生活/文化

 



以下、最近の投稿・参考の投稿。

似てるw他→
/jp/board/exc_board_8/view/id/2974138?&sfl=membername&stx=nnemon2
サンバカーニバルの踊子さん他→
/jp/board/exc_board_8/view/id/2970221?&sfl=membername&stx=nnemon2
子供の才能を活かしきれない親の特徴他→
/jp/board/exc_board_8/view/id/2973778?&sfl=membername&stx=nnemon2



FireFox以外で、この投稿の写真が見られない場合は、FireFoxで、ご覧下さい。


以下、「」内。私の前の投稿文より。。。


「東京都心部の西部の静かで落ち着いた住宅地にある、我が家の近所の、私の実家は、元々、私の母方の祖父母の家で(ちなみに母は、一人っ子です)、現在は、両親が引き継いで暮らしています。既に、母方の祖父母共に、亡くなっています。

我が家の近所の私の実家の、私の父は、会社員で(父は、既に、半分定年退職状態になってから久しいですが)、私の母は、父と結婚してから、アルバイトを含めて、仕事を、一切した事がない専業主婦です。

私には、兄弟姉妹は、2歳年下の弟が一人います。私の弟は、外資系の会社員で、既に、結婚をし、(まだ、二人共、幼いですが)子供が2人いて(男の子(上)が1人と、女の子(下)が1人)、弟の家族(妻・子供)と共に、東京の西部郊外の、静かで落ち着いた住宅地に買った、一戸建て住宅に、暮らしています。


私は、会社員と比べて、相対的に、安定的ではなく、相対的に、ビジネスにおいて危険性が高いが、相対的に、自分で自分の時間を自由に管理する事が出来、又、自分の才能・仕事の能力・仕事の効率性・努力が、自分の収入に直結する(直接繋がる)、個人事業の道を選びました」


以下、前に行った以下の投稿から抜粋して来た物です。

A Whole New World /エレクトリカルパレード他→
/jp/board/exc_board_1/view/id/2920734/page/2?&sfl=membername&stx=nnemon


以下、「」内。私の前の投稿文より。。。



「ちなみに、非常にベタなのですが、彼女(私の今の彼女)の、スマホの、私からの着信音は、「いつか王子様が(Someday My Prince Will Come)」となっていますw」


A Whole New Worldは、良い曲ですね。彼女も、A Whole New Worldは、Disneyの曲の中で、1位、2位を争う好きな曲だそうです。



動画は、借り物。A Whole New World(日本語)。






動画は、借り物。A Whole New World。実写版、アラジンより。。。



以上、前に行った投稿から抜粋して来た物でした。


以下、参考の投稿。

アニメのキャラと女性と私等→
/jp/board/exc_board_3/view/id/2816574?&sfl=membername&stx=jlemon
いじめが起きる本当の原因他→
/jp/board/exc_board_8/view/id/2938874/page/4?&sfl=membername&stx=nnemon2

   



以下、前に行った以下の投稿から抜粋して来た物です。

祖母が好きであったイラストレーター→
/jp/board/exc_board_8/view/id/2867823/page/5?&sfl=membername&stx=nnemon


我が家の近所の私の実家は、元々、母方の祖父母の家で(ちなみに、私の母は、一人っ子です)、母方の祖父母が同居していたのですが、私は、大の、おばあちゃん子でした。


亡くなった、私の母方の祖母が、最も、好きであった、イラストレーターが、この投稿で紹介する、蕗谷虹児(fukiyakoji)です。


私の母方の祖母は、竹久 夢二(takehisa yumeji)等も好きでしたが、何よりも蕗谷 虹児(fukiya koji)の絵やイラスト(illustration)が好きだった様です。私の母方の祖母は、絵を描くのが好きでしたが、生涯、蕗谷 虹児(fukiya koji)の様な絵を、たくさん描いていました(絵と言っても、スケッチ(sketch)みたいな物ですが。。。)。

私の母方の祖母は、田舎の裕福な地主の家の娘であったので、おそらく、幼い頃・子供の頃、女学校(第二次世界大戦以前の階級社会の日本において、主として、比較的裕福な、中流階級以上の家庭の娘が通った、女子向けの中等教育機関。ほぼ、現在の小学校と大学の間、即ち、中学と高校に当たる)時代、東京での大学時代、東京での独身の社会人時代(まあ、私の母方の祖母は、社会人になって間もなく結婚し、以後、ずっと主婦であったのですが。。。)に、私の母方の祖母の実家(私の母方の祖母の親)に、当時の、日本の、女性の子供向けの雑誌、少女向けの雑誌、若い女性向けの雑誌を、たくさん買って貰っていたと思います。

 


前に横浜駅周辺(東京の南部郊外最大の繁華街)にある、規模の大きなデパートの一つ、そごう(sogo)デパート横浜店内に有る美術館で行われた、蕗谷 虹児(fukiya koji)の展覧会(exhibition)のカタログ(catalogue)。




以下の写真は、全て、この展覧会(exhibition)のカタログ(catalogue)より。。。説明文も、基本的に、カタログ(catalogue)の文から抜粋して来た物です。


蕗谷 虹児(fukiya koji)。自宅を訪れた、ファン(fan)の少女達に囲まれて。1933年。



若い頃の蕗谷 虹児(fukiya koji)。1920年。

 

 


 

蕗谷 虹児(fukiya koji)は、1925年から1929年にかけて、パリ(Paris)で、(挿絵画家としてではなく)本格的な画家として成功する事を目指して、(フランスの)パリ(Paris)に滞在していました。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、パリ(Paris)滞在中、サロン・ドートンヌ(Salon d‘Automne)等のサロン(salon)で入選を重ね、パリ(Paris)の雑誌社からも挿絵の依頼を受ける様になりましたが、家庭の事情等により、パリ(Paris)で本格的な画家として成功する夢を断念し、1929年に、約4年間における、パリ(Paris)滞在を終え、日本に帰国しました。なお、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、「令女界(reijyo kai)」等の、日本の雑誌向けの仕事は、(前よりも、少なくなったものの)、パリ(Paris)滞在中も続けていました。


蕗谷 虹児(fukiya koji)のパリ(Paris)のアトリエ(作品制作作業場)にて。。。1926年頃。手前、蕗谷 虹児(fukiya koji)。奥、蕗谷 虹児(fukiya koji)の最初の妻、りん(rin)(日本の、一般人の、女性)。当時、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、27歳、りん(rin)は、17歳(蕗谷 虹児(fukiya koji)は、1923年、24歳の時、当時14歳であった、近所の娘、りん(rin)と結婚)。


下の写真、パリ(Paris)にて。。。写真一番左の奥、蕗谷 虹児(fukiya koji)。写真一番左の手前、りん(rin)。1928年頃。


「日本をあとに(日本を後に)」。「小令女(小reijyo)」(「令女界(reijyo kai)」の妹版として創刊された、日本の少女雑誌(少女向けの雑誌))の挿絵原画。りん(rin)をモデル(model)にしていると思われます。1926年。


下落合(shimoochiai。現在の新宿区(東京中心部の西部)に位置する)の自宅(自分の家)の庭で、薔薇の剪定をする、蕗谷 虹児(fukiya koji)。1939年。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、自宅の庭に、様々な種類の薔薇を植えていました。


 


以上、前に行った投稿から抜粋して来た物でした。蕗谷 虹児(fukiya koji)の作品の例に関しては、上で、リンクを付けた投稿、「祖母が好きであったイラストレーター」を、参照して下さい。


私の母方の祖父に関しては、以下の投稿を参照して下さい。

女系家族育ち前編→
/jp/board/exc_board_8/view/id/2840230/page/8?&sfl=membername&stx=nnemon





動画は、借り物。「晩春(Late Spring)」(1949年)。私は、個人的に、小津  安二郎(ozu yasujiro)の映画が好きなのですが、個人的に、小津 安二郎(ozu yasujiro)の映画の中でも、一番、好きな映画は、地味な映画ですが(と言うか、そもそも、小津  安二郎(ozu yasujiro)は、黒澤 明(kurosawa akira。1910年生まれ。1998年に亡くなる。日本の世界的に有名な映画監督の一人)等と異なり、人々の日常を舞台とした、地味な映画を特徴とする、映画監督です)、「晩春(Late Spring)」(1949年)です。その理由の一つに、「晩春(Late Spring)」の登場人物達が、私の、身近な人々に重なると言うのがあります。笠 智衆(ryu chishu)と言う、日本の俳優が演じる、保守的で、つましい(質素な)、大学の教授は、誰に対しても、めったに怒らない穏やかな紳士であった、亡くなった、私の母方の祖父に重なります。原 節子(harasetsuko)と言う日本の女優が演じる、大学教授の娘は、亡くなった、私の母方の祖母に重なります。原 節子(harasetsuko)が演じる、大学教授の娘の、元々、女学校(第二次世界大戦以前の日本における、女子(女性)向けの中等教育機関。ほぼ、現在の小学校と大学の間、即ち、中学校と高校に当たる。第二次世界大戦以前の階級社会の日本において、主として、比較的裕福な、中流階級以上の家庭の娘(中流階級・中上流階級(upper-middle class)・上流階級の、家庭の娘)が通った)の同級生(同学年・同じクラス)である、親友の女性(月丘 夢路(tsukioka yumeji)と言う、日本の女優が演じています)は、我が家、及び、我が家の近所の実家の近所に暮らしていた、亡くなった、私の母方の祖母の姉の若い頃のイメージに重なります。




