ミリタリー


近代日本による刑政大改革と人権向上 ―韓国の歴史から見えるもの

『別冊正論』 総復習『日韓併合』
古田博司(筑波大学大学院教授)


朝鮮はずっと古代の「廊下」だった

 さて今回、『別冊正論』編集部の私への依頼は、朝鮮の法治、とりわけ刑政について語ってほしいということである。なるべく分かりやすく説明したいのだが、煩瑣な専門用語がどうしても邪魔になる。李朝は漢文の世界だから、下手をすると突兀(とつこつ)とした文字面になってしまう。それを何とか避けながら語ってみよう。

 まず押さえておきたいのは、朝鮮の地政学的な位置である。大陸からここを通ってくる敵に対しての自然の防壁が全くない。ただの「廊下」である。異民族の侵入に抗することができないので、朝鮮半島の歴代の王はみな逃亡してしまう。

 李朝では、海沿いの江華島に逃亡用の王宮までしつらえられていた。10世紀から11世紀に遼(契丹(キタイ)族)が高麗を攻めたときも、16世紀の豊臣秀吉の朝鮮の役でも、17世紀の後金(後の清、女真(ジュシェン)族)の侵攻でも、王は逃げた。

 これは近代でも変わっていない。20世紀、朝鮮戦争の時も北の侵攻に対し南の大統領・李承晩は民衆や軍隊を置き去りにしたまま、漢江にかかる橋を爆破して南に逃げてしまう。逆にアメリカ軍がくると、今度は金日成が軍事を中国援軍の彭徳懐将軍に丸投げにして、中朝国境まで逃げこんでしまった。

 このような国では安定した国家運営はむずかしい。民衆が為政者を信頼した歴史をもたない。国政混乱・綱紀紊乱(びんらん)・強権強圧がふつうなのである。

 日本が来るまでシナ・コリア地域たる東洋は、ずっと古代だった。現在の中国共産党がアヘン戦争までを古代とし、歴史認識に「中世」期をもたないのはある意味で正しい。ただ、日本に敗けた日清戦争からが近代なのだ。それが嫌でアヘン戦争からだと言い張っている。でも、彼らがずっと古代の王朝国家だったことに変わりはない。まず土地の所有権がない。長期間継続する使用収益を根拠とする文書の交換だけである。これは社会主義政権下の中国では、土地の国家所有や集団所有に引き継がれた。

 一方、朝鮮に民法典を与え、私的所有権を認めたのは近代日本である。さかのぼって李朝時代には、売買が成立せずに小売商さえいなかった。京城・平壌・開城その他の重要都市には商人がいたが、官府の貢進物を売買する御用商人のみである。

 では一般では日常品をどうするかといえば、ぜんぶ市場での物々交換でまかない、物品供給は行商人がになっていた。今のソウルの南大門や東大門の市場は、その市の名残だ。清は「少しましな古代」、李朝は「ひどい古代」と思うとよいだろう。

 次に、シナ・コリア地域の関係性が問題になる。これは例を挙げながら述べてみたい。

朝鮮の法令もシナ事大主義だった

 李朝では国初より14世紀の明国の法令、「大明律」をもって自国の法律と同一視した。それでも足りないところは、その都度、補助法規集を刊行し、これを補ったのである。

 それらには、経国大典(1470)、大典続録(1492)、大典後続録(1543)、受教輯要
(しゅうよう)(1698)、続大典(1744)、大典通編(1785)、大典会通(かいつう)(1865)などがあり、「大典」と名付くものの「刑典」部分には、全て「大明律を用う」と、ある。

 結論から言えば、異国の法律を事大主義で正典として適用したものであるため、非常な無理が生じた。たとえば、18世紀の続大典に「(墓の)坑処を穿ち放火し、あるいは穢物(わいぶつ)を投げ込んで戯(ざれ)をなした者は、(大明律の)『穢物、人の口と鼻に灌ぐ律』により(罪を)論ず」とある。

 この背後には、李朝後期になると、山争いが頻発し綱紀紊乱するという時代背景があった。朝鮮では墓は土饅頭で山にある。一族で山を占拠し、代々の墓を守るのである。山の数には限りがあるから、自然、他族との闘争が始まる。ひどい時には、前の墓を掘りかえして棺桶を焼いてしまう。風水信仰で棺のなかの骨には一族繁栄のパワーが宿っていると信じていたので、焼かれた側は激怒する。こうして一族郎党で鎌や棍棒をもって山にせり上がり大乱闘が始まるのである。

 この条文は、その闘争の初期を封じているのだ。人の墓に放火したり、汚物を投げ込んだものを大明国の律で罰しようというのである。 

 問題の大明律の条文の方を見てみよう。大明律刑律闘殴条にある。「人の一歯および手足一指を折り、人の一目を眇(つぶ)し、人の耳鼻を抉毀(えぐ)り、人骨を破り、銅鉄汁(スープ)で人を傷つけるがごとき者は、杖(こんぼう)一百。穢物を以て人の口鼻内に灌ぐ者、またかくのごとし」という私闘の際の罰則規定であり、山争い・墓争いとは何らの関係もない。

李氏朝鮮の拷問。右から角形枡に膝を突っ込ませ棒で打つ「跪膝方斗」、足指の間に熱した鉄棒を挟む「足指灸之」、逆さに吊るし鼻孔に灰水を注入する「鼻孔入灰水」(朝鮮総督府『司法制度沿革図譜』昭和12)
李氏朝鮮の拷問。右から角形枡に膝を突っ込ませ棒で打つ「跪膝方斗」、足指の間に熱した鉄棒を挟む「足指灸之」、逆さに吊るし鼻孔に灰水を注入する「鼻孔入灰水」(朝鮮総督府『司法制度沿革図譜』昭和12)

 明国の方もヘンである。平成22年11月11日付産経新聞「産経抄」に、中国密航船員が脱糞して女性海上保安官に投げつける話があるが、それを彷彿させる。

 目くそが鼻くそをまねるというと私が品格を失ってしまいかねないが、両国の関係とはこのようなものだった。朝鮮は法令で、シナ人の顔面を朝鮮人の墓面に置きかえるという無理をしてまで、シナの権威にすがろうとしたのである。

 シナ・コリア地域を過大評価して、朝鮮は中国に「挑戦すれば討伐されるが、朝貢すれば共存できる」という関係を維持したのだと、思いこんでいる方が日本にはおられるが、そうではない。朝鮮はシナに「挑戦など考えられない、臣従して生きるしかない」という、もっと切実な関係に甘んじてきたのである。

 第一、派兵能力がちがう。シナは5万人、朝鮮は1万5千人。勝てるわけがない。だからシナの王朝は朝鮮を征伐したこともなければ、する必要もないのである。

 第二に朝鮮には権威がない。「行き止まりの廊下」の地勢で国民を守れたことがない。与(くみ)しやすしと見られると、満州のジュシェン(女真)族が直ぐに鴨緑江を越えて、物を奪い、人を狩って農奴にする。

 ジュシェンと交流して友好策を図ろうとすると、シナの王朝が邪魔をする。「お前は忠貞なる、うちの東の家来だったではないか」と、文書でしかりつけてくる。シナはシナで一緒になって攻めてくることを恐れている。「夷を以て夷を制する」にしくはなし、と見る。

 ジュシェンの方は諸部族に分かれ満州で暮らしていた。甲賀者や伊賀者の里のようなところで、捕まえてきた明人や朝鮮人に農耕をさせる。根拠地も忍者の砦のように城をもたず、時々移動するので居場所がよくわからない。朝鮮はシナの権威で国内を押さえ、同権威で国境に睨みを利かせるしかなかったのである。

官庁ごとに私設の監獄があった

 さて話は変わって、日本統治時代の朝鮮に、元京城刑務所長だった中橋政吉という人物がいた。日韓併合後に朝鮮にわたり、大正12年(1923)頃刑務官となり、近代日本が彼の国を近代化する有様をつぶさに見た。文献を集め、沿革の史料を求め、『朝鮮旧時の刑政』(昭和11年)一冊を書き残している。

 貴重なのは、李朝末期を生きた朝鮮人の古老からの聞き書きである。二十八、九歳の時、典獄署の書吏をしていた金泰錫氏から監獄の見取り図を得、地方の郡守だった朴勝轍氏から斬刑の目撃談を聞き、李朝時代の前科者の尻に残る笞(むち)痕(あと)を見、隆煕2年 (1908)の旧軍隊の解散の際の暴徒の首謀者で、島流しにされた鄭哲和氏から当時の配流生活を知る。史料価値も一級である。

 今この書を読者に紹介しつつ、私の知るところを織りこんで、以下綴(つづ)ることにしたい。

 今のソウルは、李朝では京城あるいは漢城と漢語で書き、時の発音ではショヴォルといった。語尾のオルを同じくする地方はシゴル(郡)といい、対立概念である。両方合わせて「中外」と称する。

 京城の公式の監獄には二つあった。義禁府の禁府獄(きんぷごく)(今の鍾路(チョンノ)の第一銀行(チェイルウネン)の場所)は官人の犯罪者を拘留し、国王の命令がなければ開くことができない特別裁判所だった。構内に南間、西間の獄舎があり、オンドル式だった。四方の内側は板壁、外側は土壁、前面のみ高窓があり、出入口には戸扉がはめられた。これを金吾獄ともいう。

 刑曹(けいそう)所属の典獄署の典獄(てんごく)(金吾の道を挟んだ対面)には庶人の犯罪者を拘留していた。構内の円形の墻(しょう)内に半分オンドルの獄舎を設け、庁舎はその周りに配されていた。シナの六部の縮図が六曹で、所轄の刑曹はその一つ、裁判と刑罰担当である。

 その他に、兵曹、司諌府、備辺司、補盗庁などにも各権限に応じて日中の逮捕の権があった。煩瑣なので各官庁の説明は省く。その獄舎は留置場程度で、そうでない立派な監獄は兵曹所属の補盗庁(ほとうちょう)のみで、左獄・右獄といわれ恐れられた。

 京城の夜は外出禁止なので補盗庁が夜回りと盗賊逮捕をになっていた。構内には五間ばかりの板場の獄舎と隣接して絞首刑執行場があった。獄舎の四方の内側は板壁、外側は土壁、前面のみ高窓、出入口は板戸に横木でカンヌキがしてある。舎内の壁には丸木が露出していた。

 こうした各官庁の監獄は時代を経るにつれてどんどん増えていった。つまり分業がうまくできず、あちこちの官庁が勝手に留置場を設けてしまうのである。これを「私獄濫設の弊」という。1725年、軍関係の五つの軍営にまで拘留の間があると報じられ、英祖王はこれを禁じた。

 18世紀前半に各官庁の擅囚(せんしゅう)の弊が極に達した。「擅囚」とは読んで字のごとしで、「ほしいままに捕えた囚人」のことである。百司百官で私獄のないものがない状態になった。庶民はいつ役人に捕縛されるやも知れず戦々兢々(きょうきょう)としていた。

 1740年の報告では、各官庁の私事の逮捕監禁がひどい、私的な怒りで捕えたものばかりだ、とあった。翌年、王は濫囚するものがあれば報告せよと命じた。これを「擅囚の弊」とか「濫囚の弊」といったが、改まらなかった。

 地方官も六曹の縮図のように六房を置き、刑房に裁判・禁令・罪囚・監獄の事務をさせていた。道獄、府獄、郡獄と呼ばれる地方獄があった。地方官に司法権を兼掌させたために、司法と行政が区別されず錯綜していた。地方では観察使(かんさつし)(=道知事)以下の行政官が、裁判権をほしいままにしていた。彼が何を観察するかと言えば、民衆の儒教道徳実践を観察するのである。

 裁判は役所の前庭のお白州で行われ、審理には拷問が付き物だった。審理は、死罪は30日、流刑は20日、笞杖(ちじょう)(鞭と棍棒)刑は10日の期限を定め、故意に延ばすものは誤決と同罪として処罰することとし、中央の刑曹には毎月1日に判決の月日を報告させることにしていた。
 
みだりに捕え、放っておく弊害

 ところが、監獄で憂慮されたのは、国初から「違法濫刑」、「獄囚延滞」にともなう凍死と疫病であった。これも読んで字のごとく、「濫(みだ)りに刑罰を科し、判決を出さずに延ばし延ばしする」のである。審理・判決の期日は、結局守られなかった。

 1427年の冬には凍死の恐れがあるから囚人を解き放てと命じている。つづく世祖王代には官吏を派遣して地方の監獄を調べさせたが、先の濫刑、延滞の二項がとくに甚だしかった。1457年には、獄囚延滞が無きようにと地方に命じた。この王さまはわりと良い人だった。

