전통문화

孤盲猫を撫でる 外伝 柱間建具2 康寧殿・楽善斉


奈良橿原市今井町今西家居宅   途中で溝の無くなる敷居
賊の襲撃に対し板戸を滑らせて嵌めると開かなくなり、ある程度防衛が出来るようになる装置とのこと。ある意味、襖類の究極の姿。

建築関係でいい写真はないかなぁ。とググると高い確率で栄養さんの写真に行き着く。やはり目的のある構図、というのは強いのだなぁと思う。
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まずはいくつか追加的なこと

1南米・北米・東南アジアなど世界中にSlidingDoorの住宅があるが、日本から輸出したか
答えは半分くらいNO。
西欧においては1924リートフェルトのシュレーダー邸(オランダ:世界遺産)でSlidingdoorが採用されたとあり、これ以降欧米でもぽつぽつ引き戸文化というものが散見できるようになる。
戦後、日本からの輸出を含めアメリカでもこうしたタイプのドアの生産が始まり、現在に至っている。戦前でも日本の影響下にあった地域(東アジア・東南アジア・太平洋地域)や、日本人移民の居住地区にはこうしたドアや窓の流入例(ダバオ)もある。
和冦・南蛮貿易・朱印船貿易に伴い各地に形成された日本人町については、ほぼ研究がない状態で不明。カンボジアのプノンペン・ビニャールの調査を2004以降奈文研がしている模様だが、報告はまだ無い。アユタヤに至っては戦前の軍部の関与の話が出てくることなど、信憑性については厳しい。

2障子は中国から渡来したのではないか
答えは、多分NO。
「韓煕載夜宴図」(遅くとも13Cの成立。11Cまで遡る可能性のある絵画)あたりが相当する時代に近い絵画だが、ここでは屏風や衝立で場所を仕切り宴会が行われている。寝台(ベッド)は帷で覆っている。この後、はめ殺しにした明かり取りの障子状窓(開閉不能の窓)は宋詞・明代絵画や清末写真に見られるが、確実にスライドするタイプは確認できない。
少なくとも日本で襖類が成立する時期に、大陸に襖類が確認できない以上、今のところ襖類は日本出自と考えるべきである。
14C明代と言うことであれば、「日本的な襖類かつ明のものと言われる製品」が存在する(呼称として「扉」が使われている)。螺鈿板に桟をつけ、引き違い戸として流用したものだ。明の家具や屏風をそのまま襖類に転用した例ではないかと思っている。元の家具は16Cのものと推測されている。

3子持ち障子は中国由来では?
不明。元興寺禅室などに一本溝複数枚嵌めの障子が存在し、子持ち障子と言われる。古い形式の襖類の変化の過程では無かろうかと思っている。
東福寺龍吟庵方丈(室町初期)の入り口部分はこの子持ち障子+唐戸という構成で、極めて過渡的な出入り口ではないかと思う。もしかしたら戸袋の原型なのかも知れない。


東福寺龍吟庵方丈 入り口と平面プラン ちなみに窓部は蔀戸(外)+障子の構成である 半島の構成に似ているがこちらの方が圧倒的に古い。

4片引き戸の戸袋はいつ成立?
不明。ただ襖類の完成と同等に古い(15-16C)だろう事は絵巻物他から推測できる。
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日本における襖類はその呼称の混乱はともかく、概ね15-16Cには現在の形状になっていたと考えていい。

例えば外部との接面では{(片開き板戸(雨戸)+戸袋)+明障子}と言う二重構造(溝はこの場合最低でも三本)で風雨・寒冷を避ける雨戸と明かり取りの明障子を設置。客間や仏間には畳を敷き襖で囲うと言う形式である。
もちろんこれは武家や、寺社仏閣、宮城と言った支配者層の居宅が元であり、庶民はせいぜい板戸(遣戸)に藁敷きの生活である。それでも腰高障子など、次第に引き違い戸の生活が浸透していったと考えてよい。
少なくとも江戸時代、開き戸というものは寺社等を除くと主力でなくなっていったと見ていいだろう。もちろん指物(例えば仏壇)等には観音開きをはじめとした技法が脈々と残ったが。

