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↑画家行かなければならなくハクドがグリーン 東都大震災過眼録. 画家自分の目撃談を描いたことで制服を着た日本警察が刀を持ってチョゴリ身なりの朝鮮人を連行している. 朝鮮人虐殺に日本政府が関与したことを示唆する部分だ.

 

 

1920‾1922年関東大震災(関東大震災)と中田[中田] 労務者集団虐殺

 

朝鮮人暴動で宣伝した関東大震災(関東大震災)

 

3.1 反日デモ運動(三一反日示威運動) 以後日帝は文化政治に変えるようだった. 民間新聞の発行を許可するなど部分的には ¥”文化統治(文化統治)¥”の姿を見せたりした. しかし朝鮮人に対する残酷な顧問と殺傷など本質的な本質的な面においてはほとんど変わらなかった. 1920年代初期に日本であった朝鮮人虐殺事件は 7千余朝鮮人を無差別虐殺した関東大震災(関東大震災) 在日朝鮮人虐殺事件と中田県[中田県] 朝鮮人労務者集団虐殺事件がある. もちろんこの外にも多い残虐社(残虐史)があるが一番象徴的な事件のみを整理して見る事にする.

 

日帝強制占領期間間我が民族が日帝(日帝)から当ぎり幾多の残虐行為の中関東大震災虐殺(関東大震災虐殺)はギュミョミョンや残虐性においても一番最初順位だ. 1923年 9月 1日午前 11時 5分頃日本関東[関東] 地方に起きた大震災はあっという間にシジオカ, Yamanashiに波及された. 都市は一瞬のうちに不海がになって海岸には津波が急きまくって幾多の建物が倒れて数十万の人名が負傷されたしおびただしい財産上の被害を被った. 電信, 電話, 鉄道を含めて電気, ガス, 水道に至るまで一体の文化施設が破壊されたし, 学校や病院も大部分倒れて優に生き地獄だった. 当時東洋一番だという首都東京は火事で家屋の 3分の 2街崩れて火にせい 18時間ぶりに焦土化された.

 

こんな渦中に日本の軍部と警察は朝鮮人と社会主義者たちが各所で放火と暴動を起こして婦女子を劫奪したし井に毒薬を入れたというデマ(流言蜚語)をまき散らした. 大震災(大震災)で治安が崩れた状態で暴動が発生することを憂慮した日本政府は国民の関心を朝鮮人と社会主義者たちに回すようにしようと陰謀を企んだのだ. まるでローマの大火当時皇帝君でがキリスチャンたちに放火の疑いを着せて彼らを虐殺した情況と似ていた. デマ操作と流布経緯から具体的によく見よう. 大震災が発生した直後の 9月 1日日本警視庁は政府に地震現場に出兵を要請して戒厳令を準備した. 朝鮮総督府政務総監を勤めた内務代わりみずのゼンタロとアカイするように軽視総監は遅い夜東京市内を振り返って翌日東京とがナカワヒョン警察署及び警備隊に朝鮮人が暴動を起こした.と言ううわさをまき散らすように指示した. これらは ¥”暴動(暴動)¥”に対する専門を作ってGoto内務省情報局長の名医で全国の地方長官に打電した.

 

専門内容は東京近所の震災を利用して朝鮮人が各地で火を放つなど不逞した目的を成そうと思っている. 東京で爆弾をお持ちして石油を振り撤いた者がいてもう一部戒厳令を実施しているから各地でも充分に視察をして, 朝鮮人たちの行動を厳密に取り締まるように願う.と言うのだった. このような専門によって ¥”朝鮮人たちの暴動¥”というデマが一瞬のうちに全国で広がって行く中に 2日午後戒厳令(戒厳令)が宣布された. 5日には戒厳軍司令部で ¥”朝鮮問題に関する協定¥”が極秘裡に決まって朝鮮人の暴行疑いを積極捜査してこれを事実化するのに努力することを指示して ¥”朝鮮人たちの暴動¥”を事実で捏造するのに狂奔こんにちはだった.

 

 

このようにして日本の警察, 軍部, 右翼勢力が総掛かりされていわゆる自警団(自警団)を組織して朝鮮人は全部殺しなさい!と言う掛け声の下大大的なハックサルグックをした. 日本の新聞たちはデマをまるで事実であることのように報道して朝鮮人虐殺をあおいだ.

