・大阿仁村事件(1945年10月22日)
秋田県北秋田郡阿仁合町(現在の秋田県北秋田郡阿仁町)の阿仁鉱山で働いていた朝鮮*人12名は、1945年10月22日午前9時頃、約16キロ山奥の同郡大阿仁町(現在の秋田県北秋田郡阿仁町)の集落へ行き、共同管理の栗林に侵入し栗を拾っていた所を村人に発見され注意したところ乱闘となり、村人3名が重傷を負った。
午後1時になると約40名の朝鮮*人が来襲したので、警察と警防団は直ちに現場に急行し鎮圧した。
・生田警察署襲撃事件(1945年12月24日、1946年1月9日)
兵庫県生田警察署では、岡山市内で発生した七人組の拳銃強盗犯人を追って神戸に出張した岡山県警察部の捜査員に協力した。
その後1945年12月24日午後9時、「岡山の刑事を出せ!」と叫ぶ50人以上の朝鮮*人の集団が署内に乱入して、拳銃・日本刀・匕首を突きつけて署員を軟禁状態に置き、署内を探し始めた。岡山県の捜査員たちは署からの脱出に成功したが、暴¥徒は電話線を切断し、外部の連絡を絶たせた。急を聞いた進駐軍憲兵がジープで駆けつけたため、ようやく事態を収拾させることができた。
また翌年1月9日、生田署が三宮ガード下で賭博団を検挙すると、30〜40名の朝鮮*人たちが再度署内に乱入し、検挙者を奪還しようとしたが、生田署はこの暴¥徒を制圧し、進駐軍憲兵と協力して首謀者とみられる3名を検挙した。
・直江津駅リンチ殺人事件(1945年12月29日)
信越線黒井駅でヤミ米ブローカーの朝鮮*人3名が列車の窓ガラスを割って乗り込もうとしたところ、ある日本人乗客に拒まれて乗り込むことができず、デッキにぶらさがって直江津駅まで行った。彼らは直江津駅でその日本人乗客に対し、「乗降口から乗れないので、仕方なくガラスを壊して乗ろうとしたのになぜ妨害した」と詰め寄ったが、日本人乗客が「窓から乗り込むという方法はない」と反駁したので、「朝鮮*人に向かって生意気だ!ホームに降りろ!殺してやる!!」と叫んで、その乗客をホームへ引きずり出して、パイプやスコップで滅多打ちにして殺害した。
朝鮮*人3名はその後逮捕されたが、全員逃走してしまい、結局うやむやのうちに終わってしまった。
なお余談ではあるが、この種の鉄道内の不法行為を防止するために、急遽設けられたのが「鉄道公安官」制度である。
【このような事例は全国各地で続発しており、蔡焜燦氏や北斗星氏の証言が他のサイトで紹介されています。】
・富坂警察署襲撃事件(1946年1月3日)
1945年末に起きた強盗事件の容疑者として朝鮮*人3名が逮捕され、そのうちの一人が警視庁富坂警察署に留置されていた。1月3日になって朝鮮*人の集団が署内に乱入して、容疑者の釈放を要求したが、署長が拒否し続けたため、朝鮮*人たちが椅子や棍棒で襲いかかるなど暴¥徒化して、事実上警察署が占拠された。そして留置所に留置されていた容疑者を捜しあてて、署外に連れ出して逃走させた。
・長崎警察署襲撃事件(1946年5月13日)
1946年5月13日、長崎県警察部はヤミ市場の取締で、朝鮮*人26名・中国人6名・日本人150名を長崎県長崎警察署に連行した。朝鮮*人・中国人団体が即時釈放を要求したが、聞き入れられなかったため、在日朝鮮*人連盟の青年自治隊員100名とその他中国人など総勢約200名が同署を襲撃して破壊活動を行い、10名に重軽傷を負わせた(うち1名は死亡)。捜査の結果、60名の朝鮮*人と7名の中国人を検挙した。
・富山駅前派出所襲撃事件(1946年8月5日)
1946年8月5日、富山県警察部は富山駅でヤミ米の摘発を行い、ヤミ米ブローカの朝鮮*人3名を検挙したが、それを見ていた自治隊員2名が妨害し、ヤミ米ブローカを逃走させてしまった。そこで、その自治隊員を公務執行妨害で逮捕した。
この騒ぎで派出所周辺に30名の朝鮮*人が集まり、連絡を取ろうとした警察官が群集に取り囲まれ、それを救出しようとした他の警察官との間で大乱闘になった。
ついに富山警察署長は富山軍政部を訪れ、軍政部の協力を得ることに成功し、富山駅前にあった「自治隊出張所(引用者注:朝連の自治隊の「交番」のこと)」を閉鎖させ、逆に駅前派出所には武装警察官10名を常駐させ、ヤミ米輸送を阻止した。
・坂町事件(1946年9月22日)
羽越線坂町駅において、新潟県村上警察署が主食取締りを行ったところ、中国人15名・朝鮮*人約50名が警察官に襲いかかり、暴¥行を加えた。警察官は傷を負いながらも朝鮮*人2名を逮捕した。
同日午後、坂町・金屋両駐在所から「ヤミ米を運搬している」という報告があったので、署から私服警察官10名が急行し臨検を行った。そのとき、約15名の朝鮮*人と中国人が襲いかかり、殴る蹴るの暴¥行を加えた。さらに駐在所に侵入して器物損壊等を行ったため、警防団、隣接警察署、進駐軍からの応援により、これを鎮圧し12名を検挙した。
・新潟日報社襲撃事件(1946年9月26日〜29日)
1946年9月26日に、朝鮮*人団体の幹部たちが新潟日報社を訪れ、坂町事件を報道した読売新聞と新潟日報の代表¥に対し、記事の内容が事実に相違するということで、記事の取り消しと謝罪を要求した。読売新聞側は不確実な記事であったことを認め謝罪したが、新潟日報側は社長の不在を理由として29日まで返答を猶予¥した。29日に朝鮮*人団体幹部たちは再度新潟日報社を訪れ、話し合いがもたれたが、納得のいく回答が得られなかったことに腹を立てて、新聞社社員3名に軽症を与え、窓ガラス、椅子等を破壊したので全員検挙した。
・首相官邸デモ事件(1946年12月20日)
宮城前広場(現在の皇居前広場)において、朝鮮*人約2000名が生活権擁護人民大会を開催し、終了後首相官邸にデモ行進を行った。このときの一隊が官邸に押し入ろうとしたので、これを阻止しようとした警官隊と衝突して大乱闘となり、警察官の拳銃2挺、実弾が奪われた。このため、武装警官358名、進駐軍憲兵20名が応援出動して、拳銃を発射するなどして制圧し、首謀者15名を検挙して身柄は進駐軍憲兵隊に引き渡された。彼らは軍事裁判に付され、翌年3月8日に国外追放処分になった。
・尾花沢派出所襲撃事件(1947年10月20日)
1947年10月20日午後3時ごろ、米の買出し取締りに不満を持っていた朝鮮*人7名が、山形県楯岡警察署管内の尾花沢派出所に侵入し、警察官が不在であったのを奇貨として派出所内の器物を破壊し、『尾花沢派出所』の表¥札を外して一旦逃走した。
その後、警察官が戻って異変に気づき、本署に連絡した。そのとき、さっきの朝鮮*人7名と他の朝鮮*人30名が派出所に押しかけ、警察官3名に重傷を負わせた。警察は進駐軍憲兵の協力も得て、29名を検挙した。
・阪神教育事件(1948年4月23日〜25日)
1948年1月、文部省は各都道府県知事に対し、朝鮮*人学校に学校教育法を適用するように通達を出した。大阪府ではこれを受けて、朝連の幹部や朝鮮*人学校の校長を集めて話し合おうとしたが、朝鮮*人側それに応じる気配を見せなかったので、3月15日に閉鎖勧告を行った。しかし、朝鮮*人学校8校が引き続き授業を継続していたので、府教育部は4月15日限りで閉鎖すると厳命した。
1948年4月23日、これに反対するデモ隊約7000名が府庁前の大手前公園に集まって気勢を上げた。朝鮮*人代表¥15名は大阪府庁内で副知事・学務課長と交渉していたが、主張が容れられなかったので、朝連系の青年行動隊等数百名が府庁に乱入して、知事室や各階を占拠した。大阪市警察局と国家地方警察大阪府本部は3000名の警官隊を動員して、朝鮮*人を庁舎から強制排除した。
神戸では、翌24日に朝鮮*人学校問題に関する協議会が兵庫県庁で開かれた。会議には兵庫県知事および副知事、神戸市長、神戸市警察局長、神戸地検検事正など14名が参加していた。そこに、青年行動隊数百名がなだれ込み、知事や市長に対して自分たちの要求を認めさせた。また、市警察局長や検事正に対しては、検挙者の釈放と今回の行為を処罰しないことなどを文書で認めさせて解散した。
しかしその夜、進駐軍神戸地区司令官は、協議会の参加者を神戸基地司令部に集めて、神戸地区に「非常事態宣言」を布告し、24日の文書を無効とし、デモ参加者を一斉検挙した。検挙者は1800名におよび、首謀者は軍事裁判に付され、一部は国外追放となった。
・評定河原事件(1948年10月11日〜12日)
1948年10月11日と12日の両日、宮城県仙台市の評定河原グラウンドにおいて、朝連と在日本朝鮮民主青年同盟(民青)の主催で、北朝鮮政府樹立祝賀会と運動会が開催されたが、このときGHQにより禁止されていた北朝鮮国旗を掲揚したため、仙台市警察と進駐軍憲兵がこれを阻止し、進駐軍憲兵に抵抗した朝鮮*人1名が腹を撃たれて負傷、合計6名が検挙された。
