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孤盲猫を撫でる4 入母屋のお話 2  仏教伝来

孤盲猫を撫でる4 入母屋のお話 2

瓦屋根がくるぞー ごぼぉ。


 1で葛城氏が雄略に滅ぼされる話をちょっと入れましたが、今回は前後してそのちょっと前のお話を。都合の悪いところはみんな偽物で有名な日本書紀。年代は議論があるのであえてこの辺は曖昧に。

(応神)卅一年秋八月、詔群卿曰、官船名枯野者、伊豆國所貢之船也。是朽之不堪用。然久爲官用、功不可忘。何其船名勿絶、而得傳後葉焉。群卿便被詔、以令有司、取其船材、爲薪而燒鹽。於是、得五百籠鹽。則施之周賜諸國。因令造船。是以、諸國一時貢上五百船。悉集於武庫水門。當是時、新羅調使、共宿武庫。爰於新羅停忽失火。卽引之及于聚船。而多船見焚。由是、責新羅人。新羅王聞之、讋然大驚、乃貢能匠者。是猪名部等之始祖也。

4-5C頃のお話。考古学的には古墳時代ですな。舟の建造技術者(船大工)が貢がれたというもの。もちろん応神帝そのものがいたかどうか、と言う議論もありますが、一応実在したであろう最初の天皇と、井上光貞先生もおっしゃっている(ワラようです。

 この応神帝から仁徳-雄略の頃、特に応神期の特徴の一つに渡来人がしょっちゅう来て(主に貢ぎ物)います。又、神功皇后の頃を含めやたら半島に手を伸ばしていた時期でもあります。政治史的な問題は置いておいて、この4C-5Cと言った時期半島から多くの技術が渡ってきたことは間違いありません。大陸からも使いがやって来ますが、こっちの場合、日本が遣使して技術者を要請する(例:応神帝の高句麗経由での呉への要請:呉織・穴織)と言う形が普通。あ、医者なんかは新羅に使者を派遣して要請しています。

(允恭)三年春正月辛酉朔、遺使求良醫於新羅。秋八月、醫至自新羅。則令治天皇病。未經幾時、病已差也。天皇歡之、厚賞醫以歸于國。

この辺「貢」と「遣使」はきちんと使い分けていることを理解して欲しいのですが、偽書説の人はもうどうもこうも。そして半島だからと言っていつも「貢」ではないと言うことも。

そして、この頃の建築に関して言うと

(仁徳)元年春正月丁丑朔己卯、大鷦鷯尊卽天皇位。尊皇后曰皇太后。都難波。是謂高津宮。卽宮垣室屋弗堊色也。桷梁柱楹弗藻飾也。茅茨之蓋弗割齊也。此不以私曲之故、留耕績之時者也。

と言うのがあります。難波宮で即位したけど、宮に白い土(漆喰)を塗らない、柱飾りをしない、茅葺き屋根の補修もしなかった。なぜなら民衆がその作業で普段の生活に支障を来してほしくなかったから。と言うことです。もちろん書記が編纂されたのは720(養老4)で、かなり後代なので編者が見てきたわけではないのですが、話をてんこ盛りにするなら茅葺きである必要はないんですね。この辺、おそらく後代の板葺宮や、藤原京を意識しているんではないかなとも思われますが、素直に読めばこの5Cの王宮は「草葺(茅葺)板張」でもしかしたら土を塗っていたかもしれないと言うところです。なお、発掘で王宮に漆喰が見られるのは藤原京あたりからだったと記憶してます。流石に報告書を見ないとこの辺は確認出来ないし、京関係は多すぎて。参考程度ですが、奈文研などは漆喰建築で推定復元していますね。古墳の石壁に漆喰というのは結構あるんですけど、都城の宮殿に漆喰、というのはちょっとすぐには確認出来ません。まぁ、礎石の使用がここからですから、漆喰があったとしてもこれよりは古くならないでしょう。ちなみにこのあと、民の竈の煙がないのを見て減税し、その後煙が上がって満足する話が来て、奥さんに「あたし達ぼろぼろジャン」となじられる話があります。仁徳帝は「民が賑わえば、我々の暮らしもよくなるんだよ」と諭します。この奥さんがまた面白いんですがそれは別の話。

 で、やっと瓦と仏教が伝来します。6Cですね。非常に面白いのはこの仏教と瓦、伝来以前には全く日本に見あたらないのです。遠い近いだけで言えば九州の方が半島・大陸に近いんですけど、全く痕跡がない。完全なパッケージでやってきたという事です。これは中国の事情の方が大きかったんだと考えられます。5C、南北朝で栄えた中国仏教は6C南朝の滅亡や北朝の廃仏によって存亡の危機を迎えます。当時の仏教は思想だけでなく土木建築医療といった実学でもありましたが、とにかく生き残るために地下に潜ったり周辺諸国で保護してくれるところに移動していくわけです。南梁の事実上の滅亡は武帝時代の終焉で549。北魏の廃仏が423-452。北周の廃仏が560-578。北魏の廃仏運動がやや早いことを除けば、日本への伝来538(もしくは552)にほど近いことがわかります。朝鮮への伝来はこれより早い4Cで中国では鳩摩羅什の頃であり、中国で仏教が盛んになった頃ですね。
 このあたりは全く推論の域を出ませんが、既に仏教がある程度根付き政治体制にも組み込まれていた半島古代国家群にこれら南北朝の仏僧達が移動し、日本へ出すだけの人材が十二分に存在したからこそ、日本に伝来出来た、というのはどうでしょうか。
 日本側としては初の国家規模での技術移植プロジェクト、と呼んでもいいかもしれません。

