悩みの相談 FreeStyle

「反日韓国に未来はない」という呉善花さんの悩み

 

 

呉善花著「反日韓国に未来はない」より

 

 

いったいどこに「鬼畜のごとき」日本人がいたのか

 

  日本統治時代に生活していた韓国のお年寄りには、日本人に悪感情を抱いている人は圧倒的に少ないといえます。日本人と直接つき合いのあった人はだいたいが日本や日本人に親しい気持ちをもっています。たとえば「学校での生活はどうでしたか」と聞いて、嫌な思いをしたという話はほとんどありません。大部分の人が「日本人の先生にいい先生が多かった」といいます。

  日本人からの聞き書き調査では、こんな内容の発言もあります。

「韓国の青年たちが近所の川辺などで凧揚げをしているのを見て、とてもうらやましいと思っていたら、彼らはうまく凧を揚げる方法をいろいろ教えてくれた」

「当時、日本人も朝鮮人も関係なかった。学校では、韓国人の先輩に、厳しく、服装などの問題で指導されたが、それがいつも怖かった」

  こうした証言は、民衆レベルでは、実に当たり前の生活観が存在していたという証拠でしょう。だからこそ、直接日本人と接したことのある韓国人ほど親日派が多いのです。

  それに敗戦後、日本人が日本に帰るときに、日本人に対する暴動も起きなければ、略奪行為もほとんど起こっていないのです。当時は、日本の軍事・警察機構は解体され、韓国の警察はほとんど機能していなかった時期です。もし、統治時代に日本人が韓国人に対して酷いことをしていたのならば、日本人の家に暴徒が殺到し、略奪行為が起きていても不思議ではなかったはずです。ところが、ほとんどの人が、そんなことは全くなかった。噂すら聞いたことがないと言っているのです。

  それどころか、日本が負けて、これから彼らはどうなるのだろうと心配しながら、ソウルから釜山まで日本人一家の荷物を運んだ韓国人もいます。また朝鮮生活の長かった日本人からは、親しくつき合っていた韓国人一家と別れるのが辛くて、仁川の波止場でお互いに泣くだけ泣いて別れたという話をたびたび聞かされました。

  私は、そんな話を聞いてホッとすると同時に、反日教育で教えられたようなひどい統治があったと考えることにはどうしても無理があることに気付かされました。実際の生活で日本人とつき合った体験のある人々に親日傾向が強く、実際の体験のない人々に反日傾向が強いということは、まさに私の実感ともピッタリ合うものです。

  こんなおかしなことがなぜ起きるのでしょうか?

  私が強く感じるのは、日本統治時代の朝鮮を語る際に、「政治史・制度史」だけが重視され、生活の十井については、それに役立つ限りで「資料」として採用されるにすぎない、ということです。逆にいえば、日本統治時代の朝鮮理解は、社会史・生活史などは不要であるという考えに強く支配されているということです。

  そのように政治的観点が重視されるあまり、日本統治時代のことは、すべて政治的に語ればよしとされ、社会的な現実など取るに足りないこととされてしまっているのです。

  もちろん、一つの時代を語るのに、政治史・制度史は重要なものです。しかし私は、実際にその時代を生きた人々の社会史・生活史もまた、政治史・制度史に匹敵するほど、あるいは場合によっては、それ以上に自由様なものだと思うのです。

  この本を書き終え、私は韓国でも日本でも多くの場合「悪辣な日本統治」を描き出すのに少しでも役立つ材料だけが切り取られてきて、それ以外の材料はすべて捨てられてしまい、それが歴史となっていたことを、疑う余地なくはっきりと確信することができたように思います

 

 

両親に教えられた日本人

 

  私の両親には戦前の日本で生活していた時期がありました。母は1415歳のころ、韓国の済州島から日本の大阪に渡っています。昭和10年代の始めのことでした。そして、大阪のプラスチック製造工場を営む2人の兄を手伝ったのです。2、3年、日本で生活した母は、16歳のとき故郷に戻りますが、父と結婚するとすぐ、今度は鹿児島へ渡り、父の兄弟が経営する箸の製造工場の仕事をすることになりました。長女はそこで生まれたのですが、終戦までの数年間を日本で過ごしたのです。

叔父一家(5人)と父一家(3人)は、3人家族の日本人の家に間借りしていました。父母や叔父たちがいうには、「その家族も近所の人たちもたいへん親切にしてくれた。何かといっては果物やミカンをくれたりしたし、畑をただで貸してくれて野菜を自給することもできた」といっていました。

やがて戦争になり空襲が始まると、日本人は防空壕を掘ったのですが、その家の主人は叔父や父母たち韓国人家族も入れる大きな防空壕を掘り、防空頭巾を作ってくれ、アメリカの飛行機が来ると、いつも子供たちを先頭にしてみんなを先に防空壕へ入れ、自分はいちばん最後に入ったそうです。

戦争が終わって、叔父と父母の一家は、済州島へ帰ることになりましたが、その日本人家族は涙を流して別れを惜しんでくれ、自分たちも、お世話になったことを感謝し、泣くだけ泣いて別れてきたのだそうです。

