전통문화

여러가지 분으로부터 정보 제공을 해 받고 있다.정말로 고마울 따름이다.그렇지만 이 근처부터 혼미의 색은 보다 진해지므로, 먼저 거절해 둔다.

 

그럼 고맹묘를 어루만지는, 제1 담의 이야기 5성의 담의 변화(츠키지도 있어)

 

 성, 이라고 하는 말은 일본과 대륙에서는 크게 다르다.일본의 경우, 협의에는 방위 장치로서의 건축 구조물이며, 근대까지를 통해서 고대의 일부를 제외해 크고 변함없다.대해 원조에서는 성벽을 가지는 도시를 말한다.
영어라고 castle 와 city wall.여기에서는 좀 더 유연하게 생각해 주어, 중세 무사의 저택, 고대 산성등도 포함하고 이야기를 한다.주로 전투계 집단의 방위 장치의 변화, 라고 하는 편이 보다 가까울지도 모른다.
 평평하게 말하면 지금까지의 츠키지 관계의 이야기가 귀족적인 물건, 에 대해 이번은 무가적인 담, 이라고 말해야할 것인가.
이번은 주로 「중세 성곽의 복원과 사료학」(이하 「성곽의 복원」)을 깔개에 시켜 주었다.

 

담(에 있어)이란, 집이나 부지 등에 있고, 외와의 경계에 설치하는 울타리.

 

기초지식으로서 눌러(라고 할까 공통 이해로서) 두고 싶은 것은, 일본에서 성이라고 하는 경우의 의미의 변화.대개 카마쿠라 이전(중세 이전)의 성, 혹은 젱쿠넨 고산넨의 역 이전의 성, 이라고 하는 경우는 율령 체제의 것으로, 담택성이나 정족책을 가리키는 경우와 미즈키나 오노죠라고 한 고대 산성을 가리키는 경우가 있는 것.
 중세에 들어가, 무가가 시로를 짓는 시대로부터 오닌의 란 정도까지는 평지의 저택과 산지의 방위 거점이라고 하는 역할 분담을 가지는 산성.오닌의 란으로부터 실제로 기나이에서의 총사용(아시카가 요시하루의 경위)을 거치고, 노부나가 정도까지 약간의 과도기가 있는 것 같지만, 여기를 포함 근세 성곽의 완성과 발전기.일본인이 「해라」라고 하면 보통은 이 시대의 물건을 가리키는 것.그리고 에도막부 말기의 유럽형 건축 기술의 도입이라고 하는 덤과 같은 시기.
 
 대표적인 것으로 연구(발굴·복원등)를 하고 있는 예를 몇개인가 올려 두자.

고대 산성 오노죠(오노죠시:조선 산성 665


孤盲猫を撫でる、第1 塀の話5 城の塀の変化(築地もあるよ)

いろいろな方から情報提供をして頂いている。誠に有り難い限りである。でもこの辺から混迷の色はより濃くなるので、先にお断りしておく。

 

では孤盲猫を撫でる、第1 塀の話5 城の塀の変化(築地もあるよ)

 

 城、と言う言葉は日本と大陸では大きく違う。日本の場合、狭義には防衛装置としての建築構造物であり、近代までを通じ、古代の一部を除き大きく変わらない。対して本家本元では城壁を有する都市をいう。
英語だとcastle とcity wall。ここではもう少し柔軟に考えてもらい、中世武士の居館、古代山城なども含めて話をする。主に戦闘系集団の防衛装置の変化、と言うほうがより近いかもしれない。
 平たくいうと今までの築地関係の話が貴族的な物、に対し今回は武家的な塀、と言うべきか。
今回は主に『中世城郭の復原と史料学』(以下『城郭の復元』)を下敷きにさせてもらった。

 

塀(へい)とは、家や敷地などにおいて、他との境界に設置する囲いのこと。

 

基礎知識として押さえて(と言うか共通理解として)おきたいことは、日本で城と言う場合の意味の変化。大体鎌倉以前(中世以前)の城、もしくは前九年後三年の役以前の城、と言う場合は律令体制のもので、胆沢城や渟足柵を指す場合と、水城や大野城と言った古代山城を指す場合とがあること。
 中世に入り、武家が城を建てる時代から応仁の乱くらいまでは平地の居館と山地の防衛拠点という役割分担をもつ山城。応仁の乱から実際に畿内での鉄砲使用(足利義晴の頃位)を経て、信長くらいまでにちょっとした過渡期があるようだが、ここを含め近世城郭の完成と発展期。日本人が「おしろ」と言うと普通はこの時代の物を指すこと。そして幕末の欧州型建築技術の導入というおまけのような時期。
 