以下、前に行った投稿から抜粋して来た物です。



動画は、借り物。ユリアーナ・シャノー(Juliana Schano)-「もういちど教えてほしい」(1999年)。映画、「ガメラ3 邪神〈イリス〉覚醒(Gamera 3: The Revenge of Iris )」(1999年)の、主題歌(テーマ曲)。ユリアーナ・シャノー(Juliana Schano)(この動画の歌手)を老けさせたらと想像した顔は、我が家の近所の実家に同居していた(と言うか、前述の通り、実家は、元々、母方の祖父母の家です)、私の母方の祖母(既に亡くなっています)の老けてからの顔に(まあ、祖母なので、私は、祖母の老けてからの顔しか知らないのですが)、似ています。私の母方の祖母の老けてからの顔は、この動画の、ユリアーナ・シャノー(Juliana Schano)の顔を、もう少し、丸い、狸(raccoon dog)系の顔にして、老けさせたような顔をしていました。


以上、前に行った投稿から抜粋して来た物でした。


以下、前に行った以下の投稿から抜粋して来た物です。

女系家族育ち後編→
/jp/board/exc_board_8/view/id/2841167/page/8?&sfl=membername&stx=nnemon


私は、大の、おばあちゃん子でした。

私が社会人となり忙しくなる前は(私が幼い頃・子供の頃から大学生の頃までは)、母方の祖母の、一番の話し相手は(私の母方の祖母と、一番、たくさん話していたのは)、大の、おばあちゃん子であった私でした。2番目の話し相手は(私の母方の祖母と、2番目に、たくさん話していたのは)、近所に暮らしていた私の母方の祖母の姉で(私の母方の祖母の姉は、生前、よく、近所の私の実家(元々、私の母方の祖父母の家)に遊びに来て、妹である、私の母方の祖母と話していました)、私の母は、私の母方の祖母の、3番目の話相手と言った感じでした。その他、時々からたまに、私の母方の祖母の、学生時代からの、女性の親友が、家(私の実家。元々、私の母方の祖父母の家)に遊びに来て、私の母方の祖母と話をしていました。

私の母方の祖母は、結婚してからアルバイトを含めて、一切の仕事をした事がない専業主婦でしたし、私の母も、結婚してからは、アルバイトを含めて、一切の仕事をした事がない専業主婦です。

私の母は、もちろん家事もあったのですが、私の母方の祖母の姉の性格を受け継ぎ、絶えず動いていないと気が済まない活発な性格で、自分がやりたい事で、忙しいと言った感じで、基本的に、じっくりと、私の母方の祖母の話相手をするような事は、あまりしませんでしたが、私が、社会人となり忙しくなって、以前のように、私の母方の祖母の話相手を出来なくなってからは、さすがに、気を遣って、前に比べれば、相対的に、よく、私の母方の祖母の話相手をするようになりました。

私は、実生活の会話においては、女性の、悩み等を、共感しながら、じっくり聞いてあげると言う事は心掛けており、話相手が女性の場合、そうした事は、ある程度自然に身について、出来ていると思いますが、その様な、私の女性の(と言うか人の)話の、聞き上手と言った事に関して、私は、母方の祖母と、たくさん話をした(母方の祖母の話を、たくさん聞いた)と言う事を通じて、培われた、その事が、大いなる土台となったと思います。

私の母方の祖母からは、人の心を思いやる、優しい心と言う物を学びました。そこにいてくれるだけで、存在していてくれるだけで、皆の(少なくとも私の)、癒しとなり、優しい気持ちになれた、おばあちゃんで、そこにいてくれるだけで、存在していてくれているだけで、ありがたく、いつでも、幸せな気持ちになる事が出来ました。

私は、学生時代(高校・大学時代)、ピアス等をして外見を派手に飾り立てていて、街を歩けば、ホストのスカウトの声が掛かったりしていたのですがw、母方の祖母は、そんな私の外見とは関係なく、ずっと、私の中身を見続けてくれていて、私の母方の祖母にとって、私は、いつまで経っても、ずっと、可愛い孫のままでした。

私が、実家で、母方の祖母の部屋を訪れると、母方の祖母は、いつでも、満面の、温かく、嬉しそうな、優しい笑顔で迎えてくれました。そして、母方の祖母は、私が、一度、祖母の部屋に遊びに訪れると、時間が許す限り(いや、時間が許さなくても)、いつまでも、私にいて欲しいと言った感じで、私が適当に時間を見て、「じゃあ、おばあちゃん、そろそろ行くね」と言わない限り、祖母の部屋から出て来れずw、私の母方の祖母の方からは、絶対に、そろそろ、遊びに行っておいでとか、そろそろ、勉強があるんじゃないか等と言って、私に、そろそろ行ってもいいよと配慮するような事は、絶対にありませんでしたw

前述の通り、母方の祖母は、甘い物(お菓子等)が好きだったので、甘い物(お菓子等)を、自分の為に、よく(たくさん)買っていたのですが、母方の祖母は、その様な、自分の為に買った、甘い物を、自分の部屋で、私と、一緒に食べる・私と、分けて食べるのが、大好きでした。私は、その様な経験を通じて、大切な人と、美味しい物を、一緒に・分け合って(シェアして)、美味しいねと言い合いながら・美味しいと言う気持ちを共有しながら、食べる事は、とても幸せで、楽しい気分になると言う事を、学んだ気がします。

私が、母方の祖母の部屋を訪れた際の、祖母の、満面の優しい笑顔は、今でも、鮮明に、私の心の中に残っています。その一方において、私が社会人になった後は、忙しく、私の母方の祖母が亡くなるまで、たまにしか、私の母方の祖母の、話し相手を出来なくなってしまったのが、今でも、私の大きな、悔い・心残りとなって、心の中にあります。

私の母は、男の子は女性を助ける力強く優しい男性に育てなければならないと言う保守的な教育方針があって、私も私の弟も、母に、男は涙を見せるものではない、男は簡単に泣くようでは、女性を守れない等と言った内容の事を言われて、育てられて来たと言う影響もあり、私も実際に、その通りであると思い、私は、少なくとも、中学生以降は、自分自身に関する事で、泣いた(涙を流した)事は、一度もありません。まあ、そんな私も、悲しい映画とか、悲しいドラマとかには弱く、割と、涙もろいと言うか、割と、すぐ涙が出て来てしまう方なのですが(まあ、涙が出ると言うだけで、泣くと言う程ではない)w

私は、そもそも、子供の頃を含めて、号泣と言ったものは、ほとんどした事がないのですが(私の親(母)は、子供(私、及び、私の弟)が、子供の頃から高校生の頃、子供(私、及び、私の弟)の事を、物質的には、好き放題、甘やかせていた為、私と私の弟は、幼い頃・子供の頃から、自分が欲しい物の為に、駄々をこねると言った必要はありませんでしたw)、私は、大人になってから、と言うか中学生以降、号泣(しかも大号泣w)した事が、たった一度だけあります。

それが、母方の祖母の、お葬式の時です。私の、母方の祖母の、お葬式の時(私の母方の祖父は、既に亡くなっていました)、父は泣かず、母は、しくしく泣いて、私の2歳年下の弟も、しくしく泣いて、私だけ、号泣(しかも、恥ずかしげもなく、思わず、大号泣w)してしまいました。

前述の通り、私の母方の祖母は、生涯、世間知らずの田舎の裕福な家の箱入りのお嬢さん的な要素があった女性であり、生涯、窓際で、白馬の王子様が、自分を迎えに来るのを、待ち続ける、夢見る少女の様な面を持った女性でした。

母方の祖父は、良き(良い)夫でしたが、母方の祖母にとって、母方の祖父は、白馬の王子様としては、物足りない男性であった様ですw

前述の通り、私が社会人になった後は、忙しく、私の母方の祖母が亡くなるまで、たまにしか、私の母方の祖母の、話し相手を出来なくなってしまったのが、今でも、私の大きな、悔い・心残りとなって、心の中にありますが、私が、母方の祖母にとって、少しでも、白馬の王子になれていたとしたら良かったなと思います。


ちなみに、私の母方の祖母は、動物が好きでした。


以下、その事に関する参考の投稿。

ペットの話等 →
/jp/board/exc_board_8/view/id/2831655/page/2?&sfl=membername&stx=nnemon




東京都心部の西部の静かで落ち着いた住宅地にある、我が家の近所の、私の実家は、元々、私の母方の祖父母の家で(ちなみに母は、一人っ子です)、現在は、両親が引き継いで暮らしています。既に、母方の祖父母共に、亡くなっています。

私の母方の祖母は、若い頃の写真を見ると、中々、綺麗で、(自分の親族に対して言うのもなんなのですが)美人なのですが、私は、太ってしまって、若い頃と、大分、変わってしまってからの、母方の祖母の姿しか知りませんw

