역사조작은 고대 일본이 한반도 속국이었다는 열등의식에서 탈피하고, 국민들이 과거를 모르는 역사치매에 걸리게 하여 3류 사무라이들의 충견으로 만들어 광란의 살인시대로 이끌기 위해 시작되었다. 또 역사조작은 오늘날 일본인들이 속(혼네-本音)과 겉(다테마에- 建前)이 다른 일본특유의 이중성을 고착화하는 단초를 제공했다. 이러한 역사조작에 의거 역사치매에 걸린 일본인들이 세계에서 가장 잔혹한 악행을 저지르기 시작했다. 이들의 광풍은 붉은 노을보다 더 붉게 물들게 만들었다.
조선왕조실록을 보면 , 일본이 조선에 조공한 내역과 함께 보낸 서한의 내용이 상세히 기록되어 있다.
일본 쇼군과 지방 정권 태수들은 조공서한에서 조선을 상국(上國)또는 대방(大邦)이라 하였고
자신은 누방으로 낮추어 칭했다.
일본이 조선 군주를 황제폐하로 부른 사례도 여려차례 발견되는데,
조선이 자체적으로 황제라는 직함을 두고 있지 않았음에도 불구하고,
일본이 조선 군주를 황제로, 조선을 상국(上國)으로 부를 만큼 ,
조선은 동아시아에서 명나라에 뒤이은 역량있고 높은 위치에 있는 국가였음이 사실이다.
조선이나 명나라에서는 쇼군을 ‘일본국왕’이라고 불렀는데,
메이지 유신(1868년) 이전에는 소위 ‘천황’이 아닌 쇼군(막부의 수장)이 일본의 실력자이고,
대외적인 국가대표기관이었다.
〓世祖 9年聖未(1463, チォンスン 7)
日本国王がサインを送って物産を捧げながらあげた西界
日本国王(日本国王)が死因(使人)を送ってトムル(土物)を捧げたら, その文[書]に至るのを,
“保隣(宝隣)が近年に陰謀(音耗)6179) 街疏沿(疏闊)して, 空は遠くて海は支えたから, どうして喉が乾くように望むことを勝ちますか? もうチォンリョング(天竜)6180) の準初寺小屋(俊超西堂)とボムゴ首座(梵高首座) 位を情事(正使)・副詞(副使)にして, 借見(差遣)して前のような好意(好意)をダックウオブニだ. ここに数年の前に斜線(使船)を帰国(貴国)に送ったら, 早いのを, ‘近い将来に適切にポグェ(包?)6181) を人(明)国朝廷に捧げて前年[前歳]を事例しなさい.’と言ったが, 行事(行使)街不軌(不軌)の罪(罪)を犯しました. たとえしかしヌバング(陋邦)は近年にドングボル男丁(東伐南征)しようとして軍事(軍事)に暇がなかったです.”
このようなわけで充分にそのお話を実践することができずに, インスン(因循)して今までのぼったから, いかにもドンオ(豚魚)6182) の神さま(信)を失ったことのようです.陛下(陛下)がかつて逸書(一書)に来る方に私は(伝)して, 僉知中枢怨辞(僉知中樞院事) ソングチォゴム(宋処倹)・大豪だね(大護軍) 異種室(李宗実)を堡氷獅子(報聘使者)にして送ったが, 海上(海上)で忽然と台風[?風]に会って, 二倍がピョモル(漂沒)して, 文中[書中]に記載したかけたのは(件件)の小間物(方物)はたとえこの地方に到逹することはできなかったが, もう礼儀(礼意)の厚さを受けたし, よって海辺帝国(諸国)にひいてはその事をすべて捜したが, 皆軟膏が分からないからその漂流したお腹を返すことができなかったし, またその残り死骸を葬りました.
私たちチォンリョングソンサ(天竜禅寺)に命じて, 水陸大災回(水陸大斎会)を施して二人の人[二子]のために冥福(冥福)を自薦(資薦)しただけです. チォンリョングソンサ(天竜禅寺)はすなわち操縦(祖宗)が創業(創業)してヌバング(陋邦)で福(福)を植える神霊な度量[霊場]です. グンザに会録(回禄)の便(変)に会って旧観(旧観)を回復することができなかったです.こんなわけで連曲(年穀)が熟しないで災い(災殃)がよくのぼってもう将来僧堂(僧堂)を経営しようと思うのに, 大房(大邦)の助けを祈らなければ楽しんで成しにくいです.