役所ごとに勝手に行われた李朝からの〝お裁き〟
役所ごとに勝手に行われた李朝からの〝お裁き〟

日本によって導入された近代法制下の京城地方法院の裁判(朝鮮総督府『写真帖朝鮮』大正10)

日本によって導入された近代法制下の京城地方法院の裁判(朝鮮総督府『写真帖朝鮮』大正10)


 1466年の冬には凍死せぬように釈放令を出した。朝鮮の冬はもちろん、吐く息が凍るほどの零下である。睿宗(えいそう)元年(1469)、忠清道の囚人は400人に達するとの報告があり、濫囚の弊が甚だしかった。

 1567年には、濫刑の官吏をひどく罰せよと王が命じた。この頃より、各役所が濫りに人を逮捕して監禁し、権勢を振るう弊害が表面化した。この後、30年で豊臣秀吉軍の侵攻にさらされることになる。治まって、1625年、仁祖王が擅囚の弊をいさめたが、効き目なし。債務強制のための監禁の弊が表面化した。つまり負債を返せないと、どしどし投獄した。貸す方も悪(わる)だが借りる方も踏み倒しの悪である。

 そんなことをやっているうちに、翌々年、ジュシェン(女真、後の清)のヌルハチの子、ホンタイジが攻めてきた。仁祖王は、江華島に逃げた。寝返った朝鮮人の武将が船でやってきて、「お前は泥人形か」と、王を侮辱した。王は降伏したふりをしたがばれて、もう一度攻められた1636年、京城は落城した。

 時はたったが、監獄は変わらない。1651年、ソウルの獄で衣服、薪炭が行き届かず凍死するものが多かった。翌年、獄にいるハンセン病患者に薬物を与えた。獄内では不潔不衛生により伝染病その他の病魔に襲われる。獄内に充満する吸血虫の弊害で皮膚病にかかり命をおとすに至るのである。

 第一、ソウル自体が不衛生の巣だった。だいぶ下って、19世紀の英紀行家マダム・ビショップに世界第二の不潔都市と紀行文に書かれた、「誇り高き不潔都市」である。ちなみに第一位は、シナの紹興だった。

ソウルのメーンストリート鐘路も併合前はこんなだった(東京朝日新聞『ろせった丸満韓巡遊紀念写真帖』明治39)
ソウルのメーンストリート鐘路も併合前はこんなだった(東京朝日新聞『ろせった丸満韓巡遊紀念写真帖』明治39)


 1680年、獄囚延滞で89人も死んだと粛宗王は報告を受け、責任を問うた。地方はもっとひどい。罪が重いと処決せずに数十年延滞しているとの報告があり、1697年には、疫病が京城の典獄(庶人監獄)にも広まった。刑曹の報告により保釈する。禁府獄(官人監獄)も重病の者を上に報告して保釈した。

 1707年、監獄で湿所に病を発する者が多いので板を敷けと命じられた。つまり朝鮮の監獄は土間だったのだ。朝鮮おそるべしである。粛宗王代には王室の祭祀忌辰(先祖の祭や命日)で裁判の開廷を止めることが多く、獄囚延滞の弊が特にひどかった。

李朝古代から日本近代への大改革

 1745年、「替囚(たいしゅう)の弊」甚だしと、報じられた。これは何かというと、罪人に替えてその親族が入獄するのである。夫の替りに妻が入るのを「正妻囚禁」、子の替りに父が、弟の替りに兄が入るのを「父兄替囚」といった。

 後者は人倫に反するというので粛宗代に「制書有違律」で処罰された。これも大明律の官吏の罰則で、王の言を制、それを記したものを書という、「詔(制書)を奉じてその施行にたがうものがあれば、棍棒で百回殴る」という律で、替囚とは何の関係もない、こじつけである。

 本場シナの方にしても、王言がそのまま錯誤・遅滞なく実行されたとはとても思われない。東洋の法治はこのようなファンタジーとこじつけに満ちているのである。

 正祖王の8年(1784)、獄囚に飢餓迫る。獄中の食事は自弁できない者には官給せよと命じた。これはこれまで何度か命じたが効果なし。食事の官給はなかった。

 高宗王の8年(1866)に天主教(カトリック)弾圧に遭い、補盗庁の獄舎につながれた仏宣教師リデルの記録『京城幽囚記』によれば、食事はクワンパン(たぶん官飯(クワンパプ)の意)という朝夕に米ほんの少しばかりの食事で、二十日もたてば骸骨となってしまうという。

 当時、囚人には盗賊、負債囚、天主教徒の三種類がいた。収監されるとチャッコー(着庫)という足枷(あしかせ)をはめられるが、盗賊以外はチャッコーから足を抜く方法を獄卒から教わり、夜は仰臥できる。盗賊は昼夜足枷をはめられ、疥癬(かいせん)に侵され、杖毒(杖刑の不潔な棍棒で打たれ病原菌に感染すること)で肉は腐り、飢餓に苦しむ。死が近づけば獄卒が蹌踉(そうろう)とした囚人を屍体部屋に連れ出し、死ねば菰(こも)にくるんで城外に捨てに行った。女囚は足枷をしないが、チフスなど疫病にかかりやすい。乳飲み子を連れている女もいた。

 東学党の乱など内政が乱れる朝鮮をめぐって清と対峙する日本政府は、日清戦争勃発直前の明治27年(1894)6月、清からの朝鮮独立を促す改革案を閣議決定し、翌七月に官職の綱紀粛正、裁判の公正化、警察・兵制の整備などの内政改革を朝鮮政府に求めた。

 朝鮮では高宗王の31年(1894)、甲午改革を進めるために置かれた軍国機務所から、大小官員で贈賄を犯したものが下僕を替囚して罰金を払い、そのまま下僕を獄囚延滞するという弊害があるから、今後は本人を収監せよという命令が出た。

 1895年の改革で、未決囚と既決囚を区別して収監すること、共犯者は監房を別にすること、収監には裁判所または警察署の文書が必要であること、携行の乳飲み子は3年までこれを許すことなどが決められた。典獄署は監獄署と改名、義禁府は法務衙門権設裁判所と改名し、両獄の罪囚は全部監獄署に移した。地方は官制を定めなかった。日清戦争と下関条約の結果、朝鮮はシナから独立開国し、ようやく近代化の途についたのだった。
 
 1896年の改革(乙未改革の一環)で、日本東京府の各監獄が警視庁の所轄であったことにならい、警務庁を設けて監獄署を一分課として所属させた。この警務庁時代に丸山警務顧問が進言し、西大門外の仁旺山(におうさん)麓、金鶏洞に5万円で監獄を新築し、1907年竣工した。木造、庁舎80坪、獄舎480坪、監房は丁字型、工場あり、浴室あり、500人収容可だった。

 明治37年(1904)、第一次日韓協約で統監府を置き、1906年、地方に13カ所の理事庁を設け、日本人の犯罪者を獄舎に収監した。1905年の第二次日韓協約で、1908年から監獄官制が施行された。

 刑政を控訴院検事長の管轄下に置き、地方裁判所在地と同様に監獄を全国8カ所(計293坪にすぎなかった)に設置し、事務室、監房、炊事場、浴場を設備した。水原(スウォン)の京畿監獄のみが完備されていた。また典獄以下の職員の大部分は日本人を採用した。法務大臣に趙重応、京城控訴院検事長に世古祐次郎が任官した。

併合前からの監獄。丸太をまばらに立てた壁は隙間だらけ。ここにこれだけの囚人を詰め込んだ…
併合前からの監獄。丸太をまばらに立てた壁は隙間だらけ。ここにこれだけの囚人を詰め込んだ…

日本によって開設された近代的な京城の刑務所(『写真帖朝鮮』)

日本によって開設された近代的な京城の刑務所(『写真帖朝鮮』)


 1908年、各地の理事庁獄舎を増加し、永登浦監獄を設け、未決囚のみ京城に、既決囚は永登浦監獄に移した。これが永登浦監獄の起源である。翌年、韓国の司法および監獄事務を日本に委託する約定が成立し、統監府監獄官制が布(し)かれた。統監府理事庁監獄に日本人、朝鮮人共通の監獄ができた。監督機関として、統監府司法庁が置かれた。

 1908年の改革(刑法大全改正)のとき、典獄(鐘路の庶人監獄)に拘留されていた者は309人(未決囚123人、既決囚186人)だった。各地方の監獄はすでに2千人を超え、大邱監獄の監房は全部で3室総面積15坪しかない所へ収監者150人だった。房内に縄を張り、それに両足をかけて上半身だけ床に横たえさせた。公州監獄では房内へ便器を入れる余地なく、外に四樽を備え、漏斗で内から放尿させていた。

 朝鮮総督府監獄官制の実施、大正8年(1919)11月1日より3カ月で監房面積は1479坪、収監人数7021人、一坪当たり収容人員は4・7人で、半分以下に緩和され、房内衛生も大幅に改善された。

放政ゆえの苛政と「恨」の起源
 
 統監府は設置から5年後の明治42年(1909)、新たな戸籍制度を導入した。賤民層にも等しく姓を名乗らせる一方、身分記載を廃して身分解放を進め、教育の機会均等も促した。独立した司法制度を敷いて私刑を廃した。水原の京畿道地方裁判所に赴任後、残酷な拷問をたびたび目にした日本人法務補佐官の建言で1908年に取り調べにおける拷問を禁止している。

 日本の朝鮮に対する改革は、古代を近代にする改革だった、とひとまず言えるだろう。その初期の目的は日本の安全保障のための併合だったとしても、これを放置するにはあまりにも浪費が多く、コストがかかりすぎた。近代的な改革を施さないわけにはいかなかったのである。

 これはロシアとの開戦の最中も、着々と朝鮮統治の施策を実施していたことから明白であろう。

 李朝の政治は苛政というよりは放政ゆえの苛政というべきである。古代経済社会のうえに、中国古代のファンタジーを権威模倣として採用し、地政学上の「廊下」を往来する異民族の来襲から王は民衆を放りだして逃走した。

 国政混乱・綱紀紊乱のさなか、為政者不信の民衆を強権強圧する官僚を王が儒教の徳目で牽制する(これには両者の役割が逆の時代もあった)という形で、李朝は500年間崩壊することなく、放政と苛政の均衡を保ったのである。

 これにはおそらく、「行き止まりの廊下」の行き止まり部分が有効に働いている。民衆は逃げ出そうにも廊下の先は海なのである。これが民衆の耐性を育てた。この無念と諦めの鬱屈を「恨(ハン)」という。

 私はよく読者から、朝鮮が本当に好きなのかと、問われる。嫌いならば40年間もの研究生活を送れたはずがない。ただ、私は、好きなものの味方はしないのである。好きなものの味方をすれば、好きなものが悪くなったときに、その悪いところを隠そうと、良い部分をデフォルメして喧伝するようになるだろう。

 今の中国研究者、朝鮮研究者には、そのような運動家となった人々が叢生している。悪いものの敵になる運動家ならば筋が通るのだが、悪いものの味方をする運動家はいただけない。これは嘘つきである。

 今の韓国をつらつらみるに、法治主義の失敗と民主主義の破綻、過去の東洋的専制主義への退行は明らかなのだから、韓国がどんどん悪くなっていることは否定できない。そのとき、韓国の歴史がどんなに苛政だったか、それを知らなければ韓国の行き先も見えないことになってしまうだろう。そのような立ち位置で今回の仕事を引き受けたのである。

 それでは立ち位置を明らかにしたので、われわれは先に進むことにしたい。つぎに李朝の刑罰の歴史に入って行こう。斬首から始めたい。

 斬首刑は光武9年(1905)の刑法大全制定により廃止された。それまで、大逆犯の処刑は南大門や鍾路の辻で行われることがあった。1896年の国王毒殺事件の犯人、金鴻陸(きんほうりく)を処刑して梟(きゅう)したのも鍾路だった。梟(ふくろう)の棒先にとまるように首をさらすので梟刑という。逆賊を誅するときには、首を切り、臂(ひじ)を断ち、脚を断ったので、五殺といった。

 斬首刑の場合、「待時囚(たいじしゅう)」と「不待時囚」と二種類があった。待時囚は、春分前、秋分後に執行し、不待時囚は判決後、時を待たず直に執行した。

 十九世紀後半の高宗時代には刑場は龍山(ヨンサン)近くに二カ所、待時囚用があった。セナムトとタンコゲである。刑木に髷(まげ)を吊りさげて首と胴を断った。不待時囚用は武橋洞(ムギョドン)、待時囚の緊急用は西小門(ソソムン)外だった。刑木に吊りさげずに斬るので首と胴は離れなかった。

