http://www.youtube.com/watch?v=WJl-fIynJWE
お腹を空かせた者がいたら、パンを与える。
けれどそれでは一時しのぎにしかならない。
なので、お腹を空かせた者がいたら、パンを得る方法を諭すのがより良いことだ、そんな話を聞いたことがある方も多いのではないかと思います。
だけど日本には、それ以外の第三の道がある、というお話しです。
昭和20年8月の終戦後、日本は未曾有の食料危機となりました。
物価も高騰しました。
食料の配給制度は人々の生活を賄うに足りず、不衛生で暴力が支配する闇市があちこちに立ち並びました。
それまで、東亜の平和を願い皇国不滅を信じていた人々は、価値観を根底から否定され、いかに生きるべきか、どう生きるべきかという規範さえも失い、呆然とし頽廃と恐怖と飢えが人々を支配してた。
その日本人が、ある事件をきっかけに、国土復旧のために元気になって立ち上がった。
そのきっかけとなったのが、昭和天皇の全国行幸だったといわれています。
そこで昭和24年5月に、陛下の佐賀県行幸のときのお話しを、書いてみたいと思います。
感動です。
昭和天皇の行幸は、昭和21年から、神奈川県を皮切りに昭和29年の北海道まで、足かけ8年半にかけて行われました。
全行程は3万3000km、総日数は165日です。
実はこれはたいへんなことです。
そもそも陛下の日常は、我々平民と違って、休日がありません。
一年365日、常に式典や祭事、他国の元首その他の訪問、政府決定の承認等があり、その数なんと年間約2000件を超えるご公務です。
そうしたお忙しい日々を割いて、全国行幸をされました。
この巡幸を始めるにあたり、陛下はその意義について次のように述べられています。
~~~~~~~~~
この戦争によって祖先からの領土を失い、国民の多くの生命を失い、たいへんな災厄を受けました。
この際、わたしとしては、どうすればいいのかと考え、また退位も考えた。
しかし、よくよく考えた末、この際は、全国を隈なく歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ちあがらせる為の勇気を与えることが自分の責任と思う。
~~~~~~~~~
当時、焼け野原になった日本で、人々はそれまでの悠久の大義という価値観さえも失い、正義が悪に、悪が正義とされる世の中を迎えていました。
しかも、たいへんな食料不足です。
物価も高騰する。
お腹を空かせた家族のために、闇市に買い出しに行けば、そこは暴力が支配するドヤ街です。
嫁入り道具の着物を持って、ようやく物々交換で米を手に入れると、それを根こそぎ暴力で奪われる。
いわば無政府状態ともいえるたいへんな状況だったのです。
そういう状況から国内が一日も早く脱皮し、日本人が普通に生活できるようにしなくてはならない。
そんなとき、陛下が選択されたのが、全国行幸だったのです。
未曽有の戦災を被った日本を不法な闇市を通さなくても十分に食料が分配できるようにするためには何が必要か。
いまの世の中なら、すぐに財政出動だ、何々手当の支給だ等という話になるのでしょうが、あの時代に陛下が選択されたのは、全国民の真心を喚起するということだったのです。
国民一人一人が、炭鉱で、農村で、役場で、学校で、会社で、あるいは工場で真心をもって生産に勤しむ。
ひとりひとりの国民が復興のために、未来の建設のために立ち上がること。
そのために陛下は、「全国を隈なく歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ちあがらせる為の勇気を与え」ようと、全国を回られたのです。
ところが、共産主義に感化された一部の人々は、そうした陛下を亡き者にしようとか、あるいは陛下を吊るし上げようと、各地で待ち受けていた。
そんな中で、実際の陛下の行幸で何があったのかを、佐賀のケースで見てみようと思うのです。
陛下が佐賀県に行幸されたのは、昭和24年5月24日のことです。
この日、陛下は、たってのご希望で、佐賀県三養基郡にある因通寺というお寺に行幸されています。
因通寺は、戦時中に亡くなられた第十五世住職の恒願院和上が、皇后陛下の詠まれた歌を大きな幟(のぼり)にして、それを百万人の女性たちの手で、歌を刺繍して天皇陛下と皇后陛下の御許に奉じ奉ろうとされていたのです。
その歌というのが、昭和13年に皇后陛下が戦死者に対して詠まれた次の二首です。
やすらかに
眠れとぞ思う きみのため
いのち捧げし ますらをのとも
なぐさめん
ことのはもがな たたかいの
にはを偲びて すぐすやからを
というもので、陛下もこのことにいたく喜ばれ、皇后陛下はすぐに針をおとりになって、御みずからこの大幟に一針を刺繍してくださったという経緯があります。
また終戦後は、因通寺は、寺の敷地内に「洗心寮」という施設を作り、そこで戦争で羅災した児童約40名を養っていたのです。
陛下が寺におこしになるという当日、寺に至る県道から町道には、多くの人が集まっていました。
道路の傍らはもちろんのこと、麦畑の中にも、集まった方がたくさんいたそうです。
その町道の一角には、ある左翼系の男が、麦畑を作っていたそうです。
この男は、行幸の一週間くらい前までは、自分の麦畑に入る奴がいたら竹竿で追っ払ってやる、などと豪語して
いたのですが、当日、次々と集まってくる人達の真剣なまなざしや、感動に満ちあふれた眼差しをみているうちに、すっかり心が変わってしまい、自ら麦畑を解
放して「ここで休んでください、ここで腰を下ろしてください」などと集まった方々に声をかけていたといいます。
朝、8時15分頃、県道から町道の分かれ道のところに、御料車が到着しました。
群衆の人達からは、自然と「天皇陛下万歳」の声があがります。
誰が音頭をとったというものではありません。
群衆の自然の発露として、この声があがった。
御料車が停車すると、群衆の万歳の声が、ピタリとやみます。
一瞬、静まり返ったところに、車から、まず入江侍従さんが降り立つ。
そのあとから、陛下が車から降りられると、入江侍従さんが、陛下に深く頭を下げられる。
その瞬間、再び群衆の間から、「天皇陛下万歳」の声があがります。
陛下は、その群衆に向かって、御自らも帽子をとってお応えになられる。
その姿に、群衆の感動はいっそう深まったといいます。
ここに集まった人達は、生まれてこのかた、お写真でしか陛下のお姿を拝見したことがない。
その陛下が、いま、目の前におわすのです。
言い表すことのできないほどの感動が、群衆を包み込んだ。
お車を停められたところから、因通寺の門まで、約700メートルです。
その700メートルの道路の脇には、よくもこんなにもと思うくらい、たくさんの人が集まっていた。
そのたくさんの人達をかきわけるようにして、陛下は一歩一歩お進みになられたそうです。
町役場のほうは、担当の役席者が反日主義者(当時、まともな人は公職追放となり、共産主義者が役席ポストに座っていた)で、まさかこんなにも多くの人が出るとはおもってもみなかったらしく、道路わきのロープとかもありません。
