鉄道話


【再び空へ-零戦からMRJ(上)前半】
米軍を畏怖させた「ゼロ」 “妥協なき翼”、継承
2014.8.4 08:13

国産小型ジェット旅客機「MRJ」のイメージ図(三菱航空機提供)

 工場の中に一歩足を踏み入れると、想像よりも大きな黄色い機体が目に飛び込んできた。3日、県営名古屋空港(愛知県)のすぐ脇にある三菱重工業の技術試験場。機体は作業用の青色の鉄柱に遮られ、その全貌までは把握できない。しかし、この飛行機こそが、戦後の日本の航空産業がたどりついた到達点であり、未来への出発点でもある。
 「MRJ」(三菱リージョナルジェット)と名づけられたこの飛行機は「YS-11」以来、40年ぶりの国産旅客機だ。プロペラのないジェット機としては初めての国産旅客機となる。年内に初号機の機体が完成、来年6月までに悲願の初飛行という段階まできた。
 「長い間、自分たちの機体を造りたくても造れなかった時代の先輩たちが残した財産を使わせてもらい、ようやくここまできた」
 三菱重工グループの三菱航空機でMRJ開発に長年携わる真保雄一試験管理室長は、試験機を前に感慨深げにこう語った。
 試験場から南へ車で約40分。MRJ開発の司令塔となる三菱航空機本社は、日本の航空産業の“聖地”として知られる。
 本社が置かれているのは名古屋市南部の三菱重工の旧事務所。昭和12年建造の白亜の建物は、「時計台」という通称が示すように、その屋上でモダンなデザインの時計が今も時を刻む。そして、さかのぼること七十余年、三菱重工のエンジニアだった堀越二郎氏が、この時計台3階の「機体設計室」で「零式艦上戦闘機(零戦)」の設計にあたった。ちなみに堀越氏は、昨年ヒットした宮崎駿監督の映画「風立ちぬ」のモデルとなった人物だ。
 「最高速度500キロ、航続力8時間以上。海軍からのこんな厳しい要求に応えるため、堀越氏は軽量化や無駄な抵抗をなくす努力をしたんです」
 三菱重工の名古屋航空宇宙システム製作所史料室長の天野隆司氏(74)は、展示された零戦の復元機を前に、こう解説する。
 東大の鈴木真二教授(航空宇宙工学)は「戦時中に1万機以上が製造された零戦は、開発当時は確実に世界の航空の頂点に位置していた」と語る。高速でも低速でも同じように反応する操縦桿は、高速時に延びるように操縦ケーブルの剛性をあえて低下させた型破りな設計で、「戦後に欧米の航空研究者を驚かせた」(鈴木教授)という。
 ずばぬけた戦闘力は、米軍に「ゼロ(零戦)と格闘戦をしてはならない」という指示を徹底させた。当時の米国の文学には「あの女はゼロよりも手ごわい」「若い女をくどき落とすのは難しくないが、ゼロを落とすのは容易ではない」など、難攻不落のたとえとして零戦を持ち出す表現がみられるほどだ。
 米軍を畏怖させた零戦製造の技術力は今、安全性と快適性に生かされていると、多くの関係者は語る。
 素材へのこだわりも受け継がれている。戦前、戦闘機に求められた耐久性と軽量性を確保するため、住友金属工業は「超々ジュラルミン」という高強度素材を開発した。MRJも、垂直尾翼などに高強度で軽量の最先端素材「炭素繊維」を採用している。
 零戦の開発中には2回の墜落を経験するなど苦労もあったが、堀越氏をはじめ当時の技術者が奮闘し、技術の革新が進んだ。そして、終戦間際には、現在のMRJにも通じる、幻のジェット機が誕生した。



 終戦から70回目の夏を迎えた。戦前、世界屈指のレベルにありながら敗戦によって衰退した日本の航空産業が、ここにきて再浮上のきっかけをつかもうとしている。日本の翼のDNAを3回にわたって紹介する。

三菱重工業名古屋航空宇宙システム製作所史料室に展示されている零戦(復元機)=愛知県豊山町


【再び空へ-零戦からMRJ(上)後半】
終戦間際、幻の「橘花」に積まれた世界初のバイオジェットエンジン「ネ20」
2014.8.4 12:52

報道陣に公開された、MRJの強度試験を行う技術試験場=3日、愛知県豊山町(志儀駒貴撮影)