・宇部事件(1948年12月9日)
宇部市民会館において朝連系約200名が参集し、生活擁護人民大会を開催中、手配中の朝連県本部委員長を進駐軍憲兵および警察隊が逮捕したが、大会参加者は集団的に同被疑者を奪還しようとして衝突し、双方に多数の負傷者が出る騒ぎとなり、警察側の発砲によって鎮圧された。
・益田事件(1949年1月25日)
島根県美濃郡益田町(現在の島根県益田市)の朝鮮*人集落において密輸入物資が隠匿されているとの密告に基づき、進駐軍島根軍政部将校2名と経済調査官2名が同行して摘発に乗り出したが、拒否されたため、警察官10名が応援して違反物資を押収したが、約100名の朝鮮*人に奪還された。翌日、被疑者9名を検挙したが、夜に入って約200名が警察署に押しかけて被疑者の釈放を要求し、署内に侵入しようとしたために、警察官と乱闘になり48名が検挙された。
・枝川事件(1949年4月6〜13日)
東京都江東区枝川町の朝鮮*人集落において、刑事3名が窃盗犯人を逮捕し、連行しようとした時、犯人が逃走したので威嚇発砲をしたところ、集まってきた朝鮮*人約50人が刑事を取り囲み、暴¥行殴打し瀕死の重傷を負わせ拳銃2丁を奪った。
その後の交渉で、警察は暴¥行者の引渡しを要求したが、朝鮮*人側は刑事の処分と暴¥行犯人引渡し拒否の要求をしたため、9日以降枝川町を封鎖し、13日に一斉検挙を行い被疑者9名を検挙した。
・高田ドブロク事件(1949年4月7日〜11日)
新潟県中頚城郡新井町(現在の新潟県新井市)と同郡中郷町の朝鮮*人集落では大掛かりな酒の密造をを行っており、警察などの関係当局は1949年4月7日早朝に一斉取締りを断行し、証拠物件を押収した。
その後、この摘発に抗議する朝鮮*人約200名は新潟県高田市(現在の新潟県上越市)の高田市警察署に押しかけ、警察署庁舎に投石して窓ガラスを割ったので、4名を検挙した。
翌8日には高田税務署に押しかけ、署内に侵入しようとしたり投石をしたため、1名を不退去罪で検挙した。
11日になると、朝鮮*人約500名は高田市内をデモ行進した。警察はこれまでの穏健路線を転換し、首謀者12名を検挙した。
・本郷村事件(1949年6月2日〜11日)
福井県大飯郡本郷村(現在の福井県大飯郡大飯町)の派出所勤務の巡査が戸口調査をするために、朝鮮*人集落に赴いたところ、多数の朝鮮*人が「我々を差別扱いする」と言って戸口調査を妨害し、同巡査に暴¥行を加えた。その後連日、派出所や警察署に約200名が押しかけ抗議した。
・下関事件(1949年8月20日)
1949年8月20日早朝、山口県下関市内の民団側朝鮮*人家屋を朝連側朝鮮*人約200人が竹槍・棍棒を所持して襲撃し、民団員十¥数人に傷害を与え、さらに家屋19戸を次々に破壊して金品を略奪した。このため市内は一時大混乱になった。
下関市警と国警山口県本部は山口県下の警察官約1000名を動員して、朝鮮*人約200名を騒擾罪で検挙した。
・台東会館事件(1950年3月20日)
1949年9月8日、法務府は朝連に対し団体等規正令を適用して解散命令を出した。
東京都は当法令に基づき朝連の台東会館を一時接収したが、「台東会館防衛闘争委員会」を名乗る旧朝連員によって奪還され、さらに約400名がバリケードを構¥築して、小石や鉄片や唐辛子を投げつけるなどの実力抗争に出たために警察隊と乱闘になり、旧朝連員120名が検挙された。
・連島町事件(1950年8月15日)
岡山県浅口郡連島町(現在の岡山県倉敷市)で、朝鮮解放5周年を祝って約700名の朝鮮*人が集まり、集会を強行したので、制止しようとした警察と乱闘になり8名を検挙した。この事件で警察官15名が負傷した。
・第二神戸事件(1950年11月20〜27日)
11月20日、約300名の朝鮮*人が生活権擁護陳情のため、神戸市の長田区役所に押しかけ、区長と団体交渉に入ったが、排除にあたった警官隊と揉み合いになり、兵庫県朝鮮青年団体協議会議長を逮捕した。24日には、長田警察署と長田区役所にデモ行進し、その際の衝突で26名の検挙者がでた。27日になると、旧朝連系約900名は、棍棒・白鉢巻の姿で西神戸朝鮮学校に集合して不穏な形勢を示し、デモ行進に移ろうとしたので、これを阻止しようとした警官隊と衝突し、デモ隊の一部は長田区役所、長田税務署に殺到して窓ガラス等を破壊した。神戸市警察局は、占領目的阻害行為処罰令違反と騒擾罪容疑で188名を検挙した。
【「第一神戸事件」は「阪神教育事件」を指す】
・四日市事件(1951年1月23日)
旧朝連四日市支部を接収しようとしたところ、居合わせた朝鮮*人約20名が、器物やガラスの破片を投げつけたり、灰・唐辛子による目潰し攻撃をしたり、濃硫酸を浴びせて接収の妨害を行った。そのため、執行係官7名が全治2〜3週間の重軽傷を負った。警察が出動して公務執行妨害容疑で15名を検挙した。
・王子事件(1951年3月7日)
1951年2月28日、警視庁は占領目的阻害行為処罰令違反容疑として東京都北区上十¥条にある東京都立朝鮮*人中高等学校(現在の東京朝鮮中高級学校)を捜索し、多数の印刷物を押収した。
3月7日、これに抗議する約1700名の朝鮮*人(うち朝鮮学校生徒1100名)が同校で「真相発表¥大会」を開催し気勢をあげ、付近の民家で現場写真を撮影していた捜査員に対して殴る蹴るの暴¥行を加えたため、他の警察官が助けようとしたが、投石その他で拳銃2丁を奪うなど実力で抵抗した。このとき8名が検挙された。
・神奈川事件(1951年6月13日)
横浜市神奈川区にある青木小学校分校において、神奈川県朝鮮*人学校PTA連合運動会が開かれていたが、参加者の一人が警備をしていた警察官に対して暴¥力をふるったため、公務執行妨害で検挙しようとしたところ、これを妨害しようとして大乱闘となった。これにより、双方ともに数名の負傷者を出した。
運動会終了後、約500名の朝鮮*人が横浜市警察本部に殺到し、玄関前でスクラムを組んで気勢をあげた。そのため、横浜市警は約1000名の警察官を動員し、公安条例違反容疑で28名を検挙した。
・下里村役場事件(1951年10月22日)
兵庫県加西郡下里村(現在の兵庫県加西市)において、朝鮮*人約200名が、「生活保護」「強制送還反対」の陳情をするために下里村役場に押しかけ、村役場職員を吊るし上げ、椅子を振り上げる等の暴¥挙に出たので、暴¥行脅迫・恐喝容疑で15名を検挙した。
・福岡事件(1951年11月21日)
「強制追放反対」を叫ぶ朝鮮*人約1500名が、福岡市大浜新校地と西公園に分散して集合し、そのうち新校地の一隊が同市千代町へ向かってデモ行進したため、それを阻止しようとした警官隊と乱闘となり、16名が検挙された。その後、解散に見せかけて、新校地に再結集し集会を開いた。警官隊が解散を命じたが応じなかったので、再度乱闘となり5名を検挙した。
・東成警察署催涙ガス投擲事件(1951年12月1日)
1951年11月10日、泥酔中の朝鮮*人を警察が保護したが、容態が急変して同日夜に死亡した。乗っていた自転車が転倒して肝臓が破裂したことが原因であった。
ところが、朝鮮*人側は警察官の暴¥行により死亡したとデマを流し、約30名の朝鮮*人が東成警察署へ抗議に訪れ、署員の制止を聞かずに署内に乱入しようとしたので、これを阻止すると、催涙ガス瓶を投げ入れたり、投石してガラス窓を破壊したので、被疑者3名を検挙した。
・半田・一宮事件(1951年12月3日〜11日)
1951年12月3日、愛知県の半田税務署に密造酒取締の件で朝鮮*人が押しかけ、署長以下数名を監禁した。一方、一宮税務署管内でも密造酒取締に対して、約100名の朝鮮*人が捜査の妨害をした。
そのため、半田・一宮両市警及び国警愛知県本部は12月8日に一斉強制捜査を行い、容疑者27名を検挙した。
12月11日、これに抗議する朝鮮*人約150名が半田市役所に押しかけて、庁舎内に乱入して警備の警察官ともみ合いになった。また名古屋市港区役所にも約70名が押しかけ、区長が乗っている乗用車を取り囲み、バックミラーや方向指示器を破壊した。他にも一宮税務署、一宮市警、名古屋市役所及び千種、北、瑞穂、南の各区役所にも押しかけた。
・軍需品製造工場襲撃事件(1951年12月16日)
上記の東成警察署で死亡した朝鮮*人の追悼式に参加した朝鮮*人約110名は、3班に分かれて、大阪市内四ヶ所の親子爆弾製造工場(民団系)を襲撃し、製品や窓ガラスを破壊したり、従業員に暴¥行を加えたりした。
