ミリタリー

知られざる悲劇 ~二日市保養所~

http://tv.so-net.ne.jp/schedule/156368201403310055.action


戦後、引き揚げ者の女性の中には、暴行されて望まぬ妊娠をした人たちがいた。そうした女性に対し中絶手術を施していた施設が存在したという。元看護師が語った“悲劇”とは

※1946年2月開設〜1947年の閉所までの二日市保養所(福岡)における被害者の中絶件数は4500件(猪俣祐介「『満州移民』女性に対する戦時性暴力―単身女性団員の強姦体験の語りから」京都大学グローバルCOE 『帝国日本の戦時性暴力』2013:19〜22;山本ゆめ「父の痕跡―引揚援護事業に刻印された性暴力と混血の忌避」京都大学グローバルCOE『帝国日本の戦時性暴力』2013:36)。

桜の樹の下 ― 語られなかった引揚の惨禍

平尾弘子



 保養所の庭には、桜の樹が何本も植えられていたという。

 終戦の翌年、1946年の春、日本に帰還していた京城(大韓民国の首都ソウル。日本統治下、朝鮮総督府がおかれた)。日赤の同期の看護師10名が、福岡市の近郊、二日市へ集結した。対馬に帰還していた当時、20歳の村石正子さんも日赤の事務長から連絡を受け、用件も明確には伝えられないまま、二日市に赴いた。そして、桜の蕾が芽吹き、満開となり、やがて葉桜となる3月から5月までの3ヶ月間、二日市保養所でその勤務にあたった。


 二日市保養所は、引揚者の救済活動をしていた在外同胞援護会救療部によって、戦時中の愛国婦人会保養所の建物を利用し、1946年3月に開設された。引揚の混乱の中で暴行を受け、妊娠した女性の中絶や性病の治療等に約1年半にわたって携った。

 2005年9月末、私は、筑紫野の女性グループならびに『関釜裁判を支援する会』事務局のメンバーと一緒に、二日市保養所に看護師として勤務した経験をもつ村石正子さんからお話を聞く機会を得た。

 二日市は、古い温泉街しかない寂しい場所だったと村石さんは、当時を回想する。人目につかぬよう、鄙びた温泉地の奥にその場所は、選定されたのであろう。

 朝鮮半島に取り残された日本人居留民の引揚救護活動を行なうべく、旧京城帝大医学部関係者によって戦後すぐに設立されたソウルの「罹災者病院」や朝鮮各地を廻った「移動医療局」の活動は、文化人類学者・泉靖一氏の巧みな手腕によって「在外同胞援護会救療部」へと組織化され、旧厚生省の援助をも引き出し、様々な引揚救護活動に従事することになった。保養所の設置には、旧京城帝国大学医学部の関係者が関与していたためか、開設の当初、村石さんら京城日赤の看護師が召集を受けた。日赤で1年上の上級生が班長となった。


 村石さんと同様に他の看護師たちも自分たちが何故この地に呼ばれたのか、はっきりとした職務を告げられた者はいなかった。〈不法妊娠〉が云々ということは聞いたが、それが具体的に何を意味しているのかわからなかったという。

 保養所の2階に部屋をあてがわれ、そこでの生活が始まった。建物は老朽化した2階家で、1階の1室が、手術室として使用された。そこは以前、風呂場であったのか、床がタイル張りで手術台が1台置かれていたという。棚には脱脂綿やガーゼ等、最小限の医療用具しか準備されていなかった。

 大陸からの引揚港博多からトラックに乗せられ、運ばれてくる女性たちの姿を見て、村石さんは、事の次第を理解した。

 異形の者…彼女たちの様相を現わす言葉は、他に見出せなかった。

 一見したところ男女の区別すらつかず、短く刈った頭を風呂敷で巻き、汚れ痩せ果ておなかだけ膨れた女性たちが、次々と保養所に運ばれてきた。引揚の途上での暴行を避けるため、女たちは一様に髪を短く刈り込んでいたが、膨らんだおなかを見れば、それもまったく無駄であったことがわかり、痛々しさは、いや増すばかりだった。

 戦争の周縁では、どの時代、どの地域であっても例外なく必ず性暴力の被害が生じる。この世で最も忌むべき戦争と戦時性暴力は、お互いが癒着し、蛇のように絡まりあい、切っても切り離すことなどできない。

 更にこのような状況下でも生身の女性の体は受胎し、加害男性の子を宿してしまう。人間という個体の生殖の営みが、これ程、哀しく不条理なものであると感じられることはない。