陛下は、ひとごみのまっただ中を、そのまま群衆とふれあう距離で歩かれたのです。
そして沿道の人達は、いっそう大きな声で「天皇陛下万歳」を繰り返す。
その声は、まるで大地そのものが感動に震えているかのような感じだったと言います。
陛下が寺の山門に到着します。
山門の前は、だらだらした上り坂になっていて、その坂を上り詰めると、23段の階段がある。
その階段を登りきられたとき、陛下はそこで足を停め、「ホーッ」と感嘆の声をあげられたそうです。
そうです。
石段を登りきった目の前に、新緑に彩られた因通寺の洗心の山々がグッと迫っていたのです。
陛下は、その自然の織りなす姿に、感嘆の声をあげられた。
陛下が、その場で足をお留めになられている時間があまりに長いので、入江侍従さんが、陛下に歩み寄られ、何らかの言葉を申し上げると、陛下はうなずかれて、本堂の仏陀に向かって恭しく礼拝をされます。
そして孤児たちがいる洗心寮に向かって歩かれます。
寮の二階の図書室で、机を用意して、そこで佐賀県知事が陛下にお迎えの言葉を申し上げるという手はずになっていたのです。
図書室で、所定の場所に着かれた陛下に、当時佐賀県知事だった沖森源一氏が、恭しく最敬礼をし、陛下にお迎えの言葉を述べます。
「本日ここに、90万県民が久しくお待ち申し上げておりました天皇陛下を目の当たりに・・・・」
そこまで言上申し上げていた沖森知事は、言葉が途切れてしまいます。
知事だって日本人です。
明治に生まれ、大正から昭和初期という日本の苦難の時代を生き、その生きることの中心に陛下がおわし、自分の存在も陛下の存在と受け止めていた知事は、陛下のお姿を前に、もろもろの思いが胸一杯に広がって、嗚咽とともに、言葉を詰まらせてしまったのです。
するとそのとき、入江侍従さんが、知事の後ろにそっと近づかれ、知事の背中を静かに撫でながら、「落ち着いて、落ち着いて」と申された。
すると、不思議なことに知事の心が休まり、あとの言葉がスムーズに言えるようになったのだそうです。
この知事のお迎えの挨拶のあと、お寺の住職が、寺にある戦争羅災孤児救護所のことについてご説明申し上げることになっていました。
自分の前にご挨拶に立った知事が、目の前で言葉を詰まらせたのです。
自分は、あんなことがあってはいけない、そう強く自分に言い聞かせると、住職は奏上文を書いた奉書を持って、陛下の前に進み出ます。
そして書いてある奏上文を読み上げた。
「本日ここに、一天万乗の大君をこの山深き古寺にお迎え申し上げ、感激これにすぎたるものはありません」
住職は、ここまで一気に奏上文を読み上げた。
ところが、ここまで読み上げたところで、住職の胸にもググっと熱いものが突き上げます。
引き揚げ孤児を迎えに行ったときのこと、戦争で亡くなった小学校、中学校、高校、大学の級友たちの面影、
「天皇陛下万歳」と唱えて死んで行った戦友たちの姿と、一緒に過ごした日々、そうしたありとあらゆることが一瞬走馬灯のように頭の中に充満し、目の前にお
わず陛下のお姿が霞んで見えなくなり、陛下の代わりに戦時中のありとあらゆることが目の前に浮かんで、奏上申し上げる文さえも奏書から消えてなくなったか
のようになってしまったのだそうです。
意識は、懸命に文字を探そうとしている。
けれどその文字はまったく見えず、発する言葉も声もなくなってしまった。
ただただ、目から涙がこぼれてとまらない。
どう自分をコントロールしようとしても、それがまったく不可能な状態になってしまわれたのです。
そのとき、誰かの手が、自分の背中に触れるのを感じた。
入江侍従さんが、「落ち着いて、落ち着いて」と背中に触れていてくれたのです。
このとき、住職は、前に挨拶に立った知事の姿を見て、自分はあんなことは絶対にない、と思っていたのに、知事さんと同じ状態になってしまったと述べています。
こうしたことは、外国の大使の方々も同様のことがあるのだそうです。
外国の大使の方々は、日本に駐在していていよいよ日本を離れるというときに、おいとまごいのために陛下のところにご挨拶に来る習わしになっています。
駐日大使というと、長い方で6~7年、短い方でも2~3年の滞在なのですが、帰国前に陛下にお目にかかって
お別れのご挨拶をするとき、ほとんどの駐日大使が「日本を去るに忍びない、日本には陛下がおいでになり、陛下とお別れをすることがとても悲しいともうされ
るのだそうです。
この言葉が儀礼的なものではないことは、その場の空気ではっきりとわかるのだそうです。
そして陛下とお話しをされながら、駐日大使のほとんどの方が、目に涙を浮かべられ、言葉を詰まらせる。
特に大使夫人の方々などは、頬に伝わる涙を拭くこともせず、泣きながら陛下においとまごいをされるといいます。
こうしたことは、その大使が王国であろうと、共和国であろうと、共産圏の方であろうと、みな同じなのだそうです。
むしろ共産圏の国々の方々のほうが、より深い惜別の情を示される。
さて、ようやく気を取り直した住職は、自らも戦地におもむいた経験から、天皇皇后両陛下の御心に報いんと、羅災孤児たちの収容を行うことになった経緯を奏上します。
この奏上が終わると、何を思われたか、陛下が壇上から床に降り立ち、つかつかと住職のもとにお近寄りになられた。
「親を失った子供達は大変可哀想である。人の心のやさしさが子供達を救うことができると思う。預かっているたくさんの仏の子供達が、立派な人になるよう、心から希望します」と住職に申された。
住職はそのお言葉を聞き、身動きさえもままならなかったといいます。
この挨拶のあと、陛下は、孤児たちのいる寮に向かわれます。
孤児たちには、あらかじめ陛下がお越しになったら、部屋できちんと挨拶するように申し向けてありました。
ところが、一部屋ごとに足を停められる陛下に、子供達は誰一人、ちゃんと挨拶しようとしない。
昨日まで、あれほど厳しく挨拶の仕方を教えておいたのに、みな、呆然と黙って立っている。
すると陛下が子供達に御会釈をなさるのです。
頭をぐっとおさげになり、腰をかがめて挨拶され、満面に笑みをたたえていらっしゃる。
それはまるで、陛下が子供達を御自らお慰めされているように見受けられたそうです。
そして陛下は、ひとりひとりの子供に、お言葉をかけられる。
「どこから?」
「満州から帰りました」
「北朝鮮から帰りました。
すると陛下は、この子供らに
「ああ、そう」とにこやかにお応えになる。
そして、
「おいくつ?」
「七つです」
「五つです」と子供達が答える。
すると陛下は、子供達ひとりひとりにまるで我が子に語りかけるようにお顔をお近づけになり、
「立派にね、元気にね」とおっしゃる。
陛下のお言葉は短いのだけれど、その短いお言葉の中に、深い御心が込められています。
この「立派にね、元気にね」の言葉には、「おまえたちは、遠く満州や北朝鮮、フィリピンなどからこの日本に
帰ってきたが、お父さん、お母さんがいないことは、さぞかし淋しかろう。悲しかろう。けれど今、こうして寮で立派に日本人として育ててもらっていること
は、たいへん良かったことであるし、私も嬉しい。これからは、今までの辛かったことや悲しかったことを忘れずに、立派な日本人になっておくれ。元気で大き