グウックが命じてウィヨック(義廉)・センググァン(生観)・教職(教直) 位に執逹吏(執事)を歯医(致意)するようにしたんですが, 凡そ我が国が部処[仏]を仕えて善良になったことは正しく帰国(貴国)の雨で法宝(〓廬法宝)を得た小異(所以)だから, 大抵一つの蔵書[一蔵]を得たことはその大きいことを下げてズームです. その上に句(求)ハムに付くことで常道[常]をしたら, ヌバング(陋邦)が伏せて請い(請)するのです. この前にイン(仁)の考察(古刹)を建てながら 1万民(緡)を与えることを得て, 輪かん(輪奐)を美しく直したし, もうまたチォンリョング晩唐(天竜満堂)の海中(海衆)が陛下の鼻音(庇蔭)を着ればどうして西北(西北)を眺めて万歳(万歳)の祝福が早くないですか? 討議(土宜)街碌なのモッハオやビョルポック(別幅)と一緒に取り揃えました.ボムツウィがまだ残ったから, 時に付いて惜しんで保全してください.”
して, ビョルポック(別幅)は採火船(綵?扇) 1バック波(把), 雄途(長刀) 2袋[柄], 大刀(大刀) 10なが葱(把), 大紅漆モックゴとは(大紅漆木車椀) 大小合わせて 70士(事), 大紅漆チォンバングブン(大紅漆浅方盆) 大小合わせて 20士(事), 紅漆黒漆雑色木桶(紅漆黒漆雑色木桶) 2個(箇)だった.
*上国(上国) : 朝鮮(朝鮮)を言い
* 陛下 : 世祖を言い
*大房(大邦) : 大きい国を意味する. ここでは朝鮮を示し
*ヌバング(陋邦) : 日本を言い
◆室町幕府の 8大将軍足利ヨシマサが朝貢物品とともに朝鮮に送った書簡に
朝鮮の世祖を廃しなさいと呼びながら, 日本自分はヌバングで朝鮮は大房(大邦)と称していることを分かる.
〓世祖 9年聖未(1463, チォンスン 7)
日本国王(日本国王)が死因(使人)を送ってトムル(土物)を捧げたら,
その文[書]に至るのを,
“保隣(宝隣)が近年に陰謀(音耗)街疏沿(疏闊)して, 空は遠くて海は支えたから, どうして喉が乾くように望むことを勝ちますか? もうチォンリョング(天竜)の準初寺小屋(俊超西堂)とボムゴ首座(梵高首座) 位を情事(正使)・副詞(副使)にして, 借見(差遣)して前のような好意(好意)をダックウオブニだ.
陛下(陛下)がかつて逸書(一書)に来る方に私は(伝)して, 僉知中枢怨辞(僉知中樞院事) ソングチォゴム(宋処倹)・大豪だね(大護軍) 異種室(李宗実)を堡氷獅子(報聘使者)にして送ったが, 海上(海上)で忽然と台風[?風]に会って, 二倍がピョモル(漂沒)して, 文中[書中]に記載したかけたのは(件件)の小間物(方物)はたとえこの地方に到逹することはできなかったが, もう礼儀(礼意)の厚さを受けたし, よって海辺帝国(諸国)にひいてはその事をすべて捜したが, 皆軟膏が分からないからその漂流したお腹を返すことができなかったし, またその残り死骸を葬りました.
〓成宗 1年京人(1470, 聖火 6)
仕事をした国王が送った入道などが来て西界と物産を捧げる
日本国王(日本国王) 刺身収納定所(懐守納政所) 二世数(伊勢守) 情親(政親)が送った入道(入道) 位が来て物産を捧げた. その西界(書契)にのぼるのを,
“情親はご遠慮文を造船国議政府(議政府) ハブハ(閤下)に捧げます. 丁寧に願わくば国が大きく平安で金賞皇帝(今上皇帝)のオウィ(御位)街長い間行ってください! 陛下(陛下)は丁寧に徳(徳)が乾坤(乾坤)と一致して当優(唐虞)の善良で長生きする地域(地域)を保全して, 玄聖(賢聖)を臣下に集めて移住(伊周)の純粋で素朴な気風を回復するように願って, 誠意をつくして祝福します.ところで負傷(扶桑) 電荷の高い命令に応じて同じ日に西界を封じて朝鮮(朝鮮)と悠久(琉球)の両国に斜線(使船)を送ります. これは私の個人的な意思ではないから, このような切実な意味を陛下に酒疸(奏逹)して承諾してくださればただ幸いと思います.
