生活/文化


この投稿の動画は、全て、you tubeから借りて来た物です。

以下、「」内。私の前の投稿文より。。。

「東京都心部の西部の静かで落ち着いた住宅地にある、我が家の近所の、私の実家は、元々、私の母方の祖父母の家で(ちなみに母は、一人っ子です)、現在は、両親が引き継いで暮らしています。既に、母方の祖父母共に、亡くなっています。

我が家の近所の私の実家の、私の父は、会社員で(父は、既に、半分定年退職状態になってから久しいですが)、私の母は、父と結婚してから、アルバイトを含めて、仕事を、一切した事がない専業主婦です。

私には、兄弟姉妹は、2歳年下の弟が一人います。私の弟は、外資系の会社員で、既に、結婚をし、(まだ、二人共、幼いですが)子供が2人いて(男の子(上)が1人と、女の子(下)が1人)、弟の家族(妻・子供)と共に、東京の西部郊外の、静かで落ち着いた住宅地に買った、一戸建て住宅に、暮らしています。

私は、会社員と比べて、相対的に、安定的ではなく、相対的に、ビジネスにおいて危険性が高いが、相対的に、自分で自分の時間を自由に管理する事が出来、又、自分の才能・仕事の能力・仕事の効率性・努力が、自分の収入に直結する(直接繋がる)、個人事業の道を選びました。

私は、普通の中流層・庶民層なのですが、私は、基本的には、自分が、与えられた環境の中で、自分の能力の範囲内で、出来得る限り生き(ここで言う、出来得る限り生きとは、自分の能力の限界を知り、自分の幸福の為に、自分の努力の落とし所を知ると言う意味も含まれます)、自分が稼いだお金で、出来得る限りの、幸せな生活をしている(幸せな人生を生きている)と言う、自信があります。」


以下、前に行った投稿から抜粋して来た物です。


写真は、借り物(写真の作者:160SX )。「Cosmo AP」。「Cosmo AP」は、MAZDA(日本の、大規模、自動車会社の一つ。ただし、大規模会社としては、規模が小さい)が、1975年に販売を開始した、ミドルクラス(中級class)の乗用車です。「Cosmo AP」は、私が、幼い頃から子供の頃、実家(両親)の、自動車でした。

ちなみに、私の母は、運動神経が良く、自動車の駐車等、確かに女性にしては(と言うか男女関係なく)上手いのですが、自分が自動車の運転が上手いと言う自信が、妙に高くてw(今は、さすがに、もう高齢者の年齢に突入し、昔よりも、自動車の運転は、慎重になっているようですw)、私が子供の頃から中学生・高校生の頃、それが故に、母が運転する車に乗るのは、ちょっと怖かったですw(家の車(両親の車)の運転は、同乗者(家族(妻・子供))の事を気遣い、慎重な安全運転である父の運転の方が、安心でしたw)。

私が幼い頃から現在に至るまでの、(我が家の近所の)私の実家の(私の両親の)、自動車の変遷は、MAZDA「Cosmo AP」→Nissan Volkswagen Santana(日産(nissan)自動車が、日本国内市場向けに、日本国内で生産していた、2代目、Volkswagen Passat(Volkswagen Passat (B2))の姉妹自動車。1984年に販売開始)→Mercedes-Benz C-Class →Mercedes-Benz E-Class (W211)(現在)(Mercedes-Benz E-Class の中では安い物です)となっていますが、両親は、まだ、W211 E-Classに乗り続けていて、今のところ、一向に(全く)、買い替える気配を見せません。私の、家系(家族の性質)は、一度、自動車を買ったら、とても長く乗る(乗り潰す位の、つもりで乗る)、家系(家族の性質)ですw(私も、私の弟も、そうです)。

私の実家(両親)の自動車の選択は、母が主導権を握っているので、私の母は、前述の通り、ミーハーでチャラチャラしたところがあるんでw(現代に若者時代を過ごしていたら、ギャルになったような気もしますw)、Nissan Volkswagen Santanaは、ドイツ車(当時、日本では、おそらく、まだドイツ車のブランド力が高かった)が、国産の同クラスの車と同程度の価格で買える、「ラッキー!」と言った程度の乗りで買ったような気がしますw その後、両親は、Mercedes-Benz C-Class、Mercedes-Benz E-Classと乗り継いでいるのですが、ベンツと言う選択は、母の見栄の部分もある事は、否定出来ないと思いますw まあ、(私もそうなのですが)、両親は、休日に高速道路を使う機会が多いので、その点において、ドイツ車と言う選択は、良いのだと思いますが。

幼い頃、親に連れられて、実家のコスモで国内旅行をした際に、現地の私よりも年上の(おそらく自動車に興味がある・自動車好きの)見知らぬ男の子が、うちの(実家の)コスモを見て、「品川ナンバーのコスモ、かっけー!」みたいな内容の事を言い、その言葉が耳に残り、子供心になんとなくですが、品川ナンバーってブランド力があるんだなと言う事を初めて認識しましたw

ちなみに、当時の、我が家及び我が家の近所の実家の近所の親戚の家(私の母方のはとこの実家)の車は、ケンメリスカイラインでしたw

以下、参考の投稿(私の車に関する投稿です)。
自動車のBGMとして聴く曲→
/jp/board/exc_board_8/view/id/2750708/page/5?&sfl=membername&stx=jlemon


私の母方の祖母(既に亡くなっています)は、(大学から東京に出てきたものの)、生涯、世間知らずの田舎の裕福な家の箱入りのお嬢さん的な要素があった女性です。私の母方の祖母は、大人しくて、上品な性格でした。

母方の祖母は、(幼い事・子供の頃は、それでも、ある程度、外で遊んでいたようですが)、子供の頃から、病弱で、基本的に、外に出る事を好まず、ほとんど家で過ごしていた女性であり、生涯、窓際で、白馬の王子様が、自分を迎えに来るのを、待ち続ける、夢見る少女の様な面を持った女性でした。

私は、自分の事を、ロマンチスト的な面がある男だと思ってますが、私のロマンチスト的な面は、私の母方の祖母の性格を受け継いでいると思います(ちなみに、私は、大の、おばあちゃん(母方の祖母)子でした)。

私の母方の祖母は、東京での学生時代・独身時代、私の母方の祖母の父が、東京の麻布(azabu)(東京都心部の高級住宅地の一つ)に保有していた東京の別宅に暮らしていたそうです。私の母方の祖母の父は、当時、東京及びその郊外(現在の東京23区内)に、いくつかの、土地と家を保有し、人に貸したり、また、用事が有って、東京に出てくる際の、滞在先等として使ったりしていましたが、その内の一つが、(私の母方の祖母が、見合いによって、私の母方の祖父と結婚した際に)私の母方の祖父母に、与えられました。これが、私が、生まれ育った我が家の近所の実家です(家の建物は、私が生まれる前に建て替えられています)。麻布(azabu)の家の方は、これよりも、はるかに大きくて、立派だったそうですが、第2次世界大戦後、他人の手に渡ってしまったそうです(私の母方の祖母の実家は、戦後、徐々に、没落して行った様です。現在も、一応、田舎で、少しは、立派な家に暮らしているらしいですが。。。)。

私の母方の祖母は、見合い(私の母方の祖母の父(私の母方の曽祖父)の知り合いの紹介)により、私の母方の祖父と知り合い、結婚しました。私の母方の祖母は、私の母方の祖父と結婚してから、ずっと主婦をしていました。もっとも、私の母方の祖母は、第二次世界大戦が終わるまでは、東京での、学生時代・独身時代を含めて、ずっと、メイド(maid)がいる(メイド(maid)に身の回りの世話をして貰う)生活であったので、主婦とは言っても、私の母方の祖母が、生まれて初めて、本格的に家事をする様になったのは、第二次世界大戦後からであった様です。

私の母方の祖父母は、結婚して間もなく、私の母方の祖父の仕事の関係で、中国の、上海(Shanghai )に渡った為、私の母方の祖父母が、我が家の近所の私の実家(私の母方の祖母の父が、私の母方の祖母が結婚した際に、私の母方の祖父母に与えた、一戸建て住宅)に、本格的に暮らし始めたのは、第二次世界大戦後の事です。ちなみに、私の母方の祖父母の、上海(Shanghai )の、日本租界(日本人用の外国人居留地)での、生活は、立派な家に暮らし、夫婦二人だけの生活に、二人の、中国人の、メイド(maid)がいる生活であったそうです。

私の母方の祖父は、田舎に生まれ、東京の、大学(まあ、当時は、その前身の高等教育機関でしたが)を卒業した後、第二次世界大戦までは、技師(技術者)、第二次世界大戦後は、会社員をしていました。私の母方の祖父の実家は、裕福であったと言う話は聞かず、また、かと言って、貧しかったとか、苦学したとか(金銭面で、苦労して、東京の、大学を卒業した)と言う話も聞かなかったので、まあ、中流の農家(中流の農民の家)、若しくは、会社員・公務員等の、家庭であったのではないでしょうか。。。

私の母方の祖父は、基本的には、保守的で、堅実、真面目で、生活は、つましく、派手な生活は、好みませんでした。

私の母方の祖父は、その一方で、第二次世界大戦後、間もなく、(私の母方の祖父の)兄弟(私の母方の祖父の兄弟の中に、性格が、真面目で堅実と正反対の者達がいてw、私の母方の祖父は、そうした兄弟達に、釣られてしまったようですw)と共に事業(銀座(ginza)(東京を代表する高級繁華街、且つ、東京を代表する繁華街)の小売商店)を起こしましたが、すぐに失敗し(母方の祖母の話によれば、母方の祖父は、当時、連日、(私の母方の祖父の)兄弟と共に、銀座(ginza)で宴会(party)を行っていたそうで、すぐに失敗したのは、当然だと思いますw)、借金の一部を背負う事となりました。その頃、私の母方の祖父母の間に、待望の子供(私の母)が生まれました。私の母方の祖母は、当時としては、割と高齢出産の方であったと思いますが、結局、女の子供一人(私の母)しか授かりませんでした(ちなみに、近所に暮らしていた、私の母方の祖母の姉も同様です)。

第二次世界大戦後、間もなくの頃は、私の母方の祖母の実家(田舎の裕福な地主であった。第二次世界大戦後、徐々に、没落して行ったようですが)のコネで、食料は、ある程度、困らなかったそうですし、私の母方の祖父は、幸いな事に事業が失敗した後、間もなく、会社員としての仕事を得る事が出来ました(ちなみに、母方の祖父は、その後、就職した会社の株を含む、株でも、かなり金を儲けたようです)。