 代表的な物で研究(発掘・復元など)が行われている例をいくつか上げておこう。

古代山城 大野城(大野城市:朝鮮山城665-?) 鬼ノ城(総社市:神護石系山城 飛鳥?)
古代柵  胆沢城(奥州市:9C) 払田柵(大仙市:平安)

中世居館 中屋遺跡(浜松市:鎌倉) 根城(八戸市:南北朝-1627) 江馬氏館(飛騨市:14C-1582?)
中世山城 庵原山城(静岡市:1568-1582) 小幡城(茨城町:鎌倉?室町?-江戸初廃城) 
           宇土古城(宇土市:鎌倉?1505-1589)

近世城郭 姫路城(国宝) 松本城(国宝)

近代城郭 函館五稜郭 龍岡城(長野) 

 

 城に関しては好事家も多く、研究が多いように思われるかもしれないが、なかなかどうして。近世城郭のように分かりやすいもの、古代山城のように例の少ない物に衆目は集まりやすく、また最も多い時代の中世城郭は山の中に点在し分け入るのも一苦労の上、高速道路が通ることでもない限り発掘もされないため、はっきりしていない事も多い。居館についてはさらに不明な点も多い。明治の廃城、空襲による焼失、戦後の住宅建設ラッシュによる喪失など、近世城郭ですら縄張りや上部構造がはっきりしない物もあるのが現状である。 
 実際中世城郭の本などを片手に山に入って実測すると、そういった本が国土地理院の地図と当時の絵図面だけでかなりいい加減な再現をしている事が多く、注意が必要である。とはいえ、なかなかそこまですることはできないし、大体の状況を把握するためにはそこまでする必要もないのだが。

 さて、これら日本の城における塀はどのような状況であったのだろうか。

 俗に朝鮮山城と言われる城のいくつかは近年発掘が行われており、例えば鬼ノ城では朝鮮半島の山城で見られる横位の単位版築(土塀としての版築ではなく、土塁構成の版築)は行われておらず※1、平行する長い版築が行われている。従来こうした山城は半島の帰化人が指導した、と呪文の如くいわれているが、意外にそうではない可能性がある。が、こうした発掘調査でもほとんど塀遺構は検出されず、あくまで土塁などが防衛装置であり、せいぜい雑木によるバリケード状の物をつけていたと考えられる。
 

 古代柵では、既にお話ししたとおり版築築地、もしくは板塀で囲んでいたことが分かっている。

 

 中世に入っても山城はあまり変化しない。防衛装置として立て籠もることが基本である山城だが、重要なことは本丸まで敵兵が来ないようにすることであり、土塁・空堀で敵軍を高いところから撃退するのが普通であり、本丸の城壁前で攻防するというようなことはあまり想定されていない。そのためこの時代も竹垣や掘立柱、板塀などで囲む程度であった。ここの背後から弓矢をいかけたり、槍ぶすまで敵を排除する、と言うのが当時の塀の役割であり、隙間がないと役に立たないものだったとも言える。しかもそれらは平時には設置されず、緊急時におかれる仮設的な物も多かったらしい。知覧城跡は曲輪全体の発掘が行われているが、周縁で柵も塀も検出されていないとのことである。(城郭の復元』)当時の状況はせいぜい以下のような感じだったようだ。

 

北九州市長野城(応永-1585?)復元模型 

 

※1横位の版築とは、一定の長さ毎に版築を繰り返すこと。5mの長さがあるときに、1mをまず一定の高さにし、次にまた1mを積み上げるという手法である。
 
 居館については戦国に至るまでゆっくりとした変化はあるものの、土塁を築きその外周に堀を作り、その中に居館を構えるという基本に大きな違いはない。ただし室町幕府の居館などを意識し、堀はあるものの土塁を築かず、築地で館を囲むという例もある。※2

 

江馬氏居館平面図

 