くなってくれることを私は心から願っているよ」というお心が込められているのです。
そしてそのお心が、短い言葉で、ぜんぶ子供達の胸にはいって行く。
陛下が次の部屋にお移りになると、子供達の口から「さようなら、さようなら」とごく自然に声がでるのです。
すると子供達の声を聞いた陛下が、次の部屋の前から、いまさようならと発した子供のいる部屋までお戻りになられ、その子に「さようならね、さようならね」と親しさをいっぱいにたたえたお顔でご挨拶なされるのです。
次の部屋には、病気で休んでいる二人の子供がいて、主治医の鹿毛医師が付き添っています。
その姿をご覧になった陛下は、病の子らにねんごろなお言葉をかけられるとともに、鹿毛医師に
「大切に病を治すように希望します」と申された。
鹿毛医師は、そのお言葉に、涙が止まらないまま、
「誠心誠意万全を尽くします」と答えたのですが、そのときの鹿毛医師の顔は、まるで青年のように頬を紅潮させたものでした。
こうして各お部屋を回られた陛下は、一番最後に禅定の間までお越しになられます。
この部屋の前で足を停められた陛下は、突然、直立不動の姿勢をとられ、そのまま身じろぎもせずに、ある一点を見つめられます。
それまでは、どのお部屋でも満面に笑みをたたえて、おやさしい言葉で子供達に話しかけられていた陛下が、この禅定の間では、うってかわって、きびしいお顔をなされた。
入江侍従長も、田島宮内庁長官も、沖森知事も、県警本部長も、何事があったのかと顔を見合わせます。
重苦しい時間が流れる。
ややしばらくして、陛下がこの部屋でお待ち申していた三人の女の子の真ん中の子に、近づかれました。
そしてやさしいというより、静かなお声で、
「お父さん。お母さん」とお尋ねになったのです。
一瞬、侍従長も、宮内庁長官も、何事があったのかわからない。
陛下の目は、一点を見つめています。
そこには、三人の女の子の真ん中のこの手には、二つの位牌が胸に抱きしめられていたのです。
陛下は、その二つの位牌が「お父さん?お母さん?」とお尋ねになったのです。
女の子が答えます。
「はい。これは父と母の位牌です」
これを聞かれた陛下は、はっきりと大きくうなずかれ、
「どこで?」とお尋ねになります。
「はい。父は、ソ満国境で名誉の戦死をしました。母は引揚途中で病のために亡くなりました」
この子は、よどむことなく答えました。
すると陛下は
「おひとりで?」とお尋ねになる。
父母と別れ、ひとりで満州から帰ったのかという意味でしょう。
「いいえ、奉天からコロ島までは日本のおじさん、おばさんと一緒でした。船に乗ったら船のおじさんたちが新設にしてくださいました。佐世保の引揚援護局には、ここの先生が迎えにきてくださいました」
この子が、そう答えている間、陛下はじっとこの子をご覧になりながら、何度もお頷かれました。
そしてこの子の言葉が終わると、陛下は
「お淋しい」と、それは悲しそうなお顔でお言葉をかけらた。
しかし陛下がそうお言葉をかけられたとき、この子は
「いいえ、淋しいことはありません。私は仏の子です。仏の子は、亡くなったお父さんとも、お母さんとも、お
浄土に行ったら、きっとまたあうことができるのです。お父さんに会いたいと思うとき、お母さんに会いたいと思うとき、私は御仏さまの前に座ります。そして
そっとお父さんの名前を呼びます。そっとお母さんの名前を呼びます。するとお父さんもお母さんも、私のそばにやってきて、私を抱いてくれます。だから、私
は淋しいことはありません。私は仏の子供です」
こう申し上げたとき、陛下はじっとこの子をご覧になっておいででした。
この子も、じっと陛下を見上げています。
陛下とこの子の間に、何か特別な時間が流れたような感じがしたそうです。
そして陛下が、この子のいる部屋に足を踏み入れられます。
部屋に入られた陛下は、右の御手に持たれていたお帽子を、左手に持ちかえられ、右手でこの子の頭をそっとお撫でになられました。
そして陛下は、
「仏の子はお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」と申された。
そのとき、陛下のお目から、ハタハタと数的の涙が、お眼鏡を通して畳の上に落ちた。
そのとき、この女の子が、小さな声で「お父さん」と呼んだそうです。
これを聞いた陛下は、深くおうなずきになられた。
その様子を眺めていた周囲の者は、皆、泣いたそうです。
東京から随行してきていた新聞記者も、肩をふるわせて泣いていた。
子供達の寮を後にされた陛下は、お寺の山門から、お帰りになることになります。
山門から県道にいたる町道には、たくさんの人達が、自分の立場を明らかにする掲示板を持って道路の両側に座り込んでいます。
その中に「戦死者遺族の席」と掲示してあるところまでお進みになった陛下は、ご遺族の前で足を停められると、
「戦争のために大変悲しい出来事が起こり、そのためにみんなが悲しんでいるが、自分もみなさんと同じように悲しい」と申されて、遺族の方達に、深々と頭を下げられました。
遺族席のあちここちから、すすり泣きの声が聞こえてくる。
陛下は、一番前に座っていた老婆に声をかけられます。
「どなたが戦死されたのか?」
「息子でございます。たったひとりの息子でございました」
そう返事しながら、老婆は声を詰まらせます。
「うん、うん」と頷かれながら陛下は
「どこで戦死をされたの?」
「ビルマでございます。激しい戦いだったそうですが、息子は最後に天皇陛下万歳と言って戦死をしたそうででございます。でも息子の遺骨は、まだ帰ってきません。軍のほうからいただいた白木の箱には、石がひとつだけはいっていました。
天皇陛下さま、息子はいまどこにいるのでしょうか。
せめて遺骨の一本でも帰ってくればと思いますが、それはもうかなわぬことでございましょうか。
天皇陛下さま。息子の命はあなたさまに差し上げております。
息子の命のためにも、天皇陛下さま、長生きしてください。ワーン・・・・」
そう言って泣き伏す老婆の前で、陛下の両目からは滂沱の涙が伝わっています。
そうなのです。
この老婆の悲しみは、陛下の悲しみであり、陛下の悲しみは、老婆の悲しみでもあった。
そばにいた者全員が、この様子に涙した。
遺族の方々との交流を終えられた陛下は、次々と団体の名を掲示した方々に御会釈をされながら進まれます。
そして「引揚者」と書かれた人達の前で、足を停められた。
そこでは、若い青年たちが数十人、一団となって陛下をお待ちしていたのです。
実はこの人達は、シベリア抑留されていたとき、徹底的に洗脳され、日本革命の尖兵として日本の共産主義革命を目的として、誰よりも早くに日本に帰国せしめられた人達です。
この一団は、まさに陛下の行幸を利用し、陛下に戦争責任を問いつめ、もす陛下が戦争責任を回避するようなことがあれば、暴力をもってしても天皇に戦争責任をとるように発言させようと、待ち構えていたのです。
そしてもし陛下が戦争責任を認めたならば、ただちに全国の同志にこれを知らしめ、日本国内で一斉に決起して一挙に日本国内の共産主義革命を実施し、共産主義国家の樹立を図る手はずになっていたのです。