 

韓国人を目に見え次第に殺害

 

大震災(大震災)で家族と家を失って今すぐ生計が難しくなった罹災民たちは朝鮮人を狩る暴徒でうって変わっておおよそ 7千名余を虐殺した. 東京とがナカワヒョンでは主に軍隊と警察が, 千葉と埼玉県では自警団が虐殺をほしいままにした. 軍警は銃剣(銃剣)を使ったが自警団は竹窓(竹槍)と棍棒(棍棒), 冷たさも(斬刀)を使って警察署や官公署で身を避けて保護を要請する人々まで官憲たちが見守る中に蛮行をやらかした.

 

 

軍馬県のフジオカ警察署は 9月 3日砂利会社社長取り持ちで朝鮮人労動者 14人を留置場に収監していた. このうわさを聞いた自警団代表 13人と群衆 2百名余が警察署に群がって来て留置場を壊して竹窓と真実島で 14人全員を殺害した. 屋根で逃げだす人は鮮銃(獵銃)でうって射殺こんにちはだった. 埼玉県旧馬加なの警察署では 9月 4日火消し隊員在郷軍人の護衛で朝鮮人たちを深谷方面に行かせようと思った. 後送途中深谷初大学近所で急に自警団員たちの襲撃を受けて現場で 10人余りが殺害された. これらは火消し用ガルクリと竹窓, 棍棒などの凶器で次から次へ取って突いて残忍に朝鮮人たちを殺した. この一帯では皆 43人が血なまぐさく死にあった.

 

9月 4日朝好戦南平柳村方面で自警団につかまった朝鮮人労動者 2百名余の中で半分位は自動車で安全地帯に護送され終わることは労動者たちは移送途中凶器を持った日本人によって警察署に引かれて行って残忍に虐殺された. ひとりが辛うじて逃げて 86人は皆殺害された. 9月 4日混調警察署で 21人の朝鮮人を景観 7人が貸物自動車に乗せて護送していたが, 村民たちが凶器を持って追って来るのでまた交番の前まで戻った. この時警察署長はフジオカソに電話をかけて朝鮮人引き継ぎ交渉をしているという事実を村民たちが聞き分けるように大きい声で言った. この時好調まるで自警団 3百名余が村民たちと力を合わせて 35人を無惨に虐殺した. 9月 5日夜明け呉佐藤だねヨリイミチ警察署に幼稚中だった蔚山出身ヨッザングスギムチァング(金艙) など 14人は隣村勇士村自警団 30人余りに竹窓と刀に突かれて殺害された. これらは一緒に幼稚中の中国人たちにも傷をつけたが特に朝鮮人たちだけ玄関で引っ張り出して突いて殺した.

 

ホクソ鉄道会社は朝鮮労動者 5百名余を雇っていたがその中に 57人は逆転九日の時に合宿させていた. 4日朝これら 57人を警察署で保護する事にして消防隊引率の下警察署の前に至った時群衆たちが現われて何人かを殺した. 洪全村の紫藤院に買う朝鮮労動者 13人が国侍奴に収容されるために自警団に付いてIchikawa分署を経ってズングサンゼ北に至った時近所の境界を引き受けていた村民たちに全部死にあった. 後へ来た 3人は身元保証にも持っていたが人々までも無差別殺害した. これらの死体は 5日夕方から 6日午前まで燃やされて売場された. 旧正月号で働いた朝鮮人労動者ナファンサン(羅丸山)はこんなにその日の目撃談を言う.

 

私は 86人の朝鮮人を鉄砲と刀ででたらめにうってベア殺すことを直接見た. 9月 2日夜から 3日午前まで旧正月号警察署演舞場に収容された朝鮮人は 3百名余だったが, その日午後 1時頃騎兵 1個中隊が到着, 警察署を見張っていた. あの時からタムラと言う(のは)者が朝鮮人 3人を呼び出して銃殺し始めた. タムラは銃声を聞いて日本人たちが驚くかも知れないから刀でおかゆだと命令, 軍人たちが一斉に刀を選んで 83人をいっぺんに殺した. この時妊婦も一人がいたが, その奥さんのお腹を割る時腹の中で乳飲み子(瓔児)が出たが, 軍人たちは泣く子供まで刀でベア殺した. 死骸たちは翌日夜明け貸物自動車に積んでどこかに運んで行った.

 

傷害(上海) 大韓民国臨時政府(大韓民国臨時政府)が発行した独立新聞(独立新聞) 特派員が調査報告したことによれば東京で 752人, がナカワヒョンで 1052人, 埼玉県で 239人, 千葉県で 293人など日本各地で 6661人が虐殺されたことに集計された. 虐殺者の大部分は死骸さえ捜すことができなかった. 日本政府は軍隊と警察など官憲の虐殺は隠蔽してその責任を自警団に回しながら一部自警団員を裁判に回付したが証拠不十分を理由で皆釈放してしまった.