その後、済州島で生まれた私は、両親から「日本人はとても親切な人たちだった」と聞かされて育つこととなりました。母は「日本のミカンはとても甘くておいしい」と話していました。そのころ、韓国でとれるミカンは酸っぱい味しかしませんでしたから、幼いころの私は、日本に行って、甘いミカンをいっぱい食べたいと思ったものです。また、当時、韓国ではお風呂に入る習慣がありませんでした。だから、母から、日本のお風呂や銭湯、温泉の話を聞いてとてもうらやましく思ったものです。日本に行って、甘いミカンを食べ、温泉に入る……それが私の夢でした。

また、私は母から口移しで教えられた日本語をいくらかしゃべれました。村のお祭りのときには、巫女さんが私を呼んで「日本語を言わせる」のが恒例になっていて、みんなの前でいくつかの日本語の単語を発しては拍手喝采を受けたものです。幼いころの私にとって、日本はとても親しい気持ちをもてる国であり、いつかは行きたい憧れの国としてイメージされていたのです。

そのように、親の世代から教わる日本人像には鬼のように悪辣な、ひどい国民だといったイメージはまったくありませんでした。しかし、学校で強烈な反日教育を受けているうちに、私のなかから、そうした日本への「いいイメージ」はいつしか消えていきました。

すでに述べましたように、韓国では「田舎者ほど反日意識が弱いのは無学だからだ」などと言われていました。逆に「高い教育を受けた者ほど反日意識の強い愛国者である」と見られていたのです。大人たちから「勉強ができるいい子だ。上の学校に進む優秀な子だ」と言われれば、「それにふさわしい反日意識を強く持たなければならない」と子供心に思ったものでした。

その結果、私は親に対して誤った気持ちを抱いてしまいました。

「日本人は親切だ、なんて私にいい聞かせていた親たちは、みんな無学な田舎者だったのだ。日本人が本当はどれほど残酷なことを韓国に対して行なってきたかを教わってこなかったから、何も分かっていないのだ」

  私が特別だったわけではありません。韓国で教育を受けたすべての子供たちが、日本に対して、そうした気持ちを抱くようになっていたのです。

 

 

証言から浮かび上がる「普通」の関係

 

  私は小さいころから親たちの世代の大人から「日本人との良き関係」の体験をたびたび聞かされていたのに、そのことは長い間すっかり記憶の彼方に去っていました。それが日本人への聞き書きの仕事をやっていくなかで、ありありと甦ってきたのです。終戦となって朝鮮から日本へ引き揚げるときに、韓国人にいかに親切にしてもらったか、そしてどれだけ知り合いの韓国人と涙を流して別れを惜しんだかということを、私が聞いた日本人全員が切々と語ってくれています。それだけでも、その背景にどれだけ親しい関係があったかがよく理解できます。

 

「私の総督府勤務では、江原道の地方課長がいちばん長かったのですが、そのとき仕えた知事の劉鴻洵さんに教えていただいたことが一番印象に残っています。……実に立派な方で私は心から尊敬していました。中国の史記に登場する徳の高い名君のような印象を与える方でした」(大師堂経慰さん)

 

「私はソウルで生まれて生年になるまでソウルで生きてきましたが、日本人と韓国人が基本的に仲良く生きてきたということは、双方の民族にとって誇るべきことだと思っています」(吉田多江さん)

 

「学校では生徒たちからも先生たちからも、差別されたことはありません……ある奴なんかは、電話をかけてくるときも(今も)韓国語でかけてきますよ。今なおそれほど親しくつき合っている日本人の同期生が何人もいる、ということです。商業学校の恩師2人は、とても尊敬できる方でした。……当時の日本人は本当に質素でした。(私が勤務していた)銀行の食堂では日本式の食事をして、下宿先では韓国式の食事をしていました。私自身は当時、日本人に対して悪い印象は、まったく持っていませんでした」(朴承復さん)

 

「クラスでは『お前は日本人、ぼくは韓国人』という区分があるだけで、なんら差別的なことはありませんでした。……当時、日本人に対して特別な不満はありませんでしたし、日本人と朝鮮人のトラブルもあまり聞いたことがありません。……とくに田舎では、日本人は朝鮮人が怖くてかってなことはできませんでした。だから日本人から差別されたなどの問題もなかったのです」(朴錘植さん)

 

  こうした「よき関係」がすべてだったとはけっして思いません。しかし、私がインタビューした日韓15人の発言からは、ごく一般的に「よき関係」が存在していたであろうことを十分に推察することができるのです。

  韓国の上級生から日本人の下級生が叱られた話、町で韓国人に喧嘩をふっかけられて大怪我した話、韓半島北部から帰還するのに知り合いの韓国人が「命をかけて」助けてくれた話、小さいころ仲良く一緒に凧揚げをした話、韓国人の大人に鷹狩りに連れていってもらった話……そしていまなお、彼ら日本人の多くが当時の韓国人たちと親密につき合っているのです。

  これは人間同士ならどこにでもある、「普通」の人たちの生活感覚に根ざした関係が、厳然として存在していた証拠なのではないでしょうか。

  そして、朝鮮の若い女性たちを連行して「従軍慰安婦」に仕立てあげたという「説」については、日本人全員が「ありえないこと」と強く反発しています。

 