しかし、田舎からの食糧の供給も、しばらくして途絶え、私の母方の祖父は、失敗した事業の借金の、一部を背負った事もあって、私の母が、小学生であった頃が、最も、生活が貧しかったそうで、今でも、私の母は、その頃の貧しい生活が鮮明に記憶に残っていると言います。その一方で、実家では、私の母が、子供の頃から、犬等のペットを飼っており( ちなみに、私の実家、且つ、私の母が、初めて飼った、犬・猫のペットは、小型犬で、私の母が、子供の頃から飼った犬。名前は、Mickeyで、名前を付けたのは、子供の頃の私の母で、Disneyの Mickey Mouseから取った物)、そうした話を聞くと、ゆとりがあったようにも感じますがw

その一方において、私の母が小学生の頃は、実家の庭の一部を畑に改造して(現在は、その部分は、自動車が3台駐車出来る駐車場に改造されています)、野菜を自給自足したり、私の母方の祖母が、自分の持っている、高価な(高級な)、着物(日本の女性向けの伝統衣装)を売って、家計の足しにしても、なお、慢性的な、食料不足で、私の母は、絶えず空腹であったそうです。私の母が、小学校の半ば頃は、調度、1950年代の半ば頃、日本国民、全般的に言えば、第二次世界大戦直後の貧しさのピークは過ぎ去り、第二次世界大戦後の、大量生産・大量消費社会の夜明けを待つ頃でしたが、私の母は、当時、まともな家に暮らしていたものの(第二次世界大戦後、間もなくから、1950年代にかけては、東京中心部では、第二次世界大戦中の空襲による、焼け野原の上に、バラック小屋(仮の、粗末な家)を建てて、暮らしている人々が、たくさんいました)、その一方において、私の母は、当時、食生活や衣服に関しては、明らかに、小学校の、多くの同級生達の家に比べて、貧しかったそうです。

私の実家が、貧しい生活を完全に脱し、生活が安定し、生活に、ゆとりが出来たのは、私の母が中学校3年生位から、高校に入学した頃の事だそうです。調度、その頃(1960年代の初め頃)、1920年代頃?に建てられた、日本伝統式の住宅の建物であった実家の建物を、現在の建物に建て替えています(現在は、耐震補強もなされていますし、時代に合わせて、内装等を、改装して来ています)。

私の母方の祖父母が、一人っ子である(一人娘である)、私の母を、甘やかし、伸び伸びと、自由に(自由奔放)に育てたのは、私の母方の祖父母が、私の母が子供の頃、物質的に、貧しい思いをさせてしまったと言う負い目もあったのかもしれません。

また、私の母が、ある程度、物質主義的な面があり、又、私と弟が、それぞれ、子供の頃から高校生の頃、私の母が、子供を(私と私の弟を)、物質的な面も含めて、とても甘やかしていた事は、自分が(私の母が)、子供の頃、物質的に、貧しい経験をした事の、反動であったのかもしれません。


以下、「」内。私の前の投稿文より。。。

「私は、学生の頃(高校生・大学生の頃)、おそらくチャラチャラしていた事もあってw、芸能人・モデル事務所の人からスカウトの声がかけられていたのですが、母も女子大生の時、一応、芸能人・モデル事務所の人からスカウトの声がかかっていたそうですw(母方の祖父は穏やかで温和な性格であったのですが、当時、母にそれだけはやめてくれと言っていたそうでw、母は、母方の祖父に従って、断っていたそうです)。」

私の叔父(父の弟)(身長は、180cmの長身)は、私の父と違って(私の父は、叔父と同様、外貌は、どちらかと言えば、ガリ勉タイプの人(勉強を非常に熱心にする人)とは、正反対の外貌と言った感じなのですが、中学校時代・高校時代に、(勉強ばかりしていたと言う訳ではなかった様ですが)、とても真面目に、熱心に勉強した様です)、勉強は、ほとんどせず、私の父と違って勉強は、全く、出来なかったようですが、運動が、とても得意で(ちなみに、高校の頃、学校のバスケットボール(basketball)clubに所属していたそうです)、私の父方の祖母や私の父の話によると、高校の時、数々の、地元の伝説を作るくらいw、学校内、及び、学校外の、女子高生達に、モテていた(人気があった)そうですw

前述の通り、父はルックスはどちらかと言えばガリ勉タイプとは正反対と言った感じなのですが、まあ、中学校・高校時代、チャラチャラしていた私と違ってw、よく勉強していた様ですが、それでも、高校時代から女性と交際し、基本的に、高校時代、大学時代と交際する女性が途切れた事はなく、母と知り合うまで、交際する女性は、途切れる事はなかったようです。

また、父は、ちゃっかりしたとこは、ちゃっかりしていて、例えば、父方の祖母に聞いた話ですが、父が高校生の頃、いきなり見知らぬ女の子3人が父の実家に訪ねて来て、何事かと私の父方の祖母が思ったら、ちゃっかり、父が、修学旅行先で仲良くなった他校の女子高生達が、はるばる遠方から訪ねて来たと言う落ちでしたw また、これは、私の父から直接聞いた話ではなく、私の母が、私の父と結婚前に、私の父から聞き出した話を私の母から聞いた話なのですが、父は、大学時代、同年代の女性と交際する一方で、年上の美人の、お金持ちの人妻(その人妻は、とても年齢の離れた年上の金持ちの男性と結婚していた様です)に、食事代等を全て奢って貰って、高級ホテルのレストランで、二人きりで食事をする等、(父は、その人妻と肉体関係を持っていたのかどうか分かりませんが)、その人妻と、援助交際のような付き合いをしていたそうです(ちなみに、父は、その人妻に対して、何の恋心も持っていなかった様です)。うーん、私は、その様な、年上の女性に、高級ホテルのレストランの食事を奢って貰う事等を目当てとした、年上の女性と、援助交際のような付き合いをすると言う事は、若い頃から(中学生・高校生の頃から)、発想も湧きませんし、した事もありません。


私の母は、昔から、「母親である前に女」であるような女性で、自分の恋愛話でも何でも、自分の事は、何でも、バンバン私に話して来ていますw 

私の母は、チャラチャラした所があり、現代に若者時代を過ごしていたら、ギャルになったような気もしますw。

私の母が、自由奔放にやりたい放題に育ったのは、誰に対しても、めったに怒らない穏やかな紳士であった、私の母方の祖父と、(大学から東京に出てきたものの)、生涯、世間知らずの田舎の裕福な家の箱入りのお嬢さん的な要素があった私の母方の祖母の間に、当時としては、割と年を取ってから生まれた、一人っ子(一人娘)であり、甘やかされて育てられたと言うのもあるかもしれません。

私の母は、大学は英米文学科を出ているのですが、それはあまり関係がなく、洋画がとても好きだったと言うのがあるのか、英語がとても好きで、女版、小林 克也?と言った感じで(もちろん外貌は、小林 克也と、全く、違います。 私の母は、特に今よりも若い頃は、年齢よりもかなり若く見えた事もあって、今よりも若い頃、外貌が老けてからのYOU(タレント。元FAIRCHILD)に似ていると言われていましたw)、留学経験はなくても、独学で、英語は、昔から発音も良く流暢に話せましたし(今でも大丈夫でしょう(それ程英語は忘れていないでしょう))、父も、留学経験はないですが、仕事で使う関係で、昔から英語は話せます(発音は、あまり上手くありませんがw)。

私の母は、大学を卒業した後、私の父と結婚をするまでOLをしていました。私の父と母が知り合ったきっかけは、二人共、まだ社会人になってから間もない頃、英検の準備学校で(母は英検1級持ってます。父は英検1級は挫折しましたw)、母が教室に通う初日に、教室に入った時に、既に着席していた(その時初対面の)父の顔を見て、一目惚れした私の母が、咄嗟の判断で、(さり気なくか強引か分かりませんがw)父の隣りの席に座り、教科書を忘れたふりをして、父に見せて貰った事なのですが、私の母は、私の父と知り合った当時、大学時代から交際していた、私の父と同じく、私の母と同年代の、イケメンの会社員と交際していたそうですが、勤めていた会社の上司である、仕事が出来て、イケメンで、金のゆとりがある大人の男性の中年の部長とも不倫の関係にありました(所謂、二股交際をしていたw)。

ちなみに、私の母は、そもそも、(私の父の経歴等分からないうちに)私の父の顔に惚れたのですがw、当時、私の母が大学生の頃から交際していた男性よりも、私の父の方が、(当時、同じ、私の母と同年代の会社員でも)、収入が高かったですし、仕事が出来ると思ったし、将来の仕事や収入面での成功の可能性が、その男性よりも、ずっと高いと感じたそうです。私の母は、私の父と知り合ってから、間もなく、大学時代から交際していた男性を、他に好きな人が出来たからと振り、私の母は、将来、この人(私の父)と結婚するかもと思い(この人(私の父)は、自分の、運命の人かもと思い)、私の母の猛烈なアプローチにより、私の母と私の父は、交際するようになり、私の父と正式に交際をするようになった事をきっかけに、上司の部長との不倫の関係も切ったそうです。母の上司の部長は、母に振られた事により、私の母に、復讐で、今でいうモラハラをしたり、職場で不利な待遇を与える等と言った事は全くなかったそうですが、落ち込んだ事は落ち込んで、今で言うテンションは下がってしまい、私の母は、私の母で、職場で、ある程度、気まずい気分になったそうです。

以上のような経緯を経て、私の父と、私の母は、知り合い、交際するようになり、結婚し、私と、私の2歳年下の弟(私の弟は、会社員で、既に、結婚をし((まだ、二人共、幼いですが)子供が2人います(男の子(上)が1人と、女の子(下)が1人))、弟の家族(妻・子供)と共に、東京の西部郊外の、静かで落ち着いた住宅地に買った、一戸建て住宅に、暮らしています)が生まれたのですが、そこまで、順風満帆に事が、運んだ訳ではなく、私の父と、私の母が、交際中、結婚前に、大きな修羅場がありました。


以下の、結婚前の私の両親の修羅場に関する話は、かつて、私の母から聞いた話です。

私の父と、私の母が知り合った当時、実は、父は、大学時代の終わり頃から交際していた、父がデパートに客として訪れた際に、父が、その外貌に惚れて、(どのようにしたのか分かりませんが)、後日、父が口説いて(私の知らない父の凄い積極性w)、交際するようになった、(私の母と同様)私の父と同年代の、新潟(niigata)県(ちなみに、新潟(niigata)県は、日本で、美人の産地の地域の一つとして知られています)出身で、東京で一人暮らしをし、東京都心のデパートに勤めていた、デパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)と交際していました(その、デパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)の女性は、スラリとして(痩せて)、色白で(まあ、私の父も、私の母も、色白なのですが)、背の高い、女優・モデル系の外貌の美人あったそうです)。