 

朝鮮人日本留学生たちの ¥”東京地震韓国人虐殺報告書¥”

 

在日朝鮮人乳学生会(在日朝鮮人留学会)は 1924年 1月代表者金Kun(金〓)の名医で ¥”東京地震韓国人虐殺報告書¥”を作成した. 見て中虐殺内容の一部を抜粹する.

 

 

¥”河東(河東) 広場に韓人(韓人)を多数含んで幾千気迫人をいっぺんに乱射して兵営または警察署構内に気迫幾十人を集合させて殺害した. その上に路上で見次第に兵力ないし警察官が銃殺したことはもちろん普通の殺人手段だと言えなくいわゆる自警団, 青年団などは ¥”朝鮮人!¥”と叫んで歌う一言にバックイウングしてナング(狼)義軍(群)と一緒に東西南北から群がって来て 1人の同胞を数十人が飛びかかって刀で突いて鉄砲でうって棍棒で殴って足で蹴って倒してさらに死んだ人の首を引きじて通いながら陵辱こんにちはだった. 身を電信柱に縛って初めて目の玉を抉って鼻を突いてその悲しくて痛い光景を充分に見物した後お腹を突いておかゆである事もある.

 

町内の前を流れることはうちの同胞の鮮血であっちこっちで崩れたことはうちの同胞の死骸だ. うちの同胞の死骸が堆積して右前天恩流通も支えて同胞の血が腐るその悪臭は通行人のホホブが支えるほどだった.¥”

 

 

日本政府では当時外国人が韓国人虐殺場面を目撃することができないように外国人を覚書きに集合させて見張って外出を禁止させた. そしてその周りで鉄砲をうって喧嘩をしながらこの銃声は韓国人たちの銃声でこのけんかは韓国人たちが襲う音だ.と欺瞞する同時にあっちこっちで韓国人が暴行をはたらくとか襲っていると宣伝した.

 

朝鮮総督は同 6日各新聞に公布して調査して見た結果関東地方朝鮮人は労動者 3千名, 学生 3千名, 合計 6千名の中で殺害された者は 2人だけだ.と言った. 当時日本に住んでいた朝鮮人の中で 5分の 1が関東地方にあったからその数価 3万以上に達することは三尺童子もすべて分かっていた. 多数の人名を殺戮しながら 2人だけだと発表したことは実に心配(獣心)の詭弁に違いない.

 

中田県朝鮮人労動者集団虐殺

 

 

私たちはよく日帝(日帝)の朝鮮人労動者徴用が太平洋戦争時期にだけあったことと間違えやすい. しかし事実は国権侵奪といっしょに日製は安っぽくて質のよい労動力を求めようと朝鮮の多くの青壮年を各種工事現場で連れて行った. もちろんはじめから徴用領みたいな人力収奪制度があったのではなかった. 東洋拓殖株式会社(東洋拓殖株式会社)や親日地主たちに地をベアッギン農民たちに多くのお金をくれると欺いて日本に連れて行った. 大部分が農土を失った小作人や離農流民, 都市の失業者たちだった.

 

こんなに日本に渡った同胞は毎年増えた. 1913年度に 3600人だった在日居留民は 18 年に 2万 2千名, 23年に 8万 6百人で増加して 28年に 24万 3千名だった居留民需が 33年には 42万 6千名で増えた. 33年 6月末現在 42万 6千名だった在日居留民の中で 33.1%である 14万 3千名だった居留民需が 33年には 42万 6千名で増えた. 残り 10万の定職労務者は職工や雇用人で鉱山労務者が三番目で多かった. これらに対する補修は日本人労務者の 70% 以下位だったし半額未満の場合もあまたあった. 同胞たちはこのようにひどい差別を受けながらもひもじさを兔れるために日本に渡った. 1922年 8月に大きく物議をもたらした中田県の朝鮮人労動者集団虐殺事件もこのような状況でやらかされた.

 

1922年初からシナノ−がと[信濃川]の急流を沿って下がる朝鮮人労務者たちの死骸が発見された. 初めにはハンドグの死骸が下がっている途中徐々に多くの屍の漂流死骸が発見されてこれが日本の新聞に報道されることで社会問題になった. 漂流死骸たちはシナノ−カとダム建設工事現場に動員された朝鮮人労務者たちが日本人現場工事監督たちによって殴ぐられて死んだ死体という事実も知られた.

