生活/文化




この投稿の動画は、全て、you tubeから借りて来た物です。


今日の夕食は、私の街のレストランで、彼女と二人で食べたのですが、彼女は我が家の風呂に入浴中ですが、今から合流し、一緒に入浴しますw(今日の夜も、寒いですね)。



以下、「」内。私の前の投稿文より。


「我が家の近所の私の実家の、私の父は、会社員で(父は、既に、半分定年退職状態になってから久しいですが)、私の母は、父と結婚してから、アルバイトを含めて、仕事を、一切した事がない専業主婦です。

私には、兄弟姉妹は、2歳年下の弟が一人います。私の弟は、外資系の会社員で、既に、結婚をし、(まだ、二人共、幼いですが)子供が2人いて(男の子(上)が1人と、女の子(下)が1人。女の子は、一昨年、生まれたばかり)、弟の家族(妻・子供)と共に、東京の西部郊外の、静かで落ち着いた住宅地に買った、一戸建て住宅に、暮らしています。


弟の、奥さん(妻)(ちなみに、弟の、奥さん(妻)は、弟よりもかなり年下です)は、結婚する前は、四年制の大学を卒業した後、服(ファッション)関係の、会社で、会社員として働いていましたが、結婚してからは、主婦となりました。


私は、会社員と比べて、相対的に、安定的ではなく、相対的に、ビジネスにおいて危険性が高いが、相対的に、自分で自分の時間を自由に管理する事が出来、又、自分の才能・仕事の能力・仕事の効率性・努力が、自分の収入に直結する(直接繋がる)、個人事業の道を選びました。」




以下、私の父方の祖父母と、私の母方の祖父母に関する話は、私の前の投稿から抜粋して来た物です。


私の、父方の祖父は、地方の有力者と、その地方の有力者と、愛人関係であった(その地方の有力者の、妻以外に交際している女性であった)、地方の芸者(geisha)(下の補足説明参照)(一応、地元では、美人で、評判であった(有名であった)芸者(geisha)の様ですw)との間に生まれた、私生児(結婚関係の無い者の間に生まれた子供)です(私の父方の祖父は、養子(adopted child)に出されました)。
芸者(geisha):舞踊等で、客を持て成す、日本の、古くからある、伝統的な職業の、女性。外国では、混同される事もあるが、遊女(yuujyo)(日本の、伝統的な、売春婦)とは、あくまで、区別される。遊女(yuujyo)は、売春婦であるのに対し、芸者(geisha)は、宴会(party)の席等で、客を持て成す、日本の、伝統的な職業の、女性(愛人関係等、客と、男女(男と女)の関係等になる事はあるが、それは、芸者(geisha)としての職業の範囲外での話)。


美食家であった(美味しい物を食べるのが好きであった)、私の父方の祖父は、生前、痛風になった事があり、また、亡くなった原因は、糖尿病でした。ちなみに、幸いな事に、私は、私の父方の祖父の、その様な(痛風になったり、糖尿病になったりする)体質は、受け継いでいません。


私の、お酒を飲む事、食べる事、エッチ(sex)に関しての、享楽主義(epicurean)的な傾向は、私の父方の祖父の血を受け継いでいると思います(まあ、エッチ(sex)に関しては、私の父方の祖父は、どうであったのか分かりませんが。。。ちなみに、私の父は、そうでもないと思うので、隔世で受け継いでいると言った感じであると思います)。また、私は、根本的には、shyな性格であるものの、実は、社交的な面もあり、普段は紳士ぶってるつもりですが、自分が若かった頃の生活を思い返してみても、パリピの血が強く流れている事は否定出来ないのですが、その私の、社交的な面と、パリピの血が強く流れている面に関しては、私の父方の祖父の血を受け継いでいると思います(この事に関しても、私の父は、そうでもないと思うので、隔世で受け継いでいると言った感じであると思います)。



私の父方の祖母は、私の父方の祖父と見合いで、結婚したのですが、(私の母方の祖母の実家も、(第二次世界大戦後は、没落しましたが)、田舎の地主の家で、裕福でしたが)、私の父方の祖母の実家は、田舎の小都市の、会社経営者(資本家)の家で、裕福でした(私の母方の祖母の実家同様、第二次世界大戦後は、没落しましたが。。。)。私の父方の祖母の実家は、専属の運転手(driver)付きの、自家用車(自家用、自動車)を保有していたそうです(第二次世界大戦前の、日本の田舎では、中々、凄い事です)。

ちなみに、私の父方の祖母は、もう100歳近い年齢ですが(私は、性格に大雑把な面があり、父方の祖母の、正確な、今の年齢を把握していませんw)、元気に長生きしています。


私の父方の祖母は、昔から頭の回転が速く、ユーモアがあり、話がとても面白いです。私の父方の祖母のその様な性格は、私の父の姉(私の伯母)が受け継ぎ、私の伯母は、やはり、私が子供の頃から、とてもユーモアがあり、話がとても面白いです(ちなみに、私の父は、そうでもありません)。私も、実際に話が面白いかどうかは置いておいて、実生活において、面白い話をして、人を笑わせるのが好きなのですが、私の性格の、その様な面は、私の父方の祖母の性格を受け継いでいると思います。

以下、参考の投稿。

幼稚園児の頃の号泣の記憶w→
/jp/board/exc_board_8/view/id/2699306/page/8?&sfl=membername&stx=jlemon


私の母方の祖父は、大学から、田舎から東京に出て来て、大学(まあ、当時は、その前身の高等教育機関でしたが)を卒業した後、第二次世界大戦までは、技師(技術者)、第二次世界大戦後は、会社員をしていました。私の母方の祖父の実家は、裕福であったと言う話は聞かず、また、かと言って、貧しかったとか、苦学したとか(金銭面で、苦労して、東京の、大学を卒業した)と言う話も聞かなかったので、まあ、中流の農家(中流の農民の家)、若しくは、会社員・公務員等の、家庭であったのではないでしょうか。。。


私の、根本的には、shyな性格であり、穏やかで、温和な性格、(まあ、自分で言うのもなんなんですが)紳士的な性格は、私の母方の祖父と、私の父の性格を受け継いでいると思います。また、知的好奇心が旺盛と言う面も、(まあ、私の場合は、実際に知的か、知識が豊富かと言う事は関係なく、知的好奇心だけ旺盛と言った感じですがw)、私は、私の母方の祖父と、私の父の性格を受け継いでいると思います。



私は、倹約するとこは倹約し(自分の人生の幸せ(幸福)にとって、必要でない事、無駄であると思う事に関しては、倹約をし)、堅実に、お金を使いますが、自分の人生の幸せ(幸福)にとって、必要であると思う事に関しては、惜しみなく、お金を使う主義です。もっとも、何事も、ほどほどにと言った感じで、自分の人生の幸せ(幸福)にとって、必要と思う事に関しては、惜しみなく、お金を使うと言っても、その様な事に、闇雲に、金を浪費していると言う訳ではなく、一応、ちゃんと自分の収入・資産等から考えて将来大丈夫であろうと言う事を考えて(見当をつけて)、金を使っています。

私の、倹約するとこは倹約し(自分の人生の幸せ(幸福)にとって、必要でない事、無駄であると思う事に関しては、倹約をし)、堅実に、お金を使うと言う点においては、私の、母方の祖父に似たのだと思います。


東京都心部の西部の、静かで落ち着いた住宅地にある、我が家の近所の、私の実家は、敷地面積100坪程(約330平方m)の、庭がある、一戸建て住宅です(ちなみに、我が家は、狭い土地に3階建ての(1階部分の半分くらいが駐車場の)、居住床面積30坪(約100平方m)程の庭がない、地価が高い、東京中心部(東京23区)の、典型的な、比較的、新しい、庶民向けの、一戸建て住宅です)。私の実家は、元々、私の母方の祖父母の家で、現在は、両親が、その家を引き継いでいます(ちなみに、私の母は、一人娘です)。元々は、私の母方の祖母の父(田舎の、裕福な地主であった。第二次世界大戦後は、没落しましたが)が、東京に保有していた不動産の一つであった物で(私の母方の祖母の父が、私の母方の祖母が結婚した際に、私の母方の祖父母に与えた物。当時の中流階級の一戸建て住宅として、小さな方であったと思います)、元々の家の建物は、1920年代頃?に建てられた、日本伝統式の住宅の建物だった様ですが、現在の家の建物は、1960年代初め頃に、建替えられた物です(現在は、耐震補強もなされています)。



