韓日合併以前、朝鮮を旅行した外国人たちは一つ一緒に口をそろえ、朝鮮の村や街の不潔さについて語 っている。朝鮮の首都である京城の市街地において も、牛や馬の糞尿があちこちに広がっていることは
言うまでもなく、人糞もここそこに放置されていた と証言している。当時、朝鮮を訪れた外国人たち は、あなたもすることなく、朝鮮の土地のすべての
都市で鼻が捻れるほどの悪臭に苦しんだという経験 を伝えている。
「ソウルの城の中の姿がとても汚れていると描写す
るのは、ちょっと申し訳ない気がない。なぜなら、 私が北京を見る前までだけでもソウルの城の中こそ がこの世界で最も汚れたところだと思っていたし、
昌江城にある都市で小興黄州で有名ハダ: 引用者 注]に行く前までは、ソウルの悪臭がこの世界で最 もひどいと考えていたからだ!」
彼女の文章を読んでみると、ソウルよりは北京とシ
ャオシングのほうがより不潔で悪臭が激しいものと なっている。したがって、ソウルは東アジアにおい てそれほど少し良い方に属すると考えられるかもし
れないが、いかなる間にソウルはとんでもなく汚れ て臭いがひどいところだったことは確かに見える。 彼女はまた次のように書いている。
この本には、二条末期朝鮮の姿が極明に描かれてい
る。政治、経済だけでなく街や農村の実態、人々が 生きていく生活上、そして朝鮮の自然などあるまま の姿を描いている。この資料は当時の朝鮮姿を研究
するにあたっては第一級資料である。翻訳された本 の分量が600以上を超える膨大な資料だ。
「道路は狭くて不潔で、家屋は低く、見品がなかっ
た。日本で見た店や古い寺のようなものは一切見ら れなかった。悪臭が四方から鼻を突いていたし、家 の外にはゴミが汚れて溜まっていた。長い毛が縮ん
だ犬が集まって食べるものを探して迷っている。あ ちこちに乾燥した下水道が見えたが、その底には枝 の汚れがべたつく腐食していた。(高演義、河在龍
駅)
19世紀に朝鮮を旅した日本人本間久助も『朝鮮捕獲
―日本人が見た1894年の李氏朝鮮』(祥傳社)とい う本を書いたが、この本もやはり当時朝鮮の不潔さ
を話題にして書いている。この『朝鮮捕獲』は著者 である本間氏が見た朝鮮民衆の生活像を描いてい る。彼の本はイギリスのバーアド夫人の『朝鮮紀
行』より4年前に書かれた本で、飼料的価値の高い 内容が多い。
その本によると、朝鮮人たちの不潔さは街並みだけ
でなく生活全般にまたがっていた。市場で野菜や魚 を売る人たちは地の底に食べるものを並べて売って いたが、その中には腐っているのも難しくないよう
に見られた。家庭で調理をする際にも、スーザーや 箸を使わずに、みんな素手で調理していた。鼻にぶ ら下がっている鼻水を拭いた手でキムチを浸すのは
予札であった。朝鮮人たちは風呂に入る習慣がない ため、体では不思議な体臭が鼻を刺していた。
家の家の壁は超壁の壁で拭くだけでも土が服に埋ま
って服が汚れて、泥を塗っただけの部屋の中天井は 非常に低く、広い部屋でも畳6兆ほどに過ぎず、狭 いのは畳一兆程度のものもあった。余談だが側間扉
は稲わらで作られ、ある丸馬は丸いものだったがそ れを開けて用便後用品として使っていた。
朝鮮人は糞尿に対する感覚も独特で、本間さんは朝
鮮人が尿で顔を拭くのを見たことがあると書いてい る。朝鮮人たちは家の中に要綱を置いてお客を迎え る時もそれを目立たないところに隠しておくことな
どはしなかった。そしておしっこがうまくいけばそ れに龍辺を見た。婦女が猫を拭くときは、おしっこ で拭くという。こうすれば梅毒のような伝染病を防
ぐことができると信じたということだ。
「朝鮮の道路はいくら広いとしても、二筆の言葉が
並んで走ることができない。狭いのは、一人のフォ ークリフトが行き来するにも苦しいほどだ。路辺に は悪臭がふくらんでいる溝が掘られており、路面の
上には時が道徳にかかった半裸の子供たちが悪着の ような犬たちと一緒に占領して遊んでいて旅行者が 挙動することは非常に難しい。」
このようなバアード夫人の技術は、朝鮮に対して何
らかの悪意を持って書かれたものではない。彼女は 旅行が自分自身で見たものを正確に、また非常に冷 徹に、そして客観性を持って描いている。例えば、
朝鮮人の外国語習得能力は中国人よりも優れてお り、朝鮮人の体格は日本人よりも大きいと書いてい る。
引用者の村評
この部分はこの本の著者が書こうとする論題を離脱 した、いわば「人身攻撃性」発言に過ぎません。 ①外国文物なら無条件猿のように真似をしてこそ直
性が解ける日本人の習性とか② 『フンドシ』とい うことで猫だけを覆ったままほぼ裸に通う男たちの 姿、③戦争だけを一目で男性戦士が多くなることに
より男ギャップがひどくなって由来したという独特 の姿の日本女性の装いなど、いくつかの日本の否定 的な姿が考えられます。
1429年、室町時代に日本を訪れた朝鮮通信使は、
その報告書中に次のように書いている。「日本では 貨幣が円滑に流通しており、野菜や米による支払い を上回っている。したがって、天理道を旅行すると
きにもただお金だけ携帯して通えば十分で、穀物を 携帯する必要はない。朝鮮通信社はこのように報告 し、日本で貨幣が円滑に流通する姿に驚きを禁じら
れていない。
1902年、日本主導で貨幣制度を改正し、日本風の
「1円=100前」として日本の大坂造幣局で貨幣を作 って発行した。同年、日本の第一銀行韓国総支店が
「第一銀行券」を発行し、大韓民国の紙幣に流通さ せた。結局、韓日合併直前に独立国となった朝鮮 は、日本の造幣国や民間銀行が発行する貨幣や紙幣
をお金として使用した。
朝鮮の民衆は、民衆とはすぐに常民を指す言葉だ
が、常に死の恐怖に苦しんでいた。フランス宣教師 であるマリー・ニコル・アントン・ダビュリュが氏 が書いて残したことを、同じ宣教師であるクロー
ド・シャルル・ダレ氏が編集した『朝鮮事情』(平 凡社)には、次のような内容が記述されていること がわかる。
「朝鮮では飢饉が頻繁に起こる。最も貧しい階級の
人々には、これが年に2回ずつ定期的に訪れる。ま ず大麦が収穫されるまでの6月と7月のいわゆる春
宮期に訪れ、次に稲が収穫される直前の9月と10月 に訪れる。この時、彼らが生き残るために食べるこ とができる養殖という塩水に漬けられたしばらくの
植生がすべてだ。(金容權役)
人命を脅かすのは飢饉だけではなかった。グレイブ
ストは彼の本『悲劇の朝鮮』で次のように書いてい る。「その当時、城門の中で打っている鐘は遠くま で響き渡ったが、一人で旅行する人がこの鐘を遠く
から聞くと、全身がぶらぶらと震えた。なぜなら、 その鐘は声門を閉める時刻を知らせる音なのに、声 門が閉じる前に中に入らなければ城門の外で夜を過
ごさなければならない。これは非常に危険なことで す。ソウルの城門の外には人の命をパリの命のよう に思える山賊たちが得意となっていたからだ。」
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