「もしそんなことをしたら誘拐犯ですし、懲役刑を受けることになります。いや、法律の問題以前に、村の人たちにめちゃめちゃにされてしまいますよ。強制的に連れて行かれる娘を見ながら、そのまま放っておくような卑劣な朝鮮人がいたとはけっして思えません。田舎であればあるほど、生活者の連帯意識も民族意識も強くて、そんな彼らが我慢して黙って見ているわけがありません。彼らの民族愛がいかに強かったかは、私はいろいろな場面で見てきていますし、今でも鮮明に覚えています。そんな世界で女狩りなんてできるはずがないんです」(阿部元俊さん)

 

  私が韓国にいた間、昨今いわれるような「従軍慰安婦」の話を一切耳にしたことがなかった意味が、ようやく分かったと思いました。

  そして私がインタビューした全員が、「自分に当時の話を聞きに来た人は、あなた以外に一人もいなかった」と語っていました。いかに当事者抜きで植民地問題が語られていたかということです。その結果見えてきたことは、日韓両国に横たわっている「悪印象」が、いかに「実態抜き」に語られていたかという事実だったのです。

 

 

戦時体制下の統治政策をどう考えるか

 

  日本の罪としてよく持ち出されるのは、「皇民化教育の強制」「創氏改名の強制」「神社参拝の強制」「徴用という名の強制連行」「朝鮮人を戦地に送り込んだ徴兵制」などです。しかし、いずれの「強制」も、日韓両者の話を総合してみると、身の危険が迫り来るような弾圧下で行なわれたのではなかったことがよくわかります。統治側が法令を発し、多くの韓国人がとくに強い抵抗姿勢を見せることなく、ともかくも従った。それが現実の姿でした。

  それを忍従といおうと、あるいは抵抗を秘めた忍従といおうと、暴圧をもっての強制はなく、しかも強い抵抗姿勢を見せずに法に従ったという事実は、いったい当時のどんな現実を物語るものなのでしょうか。その問いを韓国人自身が自らに向けてみなくてはならないと思いました。

  これはとても重要なことです。

  たとえば、「強制的に日本語を教えられ、言語を抹殺された」言われていますが、日本語教育の「強制」は日本統治時代の最後になって、戦時体制上の都合から行なわれたものです。それも学校だけのことで、家に帰ったときまで韓国語で喋ってはいけないという制限があったわけではありませんでした。ですから、ちょうどその時期に学校へ通っていた人たちだけが、日本語を読み書きできるのです。学校に行っていない人たちは、日本語が全然わからない。そのことからも、「言語を抹殺された」という表現が、いかに事実に反するものかがわかるでしょう。

  余談ですが、そもそも、韓国が文化として世界に誇っているハングルにしても、1443年に作られていたものの、ほとんど使われていなかったのですが、日本統治時代の学校制度によって本格的に普及したのです。

  自ら志願して兵士となった韓国人が多数いたという事実も、私には思いもよらないことでした。思いもよらないというのは、そんなはずがないという思い込みがあったからです。この話を聞いて、戦地におもむいた当時の韓国の若者たちのことが思われ、人間とはそういうものだ、やはり彼らもそうだったんだと胸が熱くなりました。

「日本の戦争」には違いないけれども、敵に攻められれば、死ぬのは日本人だろうと韓国人だろうと関係はありません。郷土や家族を守るために自ら志願して兵士となり、日本人と一緒に敵と戦おうとした韓国人が少なくなかったのは、当然のことだったのです。そういう人たちがいなかったというのならば、逆にそれは実に恥ずべきことではないでしょうか。

  陸軍特別志願兵制(昭和13年4月実施)、海軍特別志願兵制(昭和18年10月実施)、学徒兵徴募(昭和18年10月実施)への朝鮮人の志願状況は、次のようになっています。

  

年度

採用数

応募数

倍率

昭和13年

406人

2,946人

7.7

昭和14年

613人

12,348人

20.1

昭和15年

3,060人

84,443人

27.6

昭和16年

3,208人

144,743人

45.1

昭和17年

4,077人

254,273人

62.4

昭和18年

6,300人

303,394人

48.2

 

 

  そして昭和19年4月には朝鮮人に徴兵制度が実施されましたが、実際に徴兵された朝鮮人軍人・軍属は24万2341人、うち戦死者は2万2182人という数字が残っています。

  徴兵制実施以前の志願兵の採用数は1万7664人ですが、注目すべきは志願者数でしょう。厳しい倍率にもかかわらず延べ80万2147人もの青年が志願しているのです。戦時中の応募者数も、徴兵制実施後に実際に徴兵された24万2341人を上回っていたということは、いったい何を物語っているのでしょうか。

  韓国では、この志願制も事実上の徴兵制だったと主張していますが、本当に強制だったとしたら、これほどの「入りにくい」高い倍率をどう考えればいいのでしょうか。どう考えても、郷土や家族を守ろうと、自分の意志で日本軍兵士として戦地に赴いた青年が多かったとしか思えません。