私の母方の祖母は、地元の私立のミッション系の女学校を卒業した後、大学(まあ、当時は、その前身の高等教育機関でしたが)から、田舎から東京に出て来ましたが、東京での学生時代・独身時代、私の母方の祖母の父が、東京の麻布(azabu)(東京都心部の高級住宅地の一つ)に保有していた東京の別宅に暮らしていたそうです。


私の母方の祖母は、見合い(私の母方の祖母の父(私の母方の曽祖父)の知り合いの紹介)により、私の母方の祖父と知り合い、結婚しました。私の母方の祖母は、私の母方の祖父と結婚してから、ずっと主婦をしていました。もっとも、私の母方の祖母は、第二次世界大戦が終わるまでは、東京での、学生時代・独身時代を含めて、ずっと、メイド(maid)がいる(メイド(maid)に身の回りの世話をして貰う)生活であったので、主婦とは言っても、私の母方の祖母が、生まれて初めて、本格的に家事をする様になったのは、第二次世界大戦後からであった様です。


ちなみに、第二次世界大戦中は、母方の祖父母は、母方の祖父の仕事の関係で、中国の上海の、日本租界に暮らしていたのですが、夫婦二人の生活に(私の母は、一人っ子ですが、母は、まだ生まれていなかった)、二人の住み込みの、中国人の、メイド(maid)がいる生活であった様です。


私の、母方の祖母は、大人しくて、上品な性格であったのですが、私の母の活発な性格は、私の母方の祖母の姉(私の母の、私の母と同年代の、女性の、いとこの母。既に亡くなっています)に似ています。私の母は、幼い頃から、よく、近所の、私の母の、女性の、いとこの家に遊びに行っていました。ちなみに、逆に、私の母の、女性の、いとこは、性格は、上品で、おっとりとしていて、大人しい性格で、性格は、私の母方の祖母に似ています(ちなみに、私の母の、女性の、いとこも、幼い頃・子供の頃、私の母の家(我が家の近所の私の実家)に、よく、遊びに来ていた様です)。

私の母方の祖母は、(大学から東京に出てきたものの)、生涯、世間知らずの田舎の裕福な家の箱入りのお嬢さん的な要素があった女性です。


母方の祖母は、(幼い事・子供の頃は、それでも、ある程度、外で遊んでいたようですが)、子供の頃から、病弱で、基本的に、外に出る事を好まず、ほとんど家で過ごしていた女性であり、生涯、窓際で、白馬の王子様が、自分を迎えに来るのを、待ち続ける、夢見る少女の様な面を持った女性でした。

亡くなった、私の母方の祖母が、最も、好きであった、イラストレーターが、蕗谷虹児(fukiyakoji)です。

私の母方の祖母は、竹久 夢二(takehisa yumeji)等も好きでしたが、何よりも蕗谷 虹児(fukiya koji)の絵やイラスト(illustration)が好きだった様です。私の母方の祖母は、絵を描くのが好きでしたが、生涯、蕗谷 虹児(fukiya koji)の様な絵を、たくさん描いていました(絵と言っても、スケッチ(sketch)みたいな物ですが。。。)。蕗谷 虹児(fukiya koji)に関しては、以下の投稿を参照して下さい。
蕗谷虹児(祖母が好きであった挿絵画家)後編→
/jp/board/exc_board_8/view/id/2581912/page/11?&sfl=membername&stx=jlemon


私の母が、自由奔放にやりたい放題に育ったのは、誰に対しても、めったに怒らない穏やかな紳士であった、私の母方の祖父と、(大学から東京に出てきたものの)、生涯、世間知らずの田舎の裕福な家の箱入りのお嬢さん的な要素があった私の母方の祖母の間に、当時としては、割と年を取ってから生まれた、一人っ子(一人娘)であり、甘やかされて育てられたと言うのもあるかもしれません。


私は、大の、おばあちゃん子でした。

私が社会人となり忙しくなる前は(私が幼い頃・子供の頃から大学生の頃までは)、母方の祖母の、一番の話し相手は(私の母方の祖母と、一番、たくさん話していたのは)、大の、おばあちゃん子であった私でした。2番目の話し相手は(私の母方の祖母と、2番目に、たくさん話していたのは)、近所に暮らしていた私の母方の祖母の姉で(私の母方の祖母の姉は、生前、よく、近所の私の実家(元々、私の母方の祖父母の家)に遊びに来て、妹である、私の母方の祖母と話していました)、私の母は、私の母方の祖母の、3番目の話相手と言った感じでした。その他、時々からたまに、私の母方の祖母の、学生時代からの、女性の親友が、家(私の実家。元々、私の母方の祖父母の家)に遊びに来て、私の母方の祖母と話をしていました。


私の母方の祖母は、結婚してからアルバイトを含めて、一切の仕事をした事がない専業主婦でしたし、私の母も、結婚してからは、アルバイトを含めて、一切の仕事をした事がない専業主婦です。

私の母は、もちろん家事もあったのですが、私の母方の祖母の姉の性格を受け継ぎ、絶えず動いていないと気が済まない活発な性格で、自分がやりたい事で、忙しいと言った感じで、基本的に、じっくりと、私の母方の祖母の話相手をするような事は、あまりしませんでしたが、私が、社会人となり忙しくなって、以前のように、私の母方の祖母の話相手を出来なくなってからは、さすがに、気を遣って、前に比べれば、相対的に、よく、私の母方の祖母の話相手をするようになりました。

私は、実生活の会話においては、女性の、悩み等を、共感しながら、じっくり聞いてあげると言う事は心掛けており、話相手が女性の場合、そうした事は、ある程度自然に身について、出来ていると思いますが、その様な、私の女性の(と言うか人の)話の、聞き上手と言った事に関して、私は、母方の祖母と、たくさん話をした(母方の祖母の話を、たくさん聞いた)と言う事を通じて、培われた、その事が、大いなる土台となったと思います。

私の母方の祖母からは、人の心を思いやる、優しい心と言う物を学びました。そこにいてくれるだけで、存在していてくれるだけで、皆の(少なくとも私の)、癒しとなり、優しい気持ちになれた、おばあちゃんで、そこにいてくれるだけで、存在していてくれているだけで、ありがたく、いつでも、幸せな気持ちになる事が出来ました。

私は、学生時代(高校・大学時代)、ピアス等をして外見を派手に飾り立てていて、街を歩けば、ホストのスカウトの声が掛かったりしていたのですがw、母方の祖母は、そんな私の外見とは関係なく、ずっと、私の中身を見続けてくれていて、私の母方の祖母にとって、私は、いつまで経っても、ずっと、可愛い孫のままでした。

私が、実家で、母方の祖母の部屋を訪れると、母方の祖母は、いつでも、満面の、温かく、嬉しそうな、優しい笑顔で迎えてくれました。そして、母方の祖母は、私が、一度、祖母の部屋に遊びに訪れると、時間が許す限り(いや、時間が許さなくても)、いつまでも、私にいて欲しいと言った感じで、私が適当に時間を見て、「じゃあ、おばあちゃん、そろそろ行くね」と言わない限り、祖母の部屋から出て来れずw、私の母方の祖母の方からは、絶対に、そろそろ、遊びに行っておいでとか、そろそろ、勉強があるんじゃないか等と言って、私に、そろそろ行ってもいいよと配慮するような事は、絶対にありませんでしたw

母方の祖母は、甘い物(お菓子等)が好きだったので、甘い物(お菓子等)を、自分の為に、よく(たくさん)買っていたのですが、母方の祖母は、その様な、自分の為に買った、甘い物を、自分の部屋で、私と、一緒に食べる・私と、分けて食べるのが、大好きでした。私は、その様な経験を通じて、大切な人と、美味しい物を、一緒に・分け合って(シェアして)、美味しいねと言い合いながら・美味しいと言う気持ちを共有しながら、食べる事は、とても幸せで、楽しい気分になると言う事を、学んだ気がします。