前述の通り、私の父は、私の母の猛烈なアプローチに押されて、私の母と交際するようになったのですが、しばらくの間、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)と交際している事を、母に秘密にし(また、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)にも、母と交際している事を秘密にし)、私の父は、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)と、私の母と、所謂、二股交際していました。私の母は、実家暮らしで(我が家の近所の私の実家は、元々、私の母方の祖父母の家で(ちなみに、母は一人っ子です)、母は、生まれてから、現在まで、ずっと実家暮らしです)、父と外で会う時以外(デートする以外)で、父と過ごす時は、父の、東京中心部(東京23区)内の、父の一人暮らしのアパートを訪れて(ちなみに、父は、大学から、田舎から東京に出て来ました)、そこで父と過ごすか、父が、母の実家(前述の通り、私の実家でもある)に遊びに訪れていたようですが、父は、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)と、外で会う時以外(デートする以外)で過ごす時は、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)の、東京中心部(東京23区)内の、一人暮らしのアパートを訪れて、そこで過ごしていた事と(ちなみに、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)の、新潟(niigata)県の実家は、裕福で、おそらく実家の家賃の援助もあり、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)の、当時、一人暮らしていたアパートは、私の父が、当時、一人暮らしていたアパートよりも、広くて、快適であったようです)、又、これは、私の推測なのですが、父は、仕事人間・会社人間であった事から、どちらか一方と会う時に、休日出勤等を嘘の口実として使えた事から、二股交際が、しばらく、バレなかったのだと思います。ちなみに、父は、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)と、私の母と、二股交際していた時、私の母と、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)同じ位、好きであった様です。

しかし、ある時、父の、二股交際が、私の母と、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)、両方に、同時に、バレる時が来ました。母が、女の勘が働いたのかどうか、分かりませんが、母が、気まぐれに、不意打ちで、父の、一人暮らしのアパートを訪れた際に、偶然、非常に珍しく、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)が、父の、一人暮らしのアパートを訪れていて、父は、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)と二人で、自分のアパートで過ごしていました。当然、父、私の母、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)が、鉢合わせとなり修羅場に発展しました。

私の母は、相手が女性となると、性格が、きつい部分があり、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)の女性も、相手が女性となると、性格が、きつい部分があったようで、私の母と、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)は、激しい口論から、お互い、髪の引っ張り合い、ひっぱたき合い、殴り合いの喧嘩にまで発展し(父は、一生懸命、止めに入ろうとしたが、私の母と、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)の、喧嘩の勢いの凄さに圧倒されてしまい無理であった様です)、結局、喧嘩は、母が勝ち、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)は、もう、こんなの散々だと言った感じで、父のアパートから飛び出して行ったそうです。

ちなみに、私の母は、子供の頃から、運動神経が良く(私の母は、小学校・中学校・高校と体育の成績は常に良かった様です)、また、私の母は、痩せの大食い(大食いと言っても、標準よりも少し多く食べる程度ですが)の体質(比較的、たくさん食べても痩せている体質)なのですが(私も、私の母からの遺伝で、痩せの大食い(やはり、大食いと言っても、標準よりも少し多く食べる程度ですが)の体質(比較的、たくさん食べても痩せている体質)です)、私の母は、痩せてはいるが筋肉質の体質で(ちなみに、私も、母の、痩せているが、筋肉質の体質と言うか、(運動をしなくても)筋肉がつき易い体質を受け継いでいます)、私の母は、おそらく、痩せていながら、若い頃ならば、女性相手の、肉体的な喧嘩は、とても強かったと思いますw 私の母は、中学生・高校生の頃、典型的なスケバン(不良)の道には、走らなかったようですが、もし、私の母が、中学生・高校生の頃、典型的なスケバン(不良)の道に走っていたのならば、もしかしたら、スケバン(女性の不良)の番長になっていたかもしれませんw

その後、私の母は、父に、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)と、きっぱりと別れると言う事を、約束させ、父の、母と、デパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)の二股交際していた事に関して、父の事を、一切、責めなかったそうです。私は、この修羅場の話を母から聞いた時、母に、何故、父の、母と、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)の二股交際していた事に関して、父の事を、一切、責めなかったのか聞いたのですが、母は、父の事が、好き過ぎて、父が、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)ではなく、自分の方に残ってくれた(自分の事を選んでくれた)事に、ほっとして(安心して)、逆に爽やかくらいの気持ちになってw、父の過去の事(父の二股交際)について、父を責めるのは、面倒臭くなってしまったと言った感じの事を言っていました。その辺、母の、さっぱりとした(まあ、何も考えていないとも言えますがw)、性格が表れていると思います。ちなみに、この件における、一番の、被害者であり、一番、傷ついたのは、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)の女性であり、今思うと、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)の女性に、私の両親の事ながら、大変、申し訳ないと思いますし、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)の女性が、父から身を引いてくれなければ、私が生まれなかった可能性もあり、感謝もしています。

まあ、そのような母の性格から、父は、母の事を、前よりも、より一層好きになったのかどうかは分かりませんがw、かくして、その後、父は、(おそらく)、母に一途となり、父と母は、結婚しました。


以下、「」内。前の投稿文より。。。

「お中元(cyugen)は、夏に、贈り物を贈る、日本の習慣、お歳暮(seibo)は、年末に、贈り物を贈る、日本の習慣です。

私の父(会社員)は、既に、半分定年退職状態になってから、久しいのですが、私の父(会社員)が、半分定年退職になる前、バリバリに働いていた時は、我が家の近所の、私の実家は、贈られて来る、大量の、お中元(cyugen)・お歳暮(seibo)の頂き物を処理するのが、大変でした。世界には、食べて行く事が大変な貧しい国もあるのに、申し訳ない事ですが。

私の実家は、大食い(大食いと言っても、標準よりも、少し多く食べる程度ですが)の家系(家族の性質)です。我が家の近所の実家の母は、(もう高齢者の年齢ですが)、相変わらず、痩せの大食い(比較的、たくさん食べても痩せている体質)です。まあ両親とも、大食いの傾向があるのですが、父の場合、中年になって以降それなりに肉が付きました(それでも父は別に太っていると言う程ではなく同世代の男性の標準的な体形です)。私は、母に似て、痩せの大食いタイプ(比較的、たくさん食べても痩せている体質)です(ちなみに、私の弟も、痩せ型の体型です)。

私の実家は、元々、大食いの家系(家族の性質)ではあると思いますが、お中元(cyugen)と、お歳暮(seibo)の食材の処理が、私の実家の、大食いの家系(家族の性質)の定着に、少なからぬ影響を与えた事は、否定出来ない(事実としてある)と思います。

私が、高校生から20代中頃(当時、実家暮らしでした)、例えば、夕張(yubari)メロン(melon)(北海道(hokkaido)(日本の最北端の地方)産の、高級メロン(melon))なんか、毎食後のデザート(dessert)に、家族、それぞれ、四分の一切り(時には、二分の一切りの時もありましたw)ずつ食べて、私と、私の弟(私には兄弟姉妹は2歳年下の弟が一人います)は、それでも、好きなので、美味しいと思って食べていましたが、私の母なんて、飽きてしまって、子供達(私と弟)に、「じゃんじゃん、食べて処理して!」と言った感じでした。何れにしても、一時期、家族全員、高級な食材に対する感覚が麻痺していました。

母は、お中元(cyugen)と、お歳暮(seibo)の時期は、新しい贈り物が届くと、「また来た!」と言った感じで、頂き物の食材の処理で、その分、自分が食べたい物を料理したり買ったりして食べられなくなるので、少し、イラッとしていました。

私が実家を出てからは、母は、実家だけでは、処理出来なくなった(処理し切れなくなった)、お中元(cyugen)・お歳暮(seibo)の頂き物を、実家の近所の我が家(私)や、近所の親しい人達に配る事で、処理するようになりました。

前述の通り、父は、既に、半分定年退職状態になってから、久しいのですが、父が、半分定年退職状態になってからは、お中元(cyugen)・お歳暮(seibo)の頂き物は、ぐっと(たくさん)減り、お中元(cyugen)・お歳暮(seibo)の頂き物は、基本的に、実家だけで(父と母の二人だけで)、処理出来るようになりました。

ちなみに、私は、今まで、記憶に残る限り、実家から貰った、実家の、お中元(cyugen)・お歳暮(seibo)の頂き物は、enjoy・kjに、アップ(upload)した事がありません(もしかしたら、忘れてしまっているだけで、1、2回位は、アップ(upload)しているかもしれませんが)。

ちなみに、私の母は、決して、贅沢と言う訳ではありません。まあ、私の母は、親バカで、私と弟が、子供の頃から高校生の頃、物質的には、好き放題、甘やかしてくれましたが、母は、昔から、貪欲な面は、貪欲で、ケチな面は、ケチです。

近所の実家の母は、よく、ベンツで、OK(日本の、安売りマートのchain)の、広い意味での私の街の店舗に、まとめ買いしに行ってますw(そういう人達、多いですw)。

私の母は、好奇心旺盛と言う事もあって、昔から(私が子供の頃から)、アメ横のような庶民的な商店街や、庶民的な商店(ちなみに、私の街は、東京都心部の山の手の、基本的に、静かで、落ち着いた住宅地ですが、商店街には、昔ながらの庶民的な商店もあり、私の街の商店街は、昔ながらの手作り豆腐店等の昔ながらの庶民的な店と、小洒落た店が、自然と、ゆるやかに共存していると言った感じです)で買い物をするのも、好きで、そうした、庶民的な商店街や、庶民的な商店で買い物をする際には、昔から(おそらく本人が若い頃から)、商店の男性に対して、無意識的・意識的に、猫なで声を出して、値引きをして貰ったり、おまけを貰ったりするのが、とても上手で(とても得意で)、無意識的・意識的に、そうした事が、大好き(とても好き)な女性です。」




「世界の料理ショー(The Galloping Gourmet)」 私が、幼い頃、母が好きで見ていた、テレビ番組の一つに、「世界の料理ショー(The Galloping Gourmet)」と言う、テレビ番組があります。「世界の料理ショー(The Galloping Gourmet)」は、1969年から1971年にかけて、放送された、カナダの、面白い、料理、テレビ番組で、日本では、1974年から1978年に最初に放送された後、1980年中期頃まで、繰り返し、再放送されていました。私が幼い頃、母が、再放送の、「世界の料理ショー(The Galloping Gourmet)」を見て楽しんでいたのを何となく憶えていますし、母が、私が幼い頃、「世界の料理ショー(The Galloping Gourmet)」を参考にして料理を作った事もある事も何となく憶えています。