帰国の出ることは力を借りようとするのに, 望む品物はミョンズ(綿紬) 3千ピール, 綿布(綿布) 5千ピール, 百苧布(白苧布) 1千ピール, 米 5千岩茸だから, 慈悲で察してください. ただ我が国の太平をおさめて一歩進んでボンシン(藩臣)としての忠誠された手柄を立てるように祈ります. しがない物産をビョルポック(別幅)に取り揃えました. 今こそ新しい雪が降った山を覆い被せたから豊年になる吉兆(吉兆)です. これで止みます. ビョルポックは, 金(金) 2ウォン(員) 21ニャングツング[両], 株(朱) 4砲(包) 40ニャングツング, 大刀(大刀) 15なが葱(把), 端子(段子) 1匹, 数字(?子) 1匹, 団扇[扇子] 50本(本)です. 受けてくれればさいわいです.”
〓成宗 32冊, 4年( 1473 啓辞 / 人聖火(成化) 9年)
日本国インバックダン三走太守遠郊風がヤングヤングソダングを送って贈り物と文を書く
日本国(日本国) インバックダン三走太守(因伯丹三州太守) サンミョングゾン(山名殿) ソフィーを(少弼) 遠郊風(源教?)がヤングヤング寺小屋(亮瑛西堂)を送って来て討議(土宜)を捧げて, 同時に四書(四書) それぞれ 1件(件)ずつを捧げた. その西界(書契)には早いのを,
“ゴングギョングヒ思うが, 皇帝陛下(皇帝陛下)が宝位(宝位)に上がって天運(天運)を受け継いだら, 旧部屋(旧邦)が維新(維新)して, 徳(徳)以下(夏)国・銀(殷)国の哨艇(初政)よりすぐれてからも(道)歌謡(尭)賃金・順序(舜)賃金より上に相棒したら, 極めて祝って極めてことぶきします. 神さまは先祖(先祖) 以来で加勢(家世)で上お吸物(上国)3198) に憑文(聘聞)を通じなかったことがないから, 京人年3199) 秋にいちアムザスング(菴子僧)とソックドムン(〓都聞) 位を借見(差遣)して, 昔の誓いを磨いて, また討議(土宜)の些細な真心を捧げました. 幸いに金賞皇帝(今上皇帝)3200) 頃で王位(王位)を受け継ぐ哨艇(初政)に会って, 目ではたいてい(漢)国管理の上の(威儀)を見て, 耳では株(周)奈良市(詩)のがソング(歌頌)を聞いたら, ああ, 声帯(盛大)します.実に文武(文武)の国だから零雨(栄遇)するのがあまりにもクオブニだ. 戦死(専使)3201) 街仕事を終えて東に帰って来るようにドエメ, 火鉢連れ(火炉銅盤) 1個と東京(銅磬) 1個を加えて下ってくださったら, もう後漢恩恵を受けたので, 感激して嬉しい心が至極さを勝つことができません. 今万福寺(万福寺)の主旨(住持) ヤングヤング寺小屋(亮瑛西堂) 位を送って海を渡って朴(薄)一廃物(幤物)を捧げてひたすら皇帝が王位を引き継いだことを拜賀(拜賀)するようにします. はいたたとえ遠い空, 遠い海辺の地においてウィグォル(魏闕)3202) の下に駆け付けて心を捧げることはできないが, 九九(区区)一単性(丹誠)3203) を伏せて預差を(睿察)してくださるように祈って, そんなにしてくだされば千万幸いです.
信義袋(封地) 中の白昼(伯州)に万福プレゼント(万福禅寺)と言う昔の査察(寺刹)があるのに, 崩れて崩れてから歳月が古かったので長冷たくて再び霊鳥(営造)しようと思って, この前の時に上国(上国)に助演(助縁)3204) を句(求)したが, 寛大に受け入れて主審を受けることができなかったです.望むことは大王が官印(寛仁)として砲金(布金)3205) の逢時を速く行ってくだされば, 仏閣(仏閣)と僧房(僧房)を一遍にまた昔のように見られるでしょう. そのようになったら永遠に盛需(聖寿)街湾岸(万安)なさるように奉祝(奉祝)する一応になるでしょう. 賀正(下情)3206) は極めて黄空函を勝つことができなくて拙い小間物(方物)をビョルポック(別幅)に取り揃えました.”