そうした意図を知ってか知らずか、陛下は、その一団の前で足をお止めになられます。
そして「引揚者」と書いたブラカードの前で、深々とその一団に頭を下げられた。
「長い間、遠い外国でいろいろ苦労して大変であっただろうと思うとき、私の胸は痛むだけでなく、このような戦争があったことに対し、深く苦しみをともにするものであります。
みなさんは、外国において、いろいろと築き上げたものを全部失ってしまったことであるが、日本という国があある限り、再び戦争のない平和な国として新しい方向に進むことを希望しています。
みなさんと共に手を携えて、新しい道を築き上げたいと思います」
陛下の長いお言葉だったのですが、そのときの陛下の御表情とお声は、まさに慈愛に満ちたものでした。
はじめは眉に力をいれていたこの「引揚者」の一団は、陛下のお言葉を聞いているうちに、陛下の人格に引き入れられてしまった。
「引揚者」の一団の中から、ひとりが膝を動かしながら陛下に近づきます。
そして、
「天皇陛下さま。ありがとうございました。
いまいただいたお言葉で、私の胸の中は晴れました。
引揚げてきたときは、着の身着のままでした。
外地で相当の財をなし、相当の生活をしておったのに、戦争に負けて帰ってみれば、まるで赤裸です。
生活も最低のものになった。
ああ、戦争さえなかったら、こんなことにはならなかったのにと思ったことも何度もありました。
そして天皇陛下さまを恨んだこともありました。
しかし、苦しんでいるのは、私だけではなかった。
天皇陛下さまも苦しんでいらっしゃることが、いま、わかりました。
今日からは決して世の中を呪いません。人を恨みません。天皇陛下さまと一緒に、私も頑張ります!」
と、ここまでこの男が申した時、そのそばにいたシベリア帰りのひとりの青年が、ワーッと泣き伏したのです。
「こんな筈じゃなかった。こんな筈じゃなかった。俺が間違えていた。俺が誤っておった」と泣きじゃくるのです。
すると数十名のシベリア引揚者の集団のひとたちも、ほとんどが目に涙を浮かべながら、この青年の言葉に同意して泣いている。
彼らを見ながら陛下は、おうなずきになられながら、慈愛をもって微笑みかけられた。
何も言うことのない、感動と感激の場面だったそうです。
いよいよ陛下が、御料車に乗り込まれようとしたとき、寮から見送りにきていた先ほどの孤児の子供達が、陛下のお洋服の端をしっかりと握り、
「また来てね」と申したそうです。
すると陛下は、この子をじっと見つめ、にっこりと微笑まれると
「また来るよ。今度はお母さんと一緒にくるよ」と申された。
御料車に乗り込まれた陛下が、道をゆっくりと立ち去っていかれます。
そのお車の窓からは、陛下がいつまでも御手をお振りになっていた。
宮中にお帰りになられた陛下は、次の歌を詠まれています。
みほとけの
教へ まもりて すくすくと
生い育つべき 子らに幸あれ
※出典:しらべかんが著「天皇さまが泣いてござった」
http://www.yamatopress.com/beautifuljapanstory/pg167.html
YouTube [1uFuFg1Cjfg]
http://www.youtube.com/watch?v=1uFuFg1Cjfg
YouTube [YrHU3wY9f_Y]
YouTube [WJl-fIynJWE]
http://www.youtube.com/watch?v=WJl-fIynJWE
배를 비게 한 사람이 있으면, 빵을 준다.
하지만 그러면 일시적 밖에 되지 않는다.
그래서, 배를 비게 한 사람이 있으면, 빵을 얻는 방법을 설득하는 것이 보다 좋은 일이다, 그런 이야기를 들었던 것이 있다 분도 많은 것이 아닐까 생각합니다.
그렇지만 일본에는, 그 이외의 제3도가 있다, 라고 하는 이야기입니다.
쇼와 20년 8월의 종전 후, 일본은 전대미문의 식료 위기가 되었습니다.
물가도 상승했습니다.
식료의 배급 제도는 사람들의 생활을 조달하는 기에 충분하지 않고, 비위생적이고 폭력이 지배하는 암시장이 여기저기에 나란히 섰습니다.
그것까지, 동아의 평화를 바라 황국 불멸을 믿고 있던 사람들은, 가치관을 근저로부터 부정되어 어떻게 살아야할 것인가, 어떻게 살아야할 것인가라고 하는 규범마저도 잃어, 망연해 퇴폐와 공포와 굶주림이 사람들을 지배했다.
그 일본인이, 있다 사건을 계기로, 국토 복구를 위해서 힘이 나서 일어섰다.
그 계기가 된 것이, 쇼와 천황의 전국 행차였다고 합니다.
거기서 쇼와 24년 5월에, 폐하의 사가현 행차 때의 이야기를, 써 보고 싶습니다.
감동입니다.
쇼와 천황의 행차는, 쇼와 21년부터, 카나가와현을 시작으로 쇼와 29년의 홋카이도까지, 다리 내기 8년반에 걸쳐 행해졌습니다.
전행정은 3만 3000 km, 총날짜는 165일입니다.
실은 이것은 대단한 일입니다.
원래 폐하의 일상은, 우리 평민과 달리, 휴일이 없습니다.
일년 365일, 항상 식전이나 제사, 타국의 원수 그 외의 방문, 정부 결정의 승인등이 있어, 그 수 무려 연간 약 2000건을 넘는 공무입니다.
그러한 바쁜 날들을 할애하고, 전국 행차를 하셨습니다.
이 순행을 시작하기에 즈음해, 폐하는 그 의의에 대해 다음과 같이 기술되어 있습니다.
~~~~~~~~~
이 전쟁에 의해서 조상으로부터의 영토를 잃어, 국민이 많은 생명을 잃어, 대단한 재액을 받았습니다.
이 때, 나로서는, 어떻게 하면 좋은 것인지라고 생각해 또 퇴위도 생각했다.
그러나, 차근차근 생각한 끝에, 이 때는, 전국을 기미 없게 걷고, 국민을 위로해 격려해, 또 부흥을 위해서 일어서게 하기 때문에(위해)의 용기를 주는 것이 자신의 책임이라고 생각한다.
~~~~~~~~~
당시 , 불탄 들판이 된 일본에서, 사람들은 지금까지의 유구의 대의라고 하는 가치관마저도 잃어, 정의가 악에, 악이 정의로 여겨지는 세상을 맞이하고 있었습니다.
게다가, 대단한 식료 부족합니다.
물가도 상승한다.
배를 비게 한 가족을 위해서, 암시장에 직매하러 가면, 거기는 폭력이 지배하는 드야거리입니다.
혼수감의 옷(기모노)를 가지고, 간신히 물물교환으로 미를 손에 넣으면, 그것을 전부 폭력으로 이겨진다.
말하자면 무정부상태라고도 할 수 있는 대단한 상황이었습니다.
그러한 상황으로부터 국내가 하루라도 빨리 탈피해, 일본인을 보통으로 생활할 수 있도록 하지 않으면 안 된다.
그럴 때, 폐하가 선택된 것이, 전국 행차였습니다.
미증유의 전재를 입은 일본을 불법인 암시장을 통하지 않아도 충분히 식료를 분배할 수 있듯이 하기 위해서는 무엇이 필요한가.