私が、母方の祖母の部屋を訪れた際の、祖母の、満面の優しい笑顔は、今でも、鮮明に、私の心の中に残っています。その一方において、私が社会人になった後は、忙しく、私の母方の祖母が亡くなるまで、たまにしか、私の母方の祖母の、話し相手を出来なくなってしまったのが、今でも、私の大きな、悔い・心残りとなって、心の中にあります。

私の母は、男の子は女性を助ける力強く優しい男性に育てなければならないと言う保守的な教育方針があって、私も私の弟も、母に、男は涙を見せるものではない、男は簡単に泣くようでは、女性を守れない等と言った内容の事を言われて、育てられて来たと言う影響もあり、私も実際に、その通りであると思い、私は、少なくとも、中学生以降は、自分自身に関する事で、泣いた(涙を流した)事は、一度もありません。まあ、そんな私も、悲しい映画とか、悲しいドラマとかには弱く、割と、涙もろいと言うか、割と、すぐ涙が出て来てしまう方なのですが(まあ、涙が出ると言うだけで、泣くと言う程ではない)w

私は、そもそも、子供の頃を含めて、号泣と言ったものは、ほとんどした事がないのですが(私の親(母)は、子供(私、及び、私の弟)が、子供の頃から高校生の頃、子供(私、及び、私の弟)の事を、物質的には、好き放題、甘やかせていた為、私と私の弟は、幼い頃・子供の頃から、自分が欲しい物の為に、駄々をこねると言った必要はありませんでしたw)、私は、大人になってから、と言うか中学生以降、号泣(しかも大号泣w)した事が、たった一度だけあります。

それが、母方の祖母の、お葬式の時です。私の、母方の祖母の、お葬式の時(私の母方の祖父は、既に亡くなっていました)、父は泣かず、母は、しくしく泣いて、私の2歳年下の弟も、しくしく泣いて、私だけ、号泣(しかも、恥ずかしげもなく、思わず、大号泣w)してしまいました。

前述の通り、私の母方の祖母は、生涯、世間知らずの田舎の裕福な家の箱入りのお嬢さん的な要素があった女性であり、生涯、窓際で、白馬の王子様が、自分を迎えに来るのを、待ち続ける、夢見る少女の様な面を持った女性でした。

母方の祖父は、良き(良い)夫でしたが、母方の祖母にとって、母方の祖父は、白馬の王子様としては、物足りない男性であった様ですw

前述の通り、私が社会人になった後は、忙しく、私の母方の祖母が亡くなるまで、たまにしか、私の母方の祖母の、話し相手を出来なくなってしまったのが、今でも、私の大きな、悔い・心残りとなって、心の中にありますが、私が、母方の祖母にとって、少しでも、白馬の王子になれていたとしたら良かったなと思います。


以下、参考の投稿。
細雪→
/jp/board/exc_board_8/view/id/2701115/page/8?&sfl=membername&stx=jlemon
IQが高いスナフキン/和式トイレでウンコ出来ない→
/jp/board/exc_board_8/view/id/2750842/page/3?&sfl=membername&stx=jlemon



以下の動画は、全て、前にkjで、アップした動画です。





これは、今から、約80年前の、1937年の動画で、おそらく、新潟(niigata)県(日本の中部地方の北端に位置する県)の、高級リゾート(resort)ホテルに滞在し、新潟(niigata)県と、新潟(niigata)県に隣接する、長野(nagano)県(日本の中部地方に位置する県の一つ)で、夏の、バカンス(長期休暇)を楽しむ、名古屋(nagoya)(東京、大阪に次ぐ、日本、第三の都市圏人口を有する都市。日本の中部地方の中心都市)の、富裕層(中上流(upper-middle)階級)の家族(世帯主の男性は、当時、保険会社の、上級管理職(executive)であった様です)の、動画です。











1930年代の、日産(nissan)自動車(日本の、大規模、自動車会社の一つ。1911年創業。1910年代に乗用車の生産を開始)の、 広告(commercial)動画(今から、約80年前の1937年に制作された物)です。主として、当時、自動車を保有する、ゆとりのあった、富裕層に向けての広告です。撮影地は、主として、東京の近郊です。途中、当時の、日産(nissan)自動車の、横浜の工場が出て来ます。日本において、夫婦や家族に物を売ろうとする時は、基本的には、まず、女性の心を掴む事が有効である(女性に、買いたい、又は、買っても良いと思わせる事が有効である)。これは、現在においても、変わっていません。動画の7分38秒から8分18秒まで、富士屋(fujiya)ホテルが出て来ます。













これは、1940年に、アメリカが制作した(ちなみに、この後、間もなく、日本とアメリカは、戦争に突入する事になります)、当時の、日本の、実際の、子供の生活を反映した、当時の、日本の、子供の生活のイメージ動画です。詳しくないので、間違っていたら、申し訳ありませんが、おそらく、当時の、世界の子供の生活を紹介する動画の一つとして、アメリカが制作した物である様です。詳しくないので、間違っていたら、申し訳ありませんが、この動画は、出演している家族は、本物の家族かもしれませんが、この動画(映像作品)自体は、記録映画(documentary映画)の性質を持つ、映像作品ではなく、あくまで、当時の、日本の、実際の、子供の生活を反映した、当時の、日本の、子供の生活のイメージ動画である様です。この、イメージ動画の家族の設定は、特に、裕福でもなく、特に、貧しくもない、当時の、日本の、標準的な家庭(中流の下(lower middle class)、又は、大衆の標準よりは、少し上)の家庭と言う設定で、日本の、地方の、中小都市(小規模程度の人口の都市、又は、中規模程度の人口を有する都市)の、中心的な、鉄道駅に、駅員として勤務する、世帯主である、夫と、その妻(主婦)、夫(又は妻)の母、子供3人(小学生の男の子供、小学生の女の子供、小学校入学前の、男の子供)、住み込みの(家で一緒に暮らす)、メイド(maid)(当時は、低所得者層(lower class)の女性がなる事が、多かった様です)が1人と言う、家族の設定である様です。ちなみに、これも、第二次世界大戦前の、日本が、現在の、日本よりも、貧富の格差があったから可能であった事であると思いますが、第二次世界大戦前の、日本の、中流層の家庭は、現在の、日本の、中流層の家庭よりも、遥かに(ずっと)、気軽に、メイド(maid)を雇っていた様です。












以下、第二次世界大戦前の、日本の豪華客船の食事に関する内容は、私の前の投稿から抜粋して来た物です。


写真以下2枚。横浜にある、日本郵船(Nippon Yusen)歴史博物館(日本郵船(Nippon Yusen)株式会社が運営する、日本郵船(Nippon
Yusen)株式会社の歴史に関する資料館)の展示より。。。前にenjoyでアップ(upload)した写真の再利用。




1937年の、ある日の、日本の(日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の)、豪華客船(国際航路向けの長距離客船)の夕食を、(蝋で)、再現したものです。






これも、1930年代の、日本の(日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の)、豪華客船(国際航路向けの長距離客船)の食事を、(蝋で)、再現したものです 。盛り付けは、やや、古臭い(古典的な)感じですが、食事は、現在と、それ程は、変わらないかも知れません。






写真以下3枚。横浜にある、三菱(mitsubishi)みなとみらい(minatomirai)技術館の展示より。。。





鎌倉丸(kamakuramaru)(秩父丸(chichibumaru))(第二次世界大戦前の、日本の豪華客船の一つ)の、1933年の1月1日の、しっかりとした、日本料理の、献立表(menu)。








鎌倉丸(kamakuramaru)(秩父丸(chichibumaru))(第二次世界大戦前の、日本の豪華客船の一つ)の、1939年の、ある日の(6月8日の)、昼食メニュー(menu)。間違っていたら、申し訳ありませんが、おそらく、食事の代金は、乗船の代金に含まれていて、大食な人(たくさん、食べる人)は、これを、全部食べても良いし、こんなに、たくさん食べられないと言う人は、この中から、好きな物を選んで、注文しても良いと言う、方式になっていると思います。