・日野事件(1951年12月18日)
朝鮮*人約50名が、自転車隊を編成し、白襷をかけ、「強制送還反対」のプラカードを掲げ、メガホンやスピーカーを所持し、強制送還反対を叫びつつ滋賀県内を無届デモ行進をした。警察は公安条例違反として再三中止を警告したが応じなかったので、滋賀県蒲生郡日野町において実力行使に出たが、石や薪などを持って抵抗したり、拳銃を奪い取るなどして反抗した。これにより、警察側に25名の重軽傷者を出したので、拳銃を発砲してこれを鎮圧した。35名が検挙された。
・木造地区警察署襲撃事件(1952年2月21日〜23日)
1952年2月21日に国家地方警察青森県本部所属の木造地区警察署で傷害容疑の朝鮮*人2名を逮捕したが、朝鮮*人数十¥人が検挙者の即時釈放を要求して連日署に押しかけた。
23日になると、約70名が署内に侵入しようし、警備の警察官と揉み合いになり、警察署の玄関のガラス戸が破壊された。
・姫路事件(1952年2月28日)
兵庫県姫路市において、民団広畑分団長ほか3名の民団員宅に旧朝連系約20名が覆面して押しかけ、器物を破壊して逃走した。また同時刻に姫路市内の交番4ヶ所に5〜30名の朝鮮*人が押しかけて、警察官を軟禁し、多数の威力を示して脅迫した事件である。捜査の結果21名を検挙し、竹槍等の凶器を押収した。
・八坂神社事件(1952年3月1日)
三・一事件記念の名目で集まった約70名の朝鮮*人デモ隊が、大阪市東成区の八坂神社境内に突入しようとしたため、大阪警視庁機動隊と大乱闘となり、朝鮮*人側に十¥数名の負傷者を出して解散した。一時間後、いったん解散させられたデモ隊40名は近くの朝鮮*人集落の広場でジグザクデモ行進を始めたので、東成署員約50名が現場に急行、解散させた。この事件で6名が検挙された。
・宇治事件(1952年3月13日)
1952年3月13日午前1時頃、宇治市警小倉派出所・伊勢田臨時派出所及び警察官宅3ヶ所に、それぞれ5名の朝鮮*人が押し入り、
表¥戸などの器物を破壊し、「殺すぞ」の暴¥言を吐いて逃走した。
そのため、宇治市警は国警京都府本部の応援を得て426名の特別検挙隊を編成し、
宇治市ウトロ地区(朝鮮*人集落)を捜索、小競り合いなどがあったが、6名を検挙した。
また伏見税務署も密造酒の捜索を行い、密造酒2升を押収した。
・多奈川町事件(1952年3月26日〜30日)
大阪府泉南郡多奈川町(現在の大阪府泉南郡岬町)において、密造酒取締の結果、9名を検挙し証拠物件をトラック10台に満載して引き上げようとしたところ、これを奪還するため約500名の朝鮮*人が押しかけ、投石その他によりトラックの進行を阻止して、9台分の押収物件を破棄し、被疑者を逃走させて運転手に暴¥行を加えた。その後の捜査の結果27名を検挙した。
・田川事件(1952年4月19日)
1952年4月13日、福岡県の七曲峠で花見をするために集まっていた日本人グループと朝鮮*人グループが喧嘩になり、双方に死傷者が出た。国家地方警察田川地区警察署は両グループを検挙した。
ところが19日になって、朝鮮*人の集団が田川地区警察署に押しかけ、犯人の即時釈放を要求した。警察は3名のアリバイを認め釈放したが、朝鮮*人たちは引き続き全員の釈放を要求し続けた。午後11時になり、警察が排除に乗り出したので、彼らはガラス戸に向かって投石をし始め、ガラス戸27枚が破損、警察官7名が負傷した。
21日に再度、田川地区警察署に押しかけて署長に面会を求め、署内に乱入しようとしたため、催涙弾を使用して鎮圧した。
・岡山事件(1952年4月24日〜5月30日)
阪神教育事件の記念日である4月24日に、朝鮮*人約200名が岡山市公安条例に違反する無届デモを敢行し、岡山市役所に突入しようとしたので、岡山市警が制止しようとしたところ、旗ザオに見せかけた竹槍で警察官2名を刺し、「プロムアセトン(催涙ガス)」入り瓶を投げつけたり投石したので乱闘になり8名を検挙した。
5月1日のメーデーでは、労組による合法デモに入り込んで警察官を追いかけたり、岡山新聞社の写真部員に投石したりした。
11日に岡山市警は傷害容疑で英賀朝鮮*人学校に乗り込んだが、校内の約300名の朝鮮*人の妨害を受けたため、公務執行妨害で8名を検挙した。その後、朝鮮*人約500名は飾磨警察署を包囲して気勢をあげた。
・血のメーデー事件(1952年5月1日)
第32回メーデー大会に参加したデモ隊の一部は、日比谷公園前において「人民広場(引用者注:皇居前広場のこと)に押しかけろ」を合図に同公園を通過し、警官隊の警戒線を突破して皇居前広場に殺到したため、警官隊と乱闘になった。乱闘中に、3000〜5000名の旧朝連系(在日朝鮮統一民主戦線・祖国防衛隊)を先頭とする数万のデモ隊がこれに合流したため、双方の乱闘が一段と激化し皇居前は一大修羅場と化した。この事件で2名が死亡し、日本人1078名、朝鮮*人131名が検挙された。
・上郡事件(1952年5月8日)
4月10日に左翼系朝鮮*人5名は、兵庫県赤穂郡船坂村(現在の兵庫県赤穂郡上郡町)で、別の朝鮮*人3名に対して日本の学校に入学させていたことを理由に「スパイ」と難癖を付け、巻き割りで殴打した。
その事件の容疑で5月8日に国警赤穂地区警察署は、朝鮮*人8名を検挙した。その後、容疑者は神戸地検姫路支所に護送されたが、その間朝鮮*人の一団が赤穂地区警察署に押しかけ、容疑者の奪還を図ろうと南へ約50m離れた小谷薬局前で警察と乱闘になったが、容疑者の身柄は無事護送された。
・大村収容所脱走企図事件(1952年5月12日〜25日、11月9日〜12日)
1952年5月12日、韓国に強制送還された朝鮮*人のうち、125名が手続不備で逆送還されて、大村収容所に再収容された。これに対し、民戦から数回にわたって抗議した後、5月25日になって50名が抗議に押しかけ、代表¥が当局と会談中、外部の者は盛んに収容者に対し、逃走をけしかけた。そこで約100名は混乱に乗じて逃走を企図し、12名が逮捕されてようやくおさまった。
その後、11月9日〜12日にわたって、また民戦活動家数十¥名が押しかけ代表¥が当局と交渉中、654名の収容者が一斉に脱出を企図したので、催涙弾と消防車でこれを阻止し、首謀者12名を検挙した。
・広島地裁事件(1952年5月13日)
駐在所と民家に放火した容疑で検挙した朝鮮*人4名の裁判が広島地方裁判所で開かれたが、傍聴していた朝鮮*人約200名が柵を乗り越えて法廷内を占拠、被告4名を奪還して逃走させた。
・高田派出所襲撃事件(1952年5月26日)
5月26日早朝、名古屋市瑞穂区にある民団愛知県本部顧問宅へ旧朝連系の朝鮮*人数十¥人が乱入した。そのため、顧問は瑞穂警察署高田派出所に助けを求めてきた。警察官が顧問を助けようとしたところ、追跡してきた一団は火炎瓶や石を投げつけて派出所を焼き討ちにした。そして、裏口から逃げようとした顧問を追いかけて暴¥行を加え、全治10日間のけがを負わせた。
他にも同時多発ゲリラとして、米軍基地・民団愛知県本部・中村県税事務所に火炎瓶を投げ込んだり、名古屋簡易裁判所判事宅に投石を行ったりした。最終的に朝鮮*人31名が検挙された。
・奈良警察官宅襲撃事件(1952年5月31日)
奈良市警警備課巡査部長宅に約10名の朝鮮*人が押しかけ、戸を開けた巡査部長の父に暴¥行を加え意識不明の重体にし、窓ガラスや障子を破壊して逃走した。
・万来町事件(1952年5月31日〜6月5日)
山口県宇部市では、生活保護の適用をめぐって朝鮮*人と対立していた。1952年5月31日以来、連日のように宇部市福祉事務所に押しかけていた。
6月3日には約400名が押しかけたので、宇部市警は全署員を非常招集し解散させたが、留守中の上宇部派出所が襲撃され、投石で窓ガラスが割られた。
6月5日になると、宇部市万来町(現在の宇部市新町9丁目)にある「朝鮮*人解放救援会山口県本部」が「民主愛国青年同盟」の結成式を催すことになり、県内各地から朝鮮*人たちが集まってきた。その中の中核自衛隊員70名が宇部興産窒素工場に乱入し、阻止しようとした守衛に暴¥行を加えた。その後、民団員宅を襲って傷害を与え、解放救援会山口県本部事務所に引き揚げた。警察は犯人を逮捕するために解放救援会事務所を包囲し解散を呼びかけたが、彼らは投石をしたり、棒を振って警官隊に突入を図ったため、遂にガス弾を投入して鎮圧した。
・島津三条工場事件(1952年6月10日)
1952年6月10日、朝鮮*人約50名が、京都市中京区にある島津三条工場に押しかけ、破防法反対のアジ演説を行ったので、工場側の要請を受けた警察官約15名が現場に急行、50代くらいの朝鮮*人1名を検挙、京都市警南部警邏隊のパトカーに収容した。