지금의 세상이라면, 곧바로 재정 출동이다, 무엇 무엇 수당의 지급이다 등이라고 하는 이야기가 되겠지만, 그 시대에 폐하가 선택된 것은, 전국민의 진심을 환기하는 것이었습니다.
국민 한사람 한사람이, 탄광에서, 농촌에서, 동사무소에서, 학교에서, 회사에서, 있다 있어는 공장에서 진심을 가지고 생산에 힘쓴다.
한사람한사람의 국민이 부흥을 위해서, 미래의 건설을 위해서 일어서는 것.
그 때문에(위해) 폐하는, 「전국을 기미 없게 걷고, 국민을 위로해 격려해, 또 부흥을 위해서 일어서게 하기 때문에(위해)의 용기를 주어」나름과 전국을 돌아졌습니다.
그런데 , 공산주의에 감화 된 일부의 사람들은, 그러한 폐하를 죽은 사람으로 해야지라든가, 있다 있어는 폐하를 매달고 올리려고, 각지에서 기다리고 있었다.
그런 중에, 실제의 폐하의 행차로 무엇이 있었는지를, 사가의 케이스로 보려고 합니다.
폐하가 사가현에 행차된 것은, 쇼와 24년 5월 24일의 일입니다.
이 날, 폐하는, 끊은 희망으로, 사가현 미야키군에 있는 인통사라고 하는 절에 행차되고 있습니다.
인통사는, 전시중에 돌아가신 제15세주직의 항원원화상이, 황후폐하가 읊어진 노래를 큰 치(올라)로 하고, 그것을 백만명의 여성들의 손으로, 노래를 자수 해 일본왕과 황후폐하의 앞에 받들어 드리려고 되고 있었습니다.
그 노래라고 하는 것이, 쇼와 13년에 황후폐하가 전사자에 대해서 읊어진 다음의 2수입니다.
평온하게
면생각하는 너를 위해
생명 바쳐 하는들을의라고도
위로하지 않아
말이라도투쟁의
에는을 시패거리를
(이)라는 것으로, 폐하도 이것에 있고 싶게 환영받아 황후폐하는 곧바로 바늘을 미끼가 되고, 어 스스로 이 대치에 1침을 자수 해 주셨다고 하는 경위가 있어요.
또 종전 후는, 인통사는, 절의 부지내에「센신기숙사」라고 하는 시설을 만들어, 거기서 전쟁으로 라재 한 아동 약 40명을 기르고 있었습니다.
폐하가 절에 부흥이 된다고 하는 당일, 절에 이르는 지방도로에서 거리에는, 많은 사람이 모여 있었습니다.
도로의 옆은 물론, 보리밭안에도, 모이는 것이 많이 아픈 것 같습니다.
그 거리의 일각에는, 있다 좌익계의 남자가, 보리밭을 만들고 있었다고 합니다.
이 남자는, 행차의 일주일간 정도 전까지는, 자신의 보리밭에 들어가는 놈이 있으면 (대)장대로 쫓아버려 주는, 라는 등 호언 해
있었습니다만, 당일, 차례차례로 모여 오는 사람들의 진지한 눈빛이나, 감동으로 가득 차 넘친 시선을 보고 있는 사이에, 완전히 마음이 바뀌어 버려, 스스로 보리밭을 해
놓아「여기서 쉬어 주세요, 여기서 앉아 주세요」 등과 모인 분들에게 얘기하고 있었다고 합니다.
아침, 8시 15분 무렵, 지방도로에서 거리의 갈림길의 곳에, 고료차가 도착했습니다.
군중의 사람들에게서는, 자연과「일본왕 만세」가 소리가 높아집니다.
누가 선창을 취했다고 하는 것이 아닙니다.
군중의 자연의 발로로서 이 소리가 높아졌다.
고료차가 정차하면, 군중의 만세의 소리가, 꼭과 그칩니다.
일순간, 아주 조용해진 것에, 차로부터, 우선 후미 시종씨가 내려선다.
그 후부터, 폐하가 차에서 내릴 수 있으면, 후미 시종씨가, 폐하에게 깊게 고개를 숙일 수 있다.
그 순간, 다시 군중의 사이부터, 「일본왕 만세」가 소리가 높아집니다.
폐하는, 그 군중을 향하고, 어 스스로도 모자를 벗어 응하신다.
그 모습에, 군중의 감동은 한층 더 깊어졌다고 합니다.
여기에 모인 사람들은, 태어나 이분, 사진으로 밖에 폐하의 모습을 보았던 적이 없다.
그 폐하가, 지금, 눈앞 암시합니다.
표현할 수 없을 만큼의 감동이, 군중을 감쌌다.
차를 멈출 수 있었는데로부터, 인통사의 문까지, 약 700미터입니다.
그 700미터의 도로의 겨드랑이에는, 잘도 이렇게도라고 생각할 정도로, 많은 사람이 모여 있었다.
기타 풀응의 사람들을 나누어 쓰도록(듯이) 하고, 폐하는 한걸음 한걸음진행되셨다고 합니다.
동사무소 쪽은, 담당의 역석자가 반일 주의자(당시 , 착실한 사람은 공직 추방이 되어, 공산주의자가 역석 포스트에 앉아 있었다)로, 설마 이렇게도 많은 사람이 나온다고는 생각해도 보지 않았던 것 같아서, 도로 옆의 로프라든지도 없습니다.
폐하는, 혼잡한 곳의 한가운데를, 그대로 군중과 서로 접하는 거리로 걸어졌습니다.
그리고 길가의 사람들은, 한층 더 큰 소리로「일본왕 만세」를 반복한다.
그 소리는, 마치 대지 그 자체가 감동에 떨리고 있을 것 같은 느낌이었다고 말합니다.
폐하가 절의 야마토에 도착합니다.
야마토의 전은, 줄줄 한 오르막이 되어 있고, 그 비탈을 올라 채우면, 23단의 계단이 있다.
그 계단을 다 올라졌을 때, 폐하는 거기서 다리를 멈추어「혹」와 감탄을 소리를 지를 수 있었다고 합니다.
그렇습니다.
돌층계를 다 오른 눈앞에, 신록에 물들여진 인통사의 센신의 산들이 훨씬 강요하고 있었습니다.
폐하는, 그 자연이 구성하는 모습에, 감탄을 소리를 지를 수 있었다.
폐하가, 그 자리에서 다리를 두시고 있는 시간이 너무나 길기 때문에, 후미 시종씨가, 폐하에게 서로 양보해져 어떠한 말을 말씀드리면, 폐하는 끄덕여지고, 본당의 불타로 향해 공손하게 예배를 하십니다.
그리고 고아들이 있는 센신기숙사를 향해 걸어집니다.
기숙사의 2층의 도서실에서, 책상을 준비하고, 거기서 사가현 지사가 폐하에게 마중의 말을 말씀드린다고 하는 준비가 되어 있었습니다.
도서실에서, 소정의 장소에 도착해진 폐하에게, 당시 사가현 지사였던 충삼원 이치우지가, 공손하게 최경례를 해, 폐하에게 마중의 말을 말합니다.
「오늘 여기에, 90만 현민이 오랫동안 대기 말씀드리고 있었던 일본왕을 눈앞에 ・・・・」
거기까지 말씀을 올림 말씀드리고 있던 충 모리 지사는, 말이 중단되어 버립니다.