 終戦をわずか8日後に控えた昭和20年8月7日、東京湾上空を1機の戦闘機が飛行していた。千葉県の木更津基地を飛び立った海軍の特殊戦闘機「橘花」だ。
 橘花は、文字通り“特殊”な戦闘機だった。海軍航空技術廠(空技廠)が開発し、石川島重工業(現IHI)などが生産に携わった日本初のジェットエンジン「ネ20」を搭載。物資不足が背景とはいえ、燃料の一部に松の根から採取した油を使用していた。橘花は、世界初のバイオ燃料を使ったジェット機でもあった。
 「日本のジェットエンジンの開発は米国や英国と比べても進んでいた
 IHI航空宇宙事業本部史料館名誉館長の原田実氏(70)は解説する。当時、ジェットエンジンの研究開発は欧米で活発化していたが、日本も昭和15年ごろには着手していた。
 実用化にいち早く成功したのはナチス・ドイツだ。同盟国である日本は開発技術の入手に動いたが、潜水艦などを使った極秘輸送中に資料が散逸。日本の開発者の元に届いたのは1枚の断面図だけだった。
 それでも、蓄積した研究成果や技術で補完し、ネ20は完成した。ネは「燃焼噴射推進器」の頭文字。日本生まれのジェットエンジンを作るという技術者たちの思いがこもっている。組み立ては群馬県の農家の養蚕小屋などで行われた。
 初飛行から8日後、日本は終戦を迎えた。日本初のジェットエンジンの開発はここでストップした。
 石川島重工が航空エンジン事業に復帰するのは昭和29年。米ゼネラル・エレクトリック(GE)が開発したジェットエンジンの部品生産で技術提携した。当初は単純な交換部品の生産だったが、次第にライセンス生産も手がけていく。
 原田氏は「それが新しい技術を身につけるための唯一の情報収集の方法だった」と指摘する。その中で、品質管理や生産技術などを磨いた。
 「ジェットエンジンを作れなければ、日本は三等国だ」。経団連会長なども務めた元石川島重工社長の土光敏夫氏は、他社が手を引く中、こう言ってジェットエンジンの開発・製造の旗を振ったという。
 現在、航空機用ジェットエンジンの市場はGEなど欧米大手に占有されている。戦後、日本のジェットエンジンの開発が止まっている間も知識や技術を蓄積し続けてきたからだ。
 ただ、IHIは、米ボーイングの「B777X」に搭載予定の世界最大級の推力を持つGEの最新鋭エンジン「GE9X」の開発などにも参画。「日本企業がいなくなれば開発はストップする」といわれるほど、存在感を放っている。
 終戦間際に生まれた日本初のジェット機「橘花」は、結局、たった2機が生産されただけで歴史のひだに埋もれてしまう。しかし、ネ20の開発を指揮し、石川島重工顧問も務めた種子島時休氏は終戦時、こう予言していた。「橘花は1回だけの飛行で消えていくが、将来、ジェット機の時代はやってくる」



【再び空へ-零戦からMRJ(中)】
敗戦で叩きつぶされ…空白の7年経て「YS-11」に継承されたノウハウ
2014.8.5 08:11

戦後初の国産旅客機「YS-11」。生産は、三菱重工業や川崎重工業、富士重工業など日本を代表するメーカーが分担して行った(三菱重工業提供)