以下、鎌倉丸(kamakuramaru)(秩父丸(chichibumaru))の、1939年の、6月8日の、昼食メニュー(menu)の内容。

スープ(soup):澄んだスープ(soup)。濃厚なスープ(soup)。

魚料理:鰈の、焼き物(蒸し焼き)。鯛の、焼き物(網焼き)。

玉子料理:ポーチドエッグ(poached egg )。松茸(matsutake)(香の良い、高級な茸)入りの、オムレツ(omelette)。

煮込み(煮物)料理:厳選された肉、豚肉、牛タン(牛の舌)の煮物、野菜添え。鳩肉(鳩の肉)の、蒸し焼き。ドライカレー(日本の、カレー(curry)料理の一つ)。


野菜料理:様々な野菜の天婦羅。茹でた、ジャガイモ(potato)。サツマイモ(sweet potato)の揚げ物。丸ごと焼いた、焼き林檎(林檎の焼き物)。


焼き物料理:フィラデルフィア (Philadelphia)風、鶏肉の焼き物。ハムステーキ(ham steak)、玉葱の、天婦羅添え。


冷たい肉:厳選された肉の、ロース(loin)。ハム(ham)。牛タン(牛の舌)の燻製。仔牛(子牛)(veal)の、ロース(loin)。羊肉の、ロース(loin)。鵞鳥肉(鵞鳥の肉)の、ロース(loin)。モルタデッラ(mortadella)。


サラダ(salad):様々な、野菜。


デザート(dessert):様々な果物が入った、ゼリー(jelly)。桃のパイ(pie)。アイスクリーム(ice cream)。小菓子(クッキー(cookie)、チョコレート等)。果物、シチュー(stew)。


パン:様々なパン。


果物、その他:林檎。バナナ(banana)。マスクメロン(muskmelon)。様々な、ドライフルーツ(dried
fruit)。様々な、ナッツ(nuts)。 クラッカー(cracker)。緑茶(green
tea)。紅茶。ウーロン(oolong)茶。コーヒー(coffee)。







鎌倉丸(kamakuramaru)(秩父丸(chichibumaru))(第二次世界大戦前の、日本の豪華客船の一つ)の、1930年の、ある日の(11月13日の)、夕食メニュー(menu)の、英語版。間違っていたら、申し訳ありませんが、おそらく、食事の代金は、乗船の代金に含まれていて、大食な人(たくさん、食べる人)は、これを、全部食べても良いし、こんなに、たくさん食べられないと言う人は、この中から、好きな物を選んで、注文しても良いと言う、方式になっていると思います。


以下、鎌倉丸(kamakuramaru)(秩父丸(chichibumaru))の、1930年の、11月13日の、夕食メニュー(menu)の、内容。

前菜:西瓜、ホイップクリーム(whipped cream)添え。生ハム(ham)。ニシン(鰊)(魚)の、酢漬け。ox palate のピクルス(pickled ox palate)。ピーナツ(peanuts)。オリーブ(olive)。

スープ(soup):チキン(chicken)スープ(soup)。ホワイトセロリ(white celery)の、濃厚な、スープ(soup)。

魚料理:クサヤモロ(mackerel scad)の、焼き物。

entree:ビーフ・ウェリントン(Beef Wellington)。シビレ(sweetbread)の料理。カリフラワー(cauliflower)のサラダ(salad)。

肉料理:羊肉の、ロースト(roast)、スグリ(red currant)のゼリー(jelly)添え。プラム(plum)を詰めた、ヤマシギ(woodcock)の、ロースト(roast)、グレイビーソース(gravy)添え。

冷たい料理:牛タン(牛の舌)の、燻製。ターキー(turkey)、トリュフ(truffle)添え。サラダ(salad)胡瓜。

その他:ジャガイモ(potato)。ご飯(rice)。Italian Squash。鮪の刺身。豆腐の、お吸い物。

デザート(dessert)等:Newcastle Pudding、パイナップルアイスクリーム(pineapple ice cream)等の、甘いデザート(dessert)。savoury。様々な、ナッツ(nuts)。無花果(fig)。chow chow。林檎。パイナップル(pineapple)。バナナ(banana)。クラッカー(cracker)。チーズ(cheese)。コーヒー(coffee)。


当時の日本は、階級社会(昔は、貧しい人々は、本当に、貧しかったし、庶民の、食生活・物質的な生活も、現代に比べると、遥かに(ずっと)、貧しかった)、現代の日本は、大衆社会(庶民が、豊かで、又、貧困層でも、福祉制度等により、自動車を保有し、ある程度の水準の、生活が保障されている)と言う違いもありますが、富裕層・上流層の暮らしは、昔の方が、豪華であったような気がします(こうした、近代以前(第二次世界大戦前の、階級社会)と、現代(第二次世界大戦後の、大量生産・大量消費社会)の、時代の、大きな流れは、一般的に、日本のみならず、他の先進国(アメリカ、ヨーロッパ等)でも、当てはまると思います)。






以下、我が家にある本の一つ、「帝国ホテルのおもてなしの心」と言う本(学生社。1995年)(私が、古本屋で買った本)から、抜粋・引用して来た文で、第二次世界大戦中、日本の敗戦により、第二次世界大戦が終わる約2年前の1943年の、帝国ホテル(古くからの、東京を代表する高級ホテル)の結婚式の食事メニューに関する文です。


「太平洋戦争がいちだんと厳しさを増した頃、新郎の中には、新婚生活もそこそこに戦地に向かわなければならない方も少なくありませんでした。そんなカップルの為に、シェフたちは、配給品や代用品などの限られた材料の中で、精一杯のコースメニューを考えたのです。そのメインディッシュはオムレツ。お皿の上を明るい黄色で彩ったオムレツは、どんなフランス料理にも負けない幸せの味がしたのでしょう」


以下、「」内が、第二次世界大戦中、日本の敗戦により、第二次世界大戦が終わる約2年前の1943年の、帝国ホテル(古くからの、東京を代表する高級ホテル)のある結婚式の食事メニューです(これに、おそらく、パンが付くと思います)。


「前菜。濃いスープ。鮑(字が小さくて読めないが、たぶん)、海老、牛肉の焼き物。オムレツと野菜。松茸(matsutake)の何とか(字が小さくて読めない)。サラダ。アイスクリーム。コーヒー」


何だか、メイン料理(オムレツ)以外の物の方が豪華な様な。








以下、富士屋(fujiya)ホテル(箱根(hakone)(日光(nikko)と共に東京近郊を代表する保養地)を代表する、歴史のある、高級resortホテル)の、第二次世界大戦中、日本の敗戦により、第二次世界大戦が終わる1年前の、1944年頃の食事に関する文は、前の投稿から抜粋して来た物です。


写真以下2枚。富士屋(fujiya)ホテルの資料展示室より。。。




1944年頃の、富士屋(fujiya)ホテルの、パンフレット(leaflet)。








日本の敗戦により、第二次世界大戦が終わる約1年前の、1944年の11月2日の、富士屋(fujiya)ホテルの、フランス料理・西洋料理の、夕食のメニュー(menu)例。内容は、写真を撮ったは良いが、写真の字が、小さくw、不明瞭なので、一部、推測が入りますが、前菜の盛り合わせ、トマト(tomato)のスープ(soup)、魚のメイン(main)料理(魚の、バター(butter)焼き物)、肉のメイン(main)料理(牛肉の焼き物(又は、ローストビーフ(roast beef)。野菜添え)、デザート(dessert)(富士山の形のアイスクリーム(ice cream))、お茶菓子、コーヒー(coffee)と言った感じ。。。(これに、おそらく、パンが付くと思います)。1944年11月2日に、大東亜(アジア)、電気通信、第2回、懇談会で、富士屋(fujiya)ホテルに宿泊した方が、提供した資料。第二次世界大戦中は、物資の不足、増税、宿泊客の減少等により、ホテル経営の深刻な悪化に悩まされていた、富士屋(fujiya)ホテルですが、この頃(1944年頃)は、富士屋(fujiya)ホテルでは、まだ、ある程度、しっかりとした、食事が提供されていた様です(ちなみに、さすがに、おそらく、第二次世界大戦の末期(1945年頃)は、富士屋(fujiya)ホテルも、かなり、物資の不足に悩まされたと思います)。








以下。おまけ。我が家の新聞の、折り込みチラシ広告(定期購読している新聞に挟まれて来る広告)より。。。メイド(maid)の派遣サービスの広告。派遣されるのは、フィリピン人のメイドである様です。

















 