 凄絶な体験を経て、一種の精神的な虚脱状態にあったためか、女性たちは概して無言のままだったという。迎えた人々も掛ける言葉も見当たらなかった。まず、「お風呂に入りましょうか。」と入浴をすすめ、衣服の着替えを用意し、2~3日休養してもらう手順だった。旧厚生省から食料だけは、豊富に支給されていた。手術は、医薬品不足のため、無麻酔で行なわれた。精神と肉体に凄まじい傷を負い、言葉を半ば喪失していた女性たちは、激痛にも一様に黙々と耐えたという。

 妊娠7ヶ月になる女性の手術に村石さんは、偶然、居合わせたために立ち会うことになる。7ヶ月になるとお産と一緒のため、ドクターの他に助産婦1人も手術に駆り出された。

 女性は、自らが産み落とした子どもの産声を聞くと反射的に乳房が張ってくる。母親としての感情も自ずと生起してくる。そのため、産声を聞かせまいと嬰児は、すぐ首を絞められ、窒息させる手筈になっていた。更に医師が頭にメスを入れる。声を挙げることもなく、無辜の命は暗闇の中へ押し戻される。

 しかし、その折だけは違っていた。お昼の食事を済ました後、手術室の前を通りかかると、どこからか猫の鳴き声のようなものが聞こえてきた。手術室を覗くと、頭にメスが立てられたまま、それでも絶命することなく赤ちゃんが泣いていたという。村石さんは気が動転し、慌てて「先生、先生!」と手術した医師を引き戻した。

 再び窒息させられた嬰児は、もう二度とこの世に声を発することはなかった。 村石さんは、この折の記憶だけは他の同僚にも長年、語ることはできなかったという。

 多くの嬰児の遺骸がどのように処理されたのか、はっきりとしたことは不明である。

 一部はホルマリン漬けにされ、大学病院へ引き渡されたとか、保養所の敷地に埋められたという証言がある。(『証言・二日市保養所』引揚げ港・博多を考える集い編、『沈黙の40年』武田繁太郎、『水子の譜』上坪隆)

 しかし、村石さんは、一度病院の廊下から嬰児の遺骸を埋めている様子を目撃した。保養所の雑用をしていた年配の男性が、桜の樹の下に埋めていた。その人は、どういう関係になるのか小さな子どもも含め、家族で保養所に住み込んでいたという。

 無心に作業する老人の傍らには、薄紅色の蕾を膨らませ、満開に咲き競い、やがて散りゆく桜の樹が控えていた。

 終戦から約半年が過ぎた1946年春のことである。文字通り桜の樹の下には、小さき屍が無数に埋まっていた。

 かつて、来る日も来る日も堕胎された嬰児の遺骸を土中に埋める作業を繰り返していた初老の男性がいた。黙々と、春の柔らかい日差しを受けながら桜の根元の土を掘り、埋葬していったのだ。

 この人は何を思い、土を掘り返していたのだろう…あるいは敢えてもの思うことは、回避していたのだろうか。

 こうして戦争が終わるたびに誰かが、埋葬のため土を掘り返してこなければならなかった。その営為は、過去から現在まで綿々と繰り返されている。

 引揚途上で、日本人の女性が蒙った惨禍については、周知の事実として広く知られている。

 保養所創設に関わった旧京城帝国大学関係者は、自殺や精神障害が相次ぐ被害女性の惨状を見るにみかね、当時、堕胎は違法であったにも関わらず、保養所開設に踏み切った。後ろ盾となる大学も失い、ある意味、自由な立場で事態に向き合おうとした。

 しかし、旧厚生省の立場は、相違した。「水際作戦」と称し、大陸から引揚げてくる女性たちを港で隈なく検査し、異民族の血の流入を水際で食止め、性病の蔓延を予防する意図を持って、傷ついた女性たちを遇していた。二日市保養所とは別に旧厚生省は、九州大学や佐賀の中原療養所など強制堕胎施設を設けていた。

 敗戦、そして、その後の混乱が必至であったにも関わらず、国家は民間人の保護など最初から眼中になかった。それどころか被害にあった女性を忌まわしいものでも見るように白眼視し、文字通り水際で処理していったのだ。

 嬰児の命は、厳密なまでに無辜である…それゆえ、なおさら自らが招き寄せた敗戦の実相を眼前に厳然と突きつけられるのを回避するべくその存在を抹殺した国家やその背後に在る共同体の無言の思惑は、白日の元で究明されなければならなかったのではないか。

 当然の成行だろうが、外からもたらされた戦争の終結は、国家にしろ民衆にしろ、表層は塗り変えられても潜在する意識に変化はもたらされなかった。

 保養所を出た後、女性たちは、生涯にわたる沈黙の封印を心に課し、なんら変わることのなかったこの社会に戻っていかなければならなかった。

 被害女性の沈黙は、戦後60年を経ても解かれていない。

 村石さんは、この診療所で1人の女性に出会った。穏やかで優しい表情のひとだったという。

 ここに運ばれてきた女性たちの多くが、精神と肉体に凄絶な傷を負い、口数も少なく虚無的なまなざしをしていたなかで、にこやかで笑みを絶やさなかったひとの面影は、心に深い印象を残した。