 「零式艦上戦闘機(零戦)」の製造などで世界をリードした日本の航空産業は、昭和20年の敗戦後、戦勝国によって完膚なきまでにたたきつぶされた。終戦から約3カ月後の11月18日、GHQ(連合国軍総司令部)は、航空機の生産、研究、実験など全ての活動を禁じる覚書を発表。模型飛行機さえ造らせない徹底ぶりで、財閥解体も相まって、日本の航空産業は“空白の時代”に突入する。
 「航空機製造は、図面だけでは決してできない。先輩たちが、どういう道具を使い、加工をしてきたかといった技術伝承が欠かせない。空白を取り戻すのは大変だった」
 33年の入社以降、機体塗装に40年携わり、現在は三菱重工業の名古屋航空宇宙システム製作所史料室に勤務する伊藤敏彦氏(72)は当時を語る。
 一方、米英などの戦勝国は、ナチス・ドイツが開発を進めてきたジェットエンジンを徹底的に研究するなどしてその実用化を急速に推し進めた。1950年代後半になると、米ボーイング707やダグラスDC-8に代表されるジェット旅客機の時代を迎える。
 日本の航空産業が再浮上のきっかけをつかんだのは、敗戦から7年後の昭和27年。サンフランシスコ講和条約が発効し、航空機の製造禁止が一部解除された。
 そして、朝鮮戦争時の米軍機のオーバーホールなどで少しずつ技術を磨いていく。ただ、「空白の7年間」に生じた世界との差は、すでに埋めがたいレベルに達していた。

 「近代航空機の礎に」
 転機となったのが、34年だ。国産旅客機の製造に向け、半官半民の日本航空機製造(日航製)が設立され、戦後初のプロペラ旅客機「YS-11」の開発が本格化。37年にはついに念願の初飛行を果たす。
 YS-11のチーフエンジニアは東条英機元首相の次男で、三菱重工出身の東条輝雄氏。開発陣として、零戦の設計を担当した堀越(ほりこし)二郎氏ら「5人の侍」と呼ばれる航空技術の精鋭たちがサポートした。
 だが、戦後の空白期間がもたらした影響は大きかった。搭乗したパイロットからは「氷の上を滑るような感じ」「舵の効きがグサグサ」などといった悪評が続出。日航製元エンジニアの山之内憲夫氏(74)は「技術屋がパイロットの言葉を理解できないことが大問題だった」と振り返る。山之内氏はパイロットと技術者の溝を埋めようと、自らテストパイロットの資格を取得した。
 そんな中、「小舵の効きが悪い」といわれた補助翼の問題を独自の空力センスで解決したのは、第二次世界大戦中に海軍航空技術廠で数々の戦闘機の開発に携わり、当時東大教授だった山名正夫氏だ。山之内氏は「戦前の第一線の活躍者がいたことで、彼らの経験を受け継げたことは大きかった」と語る。
 東条氏も横滑りの問題を解決するために主翼の上反角を2度上げる決断をするなど、世代を超えた技術者たちが知恵を結集した。
 伊藤氏も「(海外企業の)ライセンス生産で得たノウハウを生かして仕事を進めた。近代航空機の礎になるような仕事だった」と語る。

 ビジネス視点足りず
 YS-11には「外貨を稼ぐ」という戦後日本のミッションも課されていた。
 「販売のノウハウがなかったため、一からの出発に意気軒高となった」。当時、日航製で海外販売の営業を担い、後に島津製作所社長も務めた矢嶋英敏氏(79)は打ち明ける。
 「1機100万ドルと、競合機より2、3割高かったが、『安全安心』にこだわった機体で、手応えはあった」。単身アフリカまで乗り込んだ矢嶋氏や、商社マンが世界各地で営業、海外の航空会社にも売り込んだ。
 YS-11は182機が製造され、75機が輸出されるという画期的な成果を残し、敗戦国・日本の航空技術の復活を印象づけることになる。
 ただ、初飛行から約10年後の昭和48年、生産中止になる。累積赤字は360億円に上っていたからだ。当時を知るメーカー幹部は「半官半民ということで、ビジネスという視点が足りなかった。航空会社へのサービス体制なども不十分だった」と指摘する。
 その教訓は国産初のジェット旅客機「MRJ」に受け継がれることになる。


【再び空へ-零戦からMRJ(下)】
欧米の仕掛ける「高い壁」に挑め 高度自動化など「日本が先導できる」
2014.8.6 12:15

 “メード・イン・ジャパンの小型ジェット旅客機”の周りには、黒山の人だかりができた。英ファンボローで7月に行われた航空ショー。三菱航空機が売り込みを図る「三菱リージョナルジェット(MRJ)」の模型などが展示されたブースは熱気に包まれていた。
 「まだ実際に飛んでいない飛行機だが、競合機より2割優れた燃費や室内の広さなどの技術面、飛行開始後の具体的なサポート体制をひたすら丁寧に説明することで信頼を少しずつ得てきた」。川井昭陽社長はこう手応えを示す。