「強制連行」という名で呼ばれる徴用の問題が起きたのは、戦争末期の2年間のことです。アメリカとの戦争が始まって「内鮮一体」政策が急速に進み、朝鮮人もさまざまな形で戦時体制に協力させられていったことは確かです。しかしそれは、アメリカとの戦争という異常事態を迎えて起きたことで、平和時の朝鮮統治下ではそんなことはけっしてありませんでした。そこのところをきちんと区別して考えなくてはなりません。

  そうであるのに、戦後の韓国では、戦争末期の2~3年のできごとをもって、それがあたかも日本による朝鮮統治のすべてであったかのように語られているのです。

  たしかに戦争当時は、日本人も韓国人も戦時体制を支えるために、炭坑や工場で稼働させる労働力としてたくさんの人々が徴用されました。これは最初から強制だったのではなく、男子労働者については昭和14年9月から一般募集が始まり、昭和17年3月から官斡旋となり、昭和19年3月から徴用という具合に、しだいに強制性が強まっていったものです。

  募集や官斡旋では行くか行かないかは本人の自由でしたが、徴用では徴用令書によって指定された日時に指定された場所に集合することが命じられました。これを拒否したり逃亡した場合には、国家総動員法違反として逮捕され、処罰の対象になりました。罰則は1年以下の懲役で、日本人・韓国人の区別なく適用されました。実際には、一、二度の拒否で逮捕されるようなことはなく、何度も拒否した者を逮捕したようです。

  そういうわけですから、日本の教科書の一部にあるように、警官や軍隊が武力をもって追い立てるようにトラックに乗せて連れ去ったとか、手錠をはめて連れ去ったとかなどの事実があったわけではありません。少なくても私の聞き書きではそんな状況を見たことがある、聞いたことがあるといった人は一人もいませんでした。

  もちろん徴用に対する強固な抵抗運動などもまったくありませんでした。ですから、韓国人も日本人も、いやだけれども戦時だから仕方なく従った。というのが大方のところだと思います。

  一部の知識人たちは遠く離れた国外で抵抗運動を続けましたが、国内にいた民衆は戦時下の徴用にすら抵抗運動を展開することはありませんでした。では、国外で抵抗運動をしていた知識人は賢くて勇敢で、国内で実際に生活していた民衆は愚かでだらしない人々だったというのでしょうか。そんなばかな話はないのです。

 

 

ところで、これも嫌韓スレなのでしょうか?


반일 한국에 미래는 없다 by 오선화

「반일 한국에 미래는 없다」라고 하는 오선화씨의 고민

 

 

오선화저「반일 한국에 미래는 없다」보다

 

 

도대체 어디에 「귀축과 같은」일본인이 있었는가

 

  일본 통치 시대에 생활하고 있던 한국의 노인에게는, 일본인에 악감정을 안고 있는 사람은 압도적으로 적다고 말할 수 있습니다.일본인과 직접 붙어 있는합 있어가 있던 사람은 대체로가 일본이나 일본인에 친한 기분을 갖고 있습니다.예를 들어 「학교에서의 생활은 어땠습니까」라고 (듣)묻고, 불쾌한 기분이 들었다고 하는 이야기는 거의 없습니다.대부분의 사람이 「일본인의 선생님에게 좋은 선생님이 많았다」라고 합니다.

  일본인으로부터의 기록 조사에서는, 이런 내용의 발언도 있습니다.

「한국의 청년들이 근처의 강변등에서 연날리기를 하고 있는 것을 보고, 매우 부럽다고 생각하면, 그들은 잘 연을 올리는 방법을 여러 가지 가르쳐 주었다」

「당시 , 일본인이나 한국인도 관계없었다.학교에서는, 한국인의 선배에게, 어렵고, 복장등의 문제로 지도되었지만, 그것이 언제나 무서웠다」

  이러한 증언은, 민중 레벨에서는, 실로 당연한 생활관이 존재하고 있었다고 하는 증거지요.그러니까, 직접 일본인과 접한 것이 있는 한국인(정도)만큼 친일파가 많습니다.

  거기에 패전 후, 일본인이 일본에 돌아갈 때, 일본인에 대한 폭동도 일어나지 않으면, 약탈 행위도 거의 일어나지 않습니다.당시는, 일본의 군사·경찰 기구는 해체되어 한국의 경찰은 거의 기능하지 않았던 시기입니다.만약, 통치 시대에 일본인이 한국인에 대해서 심한 것을 하고 있던 것이라면, 일본인의 집에 폭도가 쇄도해, 약탈 행위가 일어나고 있어도 이상하지 않았을 것입니다.그런데 , 대부분의 사람이, 그런 일은 전혀 없었다.소문조차 (들)물었던 적이 없다고 합니다.

  그 뿐만 아니라, 일본이 지고, 지금부터 그들은 어떻게 되는 것일까라고 걱정하면서, 서울에서 부산까지 일본인 일가의 짐을 옮긴 한국인도 있습니다.또 조선 생활의 길었던 일본인에게서는, 친하게 사귀고 있던 한국인 일가와 헤어지는 것이 괴로워서, 인천의 부두에서 서로 울 만큼 울어 헤어졌다고 하는 이야기를 가끔 들었습니다.