私の母は、痩せの大食い(大食いと言っても、標準よりも少し多く食べる程度ですが)の体質(比較的、たくさん食べても痩せている体質)で、私も、私の母からの遺伝で、痩せの大食い(やはり、大食いと言っても、標準よりも少し多く食べる程度ですが)の体質(比較的、たくさん食べても痩せている体質)なのですが、私の母の、痩せの大食いの体質(比較的、たくさん食べても痩せている体質)は、私の母方の祖父、又は、私の母方の祖母の姉(やはり、生涯、痩せている体質であった)に似たのだと思います。ちなみに、私の母は、身長は、163cm位と、私の母の世代の女性にしては、比較的、高い方ですが、それは、母方の祖母(私の、母方の祖母は、身長は、160cm位と、祖母の世代の女性としては、比較的、高い方であった)からの遺伝であると思います(私の母方の祖父は、身長は、165cm位と小柄であった)。ちなみに、私の父の家系は、長身の家系です。

以下、参考の投稿。
大きくなったらあなたの身長はどのくらいになる?→
/jp/board/exc_board_11/view/id/2734688/page/2?&sfl=membername&stx=jlemon



諏訪 根自子(suwa nejiko)(1920年生まれ。2012年に亡くなる)は、1930年代の初め頃から1950年代頃にかけて活躍していた、日本の、女性、violinistです。諏訪 根自子(suwa nejiko)は、1930年代の初めから1930年代の中期にかけて(諏訪 根自子(suwanejiko)が、10代の初めから10代の中頃にかけて)、(年齢の割に、とても高い実力があった事から)天才と呼ばれ、また、美人(美少女)であった事から、日本の、大衆の間で、現在で言う、女性、アイドル(idol)歌手的な、人気を博しました(おそらく。。。)。


写真以下2枚。写真は、借り物。少女の頃の諏訪 根自子(suwa nejiko)。若い頃の、私の母方の祖母は、若い頃の写真を見る限り、目が大きく、鼻筋が通った(鼻が高い)美人で、若い頃の、私の母方の祖母は、そっくり(完全に似ている)と言う程ではありませんが、少女の頃の諏訪 根自子(suwa nejiko)に似ています。しかしながら、私は、太ってしまって、若い頃と、大分、変わってしまってからの、母方の祖母の姿しか知りませんw


 

 





 

 


私の、母方の祖母は、大人しくて、上品な性格であったのですが、私の母の活発な性格は、私の母方の祖母の姉(私の母の、私の母と同年代の、女性の、いとこの母。既に亡くなっています)に似ています。私の母は、幼い頃から、よく、近所の、私の母の、女性の、いとこの家に遊びに行っていました。ちなみに、逆に、私の母の、女性の、いとこは、性格は、上品で、おっとりとしていて、大人しい性格で、性格は、私の母方の祖母に似ています(ちなみに、私の母の、女性の、いとこも、幼い頃・子供の頃、私の母の家(我が家の近所の私の実家)に、よく、遊びに来ていた様です)。

私の母方の祖母は、(大学から東京に出てきたものの)、生涯、世間知らずの田舎の裕福な家の箱入りのお嬢さん的な要素があった女性です。

私の母方の祖母は、東京での学生時代・独身時代、私の母方の祖母の父が、東京の麻布(azabu)(東京都心部の高級住宅地の一つ)に保有していた東京の別宅に暮らしていたそうです。私の母方の祖母の父は、当時、東京及びその郊外(現在の東京23区内)に、いくつかの、土地と家を保有し、人に貸したり、また、用事が有って、東京に出てくる際の、滞在先等として使ったりしていましたが、その内の一つが、(私の母方の祖母が、見合いによって、私の母方の祖父と結婚した際に)私の母方の祖父母に、与えられました。これが、先に説明した、私が、生まれ育った我が家の近所の実家です(前述の通り、家の建物は、私が生まれる前に建て替えられています)。麻布(azabu)の家の方は、これよりも、はるかに大きくて、立派だったそうですが、第2次世界大戦後、他人の手に渡ってしまったそうです(私の母方の祖母の実家は、戦後、徐々に、没落して行った様です。現在も、一応、少しは、立派な家に暮らしているらしいですが。。。)。

私の母方の祖母は、見合い(私の母方の祖母の父(私の母方の曽祖父)の知り合いの紹介)により、私の母方の祖父と知り合い、結婚しました。私の母方の祖母は、私の母方の祖父と結婚してから、ずっと主婦をしていました。もっとも、私の母方の祖母は、第二次世界大戦が終わるまでは、東京での、学生時代・独身時代を含めて、ずっと、メイド(maid)がいる(メイド(maid)に身の回りの世話をして貰う)生活であったので、主婦とは言っても、私の母方の祖母が、生まれて初めて、本格的に家事をする様になったのは、第二次世界大戦後からであった様です。

私の母方の祖母は、東京のA学院大学と言う、キリスト教系の大学(私の母方の祖母が、卒業した時は、その前身の高等教育機関でしたが)を卒業した後、東京のキリスト教の教会に就職したものの、間もなく、私の母方の祖父と結婚、祖父と結婚した後は、アルバイトを含めて、一切、仕事した事がない、専業主婦であり、人生において、ほとんど社会人と言うものを経験した事がないまま亡くなりました。私の母方の祖母は、生涯、窓際で、白馬の王子様が、自分を迎えに来るのを、待ち続ける、夢見る少女の様な面を持った女性でした。私の母方の祖母は、見合い(私の母方の祖母の父(私の母方の曽祖父)の知り合いの紹介)により、私の母方の祖父と知り合い、結婚しました。母方の祖父は、良き(良い)夫でしたが、母方の祖母にとって、母方の祖父は、白馬の王子様としては、物足りない男性であった様ですw

私の母方の祖母の姉は、子供の頃から、ずっと、大人しかった、私の母方の祖母を、リードし、守る存在であった様です。この、私の母方の祖母の姉と、私の母方の祖母の関係は、調度、私の母と、私の母方の祖母の姉の、一人だけの子供である、私の母と同年代の、私の母の、女性の、いとこの関係に重なります。私の母と、私の母の、女性の、いとこは、お互いに、同年代で、一人っ子(一人娘)同士で、また、子供の頃から、ずっと家が、近所同士である事から、幼い頃から、二人共、高齢者の年齢になる、現在に至るまで、ずっと、親友同志と言った感じで、現在に至るまで、よく、二人で、一緒に、遊びに出掛けていますが、私の母と、私の母の、女性の、いとこが、一緒に、遊ぶ時は、いつも、私の母がリードして、私の母が、お姉さん的な役割を担っている様です。

私の母方の祖母の姉は、(私の母方の祖母と同様)東京のA学院大学を卒業した後、結婚するまで、東京で事務員として働いていました(おそらく、OLの先駆けの様な存在であったと思います)。私の母方の祖母は、前述の通り、見合い(私の母方の祖母の父(私の母方の曽祖父)の知り合いの紹介)により、私の母方の祖父と知り合い、結婚しましたが、その際に、私の母方の祖母の父(私の母方の曽祖父)の、「この人が、真面目で、性格が優しそうで、お前に良さそうだから、お前は、この人と結婚しなさい」と言った感じの事に、そのまま、素直に従って、私の母方の祖父と結婚した感じですが、私の母方の祖母の姉は、ミーハーな性格であり(私の母方の祖母の姉の、ミーハーな性格は、私の母が、よく受け継いでいますw)、(おそらく)多かった、見合い候補の相手から、自ら、相手を選び、京都大学(当時は、京都帝国大学)を卒業した、エリート銀行員と結婚しました。結婚した際には、私の母方の祖母と同様、私の母方の祖母の父(私の母方の曽祖父)から、東京の私の街にある、敷地面積100坪程(約330平方m)の、一戸建て住宅を与えられました。もっとも、私の母方の祖母の姉夫妻は、東京郊外(当時)の別の家に暮らし、私の街の家の方は、別宅の様な感じで使っていた様です。しかし、私の母方の祖母の姉の夫は、現在で言うDVの傾向があった等、性格上、問題があった男性で、その事が原因により(その事に耐え切れなくなった、私の母方の祖母の姉が、その事を、私の母方の祖母の父(私の母方の曽祖父)に相談した結果)、私の母方の祖母の姉は、私の母方の祖母の父(私の母方の曽祖父)の仲介により離婚、幼い一人娘(私の母と、同年代の、私の女性の、いとこ)と共に、元々、結婚した際に、私の母方の祖母の父(私の母方の曽祖父)から与えられた、私の街の、一戸建て住宅に暮らす様になりました(私の母方の祖母の姉は、既に亡くなり、現在、その一戸建て住宅は、私の母の、女性の、いとこ夫妻が、引き継いで暮らしています)。私の母方の祖母の姉は、離婚が成立すると共に、私の母方の祖母の父(私の母方の曽祖父)のコネにより、デパートに就職。東京都心のN本橋のM越と言うデパートで働きながら、シングルマザーとして(女手一つで)、私の母の、女性の、いとこを育て上げました。ちなみに、色々とあって(その事に関しては、また機会があれば書きます)、私の母方の祖母の実家が、最後まで、東京に保有していた不動産である、東京中心部(東京23区内)にある、小さな土地は、私の母方の祖母の姉が貰い、私の母方の祖母の姉は、その土地にアパートを建て、アパート経営も行っていた為(現在、そのアパート経営も、私の母の、女性の、いとこ夫妻が、引き継いでいます)、その家賃収入もあり、私の母方の祖母の姉は、収入的には、ゆとりがあった様です。