 ま、何はともあれ日本に仏教がやってきます。あれですよね。この神キラギラシ(端厳)。ファミコンのマリオで遊んでたら、いきなりモータルコンバット来ましたみたいな感じだったのです。おそらく天皇の感想は「ばたくせぇ」だったんではないでしょうか。最近の学説では実は物部もそういう動きがあった(仏教招聘)というわりと異端な説もあるようですが、この新規な神様の現世利益(特に土木系)をてこに蘇我氏は政争を勝ち抜きます。結果日本に仏教文化が花開くのです。

 ところで、これもどうかと思う学説ですが、京大の伊藤義教は『ペルシア文化渡来考』で4名の瓦博士は

中世ペルシャ語の漢字写音説、と言うのを出しています。上述の機織り技術者(呉織)と同じく、個人名でなくそういう技術者なんだという説です。

麻奈文奴(アーン・ナフンバーン) 家を覆うもの(瓦葺き職人)
陽貴文(アーイーン・クンブ) 形象・造形(瓦をこねる人)
凌(ヘンはりっしんべん)貴文(ラング・クンブ) 色彩(釉薬をかける人)
昔麻帝弥(スヤクマーン・トークム) 軒先の丸いもの(軒丸瓦デザイナー)

あれ?焼く人がいません。この学説だと焼く人は須恵部と言うことになります(実際須恵工房は瓦工房も兼ねていきます)。ちなみに鞍作止利もペルシャ人だそうです。実はここに鑑真の連れてきた「胡国人安如寶崑崙国人軍法力膽波国人善聴都廿四人」という話がありまして、漢人や朝鮮人でない技術者集団が来ていた事を否定出来ないのです。ただしそれらの地域の当時一般的な人名なのかどうかは私は知りません。

 何れにせよ、聖明王・威徳王は当時最高水準の技術者集団をあっさり日本によこしている、と言うことです。今なら原子力発電の格納容器開発工場の技術者からウラン分離科学者、運用技術者から広報営業さんまで全部出してる状態と言えましょう。しかも最新。外交に於いてまずあり得ません。鑑真は思想から来朝しますが、これは禁を犯しての物でありますしその後も見返りのない技術移動というのは日本ではちょっとありません。この場合の見返りはやはり軍事でしょう。

 
 さて、前置き(!)が長くなりましたが6Cに来た技術というのはなんだったのでしょう。先に申し上げた通り、仏教という総合的なパッケージだったはずです。しかし世界最古の木造建築物法隆寺も7-8Cの物であり、6Cの寺院は瓦と平面プランと、あと山田寺の東回廊と言ったわずかな痕跡しかありません。木塔に心柱を持つ(中国にはなく朝鮮にはある)と言った百済新羅の影響は強く見られます。また、詳細な研究により、半島との関係も多く指摘されています。しかしながら伊藤学説のように中国やもっと遠くのものがそのまま来ている可能性もあります。また木軸生産については古墳時代(既に釘や鋸が来ています)やそれ以前の技術(弥生や縄文)も援用されたことでしょう。この辺は今後の半島での発掘や研究が進むといいなぁ、きちんと歴史を考えられる人が発掘して欲しいなぁ、問題があるんで埋め戻しましたなんていうのは勘弁して欲しいなぁ、と切に思います。

 その後6-7Cの半島建築の様式を踏襲している部分が多かった寺院建築技術は、遣唐使を中心とした中国からの技術導入によって隅に追いやられていきます。で、戻ってきません。その後は唐・宋・明・清の影響、近代以降は印度建築の影響なんかを受けます。内部構造を含め在来の工法と中国の工法が融合していき、完全に日本独自の発展をしていきます。
 寺院建築に限らず、半島で言うと高麗、日本で言うと平安後半以降には日朝両者も完全に違った道を歩いているように思います。これは民族的な建築思想の差でもあり、中国からの文化受容に対する思考の差(禅宗など中国から移入はどちらもあった)でもあり、優劣はありません。


 
 そしてこの模型は明日香浄御原宮(672-)に付随するエビノコ大殿と呼ばれる建築物の模型です。実際の屋根材などは不明ですが、ここでは檜皮風の色つけが成されている入母屋造掘立柱建造物です。やや庇がでかすぎる気がしますがこれは京都御所などを参考にしたからではないでしょうか。また屋根の勾配がかなり緩やかなこともこの時代の特徴と考えるべきでしょうか。内部構造はもちろんわかりません。半島の影響も全く不明です。ただ、表面上はヒビキ遺跡の遺構や家型埴輪の系譜を引く建造物であり、鳥取環境大学で再現された纒向巨大遺構群の再現にも似ています。

 これが日本古代王宮の姿だったかはもちろんわかりません。しかし平面プランから礎石はないことははっきりしており、日本の王宮は半島の寺院建築が花開いている間も「伝統的在来工法」つまり古墳時代以来の工法で建築されていたのです。この形式は神社建築に受け継がれていく物です。
 この飛鳥浄御原宮の次に来るのが藤原京(690着工完成は704)で、この京は礎石を持つ日本初の本格的都城ですが、当時の唐の影響で「周時代の漢土復古調」で造営されておりますので、もちろん半島の影響はありません。

と言うことで今回の結語

1 古墳時代から飛鳥の初めまでは日本は積極的に半島古代国家から技術を受け入れていた
2 同じく古墳時代には既に中国からも技術を受け入れていた
3 貢と遣使はちゃんと区別して見てほしい
4 仏教建築については当初半島の影響がはっきりしている
5 王宮建築はどちらかというと古墳以来の伝統的工法であり、その後唐の様式を取り入れる





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