採算ライン目前
 航空ショーでは、ミャンマーの「エア・マンダレー」から10機の受注に成功。総受注数はこれで、最大25機の納入を決めている全日本空輸分を含めて335機となった。今後20年で2500機という最終目標にはまだ及ばないものの、100人乗りクラス機の採算ラインとされる400~500機はもう目の前だ。
 航空ショーでは、別の日本企業も脚光を浴びた。米ボーイングの次世代大型旅客機「B777X」に搭載予定の米ゼネラル・エレクトリック(GE)製エンジン「GE9X」。このエンジンの10%以上の開発・製造を担当するIHIだ。
 「確実な収益が見込める将来性のあるプログラム。全社を挙げて取り組む」。GE9Xのセレモニーであいさつに立った満岡次郎航空宇宙事業本部長は笑顔を見せた。IHIのブースには、欧州エアバスの新型機「A320neo」のエンジンに採用される炭素繊維複合材の部品も展示された。
 日本企業は今や、世界の航空機製造の現場で大きな存在となりつつある。ボーイングの最新鋭旅客機「B787」で機体の35%、「777X」でも21%の開発・製造を担当する。特に、燃費が重視される最近の旅客機には、軽量で耐衝撃性能の高い日本製の炭素繊維複合材料が不可欠となっている。

ホンダは半世紀
 MRJに先駆け、平成27年春の初号機納入が視野に入っているのが、ホンダが開発を進めてきたビジネスジェット機「ホンダジェット」だ。創業者の本田宗一郎氏が「軽飛行機を開発したい」と、航空機産業への参入を宣言した昭和37年から実に半世紀の時を経て、ようやく実現する。
 MRJやホンダジェットの開発で、再び世界の空に羽ばたこうとしている日本の航空産業。ただ、MRJのような100人クラスの旅客機は、航空機製造の2強であるボーイングとエアバスが力を入れてこなかったからこそ、参入が可能になったという側面もある。海外メーカー関係者は「日本が100人以上の旅客機に手を伸ばせば、ボーイングやエアバスは確実に潰しに来る」と真顔で話す。

数百万点の部品
 この世界で欧米の壁はまだまだ高い。旅客機の開発には、部品や製造方法の安全性を証明することが不可欠だが、型式証明などのさまざまな基準は欧米で作られる。実際、三菱航空機がMRJの開発に入る直前に、審査基準が一段と厳しくなったという。
 ただ、高い壁を乗り越えて、航空機を国内で製造することの意味は大きい。航空機の部品は数百万点といわれる。2万~3万点とされる自動車部品の数百倍だ。川井社長は「MRJが飛ぶことをきっかけに、国内でも重要部品などを製造する装備品メーカーが育ち、航空産業が日本の国の産業として発展してほしい」と話す。
 足元では、コストを売りにする中国など新興国も追い上げている。東大の鈴木真二教授(航空宇宙工学)は「今後、航空機には高度な自動化がさらに求められる。こうした技術は産官学が連携して日本が先導すべき領域だ」と指摘する。日本は低コスト競争に振り回されるのではなく、付加価値での勝負が求められる。
 戦後70年を来年に控え、日本の航空産業は、再び挑戦の時を迎えている。


 
 この企画は、田村龍彦、那須慎一が担当しました。

http://sankei.jp.msn.com/economy/news/140806/biz14080612150014-n1.htm

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2014年08月03日
強度試験用の機体公開 MRJ、安全性検証

 三菱航空機(名古屋市)は3日、開発している国産初の小型ジェット旅客機「MRJ」(三菱リージョナルジェット)について、飛行時の安全性を検証する試験用機体と試験場(愛知県豊山町)を公開した。離着陸や旋回でかかる負荷を人工的に与え、機体の強度を確かめる。機体はエンジンなどを積んでいない強度試験の専用で、鉄骨を組み上げた高さ13m、幅32m、全長40mの設備で囲まれている。主翼や胴体に専用機具を取り付け、油圧を利用した装置で引っ張るようになっており、旋回などの負荷を想定して荷重をかける。機体内部にも圧縮空気を送り込み、胴体部分にかかる圧力に対する強度もチェックする。「静強度試験」と呼ばれる構造試験の一つで、安全飛行に必要な基準を満たしているかを調べる。近く開始し、1年~1年半で終わらせる考えだ。飛行試験用の機体も開発している。今秋にも完成し、来春には初飛行を予定している。