ちなみに、私の祖母の姉の性格は、私の母が、よく受け継いでいます。ちなみに、私の母は、私の母から私の父にアプローチしての、バリバリの恋愛結婚ですw


 

 


私の母方の祖母と、私の母方の祖母の姉は、自分の親族に対して、こう言う事も、何なんですが、美人姉妹でした。参考の写真。写真は、借り物。内田 有紀(uchida yuki)(1975年生まれの、日本の女優)。私の母方の祖母の姉の顔は、調度、この写真の内田 有紀(uchida yuki)の顔を、顔の輪郭、そのままで、老けて、おばあさんのようにした顔でした。ただし、内田 有紀(uchida yuki)は、肌の色は、色黒の(たぶん。。。)、女性ですが、私の母方の祖母の姉は、私の母方の祖母と同様、肌の色は、色白(白)でした。

 


私の、母方の祖母は、身長は、160cm位と、祖母の世代の女性としては、比較的、高い方でしたが、私の母方の祖母の姉は、さらに背が高く、身長は、162cm位ありました。私の母方の祖母は、私は、太ってしまって、若い頃と、大分、変わってしまってからの、母方の祖母の姿しか知りませんが、体質の違いや、母方の祖母は、(幼い頃・子供の頃は、それでも、ある程度、外で遊んでいたようですが)、子供の頃から、病弱で、基本的に、外に出る事を好まず、ほとんど家で過ごしていた事と、実に対照的で、私の母方の祖母の姉は、絶えず動いていないと気が済まない性格と言った違いもあったのだと思いますが、(私の母方の祖母も、私の母方の祖母の姉も、食べ物を食べる量は、おそらく、ほとんど変わらなかったのにもかかわらず)、私の母方の祖母の姉は、生涯、痩せ型の体質でした(生涯、痩せていました)。

私の母方の祖母は、率直に言って、性格に、怠け者で、ものぐさで、ぐうたらな面があった女性でw、私が記憶を遡れる限りから(私が、幼い頃・子供の頃から)、姿勢は、猫背気味で、歩く速度も、のんびりとして(よく言えば、ゆったりとして)、遅かったのですが、私の母方の祖母の姉は、生涯、姿勢の良さや、歩く姿の美しさ等に気をつけて、生涯、背筋が伸び(年齢の割に、非常に姿勢が良く)、歩く速度も速く、矍鑠とした、凛々しい人でした。私の母方の祖母の姉は、(私の母方の祖母と同じく)80歳代の前半(普通に女性が健康に生きたら生きる寿命より短い)で、突然に心筋梗塞で亡くなる直前まで、至って(とても)元気で、普通に生活をしていました。

私は、私の母方の祖母には、私が記憶に残る限り、一度も、叱られた事がなかったのですが、子供の頃、我が家及び我が家の近所の私の実家の近所の、私の母方の祖母の姉の家(私の母方の祖母の姉の、娘(私の母の、私の母と同年代の、私の母の、女性の、いとこ)の家族の家)に遊びに行った際に、挨拶の仕方等で、私の母方の祖母の姉には叱られた事がありますw 私の母方の祖母の姉は、自分の孫(私の母と同年代の、私の母の、女性の、いとこの子供)にも、他人の孫(まあ、他人の孫と言っても、私は、私の母方の祖母の姉の、妹の孫なのですが。。。)にも、分け隔てなく、叱るべき時は、叱ると言う、ポリシー(方針)を持った人であった様です。とは言っても、基本的には、(私の母方の祖母と同様に)性格は優しく、厳しさの中に優しさがあると言うよりも、優しさの中にも厳しさがあると言った人でした。また叱る際にも、感情的に叱るのではなく、理詰めで教え諭すような叱り方をする人で、愛情を持って叱る人でした。

私は両親に甘やかされて自由奔放に育ちましたし、私の母も両親(私の母方の祖父母)に甘やかされて自由奔放に育ちましたが、(さすがに、私の母は、大人になってからは、私の母方の祖母の姉に叱られるような事はなくなったようですし、私の母方の祖母の姉は、年を取ってからは性格が丸くなったようですが(ちなみに、私が知っている、私の母方の祖母の姉は、性格が丸くなってからの、私の母方の祖母の姉です))、私の母は、相対的に、私の母方の祖母(私の母にとっては母)よりも、私の母方の祖母の姉(私の母にとっては伯母)に、はるかに(ずっと)、多く叱られたようでw、母は、(もう、母方の祖母の姉が亡くなってから、長い年月が経っているので、今は、あまり言いませんが)、かつては、常々、伯母(私の母方の祖母の姉)は、(本質的には)優しい人であるが、厳しい人であったと言っていましたw 私の母方の祖母の姉は、やはり、自分の子供(私の母と同年代の、私の母の、女性の、いとこ)も、他人の子供(私の母。まあ、他人の子供と言っても、私の母方の祖母の姉にとっては、妹の子供なのですが)も、分け隔てなく、叱るべき時は、叱ると言う、ポリシー(方針)を持った人であった様です。と言うか、大人しくて、お行儀が良い(性格は、私の母方の祖母に似た)、私の母方の祖母の姉の娘(私の母と同年代の、私の母の、女性の、いとこ)よりも、活発でチャラチャラした私の母の方が、私の母方の祖母の姉に、相対的に、はるかに(ずっと)、多く叱られていたようですw


前述の通り、私の母の、女性の、いとこは、私の母と同様、一人っ子です(一人娘です)。私の母の、女性の、いとこは見合いで、会社員の男性と知り合い結婚しました。また、私の母同様、実質的には、婿養子の様な感じで、自分の実家に夫を受け入れ、子供の頃から、今まで、ずっと実家暮らしです(私の母と、子供の頃から、ずっと近所同士)。 

私の母と同年代の、私の母の、女性の、いとこの見合いによる結婚は、私の母方の祖母の姉(私の母と同年代の、私の母の、女性の、いとこの母)の影響であった事は、確かであると思います。その背景には、私の母方の祖母の姉が、見合いによる結婚とは言え、(おそらく)多かった、見合い候補の相手から、ミーハーな基準により、自ら、相手を選び、結婚相手選び(男選び)を失敗した経験から、自分の、一人だけの子供であり一人きりの娘には、同じ失敗・同じ思いをさせたくないと言う強い気持ち(母心)があった事は明らかであると思います。

前述の通り、私の母方の祖父も、私の父も、結婚したからには、ずっと(一生)、妻の事を大切にし、守らなければならないと言った、昔ながらの(保守的な)、紳士の美学・ポリシー(方針)と言った物を持った男性ですが、私の母の、女性の、いとこの夫(私とは、近所に暮らす、血の繋がっていない親戚の、おじさんと言う関係)も、やはり、結婚したからには、ずっと(一生)、妻の事を大切にし、守らなければならないと言った、昔ながらの(保守的な)、紳士の美学・ポリシー(方針)と言った物を持った男性です。また、私の母の、女性の、いとこの夫は、性格が穏やかで、温和な紳士であると言う点においても、私の母方の祖父と、私の父と共通しています。

私の母の、女性の、いとこの夫は、大学から、田舎から東京に出て来た、K大学を卒業した会社員で(今は既に定年退職したか半分定年退職状態にあるのか、ちょっと分かりません)、昔から、穏やかで、お洒落な(ファッションにとても気を遣っている)紳士です。

ちなみに、私の母方の祖母の姉は、私の母の、女性の、いとこ(私の母方の祖母の姉の一人娘)が大学を卒業し(私の母と同様、通常の(4年制の)大学を卒業しています)・見合いにより結婚し・また自身が(私の母方の祖母の姉が)仕事を退職し、ゆとりが出来た後は、元々、趣味としていた、ガーデニング(gardening)に、益々、精を出すようになり、私の母方の祖母の姉の生前は、我が家及び我が家の近所の私の実家の近所の、私の母方の祖母の姉の家(現在は、私の母方の祖母の姉の娘(私の母の、女性の、いとこ)夫妻が引き継いで暮らしています)の庭は、私の街の住人の間で、花々が美しい庭の家として、ちょっとした評判でした(ちょっと有名でした)。母方の祖母の姉が亡くなってからは、母方の祖母の姉の家(現在は、私の母方の祖母の姉の娘(私の母の、女性の、いとこ)夫妻が引き継いで暮らしています)の庭の手入れは、主に、私の母の、女性の、いとこの夫(私とは、近所に暮らす、血の繋がっていない親戚の、おじさんと言う関係)が、引き継いで行っていますが、見栄えという点に関して、私の母方の祖母の姉の生前の頃とは、比べ物になりません。

ちなみに、我が家の近所の、私の実家の庭は、一部、私の母方の祖母が花や植物を植えたり・鉢植えの花を置いたりしていた場所がありましたが(母方の祖母が亡くなった後は、その部分の手入れは、私の母が引き継いでいます)、基本的には、日本庭園で(日本伝統式の庭園で)、昔から、手入れは、定期的に、植木屋さんに入って貰って(基本的に植木屋さん任せで)やっています。

 


