전통문화소개 Relationship

고맹묘를 어루만지는 4입안방의 이야기 5 서문 서문―, 나는 통계에 들어갈거야―


 인도의 입안방.근사하다.

 명제는

「일본에 남은 것은, 한국식의, 입안방을 최상에 자리잡는 건축 문화였던 것 같습니다 」

(은)는 진인가 가짜인가.

일본에 남은 것은(한국으로부터 불교 전래와 함께 전해진), 『한국식』(아침해식에서도 동부지역 무사식이라도 좋은 것 같다)라고 부르고 있는「입안방을『궁전』라고 말하는 가장 격식의 높은 건축에 채용하는 건축 문화」이다


 이 일문이『일본어로서 이상한』일은 겹들 감안하고, 검증을 개시.


 결론

 『가짜 』


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 이번 검토는 크게 두 개의 단면을 가진다.

1 격식・입안방이라고 하는 말의 정리와 검증

격식의 정의
 격식과는 일본의 법령상에 존재하는 정도에 의한 상하 관계이며, 원칙으로서 사람에 대해서 존재하는 것.단, 그 사람의 주택이나 복장도 격식에 의해서 제한되기 위해 격식의 높은 사람의 옷, 이나 격식의 낮은 주택, 이라고 하는 것이 발생한다.또, 그것들은 그 사람이 속하는 계층 사회에 개별이며, 다른 사회에 존재하고 있는 격식은 기본적으로 비교 할 수 없다.

 이 격식으로부터 보았을 때, 일본에는 율령으로부터 근대법까지, 건축에 관한 여러가지 제한이 존재하고 있다.가장 많은 것은「폭」에 관한 것으로, 이것은 위정자(혹은 피지배자) 격에 의해서 살아도 좋은 주거의 크기를 제한하는 것이다.고대의 경우, 왕성이라고 하는 개념으로부터 주택의 담(역의 확정을 위한 장치)에 관해서도 제한이 있다.또, 고대 이후「지붕즙재에 사용해도 좋은 것(해야 하는 것)」에는 격식이 있어, 5위 이상은 히노키피즙으로 되어 있다.

 또, 순수하게 의례상 가장 격식이 높은 것은 뱃집지붕모즙으로 ?`교B

입안방라는 말
 입안방이 Wiki등에서「격이 비싼」라고 쓰여지는 원인은 근대 이후 건축 용어의 정비의 단계에서, 당시의 서원 구조나 다실이라고 하는 무가 주택, 귀족의 건축 양식등의 문신 주택이 입안방이었기 때문에, 그 습관이 오인을 낳았다고 생각한다.
 실은, 이번 이야기에서는 Wiki의 정의 이외에「입안방」의 정의를 말하지 않았다.이것은 근대까지 입안방, 이라고 하는 개념이 일본인에 대해 희박했기 때문에는 없는지, 라고 할 생각으로부터이다.이 점은 세세하게 검증할 필요가 있지만, 유석에 만사이 주고 일기라든지 바킨 일기 (와) 같은까지 전부 읽고 생각하는, 의에서는 작업이 너무 크므로, 하지 않았다.그렇다고 할지도 하면 책을 쓸 수 있다.
 현상의 검증에서는 적어도 고대-근세까지 4아(아즈마야)・ 양하(마야)라고 하는 표현 밖에 없었던 일을 확인 할 수 있었다.적어도 송대에는 헐산, 이라고 하는 호칭으로 입안방을 인식하고 있던 중국으로부터 그 말도 들어 오고 있었을 것이어, 만약 일본인이 입안방을 하나의 형태로서 인식하고 있으면 삼재지회등에 기재될 것 같지만, 그렇게 말한 것은 발견 하지 못하고.오히려 일본인은