 執行方法は、まず罪人を監獄から引き出して、車に乗せて牛に牽かせる。車に乗せるには、罪人の両手を広げ、両脚を揃えて踏み台の上に起立させ、牛車の箱に縛りつけておく。途中南大門を過ぎる時に踏み台を取り除き、牛を疾駆させる。罪人は両手のちぎれるばかりに振られ、舌は歯の振動で鮮血がほとばしり、刑場につく頃は死人同然となった。

大きな鈍刀で囚人の首を斬る様子。首はそばに立てた竿に吊って見せしめにした(『司法制度沿革図譜』)
大きな鈍刀で囚人の首を斬る様子。首はそばに立てた竿に吊って見せしめにした(『司法制度沿革図譜』)


 執行日は家族に知らせる。家族が来て、刑吏に賄賂をおくり、なるべく苦痛がないように一遍に斬ってもらうためだ。後年、斬刑は獄内でも密行されるようになり、構内でうつぶせにして斬った。「行刑刀子」といい、薙刀(なぎなた)のような大きさの鈍刀で、ただの重みで叩き斬った。朝鮮人もシナ人も、刀に刃をつけるのがどうも苦手のようである。

 かわって薬殺は得意だった。王族や士大夫の罪人の面目を重んじて王より毒薬を賜い、これを嚥下させる。砒素(ひそ)を用いたらしい。流刑で外地に出した場合、後の報復が予想されるときには到着する前に、使者に薬をもたせて途中で罪人に服毒させて殺した。儒者官僚・宋時烈が済州島に流される途中で客死したのも、粛宗に廃妃を諌めた朴泰輔らが配流の途中死んだのも賜薬(しやく)による。

 磔刑(たっけい)や絞首刑は、朝鮮人には物足りなかったためほとんど行われなかった。日本人の逆である。絞首刑が行われるようになったのは、比較的新しい。

 高宗3年(1866)に天主教弾圧に遭い、補盗庁の獄舎につながれた仏宣教師リデルの記録によれば、補盗庁左獄で刑場は監房に隣接し、刑場の中央を板壁で仕切り、その壁の上部に穴をあけて縄を通して縄の端に受刑者の首をくくり、隣室から縄を引いて絞め殺したという。

日本人と異なる東洋の処刑法

 1908年から監獄官制が施行された。当時残っていた旧八監獄を改修したが、水原(スウォン)の京畿監獄のみ、施設が完備された。

 中橋政吉の見たところ、水原の京畿監獄だけ、刑場が二階式だった。鍾路監獄では物置のような場所の低い天井の梁に鉄製の井戸車を吊るして縄をかけ、床下3尺ばかり掘り下げて縄巻き器をすえ、回転させて巻き上げた。大邱監獄では丸太3本を三叉に組んで、その中央に縄を吊るして執行した。

 海州監獄では監房の一つをあけて、上記の補盗庁のようにしていた。平壌監獄では元の観察使、後の平壌地方裁判所の構内の建物の一つをあけて上記の梁木・滑車式で殺した。そこには死刑囚が暴れたときに殴るため洗濯棒のような棒が備え付けられていた。

 凌遅(りょうち)刑という、日本人には聞き慣れない刑罰がある。シナ清代では阿片を吸引させ陶酔したところで四肢から生きたまま切り刻むのだが、朝鮮では死者に対してこれを科した。

 大逆罪の屍骸の頭、左右腕、左右脚、胴の順で六つに断ち、残骸を塩漬けにして各地に分送する。この刑罰は17世紀、光海君の代に隆盛を見た。仁祖王代に厳禁としたが廃するに至らず、英祖王代に叛逆を謀った尹光哲と李夏徴なるものの屍骸に凌遅の刑を施した。

 19世紀の高宗王代、金玉均(きんぎょくきん)にも凌遅の刑が科せられた。

 日本の明治維新を手本に朝鮮の近代化を目指し、1884年、閔氏政権打倒のクーデター(甲申事変)を起こしたが清の介入で失敗し、三日天下で日本に亡命してきた。各地を転々とした後、上海に渡る。1894年3月28日、上海で閔妃の刺客洪鐘宇に銃で暗殺された。

 遺体は清国軍艦咸靖号で朝鮮に運ばれ凌遅刑に処せられた。頭と胴は漢江の楊花津頭に梟し、手足は八道に分梟し、躯(むくろ)は漢江に投げ入れ魚腹に葬らせた。

 日清戦争後の下関条約で朝鮮は独立し、1895年の改革で、「処斬凌遅」等の刑の廃止令が出て凌遅刑は終わった。だが今日でも「殺してもあき足らない奴」というときに、「凌遅之刑(ヌンチヂヒョン)・当(タン)ハル奴(ノム)」と韓国語で悪口を言うことがある。

 最後に、追施刑という刑がある。追施刑とは死者の棺を掘り起こして加える刑罰である。

 15世紀、燕山君の史獄のとき、刑曹判書(=刑曹長)金宗直を大逆罪とし、その棺をこわし屍骸を掘り出して斬った。その後、燕山君の生母、尹氏を廃妃にした謀議に加わった数十人を捕え処刑したが、そのうちすでに死んだ者は棺を壊し屍骸を引きずりだして斬り、骨を砕いて風にさらし屍は江に投じた。

 追施刑の結果は罪人の子または親も同時に連座させられるので、英祖32年(1756)に王政の忍ばざるところとして廃止されたが、これで終わった形跡はない。なぜこのような刑罰をしたのかというと、風水信仰で屍骸の骨には一族繁栄のエネルギーが宿っていると信ずる。そこで生きている親族を連座させてこれを行い、残族に還流するエネルギーを根本から断つのである。

 この刑罰もシナが本場である。日本と提携し、シナの近代化を求めた政治家・汪兆銘(おうちょうめい)は、死後の民国35年(1946)1月15日、国民党軍により墓のコンクリートの外壁を爆破され、棺とともに遺体を引き摺りだされ、灰にされ野原に捨てられた。

賄賂次第の笞刑、身代わりの下僕

 ここらあたりで日本の普通の読者は、胸糞がわるくなって、もううんざりということになるのではないだろうか。お気づきとは思われるが、日本人は地理上は“東アジア”人であっても、歴史文化上の“東洋”人では決してない。独立採算制の地域分業とでもいうべき「封建制国家」の子孫であり、「王朝国家」は遥か12世紀に終わっている。

 その王朝の頃でも、シナの肉刑・宮刑・奴隷制など「人間の家畜視」は受け入れなかった。風水信仰も湿潤な日本では発達しなかった。陰宅(死後の家、墓)の骨など埋めても腐るから、一族のエネルギーの元などにはなり得ようもない。陽宅(生きているときの家)の方角などの吉凶占いだけが残った。

 というわけで、私もこの辺で終わりにしたいのだが、別冊正論編集部から依頼された紙幅にはまだ届かない。申し訳ないがもう少し陰惨な東洋の話をつづけることにする。つぎは、笞(むち)と杖(こんぼう)から始まる。

 朝鮮の打撃刑は、高麗時代から笞刑と杖刑が区別されていた。軽いものには笞を用いる。李朝ではいずれの官庁も、刑具も執行方法も勝手放題。賄賂の多寡により刑を加減したためバラバラになったのである。

犯人の夫を捕えた刑吏に牛と反物を賄賂として渡し釈放を願い出る妻(『写真帖朝鮮』)
犯人の夫を捕えた刑吏に牛と反物を賄賂として渡し釈放を願い出る妻(『写真帖朝鮮』)

 賄賂をした者は始めの三打まで手加減し、四打以降は外観のみ強く打つように見せ、受刑者にわざと号泣させた。賄賂しない者には強打し、賄賂を促した。賄賂しない者は永久に消えない傷跡を臀部に残した。中橋政吉はこれを当時の前科者から目撃したという。

 杖でも笞でも、硬質の木材のものもあれば、桐のような軟木もあり、甚だしきは紙製のものに朱漆を塗って外観だけ丈夫にしたものもあった。これを朱杖(しゅじょう)という。刑具は受刑者の負担として自分で作って官へ持参させた。笞は自然に繊弱に流れ、すぐ折れるので数十本の予備の笞を要することがあった。

 1673年、広州府尹(=府知事)の李世華の検田に過失があり、杖刑の命が下ったが、判義禁(=義禁府長)の金寿恒が上大夫に杖刑は奴隷と同じだから他の刑に代えてほしいと上奏し、王はこれを許した。このような例はいくらでもあった。

 両班に対して笞刑を加える時にはその名誉を重んじ、庶民のように臀部を打つことはせず、「楚撻(そたつ)」といって、木の小枝で両脚の前脛部を打って済ませたものだった。それが、後には代人を出し、下僕が笞刑を受けるようになった。

 17世紀、粛宗王代に「累次の兵乱を経て法制みだれ、杖を大きくするの弊がひどい。これからは笞を用いよ。軍律処断以外の者に棍棒を用いてはならない」と、命じた。18世紀、正祖王代に欽恤(きんじゅつ)典則が制定され、笞刑の改正を行ったが、濫刑の弊は治まらなかった。

 1896年、刑律名例を制定し、刑罰を死・流(る)・徒(ず)・笞(ち)の四種に改め、古来の杖刑を廃し、笞刑は従来の回数10ないし50を、範囲を広めて10ないし100とし、十等に区別した。1905年制定の刑法大全では、死・流・徒・禁獄・笞の五種とし、杖刑は認めず。笞刑は刑量を定め、婦女に対しては水に濡らした衣を着せること、姦通罪の場合は衣を着せずに執行とした。

 日韓併合後も、刑法大全の笞刑は朝鮮人に限り適用されていたが、明治45年(1912)9月制令第三号をもって、笞刑は代用刑に改められ、懲役・拘留・および金刑(金額に代える)に代えて行うこととしたため、自然に磨滅していった。

流刑には妻や妾を随伴した

 流刑には海と陸とがあり、海の島に流す場合も、有人島と無人島の別があった。その他に「安置」「囲籬(いり)安置」「充軍」の分類がある。安置は、配所で更に場所を指定して幽居させる。いわゆる閉門である。王族または高位高官の者に限られた。

 罪の重いものは絶海の孤島に流す「絶島安置」があり、軽いものは本人居住の郷で幽閉する「本郷安置」があった。だが実際には政敵を葬るために、ほしいままに絶海流配することはいくらでもあった。

 本郷安置には二種類があり、最初から本郷におかれるものと、いったん島に送られ、蕩滌(とうじょう)(罪名を除くこと)によって配流を解かれて本郷に帰還して安置されるものとがあった。また王命により遠島に処せられることなく自宅に置かれるものは、「杜門(ともん)不出」といった。

 囲籬安置は「加棘(かきょく)安置」ともいい、棘のあるカラタチの木を周囲に植えて籬(まがき)とし、その内側に幽閉した。カラタチの木は全羅道に産するため、この道の島地で行われた。18世紀の景宗王代、壬寅の禍で、領義政(=首相)金昌集を巨済島に、領府事(=中枢府長)李頤命(りいめい)を南海に、判府事(=中枢府職)趙泰朱を珍島に囲籬安置した。

 充軍は、辺境を守備する軍に投じて配流するものである。これはかなりきつい。国境付近で凍死して客死するので、遺体が行方不明になることがあった。

 その他、流刑は千里以上だが、「遷徙(せんし)」といい、千里の外に配流するものがあった。ただし、流刑を二千里ないし三千里と定めたのは、シナの制度をそのまま持ってきただけで、朝鮮の千里は日本の百里ほどであるから、朝鮮の尺の二千里ないし三千里ということである。それでも狭い朝鮮では長距離になってしまうので、各地を大迂回して距離を積算して辻褄を合わせたこともあった。

 また、「移郷」あるいは「放逐田里」というものがあり、居を田野に移し、居住地や王都に入ることを禁じた。1545年、清州人の父を救うために殺人した者を移郷に処した。明宗代には、権勢家の尹元衡の爵を削り移郷したことがあった。「全家徙辺(しへん)律」といい、罪人の全家族を辺境に移すものがあったが、英祖20年(1744)に、廃止されこの処分はなくなったという。

 元々流刑の軽重は距離によるものであり、期間に制限はなかった。ゆえに恩赦や「量移(りょうい)」によって減刑されて帰還する以外なかったが、頻繁に行われたので大抵は帰還した。量移というのは、配流者が多数になったとき、整理するために減刑し帰還させるのである。運悪くどちらにもかからず一生を過ごす者もいた。