姉妹他



以下、最近の投稿・参考の投稿。

似てるw他→
/jp/board/exc_board_8/view/id/2974138?&sfl=membername&stx=nnemon2
サンバカーニバルの踊子さん他→
/jp/board/exc_board_8/view/id/2970221?&sfl=membername&stx=nnemon2
子供の才能を活かしきれない親の特徴他→
/jp/board/exc_board_8/view/id/2973778?&sfl=membername&stx=nnemon2



FireFox以外で、この投稿の写真が見られない場合は、FireFoxで、ご覧下さい。


以下、「」内。私の前の投稿文より。。。


「東京都心部の西部の静かで落ち着いた住宅地にある、我が家の近所の、私の実家は、元々、私の母方の祖父母の家で(ちなみに母は、一人っ子です)、現在は、両親が引き継いで暮らしています。既に、母方の祖父母共に、亡くなっています。

我が家の近所の私の実家の、私の父は、会社員で(父は、既に、半分定年退職状態になってから久しいですが)、私の母は、父と結婚してから、アルバイトを含めて、仕事を、一切した事がない専業主婦です。

私には、兄弟姉妹は、2歳年下の弟が一人います。私の弟は、外資系の会社員で、既に、結婚をし、(まだ、二人共、幼いですが)子供が2人いて(男の子(上)が1人と、女の子(下)が1人)、弟の家族(妻・子供)と共に、東京の西部郊外の、静かで落ち着いた住宅地に買った、一戸建て住宅に、暮らしています。


私は、会社員と比べて、相対的に、安定的ではなく、相対的に、ビジネスにおいて危険性が高いが、相対的に、自分で自分の時間を自由に管理する事が出来、又、自分の才能・仕事の能力・仕事の効率性・努力が、自分の収入に直結する(直接繋がる)、個人事業の道を選びました」


以下、前に行った以下の投稿から抜粋して来た物です。

A Whole New World /エレクトリカルパレード他→
/jp/board/exc_board_1/view/id/2920734/page/2?&sfl=membername&stx=nnemon


以下、「」内。私の前の投稿文より。。。



「ちなみに、非常にベタなのですが、彼女(私の今の彼女)の、スマホの、私からの着信音は、「いつか王子様が(Someday My Prince Will Come)」となっていますw」


A Whole New Worldは、良い曲ですね。彼女も、A Whole New Worldは、Disneyの曲の中で、1位、2位を争う好きな曲だそうです。


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動画は、借り物。A Whole New World(日本語)。





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動画は、借り物。A Whole New World。実写版、アラジンより。。。



以上、前に行った投稿から抜粋して来た物でした。


以下、参考の投稿。

アニメのキャラと女性と私等→
/jp/board/exc_board_3/view/id/2816574?&sfl=membername&stx=jlemon
いじめが起きる本当の原因他→
/jp/board/exc_board_8/view/id/2938874/page/4?&sfl=membername&stx=nnemon2



以下、前に行った以下の投稿から抜粋して来た物です。

祖母が好きであったイラストレーター→
/jp/board/exc_board_8/view/id/2867823/page/5?&sfl=membername&stx=nnemon


我が家の近所の私の実家は、元々、母方の祖父母の家で(ちなみに、私の母は、一人っ子です)、母方の祖父母が同居していたのですが、私は、大の、おばあちゃん子でした。


亡くなった、私の母方の祖母が、最も、好きであった、イラストレーターが、この投稿で紹介する、蕗谷虹児(fukiyakoji)です。


私の母方の祖母は、竹久 夢二(takehisa yumeji)等も好きでしたが、何よりも蕗谷 虹児(fukiya koji)の絵やイラスト(illustration)が好きだった様です。私の母方の祖母は、絵を描くのが好きでしたが、生涯、蕗谷 虹児(fukiya koji)の様な絵を、たくさん描いていました(絵と言っても、スケッチ(sketch)みたいな物ですが。。。)。

私の母方の祖母は、田舎の裕福な地主の家の娘であったので、おそらく、幼い頃・子供の頃、女学校(第二次世界大戦以前の階級社会の日本において、主として、比較的裕福な、中流階級以上の家庭の娘が通った、女子向けの中等教育機関。ほぼ、現在の小学校と大学の間、即ち、中学と高校に当たる)時代、東京での大学時代、東京での独身の社会人時代(まあ、私の母方の祖母は、社会人になって間もなく結婚し、以後、ずっと主婦であったのですが。。。)に、私の母方の祖母の実家(私の母方の祖母の親)に、当時の、日本の、女性の子供向けの雑誌、少女向けの雑誌、若い女性向けの雑誌を、たくさん買って貰っていたと思います。

 


前に横浜駅周辺(東京の南部郊外最大の繁華街)にある、規模の大きなデパートの一つ、そごう(sogo)デパート横浜店内に有る美術館で行われた、蕗谷 虹児(fukiya koji)の展覧会(exhibition)のカタログ(catalogue)。




以下の写真は、全て、この展覧会(exhibition)のカタログ(catalogue)より。。。説明文も、基本的に、カタログ(catalogue)の文から抜粋して来た物です。


蕗谷 虹児(fukiya koji)。自宅を訪れた、ファン(fan)の少女達に囲まれて。1933年。



若い頃の蕗谷 虹児(fukiya koji)。1920年。


蕗谷 虹児(fukiya koji)は、1925年から1929年にかけて、パリ(Paris)で、(挿絵画家としてではなく)本格的な画家として成功する事を目指して、(フランスの)パリ(Paris)に滞在していました。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、パリ(Paris)滞在中、サロン・ドートンヌ(Salon d‘Automne)等のサロン(salon)で入選を重ね、パリ(Paris)の雑誌社からも挿絵の依頼を受ける様になりましたが、家庭の事情等により、パリ(Paris)で本格的な画家として成功する夢を断念し、1929年に、約4年間における、パリ(Paris)滞在を終え、日本に帰国しました。なお、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、「令女界(reijyo kai)」等の、日本の雑誌向けの仕事は、(前よりも、少なくなったものの)、パリ(Paris)滞在中も続けていました。


蕗谷 虹児(fukiya koji)のパリ(Paris)のアトリエ(作品制作作業場)にて。。。1926年頃。手前、蕗谷 虹児(fukiya koji)。奥、蕗谷 虹児(fukiya koji)の最初の妻、りん(rin)(日本の、一般人の、女性)。当時、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、27歳、りん(rin)は、17歳(蕗谷 虹児(fukiya koji)は、1923年、24歳の時、当時14歳であった、近所の娘、りん(rin)と結婚)。


下の写真、パリ(Paris)にて。。。写真一番左の奥、蕗谷 虹児(fukiya koji)。写真一番左の手前、りん(rin)。1928年頃。


「日本をあとに(日本を後に)」。「小令女(小reijyo)」(「令女界(reijyo kai)」の妹版として創刊された、日本の少女雑誌(少女向けの雑誌))の挿絵原画。りん(rin)をモデル(model)にしていると思われます。1926年。


下落合(shimoochiai。現在の新宿区(東京中心部の西部)に位置する)の自宅(自分の家)の庭で、薔薇の剪定をする、蕗谷 虹児(fukiya koji)。1939年。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、自宅の庭に、様々な種類の薔薇を植えていました。



以上、前に行った投稿から抜粋して来た物でした。蕗谷 虹児(fukiya koji)の作品の例に関しては、上で、リンクを付けた投稿、「祖母が好きであったイラストレーター」を、参照して下さい。


私の母方の祖父に関しては、以下の投稿を参照して下さい。

女系家族育ち前編→
/jp/board/exc_board_8/view/id/2840230/page/8?&sfl=membername&stx=nnemon




<iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube-nocookie.com/embed/g_Czx6qdKJo" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen></iframe>
動画は、借り物。「晩春(Late Spring)」(1949年)。私は、個人的に、小津  安二郎(ozu yasujiro)の映画が好きなのですが、個人的に、小津 安二郎(ozu yasujiro)の映画の中でも、一番、好きな映画は、地味な映画ですが(と言うか、そもそも、小津  安二郎(ozu yasujiro)は、黒澤 明(kurosawa akira。1910年生まれ。1998年に亡くなる。日本の世界的に有名な映画監督の一人)等と異なり、人々の日常を舞台とした、地味な映画を特徴とする、映画監督です)、「晩春(Late Spring)」(1949年)です。その理由の一つに、「晩春(Late Spring)」の登場人物達が、私の、身近な人々に重なると言うのがあります。笠 智衆(ryu chishu)と言う、日本の俳優が演じる、保守的で、つましい(質素な)、大学の教授は、誰に対しても、めったに怒らない穏やかな紳士であった、亡くなった、私の母方の祖父に重なります。原 節子(harasetsuko)と言う日本の女優が演じる、大学教授の娘は、亡くなった、私の母方の祖母に重なります。原 節子(harasetsuko)が演じる、大学教授の娘の、元々、女学校(第二次世界大戦以前の日本における、女子(女性)向けの中等教育機関。ほぼ、現在の小学校と大学の間、即ち、中学校と高校に当たる。第二次世界大戦以前の階級社会の日本において、主として、比較的裕福な、中流階級以上の家庭の娘(中流階級・中上流階級(upper-middle class)・上流階級の、家庭の娘)が通った)の同級生(同学年・同じクラス)である、親友の女性(月丘 夢路(tsukioka yumeji)と言う、日本の女優が演じています)は、我が家、及び、我が家の近所の実家の近所に暮らしていた、亡くなった、私の母方の祖母の姉の若い頃のイメージに重なります。