 즙재에는 조건이 있었지만, 어떻게 지붕을 걸까?`「부분은 남아 염려가 없었기 때문에는 없을까 느꼈다.
 덧붙여 마야(마야)와 아즈마야(정자)에 관해서, 아즈마야가 관동 방면으로 많이 시골자의 주택이었기 때문에, 라고 하는 기술이 산견하지만, 적어도 근세 이전의 가옥에 대해서는 검증 할 수 있을 리도 없고, 근세라도 관동이북에는 충분한 수의 뱃집지붕・입안방 지붕의 농가가 존재하고 있어, 기묘하게 느꼈다.고대 이후의 역사 고고의 세계에서는 장방형 플랜의 동지주건축등도 꽤 오랫동안 전국으로 보여지므로, 이 근처는 검증이 필요하겠지.고대에 있어 이미 킨키 이서의 지역에서는 판자 지붕을 거는 주택(굴립고마루?)(이)가 증가하고 있던 것에 대해, 관동에서는 나카스지 유적의 굴립주옛날 건축의 잔존물과 같은 형태(대나무등에서 지붕 구조를 만들어, 그 위에 식물재를 즙구)가 많이 남아 있어 이러한 차이를 마야・아즈마야라고 호칭했다고 보는 것이 타당하다.도이도 또 아즈마야의 하나로 생각해야 하는 것이다.

코유이

・지붕재의 격식은 있지만, 지붕의 거는 방법의 격식은 없다
・입안방이 레벨을 올림이라고 주목받는 것은 아마 근대 이후, 무가 문신 주택의 그 형태로부터의 오인이 아닌가
・즙재에 대해서의 조건은 일본인에게는 있지만, 격식과 같이 거는 방법의 집착은 얇았기 때문에는 없는가


 
2 일본에 있어서의 입안방식 지붕의 변천

입안방의 성립과 그 변천 

1) 기와 이전 
 입안방 형식은 죠몽 시대부터 있어, 3월・고분 시대에도 있었다.게다가 지극히 거대한 구조물을 일본의 목조 건축은 만들고 있었다.그 중에서도 3월-고분기에 사를 실시하는 구조물의 중심이 입안방 형식, 창고등의 저장 시설은 뱃집지붕 형식이었던 가능성이 있다.

2) 6 C에 있어서의 기와 건축(사원 건축)의 도입기
 (쿠다라)백제나 신라로부터도 늘어뜨려진 사원 건축에 의해, 일본에 기왓장의 건축이 개시된다.하지만 이 시기라도 왕궁은 판자 지붕 기내 해 히노키피즙・모즙이며, 초석을 가지지 않는 굴립주구조.고분 시대로부터 연속하는 전통적 수법에 따르는 것이다.다만, 고려척・당에서 사용한 자에 의해서 설계되고 있어 일정한 영향이 인정된다.

3) 7 C후반-8 C 이후
 견당사에?`트 중국식의 건축 방법이 초래되는 무렵에는 반도적인 건축 플랜은 자취을 감추어 간다.이것은 율령 체제의 아래 도량형의 통일의 필요로부터이다.그런데도 토지 구분의 부분에는 남아 가지만.또, 이 시기 왕궁은 초석을 가지는 대극전 (헤이안 시대의 정전)이 영위되어 조당이 성립해 나가지만, 천황의 정전은 굴립주의 전통 형식이며, 대상궁도 굴립.그 후천황이 곤궁해 그것을 할 수 없는 경우를 제외해, 대상의 건축은 현재에 이를 때까지 이 전통에 근거해 행해지고 있다.현재의 대상궁은 에도시대에 부흥된 형식이지만, 고례를 철저하게 검증한 것이어, 전후 발굴된 예도 같은 형식을 가지는 것을 알 수 있고 있다.가장 격식이 높은 건조물은 뱃집지붕모즙이라고 하는 신사건축에 비슷하는 형태이다.
 덧붙여 이러한 뱃집지붕 건축은 율령 체제의 성립시에「중국의 조묘」에 대항한 형태로 시스템화 되었다고 생각된다.신사건축의 성립이다.이 때, 보다 「중국적이지 않은」일을 목표로 한 결과굴립 뱃집지붕 판자 지붕(모즙・히노키피즙)이라고 하는 형태가 채용된 가능성은 부정하지 않는다.