前に投稿でアップした動画。一番目のケースは、私の母は、東京生まれ、東京育ちですが、昔から、友人達とのお出掛けの待ち合わせや(おそらく)デートの待ち合わせ等、よくてギリギリ待ち合わせ時間に間に合う、通常は、5分から10分程度、遅れるタイプの女性ですw(たぶん、我が家の近所の私の実家(母の実家でもある)から、東京都心のどの主要な繁華街に出るのも近くて又は割と近くて便利な為、昔から、そのようなクセがついちゃっているのだと思いますw)。 私が子供の頃から学生の頃、実家暮らしの時、親戚同士の集まりやお出掛けの際に、いつも母が、ぎりぎりに家(私の実家)を出発しようとするのに、ヤキモキしていましたw ちなみに、私は、女性とデートする際に、昔から(中学生の頃から)、女性をさり気なく大事にする精神で(女性に安心感を与える為に)、デートの待ち合わせをする場合、10分程度前に待ち合わせ場所に着くようにしています。2番目のケースは、関西人の(大阪の人の)、ギャグを真に受けてしまう可能性は、私の母を含めて、天然の面がある、東京の女性にあるあるかもw 3番目は、素で言っても、自慢していると思われてしまう事もあるのかもしれませんね。ちなみに、私は、都会も田舎も、持ちつ持たれつだと思います。都会も田舎も、それぞれの良さがあり、又、ストレスの多い都会人の生活は、郊外・近郊・田舎での保養なくして成り立ちません。


以下、「」内。私の前の投稿文より。。。

「私の母は、子供(私と私の弟)に対して勉強しろと一切言わないタイプの親でしたw

私の母は、ミーハーで、面食いの(ハンサムな男性が好きな)、女性でした。また、私の母は、親バカでしたw 私の母は、自分の息子(私と、私の弟。特に私w)の事を、ハンサムと評価していました。

私の母が、私が思春期の頃に、私に、よく言っていた言葉(また、私の弟にも、私の弟が、思春期の頃に、時々、言っていた言葉)で、印象に残っている言葉で、たぶん内面や心掛け等に関して言っていたんだと思いますが、「美男子(又は、ハンサム。どちらか忘れた。まあ、両方言っていたと思います)は、女性(又は、女性達。たぶん両方言っていたと思います)の美男子に対する期待に応える義務がある」と言う言葉がありますw」


「私の母は、大学は英米文学科を出ているのですが、それはあまり関係がなく、洋画がとても好きだったと言うのがあるのか、英語がとても好きで、女版、小林 克也?と言った感じで(もちろん外貌は、小林 克也と、全く、違います。 私の母は、特に今よりも若い頃は、年齢よりもかなり若く見えた事もあって、今よりも若い頃、外貌が老けてからのYOU(タレント。元FAIRCHILD)に似ていると言われていましたw)、留学経験はなくても、独学で、英語は、昔から発音も良く流暢に話せましたし(今でも大丈夫でしょう(それ程英語は忘れていないでしょう))、父も、留学経験はないですが、仕事で使う関係で、昔から英語は話せます(発音は、あまり上手くありませんがw)。」


「ちなみに、私の家族が出た学校に関し、私の父(大学から田舎から東京に出て来ました)は、大学までずっと公立(大学は国立)、私の母、私、私の弟(私の2歳年下。外資系の会社に勤める会社員。既に結婚をし、まだ2人共幼いですが、子供が2人いて、妻・子供達と共に東京の西部郊外の静かて落ち着いた住宅地に買った一戸建て住宅に暮らしている)は、高校までずっと公立です。

私の母方の祖母(既に亡くなっています)は、田舎の裕福な地主の家(戦後は、おそらく農地改革により没落した)の娘で、地元の私立のミッション系の女学校を卒業した後、東京のA学院大学に進学しました。母方の祖母は、女子大生時代、祖母の実家(祖母の父)の、麻布の東京の別宅に暮らし、身の回りの世話は、お抱えの女中さん達にやって貰っていたようです。

私の母方の祖母は、女学校ではカナダ人の女性(だったかな?)の先生に親しんでいて、大学でも、外国人(おそらく北米)の先生に接する機会があったのでしょう。古い人の割には、少し英語は話せました(発音も良かったw)。

また、さすがに今は、そういう事はないかもしれませんが、ここだけの話(ここだけの話とは言いながら、今までkjで書いて来てしまっていますがw)、私の母も、私も、私の弟も、A学院大学だけを受験する事を条件とすれば、受験の点数いかんに関わらず、母方の祖母のコネでA学院大学に行く事が可能であったと言う、ズルい現実もありましたw

ちなみに、母は、K大学に行きたかったので、コネは使わなかったのですが、K大学を落っこちて、コネを使わずに普通に受験して受かったA学院大学の英米文学科に進学しました。私は、当時のA学院大学の通学環境で別の大学の方が良かったので、コネを使わないで、A学院大学も受かったのですが、概ね学力が同じ位の第一志望であった別の私立大学に行きました。弟は、やはりコネを使わずに受験して、A学院大学も受かったのですが、第一志望であったA学院大学よりも学力が高い別の私立大学に行きました。

以上の事から実家では、(私が子供の頃、それを読んでいた訳ではありませんが)、英語の雑誌を定期購読していたり、英字新聞をとっていたり、母がよくFENの音楽番組等を聴いたりしていて、幼い頃から、英語自体には、慣れる環境にあり、また、帰国子女と言える程の期間ではなく、また、住むよりも滞在していたと言った表現の方が、ふさわしいと言った短い期間ではあるのですが、会社員の父の仕事の関係で、小学校低学年の時の約2年間(当時、日本のアニメ等は祖母が私の為にマメにビデオに録画してくれましたw)、中学1年と2年の間の約1年間、アメリカに暮らしていて(小学生の頃はL.A.、中学の頃は、サンフランシスコ。休みの日に、現地で親に色々遊びに連れて行って貰ったり、良い(楽しい)思い出として残っています)、又、大学生の時、アメリカの大学に1年間留学する等していました(ちなみに、弟も、大学生の時、アメリカの大学に1年間留学したのですが、弟は、その事に関して、私の影響を受けました(私の真似をしました))。したがって、私の話す英語は、発音も含めて、アメリカ英語ですw

ちなみに、私は、中学・高校の英語の授業は好きでしたし、勉強も、全く苦になりませんでした。私は高校時代(高校1年の時か2年の時かどちらか忘れた)に一回の受験で英検準1級を取ったのですが、英検準1級ともなると基本的な日常会話程度では使わないような単語も憶えなければならないのですが、単語を憶えるのも全く苦ではなかったですし、又、当時、まだ青くて、授業の時間、当てられて教科書を朗読する時、発音が良くて、かっこいいアピールが出来る事も快感に思っていましたw ちなみに、過去に付き合っていた女の子に、(その子は付き合う前から、私が外国人と英語で話したりするのを見て(聞いて)いたのですが)、付き合った後、「○○くんて、前から、漢字が読めない人なのかなと言う印象を勝手に持っていた」と言われた事がありますw」

「私は弟とは、昔から(幼い頃から)、お互いに、過干渉しない、適度な距離感の、個人主義なのですが、中学校・高校時代、学校の部活に縛られない、帰宅部であった事、大学受験の為の、予備校は、通わず、学校の勉強と、(自分で選んだ参考書を使った)自宅の勉強だけで(家で、自分だけで行った勉強だけで)、大学を受験した事、大学時代に1年間、アメリカの大学に留学した事等について、弟は、私の影響を受けており、ちゃんと、私の背中を見ていてくれたのだなと思います。

私は、高校の時、遊び重視派高校生だったのでw、大学受験の為の予備校・塾には行かずに(模試は何回か受けた)、学校の勉強以外は、(自分で選んだ参考書を使った)自宅の勉強だけで(家で自分で行った勉強だけで)、大学を受験しました(弟も、その影響を受けました。私も弟も、高校までずっと公立(私も弟も高校までずっと共学でw、弟の方が勉強が出来た高校だが、何れにしても、私が通った高校も弟が通った高校も、伝統的に、全般的に女子の方が優勢で校風は何となく女性的な高校w)で浪人もしなかったので、私の両親は、大学受験までは、私にも私の弟にも、教育費に関してはあまり掛からなかったと思います)。ちなみに、私は、異性関係チャラチャラ男子高校生、2歳年下の弟はスケボ・サーフィン男子高校生でしたw」

私は、以下の動画の斎藤一人という人については、全く、詳しくないのですが、何だか、胡散臭い香りがして、信用はしていませんw

ただ、話しについては、前に、斎藤一人さんの他の話を投稿で使用しましたが、面白い事を言っていたり、個人的に、分かる(共感・理解出来る)と言う事を言っていたりする感じです。

ちなみに、「斎藤一人」さん、個人的に、今まで、私がkjで紹介している、11個の動画(この投稿でアップしている動画の話を含む)の話に関しては、全く、問題はないと思いますが(ちなみに、私は、「斎藤一人」さんの動画は、今まで、私がkjで紹介している、11個の動画(この投稿でアップしている動画を含む)以外見ていません)、間違っていたら申し訳ありませんが、何だか、開運グッズみたいのを販売している方のようなので、その様な物を購入する際には、とても慎重な判断をした方が、個人的には良いと思います。ちなみに、私は、個人的には、そうした物には、お金は、使わない主義です。



前に投稿でアップした動画。話は、1分20秒あたりから始まるので、1分20秒辺りから、ご覧下さい。私の実家は、普通の中流の家庭なのですが、上の、「斎藤一人」さんの話の動画の話は、反抗期関連の話を除けば、私の実家(私の親)の子供(私と私の弟)の教育に照らし合わせて、妙に、しっくりと来る面がありましたw ちなみに、反抗期と言う事に関しては、私も弟も、親の前では、反抗期なんて言う物は存在しない位、良い子(良い、子供)でしたw  それは、親の教育方針から、私も弟も、親に反抗する必要がなかった為です。ちなみに、私は高校の頃は学校で自分の身の回りにイジメはありませんでしたが、小学校・中学校の頃は、クラスでいじめられている子を、まあ時には暴力に訴えてしまう事もありましたが、いじめっ子から助ける(解放してあげる)事は、得意でしたし、自分の身の回りに、イジメを受けている子がいたら見逃せずにそうして来ましたし、小学校・中学・高校の頃は、クラスに、クラスの男どもをしめようとする、いけ好かない男がいた場合は、私が、殴ったり、張り手をかましたりしたら、以後、私には干渉しなくなったものです。学校の先生に関しては、私も、私の弟も、基本、小学校・中学校・高校を通じて、老若男女を問わず、全ての、学校の先生から、エコ贔屓されていましたw(私の弟については、推測が入ってしまうのですが、私の弟も、おそらく、私と同じであったと思います)。