第二次世界大戦以前の日本の西洋料理ご馳走




この投稿の動画は、全て、you tubeから借りて来た物です。


今日の夕食は、私の街のレストランで、彼女と二人で食べたのですが、彼女は我が家の風呂に入浴中ですが、今から合流し、一緒に入浴しますw(今日の夜も、寒いですね)。



以下、「」内。私の前の投稿文より。


「我が家の近所の私の実家の、私の父は、会社員で(父は、既に、半分定年退職状態になってから久しいですが)、私の母は、父と結婚してから、アルバイトを含めて、仕事を、一切した事がない専業主婦です。

私には、兄弟姉妹は、2歳年下の弟が一人います。私の弟は、外資系の会社員で、既に、結婚をし、(まだ、二人共、幼いですが)子供が2人いて(男の子(上)が1人と、女の子(下)が1人。女の子は、一昨年、生まれたばかり)、弟の家族(妻・子供)と共に、東京の西部郊外の、静かで落ち着いた住宅地に買った、一戸建て住宅に、暮らしています。


弟の、奥さん(妻)(ちなみに、弟の、奥さん(妻)は、弟よりもかなり年下です)は、結婚する前は、四年制の大学を卒業した後、服(ファッション)関係の、会社で、会社員として働いていましたが、結婚してからは、主婦となりました。


私は、会社員と比べて、相対的に、安定的ではなく、相対的に、ビジネスにおいて危険性が高いが、相対的に、自分で自分の時間を自由に管理する事が出来、又、自分の才能・仕事の能力・仕事の効率性・努力が、自分の収入に直結する(直接繋がる)、個人事業の道を選びました。」




以下、私の父方の祖父母と、私の母方の祖父母に関する話は、私の前の投稿から抜粋して来た物です。


私の、父方の祖父は、地方の有力者と、その地方の有力者と、愛人関係であった(その地方の有力者の、妻以外に交際している女性であった)、地方の芸者(geisha)(下の補足説明参照)(一応、地元では、美人で、評判であった(有名であった)芸者(geisha)の様ですw)との間に生まれた、私生児(結婚関係の無い者の間に生まれた子供)です(私の父方の祖父は、養子(adopted child)に出されました)。
芸者(geisha):舞踊等で、客を持て成す、日本の、古くからある、伝統的な職業の、女性。外国では、混同される事もあるが、遊女(yuujyo)(日本の、伝統的な、売春婦)とは、あくまで、区別される。遊女(yuujyo)は、売春婦であるのに対し、芸者(geisha)は、宴会(party)の席等で、客を持て成す、日本の、伝統的な職業の、女性(愛人関係等、客と、男女(男と女)の関係等になる事はあるが、それは、芸者(geisha)としての職業の範囲外での話)。


美食家であった(美味しい物を食べるのが好きであった)、私の父方の祖父は、生前、痛風になった事があり、また、亡くなった原因は、糖尿病でした。ちなみに、幸いな事に、私は、私の父方の祖父の、その様な(痛風になったり、糖尿病になったりする)体質は、受け継いでいません。


私の、お酒を飲む事、食べる事、エッチ(sex)に関しての、享楽主義(epicurean)的な傾向は、私の父方の祖父の血を受け継いでいると思います(まあ、エッチ(sex)に関しては、私の父方の祖父は、どうであったのか分かりませんが。。。ちなみに、私の父は、そうでもないと思うので、隔世で受け継いでいると言った感じであると思います)。また、私は、根本的には、shyな性格であるものの、実は、社交的な面もあり、普段は紳士ぶってるつもりですが、自分が若かった頃の生活を思い返してみても、パリピの血が強く流れている事は否定出来ないのですが、その私の、社交的な面と、パリピの血が強く流れている面に関しては、私の父方の祖父の血を受け継いでいると思います(この事に関しても、私の父は、そうでもないと思うので、隔世で受け継いでいると言った感じであると思います)。



私の父方の祖母は、私の父方の祖父と見合いで、結婚したのですが、(私の母方の祖母の実家も、(第二次世界大戦後は、没落しましたが)、田舎の地主の家で、裕福でしたが)、私の父方の祖母の実家は、田舎の小都市の、会社経営者(資本家)の家で、裕福でした(私の母方の祖母の実家同様、第二次世界大戦後は、没落しましたが。。。)。私の父方の祖母の実家は、専属の運転手(driver)付きの、自家用車(自家用、自動車)を保有していたそうです(第二次世界大戦前の、日本の田舎では、中々、凄い事です)。

ちなみに、私の父方の祖母は、もう100歳近い年齢ですが(私は、性格に大雑把な面があり、父方の祖母の、正確な、今の年齢を把握していませんw)、元気に長生きしています。


私の父方の祖母は、昔から頭の回転が速く、ユーモアがあり、話がとても面白いです。私の父方の祖母のその様な性格は、私の父の姉(私の伯母)が受け継ぎ、私の伯母は、やはり、私が子供の頃から、とてもユーモアがあり、話がとても面白いです(ちなみに、私の父は、そうでもありません)。私も、実際に話が面白いかどうかは置いておいて、実生活において、面白い話をして、人を笑わせるのが好きなのですが、私の性格の、その様な面は、私の父方の祖母の性格を受け継いでいると思います。

以下、参考の投稿。

幼稚園児の頃の号泣の記憶w→
/jp/board/exc_board_8/view/id/2699306/page/8?&sfl=membername&stx=jlemon


私の母方の祖父は、大学から、田舎から東京に出て来て、大学(まあ、当時は、その前身の高等教育機関でしたが)を卒業した後、第二次世界大戦までは、技師(技術者)、第二次世界大戦後は、会社員をしていました。私の母方の祖父の実家は、裕福であったと言う話は聞かず、また、かと言って、貧しかったとか、苦学したとか(金銭面で、苦労して、東京の、大学を卒業した)と言う話も聞かなかったので、まあ、中流の農家(中流の農民の家)、若しくは、会社員・公務員等の、家庭であったのではないでしょうか。。。


私の、根本的には、shyな性格であり、穏やかで、温和な性格、(まあ、自分で言うのもなんなんですが)紳士的な性格は、私の母方の祖父と、私の父の性格を受け継いでいると思います。また、知的好奇心が旺盛と言う面も、(まあ、私の場合は、実際に知的か、知識が豊富かと言う事は関係なく、知的好奇心だけ旺盛と言った感じですがw)、私は、私の母方の祖父と、私の父の性格を受け継いでいると思います。



私は、倹約するとこは倹約し(自分の人生の幸せ(幸福)にとって、必要でない事、無駄であると思う事に関しては、倹約をし)、堅実に、お金を使いますが、自分の人生の幸せ(幸福)にとって、必要であると思う事に関しては、惜しみなく、お金を使う主義です。もっとも、何事も、ほどほどにと言った感じで、自分の人生の幸せ(幸福)にとって、必要と思う事に関しては、惜しみなく、お金を使うと言っても、その様な事に、闇雲に、金を浪費していると言う訳ではなく、一応、ちゃんと自分の収入・資産等から考えて将来大丈夫であろうと言う事を考えて(見当をつけて)、金を使っています。

私の、倹約するとこは倹約し(自分の人生の幸せ(幸福)にとって、必要でない事、無駄であると思う事に関しては、倹約をし)、堅実に、お金を使うと言う点においては、私の、母方の祖父に似たのだと思います。


東京都心部の西部の、静かで落ち着いた住宅地にある、我が家の近所の、私の実家は、敷地面積100坪程(約330平方m)の、庭がある、一戸建て住宅です(ちなみに、我が家は、狭い土地に3階建ての(1階部分の半分くらいが駐車場の)、居住床面積30坪(約100平方m)程の庭がない、地価が高い、東京中心部(東京23区)の、典型的な、比較的、新しい、庶民向けの、一戸建て住宅です)。私の実家は、元々、私の母方の祖父母の家で、現在は、両親が、その家を引き継いでいます(ちなみに、私の母は、一人娘です)。元々は、私の母方の祖母の父(田舎の、裕福な地主であった。第二次世界大戦後は、没落しましたが)が、東京に保有していた不動産の一つであった物で(私の母方の祖母の父が、私の母方の祖母が結婚した際に、私の母方の祖父母に与えた物。当時の中流階級の一戸建て住宅として、小さな方であったと思います)、元々の家の建物は、1920年代頃?に建てられた、日本伝統式の住宅の建物だった様ですが、現在の家の建物は、1960年代初め頃に、建替えられた物です(現在は、耐震補強もなされています)。