同パトカーが春日通三条にさしかかった際、付近にいた朝鮮*人約100名が前に立ちふさがり、車内に火炎瓶を投げ込み、乗っていた8名の警察官に重軽傷を負わせ、検挙者を逃走させた。
・醒ヶ井村事件(1952年6月13日)
警察は滋賀県坂田郡醒ヶ井村(現在の滋賀県坂田郡米原町)で、民団系朝鮮*人を暴¥行して全治2ヶ月の重傷を負わせた事件で容疑者7名を逮捕するために現地に向かったが、朝鮮*人は事前に察知してピケを張るなどして妨害したため大乱闘となり、公務執行妨害で40人、検挙予¥定の7名の内6名を逮捕した。
・葺合・長田事件(1952年6月24日)
6月24日に神戸市葺合区(現在の神戸市中央区)の東神小学校に約50名の朝鮮*人が集まり、竹槍を持って無届デモを行ったので、2名を公安条例違反で検挙した。これに対して9時半ごろ、葺合警察署に約100名の朝鮮*人児童が押しかけて投石したため、実力で排除したが、別の一団が乱入し乱闘となった。
一方、長田区では、朝鮮*人約150名が神楽職業安定所に向かったので警官隊が追跡したところ、投石したため、デモ隊を包囲して11名を検挙した。
・吹田・枚方事件(1952年6月24日〜25日)
6・25朝鮮戦争前夜祭として、待兼山に参集した民戦系学生等約1100名は、山中に竹槍を用意し、二隊に分かれて伊丹駐留軍宿舎を襲撃したが、警備体制に圧倒されて目標を変更し、一隊は吹田操車場に駐留軍貨車を物色したがこれも発見できなかったため、再び吹田駅に引き返す途中、警官隊と衝突し、拳銃2丁を奪い、さらに行進中交番2ヶ所および日本国粋党の笹川良一宅を火炎瓶・竹槍で襲撃した。そこへたまたま出会わした駐留軍司令官クラーク准将の自動車に火炎瓶を投げ込み、顔面に火傷を与えた。また吹田駅周辺においても、デモ隊が停車中の米原発大阪行の通勤電車に飛び乗ってそこから拳銃を発砲したり、火炎瓶・竹槍などをもって抵抗したために、警察側も応戦し、両方に多数の負傷者を出した。
一方、朝鮮*人を含む9人の遊撃隊は、枚方市の旧陸軍枚方工廠のポンプ室に侵入し、時限爆弾を仕掛けて爆破させた。これに呼応して、翌日朝、同市の小松正義(旧陸軍枚方工廠払い下げの取りまとめ役)宅に火炎瓶を投げ入れて放火しようとした。逃走途中に警官隊に発見され、激しく抵抗したため警官隊は発砲した。この事件での検挙者は113名であった。
・新宿駅事件(1952年6月25日)
国際平和デー閉会後、朝鮮*人約3000名が新宿駅東口に到着し、駅玄関や駅前派出所に向かって火炎瓶を投げ込んで、窓ガラスや電線等を焼失させた。そのため、警官隊約600名が催涙ガスを使ってデモ隊を押し返した。また、デモ隊の一部は新宿駅7番線ホームに入って、そこにいたオーストラリア兵4名を取り囲み、殴打・暴¥行を加えた。
・大須事件(1952年7月7日)
大須球場で、ソ¥連・中国を訪問帰国した帆足計・宮越喜助両代議士の歓迎報告会終了後、日本共産党系の名古屋大学生に煽動された旧朝連系を含む約1000人が無届デモを敢行した。岩井通りをデモ行進しながら、警官隊に硫酸瓶・火炎瓶を投げ、警察放送車、民間乗用車を燃やしたり、交番詰所に火炎瓶を投げ込んだ。そのため、遂に警官隊側が発砲する騒乱事件となった。夜になっても、騒乱の現場から少し離れた鶴舞公園で、駐留軍軍用車を焼いたり、名古屋東税務署に火炎瓶を投げ込んだ。その結果、デモ側は死亡1名、重軽傷者19名を出した。名古屋地方検察庁及び名古屋市警察はこの事件を重視し、261名(その内朝連系145名)を検挙した。
・舞鶴事件(1952年7月8日)
6月25日、朝鮮*人約180名が舞鶴飯野造船所に侵入しようとして、それを阻止しようとした所員に怪我を負わせた事件が発生した。
7月8日にその事件の容疑者が舞鶴から綾部に逃走しようとしているのを警察が察知し、先回りして逮捕しようとしたところ、竹槍等で抵抗したため警官が発砲するなど大乱闘となった。双方合わせて27名の重軽傷者を出し、12名を逮捕した。同日午後5時ごろ、朝鮮*人数十¥人が、棍棒、石、ノコギリを持ち「逮捕者を返せ」と舞鶴西署に押しかけ同署のガラス数十¥枚を破り、警官ともみあいになり、8名を逮捕した。
・五所川原税務署襲撃事件(1952年11月19日〜26日)
1952年11月19日、仙台国税局は青森県内の警察官の協力を得て、青森県北津軽郡板柳町周辺の朝鮮*人が経営する密造酒工場を摘発し、証拠物件を押収し、酒税法違反として45名を検挙した。そのとき、激しく妨害したので、朝鮮*人7名が公務執行妨害の現行犯で逮捕された。
これに対して朝鮮*人は反発し、板柳地区警察署と五所川原税務署に連日抗議活動を行い、26日には、約60名の朝鮮*人が五所川原税務署に押しかけて署内に乱入し、署内を占拠した。
真面目に言う。 朝鮮民族は人類に必要ない民族だ。
·대아니무라 사건(1945년 10월 22일)
아키타현 키타아키타군아인합정(현재의 아키타현 키타아키타군 아니마치)의 아니 광산에서 일하고 있던 조선*인 12명은, 1945년 10월 22일 오전 9 시경, 약 16킬로 산속의 동군 대아니마치(현재의 아키타현 키타아키타군 아니마치)의 취락에 가, 공동 관리의 쿠리바야시에 침입해 률을 줍고 있던 곳을 마을사람에게 발견되어 주의했는데 난투가 되어, 마을사람 3명이 중상을 입었다.
오후 1시가 되면 약 40명의 조선*인이 와 습 했으므로, 경찰과 경방단은 즉시 현장에 급행해 진압했다.
·이쿠타 경찰서 습격 사건(1945년 12월 24일, 1946년 1월 9일)
효고현 이쿠타 경찰서에서는, 오카야마시내에서 발생한 일곱 명조의 권총강도 범인을 쫓아 코베에 출장한 오카야마현 경찰부의 수사원에게 협력했다.
그 앞으로 1945년 12월 24일 오후 9시, 「오카야마의 형사를 내라!」라고 외치는 50명 이상의 조선*인의 집단이 서내에 난입하고, 권총·일본도·비수를 들이대어 서원을 연금 상태에 두어, 서내를 찾기 시작했다.오카야마현의 수사원들은 경찰서로부터의 탈출에 성공했지만, 폭도는 전화선을 절단 해, 외부의 연락을 끊게 했다.급을 (들)물은 진주군 헌병이 지프로 달려 들었기 때문에, 간신히 사태를 수습시킬 수 있었다.
또 다음 해 1월 9일, 이쿠타서가 산노미야 가이드하에서 도박단을 검거하면, 30~40명의 조선*사람들이 재차서내에 난입해, 검거자를 탈환하려고 했지만, 이쿠타서는 이 폭도를 제압해, 진주군 헌병과 협력해 주모자로 보여지는 3명을 검거했다.
·나오에쓰역 린치 살인 사건(1945년 12월 29일)
신에츠선쿠로이역에서 암거래미 브로커의 조선*인 3명이 열차의 유리창을 깨어 타려고 했는데, 어느A 일본인 승객에게 거절해져 타지 못하고, 데크 무디어져들 내려가 나오에쓰역까지 갔다.그들은 나오에쓰역에서 그 일본인 승객에 대해, 「승강구로부터 응할 수 없기 때문에, 어쩔 수 없이 유리를 부수어 타려고 했는데 왜 방해했다」라고 다가섰지만, 일본인 승객이 「창으로부터 탄다고 하는 방법은 없다」라고 반박 했으므로, 「조선*인으로 향해 건방지다!홈에 내려라!죽여준다!」라고 외치고, 그 승객을 홈에 끌어내고, 파이프나 삽으로 난타로 해 살해했다.
조선*인 3명은 그 후 체포되었지만, 전원 도주해 버려, 결국 흐지부지가운데 끝나 버렸다.
또한 여담이지만, 이런 종류의 철도내의 불법 행위를 방지하기 위해서, 급거 설치된 것이 「철도 공안관」제도이다.
【이러한 사례는 전국 각지에서 연발하고 있어, 채혼찬씨나 북두성씨의 증언이 다른 사이트에서 소개되고 있습니다.】
·도미사카 경찰서 습격 사건(1946년 1월 3일)
1945년말에 일어난 강도 사건의 용의자로서 조선*인 3명이 체포되어 그 중의 한 명이 경시청 도미사카 경찰서에 유치되고 있었다.1월 3일이 되어 조선*인의 집단이 서내에 난입하고, 용의자의 석방을 요구했지만, 서장이 계속 거부했기 때문에 , 조선*사람들이 의자나 곤봉으로 습 있어 걸리는 등 폭도화하고, 사실상 경찰서가 점거되었다.그리고 유치소에 유치되고 있던 용의자를 찾아 대고, 서외에 데리고 나가 도주시켰다.