母の教育話等


この投稿の動画は、全て、you tubeから借りて来た物です。

以下、「」内。私の前の投稿文より。。。

「東京都心部の西部の静かで落ち着いた住宅地にある、我が家の近所の、私の実家は、元々、私の母方の祖父母の家で(ちなみに母は、一人っ子です)、現在は、両親が引き継いで暮らしています。既に、母方の祖父母共に、亡くなっています。

我が家の近所の私の実家の、私の父は、会社員で(父は、既に、半分定年退職状態になってから久しいですが)、私の母は、父と結婚してから、アルバイトを含めて、仕事を、一切した事がない専業主婦です。

私には、兄弟姉妹は、2歳年下の弟が一人います。私の弟は、外資系の会社員で、既に、結婚をし、(まだ、二人共、幼いですが)子供が2人いて(男の子(上)が1人と、女の子(下)が1人)、弟の家族(妻・子供)と共に、東京の西部郊外の、静かで落ち着いた住宅地に買った、一戸建て住宅に、暮らしています。

私は、会社員と比べて、相対的に、安定的ではなく、相対的に、ビジネスにおいて危険性が高いが、相対的に、自分で自分の時間を自由に管理する事が出来、又、自分の才能・仕事の能力・仕事の効率性・努力が、自分の収入に直結する(直接繋がる)、個人事業の道を選びました。

私は、普通の中流層・庶民層なのですが、私は、基本的には、自分が、与えられた環境の中で、自分の能力の範囲内で、出来得る限り生き(ここで言う、出来得る限り生きとは、自分の能力の限界を知り、自分の幸福の為に、自分の努力の落とし所を知ると言う意味も含まれます)、自分が稼いだお金で、出来得る限りの、幸せな生活をしている(幸せな人生を生きている)と言う、自信があります。」


以下、前に行った投稿から抜粋して来た物です。


写真は、借り物(写真の作者:160SX )。「Cosmo AP」。「Cosmo AP」は、MAZDA(日本の、大規模、自動車会社の一つ。ただし、大規模会社としては、規模が小さい)が、1975年に販売を開始した、ミドルクラス(中級class)の乗用車です。「Cosmo AP」は、私が、幼い頃から子供の頃、実家(両親)の、自動車でした。

ちなみに、私の母は、運動神経が良く、自動車の駐車等、確かに女性にしては(と言うか男女関係なく)上手いのですが、自分が自動車の運転が上手いと言う自信が、妙に高くてw(今は、さすがに、もう高齢者の年齢に突入し、昔よりも、自動車の運転は、慎重になっているようですw)、私が子供の頃から中学生・高校生の頃、それが故に、母が運転する車に乗るのは、ちょっと怖かったですw(家の車(両親の車)の運転は、同乗者(家族(妻・子供))の事を気遣い、慎重な安全運転である父の運転の方が、安心でしたw)。

私が幼い頃から現在に至るまでの、(我が家の近所の)私の実家の(私の両親の)、自動車の変遷は、MAZDA「Cosmo AP」→Nissan Volkswagen Santana(日産(nissan)自動車が、日本国内市場向けに、日本国内で生産していた、2代目、Volkswagen Passat(Volkswagen Passat (B2))の姉妹自動車。1984年に販売開始)→Mercedes-Benz C-Class →Mercedes-Benz E-Class (W211)(現在)(Mercedes-Benz E-Class の中では安い物です)となっていますが、両親は、まだ、W211 E-Classに乗り続けていて、今のところ、一向に(全く)、買い替える気配を見せません。私の、家系(家族の性質)は、一度、自動車を買ったら、とても長く乗る(乗り潰す位の、つもりで乗る)、家系(家族の性質)ですw(私も、私の弟も、そうです)。

私の実家(両親)の自動車の選択は、母が主導権を握っているので、私の母は、前述の通り、ミーハーでチャラチャラしたところがあるんでw(現代に若者時代を過ごしていたら、ギャルになったような気もしますw)、Nissan Volkswagen Santanaは、ドイツ車(当時、日本では、おそらく、まだドイツ車のブランド力が高かった)が、国産の同クラスの車と同程度の価格で買える、「ラッキー!」と言った程度の乗りで買ったような気がしますw その後、両親は、Mercedes-Benz C-Class、Mercedes-Benz E-Classと乗り継いでいるのですが、ベンツと言う選択は、母の見栄の部分もある事は、否定出来ないと思いますw まあ、(私もそうなのですが)、両親は、休日に高速道路を使う機会が多いので、その点において、ドイツ車と言う選択は、良いのだと思いますが。

幼い頃、親に連れられて、実家のコスモで国内旅行をした際に、現地の私よりも年上の(おそらく自動車に興味がある・自動車好きの)見知らぬ男の子が、うちの(実家の)コスモを見て、「品川ナンバーのコスモ、かっけー!」みたいな内容の事を言い、その言葉が耳に残り、子供心になんとなくですが、品川ナンバーってブランド力があるんだなと言う事を初めて認識しましたw

ちなみに、当時の、我が家及び我が家の近所の実家の近所の親戚の家(私の母方のはとこの実家)の車は、ケンメリスカイラインでしたw

以下、参考の投稿(私の車に関する投稿です)。
自動車のBGMとして聴く曲→
/jp/board/exc_board_8/view/id/2750708/page/5?&sfl=membername&stx=jlemon


私の母方の祖母(既に亡くなっています)は、(大学から東京に出てきたものの)、生涯、世間知らずの田舎の裕福な家の箱入りのお嬢さん的な要素があった女性です。私の母方の祖母は、大人しくて、上品な性格でした。

母方の祖母は、(幼い事・子供の頃は、それでも、ある程度、外で遊んでいたようですが)、子供の頃から、病弱で、基本的に、外に出る事を好まず、ほとんど家で過ごしていた女性であり、生涯、窓際で、白馬の王子様が、自分を迎えに来るのを、待ち続ける、夢見る少女の様な面を持った女性でした。

私は、自分の事を、ロマンチスト的な面がある男だと思ってますが、私のロマンチスト的な面は、私の母方の祖母の性格を受け継いでいると思います(ちなみに、私は、大の、おばあちゃん(母方の祖母)子でした)。

私の母方の祖母は、東京での学生時代・独身時代、私の母方の祖母の父が、東京の麻布(azabu)(東京都心部の高級住宅地の一つ)に保有していた東京の別宅に暮らしていたそうです。私の母方の祖母の父は、当時、東京及びその郊外(現在の東京23区内)に、いくつかの、土地と家を保有し、人に貸したり、また、用事が有って、東京に出てくる際の、滞在先等として使ったりしていましたが、その内の一つが、(私の母方の祖母が、見合いによって、私の母方の祖父と結婚した際に)私の母方の祖父母に、与えられました。これが、私が、生まれ育った我が家の近所の実家です(家の建物は、私が生まれる前に建て替えられています)。麻布(azabu)の家の方は、これよりも、はるかに大きくて、立派だったそうですが、第2次世界大戦後、他人の手に渡ってしまったそうです(私の母方の祖母の実家は、戦後、徐々に、没落して行った様です。現在も、一応、田舎で、少しは、立派な家に暮らしているらしいですが。。。)。

私の母方の祖母は、見合い(私の母方の祖母の父(私の母方の曽祖父)の知り合いの紹介)により、私の母方の祖父と知り合い、結婚しました。私の母方の祖母は、私の母方の祖父と結婚してから、ずっと主婦をしていました。もっとも、私の母方の祖母は、第二次世界大戦が終わるまでは、東京での、学生時代・独身時代を含めて、ずっと、メイド(maid)がいる(メイド(maid)に身の回りの世話をして貰う)生活であったので、主婦とは言っても、私の母方の祖母が、生まれて初めて、本格的に家事をする様になったのは、第二次世界大戦後からであった様です。

私の母方の祖父母は、結婚して間もなく、私の母方の祖父の仕事の関係で、中国の、上海(Shanghai )に渡った為、私の母方の祖父母が、我が家の近所の私の実家(私の母方の祖母の父が、私の母方の祖母が結婚した際に、私の母方の祖父母に与えた、一戸建て住宅)に、本格的に暮らし始めたのは、第二次世界大戦後の事です。ちなみに、私の母方の祖父母の、上海(Shanghai )の、日本租界(日本人用の外国人居留地)での、生活は、立派な家に暮らし、夫婦二人だけの生活に、二人の、中国人の、メイド(maid)がいる生活であったそうです。

私の母方の祖父は、田舎に生まれ、東京の、大学(まあ、当時は、その前身の高等教育機関でしたが)を卒業した後、第二次世界大戦までは、技師(技術者)、第二次世界大戦後は、会社員をしていました。私の母方の祖父の実家は、裕福であったと言う話は聞かず、また、かと言って、貧しかったとか、苦学したとか(金銭面で、苦労して、東京の、大学を卒業した)と言う話も聞かなかったので、まあ、中流の農家(中流の農民の家)、若しくは、会社員・公務員等の、家庭であったのではないでしょうか。。。

私の母方の祖父は、基本的には、保守的で、堅実、真面目で、生活は、つましく、派手な生活は、好みませんでした。

私の母方の祖父は、その一方で、第二次世界大戦後、間もなく、(私の母方の祖父の)兄弟(私の母方の祖父の兄弟の中に、性格が、真面目で堅実と正反対の者達がいてw、私の母方の祖父は、そうした兄弟達に、釣られてしまったようですw)と共に事業(銀座(ginza)(東京を代表する高級繁華街、且つ、東京を代表する繁華街)の小売商店)を起こしましたが、すぐに失敗し(母方の祖母の話によれば、母方の祖父は、当時、連日、(私の母方の祖父の)兄弟と共に、銀座(ginza)で宴会(party)を行っていたそうで、すぐに失敗したのは、当然だと思いますw)、借金の一部を背負う事となりました。その頃、私の母方の祖父母の間に、待望の子供(私の母)が生まれました。私の母方の祖母は、当時としては、割と高齢出産の方であったと思いますが、結局、女の子供一人(私の母)しか授かりませんでした(ちなみに、近所に暮らしていた、私の母方の祖母の姉も同様です)。

第二次世界大戦後、間もなくの頃は、私の母方の祖母の実家(田舎の裕福な地主であった。第二次世界大戦後、徐々に、没落して行ったようですが)のコネで、食料は、ある程度、困らなかったそうですし、私の母方の祖父は、幸いな事に事業が失敗した後、間もなく、会社員としての仕事を得る事が出来ました(ちなみに、母方の祖父は、その後、就職した会社の株を含む、株でも、かなり金を儲けたようです)。