  나는, 그런 이야기를 들어 마음이 놓이는 것과 동시에, 반일 교육으로 가르칠 수 있던 것 같은 심한 통치가 있었다고 생각하는 것에는 아무래도 무리가 있는 것에 전교인가 되었습니다.실제의 생활로 일본인과 사귄 체험이 있는 사람들에게 친일 경향이 강하고, 실제의 체험이 없는 사람들에게 반일 경향이 강하다고 하는 것은, 확실히 나의 실감과도 꼭 맞는 것입니다.

  이런 이상한 일이 왜 일어나는 것입니까?

  내가 강하게 느끼는 것은, 일본 통치 시대의 조선을 말할 때에, 「정치사·제도사」만이 중시되어 생활의 10 우물에 대해서는, 거기에 도움이 되는 한으로 「자료」로서 채용되는 것에 지나지 않는, 이라고 하는 것입니다.반대로 말하면, 일본 통치 시대의 조선 이해는, 사회사·생활사 등은 불필요하다라고 말하는 생각에 강하게 지배되고 있다고 하는 것입니다.

  그처럼 정치적 관점이 중시된 나머지, 일본 통치 시대의 일은, 모두 정치적으로 말하면 좋아로 여겨져 사회적인 현실 등 보잘것없는 것으로 여겨져 버리고 있습니다.

  물론, 하나의 시대를 말하는데, 정치사·제도사는 중요한 것입니다.그러나 나는, 실제로 그 시대를 산 사람들의 사회사·생활사도 또, 정치사·제도사에 필적하는 만큼, 혹은 경우에 따라서는, 그 이상으로 자유 같은 것이라고 생각합니다.

  이 책을 써 끝내 나는 한국에서도 일본에서도 많은 경우 「악랄한 일본 통치」를 그려내는데 조금이라도 도움이 되는 재료만이 잘라내져 오고, 그 이외의 재료는 모두 버려져 버려, 그것이 역사가 되고 있던 것을, 의심하는 여지 없지는 송곳이라고 확신할 수 있던 것처럼 생각합니다.

 

 

부모님에게 배운 일본인

 

  나의 부모님에게는 전쟁 전의 일본에서 생활하고 있었던 시기가 있었습니다.어머니는14~15나이의 무렵, 한국의 제주도로부터 일본의 오사카에 건너고 있습니다.쇼와10연대의 초로 했다.그리고, 오사카의 플라스틱 제조 공장을 영위하는 2명의 형(오빠)를 도왔습니다.2, 3년, 일본에서 생활한 어머니는,16나이 때 고향으로 돌아옵니다만, 아버지와 결혼하자마자, 이번은 카고시마에 건너, 아버지의 형제가 경영하는 젓가락의 제조 공장의 일을 하게 되었습니다.장녀는 거기서 태어났습니다만, 종전까지의 몇 년간을 일본에서 지냈습니다.

숙부 일가(5명)와 아버지 일가(3명)는, 3 인가족의 일본인의 집에 셋방하고 있었습니다.부모나 숙부들이 말하려면 , 「그 가족도 근처의 사람들도 매우 친절하게 해 주었다.무엇인가 말해 과일이나 귤을 주거나 했고, 밭을 공짜로 빌려 주어 야채를 자급할 수도 있었다」라고 하고 있었습니다.

이윽고 전쟁이 되어 공습이 시작되면, 일본인은 방공호를 팠습니다만, 그 집의 주인은 숙부나 부모들한국인 가족도 넣는 큰 방공호를 파, 방공 두건을 만들어 주어 미국의 비행기가 오면, 언제나 아이들을 선두로 해 모두를 먼저 방공호에 들어갈 수 있어 자신은 가장 마지막에 들어갔다고 합니다.

전쟁이 끝나고, 숙부와 부모의 일가는, 제주도로 돌아가게 되었습니다만, 그 일본 인가족은 눈물을 흘리고 이별을 아까워해 주어 스스로도, 신세를 진 것을 감사해, 울 만큼 울어 헤어져 왔던 것이다 합니다.

그 후, 제주도에서 태어난 나는, 부모님으로부터 「일본인은 매우 친절한 사람들이었다」라고 들어 자라게 되었습니다.어머니는 「일본의 귤은 매우 달고 맛있다」라고 이야기하고 있었습니다.그 당시, 한국에서 취할 수 있는 귤은 시큼한 맛 밖에 하지 않았기 때문에, 어렸을 적의 나는, 일본에 가서, 단 귤을 가득 먹고 싶음 것 입니다.또, 당시 , 한국에서는 목욕을 하는 습관이 없었습니다.그러니까, 어머니로부터, 일본의 욕실이나 목욕탕, 온천의 이야기를 들어 매우 부럽다고 생각한 것입니다.일본에 가서, 단 귤을 먹고 온천에 들어가는……그것이 나의 꿈이었습니다.

또, 나는 어머니로부터 구전으로 가르칠 수 있던 일본어를 얼마인가 말할 수 있었습니다.마을의 축제 때에는, 무녀씨가 나를 불러 「일본어를 말하게 한다」 것이 항례가 되어 있고, 모두의 앞에서 몇개의 일본어의 단어를 발표해 박수 갈채를 받은 것입니다.어렸을 적의 나에게 있어서, 일본은 매우 친한 기분도 비치는 나라이며, 언젠가는 가고 싶은 동경의 나라로서 이미지 되고 있었습니다.