私の母方の祖母は、地元の私立のミッション系の女学校を卒業した後、大学(まあ、当時は、その前身の高等教育機関でしたが)から、田舎から東京に出て来ましたが、東京での学生時代・独身時代、私の母方の祖母の父が、東京の麻布(azabu)(東京都心部の高級住宅地の一つ)に保有していた東京の別宅に暮らしていたそうです。


私の母方の祖母は、見合い(私の母方の祖母の父(私の母方の曽祖父)の知り合いの紹介)により、私の母方の祖父と知り合い、結婚しました。私の母方の祖母は、私の母方の祖父と結婚してから、ずっと主婦をしていました。もっとも、私の母方の祖母は、第二次世界大戦が終わるまでは、東京での、学生時代・独身時代を含めて、ずっと、メイド(maid)がいる(メイド(maid)に身の回りの世話をして貰う)生活であったので、主婦とは言っても、私の母方の祖母が、生まれて初めて、本格的に家事をする様になったのは、第二次世界大戦後からであった様です。


ちなみに、第二次世界大戦中は、母方の祖父母は、母方の祖父の仕事の関係で、中国の上海の、日本租界に暮らしていたのですが、夫婦二人の生活に(私の母は、一人っ子ですが、母は、まだ生まれていなかった)、二人の住み込みの、中国人の、メイド(maid)がいる生活であった様です。


私の、母方の祖母は、大人しくて、上品な性格であったのですが、私の母の活発な性格は、私の母方の祖母の姉(私の母の、私の母と同年代の、女性の、いとこの母。既に亡くなっています)に似ています。私の母は、幼い頃から、よく、近所の、私の母の、女性の、いとこの家に遊びに行っていました。ちなみに、逆に、私の母の、女性の、いとこは、性格は、上品で、おっとりとしていて、大人しい性格で、性格は、私の母方の祖母に似ています(ちなみに、私の母の、女性の、いとこも、幼い頃・子供の頃、私の母の家(我が家の近所の私の実家)に、よく、遊びに来ていた様です)。

私の母方の祖母は、(大学から東京に出てきたものの)、生涯、世間知らずの田舎の裕福な家の箱入りのお嬢さん的な要素があった女性です。


母方の祖母は、(幼い事・子供の頃は、それでも、ある程度、外で遊んでいたようですが)、子供の頃から、病弱で、基本的に、外に出る事を好まず、ほとんど家で過ごしていた女性であり、生涯、窓際で、白馬の王子様が、自分を迎えに来るのを、待ち続ける、夢見る少女の様な面を持った女性でした。

亡くなった、私の母方の祖母が、最も、好きであった、イラストレーターが、蕗谷虹児(fukiyakoji)です。

私の母方の祖母は、竹久 夢二(takehisa yumeji)等も好きでしたが、何よりも蕗谷 虹児(fukiya koji)の絵やイラスト(illustration)が好きだった様です。私の母方の祖母は、絵を描くのが好きでしたが、生涯、蕗谷 虹児(fukiya koji)の様な絵を、たくさん描いていました(絵と言っても、スケッチ(sketch)みたいな物ですが。。。)。蕗谷 虹児(fukiya koji)に関しては、以下の投稿を参照して下さい。
蕗谷虹児(祖母が好きであった挿絵画家)後編→
/jp/board/exc_board_8/view/id/2581912/page/11?&sfl=membername&stx=jlemon


私の母が、自由奔放にやりたい放題に育ったのは、誰に対しても、めったに怒らない穏やかな紳士であった、私の母方の祖父と、(大学から東京に出てきたものの)、生涯、世間知らずの田舎の裕福な家の箱入りのお嬢さん的な要素があった私の母方の祖母の間に、当時としては、割と年を取ってから生まれた、一人っ子(一人娘)であり、甘やかされて育てられたと言うのもあるかもしれません。


私は、大の、おばあちゃん子でした。

私が社会人となり忙しくなる前は(私が幼い頃・子供の頃から大学生の頃までは)、母方の祖母の、一番の話し相手は(私の母方の祖母と、一番、たくさん話していたのは)、大の、おばあちゃん子であった私でした。2番目の話し相手は(私の母方の祖母と、2番目に、たくさん話していたのは)、近所に暮らしていた私の母方の祖母の姉で(私の母方の祖母の姉は、生前、よく、近所の私の実家(元々、私の母方の祖父母の家)に遊びに来て、妹である、私の母方の祖母と話していました)、私の母は、私の母方の祖母の、3番目の話相手と言った感じでした。その他、時々からたまに、私の母方の祖母の、学生時代からの、女性の親友が、家(私の実家。元々、私の母方の祖父母の家)に遊びに来て、私の母方の祖母と話をしていました。


私の母方の祖母は、結婚してからアルバイトを含めて、一切の仕事をした事がない専業主婦でしたし、私の母も、結婚してからは、アルバイトを含めて、一切の仕事をした事がない専業主婦です。

私の母は、もちろん家事もあったのですが、私の母方の祖母の姉の性格を受け継ぎ、絶えず動いていないと気が済まない活発な性格で、自分がやりたい事で、忙しいと言った感じで、基本的に、じっくりと、私の母方の祖母の話相手をするような事は、あまりしませんでしたが、私が、社会人となり忙しくなって、以前のように、私の母方の祖母の話相手を出来なくなってからは、さすがに、気を遣って、前に比べれば、相対的に、よく、私の母方の祖母の話相手をするようになりました。

私は、実生活の会話においては、女性の、悩み等を、共感しながら、じっくり聞いてあげると言う事は心掛けており、話相手が女性の場合、そうした事は、ある程度自然に身について、出来ていると思いますが、その様な、私の女性の(と言うか人の)話の、聞き上手と言った事に関して、私は、母方の祖母と、たくさん話をした(母方の祖母の話を、たくさん聞いた)と言う事を通じて、培われた、その事が、大いなる土台となったと思います。

私の母方の祖母からは、人の心を思いやる、優しい心と言う物を学びました。そこにいてくれるだけで、存在していてくれるだけで、皆の(少なくとも私の)、癒しとなり、優しい気持ちになれた、おばあちゃんで、そこにいてくれるだけで、存在していてくれているだけで、ありがたく、いつでも、幸せな気持ちになる事が出来ました。

私は、学生時代(高校・大学時代)、ピアス等をして外見を派手に飾り立てていて、街を歩けば、ホストのスカウトの声が掛かったりしていたのですがw、母方の祖母は、そんな私の外見とは関係なく、ずっと、私の中身を見続けてくれていて、私の母方の祖母にとって、私は、いつまで経っても、ずっと、可愛い孫のままでした。

私が、実家で、母方の祖母の部屋を訪れると、母方の祖母は、いつでも、満面の、温かく、嬉しそうな、優しい笑顔で迎えてくれました。そして、母方の祖母は、私が、一度、祖母の部屋に遊びに訪れると、時間が許す限り(いや、時間が許さなくても)、いつまでも、私にいて欲しいと言った感じで、私が適当に時間を見て、「じゃあ、おばあちゃん、そろそろ行くね」と言わない限り、祖母の部屋から出て来れずw、私の母方の祖母の方からは、絶対に、そろそろ、遊びに行っておいでとか、そろそろ、勉強があるんじゃないか等と言って、私に、そろそろ行ってもいいよと配慮するような事は、絶対にありませんでしたw

母方の祖母は、甘い物(お菓子等)が好きだったので、甘い物(お菓子等)を、自分の為に、よく(たくさん)買っていたのですが、母方の祖母は、その様な、自分の為に買った、甘い物を、自分の部屋で、私と、一緒に食べる・私と、分けて食べるのが、大好きでした。私は、その様な経験を通じて、大切な人と、美味しい物を、一緒に・分け合って(シェアして)、美味しいねと言い合いながら・美味しいと言う気持ちを共有しながら、食べる事は、とても幸せで、楽しい気分になると言う事を、学んだ気がします。

私が、母方の祖母の部屋を訪れた際の、祖母の、満面の優しい笑顔は、今でも、鮮明に、私の心の中に残っています。その一方において、私が社会人になった後は、忙しく、私の母方の祖母が亡くなるまで、たまにしか、私の母方の祖母の、話し相手を出来なくなってしまったのが、今でも、私の大きな、悔い・心残りとなって、心の中にあります。