強度試験用の機体公開 MRJ、安全性検証 <報道陣に公開された小型ジェット旅客機「MRJ」の試験用機体(中央)と試験場 =3日午後、愛知県豊山町>

http://photo.sankei.jp.msn.com/highlight/data/2014/08/03/26mrj/


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三菱「MRJ」、ミャンマーで10機導入 日米以外で初めて
2014.7.16 08:48

 ミャンマーの航空会社、エア・マンダレーは15日、三菱航空機が開発を進める国産初の小型ジェット旅客機「MRJ」(三菱リージョナルジェット)を導入すると発表した。発注数は10機。日米以外の航空会社がMRJの導入を決定するのは初めて。航空需要が拡大するアジアでの導入に弾みがつきそうだ。
 ミャンマーで国内線を運航するエア・マンダレーは、近年の観光客増加などを背景に事業を拡大している。先進的なデザインなどがMRJ導入の決め手になったとしている。発注10機のうち、4機は購入枠を確保するオプション契約となる。
 MRJをめぐっては三菱航空機が14日、アメリカのイースタン航空から新たに40機を受注する見通しになったと発表。全日本空輸など日米の航空会社の発注とあわせ、計365機を受注をしていた。平成27年春の初飛行を目指している。


MRJ - Mitsubishi Regional Jet image
http://www.mrj-japan.com/j/
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日本が100人以上の旅客機に手を伸ばせば、ボーイングやエアバスは確実に潰しに来る

ぜひとも挑戦してみてほしいねぇ。
本当に潰しに来るもんなのか。
( ゜∀゜)b

~ 以上 ~


【 다시 하늘에


【다시 하늘에-영전으로부터 MRJ(상) 전반 】
미군을 공포 시킨「제로 」 “타협없는 날개”, 계승
2014.8.4 08:13

국산 소형 제트 여객기「MRJ」의 이미지도(미츠비시 항공기 제공)