·나가사키 경찰서 습격 사건(1946년 5월 13일)
1946년 5월 13일, 나가사키현 경찰부는 암거래 시장의 단속으로, 조선*인 26명·중국인 6명·일본인 150명을 나가사키현 나가사키 경찰서에 연행했다.조선*인·중국인 단체가 즉시 석방을 요구했지만, 들어줄 수 없었기 때문에, 재일 조선*인 연맹의 청년 자치 대원 100명과 그 외 중국인 등 총원 약 200명이 동 경찰서를 습격해 파괴 활동을 실시해, 10명에 중경상을 입게 했다(중 1명은 사망).수사의 결과, 60명의 조선*인과 7명의 중국인을 검거했다.
·토야마 역전 출장소 습격 사건(1946년 8월 5일)
1946년 8월 5일, 토야마현 경찰부는 토야마역에서 암거래미의 적발을 실시해, 암거래미 브로커의 조선*인 3명을 검거했지만, 그것을 보고 있던 자치 대원 2명이 방해해, 암거래미 브로커를 도주시켜 버렸다.거기서, 그 자치 대원을 공무 집행 방해로 체포했다.
이 소란으로 출장소 주변에 30명의 조선*인이 모여, 연락을 하려고 한 경찰관이 군집에 둘러싸져 그것을 구출하려고 한 다른 경찰관과의 사이에 대란투가 되었다.
마침내 토미야마 경찰서장은 토야마 군정부를 방문해 군정부의 협력을 얻는 것에 성공해, 토야마 역전에 있던 「자치대 출장소(인용자주:조련의 자치대의 「파출소」)」를 폐쇄시켜, 반대로 역전 출장소에는 무장 경찰관 10명을 상주시켜, 암거래미 수송을 저지했다.
·사카쵸 사건(1946년 9월 22일)
우에쓰선사카쵸역에 있고, 니가타현 무라카미 경찰서가 주식 단속을 실시했는데, 중국인 15명·조선*인 약 50명이 경찰관에 습 있어 걸려, 폭행을 더했다.경찰관은 상처를 입으면서도 조선*인 2명을 체포했다.
동일 오후, 사카쵸·금 가게 양주재소로부터 「암거래미를 운반하고 있다」라고 하는 보고가 있었으므로, 경찰서로부터 사복 경찰관 10명이 급행해 임검을 실시했다.그 때, 약 15명의 조선*인과 중국인이 습 있어 걸려, 때리고 차는 것 폭행을 더했다.한층 더 주재소에 침입해 기물 손괴등을 실시했기 때문에, 경방단, 인접 경찰서, 진주군으로부터의 응원에 의해, 이것을 진압해 12명을 검거했다.
·니이가타 일보사 습격 사건(1946년 9월 26일~29일)
1946년 9월 26일에, 조선*인 단체의 간부들이 니이가타 일보사를 방문해 사카쵸 사건을 보도한 요미우리 신문과 니가타 일보의 대표에 대해, 기사의 내용이 사실에 상위한 것으로, 기사의 취소와 사죄를 요구했다.요미우리 신문측은 불확실한 기사인 것을 인정 사죄했지만, 니가타 일보측은 사장의 부재를 이유로서 29일까지 대답을 유예했다.29일에 조선*인 단체 간부들은 재차 니이가타 일보사를 방문하고 대화가 기대었지만, 납득이 가는 회답을 얻을 수 없었던 것으로 화를 내고, 신문사 사원 3명에 경증을 주어 유리창, 의자등을 파괴했으므로 전원 검거했다.
·수상 관저 데모 사건(1946년 12월 20일)
미야기앞광장(현재의 궁성앞 광장)에 있고, 조선*인 약 2000명이 생활권 옹호 인민 대회를 개최해, 종료후 수상 관저에 데모 행진을 실시했다.이 때의 일대가 관저에 침입하려고 했으므로, 이것을 저지하려고 한 경관대와 충돌해 대란투가 되어, 경찰관의 권총 2정, 실탄이 빼앗겼다.이 때문에, 무장 경관 358명, 진주군 헌병 20명이 응원 출동하고, 권총을 발사하는 등 제압해, 주모자 15명을 검거해 신병은 진주군 헌병대에게 인도해졌다.그들은 군사재판에 첨부 되어 다음 해 3월 8일에 국외 추방 처분이 되었다.
·오바나자와 출장소 습격 사건(1947년 10월 20일)
1947년 10월 20일 오후 3시경, 미의 매 내 단속에 불만을 가지고 있던 조선*인 7명이, 야마가타현 타테오카 경찰서 관내의 오바나자와 출장소에 침입해, 경찰관이 부재인 것을 기화로서 출장소내의 기물을 파괴해, 「오바나자와 출장소」의 표찰을 제외해 일단 도주했다.
그 후, 경찰관이 돌아오고 이변을 눈치채, 본서에 연락했다.그 때, 조금 전의 조선*인 7명과 다른 조선*인 30명이 출장소에 밀어닥쳐 경찰관 3명에 중상을 입게 했다.경찰은 진주군 헌병의 협력도 얻고, 29명을 검거했다.
·한신 교육 사건(1948년 4월 23일~25일)
1948년 1월, 문부성은 각 도도부현 지사에 대해, 조선*인 학교에 학교 교육법을 적용하도록(듯이) 통지를 냈다.오사카부에서는 이에 따라, 조련의 간부나 조선*인 학교의 교장을 모아 서로 이야기하려고 했지만, 조선*인측 거기에 응하는 기색을 보이지 않았기 때문에, 3월 15일에 폐쇄 권고를 실시했다.그러나, 조선*인 학교 8교가 계속해 수업을 계속하고 있었으므로, 부 교육부는 4월 15 기한로 폐쇄한다고 엄명 했다.
1948년 4월 23일, 이것에 반대하는 데모대 약 7000명이 부청전의 오테마에 공원에 모이고 기세를 올렸다.조선*인 대표15명은 오사카부청내에서 부지사·학무 과장이라고 교섭하고 있었지만, 주장을 수용할 수 없었기 때문에, 조련계의 청년 행동대 등수 햐쿠나가 부청에 난입하고, 지사실이나 각층을 점거했다.오사카시 경찰국과 국가 지방 경찰 오사카부 본부는 3000명의 경관대를 동원하고, 조선*인을 청사로부터 강제 배제했다.
코베에서는, 다음 24일에 조선*인 학교 문제에 관한 협의회가 효고현청으로 열렸다.회의에는 효고현 지사 및 부지사, 코베시장, 코베시 경찰국장, 코베 지검 검사정 등 14명이 참가하고 있었다.거기에, 청년 행동대 수백명이 눈사태 붐비어, 지사나 시장에게 대해 스스로의 요구를 인정하게 했다.또, 시경찰국장이나 검사정에 대해서는, 검거자의 석방과 이번 행위를 처벌하지 않는 것등을 문서로 인정하게 해 해산했다.
그러나 그 밤, 진주군 코베 지구 사령관은, 협의회의 참가자를 코베 기지 사령부에 모으고, 코베 지구에 「비상사태 선언」을 포고해, 24일의 문서를 무효로 해, 데모 참가자를 일제 검거했다.검거자는 1800명에 및, 주모자는 군사재판에 첨부 되어 일부는 국외 추방이 되었다.
·평정 강변 사건(1948년 10월 11일~12일)
1948년 10월 11일과 12일의 양일, 미야기현 센다이시의 평정 강변 그라운드에 있고, 조련과 재일본조선 민주청년동맹(일본민주 청년동맹)의 주최로, 북한 정부 수립 축하회와 운동회가 개최되었지만, 이 때 GHQ에 의해 금지되고 있던 북한 국기를 게양했기 때문에, 센다이시 경찰과 진주군 헌병이 이것을 저지해, 진주군 헌병에 저항한 조선*인 1명이 배를 총격당해 부상, 합계 6명이 검거되었다.
·우베 사건(1948년 12월 9일)
우베시 민회관에 있어 조련계 약 200명이 참집해, 생활 옹호 인민 대회를 개최중, 준비중의 조련현 본부 위원장을 진주군 헌병 및 경찰대가 체포했지만, 대회 참가자는 집단적으로 동피의자를 탈환하려고 해 충돌해, 쌍방으로 다수의 부상자가 나오는 소란이 되어, 경찰측의 발포에 의해서 진압되었다.
·마스다 사건(1949년 1월 25일)
시마네현 미노군 마스다쵸(현재의 시마네현 마스다시)의 조선*인 취락에 있어 밀수입 물자가 은닉되고 있다라는 밀고에 근거해, 진주군 시마네 군정부 장교 2명과 경제 조사관 2명이 동행해 적발에 나섰지만, 거부되었기 때문에, 경찰관 10명이 응원해 위반 물자를 압수했지만, 약 100명의 조선*인에 탈환되었다.다음날, 피의자 9명을 검거했지만, 밤에 들어가 약 200명이 경찰서에 밀어닥쳐 피의자의 석방을 요구해, 서내에 침입하려고 했기 때문에, 경찰관과 난투가 되어 48명이 검거되었다.
·에다가와 사건(1949년 4월 6~13일)
도쿄도 코토구 에다가와쵸의 조선*인 취락에 있고, 형사 3명이 절도범인을 체포해, 연행하려고 했을 때, 범인이 도주했으므로 위협 발포를 했는데, 모여 온 조선*인 약 50명이 형사를 둘러싸, 폭행 구타해 빈사가 중상을 입게 한 권총 2정을 빼앗았다.