 この女性は、性病の治療のため、入所していた。梅毒の3期で粘膜まで損傷し、唇も割れ、皮膚の表面から膿が出ている状態だった。治療といってもまだ当時、抗生剤などなく、毎日、洗浄を行なうばかりだったという。病気のため、髪は既に抜け落ち、坊主頭に布をターバンのように巻きつけていた。入所している他の女性たちも中絶の手術後、しばらく休養すると顔もふっくらとしてきて、看護師が髪を結ってあげたり、化粧品を貸したりすることもあったという。

 しかし、どの女性に対しても本名、年齢、出身地など尋ねることはなかった。また、聞く必要もなかった。村石さんは、このひとにも、もちろん聞いていない。当時、20歳であった村石さんより明らかに年長に見えたという。

 談話室であや取りに興じたり、他愛のない話をするのだが、辛い過去が表情を曇らせることなどなく、小太りの顔は、いつもにこにこと優しく笑っていたという。あるいは、梅毒が既に脳症にまで進行していたのかもしれない。この世のあらゆるものから背かれ、痛めつけられてきても誰を恨むことなく、なお優しく柔和な表情であった。

 このひとは、保養所にいた時、ひょっとしたら生まれて初めて、穏やかな誰にも苛まれることのない日々の幸福を噛みしめていたのかもしれない。なぶりものにされず、殴られず、痛めつけられもせず…この世で初めて取り戻した肉体の自由だったのではないだろうか。

 たとえ、忌まわしい病魔に苛まれていてもその表情はもの柔らかく、曇ることはなかったという。

 2005年の暮れ、木枯らしの吹く寒い日、私は、その地を訪ねてみた。

 保養所の跡地には、今、特別養護老人ホームむさし苑、筑紫野市在宅介護支援センター、デイサービスセンター、訪問看護ステーションの施設が集積して建っており、1部は、済生会二日市病院の駐車場となっている。そっとガラス越しに建物の内部に眼を遣ると高齢の男女が、ゆっくりとした動作で機能訓練をしていた。



 隣りのマンションとの境界近く、敷地の隅の緑陰のなかに二日市保養所の関係者を顕彰して、児島敬三氏により1981年に建立された「仁の碑」、そして1999年3月20日に旧京城帝国大学創立705周年記念として植樹された1本の欅の樹が残されている。


 さらに数本の木立に囲まれ、敷地の奥まった位置には端正な面立ちの地蔵尊が、おさな子をかき抱き、ひっそりと安置してある。母子像の前に立ててあるろうそくに火を灯してみた。風があるためか、小さな焔と共に整った母子の横顔がゆらゆらと揺れて、私の眼には映った。





引揚途中の強姦被害者47人 加害男性の国籍は朝鮮、ソ連など

http://www.news-postseven.com/archives/20150619_328325.html
SAPIO2015年7月号 2015.6.19

 果たして韓国の言う「私たちは常に被害者」という姿勢は、本当にその通りなのか。歴史を振り返れば、韓国は過去幾度となく、日本人への蛮行を繰り返してきた。

 11歳の時、朝鮮北部から命からがら京城に脱出した日系米国人作家、ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ(旧名・川嶋擁子)の自伝『竹林はるか遠く―日本人少女ヨーコの戦争体験記』(ハート出版刊)。引揚の記録をありのままに綴った同書は、今から約30年前の1986年に米国で出版され、後に一部の州で中学校の教材になった。

 だが、韓国人と韓国系米国人がこれに猛反発。執拗な抗議活動を繰り返し、韓国外交通商部が州政府に是正を求める事態に発展した。実は同書は、2005年に韓国でも翻訳出版されているが、こちらも発売禁止に追い込まれている。韓国主要紙も「間違った『ヨーコの話』学びたくない」(朝鮮日報)、「『ヨーコの話』の最大の過ちは加害者と被害者を入れ替えた点」(中央日報)と題した特集記事を掲載し、メディアを挙げてネガティブ・キャンペーンを行った。
 
 在留邦人、引揚者を襲った悲劇の痕跡は、日本国内にも残されていた。福岡県筑紫郡二日市町(現筑紫野市)にかつて存在した『二日市保養所』の存在だ。この保養所は、引揚の途中に朝鮮人らに犯され妊娠した女性の救済施設堕胎手術を秘密裏に行う病院だった。当時、堕胎手術は違法(*)であったが、施設は引揚援護庁が1946年2月に開設したもので、厚生省が「超法規的措置」として黙認していた側面がある。