特に中世に中国から流入したと考えられる大工道具、そしてそれを日本人向けに真逆に使うものに改造し、加えて極めて精度の高いものに押し上げた日本人の「道具」に対する感性などはここでは語らないことにするが、そうした加工技術の向上も襖類を精密かつ安価に生産できる体制に必須であったことは言うまでもない。
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なぜ、こうした襖類は中国や朝鮮、そして欧州に伝播し普遍的にならなかったか。前回南蛮人が引き違い戸の技術に興味を示さなかったらしいことは述べた。同じく中国人もあまり興味を持たなかったらしい。これは建築そのものが中国や欧州と日本では全く思想が違っていたことに起因すると思う。
参考として出島の絵図をあげておく。ここに建っている建築物のうちいくつかは極めて日本的だが、またいくつかは全く日本的でない、と言うことを確認してもらえれば有り難い。

18Cの長崎阿蘭陀屋敷図 窓や入り口の違いでその違いがよくわかる

日本人にしろ欧米人にしろ、居宅というものはその民族の文化であり生活の基本であるため、どこの国に行こうと自国の家を建築できるのであればそう言う居宅を持とうとするのが人情なのだと思う。強いて言えば純和風住宅というのは乾燥に対する備えや寒冷地にむかないなど、大陸で建築するのはかなり無理があるのと「郷に入っては郷に従え」という日本人気質のため、海外ではなかなか目にすることはないが。
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さて、本題。

では朝鮮半島にはなぜ襖類があるのか。そしてそれは朝鮮民族固有の文化なのか、と言うのが命題であるが、結論を先に行ってしまうと

1 かなり古い段階(少なくとも室町時代)に襖類を朝鮮民族は知っていた
2 江戸時代には日本人の建築した屋敷が確実に存在し、建築や補修に現地の工人も加わっており、この時期に襖類が伝播した可能性がある。
3 開国後(1882-:M15-)、日本文化が流入していく過程で和朝(和韓)折衷様と言うべき建築が成立していく
4 総督府時代(1910-:M43-)伝統建築については部材取りなどで出来る限り現状を維持する方向性と、西欧建築や和風建築を当時の流行に従い積極的に取り入れる方向性があり、伝統建築に混乱が生じた可能性がある。ただし、この傾向は当時の日本にも起きており、特に半島だけの問題ではない。柳宗悦の活動など、伝統建築をきちんと遺そうとした動きも生じている。

5 1945以降、この3-4の時期に起きた混乱、特に王宮などでもこれが起きていた結果、どこまでが半島出自であり、どこからが折衷なのかが不明確になって現在に至っている。

折衷様であっても外窓を開きはね上げ戸、内窓を引き違い戸(襖類)にすると言う構造は朝鮮半島の特色ある建築様式であり、少なく見積もっても100年以上の伝統ある建築様式である。この点について単純に「日本から来たものの全否定」をするのではなく、「日本のものを吸収昇華した好例」と位置づけるべきである。
少なくとも、この建築様式は既にパクリというべきではなく、朝鮮半島に住まう人々(朝鮮民族のみと言うことではない)がそれがよい、と言う方向付けで取り入れて文化にしていったものであり、そこは胸を張るべきではないだろうか。
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1 襖類を知る時期
室町時代(14C-)には襖類が半島に知れていたという点は完全に推測の域を出ない。しかし公貿易がない時代でも盛んにやりとりがあり、朝鮮からの貿易商も博多などに来航していることから、少なくとも室町時代には襖類の存在が半島に伝わっていたことは想像に難くない。また、15Cの三浦に日本人居留地があったことなど、この時代にすでに日本建築が朝鮮半島にあり得た。

