 등과 오해하고 있었던 것이다.
한층 더 놀랄 만한은, 이씨 조선군이 침공하기 전의 5월 22일의 시점에서, 「대당·남만·고려등이 일본에 공격해 온다」라고 하는 정보가 쿄토에 퍼지고 있던 점이다.정보의 출처(소)는 「고려」라고 말해지고 있었다고 하지만, 이것을 들은 아시카가의지는 앙천 하면서도, 「신국 이유 무슨 일 있다인가」라고 입에 대었다고 한다.
아시카가의지는 석청수 하치만신을 모신 신사에 발길을 옮겨, 무사를 빌었다.이 때, 전``설에 의하면, 바람도 없는데 하치만신을 모신 신사의 토리가 넘어졌다고 한다.여하튼, 최종적으로는 이씨 조선과의 새로운 싸움은 행해져서 두, 의지가 무서워한 것 같은 「대당봉기」의 규모의 싸움에는 발전하지 않았다.이씨 조선내에서는 전과가 없었기(위해)때문에 재정을 주장하는 세력도 있었지만, 결국은 중지가 되었다.
조선측의 기록에는, 이 싸움의 후, 대마도측이 사자를 보내 조선에의 귀속을 바랐다고 하는 기술도 있다고도 말한다.그러나, 대마도 측에 귀속의 의지가 있었다고는 생각하기 어렵다.오히려 오에이의 외구는, 이씨 조선의 태종의 「대마도의 섬인, 본이것 우리나라의 땅」이라고 하는 말을, 명실 공히 부정하는 역사적 사건이 된 것이다.
李氏朝鮮17000人VS対馬軍600人でも大敗北
対馬に上陸した李氏朝鮮軍は対馬守護・宗貞盛に書を送ったが、返答はなかった。すると島内の捜索を開始。その過程で船を焼き払い、1939戸の家を焼き、114人を殺め(あやめ)、田んぼの穀物を刈っていった。このとき、対馬を守る武士の数は600人程度であり、李氏朝鮮軍のわずか30分の1にすぎない。どう考えても多勢に無勢であり、勝てるはずのない戦いであった。
しかし、李氏朝鮮軍は思わぬ苦戦を強いられる。6月29日、3軍を構成して進攻していったが、そのうちの2軍は宗資茂率いる対馬勢に阻まれた。対馬勢はまともに挑んでは勝てないと判断して、李氏朝鮮軍を内陸部に引き込んで急襲しようと考えたのだ。
この作戦が、見事にはまった。対馬勢の放つ矢は面白いように命中し、また地の利をいかして散々に奇襲攻撃を行ない、李氏朝鮮軍に大打撃を与える。日本側の史料によれば李氏朝鮮軍は2,500もの損害を出したという。戦力差を考えれば、考えられない戦果である(糠岳〈奴加岳〉の戦い)。
これを受けて、李氏朝鮮軍は一時撤退。こうして膠着(こうちゃく)状態に陥ると、宗貞盛は「7月に入ると暴風が吹くため、大軍が長期間留まるのはよくない」との文書を送り、修好と撤退を呼びかけた。簡単に攻め落とせないとわかった李氏朝鮮軍もこれを容れる。結果、7月3日に対馬から朝鮮へ撤収することになった。
いまのように情報伝達手段が発達していない室町時代、この一連の流れは幕府に正確に伝わっていなかった。当時、足利義持が明の使いを追い返すなど日明関係が悪化していたこともあり、京都では「明が襲撃してきた。大唐蜂起(元寇)の再来だ」などと誤解していたのである。
さらに驚くべきは、李氏朝鮮軍が侵攻する前の5月22日の時点で、「大唐・南蛮・高麗等が日本に攻め来たる」という情報が京都に広まっていた点だ。情報の出所は「高麗」といわれていたというが、これを耳にした足利義持は仰天しつつも、「神国ゆえ何事あるか」と口にしたといわれている。
