新羅本紀第六.<文武王>上.二年春正月
爲中侍. 王命<庾信>與<仁問>·<良圖>等九將軍, 以車二千餘兩, 載米四千石·租二萬二千餘石, 赴<平壤>
왕이 유신·인문·양도 등 아홉 장군에게 수레 2천여 채에 쌀 4천 석과 벼 2만 2천여 석을 싣고 평양으로 가도록 명령하였다.
王が 庾信,仁問,良圖など9大将にくるま 2千輛に米4千石と稻2万2千石を積んで平壌に行くように命令した。
成宗 101卷, 10年(1479 己亥 / 명 성화(成化) 15年) 2月 9日(丙申)
其國無郵驛。 其俗耕田以馬, 凡輸物人擔之, 而放牛山谷間, 牛皆肥腯
일본에는 우역(郵驛)이 없었습니다. 그 풍속은 말로 밭을 갈고 모든 나르는 물건은 사람이 메며, 산골짜기 사이에 소를 놓아 먹이는데, 소는 다 살쪘습니다.
日本には郵驛がありませんでした。その風俗は馬が畑を耕し、すべての運ぶものは、人が負担し、谷の間に牛を置いている餌が、牛も肥満しています。
鳥頭 일본인들을 위한 자료
世宗 60卷, 15年(1433 癸丑 / 명 선덕(宣德) 8年) 4月 8日(辛卯) 2번째기사
初, 朴瑞生奉使日本回還, 極言水車之利, 上信之, 都承旨安崇善亦獻議以爲可行, 上顧左承旨金宗瑞曰: “爾意何如?”
對曰: “前此禹希烈多作水車, 行之數年, 竟不見其利而罷之, 臣意恐未可也。”
上曰: “中國及倭邦皆利其用, 我國介在其間, 安有不可用之理? 但行之者不用力, 或未得其要耳。”
對曰: “本國土(姓)〔性〕麤疎, 泉水汚下, 雖百倍其功, 一日所灌, 不過一畝, 而功輟則滲漏, 臣親見其狀。”
上曰: “大抵人情, 憚於新作。” 卽分遣敬差官于各道, 多置水車, 久無其效, 上疑之。 至是, 令宦寺田吉洪, 置水車於行宮近處, 役百人激之, 一日所灌, 止一畝, 而亦盡滲漏。 又令崇善往觀之,
崇善啓曰: “宗瑞終始皆言不可用, 請與俱行, 詰其利害。” 命許之。 俱往, 役八十餘人終日激之, 所灌不及一畝, 而皆滲漏。 崇善等回啓其狀, 命扈從宰相議之,
皆曰: “不可用。” 卽命還各道敬差官, 其水車藉人力者皆罷之, 唯自激水車不罷。
新羅本紀第六.<文武王>上.二年春正月
為中侍. 王命<〓信>与<仁問>・<良図>等九将軍, 以車二千余両, 載米四千石・租二万二千余石, 赴<平壌>
王が維新・人文・譲り渡しなど九将軍に車 2千余ままに米 4千石と稲 2万 2千余席を積んで平壌に行くように言い付けた.
王が 〓信,仁問,良図など9大