 流刑者には家族の随伴を許していた。今の韓国の五千ウォン札の絵柄になっている儒者・李栗谷の時には、妾を伴っていたことが彼の日記に見える。正祖14年(1790)、重ねて流人の妻または妾が随従を願うときには許せと命じた。その他、士大夫で遠地に送られるものには衣食を給したこともあった。配流は日本に比べ、けっこう楽勝だった。

 大典会通(1865)では、70歳直前の流刑者には、70までの期日に一日1両4銭をかけて金銭を納めれば帰還を許した。1905年の刑法大全制定では、本人が病気の時と親の喪に遭ったときは暫時の保釈を許した。婦女、70歳以上の男子、15歳以下の男子で、流刑10年以下の場合には、極寒猛暑の折には保釈とした。

 流刑に処せられたものはすべて刑曹の帳簿に記載すべきことになっていた。流刑地で最も多かったのは、陸地では咸鏡南北道、平安北道の国境線の穏城・鐘城・三水・甲山(カプサン)・江界(カンゲ)が最も多く、島地では南沿岸の島地が最も多かった。

 古来、陸海いずれに送るも適宜だったが、隔離するには島地が便利だったので、刑法大全では、原則として島地に押送するものとした。その頃の流配の島地は済州島・智島・珍島・楸子島・莞島・鉄島だけだった。島で商売や学塾経営で成功して気楽な余生を送るものもいた。

 明治43年(1910)、日韓併合の恩赦で流刑者は全部流刑地から引き揚げ、最寄りの監獄に移した。次いで政治犯全部に大赦を行い、獄内においても流刑者はその姿を消した。

 他に大明律記載の徒刑(配流して労働刑に処す)があったが、李朝では行われた形跡がない。

拷問は脚折りと緊縛が主流

 拷問刑は法令上定めたところがない、法外の刑である。わが国の石抱きのような圧膝(アプスル)や、周牢刑(カセチュレ)といい両脚を緊縛しその中間に棒を挿入して左右に開く刑があり、補盗庁で行われた。棍棒で乱打する乱杖刑などもあった。18世紀の英祖王代に残虐の刑は廃止されたが、その後逆転し、依然無統制の状態から脱することができなかった。

 現在の韓国で展示されている「日帝による拷問」では、周牢刑乱杖刑などが再現されているが、これは伝統を日本のせいにする、お得意の「歴史の歪曲」である

 さて、正祖王代に欽恤典則を制定し、笞刑の改正を行ったが、濫刑の弊は治まらなかった。1905年の刑法大全制定により、次の六種の刑具が定められた。まず枷(かせ)(項鎖)、朝鮮語でモッカルといい、長さ五尺五寸の板に刳り抜かれたところに頭を挿入し、横より栓を施して鍵をかけた。長い板が首にかかっているので日中はほとんど動けない。

李氏朝鮮時代とみられる周牢刑の写真。人々の目前で交差した棒に体重を掛け、囚人の脛骨を折っている
李氏朝鮮時代とみられる周牢刑の写真。人々の目前で交差した棒に体重を掛け、囚人の脛骨を折っている


 杻(ちゅう)(手枷)は実際には使われなかった。鍾路監獄では麻縄で両手を束ね、これをさらに強く腹部に縛り付けておいたもので、食事に手が使えないため、犬のような格好で頭を垂れて直に口を付けて食べていた。桎(しつ)(足枷)、朝鮮語でチャッコー(着庫)といい、数人まとめて連施したもので、左右より交互に罪囚の左足または右足を一本ずつはめ込み、抜き差しできないよう鍵をかけた。

 厠に行く場合には外すが、夜これを施したまま寝かせることもあった。その他、紅絲鎖(捕縄)、朝鮮語でオラチウルといい、紅色の糸を撚り合わせた縄で、端に龍頭飾りをつけ、12個の環を通してあった。環は肩先より腕に流れ、龍頭は胸に垂れ、威厳を感じさせたという。

恩赦濫発の伝統は今も生きる

 恩赦は、①建国時②国王即位、立后、立太子、太后尊号、王と王族の誕生、薨去など③国王行幸時④宮の造営と罹災⑤極寒猛暑に際し獄囚を憐れんだ時⑥天地異変、彗星出現時など⑦女真族を成敗した時⑧瑞象出現⑨疫病流行⑩個人特赦(父殺しの仇打ち)などで頻発された。

 恩赦はあまりに頻繁で数えることができないほどだった。歴代の王が赦をもって徳治となして、これを行うことですべての災厄から逃れることができると信じたことによる。

 その弊害を「濫赦の弊」という。粛宗10年(1684)に、奸人の僥倖(ぎょうこう)を開いてしまったと言い、恩赦を行いすぎたことを悔いて官をいさめた。英祖王代にも、自分の濫赦を悔い、今後の王は行うなと戒めた。これらは濫赦の弊害を伝える。

 浅見倫太郎「朝鮮法制史」中に、「寛典(あまい法律)の弊に至っては苟免(こうめん)無恥(一時逃れの恥知らず)の思想を誘致し、半島人をして非行を為すを以て意に介せざるに至らしめたるものなり」とある。罪囚のすべてが恩赦の前例を知っているので、長期刑を下されても苦にせず、釈放機会を予期して待ったという。

 現代の韓国でも、この「濫赦の弊」は、伝統として続いている。蓄財で逮捕された元大統領や、贈賄で収監された元会社社長、左翼運動で事件を起こし死刑判決を受けた元学生などが平然と出獄し、豊かな老後を送ったり、死刑宣告を勲章のようにして左翼政党の議員として返り咲いたりするのはこのためである。

 以上より、「濫囚」「濫刑」「濫赦」が彼らの「放政」の伝統であることは明らかだろう。したがって私は、今の韓国の地で、いかに日本人が不当な逮捕、審問、判決、投獄をされようとも驚かないのである。


ふるた・ひろし 昭和28年横浜市生まれ。54年慶應義塾大大学院修士課程修了。55年に渡韓、57年からソウル大師範大学院留学、延世大などで61年まで講師を務める。下関市立大講師、筑波大助教授などを経て平成16年から現職。第一期日韓歴史共同研究委員会委員、第二期日韓歴史共同研究委員会委員教科書班チーフを歴任。朝鮮半島研究、韓国論にとどまらず文明論や思想でも論考を発表。11年サントリー学芸賞、16年読売・吉野作造賞、18年正論新風賞。近著に『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(WAC BUNKO)、『ヨーロッパ思想を読み解く―何が近代科学を生んだか』(ちくま新書)など。

http://ironna.jp/article/2108

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・・・読んでて気分が悪くなった。
( ´-д-)


~ 以上 ~


일본인에게는 이해 할 수 없는 조선의 형정.


근대 일본에 의한 형정대개혁과 인권 향상 ―한국의 역사로부터 보이는 것

『별책 정론 』 총복습『한일합방 』
후루타 히로시(츠쿠바대학 대학원 교수)


조선은 훨씬 고대의「복도」였다


 그런데 이번, 『별책 정론』편집부의 나에게의 의뢰는, 조선의 법치, 특히 형정에 대해 말하면 좋겠다고 하는 것이다.가능한 한 알기 쉽게 설명하고 싶지만, 번잡한 전문 용어가 아무래도 방해가 된다.이조는 한문의 세계이니까, 잘못하면 돌올(와 개뼈)로 한 문자의 표면적 의미가 되어 버린다.그것을 어떻게든 피하면서 말해 보자.

 우선 눌러 두고 싶은 것은, 조선의 지정학적인 위치이다.대륙에서 여기를 지나고 오는 적에 대해서의 자연의 방벽이 전혀 없다.단순한「복도」이다.이민족의 침입에 저항할 수 없기 때문에, 한반도의 역대의 왕은 모두 도망해 버린다.

 이조로는, 해안의 강화도에 도망용의 왕궁까지 설치할 수 있고 있었다.10 세기부터 11 세기에 료(계단(키타이) 족)이 고려를 공격했을 때도, 16 세기의 토요토미 히데요시의 조선의 역에서도, 17 세기의 잔금( 후의 청, 여진(쥬시) 족)의 침공에서도, 왕은 도망쳤다.

 이것은 근대라도 변함없다.20 세기, 한국 전쟁때도 북쪽의 침공에 대해남의 대통령・이승만은 민중이나 군대를 방치로 한 채로, 한홍`]에 걸리는 다리를 폭파하고 남쪽으로 도망쳐 버린다.반대로 미군이 오면, 이번은 김일성이 군사를 중국 원군의 호토쿠카이 장군에 환던지기로 하고, 중 · 북 국경까지 들어가 버렸다.

 이러한 나라에서는 안정된 국가 운영은 어렵다.민중이 위정자를 신뢰한 역사를 갖지 않는다.국정 혼란・강기 문란(병등응)・강권 강압이 보통인 것이다.

 일본이 올 때까지 세멘시나・코리아 지역인 동양은, 훨씬 고대였다.현재의 중국 공산당이 아편 전쟁까지를 고대로 해, 역사 인식에「중세」기를 갖지 않는 것은 어느 의미로 올바르다.단지, 일본에 패자리수 청일 전쟁으로부터가 근대다.그것이 싫고 아편 전쟁으로부터라고 우기고 있다.그렇지만, 그들이 훨씬 고대의 왕조 국가였던 일로 변화는 없다.우선 토지의 소유권이 없다.장기간 계속하는 사용 수익을 근거로 하는 문서의 교환 뿐이다.이것은 사회주의 정권하의 중국에서는, 토지의 국가 소유나 집단 소유에 인계되었다.

 한편, 조선에 민법전을 주어 사적 소유권을 인정한 것은 근대 일본이다.거슬러 올라가 이조 시대에는, 매매가 성립하지 않고 소매상마저 없었다.경성・평양・개성 그 외의 중요 도시에는 상인이 있었지만, 정부의 공선물을 매매하는 어용 상인뿐이다.

 그럼 일반에서는 일상품을 어떻게 하는가 하면, 전부 시장에서의 물물교환으로 마련, 물품 공급은 행상인이가 되어 있었다.지금의 서울의 남대문이나 동대문의 시장은, 그 시의 자취다.청은「조금 나은 고대」, 이조는「심한 고대 」라고 생각하면 좋을 것이다.

 다음에, 세멘시나・코리아 지역의 관계성이 문제가 된다.이것은 예를 들면서 말해 보고 싶다.

조선의 법령도 세멘시나 사대주의였다

 이조로는 국초보다 14 세기의 명국의 법령, 「대명률」를 가지고 자국의 법률과 동일시 했다.그런데도 부족한 곳은, 그때마다, 보조 법규집을 간행해, 이것을 보충했던 것이다.

 그것들에는, 경국대전(1470), 대전속록(1492), 대전 후속록(1543), 수교집요(사람들나름)(1698), 속대전(1744), 대전통편(1785), 대전회통(개통)(1865)등이 있어, 「대전」와 명명 거미의 것한「형전」부분에는, 모두「대명률을 용」와 있다.

 결론으로부터 말하면,이국의 법률을 사대주의로 마사노리로서 적용한
것이기 위해, 대단한 무리가 생겼다.예를 들어, 18 세기의 속대전에 「(무덤의) 갱처를 뚫어 방화해, 혹은 예물(개)을 던지고 익살(까불어)을 이룬 사람은, (대명률의)『예물, 소문과 코에 관률』에 의해(죄를) 론않다」어떤.

 이 배후에는, 이조 후기가 되면, 산싸움이 빈발해 강기 문란 한다고 하는 시대 배경이 있었다.조선에서는 무덤은 봉분을 한 무덤으로 산에 있다.일족으로 산을 점거해, 대대의 무덤을 지키는 것이다.산의 수에는 한계가 있으니까, 자연, 타족과의 투쟁이 시작된다.심할 때에는, 전의 무덤을 굴리카네 하고 관을 구워 버린다.풍수 신앙으로 관 속의 뼈에는 일족 번영의 파워가 머물고 있다고 믿고 있었으므로, 구워진 측은 격노한다.이렇게 해 일족의 무리들로 겸이나 곤봉을 가지고 산에 치솟아 대란투가 시작되는 것이다.

 이 조문은, 그 투쟁의 초기를 봉하고 있다.사람의 무덤에 방화하거나 오물을 던진 것 를 대명국의 률로 처벌하자고 하는 것이다. 