私の母は、男の子は女性を助ける力強く優しい男性に育てなければならないと言う保守的な教育方針があって、私も私の弟も、母に、男は涙を見せるものではない、男は簡単に泣くようでは、女性を守れない等と言った内容の事を言われて、育てられて来たと言う影響もあり、私も実際に、その通りであると思い、私は、少なくとも、中学生以降は、自分自身に関する事で、泣いた(涙を流した)事は、一度もありません。まあ、そんな私も、悲しい映画とか、悲しいドラマとかには弱く、割と、涙もろいと言うか、割と、すぐ涙が出て来てしまう方なのですが(まあ、涙が出ると言うだけで、泣くと言う程ではない)w

私は、そもそも、子供の頃を含めて、号泣と言ったものは、ほとんどした事がないのですが(私の親(母)は、子供(私、及び、私の弟)が、子供の頃から高校生の頃、子供(私、及び、私の弟)の事を、物質的には、好き放題、甘やかせていた為、私と私の弟は、幼い頃・子供の頃から、自分が欲しい物の為に、駄々をこねると言った必要はありませんでしたw)、私は、大人になってから、と言うか中学生以降、号泣(しかも大号泣w)した事が、たった一度だけあります。

それが、母方の祖母の、お葬式の時です。私の、母方の祖母の、お葬式の時(私の母方の祖父は、既に亡くなっていました)、父は泣かず、母は、しくしく泣いて、私の2歳年下の弟も、しくしく泣いて、私だけ、号泣(しかも、恥ずかしげもなく、思わず、大号泣w)してしまいました。

前述の通り、私の母方の祖母は、生涯、世間知らずの田舎の裕福な家の箱入りのお嬢さん的な要素があった女性であり、生涯、窓際で、白馬の王子様が、自分を迎えに来るのを、待ち続ける、夢見る少女の様な面を持った女性でした。

母方の祖父は、良き(良い)夫でしたが、母方の祖母にとって、母方の祖父は、白馬の王子様としては、物足りない男性であった様ですw

前述の通り、私が社会人になった後は、忙しく、私の母方の祖母が亡くなるまで、たまにしか、私の母方の祖母の、話し相手を出来なくなってしまったのが、今でも、私の大きな、悔い・心残りとなって、心の中にありますが、私が、母方の祖母にとって、少しでも、白馬の王子になれていたとしたら良かったなと思います。


以下、参考の投稿。
細雪→
/jp/board/exc_board_8/view/id/2701115/page/8?&sfl=membername&stx=jlemon
IQが高いスナフキン/和式トイレでウンコ出来ない→
/jp/board/exc_board_8/view/id/2750842/page/3?&sfl=membername&stx=jlemon



以下の動画は、全て、前にkjで、アップした動画です。




<iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube-nocookie.com/embed/yRLaoQX0Y1U" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen></iframe>
これは、今から、約80年前の、1937年の動画で、おそらく、新潟(niigata)県(日本の中部地方の北端に位置する県)の、高級リゾート(resort)ホテルに滞在し、新潟(niigata)県と、新潟(niigata)県に隣接する、長野(nagano)県(日本の中部地方に位置する県の一つ)で、夏の、バカンス(長期休暇)を楽しむ、名古屋(nagoya)(東京、大阪に次ぐ、日本、第三の都市圏人口を有する都市。日本の中部地方の中心都市)の、富裕層(中上流(upper-middle)階級)の家族(世帯主の男性は、当時、保険会社の、上級管理職(executive)であった様です)の、動画です。










<iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube-nocookie.com/embed/RFKjG3YM6MM" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen></iframe>
1930年代の、日産(nissan)自動車(日本の、大規模、自動車会社の一つ。1911年創業。1910年代に乗用車の生産を開始)の、 広告(commercial)動画(今から、約80年前の1937年に制作された物)です。主として、当時、自動車を保有する、ゆとりのあった、富裕層に向けての広告です。撮影地は、主として、東京の近郊です。途中、当時の、日産(nissan)自動車の、横浜の工場が出て来ます。日本において、夫婦や家族に物を売ろうとする時は、基本的には、まず、女性の心を掴む事が有効である(女性に、買いたい、又は、買っても良いと思わせる事が有効である)。これは、現在においても、変わっていません。動画の7分38秒から8分18秒まで、富士屋(fujiya)ホテルが出て来ます。












<iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube-nocookie.com/embed/y2TnhkMGR8Q" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen></iframe>
これは、1940年に、アメリカが制作した(ちなみに、この後、間もなく、日本とアメリカは、戦争に突入する事になります)、当時の、日本の、実際の、子供の生活を反映した、当時の、日本の、子供の生活のイメージ動画です。詳しくないので、間違っていたら、申し訳ありませんが、おそらく、当時の、世界の子供の生活を紹介する動画の一つとして、アメリカが制作した物である様です。詳しくないので、間違っていたら、申し訳ありませんが、この動画は、出演している家族は、本物の家族かもしれませんが、この動画(映像作品)自体は、記録映画(documentary映画)の性質を持つ、映像作品ではなく、あくまで、当時の、日本の、実際の、子供の生活を反映した、当時の、日本の、子供の生活のイメージ動画である様です。この、イメージ動画の家族の設定は、特に、裕福でもなく、特に、貧しくもない、当時の、日本の、標準的な家庭(中流の下(lower middle class)、又は、大衆の標準よりは、少し上)の家庭と言う設定で、日本の、地方の、中小都市(小規模程度の人口の都市、又は、中規模程度の人口を有する都市)の、中心的な、鉄道駅に、駅員として勤務する、世帯主である、夫と、その妻(主婦)、夫(又は妻)の母、子供3人(小学生の男の子供、小学生の女の子供、小学校入学前の、男の子供)、住み込みの(家で一緒に暮らす)、メイド(maid)(当時は、低所得者層(lower class)の女性がなる事が、多かった様です)が1人と言う、家族の設定である様です。ちなみに、これも、第二次世界大戦前の、日本が、現在の、日本よりも、貧富の格差があったから可能であった事であると思いますが、第二次世界大戦前の、日本の、中流層の家庭は、現在の、日本の、中流層の家庭よりも、遥かに(ずっと)、気軽に、メイド(maid)を雇っていた様です。












以下、第二次世界大戦前の、日本の豪華客船の食事に関する内容は、私の前の投稿から抜粋して来た物です。


写真以下2枚。横浜にある、日本郵船(Nippon Yusen)歴史博物館(日本郵船(Nippon Yusen)株式会社が運営する、日本郵船(Nippon
Yusen)株式会社の歴史に関する資料館)の展示より。。。前にenjoyでアップ(upload)した写真の再利用。




1937年の、ある日の、日本の(日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の)、豪華客船(国際航路向けの長距離客船)の夕食を、(蝋で)、再現したものです。






これも、1930年代の、日本の(日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の)、豪華客船(国際航路向けの長距離客船)の食事を、(蝋で)、再現したものです 。盛り付けは、やや、古臭い(古典的な)感じですが、食事は、現在と、それ程は、変わらないかも知れません。






写真以下3枚。横浜にある、三菱(mitsubishi)みなとみらい(minatomirai)技術館の展示より。。。





鎌倉丸(kamakuramaru)(秩父丸(chichibumaru))(第二次世界大戦前の、日本の豪華客船の一つ)の、1933年の1月1日の、しっかりとした、日本料理の、献立表(menu)。








鎌倉丸(kamakuramaru)(秩父丸(chichibumaru))(第二次世界大戦前の、日本の豪華客船の一つ)の、1939年の、ある日の(6月8日の)、昼食メニュー(menu)。間違っていたら、申し訳ありませんが、おそらく、食事の代金は、乗船の代金に含まれていて、大食な人(たくさん、食べる人)は、これを、全部食べても良いし、こんなに、たくさん食べられないと言う人は、この中から、好きな物を選んで、注文しても良いと言う、方式になっていると思います。