*上国(上国) : 朝鮮(朝鮮)を言い
* 金賞皇帝(今上皇帝) : 成宗(成宗)を言い
*ウィグォル(魏闕) : 賃金の宮廷
*単性(丹誠) : 本当で染み出る真心
* 賀正(下情) : 上司に対して自分の心や意味を低めてのぼる言葉
*袋 [封紙]: 諸侯の領土.
〓成宗 4年啓辞(1473, 聖火 9)
日本国のダダリャングゾングホングが送ったウォン主徳が去ったら人絹して財物を下賜する
申叔舟(申叔舟)をさせてウォン主徳(源周徳)に言うのを,
“君たちの対内前(大内殿)は族系(族係)街我が国から出たのでお互いに交互(交好)してからがもう古かった.もう聞くが楽だと言ったら嬉しくて慰労できるが, ただ君たちの国戦争がどうなのか?”
したらウォン主徳が答えるのを,
“私たちナヨン(那衍)は特別に星霜の恩徳を着て無恙(無恙)します. 本国は戦乱が止まないから上国(上国)に長く通信(通信)できなかったです. しかし戦乱が平定される期限がなくて特別に神さま(臣)を送って誠心で従うのです.”
した.
〓成宗 33冊, 4年(1473 啓辞 / 人聖火(成化) 9年)
日本国バングザングソブチォン 4株太守ダダリャングゾングホングがウォン主徳を送って来て物産を捧げる
日本国(日本国) バングザングソブチォン 4株太守対内別家(大内別駕) ダダリャングゾングホング(多多良政弘)がウォン主徳(源周徳)を送って来て物産を捧げた. その西界(書契)にのぼるのを,
近来に我が国の人として上国(上国)に朝貢(朝貢)と帰って来た者は異口同声(異口同声)で皆祝いながら言うのを, ‘陛下の竜鳳(竜鳳)のような姿態は天日(天日)の表象だから神聖な徳ずっと一顧, 善良で慈しみ深い教化(教化)街今こそふんだんでやっぱり中興(中興)を旋光(宣光)するようです.したから, 誰が西の方を向けて喜ばしがらない寝ていますか?
〓成宗 45冊, 5年( 1474 甲午 / 人聖火(成化) 10年) 日本国バングザングソブチォン 4株太守が人を送って討議を捧げる
日本国(日本国) バングザングソブチォン 4株太守(防長攝泉四州太守) 対内別家(大内別駕) ダダ量ゾングホング(多多良政弘)が人を送って討議(土宜)を捧げた. その西界(書契)にのぼるのを,
“ご遠慮皇帝陛下(皇帝陛下) 頃で明徳(明徳)が一月(日月)より輝いて盛需(聖寿)街将来に長久(長久)なさるように祈って祈ります. 上国(上国)4246) とうちの先祖(先祖)街通互(通好)してからゾングホング(政弘)まで 26大目です. 上国と貸し手(対州)とまだ同盟(同盟)する前によく戦争したが, その時に神さま(臣)の先人(先人)が上国のために救援病を送って士卒がすっかり戦死してした人も帰国することができなかったことがもう 80余年前の事です. それに存命(尊命)4247) を奉じて水牛(水牛) 雄と雌を捧げたりしたから, それなら先人の上国に対する忠誠が少なくなかったします.ゾングホングはその厚謝(後嗣)として壬辰年4248) に初めて獅子(使者)を送って先人が結んで来た掛け声(旧好)を磨いたが, あの時求礼(旧例)に外れる事にあって惜しんでくださる意味が非常になかったです. 執逹吏(執事)街昔の盟約(盟約)を忘れたからですか? それともまた獅子が碌でなかったからですか? 本当に分からない事です. そうではあるが存命によってすぐ繰り返し斜線(使船)を送って命を受けようとします. したがって琉球国(琉球国)から送った四向(麝香) 1匹(匹)を存命を奉じて捧げます. ゾングホングが何年前からサンミョング左金烏(山名左金吾)の軍事を助けようとして傾斜(京師)にとどまってから何日になったが, 去年 3月 18日に金烏が逝去(逝去)とグダル 28日にセチョン慶弔(細川京兆)度逝去するによって二つの家の自制たちがますます睦まじくなりました. それで私たち電荷(殿下)街大命国(大明国)に斜線(使船)を送ろうとハメ, 神さまが人を奉じてお腹を構えるのに, 工事間(公私間)にその費用が非常に多いです. 上国の豊かな財物の残りで恩師(恩賜)を曲がっていて下るように願ってこれから行くほど昔の盟約によって忠節(忠節)を守ろうとします.大命国と琉球国では神さまに対して恩問(恩問)がもっと手厚いのに, 上国だけが昔の盟約を忘れたようです. ギョメング(交盟)が加えることがないと思ったら, 保命(報命)によってその意味が分かって伏せて真情を申し上げます. 拙い討議(土宜)でも小さな意味を表します.”