4) 9 C 이후
 초석이 시신전 등에 채용되어 가는 것은 꽤 늦고, 아마 카마쿠라 이후라고 생각된다.이것은 무가 정권의 영향이나 선종의 유입의 영향도 ?`·,하지만, 문신의 경제력의 저하에 수반해, 언제나 개축할 수가 할 수 없게 되어 갔다고 하는 부엌 사정이 크다고 생각한다.국가 신사인 이세가 단속적이면서 신전을 고쳐 지을 때 신령을 옮구


孤盲猫を撫でる4 入母屋のお話 5 じょじょー、俺はまとめに入るぞー

孤盲猫を撫でる4 入母屋のお話 5 じょじょー、俺はまとめに入るぞー


 インドの入母屋。かっこいい。

 命題は

「日本に残ったのは、韓国式の、入母屋を最上に据える建築文化だったようです」

は 真か偽か。

日本に残ったのは(韓国から仏教伝来と共に伝わった)、『韓国式』(朝日式でも東夷式でもいいらしい)と呼んでいる「入母屋を『宮殿』と言う最も格式の高い建築に採用する建築文化」である


 この一文が『日本語としておかしい』事は重々承知の上で、検証を開始。


 結論

 『偽』


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 今回の検討は大きく二つの切り口を持つ。

1 格式・入母屋といった言葉の整理と検証

格式の定義
 格式とは日本の法令上に存在する位による上下関係であり、原則として人に対して存在するもの。但し、その人の居宅や服装も格式によって制限されるため格式の高い人の服、や格式の低い居宅、と言う物が発生する。また、それらはその人の属する階層社会に個別であり、違った社会に存在している格式は基本的に比較し得ない。

 この格式から見た時、日本には律令から近代法まで、建築に関する様々な制限が存在している。最も多いものは「間口」に関するもので、これは為政者(もしくは被支配者)の格によって住んでいい住居の大きさを制限するものである。古代の場合、王城という概念から居宅の塀(域の確定のための装置)に関しても制限がある。また、古代以降「屋根葺材に使用していいもの(すべきもの)」には格式があり、5位以上は檜皮葺とされている。

 また、純粋に儀礼上最も格式が高いのは切妻茅葺である。

入母屋という言葉
 入母屋がWikiなどで「格が高い」と書かれる原因は近代以降建築用語の整備の段階で、当時の書院造りや数寄屋といった武家居宅、寝殿造りなどの公家居宅が入母屋だったため、その習慣が誤認を生んだと考える。
 実は、今回の話ではWikiの定義以外に「入母屋」の定義を述べなかった。これは近代まで入母屋、という概念が日本人において希薄だったのではないか、という考えからである。この点は細かく検証する必要があるが、流石に満済准后日記とか馬琴日記の如きまで全部読んで考える、のでは作業がでかすぎるので、やらなかった。というかもしやったら本が書ける。
 現状の検証では少なくとも古代-近世まで四阿(アヅマヤ)・両下(マヤ)といった表現しか無かったことが確認出来た。少なくとも宋代には歇山、と言う呼称で入母屋を認識していた中国からその言葉も入ってきていたはずであり、もし日本人が入母屋を一つの形態として認識していれば三才図会等に記載されそうだが、そういったものは発見出来ず。むしろ日本人は

 葺材にはこだわりがあったが、どう屋根を掛けるかという部分は余り頓着がなかったのではないかと感じた。
 なお、マヤ(真屋)とアヅマヤ(東屋)に関して、アヅマヤが関東方面に多く田舎者の居宅だったから、という記述が散見するが、少なくとも近世以前の家屋については検証出来るはずもなく、近世でも関東以北には十分な数の切妻・入母屋屋根の農家が存在しており、奇妙に感じた。古代以降の歴史考古の世界では長方形プランの棟持柱建築などもかなり長い間全国に見られるので、この辺は検証が必要であろう。古代において既に近畿以西の地域では板屋根を掛ける居宅(掘立高床?)が増加していたのに対し、関東では中筋遺跡の掘立柱遺構のような形態(竹などで屋根構造を造り、その上に植物材を葺く)が多く残っており、こうした差をマヤ・アヅマヤと呼称したと見るのが妥当である。土居もまたアヅマヤの一つと考えるべきである。