지사도 일본인입니다.
메이지에 태어나 타이쇼로부터 쇼와 초기라고 하는 일본의 고난의 시대를 살아 그 사는 것의 중심으로 폐하가 나, 자신의 존재도 폐하의 존재라고 받아 들이고 있던 지사는, 폐하의 모습을 앞에 두고, 여러가지의 생각이 가슴 가득하게 퍼지고, 오열과 함께, 말을 막히게 해 버렸습니다.
그러자(면) 그 때, 후미 시종씨가, 지사의 뒤로 살그머니 가까워져져 지사의 등을 조용하게 어루만지면서, 「침착하고, 침착해」라고 해졌다.
그러자(면), 신기한 일로 지사의 마음이 편안해져, 나머지의 말이 부드럽게 말할 수 있게 되었던 것이다 합니다.
이 지사의 마중의 인사의 뒤, 절의 주직이, 절에 있는 전쟁라재고아 구호소에 임해서 설명 말씀드리게 되어 있었습니다.
자신의 앞에 인사에 선 지사가, 눈앞에서 말을 막히게 했습니다.
자신은, 저런 일이 있어 안 된다, 그렇게 강하게 자신에게 타이르면, 주직은 주상문장을 쓴 봉서를 가지고, 폐하의 앞에 나아&기 나옵니다.
그리고 써 있다 주상문장을 읽어 내렸다.
「오늘 여기에, 천하를 다스리는 자리의 대군을 이 산심 나무 고찰에 맞이해 말씀드려 감격개라는 자는 없습니다 」
주직은, 여기까지 단번에 주상문장을 읽어 내렸다.
그런데 , 여기까지 읽어 내렸더니, 주직의 가슴에도 그그와 뜨거운 것이 밀어 올립니다.
인양 고아를 맞이하러 갔을 때, 전쟁으로 죽은 초등학교, 중학교, 고교, 대학의 급우들의 모습,
「일본왕 만세」라고 주창해 죽어서 간 전우들의 모습과 함께 보낸 날들, 그러한 온갖 일이 일순간 주마등과 같이 머릿속에 충만해, 눈앞에
원않고 폐하의 모습이 희미하게 보여 안보이게 되어, 폐하 대신에 전시중의 온갖 일이 눈앞에 떠오르고, 주상 말씀드리는 문장마저도 주서로부터 사라져서 없어졌는지
(와)과 같이 되어 버렸던 것이다 합니다.
의식은, 열심히 문자를 찾으려 하고 있다.
하지만 그 문자는 전혀 보이지 않고, 발하는 말이나 소리도 없어져 버렸다.
단지 단지, 눈으로부터 눈물이 넘쳐 흐름이라고 멈추지 않는다.
어떻게 자신을 컨트롤 하려고 해도, 그것이 완전히 불가능한 상태가 되어 버려졌습니다.
그 때, 누군가의 손이, 자신의 등에 닿는 것을 느꼈다.
후미 시종씨가, 「침착하고, 침착해」와 등에 닿고 있어 주었습니다.
이 때, 주직은, 전에 인사에 선 지사의 모습을 보고, 자신은 저런 일은 절대로 없다, 라고 생각했는데, 지사와 같은 상태가 되어 버렸다고 말하고 있습니다.
이러한 일은, 외국의 대사의 분들도 같은 일이 있다의라고 합니다.
외국의 대사의 분들은, 일본에 주재하고 있어 드디어 일본을 떠난다고 할 때, 조카어휘를 위해서 폐하에게 인사에 오는 습관이 되어 있습니다.
주일대사라고 하면, 긴 분으로 6~7년, 짧은 분이라도 2~3년의 체재입니다만, 귀국전에 폐하를 뵈어
작별의 인사를 할 때, 대부분의 주일대사가「일본을 떠나는에 참을 수 없는, 일본에는 폐하가 와가 되어, 폐하와 작별을 하는 것이 매우 비주위와 이제(벌써) 되어
의 것이라고 합니다.
이 말이 의례적인 물건은 아닌 것은, 그 자리의 공기에서는 송곳이라고 안다 합니다.
그리고 폐하와 이야기를 하시면서, 주일대사의 대부분의 분이, 눈에 눈물을 머금을 수 있고 말을 막히게 한다.
특히 대사부인의 분들 등은, 뺨에 전해지는 눈물을 닦는 일도 하지 않고, 울면서 폐하에게 조카어휘를 하신다고 합니다.
이러한 일은, 그 대사가 왕국이든, 공화국이든, 공산권쪽이어도, 모두 같다 합니다.
오히려 공산권의 나라들의 분들 쪽이, 보다 깊은 석별의 정을 나타난다.
그런데, 간신히 기분을 고친 주직은, 스스로도 전지에 향한 경험으로부터, 천황 황후 양폐하의 심에 보답하지 않아와 라재고아들의 수용을 실시하게 된 경위를 주상 합니다.
이 주상이 끝나면, 무엇을 생각되었는지, 폐하가 단상에서 마루로 내려서, 성큼성큼주직의 아래에서접근하셨다.
「부모를 잃은 아이들은 몹시 불쌍하다.사람의 마음의 쉬움이 아이들을 구할 수 있다고 생각한다.맡고 있는 많은 불의 아이들이, 훌륭한 사람이 되도록, 진심으로 희망합니다」와 주직에 말씀드려졌다.
주직은 그 말씀을 (들)물어, 동작마저도 마음대로 되지 않았다고 합니다.
이 인사의 뒤, 폐하는, 고아들이 있는 기숙사로 향해집니다.
고아들에게는, 미리 폐하가 오면, 방에서 제대로 인사하도록(듯이) 말해 있었습니다.
그런데 , 일부가게 마다 다리를 멈출 수 있는 폐하에게, 아이들은 누구하나, 제대로 인사하려고 하지 않는다.
어제까지, 그토록 어렵게 인사의 방법을 가르쳐 두었는데, 보는거야, 보연과 입다물고 서있다.
그러자(면) 폐하가 아이들에게 인사를 하십니다.
머리를 훨씬 땋아서 늘어뜨린 머리가 되어, 허리를 굽혀 인사 되어 만면에 미소를 기리고 계신다.
그것은 마치, 폐하가 아이들을 어 스스로 위로해하시고 있도록(듯이) 보여졌다고 합니다.
그리고 폐하는, 한사람한사람의 아이에게, 말씀을 걸칠 수 있다.
「어디에서?」
「만주로부터 돌아갔던 」
「북한에서 돌아갔습니다.
그러자(면) 폐하는, 이 아이등에
「아, 그래」와 상냥하게 응하신다.
그리고,
「몇살(몇개)?」
「일곱입니다 」
「다섯 개입니다」와 아이들이 대답한다.
그러자(면) 폐하는, 아이들 한사람한사람에게 마치 우리 아이에게 말을 걸도록(듯이) 얼굴을 접근하셔,
「훌륭하게, 건강하게」라고 하신다.
폐하의 말씀은 짧은 것이지만, 그 짧은 말씀안에, 깊은 심이 담겨져 있습니다.