그 후의 교섭으로, 경찰은 폭교오쟈의 인도를 요구했지만, 조선*인측은 형사의 처분과 폭행 범인 인도 거부의 요구를 했기 때문에, 9일 이후 에다가와쵸를 봉쇄해, 13일에 일제 검거를 실시해 피의자 9명을 검거했다.
·타카다 드브로크 사건(1949년 4월 7일~11일)
니가타현 나카쿠비키군 아라이쵸(현재의 니가타현 아라이시)와 동군츄우 고우마치의 조선*인 취락에서는 대대적인 술의 밀조를을 실시하고 있어 경찰등의 관계 당국은 1949년 4월 7일 이른 아침에 일제 단속을 단행해, 증거품을 압수했다.
그 후, 이 적발에 항의하는 조선*인 약 200명은 니가타현 타카타시(현재의 니가타현 죠에츠시)의 타카다 시경찰서에 밀어닥쳐 경찰서 청사에 투석 하고 유리창을 깨었으므로, 4명을 검거했다.
다음 8일에는 타카다 세무서에 밀어닥쳐 서내에 침입하려고 하거나 투석을 했기 때문에, 1명을 불퇴거죄로 검거했다.
11일이 되면, 조선*인 약 500명은 타카다 시내를 데모 행진했다.경찰은 지금까지의 온건 노선을 전환해, 주모자 12명을 검거했다.
·홍고우손 사건(1949년 6월 2일~11일)
후쿠이현 오이군 홍고우손(현재의 후쿠이현 오이군 오이쵸)의 출장소 근무의 순경이 호구 조사를 하기 위해서, 조선*인 취락으로 향해 갔는데, 다수의 조선*인이 「우리를 차별 취급한다」라고 해 호구 조사를 방해해, 동순경에 폭행을 더했다.그 후 연일, 출장소나 경찰서에 약 200명이 밀어닥쳐 항의했다.
·시모노세키사건(1949년 8월 20일)
1949년 8월 20일 이른 아침, 야마구치현 시모노세키시내의 민단측 조선*인가가게를 조련측 조선*인 약 200명이 죽창·곤봉을 소지해 습격해, 민단원10몇사람에 상해를 주어 한층 더 가옥 19호를 차례차례로 파괴해 금품을 약탈했다.이 때문에 시내는 일시대혼란이 되었다.
시모노세키시경과 국가 지방 경찰 야마구치현 본부는 야마구치현하의 경찰관 약 1000명을 동원하고, 조선*인 약 200명을 소란죄로 검거했다.
·타이토 회관 사건(1950년 3월 20일)
1949년 9월 8일, 법무부는 조련에 대해 단체등규정령을 적용해 해산 명령을 내렸다.
도쿄도는 당법령에 근거해 조련의 타이토 회관을 일시 접수했지만, 「타이토 회관 방위 투쟁 위원회」를 자칭하는 구조련원에 의해서 탈환되어 한층 더 약 400명이 바리게이트를 구축 하고, 작은 돌이나 철조각이나 고추를 내던지는 등의 실력 항쟁하러 나왔기 때문에 경찰대와 난투가 되어, 구조련원 120명이 검거되었다.
·츠라지마쵸 사건(1950년 8월 15일)
오카야마현 아사쿠치군 츠라지마쵸(현재의 오카야마현 쿠라시키시)에서, 조선 해방 5주년을 축하해 약 700명의 조선*인이 모여, 집회를 강행했으므로, 제지하려고 한 경찰과 난투가 되어 8명을 검거했다.이 사건으로 경찰관 15명이 부상했다.
·제2 코베 사건(1950년 11월 20~27일)
11월 20일, 약 300명의 조선*인이 생활권 옹호 진정 때문에, 코베시의 나가타구 관공서에 밀어닥쳐 구장과 단체 교섭에 들어갔지만, 배제에 해당한 경관대와 몸싸움이 되어, 효고현 조선 청년단 체육협회 의회 의장을 체포했다.24일에는, 오사다 경찰서와 나가타구 관공서에 데모 행진해, 그 때의 충돌로 26명의 검거자가 나왔다.27일이 되면, 구조련계 약 900명은, 곤봉·흰색하치권의 모습으로 니시캄베 조선 학교에 집합해 불온한 형세를 나타내, 데모 행진으로 옮기려고 했으므로, 이것을 저지하려고 한 경관대와 충돌해, 데모대의 일부는 나가타구 관공서, 오사다 세무서에 쇄도해 유리창등을 파괴했다.코베시 경찰국은, 점령 목적 저해 행위 처벌령위반과 소란죄 용의로 188명을 검거했다.
【「제일 코베 사건」은 「한신 교육 사건」을 가리킨다】
·욧카이치 사건(1951년 1월 23일)
구조련욧카이치 지부를 접수하려고 했는데, 마침 있던 조선*인 약 20명이, 기물이나 유리의 파편을 내던지거나 재·고추에 의한 눈짓이김 공격을 하거나 농황산을 퍼부어 접수의 방해를 실시했다.그 때문에, 집행 담당관 7명이 전치 2~3주간의 중경상을 입었다.경찰이 출동해 공무 집행 방해 용의로 15명을 검거했다.
·왕자 사건(1951년 3월 7일)
1951년 2월 28일, 경시청은 점령 목적 저해 행위 처벌령위반 용의로서 도쿄도 키타구상10조에 있는 도쿄도립 조선*인중 고등학교(현재의 도쿄 조선 중고급 학교)를 수색해, 다수의 인쇄물을 압수했다.
3월 7일, 이것에 항의하는 약 1700명의 조선*인(집조선 학교 학생 1100명)이 동교에서 「진상 발표대회」를 개최해 기세를 주어 부근의 민가에서 현장 사진을 촬영하고 있던 수사원에 대해서 때리고 차는 것 폭행을 더했기 때문에, 다른 경찰관이 도우려고 했지만, 투석 그 외로 권총 2정을 빼앗는 등 실력으로 저항했다.이 때 8명이 검거되었다.
·카나가와 사건(1951년 6월 13일)
요코하마시 카나가와구에 있는 청목 초등학교 분교에 대하고, 카나가와현 조선*인 학교 PTA 연합 운동회가 열리고 있었지만, 참가자의 한 명이 경비를 하고 있던 경찰관에 대해서 폭력을 발휘했기 때문에, 공무 집행 방해로 검거하려고 했는데, 이것을 방해하려고 해 대란투가 되었다.이것에 의해, 양쪽 모두에 수명의 부상자를 냈다.
운동회 종료후, 약 500명의 조선*인이 요코하마시 경찰 본부에 쇄도해, 현관 앞에서 스크럼을 짜고 기세를 주었다.그 때문에, 요코하마시경은 약 1000명의 경찰관을 동원해, 공안 조례 위반 용의로 28명을 검거했다.
·시모사토 마을사무소 사건(1951년 10월 22일)
효고현 카사이군 시모사토마을(현재의 효고현 카사이시)에 있고, 조선*인 약 200명이, 「생활보호」 「강제송환 반대」의 진정을 하기 위해서 시모사토 마을사무소에 밀어닥쳐 마을사무소 직원을 매달고 올리고 의자를 치켜 드는 등의 폭거에 나왔으므로, 폭행 협박·공갈 용의로 15명을 검거했다.
·후쿠오카 사건(1951년 11월 21일)
「강제 추방 반대」를 외치는 조선*인 약 1500명이, 후쿠오카시 오하마 신학교 부지와 니시코우엔에 분산해 집합해, 그 중 신학교 부지의 일대가 동시 센다이쵸로 향해 데모 행진했기 때문에, 그것을 저지하려고 한 경관대와 난투가 되어, 16명이 검거되었다.그 후, 해산 으로 가장하고, 신학교 부지에 재결집해 집회를 열었다.경관대가 해산을 명했지만 응하지 않았기 때문에, 재차 난투가 되어 5명을 검거했다.
·히가시나리 경찰서 최루 가스 투척 사건(1951년 12월 1일)
1951년 11월 10일, 만취중의 조선*인을 경찰이 보호했지만, 용태가 급변해 같은 날 밤에 사망했다.타고 있던 자전거가 전도해 간장이 파열했던 것이 원인이었다.
그런데 , 조선*인측은 경찰관의 폭행에 의해 사망했다고 유언비어를 흘려, 약 30명의 조선*인이 히가시나리 경찰서에 항의에 방문해 서원의 제지를 (듣)묻지 않고 서내에 난입하려고 했으므로, 이것을 저지하면, 최루 가스병을 처넣거나 투석 해 유리창을 파괴했으므로, 피의자 3명을 검거했다.
·한다·이치노미야 사건(1951년 12월 3일~11일)
1951년 12월 3일, 아이치현의 반전 세무서에 밀조주 단속의 건으로 조선*인이 밀어닥쳐 서장 이하수명을 감금했다.한편, 이치노미야 세무서 관내에서도 밀조주 단속에 대해서, 약 100명의 조선*인이 수사의 방해를 했다.
그 때문에, 한다·이치노미야 양시경 및 국가 지방 경찰 아이치현 본부는 12월 8일에 일제 강제 수사를 실시해, 용의자 27명을 검거했다.
12월 11일, 이것에 항의하는 조선*인 약 150명이 한다시 관공서에 밀어닥치고, 청사내에 난입해 경비의 경찰관이라고도 서로 보 가 되었다.또 나고야시 미나토구 관공서에도 약 70명이 밀어닥치고 구장이 타고 있는 승용차를 둘러싸, 백미러나 방향 지시기를 파괴했다.그 밖에도 이치노미야 세무서, 이치노미야시경, 나고야시 관공서 및 치구사, 키타, 미즈호, 미나미의 각 구 관공서에도 밀어닥쳤다.