【*現在も刑法上の堕胎罪は存置されているが、母体保護法では「妊娠の継続、分娩が身体的・経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのある者」、「暴行・脅迫により抵抗、拒絶できず姦淫され妊娠した者」などに対する指定医の処置が認められている】

 同施設の医務主任・橋爪将氏による1946年6月10日付の報告書によれば、施設の開設から2か月間で強姦被害者47人を治療し、加害男性の国籍内訳は「朝鮮28人、ソ連8人、支那6人、米国3人、台湾・フィリピンが各1人」だった。1947年の施設閉鎖まで、堕胎手術件数は500件に及んだという。

 戦時中の日本人の残虐性を世界中で訴えている韓国人は、この事実をどう受け止めるのだろうか。

 日本人が戦時中に犯した罪は、真摯に反省しなければならない。しかし、だからといって、日本人が受けた残虐行為を、歴史から消し去ることもできぬ。正しき歴史を知ることが、真の日韓友好につながるのではないか。



水子の譜(うた)―ドキュメント引揚孤児と女たち (現代教養文庫―ベスト・ノンフィクション)

 かつて博多湾は引揚者の港であった。敗戦後のある時期、1393,000の人びとがこの港に上陸した。昭和21年釜山日本人世話会の調査では、女性の1割が性犯罪被害者であった。「二日市保養所」というのは、敗戦後の中国大陸で進駐してきた外国兵に犯された女たちを、密かに治療回復させる施設であった。強姦によって身ごもってしまった女たちには堕胎手術が行われた。性病にかかった女たちにはその回復までここにかくまって治療がなされた。
 引揚船のなかで生れたひとりの女性の行方を著者は調べ始める。生れていなかったら堕胎手術を受けていたであろう人だ。その誕生が2、3日早かったために、その母親は苦しみ、彼女(赤ん坊)は聖福寮で育つことになった。養母の、そっとしてあげといてくださいという言葉に、著者は彼女が出生についての事実を知っているかどうか確かめることができない。著者はこれらの施設で働いていた人たちを訪ね歩く。
 ここに登場する人々の努力と誠意が、生きる希望をなくした女性や孤児たちに生きる力をあたえた事実。そして、沈黙を守りつづけた戦争被害者におもいがはせられる。


알려지지 않은 비극 ~후쓰카이치 휴양소 ~

알려지지 않은 비극 ~후쓰카이치 휴양소 ~

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전후, 귀한자의 여성중에는, 폭행되어 바라지 않는 임신을 한 사람들이 있었다.그러한 여성에 대해 중절 수술을 실시하고 있던 시설이 존재했다고 한다.원간호사가 말한“비극"과는

※1946년 2월 개설〜1947년의 폐소까지의 후쓰카이치 휴양소(후쿠오카)에 있어서의 피해자의 중절 건수는 4500건(이노마타 유스케「『만주 이민』여성에 대한 전시성 폭력―단신 여성 단원의 강간 체험의 이야기로부터」쿄토 대학 글로벌 COE 『제국 일본의 전시성 폭력 』2013:19〜22;야마모토째「아버지의 흔적―인양 원호 사업에 각인 된 성 폭력과 혼혈의 기피」쿄토 대학 글로벌 COE『제국 일본의 전시성 폭력 』2013:36).

벚꽃의 이츠키하 ―말해지지 않았던 인양의 참화

히라오 히로코



 휴양소의 뜰에는, 벚꽃의 수가 몇개나 심어져 있었다고 한다.

 종전의 다음 해, 1946년의 봄, 일본에 귀환하고 있던 경성(대한민국의 수도 서울.일본 통치하, 조선 총독부가 두어졌다).일본 적십자사의 동기의 간호사 10명이, 후쿠오카시의 근교, 후쓰카이치에 집결했다.대마도에 귀환하고 있던 당시 , 20세의 촌석 마사코씨도 일본 적십자사의 사무장으로부터 연락을 받아 용건도 명확하게는 전해지지 않은 채, 후쓰카이치로 향해 갔다.그리고, 벚꽃의 뇌가 초목이 싹터, 만개가 되어, 이윽고 엽앵이 되는 3월부터 5월까지의 3개월간, 후쓰카이치 휴양소에서 그 근무에 해당했다.


 후쓰카이치 휴양소는, 귀환자의 구제 활동을 하고 있던 재외 동포 원호회구료부에 의해서, 전시중의 애국 부인회 휴양소의 건물을 이용해, 1946년 3월에 개설되었다.인양의 혼란 중(안)에서 폭행을 받아 임신한 여성의 중절이나 성병의 치료등에 약 1년반에 걸쳐서 휴.

 2005년 9월말, 나는, 치쿠시노의 여성 그룹 및『관부재판을 지원하는 회』사무국의 멤버와 함께, 후쓰카이치 휴양소에 간호사로서 근무한 경험을 가지는 촌석 마사코씨로부터 이야기를 들을 기회를 얻었다.