江馬氏居館土塀再現状況

※2居館復元工事の過程では「平成16年度より復元される土塀は日干し煉瓦を製作して、1つ1つ積み上げて行きました。土塀の高さは高いところで2m60cmほど、長さは全長で約75mあり、積み上げた日干し煉瓦は全部で約18000個になります」とある。報告書が入手できなかったので真偽は不明だが、その他の部分の復元については発掘に基づいて行われているようなので、この復元もあまりいい加減な物ではないと考えている。煉瓦の大きさや形については疑問が残るが、土塀Aの猫壁に相当する形式で、かつ疑似築地である。


 なお、この疑似築地というものについてはお話ししなければならないのだが、今はまだそっとしておく。

 

 面白い例として高梨氏居館(長野県中野市)がある。こちらは15C-1598?のものだが、周囲に土塁と堀を持つ。ここまでは一般的な中世居館と変わらないのだが、土塁の下に漆喰築地塀が埋もれていたことで注目される。おそらく始めのうちは築地塀で敵の侵入を防ぐ、もしくは敵襲情報があってから後背の鴨ヶ岳城(山城)に籠もる、と言うことで十分だったと考えられ、後世戦乱が多くなってからは築地ではとても備えられないこと、平時から居館を要塞化する必要等から土塁を拡充し、居館から城郭へと変化したと考えられる。

 

高梨氏居館概念図

 

高梨氏居館土塁断面

 

伴野氏館土塁断面
伴野氏館は佐久市の居館で、鎌倉時代に伴野氏がこのあたりに居を構え、その後武田信玄の時代以降幾たびか戦乱に巻き込まれ、1582以降に廃城。おおむね鎌倉末-1582?と見ていいだろう。
こうした方形居館が複数の曲輪を持つ平城に変化する事はままあるそうである。

 

 そして、この段階でも土塁の上はせいぜい柵、頑張って板塀。本丸への侵入を防ぐため土塁構造の進化等は起きているが、防衛という点では土塁(高く)や堀(深く)を充実させる方が重要であり、弓矢を防ぐための防衛装置があれば十分だったためだろう。こうした変化は早いところでは応仁の乱後には起きたと考えられる。石垣構造の発達もこうした変化に伴い始まったのだろう。

 

 さて、いよいよ火縄銃と信長が出てくる。まず火縄銃の登場で日本の城は質的変化を迫られる。それまで弓矢や槍を防ぐための堀、土塁と言った構造物では火縄銃の威力と射程距離は防ぐことができなくなったため、これらが巨大化を始める。と、同時に木柵や板塀では城側の兵隊が火縄銃に無力化するので、とにかく銃弾に対抗する措置が取られるようになる。これが太鼓塀の原型らしい。

 

『万松院穴太記』 足利義晴 中尾築城のこと

 つづら折なる道を廻りて登ること七、八丁、南は如意が嶽に続きたり。尾さきをば三重に堀切て、二重に壁を付て其間に石を入たり。 是は鉄炮の用心也。四方には池を堀て水をたゝへたれば、(中略)摂丹を目の下に見おろして、寔に名城共云べし。


 この文書からは壁がどのような素材であったか?と言うことは不明だが、中尾城(京都市)が1549年10月-50年4月にかけて築城されており、期間の短さなどから見て本格的な土塀の類とは考えにくい。おそらく板塀もしくは竹籠のような塀に石を詰めたのであろう。おそらくこの頃、1550以降には鉄砲の恐怖に対してどう防衛を敷くか、というのは戦国大名にとって非常に重要な課題だったのだと思う。そして、同時に広義の兵農分離と言う時代がやってくる。
 これも居館を要塞化する要因のひとつであっただろう。いつ何時戦争が起きるかわからない時代になったからである。また、農業収入だけでなく経済活動・鉱工業による収益も注目されていき、辺鄙な山の麓に居を構え、大事が起きれば山に籠もるという戦法を取るようでは立ちいかなくなっていったのだと思われる。
結果山城は次第に平地へ、街道の交わる集散地・舟運の盛んな港湾・楽市を展開できる利便性のあるところへと移動していく。当然防衛はより堅牢にならざるを得ない。と、同時に「大名としての威信」を官職の様な見えないものでなく、壮大な屋敷や華美な装飾、兵隊の揃えなど分かりやすく見えるもので表現することにより、「天下人」であることを誇示するようになっていく。
 その右代表が信長であり、秀吉であったわけだ。
 