小結

・屋根材の格式はあるが、屋根の掛け方の格式はない
・入母屋が格上と目されるのはおそらく近代以降、武家公家居宅のその形態からの誤認ではないか
・葺材に対してのこだわりは日本人にはあるが、格式と同じく掛け方の執着は薄かったのではないか

 
2 日本における入母屋式屋根の変遷

入母屋の成立とその変遷 

1)瓦以前 
 入母屋形式は縄文時代からあり、弥生・古墳時代にもあった。なおかつ極めて巨大な構造物を日本の木造建築はつくっていた。その中でも弥生-古墳期にお祀りを行う構造物の中心が入母屋形式、蔵などの貯蔵施設は切妻形式だった可能性がある。

2)6Cにおける瓦建築(寺院建築)の導入期
 百済や新羅からもたらされた寺院建築により、日本に瓦屋根の建築が開始される。だがこの時期でも王宮は板葺きないし檜皮葺・茅葺であり、礎石を持たない掘立柱構造。古墳時代から連続する伝統的手法によるものである。ただし、高麗尺・唐尺によって設計されており、一定の影響が認められる。

3)7C後半-8C以降
 遣唐使によって中国式の建築方法がもたらされる頃には半島的な建築プランは姿を消していく。これは律令体制のもと度量衡の統一の必要からである。それでも土地区割りの部分には残っていくが。また、この時期王宮は礎石を持つ大極殿が営まれ朝堂が成立していくが、天皇の正殿は掘立柱の伝統形式であり、大嘗宮も掘立。その後天皇が困窮してそれができない場合を除き、大嘗の建築は現在に至るまでこの伝統に基づき行われている。現在の大嘗宮は江戸時代に復興された形式であるが、古例を徹底的に検証したものであり、戦後発掘された例も同様の形式を持つことがわかっている。最も格式が高い建造物は切妻茅葺という神社建築に類する形である。
 なお、こうした切妻建築は律令体制の成立時に「中国の祖廟」に対抗した形でシステム化されたと考えられる。神社建築の成立である。このとき、より「中国的でない」事を目指した結果掘立切妻板葺(茅葺・檜皮葺)という形態が採用された可能性は否定しない。

4)9C以降
 礎石が紫宸殿などに採用されていくのはかなり遅く、おそらく鎌倉以降と考えられる。これは武家政権の影響や禅宗の流入の影響もあろうが、公家の経済力の低下に伴い、しょっちゅう建て替える事ができなくなっていったという台所事情の方が大きいと考える。国家神社たる伊勢が断続的ながら遷宮をしていたのに対し、出雲大社がかなり早い段階で恒久的社殿を持つようになったこともこうした経済的問題だと考える。

5)宮殿以外
 宮殿以外でも普通に入母屋形式の居宅は建築されていた、と考える。これは縄文時代に既に存在している事もあるが、武家居宅でも、農家(現存最古は14C)でも採用されているからである。もちろん商家でも採用されている。1の規制もないまま、古代から現在まで、あらゆる階層で入母屋形式の屋根は使われていたと見るべき。

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 まず、当初スレ主があたかも「入母屋」を韓国から来た物の如く記述していたこと(これは誤読と言いかえされたが、どう見ても軸がずれた瞬間の一つ)。少なくとも入母屋は「韓国式」ではない。
 次に、残るも残らないも入母屋形式は縄文-弥生-古墳-飛鳥-天平-(下略)と、常に造営されている屋根形式であり、王宮に限っても正殿などで使われていた可能性が高い。しかも正殿は掘立柱なので朝鮮や中国から来た建築工法ではなく、在来工法で造営されていたと考えられる。

