전통문화

대략 수수께끼 투성이라고 말해 버리면 그걸로 끝.
 

그럼 고맹묘를 어루만지는, 제1 담의 이야기 7전과 벽돌
 

담(에 있어)이란, 집이나 부지 등에 있고, 외와의 경계에 설치하는 울타리.
그렇지만 이번은 담은 별로 나오지 않는다.
 
 실은 일본의 벽돌에 대해서는 꽤 옛부터 의문을 가지고 있었다.

 

  「왜 일본에는 벽돌 문화가 자라지 않았던 것일까」

 

 양의 동서를 불문하고 건축물이라고 하면 목조인가, 석조인가, 벽돌을 쌓아 만듬.물론 진흙이라든지 풀이라든지도 있지만, 구조적으로는 나무인가 돌인가, 그리고 진흙(굽는·굽지 않는다).유럽에도 목조 건축물의 지역은 있고, 대항해 시대 이전에 온 세상은 그러한 건축물에서 흘러넘치고 있었다.유석에 신대륙은 어떤가 모르지만.
 그런데 일본에는 고대부터 연속, 혹은 지속한 벽돌을 쌓아 만듬의 건축 문화가 봐 맞지 않는다.에도막부 말기 이후 구미로부터 이입 된 벽돌계의 건축물이 남는 것만으로 있어, 그것조차 일순간 밖에 메인프레임으로는 되지 않았다.지금도 호기심이나 공공단체·지역적인 문화 건축으로 벽돌을 쌓아 만듬의 건축을 하지 않지는 않지만, 일본에 있어 벽돌을 쌓아 만듬의 건축이라는 것은 에도막부 말기


孤盲猫を撫でる、第1 塀の話7 磚と煉瓦

およそ謎だらけと言ってしまえばそれまで。
 

では孤盲猫を撫でる、第1 塀の話7 磚と煉瓦
 

塀(へい)とは、家や敷地などにおいて、他との境界に設置する囲いのこと。
でも今回は塀はあんまり出てこない。
 
 実は日本の煉瓦についてはかなり昔から疑問を持っていた。

 

 「なぜ日本には煉瓦文化が育たなかったのか」

 

 洋の東西を問わず建築物と言えば木造か、石造か、煉瓦造り。もちろん泥とか草とかもあるが、構造的には木か石か、そして泥(焼く・焼かない)。ヨーロッパにも木造建築物の地域はあるし、大航海時代以前に世界中はそういう建築物で溢れていた。流石に新大陸はどうか知らないけれど。
 ところが日本には古代から連続、もしくは持続した煉瓦造りの建築文化がみあたらない。幕末以降欧米から移入された煉瓦系の建築物が残るだけであり、それすら一瞬しかメインフレームにはなっていない。今でも物好きや公共団体・地域的な文化建築で煉瓦造りの建築をしないでもないが、日本において煉瓦造りの建築というものは幕末-明治-大正までの文化であり、そのほとんどが明治-大正に集中している。
 そのため日本人は煉瓦造りにハイカラや郷愁を感じてしまうようになっている。

 なぜ日本には磚(煉瓦)が根付かなかったのか?
 中国から当然入って来て良いわけだし、焼くだけなら瓦と大きく代わらないから技術的には問題がない。しかしなぜかそういう磚で構成された中国的な建築は日本でメインにならないのだ。

 今回はそうした問題について少し考えてみたい。

 

ハノイ タイロンの築地塀発掘状態 粘土に磚という構成である。

 

 まず1番目の問題は防火防水である。

 防火については圧倒的に木造より優れている。また防水という点も焼成煉瓦であれば大きな問題は生じない。瓦を焼く技術と一緒に日本にやってきた磚は、この点では問題にならない。その上に日本にもわずかだが日干し煉瓦や泥系の建築もあったわけで、多雨と言うことで磚が定着しなかった理由にはならない。

 

 2番目の問題は燃料(焼成エネルギー)である。

 中国では宋代には石炭で磚を焼くようになる。ここにはいくつかの説があるが、燃料用の薪になる木が枯渇してきていた、と言うところが一番しっくり来る。日本でも製鉄や窯業において燃やす薪不足や、伐採による山の荒廃は古くから問題になっており、できる限り燃料を節約するために壁や基礎は磚を使わなくなった可能性はある。

 

 3番目の問題は原料の多寡である。

 近代になり盛んに煉瓦が焼かれるようになったとき、どこの企業も焼成用粘土の枯渇に苦しんでいく。もちろん近代と古代では焼く量が比較にならないと言っても、木を切り出して建築をした方が安価かつ楽だったことは否めない。

 

 4番目の問題は焼成時の精度の問題である。

 少なくとも古代から中世までの日本の焼成技術では精度の高い煉瓦を大量生産することはやや難しかったのでは無かろうか。この部分は今回全く調査しなかったので不明だが、もしそうなら屋根材や低い壁材までは大きな問題を生じないかもしれないが基礎や高い壁には弱くなる。

 