足利義持は石清水八幡宮に足を運び、無事を祈った。このとき、伝説によれば、風もないのに八幡宮の鳥居が倒れたという。ともあれ、最終的には李氏朝鮮とのさらなる戦いは行なわれず、義持が恐れたような「大唐蜂起」の規模の争いには発展しなかった。李氏朝鮮内では戦果がなかったために再征を主張する勢力もいたが、結局は中止になった。
朝鮮側の記録には、この戦いののち、対馬側が使者を送って朝鮮への帰属を願ったという記述もあるともいう。しかし、対馬側に帰属の意志があったとは考えにくい。むしろ応永の外寇は、李氏朝鮮の太宗の「対馬の島たる、本これ我国の地」という言葉を、名実ともに否定する歴史的事件となったのであった。
◆600人で1万7000人を打ち破る
対馬に上陸した李氏朝鮮軍は対馬守護・宗貞盛に書を送ったが、返答はなかった。すると島内の捜索を開始。その過程で船を焼き払い、1939戸の家を焼き、114人を殺め(あやめ)、田んぼの穀物を刈っていった。このとき、対馬を守る武士の数は600人程度であり、李氏朝鮮軍のわずか30分の1にすぎない。どう考えても多勢に無勢であり、勝てるはずのない戦いであった。
しかし、李氏朝鮮軍は思わぬ苦戦を強いられる。6月29日、3軍を構成して進攻していったが、そのうちの2軍は宗資茂率いる対馬勢に阻まれた。対馬勢はまともに挑んでは勝てないと判断して、李氏朝鮮軍を内陸部に引き込んで急襲しようと考えたのだ。
この作戦が、見事にはまった。対馬勢の放つ矢は面白いように命中し、また地の利をいかして散々に奇襲攻撃を行ない、李氏朝鮮軍に大打撃を与える。日本側の史料によれば李氏朝鮮軍は2,500もの損害を出したという。戦力差を考えれば、考えられない戦果である(糠岳〈奴加岳〉の戦い)。
これを受けて、李氏朝鮮軍は一時撤退。こうして膠着(こうちゃく)状態に陥ると、宗貞盛は「7月に入ると暴風が吹くため、大軍が長期間留まるのはよくない」との文書を送り、修好と撤退を呼びかけた。簡単に攻め落とせないとわかった李氏朝鮮軍もこれを容れる。結果、7月3日に対馬から朝鮮へ撤収することになった。
いまのように情報伝達手段が発達していない室町時代、この一連の流れは幕府に正確に伝わっていなかった。当時、足利義持が明の使いを追い返すなど日明関係が悪化していたこともあり、京都では「明が襲撃してきた。大唐蜂起(元寇)の再来だ」などと誤解していたのである。
さらに驚くべきは、李氏朝鮮軍が侵攻する前の5月22日の時点で、「大唐・南蛮・高麗等が日本に攻め来たる」という情報が京都に広まっていた点だ。情報の出所は「高麗」といわれていたというが、これを耳にした足利義持は仰天しつつも、「神国ゆえ何事あるか」と口にしたといわれている。
足利義持は石清水八幡宮に足を運び、無事を祈った。このとき、伝説によれば、風もないのに八幡宮の鳥居が倒れたという。ともあれ、最終的には李氏朝鮮とのさらなる戦いは行なわれず、義持が恐れたような「大唐蜂起」の規模の争いには発展しなかった。李氏朝鮮内では戦果がなかったために再征を主張する勢力もいたが、結局は中止になった。
朝鮮側の記録には、この戦いののち、対馬側が使者を送って朝鮮への帰属を願ったという記述もあるともいう。しかし、対馬側に帰属の意志があったとは考えにくい。むしろ応永の外寇は、李氏朝鮮の太宗の「対馬の島たる、本これ我国の地」という言葉を、名実ともに否定する歴史的事件となったのであった。