 문제의 대명률의 조문의 분을 보자.대명률형률투구조에 있다.「사람 일치 및 수족 손가락 하나를 부러뜨려, 사람의 한 눈을 묘() 해/`A인의 이비를 결훼() , 인골을 찢어, 동철 국물(스프)로 사람을 상처 입히지만 마다 나무자는, 장(곤봉) 1백.예물로 소문비내에 관자, 또 쓰는 것 마다 해」라고 하는 사투때의 벌칙 규정이며, 산싸움・무덤 싸움이란 아무런 관계도 없다.

이씨 조선의 고문.오른쪽에서 각형승에 무릎을 돌진하게 한 봉으로 치는「궤슬방두」, 발가락의 사이에 가열한 철봉을 사이에 두는「발가락구지」, 거꾸로 매달고 콧구멍에 회수를 주입하는「콧구멍입회수」(조선 총독부『사법 제도 연혁 도감』쇼와12)
이씨 조선의 고문.오른쪽에서 각형승에 무릎을 돌진하게 한 봉으로 치는「궤슬방두」, 발가락의 사이에 가열한 철봉을 사이에 두는「발가락구지」, 거꾸로 매달고 콧구멍에 회수를 주입하는「콧구멍입회수」(조선 총독부『사법 제도 연혁 도감』쇼와 12)

 명국도 이상하다.헤세이 22년 11월 11 일자 산케이신문「산케이초」에, 중국 밀항 선원이 탈분 해 여성 해상 보안관에 내던지는 이야기가 있지만, 그것을 방불 시킨다.

 눈곱이 코딱지를 흉내낸다고 하면 내가 품격을 잃어 버릴 수도 있는 이, 양국의 관계와는 이러한 것이었다.조선은 법령으로, 세멘시나인의 안면을 한국인의 묘면에 바꾼다고 하는 무리를 해서까지, 세멘시나의 권위에 매달리려고 했던 것이다.

 세멘시나・코리아 지역을 과대 평가하고,조선은 중국에「도전하면 토벌 되지만, 조공 하면 공존할 수 있는 」라고 하는 관계를 유지했던 것이라고, 굳게 결심하고 있는 것이 일본에는 계시지만, 그렇지 않다.조선은 세멘시나에「도전 등 생각할 수 없는, 신종해 살 수 밖에 없는 」
라고 한다, 더 절실한 관계에 만족했기 때문에 있다.

 제일, 파병 능력이 다르다.세멘시나는 5만명, 조선은 1만 5천명.이길 수 있을 리가 없다.그러니까 세멘시나의 왕조는 조선을 정벌 한 적도 없으면, 할 필요도 없는 것이다.

 2번째로 조선에는 권위가 없다.「막다른 곳의 복도」의 지세로 국민을 지킬 수 있었던 적이 없다.여(쌍) 해 야스시라고 볼 수 있으면, 만주의 쥬시(여진) 족이 곧바로 압록강을 넘고, 물건을 빼앗아, 사람을 사냥해 농노로 한다.

 쥬시와 교류해 우호책을 도모하려고 하면, 세멘시나의 왕조가 방해를 한다.「너는 충정 되는, 우리 동쪽의 하인이었다가 아닌가」와 문서로 엄하게 꾸짖어 온다.세멘시나는 세멘시나대로 함께 되어 공격해 오는 것을 무서워하고 있다.「미개 민족으로 미개 민족을 억제하는」로 해 구는 이루어, 라고 본다.

 쥬시는 제부족으로 나누어져 만주에서 살고 있었다.코우가자나 에도막부의 하사직의 하나 마을과 같은 곳에서, 잡아 온 아키히토나 한국인에 농경을 시킨다.근거지도 닌자 사이와 같이 성을 가지지 않고, 가끔 이동하므로 있을 곳을 잘 모른다.탐`선은 세멘시나의 권위로 국내를 눌러 동등권권세로 국경에 위엄을 보일 수 밖에 없었던 것이다.

관청 마다 사설의 감옥이 있었다

 그런데 이야기는 바뀌고, 일본 통치 시대의 조선에, 원경성 형무소장이었던 나카하시 마사키치라고 하는 인물이 있었다.한일합방 후에 조선에 걸쳐, 타이쇼 12년(1923) 경형 츠토무관이 되어, 근대 일본이 그의 나라를 근대화 하는 모양을 자세히 보았다.문헌을 모아 연혁의 사료를 요구해『조선 구시의 형정』(쇼와 11년) 1권을 못 쓰고 남기고 있다.

 귀중한 것은, 이조 말기를 산 한국인의 노인으로부터의 기록이다.28, 9세 때, 형무 소장서의 서리를 하고 있던 김 야스시 주석 씨한테서 감옥의 약식도를 이득, 지방의 군수였던 박승철씨한테서참형의 목격담을 (들)물어, 이조 시대의 전과자의 엉덩이에 남는 매(회초리) 자국(나머지)을 봐, 륭희 2년 (1908)의 옛날군대대의 해산때의 폭도의 주모자로, 유배로 된 정철화씨한테서 당시의 배류생활을 안다.사료 가치도 일급이다.

 지금 이 책을 독자에게 소개하면서, 내가 아는 곳(중)을 집어 넣고, 이하철() 것으로 하고 싶다.

 지금의 서울은, 이조로는 경성 혹은 한성과 한문어로 써, 때의 발음으로는 쇼보르라고 했다.어미의 올을 같이 하는 지방은 시골(군) 이라고 하여, 대립 개념이다.양쪽 모두 맞추어「내외」로 칭한다.

 경성의 공식의 감옥에는 두 개 있었다.의금부의 금부 감옥(나무극히)(지금의 종로(종로)의 제일 은행(체이르우넨)의 장소)은 관리의 범죄자를 구류해, 국왕의 명령이 없으면 열 수 없는 특별 재판소였다.구내에 남간, 서간의 교도소가 있어, 온돌식이었다.사방의 안쪽은 판자 벽, 외측은 토담, 전면만 고창이 있어, 출입구에는 호비를 낄 수 있었다.이것을 금오옥이라고도 한다.

 형조(계쟁) 소속의 형무 소장서의 형무 소장(라고 극히)(금오의 길을 사이에 둔 대면)에는 서민의 범죄자를 구류하고 있었다.구내의 원형의 장(짊어진다) 내에 반온돌의 교도소를 제정해 청사는 그 주위에 배치되고 있었다.세멘시나의 육부의 축도가 6조로, 관할의 형조는 그 하나, 재판과 형벌담당이다.

 그 외에, 병조, 사간부, 비변사, 보도청 등에도 각 권한으로 따라 일중의 체포의 권이 있었다.번잡해서 각 관청의 설명은 생략한다.그 교도소는 유치장 정도로, 그렇지 않은 훌륭한 감옥은 병조 소속의 보도청(묻는 나비)만으로, 좌옥・우옥이라고 해 두려워 했다.

 경성의 밤은 외출 금지이므로 보도청이 야경과 도적 체포가가 되어 있었다.구내에는 5간뿐인 주방의 교도소와 인접해 교수형 집행장이 있었다.교도소의 사방의 안쪽은 판자 벽, 외측은 토담, 전면만 고창, 출입구는 판자문에 가로대로 칸누키가 되어 있다.사내의 벽에는 통나무가 노출하고 있었다.

 이러한 각 관청의 감옥은 시대를 거치는 것에 따라 자꾸자꾸 증가하고 갔다.즉 분업을 잘 하지 못하고, 여기저기의 관청이 마음대로 유치장을 마련해 버리는 것이다.이것을「사옥람설의 폐」라고 한다.1725년, 군관계의 다섯 개의 군영에까지 구류동안이 있으면 보도되어 영조왕은 이것을 금지했다.

 18 세기 전반에 각 관청의 천수(선집)의 폐가 극히에 이르렀다.「천수」라고는 읽어 글자의 마다 해로, 「제멋대로하게 잡은 죄수」이다.백사백관으로 사옥이 없는 것이 없는 상태가 되었다.서백성은 언제 공무원에 포박 되는이나도 알려지지 않고 싸움들긍들(오늘 오늘)로 하고 있었다.

 1740년의 보고로는, 각 관청의 사사로운 일의 체포 감금이 심한, 사적인 분노로 잡은 것 뿐이다, 라고 있었다.다음 해, 왕은 람수 하는 것이 있으면 보고해서와 명했다.이것을「천수의 폐」라든지「람수의 폐」라고 했지만, 바뀌지 않았다.

 지방관도 6조의 축도와 같이 6방을 두어, 형방에 재판・금지령・죄수・감옥의 사무를 시키고 있었다.도 옥, 부옥, 군옥으로 불리는 지방감옥이 있었다.지방관에게 사법권을 겸 손바닥 시켰기 때문에, 사법과 행정이 구별되지 않고 착종 하고 있었다.지방에서는 관찰사(감찰해)(=도지사) 이하의 행정관이, 재판권을 제멋대로하게 하고 있었다.그가 무엇을 관찰하는가 하면, 민중의 유교 도덕 실천을 관찰하는 것이다.

 재판은 관공서의 전정의 하쿠슈에서 행해져 심리에는 고문이 부수물이었다.심리는, 죽을 죄는 30일, 유형은 20일, 매 지팡이()(채찍과 곤봉) 형은 10일의 기한을 정해 고의로 늘리는 것은 오결과 같은 죄로서 처벌하는 것으로 해, 중앙의 형조에는 매월 1일에 판결의 세월을 보고시키기로 하고 있었다.
 
함부로 잡아 방치하는 폐해

 그런데 , 감옥에서 우려된 것은, 국초부터「위법람형」, 「옥수 연체」에 따르는 동사와 역병이었다.이것도 글자 그대로, 「람(봐다) 에 형벌을 과해, 판결을 내지 않고 늘려 늘리는 」 것인다.심리・판결의 기일은, 결국 지켜지지 않았다.

 1427년의 겨울에는 동사의 우려가 있으니까 죄수를 풀어 발하라고 명하고 있다.계속되는 세조왕대에는 관리를 파견해 지방의 감옥을 조사하게 했지만, 앞의 람형, 연체의 2항이 특히 심했다.1457년에는, 옥수 연체가 없는 것나름에와 지방에 명했다.이 임금님은 비교적 좋은 사람이었다.

관공서 마다 마음대로 행해진 이조부터의〝중재〟
관공서 마다 마음대로 행해진 이조부터의〝중재 〟

일본에 의해서 도입된 근대 법제하의 경성 지방 법원의 재판(조선 총독부『사진첩 조선』타이쇼10)

일본에 의해서 도입된 근대 법제하의 경성 지방 법원의 재판(조선 총독부『사진첩 조선』타이쇼 10)


 1466년의 겨울에는 동사하지 않는 같게 석방령을 냈다.조선의 겨울은 물론, 토하는 숨이 얼 정도의 영하이다.예종(네 좋을 것 같다) 원년(1469), 충청도의 죄수는 400명에 이른다라는 보고가 있어, 람수의 폐가 심했다.

 1567년에는, 람형의 관리를 몹시 처벌해서와 왕이 명했다.요즘보다 , 각 관공서가 람에 사람을 체포해 감금해, 권세를 터는 폐해가 표면화했다.이 후, 30년에 토요토미 히데요시군의 침공에 노출되게 된다.다스려지고, 1625년, 인조왕이 천수의 폐를 간언했지만, 효력 없음.채무 강제를 위한 감금의 폐가 표면화했다.즉 부채를 돌려줄 수 없으면 척척 투옥했다.빌려 주는 분도 악(깬다)이지만 빌리는 분도 짓뭉기기의 악이다.

 그런 일을 하고 있는 사이에, 다음다음년, 쥬시(여진, 후의 청)의 누르하치의 아이, 혼타이지가 공격해 왔다.인조왕은, 강화도에 도망쳤다.잠 돌아간 한국인의 무장이 배로 오고, 「너는 토우인가」와 왕을 모욕했다.왕은 항복한 체를 했지만 발각되고, 한번 더 공격받은?`P636년, 경성은 낙성 했다.

 시간은 경과했지만, 감옥은 변하지 않다.1651년, 서울의 감옥에서 의복, 연료가 두루 미치지 않고 동사하는 것이 많았다.다음 해, 감옥에 있는 문둥병 환자에게 약물을 주었다.옥내에서는 불결 비위생적으로보다 전염병 그 외의 병마에 습격당한다.옥내에 충만하는 흡혈충의 폐해로 피부병에 걸려 생명을 떨어뜨리기에 이르는 것이다.

 제일,서울 자체가 비위생의 둥지였다.많이 내리고, 19 세기의 히데키행가 마담・비숍에세계 제2의 불결 도시와 기행문에 쓰여진,「자랑 높은 쪽 불결 도시 」이다.덧붙여서제 1위는, 세멘시나의 쇼코였다.