 공장가운데에 한 걸음 발을 디디면, 상상보다 큰 노란 기체가 눈에 뛰어들어 왔다.3일, 현영 나고야 공항(아이치현)의 곧 겨드랑이에 있는 미츠비시중공업의 기술 시험장.기체는 작업용의 청색의 철기둥에 차단해져 그 전모까지는 파악할 수 없다.그러나, 이 비행기가, 전후의 일본의 항공 산업이 간신히 도착한 도달점이며, 미래에의 출발점이기도 하다.
 「MRJ」(미츠비시 리저널 제트)와 이름 붙여진 이 비행기는「YS-11」이래, 40년만의 국산 여객기다.프로펠라가 없는 제트기로서는 첫 국산 여객기가 된다.연내에 창간호기의 기체가 완성, 내년 6월까지 비원의 첫비행이라고 하는 단계까지 왔다.
 「오랫동안, 스스로의 기체를 만들고 싶어도 만들 수 없었던 시대의 선배들이 남긴 재산을 사용해, 간신히 여기까지 온 」
 미츠비시중공 그룹의 미츠비시 항공기로 MRJ 개발에 오랜 세월 종사하는 신보 유이치 시험관사토시 실장은, 시험기를 앞에 두고 감개 무량에 이렇게 말했다.
 시험장으로부터 남쪽에 차로 약 40분.MRJ 개발의 사령탑이 되는 미츠비시 항공기 본사는, 일본의 항공 산업의“성지”로서 알려진다.
 본사가 놓여져?`「의 것은 나고야시 남부의 미츠비시중공의 구사무소.쇼와 12년 건조의 백악의 건물은, 「시계탑」라고 하는 통칭이 나타내 보이도록(듯이), 그 옥상에서 모던한 디자인의 시계가 지금도 때를 새긴다.그리고, 거슬러 올라가는 것 70여년, 미츠비시중공의 엔지니어였던 호리코시 지로씨가, 이 시계탑 3층의「기체 설계실」로「영식함상 전투기(영전)」의 설계에 해당했다.덧붙여서 호리코시씨는, 작년 히트 한 미야자키 하야오 감독의 영화「가제타치누」의 모델이 된 인물이다.
 「최고속도 500킬로, 항속력 8시간 이상.해군으로부터의 이런 어려운 요구에 응하기 위해, 호리코시씨는 경량화나 쓸데 없는 저항을 없애는 노력을 했습니다 」
 미츠비시중공의 나고야 항공 우주 시스템 제작소 사료 실장 아마노 타카시씨(74)는, 전시된 영전의 복원기를 앞에 두고, 이렇게 해설한다.
 도쿄대학의 스즈키 신지 교수(항공 우주 공학)는 「전시중에 1만기 이상이 제조된 영전은, 개발 당시는 확실히 세계의 항공의 정점으로 위치하고 있던」라고 말한다.고속으로 도 저속에서도 똑같이 반응하는 조종간은, 고속시에 늘어나도록(듯이) 조종 케이블의 강성을 굳이 저하시킨 파격적인 설계로, 「전후에 구미의 항공 연구자를 놀래킨」(스즈키 교수)라고 한다.
 뛰어나게 우수한 전투력은, 미군에 「제로(영전)와 격투전을 해서는 안 되는」라고 하는 지시를 철저하게 했다.당시의 미국의 문학에는 「그 여자는 제로보다 벅찬」「젊은 여자를 굴뚝나무 떨어뜨리는 것은 어렵지 않지만, 제로를 떨어뜨리는 것은 용이하지 않은」 등, 난공불락의 비록으로서 영전을 꺼내는 표현이 보일 정도다.
 미군을 공포 시킨 영전 제조의 기술력은 지금, 안전성과 쾌적성에 활용되고 있으면, 많은 관계자는 말한다.
 소재에의 조건도 계승해지고 있다.전쟁 전, 전투기에 요구된 내구성과 경량성을 확보하기 위해(때문에), 스미토모 금속공업은 「초들듀랄민」라고 하는 고강도 소재를 개발했다.MRJ도, 수직꼬리 등에 고강도로 경량의 최첨단 소재「탄소섬유」를 채용하고 있다.
 영전의 개발중에는 2회의 추락을 경험하는 등 고생도 있었지만, 호리코시씨를 시작해 당시의 기술자가 분투해, 기술의 혁신이 진행되었다.그리고, 종전 직전에는, 현재의 MRJ에도 통하는, 환상의 제트기가 탄생했다.



 종전으로부터 70번째의 여름을 맞이했다.전쟁 전, 세계 굴지의 레벨에 있으면서 패전에 의해서 쇠퇴한 일본의 항공 산업이, 지금에 와서 재부상의 계기를 잡으려 하고 있다.일본의 날개의 DNA를 3회에 걸쳐서 소개한다.

미츠비시중공업 나고야 항공 우주 시스템 제작소 사료실에 전시되고 있는 영전(복원기)=아이치현 토요야마쵸

http://sankei.jp.msn.com/economy/news/140804/biz14080408130001-n1.htm

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【다시 하늘에-영전으로부터 MRJ(상) 후반 】
종전 직전, 환상의「귤화」에 쌓아진 세계 최초의 바이오 제트 엔진「네 20 」
2014.8.4 12:52

보도진에 공개된, MRJ의 강도 시험을 실시하는 기술 시험장=3일, 아이치현 토요야마쵸(시기구귀촬영)

 종전을 불과 8일 후에 앞둔 쇼와 20년 8월 7일, 도쿄만 상공을 1기의 전투기가 비행하고 있었다.치바현의 키사라즈 기지를 날아 오른 해군의 특수 전투기「귤화」다.
 귤화는, 문자 그대로“특수”전투기였다.해군 항공 기술창(하늘기술창)이 개발해, 이시카와섬중공업(현IHI)등이 생산에 종사한 일본 최초의 제트 엔진「네 20」를 탑재.물자 부족이 배경이라고 해도, 연료의 일부에 송의 도무지 채취한 기름을 사용하고 있었다.귤화는,세계 최초의 바이오 연료를 사용한 제트기이기도 했다.
 「일본의 제트 엔진의 개발은 미국이나 영국(윳


TOTAL: 5156

番号 タイトル ライター 参照 推薦
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