以下、前に行った投稿から抜粋して来た物です。


<iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube-nocookie.com/embed/YPdgtXIS8gc" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen></iframe>
動画は、借り物。ユリアーナ・シャノー(Juliana Schano)-「もういちど教えてほしい」(1999年)。映画、「ガメラ3 邪神〈イリス〉覚醒(Gamera 3: The Revenge of Iris )」(1999年)の、主題歌(テーマ曲)。ユリアーナ・シャノー(Juliana Schano)(この動画の歌手)を老けさせたらと想像した顔は、我が家の近所の実家に同居していた(と言うか、前述の通り、実家は、元々、母方の祖父母の家です)、私の母方の祖母(既に亡くなっています)の老けてからの顔に(まあ、祖母なので、私は、祖母の老けてからの顔しか知らないのですが)、似ています。私の母方の祖母の老けてからの顔は、この動画の、ユリアーナ・シャノー(Juliana Schano)の顔を、もう少し、丸い、狸(raccoon dog)系の顔にして、老けさせたような顔をしていました。


以上、前に行った投稿から抜粋して来た物でした。


以下、前に行った以下の投稿から抜粋して来た物です。

女系家族育ち後編→
/jp/board/exc_board_8/view/id/2841167/page/8?&sfl=membername&stx=nnemon


私は、大の、おばあちゃん子でした。

私が社会人となり忙しくなる前は(私が幼い頃・子供の頃から大学生の頃までは)、母方の祖母の、一番の話し相手は(私の母方の祖母と、一番、たくさん話していたのは)、大の、おばあちゃん子であった私でした。2番目の話し相手は(私の母方の祖母と、2番目に、たくさん話していたのは)、近所に暮らしていた私の母方の祖母の姉で(私の母方の祖母の姉は、生前、よく、近所の私の実家(元々、私の母方の祖父母の家)に遊びに来て、妹である、私の母方の祖母と話していました)、私の母は、私の母方の祖母の、3番目の話相手と言った感じでした。その他、時々からたまに、私の母方の祖母の、学生時代からの、女性の親友が、家(私の実家。元々、私の母方の祖父母の家)に遊びに来て、私の母方の祖母と話をしていました。

私の母方の祖母は、結婚してからアルバイトを含めて、一切の仕事をした事がない専業主婦でしたし、私の母も、結婚してからは、アルバイトを含めて、一切の仕事をした事がない専業主婦です。

私の母は、もちろん家事もあったのですが、私の母方の祖母の姉の性格を受け継ぎ、絶えず動いていないと気が済まない活発な性格で、自分がやりたい事で、忙しいと言った感じで、基本的に、じっくりと、私の母方の祖母の話相手をするような事は、あまりしませんでしたが、私が、社会人となり忙しくなって、以前のように、私の母方の祖母の話相手を出来なくなってからは、さすがに、気を遣って、前に比べれば、相対的に、よく、私の母方の祖母の話相手をするようになりました。

私は、実生活の会話においては、女性の、悩み等を、共感しながら、じっくり聞いてあげると言う事は心掛けており、話相手が女性の場合、そうした事は、ある程度自然に身について、出来ていると思いますが、その様な、私の女性の(と言うか人の)話の、聞き上手と言った事に関して、私は、母方の祖母と、たくさん話をした(母方の祖母の話を、たくさん聞いた)と言う事を通じて、培われた、その事が、大いなる土台となったと思います。

私の母方の祖母からは、人の心を思いやる、優しい心と言う物を学びました。そこにいてくれるだけで、存在していてくれるだけで、皆の(少なくとも私の)、癒しとなり、優しい気持ちになれた、おばあちゃんで、そこにいてくれるだけで、存在していてくれているだけで、ありがたく、いつでも、幸せな気持ちになる事が出来ました。

私は、学生時代(高校・大学時代)、ピアス等をして外見を派手に飾り立てていて、街を歩けば、ホストのスカウトの声が掛かったりしていたのですがw、母方の祖母は、そんな私の外見とは関係なく、ずっと、私の中身を見続けてくれていて、私の母方の祖母にとって、私は、いつまで経っても、ずっと、可愛い孫のままでした。

私が、実家で、母方の祖母の部屋を訪れると、母方の祖母は、いつでも、満面の、温かく、嬉しそうな、優しい笑顔で迎えてくれました。そして、母方の祖母は、私が、一度、祖母の部屋に遊びに訪れると、時間が許す限り(いや、時間が許さなくても)、いつまでも、私にいて欲しいと言った感じで、私が適当に時間を見て、「じゃあ、おばあちゃん、そろそろ行くね」と言わない限り、祖母の部屋から出て来れずw、私の母方の祖母の方からは、絶対に、そろそろ、遊びに行っておいでとか、そろそろ、勉強があるんじゃないか等と言って、私に、そろそろ行ってもいいよと配慮するような事は、絶対にありませんでしたw

前述の通り、母方の祖母は、甘い物(お菓子等)が好きだったので、甘い物(お菓子等)を、自分の為に、よく(たくさん)買っていたのですが、母方の祖母は、その様な、自分の為に買った、甘い物を、自分の部屋で、私と、一緒に食べる・私と、分けて食べるのが、大好きでした。私は、その様な経験を通じて、大切な人と、美味しい物を、一緒に・分け合って(シェアして)、美味しいねと言い合いながら・美味しいと言う気持ちを共有しながら、食べる事は、とても幸せで、楽しい気分になると言う事を、学んだ気がします。

私が、母方の祖母の部屋を訪れた際の、祖母の、満面の優しい笑顔は、今でも、鮮明に、私の心の中に残っています。その一方において、私が社会人になった後は、忙しく、私の母方の祖母が亡くなるまで、たまにしか、私の母方の祖母の、話し相手を出来なくなってしまったのが、今でも、私の大きな、悔い・心残りとなって、心の中にあります。

私の母は、男の子は女性を助ける力強く優しい男性に育てなければならないと言う保守的な教育方針があって、私も私の弟も、母に、男は涙を見せるものではない、男は簡単に泣くようでは、女性を守れない等と言った内容の事を言われて、育てられて来たと言う影響もあり、私も実際に、その通りであると思い、私は、少なくとも、中学生以降は、自分自身に関する事で、泣いた(涙を流した)事は、一度もありません。まあ、そんな私も、悲しい映画とか、悲しいドラマとかには弱く、割と、涙もろいと言うか、割と、すぐ涙が出て来てしまう方なのですが(まあ、涙が出ると言うだけで、泣くと言う程ではない)w

私は、そもそも、子供の頃を含めて、号泣と言ったものは、ほとんどした事がないのですが(私の親(母)は、子供(私、及び、私の弟)が、子供の頃から高校生の頃、子供(私、及び、私の弟)の事を、物質的には、好き放題、甘やかせていた為、私と私の弟は、幼い頃・子供の頃から、自分が欲しい物の為に、駄々をこねると言った必要はありませんでしたw)、私は、大人になってから、と言うか中学生以降、号泣(しかも大号泣w)した事が、たった一度だけあります。

それが、母方の祖母の、お葬式の時です。私の、母方の祖母の、お葬式の時(私の母方の祖父は、既に亡くなっていました)、父は泣かず、母は、しくしく泣いて、私の2歳年下の弟も、しくしく泣いて、私だけ、号泣(しかも、恥ずかしげもなく、思わず、大号泣w)してしまいました。

前述の通り、私の母方の祖母は、生涯、世間知らずの田舎の裕福な家の箱入りのお嬢さん的な要素があった女性であり、生涯、窓際で、白馬の王子様が、自分を迎えに来るのを、待ち続ける、夢見る少女の様な面を持った女性でした。

母方の祖父は、良き(良い)夫でしたが、母方の祖母にとって、母方の祖父は、白馬の王子様としては、物足りない男性であった様ですw

前述の通り、私が社会人になった後は、忙しく、私の母方の祖母が亡くなるまで、たまにしか、私の母方の祖母の、話し相手を出来なくなってしまったのが、今でも、私の大きな、悔い・心残りとなって、心の中にありますが、私が、母方の祖母にとって、少しでも、白馬の王子になれていたとしたら良かったなと思います。


ちなみに、私の母方の祖母は、動物が好きでした。


以下、その事に関する参考の投稿。

ペットの話等 →
/jp/board/exc_board_8/view/id/2831655/page/2?&sfl=membername&stx=nnemon




東京都心部の西部の静かで落ち着いた住宅地にある、我が家の近所の、私の実家は、元々、私の母方の祖父母の家で(ちなみに母は、一人っ子です)、現在は、両親が引き継いで暮らしています。既に、母方の祖父母共に、亡くなっています。

私の母方の祖母は、若い頃の写真を見ると、中々、綺麗で、(自分の親族に対して言うのもなんなのですが)美人なのですが、私は、太ってしまって、若い頃と、大分、変わってしまってからの、母方の祖母の姿しか知りませんw