그처럼, 부모의 세대부터 배우는 일본인상에는 귀신과 같이 악랄한, 심한 국민이라고 한 이미지는 전혀 없었습니다.그러나, 학교에서 강렬한 반일 교육을 받고 있을 때에, 나 속으로부터, 그러한 일본에의 「좋은 이미지」는 어느덧 사라져서 갔습니다.

벌써 말했듯이, 한국에서는 「시골자만큼 반일 의식이 약한 것은 무학이기 때문이다」 등이라고 말해졌습니다.반대로 「높은 교육을 받은 사람만큼 반일 의식의 강한 애국자이다」라고 보여지고 있었습니다.어른들로부터 「공부를 잘하는 좋은 아이다.위의 학교에 진학하는 우수한 아이다」라고 해지면, 「거기에 적격인 반일 의식을 강하게 가지지 않으면 안 된다」라고 어린 생각으로 생각한 것이었습니다.

그 결과, 나는 부모에 대해서 잘못된 기분을 안아 버렸습니다.

「일본인은 친절하다, 뭐라고 하는 나에게 좋은 들려주고 있던 부모들은, 모두 무학인 시골자였던 것이다.일본인이 사실은 얼마나 잔혹한 일을 한국에 대해서 행해 왔는지를 배워 오지 않았으니까, 아무것도 모르는 것이다」

  내가 특별이었던 (뜻)이유가 아닙니다.한국에서 교육을 받은 모든 아이들이, 일본에 대해서, 그러한 기분을 안게 되어 있었습니다.

 

 

증언으로부터 떠오르는 「보통」의 관계

 

  나는 어릴 때부터 부모들의 세대의 어른으로부터 「일본인과의 좋은 관계」의 체험을 가끔 듣고 있었는데, 그것은 오랫동안 완전히 기억의 저 멀리 떠나고 있었습니다.그것이 일본인에게의 기록의 일을 해 나가는 가운데, 역력히소는 왔습니다.종전이 되어 조선으로부터 일본에 돌아올 때, 한국인에 얼마나 친절하게 받았는지, 그리고 얼마나 아는 사람의 한국인과 눈물을 흘리고 이별을 아까워했는가라는 것을, 내가 (들)물은 일본인 전원이 절들이라고 말해 주고 있습니다.그 정도 만으로, 그 배경으로 얼마나 친한 관계가 있었는지가 잘 이해할 수 있습니다.

 

「 나의 총독부 근무에서는, 강원도의 지방 과장이 가장 길었습니다만, 그 때 시중든 지사의 류홍순씨가 가르쳐 주셨던 것이 제일 인상에 남아 있습니다.……실로 훌륭한 분으로 나는 진심으로 존경하고 있었습니다.중국의 사기에 등장하는 덕의 높은 명군과 같은 인상을 주는 분이었습니다」(다이시도우경위씨)

 

「 나는 서울에서 태어나 생년이 될 때까지 서울에서 살아 왔습니다만, 일본인과 한국인이 기본적으로 사이 좋게 살아 왔다고 하는 것은, 쌍방의 민족에게 있어서 자랑해야 할 일이라고 생각합니다」(요시다다강씨)

 

「학교에서는 학생들로부터도 선생님들로부터도, 차별되었던 적은 없습니다……있는 놈은, 전화를 걸어 올 때도(지금도) 한국어 나가 와요.지금 더 그만큼 친하게 사귀고 있는 일본인의 동기생이 몇 사람이나 있다, 라고 하는 것입니다.상업학교의 은사 2명은, 매우 존경할 수 있는 분이었습니다.……당시의 일본인은 정말로 검소했습니다.(내가 근무하고 있던) 은행의 식당에서는 일본식의 식사를 하고, 하숙처에서는 한국식의 식사를 하고 있었습니다.나 자신은 당시 , 일본인에 대해서 나쁜 인상은, 전혀 가지고 있지 않았습니다」(박승복씨)

 

「클래스에서는 「너는 일본인, 나는 한국인」이라고 하는 구분이 있는 것만으로, 어떤 차별적인 (일)것은 없었습니다.……당시 , 일본인에 대해서 특별한 불만은 없어 , 일본인과 한국인의 트러블도 별로 (들)물었던 적이 없습니다.……특히 시골에서는, 일본인은 한국인이 무섭고 제멋대로인 (일)것은 할 수 없었습니다.그러니까 일본인으로부터 차별되었다는 등의 문제도 없었습니다」(박추식씨)

 

  이러한 「좋은 관계」가 모두였다고 브러쉬하고 생각하지 않습니다.그러나, 내가 인터뷰 한 일한 15명의 발언에서는, 극히 일반적으로 「좋은 관계」가 존재하고 있었을 것이다 일을 충분히 추측할 수 있습니다.

  한국의 상급생으로부터 일본인의 하급생이 꾸중들은 이야기, 마을에서 한국인에 싸움걸칠 수 있어 큰 부상 한 이야기, 한반도 북부로부터 귀환하는데 아는 사람의 한국인이 「목숨을 걸어」도와 준 이야기, 작은 무렵 사이 좋고 함께 연날리기를 한 이야기, 한국인의 어른에게 매사냥에 데려가 준 이야기……그리고 지금 덧붙여 그들 일본인의 대부분이 당시의 한국인들과 친밀하게 사귀고 있습니다.