*皇帝陛下(皇帝陛下) : 朝鮮国王を示し.
*上国(上国) : 朝鮮を示し
*存命(尊命) : 日本国王の人を示し.
*壬辰年 : 1472 成宗 3年
〓太宗 8冊, 4年(1404 甲申 / 人ヤングラック(永楽) 2年) 7月 30日(記事) 1番目記事
日本国王ウォン道義が使臣を送ってネビングして物産を捧げる
日本で使臣を送ってネビング(来聘)と, またトムル(土物)を捧げた. 日本国王は原図の(源道義)だった. 日本国ルームリーダー自社(防長刺史) デネダダリャングソングギョン(大内多多良盛見)度また礼物を捧げた.
◆ ウォン道義は室町幕府の 3台将軍足利ヨシミツでが対外的に使臣を送る時使った名前
〓 太宗 6年兵術(1406, ヤングラック 4) 日本国王が 《大蔵経》を清と, 欧洲節度私邸虜とトムルを捧げる
日本国王原図の(源道義)街使臣を送ってネビング(来聘)と, 《大蔵経(大蔵経)》を請じたし, 欧洲節度使(九州節度使) 原図陣(源道鎭)が人を送ってトムル(土物)を捧げて部に(?虜)を返した.
〓 世宗 5年聖卯(1423, ヤングラック 21) 日本国王の使臣ギュズ・汎霊など 135人が物産を捧げる
日本国王の使臣ギュズ(圭籌)・汎霊(梵令)と導線株(都船主) グズン(久俊) 位 1百 35人が大闕にさらには物産を捧げたら, 賃金が仁政殿にさらには例を受けた後に, ギュズと汎霊は大闕の中に入って来るように命じて, グズンは大闕外にあるようにした. 賃金が言うのを,
“漢字版は操縦組からお互いに伝えるのがただ 1本だけだ. もし重なって何着あったら国王に対して敢えて惜しんでくれないという心があるのか.”
したら, ギュズなどが答えて申し上げるのを,
“星霜の下校が優しいから厚く感謝して厚くガムサハ来ます. 神々もまたよく推し量って申し上げるのです.”
した.
この下日本の朝貢記録
太祖 2年聖酉(1393) 6月 16日(京人) 日本天気図の中ゴンチォルが虜 200余インを返して小間物を捧げる
太祖 4年乙亥(1395) 7月 1日(壬辰) 日本欧洲節度使ワンヨズンが中を送って物産を捧げる
太祖 4年乙亥(1395) 7月 11日(壬寅) 日本一轄株人が物産を捧げる
太祖 4年乙亥(1395) 7月 16日(精米) 日本サルマズ人が物産を捧げる
太祖 4年乙亥(1395) 12月 16日(乙巳) 日本対内前のダダ量が物産を捧げる
太祖 6年丁丑(1397) 6月 21日(伸縮) 日本欧洲節度使ワンヨズンが人を送って物産を捧げる
太祖 6年丁丑(1397) 10月 1日(奇妙) 日本欧洲節度使が物産を捧げる
太祖 6年丁丑(1397) 11月 14日(壬戌) 日本ユックズモックウィホングが中ヤングボム・ヤングファック便に物産を捧げる
太祖 7年武人(1398) 7月 27日(庚子) 日本ビジョン株準株太守遠景が礼物を捧げる
正宗 1年奇妙(1399) 9月 10日(丁丑) 今月に日本国の私を与え人をさせて礼物を捧げる
正宗 1年奇妙(1399) 11月 1日(丁卯) 日本西しても準株太守正宗(貞宗)が人を送って物産を捧げる
正宗 2年軽震(1400) 8月 1日(啓辞) 日本が使臣を送って小間物とじゃがいも, 梅をそれぞれ一人ずつ捧げる
太宗 1年ジェントルマン(1401) 6月 18日(乙亥) 日本国ビジュー太守が言葉と薬剤を捧げる
太宗 1年ジェントルマン(1401) 9月 29日(乙卯) 日本の対馬島臨時太守ゾングゾングムなどが言葉・石膏・白飯を捧げる
太宗 2年壬午(1402) 9月 29日(己酉) 日本サルズ酸性の太守ウォン脳髓と日記株地主ワンヤングフィが礼物を捧げる
太宗 3年聖未(1403) 2月 27日(甲戌) 日本獅子が来て物産を捧げる