 

こんな無惨な事実が伝わりながら当時東京等地に居留したアナーキスト朴烈(朴烈)が主導した黒道回(黒道会) 幹部たちは調査団を構成して現場調査に取り掛かって日製の血なまぐさい朝鮮人虐殺蛮行を暴露した. シナノ−がとダム工事現場は認可で 30里, 鉄道辺で 1白里以上離れた人里離れた工事現場として朝鮮人労務者たちが作業に動員された以来 ¥”地獄の谷¥”と呼ばれるようになった. 山をくぐって峰を削ってダムを作ってバルゾニャング 30万キロワットの東洋最大発電所を建設するということが計画だった. ダム工事に必要な人足たちを日製は主に慶南一帯で募集して行った. 往復旅費は雇い主が負担して一日 8時間労動制で月 2日の有給休暇と高額の賃金を与えるという口車(甘言利説)に多い朝鮮人がこちらでひかれて来た. 800人余りの朝鮮人労務者がこのダム工事に動員された.

 

しかし一日 14‾15時間の大変な労動をさせた後 ¥”したところ¥”だと呼ばれる監獄のような労務者飯場に閉じこめておいて低賃金に強制労役をさせた. ハンバは日製が明治時代初期北海道開拓を始めた以来続いている日本特有の飯場だった. 最初北海道の叛軍を征伐した明治政権がこの罪囚たちを鉄道工事に動員しながら罪囚たちが逃げることができないように監獄を彷彿させる珍しい構造で飯場を作ったことがハンバの来由だった. シナノ−がとダム工事にはハンバをそのままいかして飯場という名前の監獄を作って朝鮮労務者たちを収容しながら労動力を搾取して殺傷を食事するようにやらかした. 朝鮮人労務者たちは夜明けに現場でひかれて行って一番危ない工事に動員されてそれさえも 2‾3中の下請組に賃金の胎盤をベアッギョッダ. 耐えれなくなり逃げれば下請組の親分たちがピストルで殺害するとかつかまえていた顧問をほしいままにした.

 

密陽出身の金甲鉄(金甲〓)は 19歳の少年労務者だったが逃げだしてつかまって下請組責任者が荷役する時使うスェッガルゴリで素肌 10あまりの所をジックヒョ流血が散り乱れて乱雑だった. それも足りなくて羅体(裸体)で作ってヌングドングが中におおよそ 3時間を捨ておいた. ウユンソング(禹允成) など 3人も逃げるつかまって裸にしたまま煙瓦を取るバウンダリーに入れた後水と砂, セメントを交ぜて固まるようにした. 時間が経つとセメントが徐徐に固まりながら石と砂がサルソックで掘り下げる血なまぐさい拷問にあった. このようにして死傷者が発生すれば川水に投げるとか工事現場に売場させたからどれだけ多い人が犠牲されたのか正確な数字さえ分からない. しかし朴烈と金薬水など黒道回幹部の真相調査に違えば 1百人以上死亡して少なくない数価抑留されたことで現われた. 黒道回は東京と大阪などで演説会を持って日製の野蛮的な蛮行を糾弾した. しかし日本警察はオスギ坂になど日本の良心的な学者たちが撚糸に出ることができaようにするずに朝鮮人 6人, 日本人 2人の撚糸を拘束してこの事件が社会に知られることを阻もうと思った. 日本の内務省と朝鮮総督府も事実を隠蔽して責任逃れにだけ汲汲しているまだ正確な真相を極めようと思わなかった.

 


關東大震災와 朝鮮人 虐殺

 

↑화가 가야하라 하쿠도가 그린 東都大震災過眼錄. 화가 자신의 목격담을 그린 것으로 제복을 입은 일본 경찰이 칼을 들고 저고리 차림의 한국인을 연행하고 있다. 한국인 학살에 일본 정부가 관여되었음을 시사하는 부분이다.

 

 

1920~1922년 관동대진재(關東大震災)와 나카타[中田] 노무자 집단학살

 

한국인 폭동으로 선전한 관동대진재(關東大震災)

 

3.1 반일시위운동(三一反日示威運動) 이후 일제는 문화정치로 바꾸는 듯하였다. 민간신문의 발행을 허가하는 등 부분적으로는 "문화통치(文化統治)"의 모습을 보이기도 하였다. 그러나 한국인에 대한 잔혹한 고문과 살상 등 본질적인 본질적인 면에 있어서는 거의 달라지지 않았다. 1920년대 초기에 일본에서 있었던 한국인 학살사건은 7천여 한국인을 무차별 학살한 관동대진재(關東大震災) 재일 한국인 학살사건과 나카타현[中田縣] 한국인 노무자 집단학살사건이 있다. 물론 이 외에도 숱한 잔학사(殘虐史)가 있지만 가장 상징적인 사건만을 정리해보기로 한다.