 天平から平安のある時期まで、中華思想の影響で「儀礼」の場では中国風の四阿屋根・基壇の建築物が使用されていた可能性は否定しない。ただし、この建造物が重層か単層かについては未だ議論がある。
 平安中期以降はこうした中華風のものは姿を潜め、天皇に関する建造物は伝統的(和様・和風と言っていいのかもしれない)建造物に集約され、以後大きく変化しない。

 少なくとも半島から建築技術が導入され寺院建築が半島型(百済・新羅由来)で行われていた間も、宮殿建築は在来伝統建築が連続しており、設計に関してその影響があったが、上物は極めて「日本的」なものであったと推測する。

 また特に格式という概念で考えた場合、最も高位の「祭祀」大嘗会は切妻掘立柱の建造物で行われている。儀礼が固まったのは7Cの皇極帝の頃であり、律令体制下で細則が固められていく。これは少なくとも律令体制下、最も中国的だった時代でも掘立柱で行われており、天皇が最も困窮していた室町-江戸初期(後土御門(1465-)最後の大嘗会-後柏原~霊元-東山(1687-)大嘗会復興)に断絶していた以外は簡略的にも行われている。また、当該儀式は践祚・即位の後行われるものであるが、践祚・即位は大極殿(のち紫宸殿)で行われる「唐風」の儀礼である。このあたりの区別は細かいが、践祚は前帝崩御(譲位)に伴い直ちに行うものに対して、大嘗会は即位の時期によって翌年に持ち越さなければならない大がかり且つ最重要の祭祀であることを附記しておく。


 即ち

 百済・新羅の寺院建築は限定的な期間日本寺院建築に影響を与え、7C以降の中国との直接交流が盛んになって以降はその影響力を失っていき、尺などの一部に残存していく。王宮は半島どころか中国の影響下にあった時期ですら日本的な在来建築を遺し、中国の影響から脱したあとは完全に独自発展していく。半島の影響があった時期に全く影響がなかったとは言わないが、王宮に関しては極めて限定的だったと考える。

 入母屋を最高位におくというのは誤認によって生じたものであり、格式ではない。ただし、日本において宮殿は持続的に入母屋形式で造営されていた可能性が十分に考えられる。近代以降、高位の建築がそうであったため誤認され、現在なおそれが継続されているのだと考える。
 情報をいただいたが、四阿を最高位に置くという中国の法律もないそうである。こちらは四阿で宮殿を造るといった文章が残ること、現存建築が四阿であることなどから慣例として存在していたものと考える。
 朝鮮王宮が李氏朝鮮時代に入母屋を採用した理由は不明。


 なお、日本において入母屋が一般的に使用される最大の要因は「雨を流す」為である。多湿な日本ではどうしても雨に対する防衛が必要であり、屋根角度が取りづらい寄棟では四面全体が風雨にさらされやすいという問題を抱える。それ故日本では四阿が大きな建造物には採用されにくかったと考えられる。唐招提寺でも江戸改修の時、無理矢理当時の建築工法で屋根角度を上げたため、建造当初より屋根高が大きく上がっていることが判明しており、明治修理では西欧技術を駆使しキングポストトラスで改変している。平成修理はこうした各時代の改変を検証し、当初架構と分離した補強システムを採用している。
 切妻は大型建造物の場合妻部分が風雨に弱くなり、こちらもあるスパンで立て直すなどを考えない場合、コストパフォーマンスが悪い。壁部分を漆喰でがっちり固める事によって回避出来るため蔵などはそうした形になっていくが、こうなると居住空間としては多湿への対応が弱くなる。
 屋根角度を圧迫感無く強く取ることができ、四方へ雨を流し下部構造物を風雨から守り、なおかつ夏の多湿に対しては戸を開放出来ると言った面から入母屋形式が身分の上下を問わず採用されていた、と考える方がスマートであろう。