太宗 3年聖未(1403) 1月 23日(伸縮) 日本で住んだ 12人が来て物産を捧げる
太宗 3年聖未(1403) 10月 8日(壬子) 日本獅子がつかまって行った我が国の人を連れて来て物産を捧げる
太宗 4年甲申(1404) 7月 30日(記事) 日本国王ウォン道義が使臣を送ってネビングして物産を捧げる
太宗 4年甲申(1404) 7月 17日(併進) 日本全平前ワンワンギュがトムルを捧げる
太宗 5年乙酉(1405) 6月 29日(啓辞) 日本国王ウォン道義が使臣を送って盗賊を取ったことを報告して礼物を捧げる
太宗 5年乙酉(1405) 6月 3日(丁卯) 日本ジズァゾンが中度だねなどを送って薬剤などの物産を捧げる
太宗 5年乙酉(1405) 5月 24日(戊午) 日本で礼物を捧げる
太宗 6年兵術(1406) 12月 21日(丙午) 日本端株数とビジュー数価使臣を送って小木などの物品を捧げる
太宗 6年兵術(1406) 8月 6日(壬辰) 日本日記株地主ワンヤングフィが虜 76人を召還して宗正武道物産を捧げる
太宗 6年兵術(1406) 4月 22日(壬午) 日本ホザゾン客人が来てトムルを捧げる
太宗 6年兵術(1406) 4月 16日(病者) 日本西しても端株太守遠泳が使臣を送って物産を捧げる
太宗 6年兵術(1406) 2月 27日(戊子) 日本国王が 《大蔵経》を清と, 欧洲節度私邸虜とトムルを捧げる
太宗 7年正解(1407) 10月 26日(丙午) 日本サルマズドングワンヌェグが礼物を捧げる
太宗 7年正解(1407) 11月 26日(病者) 日本対馬島守護宗正無価礼物を捧げる
太宗 7年正解(1407) 5月 6日(気味) 日本ジズァゾン, ホザゾンが礼物を捧げる
太宗 7年正解(1407) 7月 21日(姙娠) 日本国対内ダダ量ドックウングが礼物を捧げる
太宗 7年正解(1407) 8月 5日(兵術) 日本全平前が獅子を送って礼物を捧げる
太宗 7年正解(1407) 2月 1日(兵術) 日本サルマズ太守が獅子を送って物産を捧げる
太宗 8年戊子(1408) 2月 27日(丙午) 日本ジンソタムゼザンググン原図陣が礼物を捧げる
太宗 8年戊子(1408) 6月 3日(軽震) 日本のジズァゾン・御酒前が礼物を捧げる
太宗 8年戊子(1408) 10月 28日(壬寅) 日本国王ウォン道義がゾムドゾックを禁止させたと知らせて礼物を捧げる
太宗 8年戊子(1408) 4月 19日(精油) 日本駆使前が獅子を送って礼物を捧げる
太宗 8年戊子(1408) 7月 6日(壬子) 日本の対内前が玉鮎者・屏風・薬剤・記名・ヌングギョンなどの礼物を捧げる
太宗 8年戊子(1408) 7月 20日(病因) 日本サルマズ太守が礼物を捧げる
太宗 8年戊子(1408) 8月 21日(病身) 日本国欧洲節度使が物産を捧げる
太宗 8年戊子(1408) 9月 29日(甲戌) 日本の祝酒太守が礼物を捧げる
太宗 8年戊子(1408) 12月 6日(奇妙) 日本欧洲首原図陣が礼物を捧げる
太宗 8年戊子(1408) 1月 26日(乙亥) 日本の円満職が礼物と, 不老院という約 1百個を捧げる
太宗 9年基軸(1409) 3月 6日(己酉) 日本のジズァゾンが人を送って礼物を捧げる
太宗 9年基軸(1409) 3月 26日(記事) 日本日記株とビジュー前で真偽して礼物を捧げる
太宗 9年基軸(1409) 11月 8日(病者) 日本祝典株客人が来て物産を捧げる
太宗 9年基軸(1409) 9月 6日(乙亥) 日本一轄株人が物産を捧げる
太宗 9年基軸(1409) 磨き 4月 11日(聖丑) 日本の対内前ダダリャングドックウングが中酒精を送って物産と観音やけどを捧げる
太宗 9年基軸(1409) 3月 26日(記事) 日本下送胞衣三下数ユンググンが礼物を捧げる