·군수품 제조 공장 습격 사건(1951년 12월 16일)
상기의 히가시나리 경찰서에서 사망한 조선*인의 추도식에 참가한 조선*인 약 110명은, 3반으로 나누어지고, 오사카시내4개소의 부모와 자식 폭탄 제조 공장(민단계)을 습격해, 제품이나 유리창을 파괴하거나 종업원에게 폭행을 더하거나 했다.
·히노 사건(1951년 12월 18일)
조선*인 약 50명이, 자전거대를 편성해, 백거를 걸쳐 「강제송환 반대」의 플래카드를 내걸어 메가폰이나 스피커를 소지해, 강제송환 반대를 외치면서 시가현내를 무계데모 행진을 했다.경찰은 공안 조례 위반으로서 재삼 중지를 경고했지만 응하지 않았기 때문에, 시가현 가모우군 히노쵸에 있고 실력 행사에 나왔지만, 돌이나 신등을 가져 저항하거나 권총을 강탈하는 등 반항했다.이것에 의해, 경찰 측에 25명의 중경상자를 냈으므로, 권총을 발포해 이것을 진압했다.35명이 검거되었다.
·목조 지구 경찰서 습격 사건(1952년 2월 21일~23일)
1952년 2월 21일에 국가 지방 경찰 아오모리현 본부 소속의 목조 지구 경찰서에서 상해 용의의 조선*인 2명을 체포했지만, 조선*인원수10명이 검거자의 즉시 석방을 요구해 연일서에 밀어닥쳤다.
23일이 되면, 약 70명이 서내에 침입할 것이고, 경비의 경찰관과 몸싸움이 되어, 경찰서의 현관의 유리문이 파괴되었다.
·히메지 사건(1952년 2월 28일)
효고현 히메지시에 있고, 민단 히로하타 분단장 외 3명의 민단원택에 구조련계 약 20명이 복면해 밀어닥쳐 기물을 파괴해 도주했다.또 동시각에 히메지시내의 파출소 4개소에 5~30명의 조선*인이 밀어닥치고, 경찰관을 연금 해, 다수의 위력을 나타내 협박한 사건이다.수사의 결과 21명을 검거해, 죽창등의 흉기를 압수했다.
·야사카 신사 사건(1952년 3월 1일)
3·한가지 일건기념의 명목으로 모인 약 70명의 조선*인 데모대가, 오사카시 히가시나리구의 야사카 신사 경내에 돌입하려고 했기 때문에, 오사카 경시청 기동대와 대란투가 되어, 조선*인 측에10수명의 부상자를 내 해산했다.1시간 후, 일단 해산 당한 데모대 40명은 가까이의 조선*인 취락의 광장에서 지그자크데모 행진을 시작했으므로, 히가시나리 서원 약 50명이 현장에 급행, 해산시켰다.이 사건으로 6명이 검거되었다.
·우지 사건(1952년 3월 13일)
1952년 3월 13일 오전 1 시경, 우지시경 오구라 출장소·이세논임시 출장소 및 경찰관택 3개소에, 각각 5명의 조선*인이 침입해,
표호등의 기물을 파괴해, 「죽일거야」의 폭언을 토해 도주했다.
그 때문에, 우지시경은 국가 지방 경찰 쿄토부 본부의 응원을 얻어 426명의 특별 검거대를 편성해,
우지시 우트로 지구(조선*인 취락)를 수색, 소규모 전투등이 있었지만, 6명을 검거했다.
또 후시미 세무서도 밀조주의 수색을 실시해, 밀조주 2승을 압수했다.
·다나가와마을 사건(1952년 3월 26일~30일)
오사카부 센낭군 다나가와마을(현재의 오사카부 센낭군 미사키쵸)에 있고, 밀조주 단속의 결과, 9명을 검거해 증거품을 트럭 10대에 가득해 끌어올리려고 했는데, 이것을 탈환하기 위해(때문에) 약 500명의 조선*인이 밀어닥쳐 투석 그 외에 의해 트럭의 진행을 저지하고, 9대 분의 압수 물건을 파기해, 피의자를 도주시켜 운전기사에 폭행을 더했다.그 후의 수사의 결과 27명을 검거했다.
·타가와 사건(1952년 4월 19일)
1952년 4월 13일, 후쿠오카현의 나나마가리토오게에서 꽃놀이를 하기 위해서 모여 있던 일본인 그룹과 조선*인 그룹이 싸움이 되어, 쌍방으로 사상자가 나왔다.국가 지방 경찰 타가와 지구 경찰서는 양그룹을 검거했다.
그런데 19일이 되고, 조선*인의 집단이 타가와 지구 경찰서에 밀어닥쳐 범인의 즉시 석방을 요구했다.경찰은 3명의 알리바이를 인정 석방했지만, 조선*사람들은 계속해 전원의 석방을 계속 요구했다.오후 11시가 되어, 경찰이 배제에 나섰으므로, 그들은 유리문으로 향하고 투석을 하기 시작해 유리문 27매가 파손, 경찰관 7명이 부상했다.
21일에 재차, 타가와 지구 경찰서에 밀어닥쳐 서장에게 면회를 요구해 서내에 난입하려고 했기 때문에, 최루탄을 사용해 진압했다.
·오카야마 사건(1952년 4월 24일~5월 30일)
한신 교육 사건의 기념일인 4월 24일에, 조선*인 약 200명이 오카야마시 공안 조례에 위반하는 무계데모를 감행 해, 오카야마시 관공서에 돌입하려고 했으므로, 오카야마시경이 제지하려고 했는데, 기 자오 로 가장한 죽창으로 경찰관 2명을 찔러, 「무도회 아세톤(최루 가스)」들이병을 내던지거나 투석 했으므로 난투가 되어 8명을 검거했다.
5월 1일의 메이데이로는, 노조에 의한 합법 데모에 비집고 들어가고 경찰관을 뒤쫓거나 오카야마 신문사의 사진 부원에게 투석 하거나 했다.
11일에 오카야마시경은 상해 용의로 아가 조선*인 학교에 탑승했지만, 교내의 약 300명의 조선*인의 방해를 받았기 때문에, 공무 집행 방해로 8명을 검거했다.그 후, 조선*인 약 500명은 식마경찰서를 포위하고 기세를 주었다.
·피의 메이데이 사건(1952년 5월 1일)
제32회 메이데이 대회에 참가한 데모대의 일부는, 히비야코우엔앞에 있어 「인민 광장(인용자주:궁성앞 광장)에 밀어닥쳐라」를 신호에 동공원을 통과해, 경관대의 경계선을 돌파해 궁성앞 광장에 쇄도했기 때문에, 경관대와 난투가 되었다.난투중에, 3000~5000명의 구조련계(재일 조선 통일 민주 전선·조국 방위대)를 선두로 하는 수만의 데모대가 이것에 합류했기 때문에, 쌍방의 난투가 한층 격화해 황궁앞은 일대 아수라장화했다.이 사건으로 2명이 사망해, 일본인 1078명, 조선*인 131명이 검거되었다.
·카미고리 사건(1952년 5월 8일)
4월 10일에 좌익계 조선*인 5명은, 효고현 아코우군 후나사카 마을(현재의 효고현 아코우군 카미고리쵸)에서, 다른 조선*인 3명에 대해서 일본의 학교에 입학시키고 있던 것을 이유에 「스파이」라고 트집을 붙여 권나누기로 구타했다.
그 사건의 용의로 5월 8일에 국가 지방 경찰 아카호 지구 경찰서는, 조선*인 8명을 검거했다.그 후, 용의자는 코베 지검 히메지 출장소에 호송되었지만, 그 사이 조선*인의 일단이 아카호 지구 경찰서에 밀어닥쳐 용의자의 탈환을 도모하려고 남쪽에 약 50 m 멀어진 코타니 약국전에 경찰과 난투가 되었지만, 용의자의 신병은 무사 호송되었다.
·오오무라 수용소 탈주 기도 사건(1952년 5월 12일~25일, 11월 9일~12일)
1952년 5월 12일, 한국에 강제송환 된 조선*인 가운데, 125명이 수속 불비하고 역송환되고, 오오무라 수용소에 재수용되었다.이것에 대해, 민전으로부터 몇차례에 걸쳐서 항의한 후, 5월 25일이 되어 50명이 항의에 밀어닥쳐 대표가 당국과 회담중, 외부의 사람은 활발히 수용자에 대해, 도주를 부추겼다.거기서 약 100명은 혼란을 타 도주를 기도 해, 12명이 체포되어 간신히 안정되었다.
그 후, 11월 9일~12일에 걸쳐서, 또 민전 활동가 수십명이 밀어닥쳐 대표가 당국과 교섭중, 654명의 수용자가 일제히 탈출을 기도 했으므로, 최루탄과 소방차로 이것을 저지해, 주모자 12명을 검거했다.
·히로시마 지방 법원 사건(1952년 5월 13일)
주재소와 민가에 방화한 용의로 검거한 조선*인 4명의 재판이 히로시마 지방재판소에서 열렸지만, 방청하고 있던 조선*인 약 200명이 책을 넘어 법정내를 점거, 피고 4명을 탈환해 도주시켰다.