 

일제강점기 동안 우리 민족이 일제(日帝)로부터 당한 수많은 잔학행위 가운데 관동대진재학살(關東大震災虐殺)은 규묘면이나 잔학성에 있어서나 가장 첫순위이다. 1923년 9월 1일 오전 11시 5분경 일본 간토[關東] 지방에 일어난 대지진은 순식간에 시지오카, 야마나시로 파급되었다. 도시는 삽시간에 불바다가 되고 해안에는 해일이 몰아쳐 수많은 건물이 쓰러지고 수십만의 인명이 부상당했으며 엄청난 재산상의 피해를 입었다. 전신, 전화, 철도를 비롯하여 전기, 가스, 수도에 이르기까지 일체의 문화시설이 파괴되었으며, 학교나 병원도 대부분 쓰러져 가히 생지옥이었다. 당시 동양 제일이라는 수도 도쿄는 화재로 가옥의 3분의 2가 무너지고 불에 탓 18시간만에 초토화되었다.

 

이런 와중에 일본의 군부와 경찰은 한국인과 사회주의자들이 각처에서 방화와 폭동을 일으키고 부녀자를 겁탈하였으며 우물에 독약을 넣었다는 유언비어(流言蜚語)를 퍼뜨렸다. 대진재(大震災)로 치안이 무너진 상태에서 폭동이 발생할 것을 우려한 일본 정부는 국민의 관심을 한국인과 사회주의자들에게로 돌리게 하려고 음모를 꾸민 것이다. 마치 로마의 대화재 당시 황제 네로가 기독교인들에게 방화의 혐의를 씌우고 그들을 학살한 정황과 비슷하였다. 유언비어 조작과 유포 경위부터 구체적으로 살펴보자. 대지진이 발생한 직후인 9월 1일 일본 경시청은 정부에 지진 현장에 출병을 요청하고 계엄령을 준비했다. 조선총독부 정무총감을 지낸 내무대신 미즈노 젠타로와 아카이케 경시총감은 늦은 밤 도쿄시내를 돌아보고 다음날 도쿄와 가나카와현 경찰서 및 경비대에 "한국인이 폭동을 일으켰다."는 소문을 퍼뜨리도록 지시했다. 이들은 "폭동(暴動)"에 대한 전문을 만들어 고토 내무성 정보국장의 명의로 전국의 지방장관에게 타전했다.

 

전문 내용은 "도쿄 부근의 진재를 이용하여 한국인이 각지에서 방화하는 등 불령한 목적을 이루려 하고 있다. 도쿄에서 폭탄을 소지하고 석유를 뿌린 자가 있어 이미 일부 계엄령을 실시하고 있으니 각지에서도 충분히 시찰을 하고, 한국인들의 행동을 엄밀히 단속하기를 바란다."는 것이었다. 이와 같은 전문으로 인하여 "한국인들의 폭동"이라는 유언비어가 삽시간에 전국으로 퍼져나가는 가운데 2일 오후 계엄령(戒嚴令)이 선포되었다. 5일에는 계엄군사령부에서 "조선문제에 관한 협정"이 극비리에 결정되어 "한국인의 폭행 혐의를 적극 수사하여 이를 사실화하는데 노력할 것"을 지시하여 "한국인들의 폭동"을 사실로 날조하는데 광분하였다.

 

이렇게 하여 일본의 경찰, 군부, 우익세력이 총동원되고 이른바 자경단(自警團)을 조직하여 "한국인은 모조리 죽여라!"는 구호 아래 대대적인 학살극을 벌였다. 일본의 신문들은 유언비어를 마치 사실인 것처럼 보도하여 한국인 학살을 부채질하였다.

 

한국인을 눈에 보이는 대로 살해

 

대진재(大震災)로 가족과 집을 잃고 당장 생계가 어려워진 이재민들은 한국인을 사냥하는 폭도로 돌변하여 무려 7천여명을 학살하였다. 도쿄와 가나카와현에서는 주로 군대와 경찰이, 지바와 사이타마현에서는 자경단이 학살을 자행했다. 군경은 총검(銃劍)을 사용하였지만 자경단은 죽창(竹槍)과 곤봉(棍棒), 참도(斬刀)를 사용하여 경찰서나 관공서로 피신하여 보호를 요청하는 사람들까지 관헌들이 지켜보는 가운데 만행을 저질렀다.