以下、鎌倉丸(kamakuramaru)(秩父丸(chichibumaru))の、1939年の、6月8日の、昼食メニュー(menu)の内容。

スープ(soup):澄んだスープ(soup)。濃厚なスープ(soup)。

魚料理:鰈の、焼き物(蒸し焼き)。鯛の、焼き物(網焼き)。

玉子料理:ポーチドエッグ(poached egg )。松茸(matsutake)(香の良い、高級な茸)入りの、オムレツ(omelette)。

煮込み(煮物)料理:厳選された肉、豚肉、牛タン(牛の舌)の煮物、野菜添え。鳩肉(鳩の肉)の、蒸し焼き。ドライカレー(日本の、カレー(curry)料理の一つ)。


野菜料理:様々な野菜の天婦羅。茹でた、ジャガイモ(potato)。サツマイモ(sweet potato)の揚げ物。丸ごと焼いた、焼き林檎(林檎の焼き物)。


焼き物料理:フィラデルフィア (Philadelphia)風、鶏肉の焼き物。ハムステーキ(ham steak)、玉葱の、天婦羅添え。


冷たい肉:厳選された肉の、ロース(loin)。ハム(ham)。牛タン(牛の舌)の燻製。仔牛(子牛)(veal)の、ロース(loin)。羊肉の、ロース(loin)。鵞鳥肉(鵞鳥の肉)の、ロース(loin)。モルタデッラ(mortadella)。


サラダ(salad):様々な、野菜。


デザート(dessert):様々な果物が入った、ゼリー(jelly)。桃のパイ(pie)。アイスクリーム(ice cream)。小菓子(クッキー(cookie)、チョコレート等)。果物、シチュー(stew)。


パン:様々なパン。


果物、その他:林檎。バナナ(banana)。マスクメロン(muskmelon)。様々な、ドライフルーツ(dried
fruit)。様々な、ナッツ(nuts)。 クラッカー(cracker)。緑茶(green
tea)。紅茶。ウーロン(oolong)茶。コーヒー(coffee)。







鎌倉丸(kamakuramaru)(秩父丸(chichibumaru))(第二次世界大戦前の、日本の豪華客船の一つ)の、1930年の、ある日の(11月13日の)、夕食メニュー(menu)の、英語版。間違っていたら、申し訳ありませんが、おそらく、食事の代金は、乗船の代金に含まれていて、大食な人(たくさん、食べる人)は、これを、全部食べても良いし、こんなに、たくさん食べられないと言う人は、この中から、好きな物を選んで、注文しても良いと言う、方式になっていると思います。


以下、鎌倉丸(kamakuramaru)(秩父丸(chichibumaru))の、1930年の、11月13日の、夕食メニュー(menu)の、内容。

前菜:西瓜、ホイップクリーム(whipped cream)添え。生ハム(ham)。ニシン(鰊)(魚)の、酢漬け。ox palate のピクルス(pickled ox palate)。ピーナツ(peanuts)。オリーブ(olive)。

スープ(soup):チキン(chicken)スープ(soup)。ホワイトセロリ(white celery)の、濃厚な、スープ(soup)。

魚料理:クサヤモロ(mackerel scad)の、焼き物。

entree:ビーフ・ウェリントン(Beef Wellington)。シビレ(sweetbread)の料理。カリフラワー(cauliflower)のサラダ(salad)。

肉料理:羊肉の、ロースト(roast)、スグリ(red currant)のゼリー(jelly)添え。プラム(plum)を詰めた、ヤマシギ(woodcock)の、ロースト(roast)、グレイビーソース(gravy)添え。

冷たい料理:牛タン(牛の舌)の、燻製。ターキー(turkey)、トリュフ(truffle)添え。サラダ(salad)胡瓜。

その他:ジャガイモ(potato)。ご飯(rice)。Italian Squash。鮪の刺身。豆腐の、お吸い物。

デザート(dessert)等:Newcastle Pudding、パイナップルアイスクリーム(pineapple ice cream)等の、甘いデザート(dessert)。savoury。様々な、ナッツ(nuts)。無花果(fig)。chow chow。林檎。パイナップル(pineapple)。バナナ(banana)。クラッカー(cracker)。チーズ(cheese)。コーヒー(coffee)。


当時の日本は、階級社会(昔は、貧しい人々は、本当に、貧しかったし、庶民の、食生活・物質的な生活も、現代に比べると、遥かに(ずっと)、貧しかった)、現代の日本は、大衆社会(庶民が、豊かで、又、貧困層でも、福祉制度等により、自動車を保有し、ある程度の水準の、生活が保障されている)と言う違いもありますが、富裕層・上流層の暮らしは、昔の方が、豪華であったような気がします(こうした、近代以前(第二次世界大戦前の、階級社会)と、現代(第二次世界大戦後の、大量生産・大量消費社会)の、時代の、大きな流れは、一般的に、日本のみならず、他の先進国(アメリカ、ヨーロッパ等)でも、当てはまると思います)。






以下、我が家にある本の一つ、「帝国ホテルのおもてなしの心」と言う本(学生社。1995年)(私が、古本屋で買った本)から、抜粋・引用して来た文で、第二次世界大戦中、日本の敗戦により、第二次世界大戦が終わる約2年前の1943年の、帝国ホテル(古くからの、東京を代表する高級ホテル)の結婚式の食事メニューに関する文です。


「太平洋戦争がいちだんと厳しさを増した頃、新郎の中には、新婚生活もそこそこに戦地に向かわなければならない方も少なくありませんでした。そんなカップルの為に、シェフたちは、配給品や代用品などの限られた材料の中で、精一杯のコースメニューを考えたのです。そのメインディッシュはオムレツ。お皿の上を明るい黄色で彩ったオムレツは、どんなフランス料理にも負けない幸せの味がしたのでしょう」


以下、「」内が、第二次世界大戦中、日本の敗戦により、第二次世界大戦が終わる約2年前の1943年の、帝国ホテル(古くからの、東京を代表する高級ホテル)のある結婚式の食事メニューです(これに、おそらく、パンが付くと思います)。


「前菜。濃いスープ。鮑(字が小さくて読めないが、たぶん)、海老、牛肉の焼き物。オムレツと野菜。松茸(matsutake)の何とか(字が小さくて読めない)。サラダ。アイスクリーム。コーヒー」


何だか、メイン料理(オムレツ)以外の物の方が豪華な様な。








以下、富士屋(fujiya)ホテル(箱根(hakone)(日光(nikko)と共に東京近郊を代表する保養地)を代表する、歴史のある、高級resortホテル)の、第二次世界大戦中、日本の敗戦により、第二次世界大戦が終わる1年前の、1944年頃の食事に関する文は、前の投稿から抜粋して来た物です。


写真以下2枚。富士屋(fujiya)ホテルの資料展示室より。。。




1944年頃の、富士屋(fujiya)ホテルの、パンフレット(leaflet)。








日本の敗戦により、第二次世界大戦が終わる約1年前の、1944年の11月2日の、富士屋(fujiya)ホテルの、フランス料理・西洋料理の、夕食のメニュー(menu)例。内容は、写真を撮ったは良いが、写真の字が、小さくw、不明瞭なので、一部、推測が入りますが、前菜の盛り合わせ、トマト(tomato)のスープ(soup)、魚のメイン(main)料理(魚の、バター(butter)焼き物)、肉のメイン(main)料理(牛肉の焼き物(又は、ローストビーフ(roast beef)。野菜添え)、デザート(dessert)(富士山の形のアイスクリーム(ice cream))、お茶菓子、コーヒー(coffee)と言った感じ。。。(これに、おそらく、パンが付くと思います)。1944年11月2日に、大東亜(アジア)、電気通信、第2回、懇談会で、富士屋(fujiya)ホテルに宿泊した方が、提供した資料。第二次世界大戦中は、物資の不足、増税、宿泊客の減少等により、ホテル経営の深刻な悪化に悩まされていた、富士屋(fujiya)ホテルですが、この頃(1944年頃)は、富士屋(fujiya)ホテルでは、まだ、ある程度、しっかりとした、食事が提供されていた様です(ちなみに、さすがに、おそらく、第二次世界大戦の末期(1945年頃)は、富士屋(fujiya)ホテルも、かなり、物資の不足に悩まされたと思います)。








以下。おまけ。我が家の新聞の、折り込みチラシ広告(定期購読している新聞に挟まれて来る広告)より。。。メイド(maid)の派遣サービスの広告。派遣されるのは、フィリピン人のメイドである様です。



















TOTAL: 28100

番号 タイトル ライター 参照 推薦
24520 (=゜ω゜) クリスマス kita (8) 1yen 2018-12-20 637 0
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