私の母は、痩せの大食い(大食いと言っても、標準よりも少し多く食べる程度ですが)の体質(比較的、たくさん食べても痩せている体質)で、私も、私の母からの遺伝で、痩せの大食い(やはり、大食いと言っても、標準よりも少し多く食べる程度ですが)の体質(比較的、たくさん食べても痩せている体質)なのですが、私の母の、痩せの大食いの体質(比較的、たくさん食べても痩せている体質)は、私の母方の祖父、又は、私の母方の祖母の姉(やはり、生涯、痩せている体質であった)に似たのだと思います。ちなみに、私の母は、身長は、163cm位と、私の母の世代の女性にしては、比較的、高い方ですが、それは、母方の祖母(私の、母方の祖母は、身長は、160cm位と、祖母の世代の女性としては、比較的、高い方であった)からの遺伝であると思います(私の母方の祖父は、身長は、165cm位と小柄であった)。ちなみに、私の父の家系は、長身の家系です。

以下、参考の投稿。
大きくなったらあなたの身長はどのくらいになる?→
/jp/board/exc_board_11/view/id/2734688/page/2?&sfl=membername&stx=jlemon



諏訪 根自子(suwa nejiko)(1920年生まれ。2012年に亡くなる)は、1930年代の初め頃から1950年代頃にかけて活躍していた、日本の、女性、violinistです。諏訪 根自子(suwa nejiko)は、1930年代の初めから1930年代の中期にかけて(諏訪 根自子(suwanejiko)が、10代の初めから10代の中頃にかけて)、(年齢の割に、とても高い実力があった事から)天才と呼ばれ、また、美人(美少女)であった事から、日本の、大衆の間で、現在で言う、女性、アイドル(idol)歌手的な、人気を博しました(おそらく。。。)。


写真以下2枚。写真は、借り物。少女の頃の諏訪 根自子(suwa nejiko)。若い頃の、私の母方の祖母は、若い頃の写真を見る限り、目が大きく、鼻筋が通った(鼻が高い)美人で、若い頃の、私の母方の祖母は、そっくり(完全に似ている)と言う程ではありませんが、少女の頃の諏訪 根自子(suwa nejiko)に似ています。しかしながら、私は、太ってしまって、若い頃と、大分、変わってしまってからの、母方の祖母の姿しか知りませんw







私の、母方の祖母は、大人しくて、上品な性格であったのですが、私の母の活発な性格は、私の母方の祖母の姉(私の母の、私の母と同年代の、女性の、いとこの母。既に亡くなっています)に似ています。私の母は、幼い頃から、よく、近所の、私の母の、女性の、いとこの家に遊びに行っていました。ちなみに、逆に、私の母の、女性の、いとこは、性格は、上品で、おっとりとしていて、大人しい性格で、性格は、私の母方の祖母に似ています(ちなみに、私の母の、女性の、いとこも、幼い頃・子供の頃、私の母の家(我が家の近所の私の実家)に、よく、遊びに来ていた様です)。

私の母方の祖母は、(大学から東京に出てきたものの)、生涯、世間知らずの田舎の裕福な家の箱入りのお嬢さん的な要素があった女性です。

私の母方の祖母は、東京での学生時代・独身時代、私の母方の祖母の父が、東京の麻布(azabu)(東京都心部の高級住宅地の一つ)に保有していた東京の別宅に暮らしていたそうです。私の母方の祖母の父は、当時、東京及びその郊外(現在の東京23区内)に、いくつかの、土地と家を保有し、人に貸したり、また、用事が有って、東京に出てくる際の、滞在先等として使ったりしていましたが、その内の一つが、(私の母方の祖母が、見合いによって、私の母方の祖父と結婚した際に)私の母方の祖父母に、与えられました。これが、先に説明した、私が、生まれ育った我が家の近所の実家です(前述の通り、家の建物は、私が生まれる前に建て替えられています)。麻布(azabu)の家の方は、これよりも、はるかに大きくて、立派だったそうですが、第2次世界大戦後、他人の手に渡ってしまったそうです(私の母方の祖母の実家は、戦後、徐々に、没落して行った様です。現在も、一応、少しは、立派な家に暮らしているらしいですが。。。)。

私の母方の祖母は、見合い(私の母方の祖母の父(私の母方の曽祖父)の知り合いの紹介)により、私の母方の祖父と知り合い、結婚しました。私の母方の祖母は、私の母方の祖父と結婚してから、ずっと主婦をしていました。もっとも、私の母方の祖母は、第二次世界大戦が終わるまでは、東京での、学生時代・独身時代を含めて、ずっと、メイド(maid)がいる(メイド(maid)に身の回りの世話をして貰う)生活であったので、主婦とは言っても、私の母方の祖母が、生まれて初めて、本格的に家事をする様になったのは、第二次世界大戦後からであった様です。

私の母方の祖母は、東京のA学院大学と言う、キリスト教系の大学(私の母方の祖母が、卒業した時は、その前身の高等教育機関でしたが)を卒業した後、東京のキリスト教の教会に就職したものの、間もなく、私の母方の祖父と結婚、祖父と結婚した後は、アルバイトを含めて、一切、仕事した事がない、専業主婦であり、人生において、ほとんど社会人と言うものを経験した事がないまま亡くなりました。私の母方の祖母は、生涯、窓際で、白馬の王子様が、自分を迎えに来るのを、待ち続ける、夢見る少女の様な面を持った女性でした。私の母方の祖母は、見合い(私の母方の祖母の父(私の母方の曽祖父)の知り合いの紹介)により、私の母方の祖父と知り合い、結婚しました。母方の祖父は、良き(良い)夫でしたが、母方の祖母にとって、母方の祖父は、白馬の王子様としては、物足りない男性であった様ですw

私の母方の祖母の姉は、子供の頃から、ずっと、大人しかった、私の母方の祖母を、リードし、守る存在であった様です。この、私の母方の祖母の姉と、私の母方の祖母の関係は、調度、私の母と、私の母方の祖母の姉の、一人だけの子供である、私の母と同年代の、私の母の、女性の、いとこの関係に重なります。私の母と、私の母の、女性の、いとこは、お互いに、同年代で、一人っ子(一人娘)同士で、また、子供の頃から、ずっと家が、近所同士である事から、幼い頃から、二人共、高齢者の年齢になる、現在に至るまで、ずっと、親友同志と言った感じで、現在に至るまで、よく、二人で、一緒に、遊びに出掛けていますが、私の母と、私の母の、女性の、いとこが、一緒に、遊ぶ時は、いつも、私の母がリードして、私の母が、お姉さん的な役割を担っている様です。

私の母方の祖母の姉は、(私の母方の祖母と同様)東京のA学院大学を卒業した後、結婚するまで、東京で事務員として働いていました(おそらく、OLの先駆けの様な存在であったと思います)。私の母方の祖母は、前述の通り、見合い(私の母方の祖母の父(私の母方の曽祖父)の知り合いの紹介)により、私の母方の祖父と知り合い、結婚しましたが、その際に、私の母方の祖母の父(私の母方の曽祖父)の、「この人が、真面目で、性格が優しそうで、お前に良さそうだから、お前は、この人と結婚しなさい」と言った感じの事に、そのまま、素直に従って、私の母方の祖父と結婚した感じですが、私の母方の祖母の姉は、ミーハーな性格であり(私の母方の祖母の姉の、ミーハーな性格は、私の母が、よく受け継いでいますw)、(おそらく)多かった、見合い候補の相手から、自ら、相手を選び、京都大学(当時は、京都帝国大学)を卒業した、エリート銀行員と結婚しました。結婚した際には、私の母方の祖母と同様、私の母方の祖母の父(私の母方の曽祖父)から、東京の私の街にある、敷地面積100坪程(約330平方m)の、一戸建て住宅を与えられました。もっとも、私の母方の祖母の姉夫妻は、東京郊外(当時)の別の家に暮らし、私の街の家の方は、別宅の様な感じで使っていた様です。しかし、私の母方の祖母の姉の夫は、現在で言うDVの傾向があった等、性格上、問題があった男性で、その事が原因により(その事に耐え切れなくなった、私の母方の祖母の姉が、その事を、私の母方の祖母の父(私の母方の曽祖父)に相談した結果)、私の母方の祖母の姉は、私の母方の祖母の父(私の母方の曽祖父)の仲介により離婚、幼い一人娘(私の母と、同年代の、私の女性の、いとこ)と共に、元々、結婚した際に、私の母方の祖母の父(私の母方の曽祖父)から与えられた、私の街の、一戸建て住宅に暮らす様になりました(私の母方の祖母の姉は、既に亡くなり、現在、その一戸建て住宅は、私の母の、女性の、いとこ夫妻が、引き継いで暮らしています)。私の母方の祖母の姉は、離婚が成立すると共に、私の母方の祖母の父(私の母方の曽祖父)のコネにより、デパートに就職。東京都心のN本橋のM越と言うデパートで働きながら、シングルマザーとして(女手一つで)、私の母の、女性の、いとこを育て上げました。ちなみに、色々とあって(その事に関しては、また機会があれば書きます)、私の母方の祖母の実家が、最後まで、東京に保有していた不動産である、東京中心部(東京23区内)にある、小さな土地は、私の母方の祖母の姉が貰い、私の母方の祖母の姉は、その土地にアパートを建て、アパート経営も行っていた為(現在、そのアパート経営も、私の母の、女性の、いとこ夫妻が、引き継いでいます)、その家賃収入もあり、私の母方の祖母の姉は、収入的には、ゆとりがあった様です。