 

군마현의 후지오카 경찰서는 9월 3일 자갈회사 사장 주선으로 한국인 노동자 14명을 유치장에 수감하고 있었다. 이 소문을 들은 자경단 대표 13명과 군중 2백여명이 경찰서로 몰려와 유치장을 부수고 죽창과 참도로 14명 전원을 살해하였다. 지붕으로 도망가는 사람은 엽총(獵銃)으로 쏘아 사살하였다. 사이타마현 구마가야 경찰서에서는 9월 4일 소방대원 재향군인의 호위로 한국인들을 후카야 방면으로 보내려고 하였다. 후송 도중 후카야초 대학 부근에서 갑자기 자경단원들의 습격을 받고 현장에서 10여명이 살해되었다. 이들은 소방용 갈쿠리와 죽창, 곤봉 등의 흉기로 닥치는 대로 찍고 찌르며 잔인하게 한국인들을 죽였다. 이 일대에선 모두 43명이 참혹하게 죽음을 당했다.

 

9월 4일 아침 호전남평유촌 방면에서 자경단에 붙잡힌 한국인 노동자 2백여명 중 절반 정도는 자동차로 안전지대로 호송되고 남은 노동자들은 이송 도중 흉기를 든 일본인에 의해 경찰서로 끌려가 잔인하게 학살당했다. 한사람이 간신히 도망치고 86명은 모두 살해되었다. 9월 4일 혼조 경찰서에서 21명의 한국인을 경관 7명이 화물자동차에 태워 호송하고 있었는데, 촌민들이 흉기를 들고 쫓아오므로 다시 파출소 앞까지 되돌아왔다. 이때 경찰서장은 후지오카서에 전화를 걸어 한국인 인계교섭을 하고 있다는 사실을 촌민들이 알아듣도록 큰소리로 말했다. 이때 호조마치 자경단 3백여명이 촌민들과 합세하여 35명을 무참히 학살하였다. 9월 5일 새벽 오사토군 요리이미치 경찰서에 유치중이던 울산 출신 엿장수 김창(金艙) 등 14명은 이웃마을 용사촌 자경단 30여명에게 죽창과 칼에 찔려 살해당했다. 이들은 함께 유치중인 중국인들에게도 상처를 입혔지만 유독 한국인들만 현관으로 끌어내어 찔러 죽였다.

 

호쿠소 철도회사는 조선 노동자 5백여명을 고용하고 있었는데 그중에 57명은 역전 구일시에 합숙시키고 있었다. 4일 아침 이들 57명을 경찰서에서 보호하기로 하고 소방대 인솔 아래 경찰서 앞에 이르렀을때 군중들이 나타나 여러명을 죽였다. 홍전촌의 자등원에 사는 조선 노동자 13명이 나라시노에 수용되기 위하여 자경단을 따라 이치카와 분서를 지나 중산재 북쪽에 이르렀을때 부근의 경계를 맡고 있던 촌민들에게 모조리 죽음을 당했다. 뒤에 온 3명은 신원보증서도 갖고 있었는데 이들까지도 무차별 살해하였다. 이들의 시신은 5일 저녁부터 6일 오전까지 불태워져 매장되었다. 구정호에서 일하던 한국인 노동자 나환산(羅丸山)은 이렇게 그날의 목격담을 말한다.

 

"나는 86명의 조선 사람을 총과 칼로 마구 쏘고 베어 죽이는 것을 직접 보았다. 9월 2일 밤부터 3일 오전까지 구정호 경찰서 연무장에 수용된 한국인은 3백여명이었는데, 그날 오후 1시경 기병 1개 중대가 도착, 경찰서를 감시하고 있었다. 그때부터 다무라란 자가 한국인 3명을 불러내 총살하기 시작했다. 다무라는 총성을 듣고 일본인들이 놀랄지 모르니 칼로 죽이라고 명령, 군인들이 일제히 칼을 뽑아 83명을 한꺼번에 죽였다. 이때 임산부도 한명이 있었는데, 그 부인의 배를 가를 때 뱃속에서 영아(瓔兒)가 나왔는데, 군인들은 우는 아이까지 칼로 베어 죽였다. 시체들은 다음날 새벽 화물자동차에 싣고 어디론가 운반해 갔다."

 

상해(上海) 대한민국 임시정부(大韓民國臨時政府)가 발행한 독립신문(獨立新聞) 특파원이 조사 보고한 바에 의하면 도쿄에서 752명, 가나카와현에서 1052명, 사이타마현에서 239명, 지바현에서 293명 등 일본 각지에서 6661명이 학살당한 것으로 집계되었다. 학살자의 대부분은 시체조차 찾지 못하였다. 일본 정부는 군대와 경찰 등 관헌의 학살은 은폐하고 그 책임을 자경단에 돌리면서 일부 자경단원을 재판에 회부하였지만 증거불충분을 이유로 모두 석방하고 말았다.