 この時期の城郭の塀はまず板塀(太鼓塀を含む)等から土塀へと進化する。火縄銃の威力から見れば、飛距離にもよるが厚さ200mmの土塀があればおおむね防げたと思われる。それでも矢をいかける穴や鉄砲狭間と言ったものは必要なので、穴は開けられる仕様でなくてはならない。また一辺が長い塀としては軟弱な作り(倒れやすい)になるため、貫を使ってつっかえ棒のような物を必要とした。
 次に油塀のような地味な色遣い(茶色)から黒瓦と漆喰のコントラストに代表される土塀に進化していく。この辺は京町での土塀あたりがお手本になったのだろう。このあたりは近世城郭における漆喰の多用と歩を同じくしている。そして最終段階として当時「貴族」「権威ある寺社」が築いていた築地と同じ形態の塀を取り入れることによって、「権威ある建築物」という姿を獲得していったのではなかろうか。少なくとも攻防ということだけであれば土塀で十分であり、実際姫路城でも当初の城郭の塀は油塀タイプであったと考えられている。それをわざわざ漆喰仕上げの美しく華麗な築地に作り直しているのだから、この辺は大名の財力や権威の誇示と、私は見ている。また、この頃に作られている「築地」が擬似的な築地であることも、権威としての築地の現れだと思っている。前述したとおり、城郭の塀の場合穴を開ける必要があるが、版築塀である築地ではそれは非常に難しい。土塀Aである猫塀なども穴を開けながら構築するには無理がある。練塀Aのように瓦をはさむのではまず無理。土塀B1、B2と言った木舞下地の場合、比較的容易に穴を開けられる。そこで見た目は築地、実は木舞下地の土塀B型で塀が作られていったのだと思われる。
 
 ここで築地はようやく中世的なそれから近世的なそれへと転換していったのだと思う。築地には既に権威しか求められず、形骸化してデザインに成り下がったのだと思われる。築地の変化の相はこれで大体説明が終わったと思う。つまり以下の如き流れである。

 古代 法律(格式)で定められた築地 
 中世 権威としての築地の残存と戦争による無力化 
 近世 権威としてのみ残る築地(疑似築地) 

 古代から営々と築かれた築地は、近世に入っても同じ工法で築かれているものも多い。しかし信長塀※2に見られるように戦国時代にはほぼ形骸化しており、台形の塀は権威的である、と言う場所に収まっていったのだと考えている。そしてこの事が築地、土塀と言った言葉の混乱を招いたのだと私は考えている。

※2 1560に既に瓦を重ねた築地型の練塀を作った信長はある意味先駆的、と言ってもいいと思うが、この塀はあくまで熱田神宮という「権威」に進上されたものであり、城郭のそれではないことは付記しておく。しかしながら、信長が塀の権威について熟知していたという証左だとは思う。

 

 次回はこうした塀の変化の相をちょっと追い掛けられるといいなぁ。

 

順天城攻城図 『征倭紀功図巻』 
門と塀の色が異なるので土塀の上に竹垣のようなもので侵入を防いでいたと思われる
塀の外にバリケード(竹垣?)を築くのはわりとデフォ。

 


大阪冬の陣図屏風
色から見て塀は油塀か板塀。堀の内側土塁裾部の無数の防御用の杭(バリケード)と塀の窓に鳴子が渡してあり、ここまで敵がすがってきたら発砲する構えなのだろう。屋根は瓦ではない何か(粘土か漆喰)で、雨よけを作っている。

 

姫路城油塀 
秀吉築城の頃の塀と言われており、池田輝政のものではないとされている
文化財登録名は「水の一門北方築地塀」 版築痕風の仕上げなのか、よく分からないが、

「油塀」という限り練塀系もしくは猫壁のような形態か?

津山城太鼓塀(復元)
見つけられた太鼓塀はいくつかあるが、金沢と津山は明らかに疑似築地と思われる。他はよく分からなかった。

 

おまけ

 

龍岡城五稜郭
小さいので全体をわりとつかみやすく観光ずれもしていないので、わりと好きなお城。

塀もなんにも関係ないけど。近代城郭。
ただし空からはみれないので、Googleアースかマップで確認してもらえると嬉しい。    



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