< 中略>
世宗即位年武術(1418) 10月 14日(京人) 日本一轄株太守が切符をあげて神さま(臣)と称して小間物を捧げる
世宗即位年武術(1418) 10月 29日(乙巳) 日本ビジョン株の中で・一轄株太守・管にも祝典株石聖官府が刀・香などを捧げる
世宗即位年武術(1418) 10月 30日(丙午) 日本関西で欧洲桃源数原図陣が小間物を捧げる
世宗即位年武術(1418) 11月 29日(乙亥) 日本西海で米作太守などが物産を捧げる
三鐘即位年武術(1418) 12月 6日(ジェントルマン) 日本対馬島宗正性が小間物を捧げる
世宗即位年武術(1418) 10月 13日(基軸) 日本欧洲総帥と西海で米作太守が小間物を捧げる
世宗即位年武術(1418) 8月 21日(武術) 日本西しても一轄株太守と大麻株調律酸性数が物産を捧げる
世宗即位年武術(1418) 12月 29日(甲辰) 日本祝典株太守が小木白飯などを捧げる
世宗 1年己亥(1419) 1月 3日(武臣) 日本対馬島万戸が物産を捧げる
世宗 1年己亥(1419) 3月 7日(辛亥) 日本欧洲桃源数が 《大般若経》を請求して物産を捧げる
世宗 1年己亥(1419) 4月 4日(武人) 日本国ビジュー太守・張株太守・対馬島ファゾンポドマンホが物産を捧げる
世宗 2年庚子(1420) 磨き 1月 28日(精油) 日本欧洲総管ピョングゾングスが物産を捧げる
世宗 2年庚子(1420) 12月 2日(病身) 日本ルームリーダー風三走道号ダダ量万歳が供え物をあげる
世宗 2年庚子(1420) 11月 28日(壬辰) 日本ビジュー太守ワンチァングチォングが物産を捧げる
世宗 2年庚子(1420) 11月 25日(基軸) 日本国欧洲総管ウォン依準が供え物と物産を捧げる
世宗 2年庚子(1420) 10月 26日(辛酉) 日本国欧洲節度使原図陣が物産を捧げる
世宗 2年庚子(1420) 8月 9日(乙巳) 日本前西しても欧洲桃源数が使臣を送って物産を捧げる
世宗 2年庚子(1420) 1月 5日(甲辰) 日本国硬度・欧洲などで人を送って物産を捧げる
世宗 2年庚子(1420) 8月 2日(武術) 日本西してもビジョン株ピョングウジン準注目怨声が物産を捧げる
世宗 2年庚子(1420) 12月 8日(壬寅) 日本国欧洲桃源数ウムウィ原図陣が物産を捧げる
世宗 2年庚子(1420) 12月 9日(聖卯) 日本国欧洲総管原義与えたなどが物産を捧げる
世宗 3年伸縮(1421) 9月 9日(記事) 日本ピョングマンギョングが朝貢を捧げる
世宗 4年壬寅(1422) 7月 5日(更新) 日本人三走太守と対馬島ズァウィムンデラングが物産を捧げる
世宗 4年壬寅(1422) 3月 27日(甲申) 日本国大麻株のズァウィムンデラングが物産を捧げる
世宗 4年壬寅(1422) 2月 26日(聖丑) 日本の原義与えた・ドングワンルェ・怨声などが物産を捧げる
世宗 4年壬寅(1422) 磨き 12月 23日(病者) 日本欧洲総管が人を送って物産を捧げる
世宗 4年壬寅(1422) 7月 23日(武人) 日本道営・ピョングマンギョング・ウングス・平民所早天・入道街並などが小間物を捧げる
世宗 4年壬寅(1422) 7月 22日(丁丑) 日本国デネダダリャングドウング・原図陣・原義与えたなどが小間物を捧げる
世宗 4年壬寅(1422) 3月 26日(聖未) 日本国欧洲総管ウォン依準が物産を捧げる
世宗 4年壬寅(1422) 3月 5日(壬戌) 日本の私は欧洲総管原図陣が物産を捧げる
世宗 4年壬寅(1422) 3月 5日(壬戌) 日本のウォン依準が物産を捧げる
世宗 5年聖卯(1423) 10月 18日(乙丑) 日本国欧洲原義与えたなどが物産を捧げる