 후쓰카이치는, 낡은 온천 마을 밖에 없는 외로운 장소였다고 촌석씨는, 당시를 회상한다.남의 눈에 붙지 않도록, 시골티난 온천지의 안쪽에 그 자리소는, 선정된 것일 것이다.

 한반도에 남겨진 일본인 거류민의 인양 구호 활동을 행할 수 있도록, 구경성 제국대학 의학부 관계자에 의해서 전후 곧바로 설립된 서울의「이재자 병원」나 조선 각지를 돈「이동 의료국」의 활동은, 문화인류 학자・이즈미세이이치씨의 교묘한 수완에 의해서「재외 동포 원호회구료부」로 조직화되어 구후생성의 원조도 꺼내, 여러가지 인양 구호 활동에 종사하게 되었다.휴양소의 설치에는, 구경성 제국대학 의학부의 관계자가 관여하고 있었기 때문에인가, 개설의 당초, 촌석씨등 경성 일본 적십자사의 간호사가 소집을 받았다.일본 적십자사에서 1 연상의 상급생이 반장이 되었다.


 촌석씨와 같게 다른 간호사들도 스스로가 왜 이 땅에 불렸는지, 분명히 한 직무를 전해들은 사람은 없었다.〈불법 임신〉가 운운이라고 하는 것은 (들)물었지만, 그것이 구체적으로 무엇을 의미하고 있는지 몰랐다고 한다.

 휴양소의 2층에 방을 나누어주어져 거기서의 생활이 시작되었다.건물은 노후화 한 2층가로, 1층의 1실이, 수술실로서 사용되었다.거기는 이전, 목욕탕에서 만났는지, 마루가 타일 의욕으로 수술대가 1대 놓여져 있었다고 한다.선반에는 탈지면이나 가제등 , 최소한의 의료용도구 밖에 준비되어 있지 않았다.

 대륙으로부터의 인양항 하카타에서 트럭에 실려 옮겨져 오는 여성들의 모습을 보고, 촌석씨는, 일의 나름을 이해했다.

 이형의 사람…그녀들의 양상을 나타내는 말은, 그 밖에 찾아낼 수 없었다.

 언뜻 보았는데 남녀의 구별조차 되지 않고, 짧게 벤 머리를 보자기로 감아, 더러워져 야위어 끝배만 부푼 여성들이, 차례차례로 휴양소에 옮겨져 왔다.인양의 도상에서의 폭행을 피하기 위해, 여자들은 한결같게 머리카락을 짧게 베고 , 부풀어 오른 배를 보면, 그것도 완전히 쓸데 없음 것을 알 수 있어, 통들 해 좌파, 아니 더할 뿐이었다.

 전쟁의 주록에서는, 어느 시대, 어느 지역에서 만나도 예외없이 반드시 성 폭력의 피해가 생긴다.이 세상으로 가장 꺼려야 할 전쟁과 전시성 폭력은, 서로가 유착 해, 뱀과 같이 서로 와 같이 얽혀 , 잘라도 떼어내는 것등에서 기내.

 더욱 이러한 상황하에서도 살아있는 몸의 여성의 몸은 수태 해, 가해 남성의 아이를 임신해 버린다.인간이라고 하는 개체의 생식의 일이, 이것정도, 슬프게 부조리인 물건이라고 느껴질 것은 없다.



 처절한 체험을 거치고, 일종의 정신적인 허탈 상태에 있었기 때문에인가, 여성들은 대체로 무언인 채였다고 한다.맞이한 사람들도 거는 말도 눈에 띄지 않았다.우선, 「목욕을 할까요.」와 입욕을 진행시켜 의복의 갈아 입기를 준비해, 2~3일 휴양 받는 순서였다.구후생성으로 식료만은, 풍부하게 지급되고 있었다.수술은, 의약품 부족 때문에, 무마취로 행해졌다.정신과 육체에 굉장한 상처를 입어, 말을 반상실하고 있던 여성들은, 격통에도 한결같게 묵묵히 참았다고 한다.

 임신 7개월이 되는 여성의 수술에 촌석씨는, 우연히, 마침 있었기 때문에 입회하게 된다.7개월이 되면 출산과 함께 때문에, 닥터 외에 조산부 1명이나 수술에 끌려갔다.

 여성은, 스스로가 낳은 아이의 아기의 첫 울음소리를 들으면 반사적으로 유방이 펴 온다.모친으로서의 감정도 스스로 발생해 온다.그 때문에, 아기의 첫 울음소리를 들려주지 않든지 영아는, 곧 목을 졸려져 질식시키는 계획이 되어 있었다.더욱 의사가 머리에 메스를 가한다.소리를 들 것도 없고, 무고의 생명은 어두운 곳안에 되밀어내진다.