이「훌륭하게, 건강하게」의 말에는, 「너들은, 멀게 만주나 북한, 필리핀등에서 이 일본에
돌아왔지만, 아버지, 엄마가 없는 것은, 필시 외로울 것이다.슬플 것이다.하지만 지금, 이렇게 해 기숙사에서 훌륭하게 일본인으로서 길러 주고 있는 것
(은)는, 매우 좋았던 것이고, 나도 기쁘다.지금부터는, 지금까지의 괴로웠던 일이나 슬펐던 일을 잊지 않고 , 훌륭한 일본인이 되어 보내라.건강하고 대나무
구 되어 주는 것을 나는 진심으로 바라고 있어」라고 하는 마음이 담겨져 있습니다.
그리고 그 마음이, 짧은 말로, 전부 아이들의 가슴에 들어가서 간다.
폐하가 다음의 방에 옮기시면, 아이들의 입으로부터「안녕히 가세요, 안녕히 가세요」와 극히 자연스럽게 소리가 나옵니다.
그러자(면) 아이들의 소리를 들은 폐하가, 다음의 방의 전부터, 지금 안녕히 가세요라고 발한 아이가 있는 방까지 돌아오셔 그 아이에게「안녕히 가세요, 안녕히 가세요」와 친근함을 가득 기린 얼굴로 인사 됩니다.
다음의 방에는, 병으로 쉬고 있는 두 명의 아이가 있고, 주치의 시카게 의사가 시중들고 있습니다.
그 모습을 보신 폐하는, 병의 아이등에 말이야 경 더 말을 걸 수 있는 것과 동시에, 시카게 의사에
「소중히 병을 고치도록(듯이) 희망합니다」라고 해졌다.
시카게 의사는, 그 말씀에, 눈물이 멈추지 않은 채,
「성심성의 만전을 다합니다」라고 대답했습니다만, 그 때의 시카게 의사의 얼굴은, 마치 청년과 같이 뺨을 홍조 시킨 것이었습니다.
이렇게 해 각 방을 돌아진 폐하는, 제일 마지막에 젠죠우의 사이까지 와집니다.
이 방의 앞에서 다리를 멈출 수 있었던 폐하는, 돌연, 직립 부동이 자세를 취해져 그대로 몸도 하지 않고 , 있다 일점을 응시할 수 있습니다.
그것까지는, 어느 방에서도 만면에 미소를 기리고, 이런 들이비쳐 말로 아이들이 말을 건넬 수 있고 있던 폐하가, 이 젠죠우의 사이에서는, 달라지고, 어려운 얼굴을 되었다.
후미 시종장도, 타지마 궁내청 장관도, 충 모리 지사도, 현경 본부장도, 무슨 일이 있었는지와 얼굴을 보류합니다.
답답한 시간이 흐른다.
약간 잠시 후, 폐하가 이 방에서 대기 말씀드리고 있던 세 명의 여자 아이의 한가운데의 아이에게, 가까워져졌습니다.
그리고 쉽다고 하는 것보다, 조용한 소리로,
「아버지.엄마」라고 질문이 되었습니다.
일순간, 시종장도, 궁내청 장관도, 무슨 일이 있었는지 모른다.
폐하의 눈은, 일점을 응시하고 있습니다.
거기에는, 세 명의 여자 아이의 한가운데의 이 손에는, 두 개의 위패를 가슴에 꼭 껴안을 수 있고 있었습니다.
폐하는, 그 두 개의 위패가「아버지?엄마?」라고 질문이 되었습니다.
여자 아이가 대답합니다.
「네.이것은 아버지와 어머니의 위패입니다 」
이것을 (들)물은 폐하는, 분명히 크게 끄덕여져
「어디서?」라고 질문이 됩니다.
「네.아버지는, 소만국경에서 명예의 전사를 했습니다.어머니는 인양 도중에 병을 위해서 돌아가셨던 」
이 아이는, 고이는 일 없이 대답했습니다.
그러자(면) 폐하는
「혼자서?」라고 질문이 된다.
부모와 헤어져 혼자서 만주로부터 돌아갔는지라고 하는 의미지요.
「아니오, 심양으로부터 코로섬까지는 일본의 아저씨, 아줌마와 함께였습니다.배를 타면 배의 아저씨들이 신설로 해주셨습니다.사세보의 인양 원호국에는, 여기의 선생님이 마중와주셨습니다 」
이 아이가, 그렇게 대답하고 있는 동안, 폐하는 가만히 이 아이를 보시면서, 몇번이나 수긍해졌습니다.
그리고 이 아이의 말이 끝나면, 폐하는
「외로운」와 그것은 슬픈 것 같은 얼굴로 말씀을 쓸 수 있는들.
그러나 폐하가 그렇게 말씀을 걸칠 수 있었을 때, 이 아이는
「아니오, 외로운 것은 없습니다.나는 불의 아이입니다.불의 아이는, 죽은 아버지와도, 엄마와도,
정토에 가면, 반드시 또 만날 수 있습니다.아버지를 만나고 싶을 때 , 엄마를 만나고 싶을 때 , 나는 불님의 앞에 앉습니다.그리고
살그머니 아버지의 이름을 부릅니다.살그머니 엄마의 이름을 부릅니다.그러자(면) 아버지나 엄마도, 나의 곁에 오고, 나를 안아 줍니다.그러니까, 나
(은)는 외로운 것은 없습니다.나는 불의 아이입니다 」
이렇게 말씀드렸을 때, 폐하는 가만히 이 아이를 보셔 둬였습니다.
이 아이도, 가만히 폐하를 올려보고 있습니다.
폐하와 이 아이의 사이에, 무엇인가 특별한 시간이 흐른 것 같은 느낌이 들었다고 합니다.
그리고 폐하가, 이 아이가 있는 방에 발을 디딜 수 있습니다.
방에 들어가진 폐하는, 오른쪽의 손에 갖게 하고 있던 모자를, 왼손에 소유인가 얻을 수 있어 오른손으로 이 아이의 머리를 살그머니 어루만지셨습니다.
그리고 폐하는,
「불의 아이는 행복하구나.앞으로도 훌륭하게 자라 늦어서」라고 해졌다.
그 때, 폐하의 눈으로부터, 하타하타수적의 눈물이, 안경을 통해 다다미 위에 떨어졌다.
그 때, 이 여자 아이가, 작은 소리로「아버지」라고 불렀다고 합니다.
이것을 (들)물은 폐하는, 깊게 왕인 두 신경쓰여졌다.
그 님 아이를 바라보고 있던 주위의 사람은, 모두, 울었다고 합니다.
도쿄로부터 수행해 오고 있던 신문기자도, 어깨를 떨어 울고 있었다.
아이들의 기숙사를 후로 된 폐하는, 절의 야마토로부터, 돌아오시게 됩니다.
야마토로부터 지방도로에 이르는 거리에는, 많은 사람들이, 자신의 입장을 분명히 하는 게시판을 가져 도로의 양측으로 들어앉고 있습니다.
그 중에「전사자 유족의 자리」와 게시되어 있는 곳(중)까지 진행되신 폐하는, 유족의 앞에서 다리를 멈출 수 있으면,
「전쟁을 위해서 몹시 슬픈 사건이 일어나, 그 때문에(위해) 모두가 슬퍼하고 있지만, 자신도 여러분과 같이 슬픈」라고 해지고, 유족의 방들에게, 조용히 고개를 숙일 수 있었습니다.