  이것은 인간끼리라면 어디에라도 있는, 「보통」의 사람들의 생활감 깨닫아에 기인한 관계가, 엄연히 해 존재하고 있던 증거인 것은 아닐까요.

  그리고, 조선의 젊은 여성들을 연행해 「종군위안부」로 지었다고 하는 「설」에 대해서는, 일본인 전원이 「있을 수 없는 것」이라고 강하게 반발하고 있습니다.

 

「만약 그런 일을 하면 유괴범이고, 징역형을 받게 됩니다.아니, 법률의 문제 이전에, 마을의 사람들에게 엄청으로 되어 버려요.강제적으로 데리고 가지는 딸(아가씨)를 보면서, 그대로 방치하는 비열한 한국인이 있었다고는 결코 생각되지 않습니다.시골이면 일수록, 생활자의 연대 의식도 민족 의식도 강하고, 그런 그들이 참고 입다물고 보고 있는 것이 없습니다.그들의 민족사랑이 얼마나 강했는지는, 나는 여러가지 장면에서 보고 오고 있고, 지금도 선명히 기억하고 있습니다.그런 세계에서 여자 사냥은 할 수 있을 리가 없습니다」(아베 겐 šœ씨)

 

  내가 한국에 있던 동안, 요즈음 말해지는 「종군위안부」의 이야기를 모두 들었던 적이 없었던 의미가, 간신히 알았다고 생각했습니다.

  그리고 내가 인터뷰 한 전원이, 「자신에게 당시의 이야기를 들으러 온 사람은, 당신 이외에 한 명도 없었다」라고 말하고 있었습니다.얼마나 당사자 빼고 식민지 문제가 말해지고 있었는가라는 것입니다.그 결과 보여 온 것은, 일한 양국에 가로 놓여 있는 「악인상」이, 얼마나 「실태 빼기」에 말해지고 있었는가라고 하는 사실이었습니다.

 

 

전시체제하의 통치 정책을 어떻게 생각할까

 

  일본의 죄로서 잘 꺼내지는 것은, 「황민화 교육의 강제」 「창신개명의 강제」 「신사 참배의 강제」 「징용이라고 하는 이름의 강제 연행」 「한국인을 전지에 보낸 징병제」 등입니다.그러나, 어느 「강제」도, 일한 양자의 이야기를 종합 해 보면, 신변의 위험이 다가오는 탄압하에서 행해진 것은 아니었던 것을 잘 압니다.통치측이 법령을 발해, 많은 한국인이 특히 강한 저항 자세를 보이는 일 없이, 여하튼 따랐다.그것이 현실의 모습이었습니다.

  그것을 인종이라고 하려고, 혹은 저항을 숨긴 인종이라고 하려고, 폭압을 가진 강제는 없고, 게다가 강한 저항 자세를 보이지 않고 법에 따랐다고 하는 사실은, 도대체 당시의 어떤 현실을 이야기하는 것일까요.그 물음을 한국인 자신이 스스로를 향해서 보지 않으면 안 된다고 생각했습니다.

  이것은 매우 중요한 일입니다.

  예를 들어, 「강제적으로 일본어를 가르칠 수 있어 언어가 말살되었다」말해지고 있습니다만, 일본어 교육의 「강제」는 일본 통치 시대의 마지막에 되고, 전시체제상의 형편으로부터 행해진 것입니다.그것도 학교만의 일로, 집에 돌아갔을 때까지 한국어로 말해선 안 된다고 하는 제한이 있던 것이 아니었습니다.그러니까, 정확히 그 시기에 학교에 지나고 있던 사람들만이, 일본어를 읽고 쓰기할 수 있습니다.학교에 가서 않은 사람들은, 일본어를 전혀 모른다.그것으로부터도, 「언어가 말살되었다」라고 하는 표현이, 얼마나 사실에 반한 것일까를 알 수 있겠지요.

  여담입니다만, 원래, 한국이 문화로서 세계에 자랑하고 있는 한글로 해도, 1443년에 만들어지고 있었지만, 거의 사용되지 않았습니다만, 일본 통치 시대의 학교 제도에 의해서 본격적으로 보급했습니다.

  스스로 지원해 병사가 된 한국인이 다수 있었다고 하는 사실도, 나에게는 생각할 수도 없는 것이었습니다.생각할 수도 없다고 하는 것은, 그런은 도화 없다고 하는 믿음이 있었기 때문에입니다.이 이야기를 듣고, 전지에 향한 당시의 한국의 젊은이들이 생각되어 인간과는 그러한 것이다, 역시 그들도 그랬었어와 가슴이 뜨거워졌습니다.

「일본의 전쟁」임에 틀림없지만, 적에게 공격받으면, 죽는 것은 일본인일거라고 한국인일거라고 관계는 없습니다.향토나 가족을 지키기 위해서 스스로 지원해 병사가 되어, 일본인과 함께 적과 싸우려고 한 한국인이 적지 않았던 것은, 당연한 일이었습니다.그러한 사람들이 없었다고 한다면, 반대로 그것은 실로 수치군령과는 아닐까요.