 그러나, 그 때만은 차이가 났다.점심의 식사를 끝낸 후, 수술실의 앞을 우연히 지나가면, 어디에선가 고양이의 울음 소리와 같은 것이 들려 왔다.수술실을 들여다 보면, 머리에 메스를 세울 수 있던 채로, 그런데도 절명하는 일 없이 아기가 울고 있었다고 한다.촌석씨는 기분이 놀라, 당황해서「선생님, 선생님!」와 수술한 의사를 되돌렸다.

 다시 질식 당한 영아는, 더이상 두 번 다시 이 세상에 소리를 발표할 것은 없었다. 촌석씨는, 이 때의 기억만은 다른 동료에게도 오랜 세월 , 말할 수 없었다고 한다.

 많은 영아의 유해가 어떻게 처리되었는지, 분명한 것은 불명하다.

 일부는 포르말린 담그어로 되고 대학병원에 인도해졌다든가, 휴양소의 부지에 묻혔다고 하는 증언이 있다.(『증언・후쓰카이치 휴양소』인양항・하카타를 생각하는 모임편, 『침묵의 40년』타케다 시게루 타로, 『미즈코의 보』카미츠보 타카시)

 그러나, 촌석씨는, 한 번 병원의 복도로부터 영아의 유해를 묻고 있는 모습을 목격했다.휴양소의 잡무를 하고 있던 연배의 남성이, 벚꽃의 이츠키아래에 묻고 있었다.그 사람은, 어떤 관계가 되는지 작은 아이도 포함해 가족으로 휴양소에 거주하고 있었다고 한다.

 무심하게 작업하는 노인의 옆에는, 담홍색색 뇌를 부풀리고 만개에 다투어 피어, 이윽고 져 가는 벚꽃의 수가 대기하고 있었다.

 종전으로부터 약반년이 지난 1946년 봄의 일로이다.문자 그대로 벚꽃의 이츠키아래에는, 소앞 시체가 무수히 메워지고 있었다.

 일찌기, 오는 날도 오는 날도 낙태된 영아의 유해를 땅 속에 묻는 작업을 반복하고 있던 초로의 남성이 있었다.묵묵히, 봄이 부드러운 햇볕을 받으면서 벚꽃의 근원의 흙을 파, 매장하며 갔던 것이다.

 이 사람은 무엇을 생각해, 흙을 파내고 있었을 것이다…혹은 감히 것 생각하는 것은, 회피하고 있 것일까.

 이렇게 하고 전쟁이 끝날 때마다 누군가가, 매장을 위해 흙을 파내 오지 않으면 안 되었다.그 영위는, 과거부터 현재까지 면들과 반복해지고 있다.

 인양 도상에서, 일본인의 여성이 입은 참화에 대해서는, 주지의 사실로서 널리 알려지고 있다.

 휴양소 창설에 관련된 구경성 제국대학 관계자는, 자살이나 정신 장해가 잇따른 피해 여성의 참상을 보는에 보기 어렵지, 당시 , 낙태는 위법이었음에도 관련되지 않고, 휴양소 개설을 단행했다.후원자가 되는 대학도 잃어, 어느 의미, 자유로운 입장에서 사태에 마주보려고 했다.

 그러나, 구후생성의 입장은, 상위했다.「유인 작전」로 칭해, 대륙으로부터 인양라고 오는 여성들을 항구에서 기미 없게 검사해, 이민족의 피의 유입을 물가에서 막아 성병의 만연을 예방하려는 의도를 가지고, 다친 여성들을 대우하고 있었다.후쓰카이치 휴양소와는 별도로 구후생성은, 큐슈 대학이나 사가의 중원 요양소 등 강제 낙태 시설을 마련하고 있었다.

 패전, 그리고, 그 후의 혼란이 불가피했음에도 관련되지 않고, 국가는 민간인의 보호 등 최초부터 안중에 없었다.그 뿐만 아니라 피해를 당한 여성을 꺼림칙한 것이라도 보도록(듯이) 백안시 해, 문자 그대로 물가에서 처리하며 갔던 것이다.

 영아의 생명은, 엄밀할 정도로 무고인…그러므로, 더욱 더 스스로가 불러 댄 패전의 실상을 눈앞에 엄연히 들이댈 수 있는 것을 회피할 수 있도록 그 존재를 말살한 국가나 그 배후에 있는 공동체의 무언의 기대는, 백일의 원으로 구명되지 않으면 안 되었기 때문에는 없는가.

 당연한 성행이겠지만, 밖으로부터도 늘어뜨려진 전쟁의 종결은, 국가로 해라 민중으로 해라, 표층은 발라 바꿀 수 있어도 잠재하는 의식에 변화는 초래되지 않았다.