 5番目の問題は建築思想の問題である。

 ここはもう民族の問題レベルであり想像にしかすぎないが、磚というものが日本に来る前に既に日本では木造建築がある程度確立しており、無理をして煉瓦積みの構造体を作る必要がなかったのではないか、と言うことである。高さにせよ大きさにせよ、一般住居については木造で十分であり、官営施設(官衙など)ですら木造で事足りていた。強いて言えばその時その時の為政者の力を誇示するために外来の最新技術で建築された壮麗な建造物があれば十分、と言うところであったのでは無かろうか。

 

 そして第6の問題 煉瓦は耐震性に劣っているのか?である。

 一般的に煉瓦造りは巨大地震に弱く、地震の量が大陸に比べ比較にならないほど多い日本にはこうした建築が合わない、と言う議論がある。この言説は建築工学や地震工学の世界でもわりと普通に語られている。
 近代初頭、新都東京に大火が出た際に、明治新政府が防災都市を目指し、以後建築物は全て煉瓦造りにすると言う、わりと無茶な命令を出し※1防火推進を行う。計画自体は失敗するが、防火に適しているというこの流れは全国に及び、このあと盛んに煉瓦建築が行われる。

 1848には欧州で鉄筋コンクリートがうまれているが、まだ建築に効果がある、と言うところまで研究されておらず、防火という点ではこの政府の選択は正しい。1890になると鉄筋コンクリ建築というものが確立し、技術は1895に日本にも入ってくる。そして1904には鉄筋コンクリ建築が始まる。しかしこの時点ですでに煉瓦建築が防火の主流であり、西欧風(最新型)建築であったため、しばらく煉瓦建築が圧倒的に主力であった。

 しかし、丁度このコンクリ建築が入ってくる直前、濃尾地震(明治24:1891)が起きる。ここで「煉瓦建築の被害が大きかった」と当時勃興期にあったマスメディアが書き立てたこともあり、官民は共に煉瓦建築の耐震性の向上を目指すことになる。だが関東大震災(大正12:1923)により、再び煉瓦建築に大きな被害が出たことでその後急速に煉瓦建築は衰退し、鉄筋コンクリ建築にとって代わられる、と言うのが近代の大まかな流れだ。
 だが、一方で煉瓦生産関係者は異口同音に関東大震災でも被害の少なかった煉瓦建築は存在する、阪神淡路でも煉瓦建築に被害は多くなかったと主張している。要は「積み方さえ間違えなければ煉瓦も地震に弱くない」という主張である。しかしこれはひいきの引き倒しの部分があると思う。関東大震災時を含めこうした倒壊しなかった煉瓦建築は耐震補強がなされていたり、鉄骨構造であったりしたものが中心であり、煉瓦のみで構築されたものばかりではないからだ。また、どうもこの震災の頃に、いろいろなところで鉄筋コンクリ推進派(急進的新技術導入派)と、煉瓦建築派(従来伝統技術尊重派)とのせめぎ合いがあったと思われる※2。結局「夢の新素材」セメント派が有力になり、その後の建築の中心になっていく。

 この変化に敏感だった実業家もいる。渋沢栄一である。
 渋沢栄一は大正11(1922)秩父セメント工場予定地を視察し、ここに工場建設を決意、大正14(1925)にセメント販売を始める。実は渋沢は明治20(1887)、深谷に日本煉瓦製造の煉瓦工場を設立している。この工場で作られた煉瓦は東京駅・東京大学・赤坂離宮・日銀旧館など、近代東京の煉瓦建築に深く関わっている重要な工場である。だが一方で渋沢はセメント事業にも乗りだし、東京の建築物素材に深く関与し続ける(実際には渋沢の手にはよらないのだが)。濃尾地震以降の世の中の変化を敏感に察知してたのだろう。
 
※1 明治5(1872)の大火を受け、府下家屋建築の儀は、火災を可免の為め、追々、一般煉瓦石等を以て、取建候様可致、御評決に相成候条、其方法見込相立、大蔵省と可打合事(石造街建築決定:東京市史稿)
これにより銀座煉瓦街というものができるが、計画はここで頓挫。

 

※2 1890年代に欧米で画期的な建築素材として出てきたセメントは、当時最高の素材であったのだ。そのため新素材としてあらゆる建築に応用を検討され、石造建築の補修に使われるのは当然であり当時としては新技術の駆使、であったのだと思う。結果、美観を損なう・その他諸々の問題を残していくわけだが。

 


 結論から言うと、正確に規格化された煉瓦を入手し緻密に積み上げ地震に備えるより、木軸構造を発展させ耐震性を獲得することの方が日本では発達した、と言うことであろう※3。また、森を守り森を育むという自然信仰なども磚文化の深化を妨げていたのでは無かろうか。実際導入期、古代白鳳や平城宮までの建築では基壇部分に瓦や磚を使用したものもあり、大陸文化の積極的導入が図られている。しかし、この当時の焼成技術では日本の地震に耐えられる煉瓦積みは不可能であり、いつの間にかこうした基壇は消えている。
 宋代以降にも日本人は中国に積極的に渡海し、桁違いの建築文化を見ている。しかしこの段階では日本建築はある程度できあがっており、取捨選択をして導入していったのではないだろうか。不必要に唐好みにせず、構造のいいとこ取りをして日本に導入していったのではないかと思っている。その中にあって磚(煉瓦)は日本に合わない文化として積極的に導入されなかったのではないかと思う。この辺は建築史の方の意見もお聞きしたいところである。