しかし、田舎からの食糧の供給も、しばらくして途絶え、私の母方の祖父は、失敗した事業の借金の、一部を背負った事もあって、私の母が、小学生であった頃が、最も、生活が貧しかったそうで、今でも、私の母は、その頃の貧しい生活が鮮明に記憶に残っていると言います。その一方で、実家では、私の母が、子供の頃から、犬等のペットを飼っており( ちなみに、私の実家、且つ、私の母が、初めて飼った、犬・猫のペットは、小型犬で、私の母が、子供の頃から飼った犬。名前は、Mickeyで、名前を付けたのは、子供の頃の私の母で、Disneyの Mickey Mouseから取った物)、そうした話を聞くと、ゆとりがあったようにも感じますがw

その一方において、私の母が小学生の頃は、実家の庭の一部を畑に改造して(現在は、その部分は、自動車が3台駐車出来る駐車場に改造されています)、野菜を自給自足したり、私の母方の祖母が、自分の持っている、高価な(高級な)、着物(日本の女性向けの伝統衣装)を売って、家計の足しにしても、なお、慢性的な、食料不足で、私の母は、絶えず空腹であったそうです。私の母が、小学校の半ば頃は、調度、1950年代の半ば頃、日本国民、全般的に言えば、第二次世界大戦直後の貧しさのピークは過ぎ去り、第二次世界大戦後の、大量生産・大量消費社会の夜明けを待つ頃でしたが、私の母は、当時、まともな家に暮らしていたものの(第二次世界大戦後、間もなくから、1950年代にかけては、東京中心部では、第二次世界大戦中の空襲による、焼け野原の上に、バラック小屋(仮の、粗末な家)を建てて、暮らしている人々が、たくさんいました)、その一方において、私の母は、当時、食生活や衣服に関しては、明らかに、小学校の、多くの同級生達の家に比べて、貧しかったそうです。

私の実家が、貧しい生活を完全に脱し、生活が安定し、生活に、ゆとりが出来たのは、私の母が中学校3年生位から、高校に入学した頃の事だそうです。調度、その頃(1960年代の初め頃)、1920年代頃?に建てられた、日本伝統式の住宅の建物であった実家の建物を、現在の建物に建て替えています(現在は、耐震補強もなされていますし、時代に合わせて、内装等を、改装して来ています)。

私の母方の祖父母が、一人っ子である(一人娘である)、私の母を、甘やかし、伸び伸びと、自由に(自由奔放)に育てたのは、私の母方の祖父母が、私の母が子供の頃、物質的に、貧しい思いをさせてしまったと言う負い目もあったのかもしれません。

また、私の母が、ある程度、物質主義的な面があり、又、私と弟が、それぞれ、子供の頃から高校生の頃、私の母が、子供を(私と私の弟を)、物質的な面も含めて、とても甘やかしていた事は、自分が(私の母が)、子供の頃、物質的に、貧しい経験をした事の、反動であったのかもしれません。


以下、「」内。私の前の投稿文より。。。

「私は、学生の頃(高校生・大学生の頃)、おそらくチャラチャラしていた事もあってw、芸能人・モデル事務所の人からスカウトの声がかけられていたのですが、母も女子大生の時、一応、芸能人・モデル事務所の人からスカウトの声がかかっていたそうですw(母方の祖父は穏やかで温和な性格であったのですが、当時、母にそれだけはやめてくれと言っていたそうでw、母は、母方の祖父に従って、断っていたそうです)。」

私の叔父(父の弟)(身長は、180cmの長身)は、私の父と違って(私の父は、叔父と同様、外貌は、どちらかと言えば、ガリ勉タイプの人(勉強を非常に熱心にする人)とは、正反対の外貌と言った感じなのですが、中学校時代・高校時代に、(勉強ばかりしていたと言う訳ではなかった様ですが)、とても真面目に、熱心に勉強した様です)、勉強は、ほとんどせず、私の父と違って勉強は、全く、出来なかったようですが、運動が、とても得意で(ちなみに、高校の頃、学校のバスケットボール(basketball)clubに所属していたそうです)、私の父方の祖母や私の父の話によると、高校の時、数々の、地元の伝説を作るくらいw、学校内、及び、学校外の、女子高生達に、モテていた(人気があった)そうですw

前述の通り、父はルックスはどちらかと言えばガリ勉タイプとは正反対と言った感じなのですが、まあ、中学校・高校時代、チャラチャラしていた私と違ってw、よく勉強していた様ですが、それでも、高校時代から女性と交際し、基本的に、高校時代、大学時代と交際する女性が途切れた事はなく、母と知り合うまで、交際する女性は、途切れる事はなかったようです。

また、父は、ちゃっかりしたとこは、ちゃっかりしていて、例えば、父方の祖母に聞いた話ですが、父が高校生の頃、いきなり見知らぬ女の子3人が父の実家に訪ねて来て、何事かと私の父方の祖母が思ったら、ちゃっかり、父が、修学旅行先で仲良くなった他校の女子高生達が、はるばる遠方から訪ねて来たと言う落ちでしたw また、これは、私の父から直接聞いた話ではなく、私の母が、私の父と結婚前に、私の父から聞き出した話を私の母から聞いた話なのですが、父は、大学時代、同年代の女性と交際する一方で、年上の美人の、お金持ちの人妻(その人妻は、とても年齢の離れた年上の金持ちの男性と結婚していた様です)に、食事代等を全て奢って貰って、高級ホテルのレストランで、二人きりで食事をする等、(父は、その人妻と肉体関係を持っていたのかどうか分かりませんが)、その人妻と、援助交際のような付き合いをしていたそうです(ちなみに、父は、その人妻に対して、何の恋心も持っていなかった様です)。うーん、私は、その様な、年上の女性に、高級ホテルのレストランの食事を奢って貰う事等を目当てとした、年上の女性と、援助交際のような付き合いをすると言う事は、若い頃から(中学生・高校生の頃から)、発想も湧きませんし、した事もありません。


私の母は、昔から、「母親である前に女」であるような女性で、自分の恋愛話でも何でも、自分の事は、何でも、バンバン私に話して来ていますw 

私の母は、チャラチャラした所があり、現代に若者時代を過ごしていたら、ギャルになったような気もしますw。

私の母が、自由奔放にやりたい放題に育ったのは、誰に対しても、めったに怒らない穏やかな紳士であった、私の母方の祖父と、(大学から東京に出てきたものの)、生涯、世間知らずの田舎の裕福な家の箱入りのお嬢さん的な要素があった私の母方の祖母の間に、当時としては、割と年を取ってから生まれた、一人っ子(一人娘)であり、甘やかされて育てられたと言うのもあるかもしれません。

私の母は、大学は英米文学科を出ているのですが、それはあまり関係がなく、洋画がとても好きだったと言うのがあるのか、英語がとても好きで、女版、小林 克也?と言った感じで(もちろん外貌は、小林 克也と、全く、違います。 私の母は、特に今よりも若い頃は、年齢よりもかなり若く見えた事もあって、今よりも若い頃、外貌が老けてからのYOU(タレント。元FAIRCHILD)に似ていると言われていましたw)、留学経験はなくても、独学で、英語は、昔から発音も良く流暢に話せましたし(今でも大丈夫でしょう(それ程英語は忘れていないでしょう))、父も、留学経験はないですが、仕事で使う関係で、昔から英語は話せます(発音は、あまり上手くありませんがw)。

私の母は、大学を卒業した後、私の父と結婚をするまでOLをしていました。私の父と母が知り合ったきっかけは、二人共、まだ社会人になってから間もない頃、英検の準備学校で(母は英検1級持ってます。父は英検1級は挫折しましたw)、母が教室に通う初日に、教室に入った時に、既に着席していた(その時初対面の)父の顔を見て、一目惚れした私の母が、咄嗟の判断で、(さり気なくか強引か分かりませんがw)父の隣りの席に座り、教科書を忘れたふりをして、父に見せて貰った事なのですが、私の母は、私の父と知り合った当時、大学時代から交際していた、私の父と同じく、私の母と同年代の、イケメンの会社員と交際していたそうですが、勤めていた会社の上司である、仕事が出来て、イケメンで、金のゆとりがある大人の男性の中年の部長とも不倫の関係にありました(所謂、二股交際をしていたw)。

ちなみに、私の母は、そもそも、(私の父の経歴等分からないうちに)私の父の顔に惚れたのですがw、当時、私の母が大学生の頃から交際していた男性よりも、私の父の方が、(当時、同じ、私の母と同年代の会社員でも)、収入が高かったですし、仕事が出来ると思ったし、将来の仕事や収入面での成功の可能性が、その男性よりも、ずっと高いと感じたそうです。私の母は、私の父と知り合ってから、間もなく、大学時代から交際していた男性を、他に好きな人が出来たからと振り、私の母は、将来、この人(私の父)と結婚するかもと思い(この人(私の父)は、自分の、運命の人かもと思い)、私の母の猛烈なアプローチにより、私の母と私の父は、交際するようになり、私の父と正式に交際をするようになった事をきっかけに、上司の部長との不倫の関係も切ったそうです。母の上司の部長は、母に振られた事により、私の母に、復讐で、今でいうモラハラをしたり、職場で不利な待遇を与える等と言った事は全くなかったそうですが、落ち込んだ事は落ち込んで、今で言うテンションは下がってしまい、私の母は、私の母で、職場で、ある程度、気まずい気分になったそうです。

以上のような経緯を経て、私の父と、私の母は、知り合い、交際するようになり、結婚し、私と、私の2歳年下の弟(私の弟は、会社員で、既に、結婚をし((まだ、二人共、幼いですが)子供が2人います(男の子(上)が1人と、女の子(下)が1人))、弟の家族(妻・子供)と共に、東京の西部郊外の、静かで落ち着いた住宅地に買った、一戸建て住宅に、暮らしています)が生まれたのですが、そこまで、順風満帆に事が、運んだ訳ではなく、私の父と、私の母が、交際中、結婚前に、大きな修羅場がありました。


以下の、結婚前の私の両親の修羅場に関する話は、かつて、私の母から聞いた話です。

私の父と、私の母が知り合った当時、実は、父は、大学時代の終わり頃から交際していた、父がデパートに客として訪れた際に、父が、その外貌に惚れて、(どのようにしたのか分かりませんが)、後日、父が口説いて(私の知らない父の凄い積極性w)、交際するようになった、(私の母と同様)私の父と同年代の、新潟(niigata)県(ちなみに、新潟(niigata)県は、日本で、美人の産地の地域の一つとして知られています)出身で、東京で一人暮らしをし、東京都心のデパートに勤めていた、デパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)と交際していました(その、デパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)の女性は、スラリとして(痩せて)、色白で(まあ、私の父も、私の母も、色白なのですが)、背の高い、女優・モデル系の外貌の美人あったそうです)。