서울의 메인 스트리트 종로도 병합전은 이런이었다(도쿄 아사히 신문『다툰 환만한순유 기념 사진첩』메이지39)
서울의 메인 스트리트 종로도 병합전은 이런이었다(도쿄 아사히 신문『다툰 환만한순유 기념 사진첩』메이지 39)


 1680년, 옥수 연체로 89명이나 죽었다고 숙종왕은 보고를 받아 책임문노래.지방은 더 심하다.죄가 무겁다고 처결하지 않고 수십년 연체하고 있다라는 보고가 있어, 1697년에는, 역병이 경성의 형무 소장(서민 감옥)에게도 퍼졌다.형조의 보고에 의해 보석한다.금부 감옥(관리 감옥)도 중병의 사람을 위에 보고해 보석했다.

 1707년, 감옥에서 습소에 병을 발하는 사람이 많기 때문에 판을 깔라고 명할 수 있었다.즉 조선의 감옥은 토방이었던 것이다.조선 무서운 것이다.숙종왕대에는 왕실의 제사 기일(선조의 제나 기일)에 재판의 개정을 멈추는 것이 많아, 옥수 연체의 폐가 특히 심했다.

이조 고대부터 일본 근대에의 대개혁


 1745년, 「체수(도미 사람들)의 폐」매우 해와 보도되었다.이것은 무엇인가 말하면, 죄인으로 바꾸어 그 친족이 입옥 하는 것이다.남편의 바뀌어에 아내가 들어오는 것을「정실수금」, 아이의 바뀌어에 아버지가, 남동생의 바뀌어에 형(오빠)가 들어오는 것을「부형체수」라고 했다.

 후자는 인륜에 반한다는 것으로 숙종대에「제서유위률」로 처벌되었다.이것도 대명률의 관리의 벌칙으로, 왕의 말을 제, 그것을 적은 것을 책이라고 하는, 「조(제서)를 받들어 그 시행것이 있으면, 곤봉으로 백회 때리는」라고 하는 률로, 체수란 아무 관계도 없는, 억지 써이다.

 본고장 세멘시나(분)편에 해도, 왕언이 그대로 착오・지체 없게 실행되었다고는 도저히 생각되지 않는다.동양의 법치는 이러한 환타지와 억지 써로 가득 차 있는 것이다.

 정조왕의 8년(1784), 옥수에게 기아 강요한다.옥중의 식사는 자기 부담할 수 없는 사람에게는 관급해와 명했다.이것은 지금까지 몇 번인가 명했지만 효과 없음.식사의 관급은 없었다.

 고종왕의 8년(1866)에 천주교(카톨릭) 탄압을 당해, 보도청의 교도소에 개?`네불선교사 리델의 기록『경성 유수기』에 의하면, 식사는 쿠원판(아마 관 반(쿠원파프)의 뜻)이라고 하는 조석에 미 아주 조금뿐인 식사로, 20일도 경과하면 해골이 되어 버린다고 한다.

 당시 , 죄수에게는 도적, 부채수, 천주교도의 3종류가 있었다.수감되면 체코(착고)라고 하는 족가(강치키)를 낄 수 있지만, 도적 이외는 체코로부터 손을 떼는 방법을 간수로부터 배워, 밤에는 반듯시 누울 수 있다.도적은 밤낮족가를 낄 수 있고 개선(개선)에 침범되어 장독(장형의 불결한 곤봉으로 맞아 병원균에 감염하는 것)으로 고기는 썩어, 기아에 괴로워한다.죽음이 가까워지면 간수가 창랑(겉늙음)으로 한 죄수를 시체 방에 데리고 나가, 죽으면 고(거적)에 감싸고 성밖에 버리러 갔다.여자죄수는 족가를 하지 않지만, 티푸스 등 역병에 걸리기 쉽다.젖먹이를 데리고 있는 여자도 있었다.

 갑오농민전쟁 등 내정이 흐트러지는 조선을 둘러싸고 청과 대치하는 일본 정부는, 청일 전쟁 발발 직전의 메이지 27년(1894) 6월, 청으로부터의 조선 독립을 재촉하는 개혁안을 각의 결정해, 다음 7월에 관직의 강기 숙정, 재판의 공정화, 경찰・병제의 정비등의 내정 개혁을 조선 정부에 요구했다.

 조선에서는 고종왕의 31년(1894)/`A갑오개혁을 진행시키기 위해서 놓여진 군국기무소로부터, 대소 관원으로 증회를 범한 것이 하인을 체수 하고 벌금을 지불해, 그대로 하인을 옥수 연체한다고 하는 폐해가 있으니까, 향후는 본인을 수감하라라고 하는 명령이 나왔다.

 1895년의 개혁으로, 미결수와 기결수를 구별해 수감하는 것, 공범자는 감방을 따로 하는 것, 수감에는 재판소 또는 경찰서의 문서가 필요한 것, 휴대의 젖먹이는 3년까지 이것을 허락하는 것등을 결정할 수 있었다.형무 소장서는 감옥서와 개명, 의금부는 법무아문권설재판소와 개명해, 양감옥의 죄수는 전부 감옥서로 옮겼다.지방은 관제를 정하지 않았다.청일 전쟁과 시모노세키조약의 결과, 조선은 세멘시나로부터 독립 개국해, 간신히 근대화의 길에 올랐던 것이었다.
 
 1896년의 개혁(을미개혁의 일환)으로, 일본 도쿄부의 각 감옥이 경시청의 관할이었던 것에 배워, 헌병청을 마련해 감옥서를 1분과로서 소속시켰다.이 헌병청시대에 마루야마 헌병 고문이 진언 해, 서대문외의 인왕산(향기나는씨) 록, 금계 동에 5만엔으로 감옥을 신축해, 1907년 준공했다.목조, 청사 80평, 교도소 480평, 감방은 정향나무형, 공장 있어, 욕실 있어, 500명 수용가능이었다.

 메이지 37년(1904), 제1차 일한 협약으로 전`요트부를 두어, 1906년, 지방에 13개소의 이사청을 마련해 일본인의 범죄자를 교도소에 수감했다.1905년의 제2차 일한 협약으로, 1908년부터 감옥 관제가 시행되었다.

 형정을 공소법원 검사장의 관할하에 두어, 지방재판소 재지와 같게 감옥을 전국 8개소(합계 293평에 지나지 않았다)에 설치해, 사무실, 감방, 취사장, 목욕탕을 설비했다.수원(수원)의 경기 감옥만이 완비되고 있었다.또 형무 소장 이하의 직원의 대부분은 일본인을 채용했다.법무부 장관에게 조중응, 경성 공소법원 검사장에게 세코 유우 지로가 임관 했다.

병합 전부터의 감옥.통나무를 드문 드문 세운 벽은 틈새 투성이.여기에 이만큼의 죄수를 담았다…
병합 전부터의 감옥.통나무를 드문 드문 세운 벽은 틈새 투성이.여기에 이만큼의 죄수를 담은 …

일본에 의해서 개설된 근대적인 경성의 형무소(『사진첩 조선』)

일본에 의해서 개설된 근대적인 경성의 형무소(『사진첩 조선』)


 1908년, 각지의 이사청교도소를 증가해, 영등포 감옥을 마련해 미결수만 경성에, 기결수는 영등포 감옥으로 옮겼다.이것이 영등포 감옥의 기원이다.다음 해, 한국의 사법 및 감옥 사무를 일본에 위탁하는 약정이 성립해, 통감부 감옥 관제가 옷감(해) 쉬었다.통감부 이사청감옥에 일본인, 한국인 공통의 감옥이 생겼다.감독기관으로서 통감부 사법청이 놓여졌다.

 1908년의 개혁(형법 대전 개정) 때, 형무 소장(종로의 서민 감옥)에게 구류되고 있던 사람은 309명(미결수 123명, 기결수 186명)이었다.각지방의 감옥은 벌써 2천명을 넘어 대구 감옥의 감방은 전부 3실총면적 15평 밖에 없는 곳에 수감자 150명이었다.보우치에 새끼줄을 쳐, 거기에 양 다리를 걸쳐 상반신만 마루에 옆 참게 했다.공주 감옥에서는 보우치에 변기를 넣는 여지 없고, 밖에 4준을 갖추어 깔때기로 안으로부터 방뇨시키고 있었다.

 조선 총독부 감옥 관제의 실시, 타이쇼 8년(1919) 11월 1일부터 3개월에 감방 면적은 1479평, 수감 인원수 7021명, 1 평당 수용인원은 4・7명으로, 반이하에 완화되어 보우치위진`카도 큰폭으로 개선되었다.

방정이유의 학정과「한」의 기원
 
 통감부는 설치로부터 5년 후의 메이지 42년(1909), 새로운 호적 제도를 도입했다.천민층에도 동일하게 성을 자칭하게 하는 한편, 신분 기재를 중지해 신분 해방을 진행시켜 교육의 기회 균등도 재촉했다.독립한 사법 제도를 시행하고 린치(사적제재)를 중지했다.수원의 경기도 지방재판소에 부임후, 잔혹한 고문을 가끔 본 일본인 법무 보좌관의 건의로 1908년에 조사해에 있어서의 고문을 금지하고 있다.

 일본의 조선에 대한 개혁은, 고대를 근대로 하는 개혁이었다, 라고 일단 말할 수 있을 것이다.그 초기의 목적은 일본의 안전 보장을 위한 병합이었다고 해도, 이것을 방치하려면 너무 낭비가 많아, 코스트가 너무 들었다.근대적인 개혁을 베풀지 않는 것에는 가지 않았던 것이다.

 이것은 러시아와의 개전의 한중간도, 순조롭게 조선 통치의 시책을 실시하고 있던 것으로부터 명백하겠지.

 이조의 정치는 학정이라고 하는 것보다는 방정이유의 학정이라고 해야 하는 것이다.고대 경제사회 후에, 중국 고대의 환타지를 권위 모방으로서 채용해, 지정학상의「복도」를 왕래하는 이민족의 와 습으로부터 왕은 민중을 방이고라고 도주했다.

/`@국정 혼란・강기 문란의 한창, 위정자 불신의 민중을 강권 강압하는 관료를 왕이 유교의 덕목으로 견제한다(이것에는 양자의 역할이 반대의 시대도 있었다)라고 하는 형태로, 이조는 500년간 붕괴하는 일 없이, 방정과 학정의 균형을 유지했던 것이다.

 이것에는 아마, 「막다른 곳의 복도」의 막다른 곳 부분이 유효하게 일하고 있다.민중은 도망가려고 해도 복도의 앞은 바다인 것이다.이것이 민중의 내성을 길렀다.이 무념과 체념의 울굴을「한(한)」라고 한다.

 나는 자주(잘) 독자로부터, 조선을 정말로 좋아하는지, 추궁 당한다.싫으면 40년간의 연구생활을 보낼 수 있었을 리가 없다.단지, 나는, 좋아하지만 아군은 하지 않는 것이다.좋아하지만 아군을 하면, 좋아하는 것이 나빠졌을 때에, 그 나쁜 곳을 숨기려고, 좋은 부분을 디폴메 해 훤전하게 될 것이다.

 지금의 중국 연구자, 조선 연구자에게는, 그러한 운동가가 된 사람들이 총생 하고 있다.나쁜 적이 되는 운동가라면 일리가 있지만, 나쁜 아군을 하는 운동가는 주실 수 없다.이것은 거짓말쟁이이다.

 지금의 한국을 곰곰히 보는에, 법치주의의 실패와 민주주의의 파탄, 과거의 동양적 전제 주의에의 퇴행은 아키라등인가이기 때문에, 한국이 자꾸자꾸 나빠지고 있는 것은 부정할 수 없다.그 때, 한국의 역사가 아무리 학정이었는지, 그것을 모르면 한국의 행선지도 안보이게 되어 버릴 것이다.그러한 서 위치에서 이번 일을 맡았던 것이다.

 그러면 서 위치를 분명히 했으므로, 우리는 먼저 진행되는 것에 하고 싶다.다음에 이조의 형벌의 역사에 들어가서 가자.참수로부터 시작하고 싶다.

 참수형은 광무 9년(1905)의 형법 대전 제정에 의해 폐지되었다.그것까지, 대역범의 처형은 남대문이나 종로의 십으로 행해지는 일이 있었다.1896년의 국왕 독살 사건의 범인, 금홍륙(세균팔아 구)을 처형해 효(공) 했던 것도 종로였다.효(올빼미)의 막대기 끝에 멈추도록(듯이) 목을 쬐므로 효형이라고 한다.역적을 처형할 때는, 파면해, 비(팔꿈치)를 끊어, 다리를 끊었으므로, 5살이라고 했다.