 휴양소를 나온 후, 여성들은, 생애에 걸치는 침묵의 봉인을 마음에 부과해, 어떤 바뀔리가 없었다 이 사회로 돌아와 가지 않으면 안 되었다.

 피해 여성의 침묵은, 전후 60년을 거쳐도 풀리지 않았다.

 촌석씨는, 이 진료소에서 1명의 여성을 만났다.온화하고 상냥한 표정의 사람이었다고 한다.

 여기에 옮겨져 온 여성들의 대부분이, 정신과 육체에 처절한 상처를 입어, 말수도 적게 허무적인 눈빛을 하고 있 것 중으로, 상냥하고 미소를 없애지 않았던 사람의 모습은, 마음에 깊은 인상을 남겼다.

 이 여성은, 성병의 치료 때문에, 입소하고 있었다.매독의 3기에 점막까지 손상해, 입술도 다쳐 피부의 표면으로부터 고름이 나와 있는 상태였다.치료라고 해도 아직 당시 , 항생제같은 건 없고, 매일, 세정을 행할 뿐이었다고 한다.병 때문에, 머리카락은 이미 누락, 스님두에 옷감을 turban와 같이 감고 있었다.입소하고 있는 다른 여성들도 중절의 수술 후, 당분간 휴양 하면 얼굴도 포동포동해 오고, 간호사가 머리카락을 결은 주거나 화장품을 빌려 주거나 하기도 했다고 한다.

 그러나, 어느 여성에 대해서도 본명, 연령, 출신지등 찾을 것은 없었다.또, (들)물을 필요도 없었다.촌석씨는, 이 사람에게도, 물론 (듣)묻지 않았다.당시 , 20세에 있던 촌석씨보다 분명하게 년장으로 보였다고 한다.

 담화실에서 실뜨기에 흥미를 느끼거나 타애가 없는 이야기를 하지만, 괴로운 과거가 표정을 흐리게 하는 것 등 없고, 소태의 얼굴은, 언제나 방글방글 상냥하게 웃고 있었다고 한다.혹은, 매독이 이미 뇌증에까지 진행되고 있었을지도 모른다.이 세상의 모든 것으로부터 등져져 혼내줄 수 있어 와도 누구를 원망하는 일 없이, 더욱 상냥하고 온화한 표정이었다.

 이 사람은, 휴양소에 있었을 때, 혹시 태어나고 처음으로, 온화한 누구에게도 시달릴리가 없는 나날의 행복을 씹어 닫고 있었을지도 모른다.놀림감으로 되지 않고, 맞지 않고, 혼내줄 수 있는도 하지 않고…이 세상으로 처음으로 되찾은 육체의 자유로웠기 때문에는 없을까.

 비록, 꺼림칙한 병마에 시달리고 있어도 그 표정은 것 부드럽고, 흐릴 것은 없었다고 한다.

 2005 연말, 찬 바람이 부는 추운 날, 나는, 그 땅을 방문해 보았다.

 휴양소의 철거지에는, 지금, 특별 양호 노인홈사주원, 치쿠시노시 재택간호 지원 센터, 데이 서비스 센터, 방문 간호 스테이션의 시설이 집적해 세우고 있어 1부는, 제생회 후쓰카이치 병원의 주차장이 되고 있다.살그머니 유리 넘어로 건물의 내부에 눈을 주면 고령의 남녀가, 천천히 한 동작으로 기능 훈련을 하고 있었다.



 이웃의 맨션과의 경계 근처, 부지의 구석의 녹음안에 후쓰카이치 휴양소의 관계자를 현창하고, 코지마 케이조우씨에 의해 1981년에 건립된「인의 비」, 그리고 1999년 3월 20일에 구경성 제국대학 창립 705주년 기념으로서 식수 된 1개의 거의 수가 남아 있다.


 한층 더 몇 개의 나무에 둘러싸이고 부지가 후미진 위치에는 단정한 용모의 지장존이, 눌러아이를 써 안아, 적막하게 안치되어 있다.모자상의 전에 세워 있는 양초에 불을 켜 보았다.바람이 있기 때문에인가, 작은 염과 함께 갖추어진 모자의 옆 얼굴이 하늘하늘 흔들리고, 나의 눈에는 비쳤다.





인양 도중의 강간 피해자 47명 가해 남성의 국적은 조선, 소련 등

http://www.news-postseven.com/archives/20150619_328325.html
SAPIO2015 연 7월호 2015.6.19

 과연 한국이 말하는「우리는 항상 피해자」라고 하는 자세는, 정말로 그 대로인가.역사를 되돌아 보면, 한국은 과거 몇 번이나, 일본인에게의 만행을 반복해 왔다.