ちなみに、私の祖母の姉の性格は、私の母が、よく受け継いでいます。ちなみに、私の母は、私の母から私の父にアプローチしての、バリバリの恋愛結婚ですw



私の母方の祖母と、私の母方の祖母の姉は、自分の親族に対して、こう言う事も、何なんですが、美人姉妹でした。参考の写真。写真は、借り物。内田 有紀(uchida yuki)(1975年生まれの、日本の女優)。私の母方の祖母の姉の顔は、調度、この写真の内田 有紀(uchida yuki)の顔を、顔の輪郭、そのままで、老けて、おばあさんのようにした顔でした。ただし、内田 有紀(uchida yuki)は、肌の色は、色黒の(たぶん。。。)、女性ですが、私の母方の祖母の姉は、私の母方の祖母と同様、肌の色は、色白(白)でした。


私の、母方の祖母は、身長は、160cm位と、祖母の世代の女性としては、比較的、高い方でしたが、私の母方の祖母の姉は、さらに背が高く、身長は、162cm位ありました。私の母方の祖母は、私は、太ってしまって、若い頃と、大分、変わってしまってからの、母方の祖母の姿しか知りませんが、体質の違いや、母方の祖母は、(幼い頃・子供の頃は、それでも、ある程度、外で遊んでいたようですが)、子供の頃から、病弱で、基本的に、外に出る事を好まず、ほとんど家で過ごしていた事と、実に対照的で、私の母方の祖母の姉は、絶えず動いていないと気が済まない性格と言った違いもあったのだと思いますが、(私の母方の祖母も、私の母方の祖母の姉も、食べ物を食べる量は、おそらく、ほとんど変わらなかったのにもかかわらず)、私の母方の祖母の姉は、生涯、痩せ型の体質でした(生涯、痩せていました)。

私の母方の祖母は、率直に言って、性格に、怠け者で、ものぐさで、ぐうたらな面があった女性でw、私が記憶を遡れる限りから(私が、幼い頃・子供の頃から)、姿勢は、猫背気味で、歩く速度も、のんびりとして(よく言えば、ゆったりとして)、遅かったのですが、私の母方の祖母の姉は、生涯、姿勢の良さや、歩く姿の美しさ等に気をつけて、生涯、背筋が伸び(年齢の割に、非常に姿勢が良く)、歩く速度も速く、矍鑠とした、凛々しい人でした。私の母方の祖母の姉は、(私の母方の祖母と同じく)80歳代の前半(普通に女性が健康に生きたら生きる寿命より短い)で、突然に心筋梗塞で亡くなる直前まで、至って(とても)元気で、普通に生活をしていました。

私は、私の母方の祖母には、私が記憶に残る限り、一度も、叱られた事がなかったのですが、子供の頃、我が家及び我が家の近所の私の実家の近所の、私の母方の祖母の姉の家(私の母方の祖母の姉の、娘(私の母の、私の母と同年代の、私の母の、女性の、いとこ)の家族の家)に遊びに行った際に、挨拶の仕方等で、私の母方の祖母の姉には叱られた事がありますw 私の母方の祖母の姉は、自分の孫(私の母と同年代の、私の母の、女性の、いとこの子供)にも、他人の孫(まあ、他人の孫と言っても、私は、私の母方の祖母の姉の、妹の孫なのですが。。。)にも、分け隔てなく、叱るべき時は、叱ると言う、ポリシー(方針)を持った人であった様です。とは言っても、基本的には、(私の母方の祖母と同様に)性格は優しく、厳しさの中に優しさがあると言うよりも、優しさの中にも厳しさがあると言った人でした。また叱る際にも、感情的に叱るのではなく、理詰めで教え諭すような叱り方をする人で、愛情を持って叱る人でした。

私は両親に甘やかされて自由奔放に育ちましたし、私の母も両親(私の母方の祖父母)に甘やかされて自由奔放に育ちましたが、(さすがに、私の母は、大人になってからは、私の母方の祖母の姉に叱られるような事はなくなったようですし、私の母方の祖母の姉は、年を取ってからは性格が丸くなったようですが(ちなみに、私が知っている、私の母方の祖母の姉は、性格が丸くなってからの、私の母方の祖母の姉です))、私の母は、相対的に、私の母方の祖母(私の母にとっては母)よりも、私の母方の祖母の姉(私の母にとっては伯母)に、はるかに(ずっと)、多く叱られたようでw、母は、(もう、母方の祖母の姉が亡くなってから、長い年月が経っているので、今は、あまり言いませんが)、かつては、常々、伯母(私の母方の祖母の姉)は、(本質的には)優しい人であるが、厳しい人であったと言っていましたw 私の母方の祖母の姉は、やはり、自分の子供(私の母と同年代の、私の母の、女性の、いとこ)も、他人の子供(私の母。まあ、他人の子供と言っても、私の母方の祖母の姉にとっては、妹の子供なのですが)も、分け隔てなく、叱るべき時は、叱ると言う、ポリシー(方針)を持った人であった様です。と言うか、大人しくて、お行儀が良い(性格は、私の母方の祖母に似た)、私の母方の祖母の姉の娘(私の母と同年代の、私の母の、女性の、いとこ)よりも、活発でチャラチャラした私の母の方が、私の母方の祖母の姉に、相対的に、はるかに(ずっと)、多く叱られていたようですw


前述の通り、私の母の、女性の、いとこは、私の母と同様、一人っ子です(一人娘です)。私の母の、女性の、いとこは見合いで、会社員の男性と知り合い結婚しました。また、私の母同様、実質的には、婿養子の様な感じで、自分の実家に夫を受け入れ、子供の頃から、今まで、ずっと実家暮らしです(私の母と、子供の頃から、ずっと近所同士)。 

私の母と同年代の、私の母の、女性の、いとこの見合いによる結婚は、私の母方の祖母の姉(私の母と同年代の、私の母の、女性の、いとこの母)の影響であった事は、確かであると思います。その背景には、私の母方の祖母の姉が、見合いによる結婚とは言え、(おそらく)多かった、見合い候補の相手から、ミーハーな基準により、自ら、相手を選び、結婚相手選び(男選び)を失敗した経験から、自分の、一人だけの子供であり一人きりの娘には、同じ失敗・同じ思いをさせたくないと言う強い気持ち(母心)があった事は明らかであると思います。

前述の通り、私の母方の祖父も、私の父も、結婚したからには、ずっと(一生)、妻の事を大切にし、守らなければならないと言った、昔ながらの(保守的な)、紳士の美学・ポリシー(方針)と言った物を持った男性ですが、私の母の、女性の、いとこの夫(私とは、近所に暮らす、血の繋がっていない親戚の、おじさんと言う関係)も、やはり、結婚したからには、ずっと(一生)、妻の事を大切にし、守らなければならないと言った、昔ながらの(保守的な)、紳士の美学・ポリシー(方針)と言った物を持った男性です。また、私の母の、女性の、いとこの夫は、性格が穏やかで、温和な紳士であると言う点においても、私の母方の祖父と、私の父と共通しています。

私の母の、女性の、いとこの夫は、大学から、田舎から東京に出て来た、K大学を卒業した会社員で(今は既に定年退職したか半分定年退職状態にあるのか、ちょっと分かりません)、昔から、穏やかで、お洒落な(ファッションにとても気を遣っている)紳士です。

ちなみに、私の母方の祖母の姉は、私の母の、女性の、いとこ(私の母方の祖母の姉の一人娘)が大学を卒業し(私の母と同様、通常の(4年制の)大学を卒業しています)・見合いにより結婚し・また自身が(私の母方の祖母の姉が)仕事を退職し、ゆとりが出来た後は、元々、趣味としていた、ガーデニング(gardening)に、益々、精を出すようになり、私の母方の祖母の姉の生前は、我が家及び我が家の近所の私の実家の近所の、私の母方の祖母の姉の家(現在は、私の母方の祖母の姉の娘(私の母の、女性の、いとこ)夫妻が引き継いで暮らしています)の庭は、私の街の住人の間で、花々が美しい庭の家として、ちょっとした評判でした(ちょっと有名でした)。母方の祖母の姉が亡くなってからは、母方の祖母の姉の家(現在は、私の母方の祖母の姉の娘(私の母の、女性の、いとこ)夫妻が引き継いで暮らしています)の庭の手入れは、主に、私の母の、女性の、いとこの夫(私とは、近所に暮らす、血の繋がっていない親戚の、おじさんと言う関係)が、引き継いで行っていますが、見栄えという点に関して、私の母方の祖母の姉の生前の頃とは、比べ物になりません。

ちなみに、我が家の近所の、私の実家の庭は、一部、私の母方の祖母が花や植物を植えたり・鉢植えの花を置いたりしていた場所がありましたが(母方の祖母が亡くなった後は、その部分の手入れは、私の母が引き継いでいます)、基本的には、日本庭園で(日本伝統式の庭園で)、昔から、手入れは、定期的に、植木屋さんに入って貰って(基本的に植木屋さん任せで)やっています。



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