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 残っている疑問


1 朝鮮半島における入母屋形式の導入と進展

 いつ頃から半島には八作があるのか。実はこれが全く不明である。わずかに残る建築物でも13Cのものであり、唐の建築様式の影響下の柱心包式だという。それらの寺院建立は確かに7Cであり、古例に則って再建したと考えようもあるが、再建された構造物は唐の建築の影響下にあり、日本に伝来した物とは異なる。朝鮮半島にあり、日本に伝来された寺院建築技術の中に入母屋形式の屋根構造が含まれていたかこれらの寺院からは立証出来ない。心柱という半島独特の建築思想は確かに来ている(発掘によって平面プランとして立証されている)が、これは宝形造であり、四阿である。百済末期に入母屋があった、という記述が中西の「朝鮮半島の建築」にあるが、未確認である。
 また、仮に百済末期に入母屋があった場合、これは完全に中国での流行(6C)の影響下にあり「中国の最新を温かいままお届け」しました、ということにしかならない。
 同時期の中国建築の状況などから考えると、入母屋形式の技術がパッケージされていたと考えることは難しくないが、それが半島来由のものであることの立証が必要である。

2 朝鮮半島における王宮の屋根について全くわかっていない

 同じく半島における王宮建築がどう変化したのか全く不明である。これがずっと入母屋なのか、ある時期違った形式になるのかが立証されない限り「結局残った」等と言う発言は言葉遊びにしか過ぎない。最低でも百済新羅高句麗、高麗期の宮殿建築について検証されなければならない。

3 実は半島から来た技術導入が半端であった可能性

 賢者達に失礼があるので、あえてこの部分はカットした形で進めていたのだが、実は法隆寺ですら在来工法が使われていたと考えられる部分が指摘出来る。また、平面プランだけ抽出しても同時期の百済・新羅の寺院と異なる寺院建築としては『貧弱』な部分が日本の寺院建築草創期(廃寺含め)には認められる。これも在来的な手法のある影響によるものだとしてしまえば解決するのだが、となると日本の寺院建築は草創期の段階で

 日本の在来工法を軸に、百済や新羅の技術・思想(たとえば堂宇の並べ方)を援用

 して建立した事になってしまう。

 入母屋の話4-2-おまけ-1をトレースしていない。むしろ最初から4-2-おまけ-2)で行われたことになってしまう。平たく言えば、百済の技術者のいうことを聞いていないか、百済の技術者がきちんと伝授出来ていないのである。これが唐の影響下にはいるときちんとトレースされており、その中から和様という工法を生み出していったこともはっきりしている。当時の政治体制側がそうした伝授についていい加減に行動していたとは考えにくい。もし、半島の指導もと、隔絶したものが建築されたと唱えるならば、こうした在地技術がなぜ使われたか、そして当時の半島技術がなぜきちんと伝授されなかったかを検証しなければならない。
 現実問題としては在来工法でも巨大建造物は造れたのだが、そのまま使うのでは構造的な問題に直面した可能性は否定しない。また、伝来した仏教建築の技法にこだわりつつも在地工人達が揃えてくる物の制限があったのかもしれない。そして伝来してきたパッケージがフレキシビリティに欠け不完全で大型建造物が構築出来なかったという可能性ももちろん否定出来ない。 


 何れにせよ王宮どころか寺院建築ですら半島の影響は限定的であった、と見た方がすっきりする。


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雑感

正直な事を言うと、半年くらい掛けてちゃんと熟成しつつ諸本の検証をし、できる限り補完した形を取るべきだったと反省してます。今回は論文も記憶だよりだし、永田町図書館にも行かないままやっちまったことだよ。実は報告書もろくに見ていない。ただ、そうなるとこの尺に収まるはずもなく、モチベも維持出来そうもなかったです。半島関係の寺院建築論文がけっこうあることを知っていながら全部華麗にスルー。だって一所懸命読んでも結局「教えてやったニダ」ばかりだし。



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