 

※3大林組の古代出雲大社復元では高さ48mの木造建築ながら震度4程度なら何とか耐えられるとのことである。

 
 磚の文化は日本では断続的な文化としてとらえることができる。しかし全く隔絶しているのかというとそうでもない。基本的には瓦の焼成と同じようなものなので、瓦を焼く技術と共に常に入って来ており、文化的には細々と近世まで続いている。
 例えば唐招提寺に見られる磚床は、時を越えて黄檗宗の寺院にも見られる。また、壁に磚を貼るという行為(主に防水)は従来置塩城(15-16C)の磚貼り構造物までと見られていたが、最近草戸千軒の出土瓦のうちいくつかがなまこ壁用の磚であったと報告されており、15Cにはこうした構造物が一般建築にも用いられていることが分かっている。また、磚仏と言う形であるなら平安-鎌倉を通じずっと焼かれている。
 一方、日干し煉瓦というものも日本には入ってきて、こちらも細々と歴史を重ねていく。それが土塀Aに類する猫壁や疑似築地であった。正直今回塀のことを調べて最初に突き当たった問題がこの日干し煉瓦文化の存在であった。今回のことでこの事が一番の驚きであった。日本に入っていたとしても継続していたとは思えなかったからである。

 

 さてこの磚文化、建築には塀や土蔵の壁貼り用にのみ供されていたように思われるが、実はもう一つ面白いところに使われていた。それが九州や高知の窯元に残る「トンバイ塀」である。トンバイ塀は磁器を焼く窯のために使われた「耐火煉瓦」を使用に耐えられなくなったときに塀に流用したものである。塀としては練塀Bの形式に相当するが、重要なのは近世の磁器窯ではトンバイと言う耐火煉瓦が使われていた、と言うことである。これがどこからいつはいってきたのかは調べがつかなかったが、非常に面白いことに韓国の窯、例えばかなり新しいところでも韓国分院里窯跡からは、こうした耐火煉瓦がでたという報告が聞こえてこない。むしろこの分院の窯は肥前の最初期の岸岳系の窯にわずかに類似性があるだけで、同時期の日本の磁器窯に比べかなり遅れたものとのことである。18-19Cの窯である分院の窯は日本では1590年代に初めて来た窯と同じような物だったらしい。また、肥前の窯の多くは中国の窯との類似性が指摘されており、こうした耐火煉瓦は中国由来のものと見ていいだろう。トンバイ、のトンは「登」ではないか?と考えている。とはいえ当時の発音も分からないし、バイの方はどんな字があたるのか皆目分からないのだが。
 こうした問題はまた別のものだが、武雄ではつちもの(陶器)を高麗焼、いしもの(磁器)を南京焼と呼ぶそうで、少なくとも焼いている側はこれらを別物として扱ってたことも分かっている。

 

トンバイ塀
日本の塀文化のなかでは異彩を放つ塀である。

 

 日本では磚文化は細々と続き、幕末を迎える。簡単にまとめると以下のようになる。

 白鳳期位まで 主に半島系建築に付随して渡来 そのまま衰退
 古代     磚仏等にわずかに残るが瓦の方は進化。
 中世     瓦の技術を応用する形で商家の蔵の下張りなどに防水用として利用
 近世     塀・土蔵のなまこ壁等に使用 焼き物の窯には既に耐火煉瓦状の物も存在

 そして、時代は幕末を迎える。幕府や雄藩の最重要課題のひとつに「西洋式大砲」の鋳造があった。皆さんもご存じの通り、ここで反射炉というものが作られ、耐火煉瓦が焼かれ、近代製鉄が産声を上げる。この耐火煉瓦造りの時に活躍したのが肥前や薩摩・萩の瓦職・陶工達であった。既に磁器生産のためのトンバイを生産できる技術集積があってはじめてよりすぐれた耐火煉瓦生産がなしえたのである。(実際反射炉用の煉瓦はトンバイでは難しかったらしく最初はかなり失敗している)
 明治にはいるとどっと輸入品の煉瓦が入って来ること、窯の技術なども書物やお雇い外人により伝授されるなどしてこうした人々の活躍は忘れ去られていくが、近世と近代をつなぐ糸のひとつであることは間違いない。

 

今回は写真が少ないとお嘆きの方のために、日本の煉瓦文化の結晶ともいうべき煉瓦塀を紹介して終わる。写真は函館市の高龍寺防火塀。明治43(1910)に建てられた近代の塀だが、フランス積とイギリス積が混在している不思議な塀でもあり、正面方向は土塀に仕上げて寺の格式を守ろうとしているなど日本人の美意識も垣間見えるこれもまた不思議な建造物である。

 

 

東側 イギリス積

 

西側 フランス積(この塀の形状は覚えておいてもらえるとよろしいかと)

前面築地塀との接続部分。築地屋根の装飾もお洒落。

 

函館は何度も訪問しているのだが、気がつかなかった。いつか是非訪問してみたいところである。



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