 참수형의 경우, 「대시 수(싶은 자습)」와「불대시 수」와 2종류가 있었다.대시 수는, 춘분전, 추분 후에 집행해, 불대시 수는 판결 후, 때를 대?`스않고 직접적으로 집행했다.

 19 세기 후반의 고종 시대에는 형장은 용산(욘산) 근처에 2개소, 대시 수 용무가 있었다.세남트와 당고개이다.형목에 곡(굽혀)을 매달아 낮추어 목과 몸통을 끊었다.불대시 수용은 무교동(무교돈), 대시 수의 긴급용은 서소문(소솜) 외였다.형목에 매달아 낮추지 않고 베므로 목과 몸통은 떨어지지 않았다.

 집행 방법은, 우선 죄인을 감옥으로부터 꺼내고, 차에 실어 소에 견인가 다툰다.차에 실으려면 , 죄인의 양손을 펼치고 양각을 가지런히 해 발판 위에 기립시켜, 우차의 상자에 묶어 붙여 둔다.도중 남대문을 지날 때에 발판을 없애, 소를 질주 시킨다.죄인은 양손이 뜯어질 뿐에 차여 혀는 치아의 진동으로 선혈내뿜어, 형장에 도착하는 무렵은 죽은 사람 동연이 되었다.

큰 둔검으로 죄수의 목을 베는 모습.목은 곁에 세운 장대에 매달아 보여 제한 표지로 했다(『사법 제도 연혁 도감』)
큰 둔검으로 죄수의 목을 베는 모습.목은 곁에 세운 장대에 매달아 보여 제한 표지로 했다(『사법 제도 연혁 도감』)


 집행일은 가족에게 알린다.가족이 오고, 형리에 뇌물을 보내, 가능한 한 고통이 없게 일시에 베어 주기 (위해)때문이다.후년, 참형은 옥내에서도 밀행되게 되어, 구내에서 엎드려 해 베었다.「행형도자」라고 하여, 체도()와 같은 크기의 둔검으로, 단순한 중량감으로 두드려 베었다.한국인도 세멘시나인도, 칼에 칼날을 붙이는 것이 아무래도 질색인 같다.

 변해 약살은 자신있었다.왕족이나 사대부의 죄인의 면목을 존중해 왕보다 독약을 주셔, 이것을 삼킴시킨다.비소()를 이용한 것 같다.유형으로 외지에 냈을 경우, 후의 보복이 예상될 때는 도착하기 전에, 사자에 약을 갖게 해 도중에 죄인에게 음독 시켜 죽였다.유생 관료・송시열이 제주도에 흘러가는 도중에 객사 했던 것도, 숙종에 폐비를 충고한 박태보등이 배류의 도중 죽었던 것도 결실약(해 태운다)에 의한다.

 책형(괘선)이나 교수형은, 한국인에게는 어딘지 부족했기 때문에 거의 행해지지 않았다.일본인의 역이다.교수형을 하게 된 것은, 비교적 신?`오 있어.

 고종 3년(1866)에 천주교 탄압을 당해, 보도청의 교도소에 연결된 불선교사 리델의 기록에 의하면, 보도청좌옥으로 형장은 감방에 인접해, 형장의 중앙을 판자 벽에서 나누어, 그 벽의 상부에 구멍을 뚫고 줄을 통해 줄의 구석에 수형자의 목을 묶어, 옆 방으로부터 줄을 빼 졸라 죽였다고 한다.

일본인과 다른 동양의 처형법

 1908년부터 감옥 관제가 시행되었다.당시 남아 있던 구8 감옥을 개수했지만, 수원(수원)의 경기 감옥만, 시설이 완비되었다.

 나카하시 마사키치가 보았는데, 수원의 경기 감옥만, 형장이 2층식이었다.종로 감옥에서는 헛간과 같은 장소의 낮은 천정의 대들보에 철제의 우물차를 매달고라고 줄을 걸쳐 마루밑 3자만 파고 들어 줄권기를 피울 수 있어 회전시켜 감아올렸다.대구 감옥에서는 통나무 3개를 삼차에 짜고, 그 중앙에 줄을 매달고라고 집행했다.

 해주 감옥에서는 감방의 하나를 열고, 상기의 보도청과 같이 하고 있었다.평양 감옥에서는 원래의 관찰사, 후의 평양 지방재판소의 구내의 건물의 하나를 열어 상기의 양목・활차식에서 죽였다.거기에는 사형수가 날뛰었을 때에 때리기 위해 세탁봉과 같은 봉을 비치할 수 있고 있었다.

 능지(양 토지) 형이라고 하는, 일본인에게는 귀에 익지 않는 형벌이 있다.세멘시나청대에서는 아편을 흡인시켜 도취했더니 사지로부터 산 채로 잘게 자르지만, 조선에서는 사망자에 대해서 이것을 과했다.

 대역죄의 시해의 카시라, 소우팔, 좌우다리, 몸통의 순서로 여섯 개에 끊어, 잔해를 소금절이로 해 각지에 분송 한다.이 형벌은 17세의`I, 광해군의 대에 융성을 보았다.인조왕대에 엄금으로 했지만 폐 하기에 이르지 않고, 영조왕대에 반역을 꾀한 윤광철과 리하징 되는 것의 시해에 능지의 형을 베풀었다.

 19 세기의 고종왕대, 김옥균(금과 옥 오지 않아)에도 능지의 형이 부과되었다.

 일본의 메이지 유신을 표본에 조선의 근대화를 목표로 해, 1884년, 민민정권 타도의 쿠데타(갑신사변)를 일으켰지만 청의 개입으로 실패해, 삼일 천하로 일본에 망명해 왔다.각지를 전전한 후, 샹하이에 건넌다.1894년 3월 28일, 샹하이에서 민비의 자객 홍종우에 총으로 암살되었다.

 사체는 청나라 군함함정호로 조선에 옮겨져 능지형에 처해졌다.머리와 몸통은 한강의 양화진두에 효 해, 손발은 팔도에 분효 해, 몸(검은 색)은 한강에 처넣어 어 복에 매장하게 했다.

 청일 전쟁 후의 시모노세키조약으로 조선은 독립해, 1895년의 개혁으로, 「처참능지」등의 형의 폐지령이 나와 능지형은 끝났다.하지만 오늘이라도「죽여도 열려 부족한 놈」라고 할 때, 「능지지형(는치지홀)・당(탄) 헐놈(놈)」와 한국어로 욕을 하는 일이 있다.

 마지막으로, 추시형이라고 하는 형이 있다.추시형과는 사망자의 관을 파내 더하는 형벌?`나 있다.

 15 세기, 연산군 사 옥 때, 형조 판서(=형조장) 금종 곧을 대역죄로 해, 그 관을 망가뜨려 시해를 파내 베었다.그 후, 연산군의 생모, 윤씨를 폐비로 한 모의에 참가한 수십명을 잡아 처형했지만, 그 중 벌써 죽은 사람은 관을 망가뜨려 시해를 인 나무두이고라고 베어, 뼈를 분쇄해라고 바람으로 쬐어 시체는 후미에 투여했다.

 추시형의 결과는 죄인인 아이 또는 부모도 동시에 연좌 당하므로, 영조 32년(1756)에 왕정이 참아 바구니곳으로서 폐지되었지만, 이것으로 끝난 형적은 없다.왜 이러한 형벌을 했는가 하면 , 풍수 신앙으로 시해의 뼈에는 일족 번영의 에너지가 머물고 있으면 믿는다.거기서 살아 있는 친족을 연좌 시키고 이것을 실시해, 잔족에 환류하는 에너지를 근본으로부터 끊는 것이다.

 이 형벌도 세멘시나가 본고장이다.일본과 제휴해, 세멘시나의 근대화를 요구한 정치가・왕조명(왕나비째 있어)은, 사후의 민국 35년(1946) 1월 15일, 국민당군에 의해 무덤의 콘크리트의 외벽이 폭파되어 관과 함께 사체를 당겨 접나오고 재로 되어 들판에 버려졌다.

뇌물하는 대로의 매형, 대역의 하인

 이 근처 근처에서 일본의 보통 독자는, 기분이 나빠지고, 이제(벌써) 지긋지긋이라는 것이 되는 것은 아닐까.기분귀로는 생각되지만,일본인은 지리상은“동아시아”사람이어도, 역사 문화상의“동양”사람에서는 결코 없다.독립채산제의 지역 분업이라고도 말해야 할「봉건제 국가」의 자손이며, 「왕조 국가」는 아득히 12 세기에 끝나 있다.

 그 왕조의 무렵이라도,세멘시나의 육형・궁형・노예제 등「인간의 가축시」는 받아 들이지 않았다.풍수 신앙도 습윤인 일본에서는 발달하지 않았다.음택(사후의 집, 무덤)의 뼈등 묻어도 썩기 때문에, 일족의 에너지의 원등에는 될 수 있자도 없다.양택(살아 있을 때의 집)의 방위등의 길흉 운세만이 남았다.

 그래서, 나도 이 근처에 끝내고 싶지만, 별책 정론 편집부로부터 의뢰받은 지면에게는 아직 닿지 않는다.미안하지만 좀 더 끔찍한 동양의 이야기를 계속하기로 한다.다음은, 매(회초리)와 지팡이(곤봉)로부터 시작된다.

 조선의 타격형은, 고려시대부터 매형과 장형이 구별되고 있었다.가벼운 것에는 매를 이용한다.이조로는 어느 관청도, 형구도 집행 방법도 부엌 마음껏.뇌물의 다과에 의해 형을 가감했기 때문에 뿔뿔이 흩어지게 되었던 것이다.

범인의 남편을 잡은 형리에 소와 피륙을 뇌물로서 건네주어 석방을 신청하는 아내(『사진첩 조선』)
범인의 남편을 잡은 형리에 소와 피륙을 뇌물로서 건네주어 석방을 신청하는 아내(『사진첩 조선』)

 뇌물을 한 사람은 초의 3타까지 손대중 해, 4타 이후는 외관만 강하게 치도록(듯이) 보이게 해 수형자 정원자리와 통곡 시켰다.뇌물하지 않는 사람에게는 강타해, 뇌물을 재촉했다.뇌물하지 않는 사람은 영구히 사라지지 않는 상처 자국을 좌석부에 남겼다.나카하시 마사키치는 이것을 당시의 전과자로부터 목격했다고 한다.

 지팡이에서도 매로도, 경질의 목재의 것도 있으면, 동과 같은 연목도 있어, 매우 해 나무는 지제의 것에 주홍옻나무를 발라 외관만 튼튼하게 한 것도 있었다.이것을 주장(중생)이라고 한다.형구는 수형자의 부담으로서 스스로 만들어 관에게 지참시켰다.매는 자연스럽게 섬약에 흘러 곧 접히므로 수십개의 예비의 매를 필요로 하는 일이 있었다.

 1673년, 광저우부윤(=지사)의 리세화의 검전에 과실이 있어, 장형의 생명이 내렸지만, 판 의금(=의금부장)의 김수항이 상 대부에게 장형은 노예와 같기 때문에 다른 형에 대신하면 좋겠다고 상주해, 왕은 이것을 허락했다.이러한 예는 얼마든지 있었다.

 양반에 대해서 매형을 더할 때에는 그 명예를 존중해 서민과 같이 좌석부를 치는 것은 하지 않고, 「초달(끊는다) 」라고 하고, 나무의 작은 가지로 양각의 전 정강이부를 쳐 끝마친 것이었다.그것이, 후에는 대리인을 내, 하인이 매형을 받게 되었다.

 17 세기, 숙종왕대에「누차의 병란을 거쳐 법제 봐 누구, 지팡이를 크게 하는 것 폐가 심하다.지금부터는 매를 이용해서.군율 처단 이외의 사람에게 곤봉을 이용해서는 안 되는」와 명했다.18 세기, 정조왕대에 흠휼(세균 기술) 전칙이 제정되어 매형의 개정을 실시했지만, 람형의 폐는 다스려지지 않았다.

 1896년, 형률명예를 제정해, 형벌을 죽음・류()・도(두)・매()의 4종으로 고쳐 고래의 장형을 중지해, 매형은 종래의 회수 10내지 50을, 범위를 넓혀 10내지 100으로 해, 10등에 구별했다.1905년제정의 형법 대전에서는, 죽음・류・도・하옥・매의 오종으로 해, 장형은 인정하지 않고.매형은 형량을 정해 부녀에 대해서는 물에 적신 옷을 입히는 것, 간통죄의 경우는 옷을 입히지 않고 집행으로 했다.