  육군 특별 지원병제(쇼와 13년 4월 실시), 해군 특별 지원병제(쇼와 18년 10월 실시), 학도병 징집(쇼와 18년 10월 실시)에의 한국인의 지원 상황은, 다음과 같이 되어 있습니다.

  

연도

채용수

응모수

배율

쇼와 13년

406명

2, 946명

7.7

쇼와 14년

613명

12, 348명

20.1

쇼와 15년

3, 060명

84, 443명

27.6

쇼와 16년

3, 208명

144, 743명

45.1

쇼와 17년

4, 077명

254, 273명

62.4

쇼와 18년

6, 300명

303, 394명

48.2

 

 

  그리고 쇼와 19년 4월에는 한국인에 징병 제도가 실시되었습니다만, 실제로 징병된 한국인 군인·군속은 24만 2341명, 집전사자는 2만 2182명이라고 하는 숫자가 남아 있습니다.

  징병제 실시 이전의 지원병의 채용수는 1만 7664명입니다만, 주목 해야 할 것은 지원자수지요.어려운 배율에도 불구하고 펴 80만 2147명의 청년이 지원하고 있습니다.전시중의 응모자수도, 징병제 실시 후에 실제로 징병된 24만 2341명을 웃돌고 있었다고 하는 것은, 도대체 무엇을 이야기하고 있는 것입니까.

  한국에서는, 이 지원제도 사실상의 징병제였다고 주장하고 있습니다만, 정말로 강제였다고 하면, 이 정도의 「들어가기 어렵다」높은 배율을 어떻게 생각하면 좋은 것일까요.어떻게 생각해도, 향토나 가족을 지키려고, 자신의 의지로 일본 군병사로서 전지로 향해 간 청년이 많았다고 밖에 생각되지 않습니다.

「강제 연행」이라고 하는 이름으로 불리는 징용의 문제가 일어난 것은, 전쟁 말기의 2년간의 일입니다.미국과의 전쟁이 시작되어 「 안센이치체」정책이 급속히 진행되어, 한국인도 다양한 형태로 전시체제에 협력 당해 간 것은 확실합니다.그러나 그것은, 미국과의 전쟁이라고 하는 이상 사태를 맞이해 일어난 것으로, 평화시의 조선 통치하에서는 그런 일은 결코 없었습니다.그곳의 곳을 제대로 구별하고 생각하지 않으면 안됩니다.

  그래요에, 전후의 한국에서는, 전쟁 말기의 2~3년의 사건을 가지고, 그것이 마치 일본에 의한 조선 통치의 모두에서 만났는지와 같이 말해지고 있습니다.

  분명히 전쟁 당시는, 일본인이나 한국인도 전시체제를 지지하기 위해서, 탄갱이나 공장에서 가동시키는 노동력으로 해서 많은 사람들이 징용 되었습니다.이것은 최초부터 강제(이)었던 것은 아니고, 남자 노동자에 대해서는 쇼와 14년 9월부터 일반 모집이 시작되어, 쇼와 17년 3월부터 관 알선이 되어, 쇼와 19년 3월부터 징용이라고 하는 상태로, 차츰 강제성이 강해져 간 것입니다.

  모집이나 관 알선에서는 가는지 가지 않는지는 본인의 자유로웠습니다만, 징용에서는 징용 영서에 의해서 지정된 일시로 지정된 장소에 집합하는 것을 명할 수 있었습니다.이것을 거부하거나 도망했을 경우에는, 국가 총동원법 위반으로서 체포되어 처벌의 대상이 되었습니다.벌칙은 1년 이하의 징역으로, 일본인·한국인의 구별 없게 적용되었습니다.실제로는, 1, 두 번의 거부로 체포되는 일은 없고, 몇번이나 거부한 사람을 체포한 것 같습니다.

  그러한 나눕니까들 , 일본의 교과서의 일부에 있도록(듯이), 경관이나 군대가 무력을 가지고 몰아내도록(듯이) 트럭에 실어 데리고 갔다든가, 수갑을 채워 데리고 갔다든가등의 사실이 있던 것이 아닙니다.적어도 나의 기록에서는 그런 상황을 본 적이 있다, (들)물었던 적이 있다고 하는 사람은 한 명도 없었습니다.

  물론 징용에 대한 강고한 저항 운동등도 전혀 없었습니다.그러니까, 한국인이나 일본인도, 싫다 그러나 전시이니까 어쩔 수 없이 따랐다.그렇다고 하는 것이 대부분 라고 생각합니다.

  일부의 지식인들은 멀게 멀어진 국외에서 저항 운동을 계속했습니다만, 국내에 있던 민중은 전시하의 징용에조차 저항 운동을 전개할 것은 없었습니다.그럼, 국외에서 저항 운동을 하고 있던 지식인은 영리하고 용감하고, 국내에서 실제로 생활하고 있던 민중은 어리석고 야무지지 못한 사람들이었다고 하는 것입니까.그렇게 바보같은 이야기는 없습니다.

 

 

곳에서, 이것도 혐한스레일까요?



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