 11세 때, 조선 북부로부터 간신히 경성에 탈출한 일본계 미국인 작가, 요코・강 시마・와트킨즈(구명・카와시마옹자)의 자전『죽림 아득한 멀고―일본인 소녀 요코의 전쟁체험기』(하트 출판간).인양의 기록을 있는 그대로에 쓴 동서는, 지금부터 약 30년전의 1986년에 미국에서 출판되어 후에 일부의 주에서 중학교의 교재가 되었다.

 하지만, 한국인과 한국계 미국인이 이것에 맹반발.집요한 항의 활동을 반복해, 한국 외교 통상부가 주 정부에 시정을 요구하는 사태로 발전했다.실은 동서는, 2005년에 한국에서도 번역 출판되고 있지만, 이쪽도 발매 금지에 몰리고 있다.한국 주요지도「잘못한『요코의 이야기』배우고 싶지 않은」(조선일보), 「『요코의 이야기』의 최대의 잘못은 가해자와 피해자를 교체한 점」(중앙 일보)라고 제목을 붙인 특집 기사를 게재해, 미디어를 들어 네가티브・캠페인을 실시했다.
 
 재류 방인, 귀환자를 덮친 비극의 흔적은, 일본내에도 남아 있었다.후쿠오카현 치쿠시군 후츠카이치쵸(현치쿠시노시)에 일찌기 존재한『후쓰카이치 휴양소』의 존재다.이 휴양소는, 인양의 도중에 한국인등에 범해져서 임신한 여성의 구제 시설 낙태 수술을 비밀리에 실시하는 병원이었다.당시 , 낙태 수술은 위법(*)이었지만, 시설은 인양 원호청이 1946년 2월에 개설한 것으로, 후생성이「초법규적 조치」로서 묵인하고 있던 측면이 있다.

【*현재도 형법상의 낙태죄는 존치 되고 있지만, 모체 보호법에서는「임신의 계속, 분만이 신체적・경제적 이유에 의해 모체의 건강을 현저하게 해치는 우려가 있는 자」, 「폭행・협박에 의해 저항, 거절하지 못하고 간음 되어 임신한 사람」 등에 대하는 지정의의 처치가 인정되고 있는 】

 동시설의 의무 주임・하시츠메 마사씨에 의한 1946년 6월 10 일자의 보고서에 의하면, 시설의 개설로부터 2개월 사이에 강간 피해자 47명을 치료해, 가해 남성의 국적 내역은「조선 28명, 소련 8명, 시나6명, 미국 3명, 대만・필리핀이 각 1명」였다.1947년의 시설 폐쇄까지, 낙태 수술 건수는 500건에 이르렀다고 한다.

 전시중의 일본인의 잔학성을 온 세상에서 호소하고 있는 한국인은, 이 사실을 어떻게 받아 들이는 것일까.

 일본인이 전시중에 범한 죄는, 진지하게 반성해야 한다.그러나, 그렇다고 해서, 일본인이 받은 잔학행위를, 역사로부터 지워 없앨 수도 있지 않다.바로잡아 나무 역사를 아는 것이, 진정한 일한 우호로 연결되는 것은 아닌가.



미즈코의 보(노래)―문서 인양 고아와 여자들 (현대 교양 문고―베스트・논픽션)

 일찌기 하카타만은 귀환자의 항구에서 만났다.패전 후가 있는 시기, 1393000의 사람들이 이 항구에 상륙했다.쇼와 21년 부산 일본인 도움회의 조사에서는, 여성의 1할이 성범죄 피해자였다.「후쓰카이치 휴양소」라고 하는 것은, 패전 후의 중국 대륙에서 진주 해 온 외국병에게 범해진 여자들을、은밀하게 치료 회복시키는 시설이었다.강간에 의해서 임신해 버린 여자들에게는 낙태 수술을 했다.성병에 걸린 여자들에게는 그 회복까지 여기에 숨겨두고 치료가 이루어졌다.
 인양선 속에서 태어난 한명의 여성의 행방을 저자는 조사하기 시작한다.태어나지 않았으면 낙태 수술을 받고 있었을 것이다 사람이다.그 탄생이 2, 3일 빨랐기(위해)때문에, 그 모친은 괴로워해, 그녀(갓난아기)는 성복 기숙사에서 자라게 되었다.양모의, 살그머니 해 주어 물어라고 주세요라는 말에, 저자는 그녀가 출생에 대한 사실을 알고 있는지 어떤지 확인할 수 없다.저자는 이러한 시설에서 일하고 있던 사람들을 찾아 다닌다.
 여기에 등장하는 사람들의 노력과 성의가, 사는 희망을 없앤 여성이나 고아들에게 사는 힘을 내린 사실.그리고, 침묵을 계속 지킨 전쟁 피해자에게 무겁지만은 다투어진다.



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