前述の通り、私の父は、私の母の猛烈なアプローチに押されて、私の母と交際するようになったのですが、しばらくの間、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)と交際している事を、母に秘密にし(また、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)にも、母と交際している事を秘密にし)、私の父は、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)と、私の母と、所謂、二股交際していました。私の母は、実家暮らしで(我が家の近所の私の実家は、元々、私の母方の祖父母の家で(ちなみに、母は一人っ子です)、母は、生まれてから、現在まで、ずっと実家暮らしです)、父と外で会う時以外(デートする以外)で、父と過ごす時は、父の、東京中心部(東京23区)内の、父の一人暮らしのアパートを訪れて(ちなみに、父は、大学から、田舎から東京に出て来ました)、そこで父と過ごすか、父が、母の実家(前述の通り、私の実家でもある)に遊びに訪れていたようですが、父は、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)と、外で会う時以外(デートする以外)で過ごす時は、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)の、東京中心部(東京23区)内の、一人暮らしのアパートを訪れて、そこで過ごしていた事と(ちなみに、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)の、新潟(niigata)県の実家は、裕福で、おそらく実家の家賃の援助もあり、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)の、当時、一人暮らしていたアパートは、私の父が、当時、一人暮らしていたアパートよりも、広くて、快適であったようです)、又、これは、私の推測なのですが、父は、仕事人間・会社人間であった事から、どちらか一方と会う時に、休日出勤等を嘘の口実として使えた事から、二股交際が、しばらく、バレなかったのだと思います。ちなみに、父は、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)と、私の母と、二股交際していた時、私の母と、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)同じ位、好きであった様です。

しかし、ある時、父の、二股交際が、私の母と、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)、両方に、同時に、バレる時が来ました。母が、女の勘が働いたのかどうか、分かりませんが、母が、気まぐれに、不意打ちで、父の、一人暮らしのアパートを訪れた際に、偶然、非常に珍しく、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)が、父の、一人暮らしのアパートを訪れていて、父は、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)と二人で、自分のアパートで過ごしていました。当然、父、私の母、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)が、鉢合わせとなり修羅場に発展しました。

私の母は、相手が女性となると、性格が、きつい部分があり、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)の女性も、相手が女性となると、性格が、きつい部分があったようで、私の母と、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)は、激しい口論から、お互い、髪の引っ張り合い、ひっぱたき合い、殴り合いの喧嘩にまで発展し(父は、一生懸命、止めに入ろうとしたが、私の母と、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)の、喧嘩の勢いの凄さに圧倒されてしまい無理であった様です)、結局、喧嘩は、母が勝ち、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)は、もう、こんなの散々だと言った感じで、父のアパートから飛び出して行ったそうです。

ちなみに、私の母は、子供の頃から、運動神経が良く(私の母は、小学校・中学校・高校と体育の成績は常に良かった様です)、また、私の母は、痩せの大食い(大食いと言っても、標準よりも少し多く食べる程度ですが)の体質(比較的、たくさん食べても痩せている体質)なのですが(私も、私の母からの遺伝で、痩せの大食い(やはり、大食いと言っても、標準よりも少し多く食べる程度ですが)の体質(比較的、たくさん食べても痩せている体質)です)、私の母は、痩せてはいるが筋肉質の体質で(ちなみに、私も、母の、痩せているが、筋肉質の体質と言うか、(運動をしなくても)筋肉がつき易い体質を受け継いでいます)、私の母は、おそらく、痩せていながら、若い頃ならば、女性相手の、肉体的な喧嘩は、とても強かったと思いますw 私の母は、中学生・高校生の頃、典型的なスケバン(不良)の道には、走らなかったようですが、もし、私の母が、中学生・高校生の頃、典型的なスケバン(不良)の道に走っていたのならば、もしかしたら、スケバン(女性の不良)の番長になっていたかもしれませんw

その後、私の母は、父に、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)と、きっぱりと別れると言う事を、約束させ、父の、母と、デパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)の二股交際していた事に関して、父の事を、一切、責めなかったそうです。私は、この修羅場の話を母から聞いた時、母に、何故、父の、母と、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)の二股交際していた事に関して、父の事を、一切、責めなかったのか聞いたのですが、母は、父の事が、好き過ぎて、父が、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)ではなく、自分の方に残ってくれた(自分の事を選んでくれた)事に、ほっとして(安心して)、逆に爽やかくらいの気持ちになってw、父の過去の事(父の二股交際)について、父を責めるのは、面倒臭くなってしまったと言った感じの事を言っていました。その辺、母の、さっぱりとした(まあ、何も考えていないとも言えますがw)、性格が表れていると思います。ちなみに、この件における、一番の、被害者であり、一番、傷ついたのは、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)の女性であり、今思うと、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)の女性に、私の両親の事ながら、大変、申し訳ないと思いますし、そのデパガ(デパートの宝飾品売り場の店員)の女性が、父から身を引いてくれなければ、私が生まれなかった可能性もあり、感謝もしています。

まあ、そのような母の性格から、父は、母の事を、前よりも、より一層好きになったのかどうかは分かりませんがw、かくして、その後、父は、(おそらく)、母に一途となり、父と母は、結婚しました。


以下、「」内。前の投稿文より。。。

「お中元(cyugen)は、夏に、贈り物を贈る、日本の習慣、お歳暮(seibo)は、年末に、贈り物を贈る、日本の習慣です。

私の父(会社員)は、既に、半分定年退職状態になってから、久しいのですが、私の父(会社員)が、半分定年退職になる前、バリバリに働いていた時は、我が家の近所の、私の実家は、贈られて来る、大量の、お中元(cyugen)・お歳暮(seibo)の頂き物を処理するのが、大変でした。世界には、食べて行く事が大変な貧しい国もあるのに、申し訳ない事ですが。

私の実家は、大食い(大食いと言っても、標準よりも、少し多く食べる程度ですが)の家系(家族の性質)です。我が家の近所の実家の母は、(もう高齢者の年齢ですが)、相変わらず、痩せの大食い(比較的、たくさん食べても痩せている体質)です。まあ両親とも、大食いの傾向があるのですが、父の場合、中年になって以降それなりに肉が付きました(それでも父は別に太っていると言う程ではなく同世代の男性の標準的な体形です)。私は、母に似て、痩せの大食いタイプ(比較的、たくさん食べても痩せている体質)です(ちなみに、私の弟も、痩せ型の体型です)。

私の実家は、元々、大食いの家系(家族の性質)ではあると思いますが、お中元(cyugen)と、お歳暮(seibo)の食材の処理が、私の実家の、大食いの家系(家族の性質)の定着に、少なからぬ影響を与えた事は、否定出来ない(事実としてある)と思います。

私が、高校生から20代中頃(当時、実家暮らしでした)、例えば、夕張(yubari)メロン(melon)(北海道(hokkaido)(日本の最北端の地方)産の、高級メロン(melon))なんか、毎食後のデザート(dessert)に、家族、それぞれ、四分の一切り(時には、二分の一切りの時もありましたw)ずつ食べて、私と、私の弟(私には兄弟姉妹は2歳年下の弟が一人います)は、それでも、好きなので、美味しいと思って食べていましたが、私の母なんて、飽きてしまって、子供達(私と弟)に、「じゃんじゃん、食べて処理して!」と言った感じでした。何れにしても、一時期、家族全員、高級な食材に対する感覚が麻痺していました。

母は、お中元(cyugen)と、お歳暮(seibo)の時期は、新しい贈り物が届くと、「また来た!」と言った感じで、頂き物の食材の処理で、その分、自分が食べたい物を料理したり買ったりして食べられなくなるので、少し、イラッとしていました。

私が実家を出てからは、母は、実家だけでは、処理出来なくなった(処理し切れなくなった)、お中元(cyugen)・お歳暮(seibo)の頂き物を、実家の近所の我が家(私)や、近所の親しい人達に配る事で、処理するようになりました。

前述の通り、父は、既に、半分定年退職状態になってから、久しいのですが、父が、半分定年退職状態になってからは、お中元(cyugen)・お歳暮(seibo)の頂き物は、ぐっと(たくさん)減り、お中元(cyugen)・お歳暮(seibo)の頂き物は、基本的に、実家だけで(父と母の二人だけで)、処理出来るようになりました。

ちなみに、私は、今まで、記憶に残る限り、実家から貰った、実家の、お中元(cyugen)・お歳暮(seibo)の頂き物は、enjoy・kjに、アップ(upload)した事がありません(もしかしたら、忘れてしまっているだけで、1、2回位は、アップ(upload)しているかもしれませんが)。

ちなみに、私の母は、決して、贅沢と言う訳ではありません。まあ、私の母は、親バカで、私と弟が、子供の頃から高校生の頃、物質的には、好き放題、甘やかしてくれましたが、母は、昔から、貪欲な面は、貪欲で、ケチな面は、ケチです。

近所の実家の母は、よく、ベンツで、OK(日本の、安売りマートのchain)の、広い意味での私の街の店舗に、まとめ買いしに行ってますw(そういう人達、多いですw)。

私の母は、好奇心旺盛と言う事もあって、昔から(私が子供の頃から)、アメ横のような庶民的な商店街や、庶民的な商店(ちなみに、私の街は、東京都心部の山の手の、基本的に、静かで、落ち着いた住宅地ですが、商店街には、昔ながらの庶民的な商店もあり、私の街の商店街は、昔ながらの手作り豆腐店等の昔ながらの庶民的な店と、小洒落た店が、自然と、ゆるやかに共存していると言った感じです)で買い物をするのも、好きで、そうした、庶民的な商店街や、庶民的な商店で買い物をする際には、昔から(おそらく本人が若い頃から)、商店の男性に対して、無意識的・意識的に、猫なで声を出して、値引きをして貰ったり、おまけを貰ったりするのが、とても上手で(とても得意で)、無意識的・意識的に、そうした事が、大好き(とても好き)な女性です。」



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「世界の料理ショー(The Galloping Gourmet)」 私が、幼い頃、母が好きで見ていた、テレビ番組の一つに、「世界の料理ショー(The Galloping Gourmet)」と言う、テレビ番組があります。「世界の料理ショー(The Galloping Gourmet)」は、1969年から1971年にかけて、放送された、カナダの、面白い、料理、テレビ番組で、日本では、1974年から1978年に最初に放送された後、1980年中期頃まで、繰り返し、再放送されていました。私が幼い頃、母が、再放送の、「世界の料理ショー(The Galloping Gourmet)」を見て楽しんでいたのを何となく憶えていますし、母が、私が幼い頃、「世界の料理ショー(The Galloping Gourmet)」を参考にして料理を作った事もある事も何となく憶えています。