 한일합방 후도, 형법 대전의 매형은 한국인에 한정해 적용되고 있었지만, 메이지 45년(1912) 9월 제령 제3호를 가지고, 매형은 대용형으로 고칠 수 있어 징역・구류・ 및 금형(금액에 대신한다)에 대신해 홍`s일로 했기 때문에, 자연스럽게 마멸하며 갔다.

유형에는 아내나 첩을 수반 했다

 유형에는 바다와 육지가 있어, 바다의 섬에 흘리는 경우도, 유인섬과 무인도의 구별이 있었다.그 외에「안치」「위리(필요해) 안치」「충군」의 분류가 있다.안치는, 배소에서 더욱 장소를 지정해 유거시킨다.이른바 폐문이다.왕족 또는 고위 고관의 사람에게 한정되었다.

 죄의 무거운 것은 절해의 고도에 흘리는「낙도 안치」가 있어, 가벼운 것은 본인 거주의 시골에서 유폐 하는「혼고 안치」가 있었다.하지만 실제로는 정적을 매장하기 위해서, 제멋대로하게 절해류 배치하는 것은 얼마든지 있었다.

 혼고간단하게는 2종류가 있어, 최초부터 혼고에 있는 것과 일단 섬에 보내져 탕척(토우 글자)(죄명을 제외한 것)에 의해서 배류를 풀려 혼고에 귀환해 안치되는 것이 있었다.또 왕명에 의해 낙도에 처해지는 일 없이 자택에 놓여지는 것은, 「두문(와도 ) 불출」라고 했다.

 위리안치는「가극(가곡) 안치」라고도 해, 가시나무가 있는 컬러 질의 나무를 주위에 심고 리(가 나무)로 해, 그 안쪽에 유폐 했다.컬러 질의 나무는 전라도에 산출하기 위해, 이 길의 시마지?`나행 깨졌다.18 세기의 경종왕대, 진넨의 재난으로, 령 의정(=수상) 김 아키라집을 거제도에, 령부 사(=중추부장) 리이명(좋은 있어)을 남해에, 판부 사(=중추부직) 조태주를 진도에 위리안치했다.

 충군은, 변경을 수비하는 군에 던져 배류 하는 것이다.이것은 꽤 힘들다.국경 부근에서 동사해 객사 하므로, 사체가 행방 불명이 되는 일이 있었다.

 그 외, 유형은 천리 이상이지만, 「천사(전사)」라고 하여, 천리의 밖에 배류 하는 것이 있었다.다만, 유형을 2천리내지 3천리로 정한 것은, 세멘시나의 제도를 그대로 가져온 것만으로, 조선의 천리는 일본의 햐쿠리만큼이기 때문에, 조선의 자의 2천리내지 3천리라고 하는 것이다.그런데도 좁은 조선에서는 장거리가 되어 버리므로, 각지를 대우회 해 거리를 적산해 앞뒤를 맞춘 적도 있었다.

 또, 「이향」혹은「추방전리」라는 것이 있어, 주거지를 전야로 옮겨, 거주지나 왕도에 들어가는 것을 금지했다.1545년, 청주인의 아버지를 구하기 위해서 살인한 사람을 이향에 대처했다.명종대에는, 권세가의 윤원형의 작을 깎아 이향 했던 적이 있었다.「전가 사변(해 거치지 않는) 률」라고 하여, 죄인의 전가족을 표`모 경계로 옮기는 것이 있었지만, 영조 20년(1744)에, 폐지되어 이 처분은 없어졌다고 한다.

 원래 유형의 경중은 거리에 의하는 것이어, 기간에 제한은 없었다.그러므로 은사나「량 이(료 있어)」에 의해서 감형되어 귀환하는 이외 없었지만, 빈번히 행해졌으므로 대체로는 귀환했다.량 이라고 하는 것은, 배류자가 다수가 되었을 때, 정리하기 위해서 감형해 귀환시키는 것이다.운 나쁘게 어느 쪽에도 걸리지 않고 일생을 보내는 사람도 있었다.

 유형자에게는 가족의 수반을 허락하고 있었다.지금의 한국의 5천원 지폐의 도안이 되어 있는 유생・이 쿠리타니때에는, 첩을 수반하고 있었던 것이 그의 일기로 보인다.정조 14년(1790), 거듭해 유배인의 아내 또는 첩이 하인을 바랄 때는 허락하라고 명했다.그 외, 사대부로 원지에 보내지는 것 의식을 급 한 적도 있었다.배류는 일본에 비해, 꽤 간단히 이겼다.

 대전회통(1865)에서는, 70세 직전의 유형자에게는, 70까지의 기일에 하루 1 양 4전을 걸고 금전을 담으면 귀환을 허락했다.1905년의 형법 대전 제정에서는, 본인이 병때와 부모의 상을 당했을 때는 잠시의 보석을 허락했다.부녀, 70세 이상의 남자, 15세 이하의 남자로, 유형 10년 이하의 융`한№노는, 극한 무더위의 때에는 보석으로 했다.

 유형에 처해진 것은 모두 형조의 장부에 기재 해야 할것이 되어 있었다.유형지에서 가장 많았던 것은, 육지에서는 함경남북도, 평안 북도의 국경선의 온성・종성・사미즈・코야마(카프산)・강계(칸게)가 가장 많아, 시마지에서는 남 연안의 시마지가 가장 많았다.

 후루쿠, 쿠가해 머지않아에 보내는 것도 적당했지만, 격리하려면 시마지가 편리했기 때문에, 형법 대전에서는, 원칙으로서 시마지에게 압송 하는 것으로 했다.그 무렵의 류배의 시마지는 제주도・지도・진도・추네지마・완도・철도 뿐이었다.섬에서 장사나 학 학원 경영으로 성공해 마음 편한 여생을 보내는 것도 있었다.

 메이지 43년(1910), 한일합방의 은사로 유형자는 전부 유형지로부터 돌아와 근처의 감옥으로 옮겼다.그 다음에 정치범 전부에 대사를 실시해, 옥내에 있어도 유형자는 그 자취을 감추었다.

 그 밖에 대명률기재의 도형(배 흘려 노동형에 곳)이 있었지만, 이조로는 행해진 형적이 없다.

고문은 스네오리와 긴박이 주류

 고문형은 법령상 정한 곳(점)이 않는, 불합리의 형이다.우리 나라의 석포 나무와 같은 압슬(아프술)이나, 주뇌형(카세츄레)이라고 해 양각을 긴박 해 그 중간에 봉을 삽입하고 좌우에 열리는 형이 있어, 보도청으로 행해졌다.곤봉으로 난타하는 란장형 등도 있었다.18 세기의 영조왕대에 잔학의 형은 폐지되었지만, 그 후 역전해, 여전히 무통제 상태로부터 벗어날 수 없었다.

 현재의 한국에서 전시되고 있는 「일제에 의한 고문」에서는,주뇌형이나란장형등이 재현되고 있지만, 이것은전통을 일본의 탓으로 하는, 유익뜻의「역사의 왜곡」이다.

 그런데, 정조왕대에 흠휼전칙을 제정해, 매형의 개정을 실시했지만, 람형의 폐는 다스려지지 않았다.1905년의 형법 대전 제정에 의해, 다음의 무쿠사의 형구가 정해졌다.우선 항쇄(빌려주어라)(항쇄), 조선어로 목칼 이라고 하여, 길이 5자5치수의 판에 파임 뽑아진 것에 머리를 삽입해, 옆에서(보다) 마개를 베풀고 열쇠를 잠그었다.긴 판이 목에 걸려 있으므로 일중은 거의 움직일 수 없다.

이씨 조선 시대로 보여지는 주뇌형의 사진.사람들의 눈 앞에서 교차한 봉에 체중을 걸어 죄수의 경골을 부러뜨리고 있다
이씨 조선 시대로 보여지는 주뇌형의 사진.사람들의 눈 앞에서 교차한 봉에 체중을 걸어 죄수의 경골을 부러뜨리고 있다


 杻()(수가)는 실제로는 사용되지 않았다.종로 감옥에서는 마승으로 양손을 묶어 이것을 한층 더 강하게 복부에 붙들어매어 둔 것으로, 식사에 손을 사용할 수 없기 때문에, 개와 같은 모습으로 머리를 늘어 뜨려 직접적으로 입을 붙여 먹고 있었다.질(해 개)(족가), 조선어로 체코(착고) 라고 하여, 몇사람 정리해 련 베푼 것으로, 좌우보다 교대로 죄수의 왼발 또는 오른쪽 다리를 한 개씩 끼워 넣어, 빼고 꽂기 할 수 없게 열쇠를 잠그었다.

 측에 가는 경우에는 제외하지만, 밤이것을 베푼 채로 재우기도 했다.그 외, 홍사쇄(포승), 조선어로 오라치울 이라고 하여, 홍색의 실을 서로 꼰 줄로, 구석에 용두 장식을 붙여 12개의 환을 통해 있었다.환은 어깻부들기보다 팔에 흘러 용두는 가슴에 늘어지고 위엄을 느끼게 했다고 한다.

은사 남발의 전통은 지금도 산다


 은사는, ①건국시②국왕 즉위, 입후, 입태자, 태후 천황, 황후, 황태자등의 칭호, 왕과 왕족의 탄생, 훙거 등③국왕 행차시④궁의 축조와 이재⑤극한 무더위에 즈음해 옥수를 불쌍히 여겼을 때⑥천지 이변, 혜성 출현시 등⑦여진족을 성패 했을 때⑧서상출현⑨역병 유행⑩개인 특사(아버지 살인의 원수 치는 것)등에서 빈발되었다.

 은사는 너무나 빈번하고 셀 수 없을 정도였다.역대의 왕이사를 가지고 덕치가 이루고, 이것을 실시하는 것으로 모든 재액으로부터 피할 수 있는이라고 믿은 것에 의한다.

 그 폐해를 「람사의 폐」라고 한다.숙종 10년(1684)에, 간인의 요행(요행)을 열어 버렸다고 해, 은사를 너무 실시한 것을 후회하고 관을 간언했다.영조왕대에도, 자신의 람사를 후회해 향후의 왕은 실시하지 말아라 라고 경고했다.이것들은 람사의 폐해를 전한다.

 아사미륜타로「조선 법제사」안에, 「관대한 은전(단 법률)의 폐에 이르고는 구면(이러한 응) 무치(임시 모면의 철면피)의 사상을 유치해, 반도인을 하고 비행을 하는으로 뜻에 개키바구니에 지인것 같은이라는 자 되어」어떤.죄수의 모든 것이 은사의 전례를 알고 있으므로, 장기형을 내려져도 근심으로 하지 않고, 석방 기회를 예기 해 기다렸다고 한다.

 현대의 한국에서도, 이「람사의 폐」는, 전통으로서 계속 되고 있다.축재로 체포된 전 대통령이나, 증회로 수감된 전 회사 사장, 좌익 운동으로 사건을 일으켜 사형 판결을 받은 전 학생등이 태연하게 출옥해, 풍부한 노후를 보내거나 사형 선고를 훈장과 같이 해 좌익 정당의 의원으로서 돌아가 피거나 하는 것은 이 때문에이다.

 이상부터, 「람수」「람형」「람사」가 그들의「방정」의 전통인 것은 분명할 것이다.따라서 나는, 지금의 한국의 땅에서, 얼마나 일본인이 부당한 체포, 심문, 판결, 투옥을 하실려고도 놀라지 않는 것이다.


・히로시 쇼와 28년 요코하마시 태생.54년 케이오 기쥬쿠 대 대학원 석사과정 수료.55년에 도한, 57년부터 서울 대사범대학원 유학, 연세대등에서 61년까지 강사를 맡는다.시모노세키시립대강사, 츠쿠바대 조교수등을 거쳐 헤세이 16년부터 현직.제1기 일한 역사 공동 연구 위원회 위원, 제2 기일한역사 공동 연구 위원회 위원 교과서반치프를 역임.한반도 연구, 한국론에 머무르지 않고 문명론이나 사상에서도 논고를 발표.11년 산토리 학예상, 16년 요미우리・요시노 사쿠조상, 18년 정론 신풍상.근저에『보기 흉하지만, 눈을 떼지 말아라, 이웃나라・한국!』(WAC BUNKO), 『유럽 사상을 읽어 푸는―무엇이 근대 과학을 낳았는지』(기미 신서) 등.

http://ironna.jp/article/2108

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・・・읽고 있어 속이 메스꺼워졌다.
( ´-д-)


~ 이상 ~



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