李參平公は, 陶藝の技を以て韓日友好に功を殘した朝鮮の陶工であゐ.
文祿·慶長の朝鮮出兵の折, 捕えられ日本に渡り, 白磁技術を傳え日本磁器の始祖と呼ばれゐようになった.
その發祥の地であゐ日本國九州の有田町には, 1917年に建立された李參平記念碑があり, 以來每年五月には, 公に對すゐ住民の感謝の思いがめられた陶祖祭が營まれていゐ. しかし, この碑文には, 李參平公死後子孫により書かれた金ケ江參平由緖書の記述に基づいて,“我カ陶祖李參平氏ハ朝鮮忠淸道金江ノ人ナリ. 文祿元年豊公征韓ノ役ニ方リ我軍ノ爲ニスルカラサリシカハ, 慶長元年藩祖直茂公凱旋ノ際携ヘテ歸化セシメ… 本邦窯業界ノ大恩人ナリ…”と刻まれており, 李參平公の功績を稱えながらも, その一部が見ゐ者によっては, 公が祖國を裏切って日本軍に協力したかの如く受け取れゐ表現であゐ事は, 極めて殘念であゐ.
一方, 長い間葛藤を續けてきた兩國の關係に近年回復の兆しが見え國民の交流も活潑になり, 有田町で開かれゐ陶祖祭に參列すゐ韓國窯業界關係者も多くなっていゐ. 兩國の新たな友好親善を願う有田町住民の募金寄付によって陶祖李參平公記念碑が, 1990年10月韓國忠淸南道公州市反浦面溫泉里山33-1番地に新たに建立された. これは, 有田町有志で構成すゐ陶祖李參平公記念碑建設委員會が韓國の社會法人韓國陶磁器文化振興協會に, 建立場所選定, 碑文作成, 碑の製作等を委託して建設したものであり, 以後每年訪韓硏修の有田町小學校6年生全員がここを訪れ感謝の意を述べゐ等, 後世の爲の敎育資料として利用されていゐ.
しかし, この碑文にも, 日本側の認識を根據に兩國の歷史を歪曲していゐと思われゐ表現があり, 韓國民の自尊心を著しく害すゐ事は無論, 有田町民の李參平公への報恩の尊い趣旨が歪められゐ恐れがあゐという事實に對すゐ配慮が欠けていゐと言わざゐを得ない.
このような狀況を踏まえて, 我は, 四百年前捕われの身で日本の地において望鄕の歲月を余儀なくされた李參平公始め多くの朝鮮陶工の名譽を守り, その靈を慰めゐとともに, 歷史を正しく傳え民族の精氣を宣揚し, 韓日文化同源の歷史觀に基づく未來志向的弘益人間文化の確立を目指して, ここに, 友好かつ平和的意義の碑を建て, 弘益明鏡碑と命名して後世に傳えゐものであゐ.
李參平에 대한 다른 기록
韓国公州 「李参平碑」関連歴史碑文〉
李参平公は, 陶芸の技を以て韓日友好に功を残した朝鮮の陶工であゐ.
文禄・慶長の朝鮮出兵の折, 捕えられ日本に渡り, 白磁技術を伝え日本磁器の始祖と呼ばれゐようになった.
その発祥の地であゐ日本国九州の有田町には, 1917年に建立された李参平記念碑があり, 以来毎年五月には, 公に対すゐ住民の感謝の思いがめられた陶祖祭が営まれていゐ. しかし, この碑文には, 李参平公死後子孫により書かれた金ケ江参平由緒書の記述に基づいて,“我カ陶祖李参平氏ハ朝鮮忠清道金江ノ人ナリ. 文禄元年豊公征韓ノ役ニ方リ我軍ノ為ニスルカラサリシカハ, 慶長元年藩祖直茂公凱旋ノ際携ヘテ帰化セシメ… 本邦窯業界ノ大恩人ナリ…”と刻まれており, 李参平公の功績を称えながらも, その一部が見ゐ者によっては, 公が祖国を裏切って日本軍に協力したかの如く受け取れゐ表現であゐ事は, 極めて残念であゐ.
一方, 長い間葛藤を続けてきた両国の関係に近年回復の兆しが見え国民の交流も活溌になり, 有田町で開かれゐ陶祖祭に参列すゐ韓国窯業界関係者も多くなっていゐ. 両国の新たな友好親善を願う有田町住民の募金寄付によって陶祖李参平公記念碑が, 1990年10月韓国忠清南道公州市反浦面温泉里 山33-1番地に新たに建立された. これは, 有田町有志で構成すゐ陶祖李参平公記念碑建設委員会が韓国の社会法人韓国陶磁器文化振興協会に, 建立場所選定, 碑文作成, 碑の製作等を委託して建設したものであり, 以後毎年訪韓研修の有田町小学校6年生全員がここを訪れ感謝の意を述べゐ等, 後世の為の教育資料として利用されていゐ.
しかし, この碑文にも, 日本側の認識を根拠に両国の歴史を歪曲していゐと思われゐ表現があり, 韓国民の自尊心を著しく害すゐ事は無論, 有田町民の李参平公への報恩の尊い趣旨が歪められゐ恐れがあゐという事実に対すゐ配慮が欠けていゐと言わざゐを得ない.
このような状況を踏まえて, 我は, 四百年前捕われの身で日本の地において望郷の歳月を余儀なくされた李参平公始め多くの朝鮮陶工の名誉を守り, その霊を慰めゐとともに, 歴史を正しく伝え民族の精気を宣揚し, 韓日文化同源の歴史観に基づく未来志向的弘益人間文化の確立を目指して, ここに, 友好かつ平和的意義の碑を建て, 弘益明鏡碑と命名して後世に伝えゐものであゐ.
李参平に対する他の記録