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前に投稿でアップした動画。一番目のケースは、私の母は、東京生まれ、東京育ちですが、昔から、友人達とのお出掛けの待ち合わせや(おそらく)デートの待ち合わせ等、よくてギリギリ待ち合わせ時間に間に合う、通常は、5分から10分程度、遅れるタイプの女性ですw(たぶん、我が家の近所の私の実家(母の実家でもある)から、東京都心のどの主要な繁華街に出るのも近くて又は割と近くて便利な為、昔から、そのようなクセがついちゃっているのだと思いますw)。 私が子供の頃から学生の頃、実家暮らしの時、親戚同士の集まりやお出掛けの際に、いつも母が、ぎりぎりに家(私の実家)を出発しようとするのに、ヤキモキしていましたw ちなみに、私は、女性とデートする際に、昔から(中学生の頃から)、女性をさり気なく大事にする精神で(女性に安心感を与える為に)、デートの待ち合わせをする場合、10分程度前に待ち合わせ場所に着くようにしています。2番目のケースは、関西人の(大阪の人の)、ギャグを真に受けてしまう可能性は、私の母を含めて、天然の面がある、東京の女性にあるあるかもw 3番目は、素で言っても、自慢していると思われてしまう事もあるのかもしれませんね。ちなみに、私は、都会も田舎も、持ちつ持たれつだと思います。都会も田舎も、それぞれの良さがあり、又、ストレスの多い都会人の生活は、郊外・近郊・田舎での保養なくして成り立ちません。


以下、「」内。私の前の投稿文より。。。

「私の母は、子供(私と私の弟)に対して勉強しろと一切言わないタイプの親でしたw

私の母は、ミーハーで、面食いの(ハンサムな男性が好きな)、女性でした。また、私の母は、親バカでしたw 私の母は、自分の息子(私と、私の弟。特に私w)の事を、ハンサムと評価していました。

私の母が、私が思春期の頃に、私に、よく言っていた言葉(また、私の弟にも、私の弟が、思春期の頃に、時々、言っていた言葉)で、印象に残っている言葉で、たぶん内面や心掛け等に関して言っていたんだと思いますが、「美男子(又は、ハンサム。どちらか忘れた。まあ、両方言っていたと思います)は、女性(又は、女性達。たぶん両方言っていたと思います)の美男子に対する期待に応える義務がある」と言う言葉がありますw」


「私の母は、大学は英米文学科を出ているのですが、それはあまり関係がなく、洋画がとても好きだったと言うのがあるのか、英語がとても好きで、女版、小林 克也?と言った感じで(もちろん外貌は、小林 克也と、全く、違います。 私の母は、特に今よりも若い頃は、年齢よりもかなり若く見えた事もあって、今よりも若い頃、外貌が老けてからのYOU(タレント。元FAIRCHILD)に似ていると言われていましたw)、留学経験はなくても、独学で、英語は、昔から発音も良く流暢に話せましたし(今でも大丈夫でしょう(それ程英語は忘れていないでしょう))、父も、留学経験はないですが、仕事で使う関係で、昔から英語は話せます(発音は、あまり上手くありませんがw)。」


「ちなみに、私の家族が出た学校に関し、私の父(大学から田舎から東京に出て来ました)は、大学までずっと公立(大学は国立)、私の母、私、私の弟(私の2歳年下。外資系の会社に勤める会社員。既に結婚をし、まだ2人共幼いですが、子供が2人いて、妻・子供達と共に東京の西部郊外の静かて落ち着いた住宅地に買った一戸建て住宅に暮らしている)は、高校までずっと公立です。

私の母方の祖母(既に亡くなっています)は、田舎の裕福な地主の家(戦後は、おそらく農地改革により没落した)の娘で、地元の私立のミッション系の女学校を卒業した後、東京のA学院大学に進学しました。母方の祖母は、女子大生時代、祖母の実家(祖母の父)の、麻布の東京の別宅に暮らし、身の回りの世話は、お抱えの女中さん達にやって貰っていたようです。

私の母方の祖母は、女学校ではカナダ人の女性(だったかな?)の先生に親しんでいて、大学でも、外国人(おそらく北米)の先生に接する機会があったのでしょう。古い人の割には、少し英語は話せました(発音も良かったw)。

また、さすがに今は、そういう事はないかもしれませんが、ここだけの話(ここだけの話とは言いながら、今までkjで書いて来てしまっていますがw)、私の母も、私も、私の弟も、A学院大学だけを受験する事を条件とすれば、受験の点数いかんに関わらず、母方の祖母のコネでA学院大学に行く事が可能であったと言う、ズルい現実もありましたw

ちなみに、母は、K大学に行きたかったので、コネは使わなかったのですが、K大学を落っこちて、コネを使わずに普通に受験して受かったA学院大学の英米文学科に進学しました。私は、当時のA学院大学の通学環境で別の大学の方が良かったので、コネを使わないで、A学院大学も受かったのですが、概ね学力が同じ位の第一志望であった別の私立大学に行きました。弟は、やはりコネを使わずに受験して、A学院大学も受かったのですが、第一志望であったA学院大学よりも学力が高い別の私立大学に行きました。

以上の事から実家では、(私が子供の頃、それを読んでいた訳ではありませんが)、英語の雑誌を定期購読していたり、英字新聞をとっていたり、母がよくFENの音楽番組等を聴いたりしていて、幼い頃から、英語自体には、慣れる環境にあり、また、帰国子女と言える程の期間ではなく、また、住むよりも滞在していたと言った表現の方が、ふさわしいと言った短い期間ではあるのですが、会社員の父の仕事の関係で、小学校低学年の時の約2年間(当時、日本のアニメ等は祖母が私の為にマメにビデオに録画してくれましたw)、中学1年と2年の間の約1年間、アメリカに暮らしていて(小学生の頃はL.A.、中学の頃は、サンフランシスコ。休みの日に、現地で親に色々遊びに連れて行って貰ったり、良い(楽しい)思い出として残っています)、又、大学生の時、アメリカの大学に1年間留学する等していました(ちなみに、弟も、大学生の時、アメリカの大学に1年間留学したのですが、弟は、その事に関して、私の影響を受けました(私の真似をしました))。したがって、私の話す英語は、発音も含めて、アメリカ英語ですw

ちなみに、私は、中学・高校の英語の授業は好きでしたし、勉強も、全く苦になりませんでした。私は高校時代(高校1年の時か2年の時かどちらか忘れた)に一回の受験で英検準1級を取ったのですが、英検準1級ともなると基本的な日常会話程度では使わないような単語も憶えなければならないのですが、単語を憶えるのも全く苦ではなかったですし、又、当時、まだ青くて、授業の時間、当てられて教科書を朗読する時、発音が良くて、かっこいいアピールが出来る事も快感に思っていましたw ちなみに、過去に付き合っていた女の子に、(その子は付き合う前から、私が外国人と英語で話したりするのを見て(聞いて)いたのですが)、付き合った後、「○○くんて、前から、漢字が読めない人なのかなと言う印象を勝手に持っていた」と言われた事がありますw」

「私は弟とは、昔から(幼い頃から)、お互いに、過干渉しない、適度な距離感の、個人主義なのですが、中学校・高校時代、学校の部活に縛られない、帰宅部であった事、大学受験の為の、予備校は、通わず、学校の勉強と、(自分で選んだ参考書を使った)自宅の勉強だけで(家で、自分だけで行った勉強だけで)、大学を受験した事、大学時代に1年間、アメリカの大学に留学した事等について、弟は、私の影響を受けており、ちゃんと、私の背中を見ていてくれたのだなと思います。

私は、高校の時、遊び重視派高校生だったのでw、大学受験の為の予備校・塾には行かずに(模試は何回か受けた)、学校の勉強以外は、(自分で選んだ参考書を使った)自宅の勉強だけで(家で自分で行った勉強だけで)、大学を受験しました(弟も、その影響を受けました。私も弟も、高校までずっと公立(私も弟も高校までずっと共学でw、弟の方が勉強が出来た高校だが、何れにしても、私が通った高校も弟が通った高校も、伝統的に、全般的に女子の方が優勢で校風は何となく女性的な高校w)で浪人もしなかったので、私の両親は、大学受験までは、私にも私の弟にも、教育費に関してはあまり掛からなかったと思います)。ちなみに、私は、異性関係チャラチャラ男子高校生、2歳年下の弟はスケボ・サーフィン男子高校生でしたw」

私は、以下の動画の斎藤一人という人については、全く、詳しくないのですが、何だか、胡散臭い香りがして、信用はしていませんw

ただ、話しについては、前に、斎藤一人さんの他の話を投稿で使用しましたが、面白い事を言っていたり、個人的に、分かる(共感・理解出来る)と言う事を言っていたりする感じです。

ちなみに、「斎藤一人」さん、個人的に、今まで、私がkjで紹介している、11個の動画(この投稿でアップしている動画の話を含む)の話に関しては、全く、問題はないと思いますが(ちなみに、私は、「斎藤一人」さんの動画は、今まで、私がkjで紹介している、11個の動画(この投稿でアップしている動画を含む)以外見ていません)、間違っていたら申し訳ありませんが、何だか、開運グッズみたいのを販売している方のようなので、その様な物を購入する際には、とても慎重な判断をした方が、個人的には良いと思います。ちなみに、私は、個人的には、そうした物には、お金は、使わない主義です。


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前に投稿でアップした動画。話は、1分20秒あたりから始まるので、1分20秒辺りから、ご覧下さい。私の実家は、普通の中流の家庭なのですが、上の、「斎藤一人」さんの話の動画の話は、反抗期関連の話を除けば、私の実家(私の親)の子供(私と私の弟)の教育に照らし合わせて、妙に、しっくりと来る面がありましたw ちなみに、反抗期と言う事に関しては、私も弟も、親の前では、反抗期なんて言う物は存在しない位、良い子(良い、子供)でしたw  それは、親の教育方針から、私も弟も、親に反抗する必要がなかった為です。ちなみに、私は高校の頃は学校で自分の身の回りにイジメはありませんでしたが、小学校・中学校の頃は、クラスでいじめられている子を、まあ時には暴力に訴えてしまう事もありましたが、いじめっ子から助ける(解放してあげる)事は、得意でしたし、自分の身の回りに、イジメを受けている子がいたら見逃せずにそうして来ましたし、小学校・中学・高校の頃は、クラスに、クラスの男どもをしめようとする、いけ好かない男がいた場合は、私が、殴ったり、張り手をかましたりしたら、以後、私には干渉しなくなったものです。学校の先生に関しては、私も、私の弟も、基本、小学校・中学校・高校を通じて、老若男女を問わず、全ての、学校の先生から、エコ贔屓されていましたw(私の弟については、推測が入ってしまうのですが、私の弟も、おそらく、私と同じであったと思います)。



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