유족석의 저기 기분으로부터, 훌쩍거려 울음의 목소리가 들려 온다.
폐하는, 제일 전에 앉아 있던 노파에게 권유를 받습니다.
「어떤 분이 전사되었는지?」
「아들이십니다.단 한명의 아들이셨던 」
그렇게 대답하면서, 노파는 목이 메입니다.
「응, 응」와 수긍해져서면서 폐하는
「어디서 전사를 하셨어?」
「버마입니다.격렬한 싸움이었다고 합니다만, 아들은 마지막에 일본왕 만세라고 하고 전사를 했다고 하고입니다.그렇지만 아들의 유골은, 아직 돌아오지 않습니다.군 쪽 매운 단지 있던 동나무의 상자에는, 돌이 하나만 들어가고 있었습니다.
일본왕님, 아들은 지금 어디에 있는 것입니까.
적어도 유골의 한 개에서도 돌아오면이라고 생각합니다만, 그것은 더이상 이루어지지 않는 일일까요.
일본왕님.아들의 생명은 당신에게 드리고 있습니다.
아들의 생명을 위해서도, 일본왕님, 장수 해 주세요.워 ・・・・」
그렇게 말해 쓰러져 우는 노파의 앞에서, 폐하의 두 눈에서는 방저의 눈물이 전해지고 있습니다.
그렇습니다.
이 노파의 슬픔은, 폐하의 슬픔이며, 폐하의 슬픔은, 노파의 슬픔이기도 했다.
곁에 있던 사람 전원이, 이 님 아이에게 울었다.
유족의 분들과의 교류를 끝낼 수 있었던 폐하는, 차례차례로 단체의 이름을 게시한 분들에게 인사를 하시면서 가집니다.
그리고「귀환자」라고 쓰여진 사람들의 앞에서, 다리를 멈출 수 있었다.
그곳에서는, 젊은 청년들이 수십명, 한무리가 되고 폐하를 기다리고 있었습니다.
실은 이 사람들은, 시베리아 억류되고 있었을 때, 철저하게 세뇌되어 일본 혁명의 첨병으로서 일본의 공산주의 혁명을 목적으로 하고, 누구보다 빨리에 일본에 귀국 하게 할 수 있었던 사람들입니다.
이 일단은, 확실히 폐하의 행차를 이용해, 폐하에게 전쟁 책임을 물어 채워 폐하가 전쟁 책임을 회피 하는것 같은 일이 있으면, 폭력을 가지고 해도 천황에 전쟁 책임을 지도록(듯이) 발언시키려고, 기다리고 있었습니다.
그리고 만약 폐하가 전쟁 책임을 인정했다면, 즉시 전국의 동지에게 이것을 알리게 해 일본내에서 일제히 궐기해 한꺼번에 일본내의 공산주의 혁명을 실시해, 공산주의국가가의 수립을 도모하는 준비가 되어 있었습니다.
그러한 의도를 알아인가 알지 못하고인가, 폐하는, 그 일단의 앞에서 다리를 멈추십니다.
그리고「귀환자」라고 쓴 브라 카드의 앞에서, 조용히 그 일단에 고개를 숙일 수 있었다.
「오랫동안, 먼 외국에서 여러 가지 고생해 큰 일이었을 것이다 라고 생각할 때, 나의 가슴은 아플 뿐만 아니라, 이러한 전쟁이 있었던 것에 대해, 깊고 괴로움을 함께 하는 것입니다.
여러분은, 외국에 있고, 여러가지 구축한 것을 전부 잃어 버린 것이지만, 일본이라고 하는 나라가 있다 한정해, 다시 전쟁이 없는 평화로운 나라로서 새로울 방향으로 나아& 것을 희망하고 있습니다.
여러분과 함께 손을 잡고, 새로운 길을 구축하고 싶은 」
폐하의 긴 말씀이었습니다만, 그 때의 폐하의 표정과 소리는, 확실히 자애로 가득 찬 것이었습니다.
처음은 눈썹에 힘을 넣고 있던 이「귀환자」의 일단은, 폐하의 말씀을 (듣)묻고 있는 사이에, 폐하의 인격으로 끌어들일 수 있어 버렸다.
「귀환자」의 일단중에서, 혼자가 무릎을 움직이면서 폐하에게 다가갑니다.
그리고,
「일본왕님.감사합니다.
있지 않든지 단지 있던 말씀으로, 나의 가슴안은 개였습니다.
인양라고 왔을 때는, 몸 하나만 달랑이었습니다.
외지에서 상당한 재를 이루어, 상당한 생활을 하고 있었는데, 전쟁에 져 돌아가 보면, 마치 알몸뚱이입니다.
생활도 최저의 것이 되었다.
아, 전쟁마저 없었으면, 이런 일에는 안 되었는데 라고 생각한 것도 몇번이나 있었습니다.
그리고 일본왕님을 원망한 적도 있었습니다.
그러나, 괴로워하고 있는 것은, 나 만이 아니었다.
일본왕님도 괴로워하고 계시는 것이, 지금, 알았습니다.
오늘부터는 결코 세상을 저주하지 않습니다.사람을 원망하지 않습니다.일본왕님과 함께, 나도 노력하겠습니다!」
라고 여기까지 이 남자가 말씀드렸을 때, 그 곁에 있던 시베리아 돌아오는 길의 한명의 청년이, 워와 쓰러져 울었습니다.
「이런 괄이 아니었다.이런 괄이 아니었다.내가 오인하고 있었다.내가 잘못하고 있던」와 흐느껴 웁니다.
그러자(면) 수십명의 시베리아 귀환자의 집단의 사람들도, 대부분이 눈에 눈물을 머금으면서, 이 청년의 말에 동의 해 울고 있다.
그들을 보면서 폐하는, 왕인 두 신경쓰여져서면서, 자애를 가지고 미소지어 갈 수 있었다.
아무것도 말할리가 없는, 감동과 감격의 장면이었다고 합니다.
드디어 폐하가, 고료차에 탑승해지려고 했을 때, 기숙사로부터 전송하러 오고 있던 방금전의 고아의 아이들이, 폐하의 양복의 구석을 제대로 잡아,
「또 와」라고 했다고 합니다.
그러자(면) 폐하는, 이 아이를 가만히 응시해 생긋 미소지어지면
「또 와.이번은 엄마와 함께 와」라고 해졌다.
고료차에 탑승해진 폐하가, 길을 천천히 떠나서 갈 수 있습니다.
그 차의 창에서는, 폐하가 언제까지나 손을 거절하시고 있었다.
궁중에 돌아오셔진 폐하는, 다음의 노래를 읊어지고 있습니다.
봐 부처의
교에 지켜라고 무럭무럭
성장해야 할 아이등에 행어
※출전:조사 한아저「천황님이 울어 있던 」
http://www.yamatopress.com/beautifuljapanstory/pg167.html
YouTube [1uFuFg1Cjfg]
http://www.youtube.com/watch?v=1uFuFg1Cjfg
YouTube [YrHU3wY9f_Y]
http://www.youtube.com/watch?v=YrHU3wY9f_Y