2 江戸時代の朝鮮半島における日本住宅
本件については夫学柱氏(清泉女子大講師:建築家)の詳細な研究がある。氏は草梁倭館が日本人と朝鮮人の共同作業で建築されていること、屋根(小屋組)は朝鮮大工が、桁下・内部は日本大工が担当した、と言うことを発言している。論拠となる該当論文・古文献に到達できないため孫引きでしかないが、少なくとも草梁倭館建築時に対馬宗氏が大工衆や内装の職工を出していることは他資料で確実であり、倭館の平面プランの古図もいくつか残っている。倭館全体で言うと純和風の平面プラン以外にも朝鮮半島的な建築もあり、さながら出島と同じような様相であったと見てよい。
ただ正直言うと「それで本当に家が建つのか?」という疑問が強く残る。浅学なのでもしもわかる方がいたら、ご教授願いたい。本当に日本建築に朝鮮の屋根はのるのだろうか。
もちろん言葉や習慣、大工道具の違いなど、共同作業は極めて厳しいものだったことも想像に難くない。

この時期の重要なポイントとして興味深い記述が王朝実録に存在する。

英祖 3卷, 1年(1725 乙巳 / (雍正) 3年) 1月 26日(乙丑) 
‥ 又奏: “倭館雇工, 以衣食之厚, 故京人多潜入, 伝播朝奇。 時留者罪之, 此後宜厳禁潜入。” 從之。

漢文には全く自信がないのだがこんな感じか。
奏上して申しますには「倭館で工人(大工など)を雇うときは衣食(給与も含むのだろう)が大変よいので、首都(ソウル)から工人が多数潜入(勝手に雇われに行き)し、朝廷(都)に怪しげなものを伝えてまいります。今までは処罰していたが今後はこうしたことを厳禁にすべきです。」その通りにせよ。

間違っていたらご指摘いただきたく。

草梁倭館と、これら記事周辺の年代は以下の通りである。

1678 草梁倭館に日本人施設が移動 日韓合作の建築がなされる
1719 申維翰 朝鮮通信使の一行として来日 日本の造作に驚嘆
1725 都(ソウル)に倭館(釜山)で雇われた工人がいろいろ持ち込もうとしているので、厳禁

この場合伝播と言うからには物品と言うより情報であったり技術であったりなのであろう。ここは本当に弱い所なので、漢籍に詳しい方に解説していただけると有り難い。

いずれにせよこの時期以降釜山には日本建築が常在し、それらの建築や補修に朝鮮大工が深く関与していたことは間違いない。よって、この時期に襖類の工法が朝鮮半島に伝播していてもなんの不思議もない。神社も倭館内に存在していたし。

3.4  康寧殿と楽善斉の調査報告
関野貞の「韓国建築調査報告」(1904:M37)には興味深い記述がいくつか散見する。当該書籍はぎりぎり統監府時代以前のものであり、李氏朝鮮時代を含め朝鮮古建築の基礎資料である。現在でも朝鮮古建築の復元補修などに重要な書籍である。と言うか、これしか残っていない所がまぁ、あれなのだが。またどちらの建築も宮殿というより奥の間、生活空間であり居宅である、と言う所は注目すべきだろう。

総論としては

「‥重要ナル建物ニアリテハ花狭間唐戸ヲ用ヰ或ハ細桟菱格等ノ唐戸ヲ用フ‥其ノ小ナル者若クハ一般ノ家屋ハ細桟唐戸ヲ用フルヲ普通トス‥居住的宮殿若クハ住宅ニハ室内ノ温ヲ保護センカ為メ往々二重扉ヲ用フルコトハ既ニ説キシ所ナリ此場合ニ於テハ外扉ヲ紙張ノ細桟唐戸トナシ内扉ヲ油紙ノ組桟障子トナシ之ヲ蝶番ニヨリ折リ畳ミ更ニ上部ノ蝶番ニヨリ上ニ釣リ上ゲ天井ヨリ垂下セル鉤ヲ以テ之ヲ支フヘカラシム‥」(234-235p)