 

한국인 일본 유학생들의 "도쿄 지진 한국인 학살 보고서"

 

재일한국인유학생회(在日朝鮮人留學會)는 1924년 1월 대표자 김건(金楗)의 명의로 "도쿄 지진 한국인 학살 보고서"를 작성했다. 보고서 중 학살내용의 일부를 발췌한다.

 

"하동(河東) 광장에 한인(韓人)을 다수 포함하여 기천기백인을 한꺼번에 난사하고 병영 또는 경찰서 구내에 기백기십인을 집합시켜 살해하였다. 더구나 노상에서 보는대로 병력 내지 경찰관이 총살한 것은 물론 보통의 살인수단이라고 할 수 없게 소위 자경단, 청년단 등은 "한국인!"이라고 외쳐 부르는 한마디에 백이응하여 낭(狼)의 군(群)과 같이 동서남북에서 몰려와 1명의 동포를 수십인이 달려들어 칼로 찌르고 총으로 쏘고 곤봉으로 때리고 발로 차서 쓰러뜨리고 그위에 죽은 사람의 목을 끌고 다니면서 능욕하였다. 몸을 전신주에 묶고 처음 눈알을 도려내고 코를 찔러 그 애통한 광경을 충분히 구경한 후에 배를 찔러 죽인 일도 있다.

 

동네 앞을 흐르는 것은 우리 동포의 선혈이고 이곳저곳에서 흐트러진 것은 우리 동포의 시체이다. 우리 동포의 시체가 퇴적하여 우전천은 유통도 막혀 동포의 피가 썩는 그 악취는 통행인의 호홉이 막힐 정도였다."

 

일본 정부에서는 당시 외국인이 한국인 학살장면을 목격하지 못하도록 외국인을 각서에 집합시켜 감시하고 외출을 금지시켰다. 그리고 그 주위에서 총을 쏘고 싸움을 하면서 "이 총성은 한국인들의 총성이며 이 싸움은 한국인들이 습격하는 소리다."라고 기만하는 동시에 이곳저곳에서 한국인이 폭행하거나 습격하고 있다고 선전하였다.

 

조선총독은 동 6일 각 신문에 공포하여 "조사해본 결과 관동지방 한국인은 노동자 3천명, 학생 3천명, 합계 6천명 중 살해당한 자는 2명뿐이다."라고 했다. 당시 일본에 살고 있던 한국인 중 5분의 1이 관동지방에 있었으니 그 수가 3만 이상에 달하는 것은 삼척동자도 다 알고 있었다. 다수의 인명을 살육하면서 2명뿐이라고 발표한 것은 실로 수심(獸心)의 궤변이 아닐 수 없다.

 

나카타현 한국인 노동자 집단학살

 

우리는 흔히 일제(日帝)의 한국인 노동자 징용이 태평양전쟁 시기에만 있었던 것으로 착각하기 쉽다. 그러나 사실은 국권침탈과 더불어 일제는 값싸고 질좋은 노동력을 구하고자 조선의 많은 청장년을 각종 공사현장으로 끌고 갔다. 물론 처음부터 징용령 같은 인력수탈 제도가 있었던 것은 아니었다. 동양척식주식회사(東洋拓殖株式會社)나 친일지주들에게 땅을 배앗긴 농민들에게 많은 돈을 주겠다고 속여 일본으로 데려갔다. 대부분이 농토를 잃은 소작인이거나 이농 유랑민, 도시의 실업자들이었다.

 

이렇게 일본으로 건너간 동포는 해마다 늘어났다. 1913년도에 3600명이던 재일거류민은 18 년에 2만 2천명, 23년에 8만 6백명으로 증가하고 28년에 24만 3천명이던 거류민수가 33년에는 42만 6천명으로 늘어났다. 33년 6월말 현재 42만 6천명이던 재일거류민 중 33.1%인 14만 3천명이던 거류민수가 33년에는 42만 6천명으로 늘어났다. 나머지 10만의 고정직 노무자는 직공이거나 고용인이고 광산노무자가 세번째로 많았다. 이들에 대한 보수는 일본인 노무자의 70% 이하 정도였으며 반액 미만일 경우도 허다했다. 동포들은 이처럼 심한 차별을 받으면서도 배고픔을 면하기 위하여 일본으로 건너갔다. 1922년 8월에 크게 물의를 빚은 나카타현의 한국인 노동자 집단학살 사건도 이와 같은 상황에서 저질러졌다.