世宗 5年聖卯(1423) 10月 25日(姙娠) 日本国原義与えた・ピョングマンギョングなどが物産を捧げる
世宗 5年聖卯(1423) 11月 24日(伸縮) 日本国原図陣が物産を捧げる
世宗 5年聖卯(1423) 5月 19日(武術) 日本国管にもワンズンシンが物産を捧げる
世宗 5年聖卯(1423) 1月 12日(甲午) 日本国祝酒冠詞ピョングマンギョングが物産を捧げる
世宗 5年聖卯(1423) 12月 25日(姙娠) 日本国王の使臣ギュズ・汎霊など 135人が物産を捧げる
世宗 5年聖卯(1423) 10月 15日(壬戌) 日本欧洲ダダリャングドックウング・ピョングマンギョングなどが物産を捧げる
<中略>
<中略>
性鐘即位年基軸(1469) 12月 8日(情事) 日本国欧洲桃源数遠郊職が人を送って物産を捧げる
成宗 1年京人(1470) 1月 25日(甲辰) 日本国大麻株の宗正国・宗正数と人為君のゾングソングがと宗姓職が物産を捧げる
成宗 1年京人(1470) 4月 5日(聖丑) 日本国祝典株終喪君指数シヒャングが人を送って物産を捧げる
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成宗 1年京人(1470) 8月 28日(聖酉) 日本国セチョン左烏頭至賢が人を送って来て物産を捧げる
成宗 1年京人(1470) 8月 25日(庚午) 日本国で人を送って物産を捧げる
成宗 1年京人(1470) 8月 23日(無所) 日本国で人を送って来て物産を捧げる
成宗 1年京人(1470) 8月 7日(壬子) 日本国多くの太守たちが人を送って来て物産を捧げる
成宗 1年京人(1470) 7月 19日(乙巳) 日本国京城官令電算前左傾貸し付けワンウィスングが中向陽を送って物産を捧げる
成宗 1年京人(1470) 7月 12日(戊子) 日本国宗正国・宗正数・ゾングソングホング・ゾングソングが・元徳などが人を送って物産を捧げて成宗 2年神妙(1471) 2月 28日(辛未) 日本国大麻株太守宗正国などが人を送って来て物産を捧げる
成宗 2年神妙(1471) 5月 22日(甲午) 日本国ビジョン株元徳が人を送って物産を捧げる
成宗 2年神妙(1471) 6月 11日(壬子) 日本国長文株摘奸官真髄虫垂が人を送って討議を捧げる
成宗 2年神妙(1471) 6月 27日(無所) 日本国で人を送って来て物産を捧げる
歴史操作は古代日本が韓半島属国だったという劣等意識で脱皮して, 国民が過去が分からない歴史痴ほうにかかるようにして 3類さむらいたちの忠犬で作って狂乱の殺人の時どおり導くために始まった. また歴史操作は今日日本人たちが中(本音-本音)と表(建前- 建前)が他の日本特有の二重性を固着化する段初を提供した. このような歴史操作に基づいて歴史痴ほうにかかった日本人たちが世界で一番残酷な悪事をやらかし始めた. これらの狂風は赤い夕焼けよりもっと赤く染まるようにした.
朝鮮王朝実録を見れば , 日本が朝鮮に朝貢した内訳と ともに送った 書簡の内容が 詳しく記録されている.
日本将軍と 地方政権太守たちは朝貢書簡で朝鮮を上国(上国)または大房(大邦)といったし
自分はヌバングで 低めて称した.
日本が朝鮮君主を皇帝陛下と呼んだ事例もヨリョチァリェ発見されるのに,
朝鮮が自主的に皇帝という職することを置いていなかったにもかかわらず,
日本が朝鮮君主を皇帝で, 朝鮮を 上国(上国)と呼ぶほど ,
朝鮮は東アジアで 明に引き継いだ力量あって高い位置にある国家だったことが事実だ.
朝鮮や明では将軍を ‘日本国王’と呼んだが,
明治維新(1868年) 以前にはいわゆる ‘天皇’ではない将軍(幕府の首長)が日本の実力者で,
対外的な国家代表機関だった.
=世祖 9年聖未(1463, チォンスン 7)
日本