とあり、この時期でも引き違い戸が一般的ではないことがわかる。

・康寧殿
当該建築の推移は以下の通り

1868 再建
1876 焼失?
1888 再建
1904 関野報告
1917 11/27解体決定 煕政堂の再建に使用
※煕政堂は1917年の大火災で焼失、1920年に景福宮の康寧殿を移築 とよくあるが、おそらく部材を流用しただけと思われる。少なくとも関野の調査による康寧殿と煕政堂は全く違う平面プランをしている。また現在の煕政堂自体は西洋風有り、和風有りの内装になっており、和韓洋の折衷式とのこと。

1995再建 現在見ることが出来るのは、復元された康寧殿である。写真などからおそらく関野の報告を元に復元されたと考えられる。

この建築について関野は

「‥康寧殿ハ昌徳宮ノ通明殿楽善斉ト同ク居住的宮殿ノ模範タルヘキ者ニテ其研究ハ甚興味アリ‥左右ノ小室ハ明障子ヲ以テ界トナシ窓ハスヘテ二重戸若クハ三重戸ナリ甲ハ外部ヲ種々ノ意匠ヨリ成レル組桟ノ扉トナシ内部ヲ油紙ヲ張リタル疎ナル組桟障子トス‥」(157-159p)

と報告している。康寧殿は詳細な平面図が残っており、一部の居室が明障子に囲まれていることから、この障子は襖類であると考えられる。




「韓国建築調査報告」より康寧殿平面図とその拡大図


・楽善斉

1847 建設
1904 関野報告
1907 昌徳宮の宮殿移動により皇帝常住
1917 11/10昌徳宮大火災 19堂全焼 楽善斉は免れ11/14仮殿となる
1920 李方子婚姻 居住?
1989 李方子逝去 ここまで居住者あり
1996 復元 (和風から原型に戻した、とある)

「‥外戸ハ細桟紙張障子ニシテ外ニ向テ観音開トナリ中戸ハ油紙張ノ明障子ニシテ引開戸ナリ‥」(142-143p)


さて、このふたつの居宅は1882開国の後、1904に関野によって調査されている。また関野自身朝鮮建築にとって非常に興味深いとしており、朝鮮伝統建築の様式を色濃く出していたと思われる。
仮に極端な日本びいきがあったとしても8年程度で内部を和風に改築することは考えづらい。康寧殿については1888の失火再建時に和風建築を取り入れた可能性は否めないが、楽善斉についてはその可能性も低い。また、もし改築などがあった場合、流石にそのときの記録なり、関係者の証言なりを関野は得られるはずである。

よって両建築は19C中-末の朝鮮建築であるが、建築当初から襖類を持っていた可能性がある。

5 1945以降の混乱

おそらく総督府時代に大工道具や技術の多くが喪失し、伝統建築をどのように造作していたかが不明確になり、図面などもほとんど残っていなかったため、建築における朝鮮独自の部分・中国的な部分、日本的な部分の線引きがわからなくなってしまったのだと思う。屋根・瓦の様に外部で目立つ部分については比較的良好だったかも知れないが、内装や梁と言った目立たない部分は混乱したまま現代まで来ていたのだろう。そこへ近年の研究や「独自文化への回帰」ブームが今回の議論の発端である記事などにつながっていくのだろう。

とはいえ、なにも遺っていない時代について明らかに歴史をクリエイトする(五重塔や都城の復元図)という姿勢はほめられたものではないし、この襖類についてもそういう姿勢が見え隠れしていることは嘆かわしいことである。
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なぜ、中国(大陸)的で高床とはいえない(オンドルを持つのでやや床を高くする建築であるが)朝鮮の建築に襖類が取り入れられた形跡があり、本家中国ではそれがなかったのか、と言う問題が残っている。これについては極端な推理(推論にすらならない)があるのだが、妄想に近いのでここでは披露しないことをお許し願いたい。
なお残った問題について興味深いものが一点あるので、最後にあげておく。清末の後宮の王妃達の写真(大英博物館蔵)と言うことだが、背後の扉が、もしかしたら引き違い戸なのかも知れない。


光緒後宮妃子相冊 
1903-06にかけて撮影された写真の一つらしい





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