 

1922년 초부터 시나노가와[信濃川]의 급류를 타고 흘러내리는 한국인 노무자들의 시체가 발견되었다. 처음에는 한두구의 시체가 흘러내리다가 차츰 여러구의 표류시체가 발견되고 이것이 일본의 신문에 보도됨으로써 사회문제가 되었다. 표류시체들은 시나노카와 댐 건설 공사장에 동원된 한국인 노무자들이 일본인 현장 공사 감독들에 의해 구타당해 죽은 시신이라는 사실도 알려졌다.

 

이런 끔찍한 사실이 전해지면서 당시 도쿄 등지에 거류하던 아나키스트 박열(朴烈)이 주도한 흑도회(黑道會) 간부들은 조사단을 구성하고 현장조사에 착수하여 일제의 참혹한 한국인 학살 만행을 폭로했다. 시나노가와 댐 공사장은 인가에서 30리, 철도 연변에서 1백리 이상 떨어진 외딴 공사장으로서 한국인 노무자들이 작업에 동원된 이래 "지옥의 계곡"이라 불리게 되었다. 산을 뚫고 산봉우리를 깎아서 댐을 만들어 발저냥 30만 킬로와트의 동양 최대 발전소를 건설한다는 것이 계획이었다. 댐 공사에 필요한 인부들을 일제는 주로 경남 일대에서 모집해갔다. 왕복 여비는 고용주가 부담하고 하루 8시간 노동제로 월 2일의 유급휴가와 고액의 임금을 준다는 감언이설(甘言利說)에 많은 조선 사람이 이곳으로 끌려왔다. 800여명의 한국인 노무자가 이 댐 공사에 동원되었다.

 

그러나 하루 14~15시간의 힘든 노동을 시킨 뒤 "한바"라 불리는 감옥과 같은 노무자 합숙소에 가둬놓고 저임금에 강제노역을 시켰다. 한바는 일제가 메이지시대 초기 북해도 개척을 시작한 이래 계속되고 있는 일본 특유의 합숙소였다. 당초 북해도의 반란군을 정벌한 메이지 정권이 이 죄수들을 철도공사에 동원하면서 죄수들이 도망치지 못하도록 감옥을 방불케 하는 특이한 구조로 합숙소를 지은 것이 한바의 유래였다. 시나노가와 댐 공사에는 한바를 그대로 살려 합숙소라는 이름의 감옥을 만들어 조선 노무자들을 수용하면서 노동력을 착취하고 살상을 밥먹듯이 저질렀다. 한국인 노무자들은 새벽에 현장으로 끌려나가 가장 위험한 공사에 동원되고 그나마 2~3중의 하청조에 임금의 태반을 배앗겼다. 견디다 못해 도망치면 하청조의 두목들이 권총으로 살해하거나 붙잡아 갖은 고문을 자행했다.

 

밀양 출신의 김갑철(金甲喆)은 19세의 소년 노무자였는데 도망가다 붙잡혀서 하청조 책임자가 하역할 때 쓰는 쇠갈고리로 맨살 10여군데를 직혀 유혈이 낭자하였다. 그것도 모자라 나체(裸體)로 만들어 눈구덩이 속에 무려 3시간을 방치해 두었다. 우윤성(禹允成) 등 3인도 도망치다 붙잡혀 발가벗긴 채 벽돌을 찍는 틀속에 집어넣은 후 물과 모래, 시멘트를 섞어 굳어지게 하였다. 시간이 지나자 시멘트가 점차 굳어지면서 돌과 모래가 살속으로 파고드는 참혹한 고문을 당하였다. 이렇게 하여 사상자가 발생하면 강물에 던지거나 공사장에 매장시켰기 때문에 얼마나 많은 사람이 희생되었는지 정확한 숫자조차 모른다. 그러나 박열과 김약수 등 흑도회 간부의 진상조사에 다르면 1백명 이상 사망하고 적지 않은 수가 억류당한 것으로 드러났다. 흑도회는 도쿄와 오사카 등에서 연설회를 갖고 일제의 야만적인 만행을 규탄했다. 그러나 일본 경찰은 오스기 사카에 등 일본의 양심적인 학자들이 연사로 나서지 못하도록 하고 한국인 6명, 일본인 2명의 연사를 구속하여 이 사건이 사회에 알려지는 것을 막으려고 하였다. 일본의 내무성과 조선총독부도 사실을 은폐하고 책임회피에만 급급한 채 정확한 진상을 밝히려 하지 않았다.

 



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