·타카다 출장소 습격 사건(1952년 5월 26일)
5월 26일 이른 아침, 나고야시 미즈호구에 있는 민단 아이치현 본부 고문택에 구조련계의 조선*인원수10명이 난입했다.그 때문에, 고문은 미즈호 경찰서 타카다 출장소에 도움을 요구해 왔다.경찰관이 고문을 도우려고 했는데, 추적해 온 일단은 화염병이나 돌을 내던지고 출장소를 구워 토벌해로 했다.그리고, 뒷문으로부터 도망치려고 한 고문을 뒤쫓아 폭행을 더해 전치 10일간의 부상을 입게 했다.
그 밖에도 동시 다발 게릴라로서 미군 기지·민단 아이치현 본부·나카무라현세 사무소에 화염병을 던지거나 나고야 간이 재판소 판사택에 투석을 실시하거나 했다.최종적으로 조선*인 31명이 검거되었다.
·나라 경찰관택습격 사건(1952년 5월 31일)
나라시경 경비과 순사 부장택에 약 10명의 조선*인이 밀어닥치고 문을 연 순사 부장의 아버지에게 폭행을 더해 의식 불명의 중태로 해, 유리창이나 미닫이를 파괴해 도주했다.
·만 와 마을 사건(1952년 5월 31일~6월 5일)
야마구치현 우베시에서는, 생활보호의 적용을 둘러싸고 조선*인과 대립하고 있었다.1952년 5월 31일 이래, 연일과 같이 우베시 복지 사무소에 밀어닥치고 있었다.
6월 3일에는 약 400명이 밀어닥쳤으므로, 우베시경은 전서원을 비상 소집해 해산시켰지만, 부재중의 카미우베 출장소가 습격되어 투석으로 유리창이 깨어졌다.
6월 5일이 되면, 우베시만 와 마을(현재의 우베시 신마치 9가)에 있는 「조선*인 해방 구원회 야마구치현 본부」가 「민주 애국 청년 동맹」의 결성식을 개최하게 되어, 현내 각지로부터 조선*사람들이 모여 왔다.그 중의 핵심 자위대원 70명이 우베 흥산 질소 공장에 난입해, 저지하려고 한 수위에 폭행을 더했다.그 후, 민단원택을 덮치고 상해를 주어 해방 구원회 야마구치현 본부 사무소에 돌아왔다.경찰은 범인을 체포하기 위해서 해방 구원회 사무소를 포위해 해산을 호소했지만, 그들은 투석을 하거나 봉을 털어 경관대에게 돌입을 도모했기 때문에, 결국 가스탄을 투입해 진압했다.
·시마즈 3죠 공장 사건(1952년 6월 10일)
1952년 6월 10일, 조선*인 약 50명이, 쿄토시 나카교구에 있는 시마즈 3죠 공장에 밀어닥쳐 파괴활동방지법 반대의 전갱이 연설을 실시했으므로, 공장측의 요청을 받은 경찰관 약 15명이 현장에 급행, 50대만한 조선*인 1명을 검거, 쿄토시경 남부경나대의 경찰차에 수용했다.
동경찰차가 카스가도리 3죠에 접어들었을 때, 부근에 있던 조선*인 약 100명이 전에 가로막고 서, 차내에 화염병을 던져 , 타고 있던 8명의 경찰관에 중경상을 입게 해 검거자를 도주시켰다.
·성이무라 사건(1952년 6월 13일)
경찰은 시가현 사카타군성이무라(현재의 시가현 사카타군 마이하라쵸)에서, 민단계 조선*인을 폭행 해 전치 2개월이 중상을 입게 한 사건으로 용의자 7명을 체포하기 위해서 현지로 향했지만, 조선*인은 사전에 찰지하고 피케를 치는 등 방해했기 때문에 대란투가 되어, 공무 집행 방해로 40명, 검거예정의 7명중 6명을 체포했다.
·후키아이·나가타 사건(1952년 6월 24일)
6월 24일에 코베시 후키아이구(현재의 코베시 츄우오구)의 토오신 초등학교에 약 50명의 조선*인이 모여, 죽창을 가져 무계데모를 실시했으므로, 2명을 공안 조례 위반으로 검거했다.이것에 대해서 9시 반경, 후키아이 경찰서에 약 100명의 조선*인 아동이 밀어닥쳐 투석 했기 때문에, 실력으로 배제했지만, 다른 일단이 난입해 난투가 되었다.
한편, 나가타구에서는, 조선*인 약 150명이 카라키 공공 직업 안정소로 향했으므로 경관대가 추적했는데, 투석 했기 때문에, 데모대를 포위해 11명을 검거했다.
·후키다·히라카타 사건(1952년 6월 24일~25일)
6·25 한국 전쟁 전야제로서 대카네야마에 참집한 민전계 학생등 약 1100명은, 산중에 죽창을 준비해, 2대로 나누어져 이타미 주류군 숙소를 습격했지만, 경비 체제에 압도 되어 목표를 변경해, 일대는 스이타 정차장에 주류군 화차를 물색했지만 이것도 발견할 수 없었기 때문에, 다시 후키다역에 되돌리는 도중 , 경관대와 충돌해, 권총 2정을 빼앗아, 한층 더 행진중 파출소 2개소 및 일본수당의 사사가와 료이치택을 화염병·죽창으로 습격했다.거기에 우연히 출 만나게 한 주류군 사령관 클럭 준장의 자동차에 화염병을 던져 , 안면에 화상을 주었다.또 후키다역 주변에 있어도, 데모대가 정차중의 미원발오사카행의 통근 전철에 뛰어 올라타 거기로부터 권총을 발포하거나 화염병·죽창등을 가지고 저항했기 때문에, 경찰측도 응전해, 양쪽 모두에 다수의 부상자를 냈다.
한편, 조선*인을 포함한 9명의 유격대는, 히라카타시의 구육군 히라카타 공창의 펌프실에 침입해, 시한폭탄을 장치해 폭파시켰다.이것에 호응 하고, 다음날 아침, 동시의 코마츠 마사요시( 구육군 히라카타 공창 불하 의 종합정리역) 택에 화염병을 처넣어 방화하려고 했다.도주 도중에 경관대에게 발견되어 격렬하게 저항했기 때문에 경관대는 발포해?`스.이 사건으로의 검거자는 113명이었다.
·신쥬쿠역 사건(1952년 6월 25일)
국제 평화 데이 폐회 후, 조선*인 약 3000명이 신쥬쿠역 동쪽 출입구로 도착해, 역 현관이나 역전 출장소로 향해 화염병을 던지고 , 유리창이나 전선등을 소실시켰다.그 때문에, 경관대 약 600명이 최루 가스를 사용하고 데모대를 되물리쳤다.또, 데모대의 일부는 신쥬쿠역 7 번선 홈에 들어가고, 거기에 있던 오스트레일리아병 4명을 둘러싸, 구타·폭행을 더했다.
·오스 사건(1952년 7월 7일)
오스 구장에서, 소련·중국을 방문 귀국한 호아시 게이·미야코시 키스케 양국회의원의 환영 보고회 종료후, 일본 공산당계의 나고야 대학생에 선동 된 구조련계를 포함한 약 1000명이 무계데모를 감행 했다.이와이 거리를 데모 행진하면서, 경관대에게 황산병·화염병을 던져 경찰 방송차, 민간 승용차를 태우거나 파출소힐소에 화염병을 던졌다.그 때문에, 결국 경관대측이 발포하는 소란 사건이 되었다.밤이 되어도, 소란의 현장으로부터 조금 멀어진 츠루마이 공원에서, 주류군 군용차를 굽거나 나고야동 세무서에 화염병을 던졌다.그 결과, 데모측은 사망 1명, 중경상자 19명을 보냈다.나고야 지방 검찰청 및 나고야시 경찰은 이 사건을 중시해, 261명(그 내조련계 145명)을 검거했다.
·마이즈루 사건(1952년 7월 8일)
6월 25일, 조선*인 약 180명이 마이즈루 이노 조선소에 침입하려고 하고, 그것을 저지하려고 한 소원에게 상처를 입게 한 사건이 발생했다.
7월 8일에 그 사건의 용의자가 마이즈루로부터 아야베로 도주하려고 하고 있는 것을 경찰이 찰지해, 앞지름 해 체포하려고 했는데, 죽창등으로 저항했기 때문에 경관이 발포하는 등 대란투가 되었다.쌍방 합해 27명의 중경상자를 내, 12명을 체포했다.동일 오후 5시경, 조선*인원수10명이, 곤봉, 돌, 톱을 가져 「체포자를 돌려줄 수 있다」라고 마이즈루서서에 밀어닥쳐 동 경찰서의 유리 수십매를 찢어, 경관과도 봐 사랑이 되어, 8명을 체포했다.
·고쇼가와라 세무서 습격 사건(1952년 11월 19일~26일)
1952년 11월 19일, 센다이 국세국은 아오모리현내의 경찰관의 협력을 얻고, 아오모리현 키타츠가루군 이타야나기마치 주변의 조선*인이 경영하는 밀조주 공장을 적발해, 증거품을 압수해, 주세법 위반으로서 45명을 검거했다.그 때, 격렬하게 방해했으므로, 조선*인 7명이 공무 집행 방해의 현행범으로 체포되었다.
이것에 대해서 조선*인은 반발해, 아타야나기 지구 경찰서와 고쇼가와라 세무서에 연일 항의 활동을 실시해, 26일에는, 약 60명의 조선*인이 고쇼가와라 세무서에 밀어닥쳐 서내에 난입해, 서내를 점거했다.
성실하게 말한다. 조선 민족은 인류에게 필요없는 민족이다.