基本的に、一昨年の6月の上旬に行った投稿の再掲です。
写真は、借り物。1937年に、フランスの、パリ(Paris)で開催された、万国博覧会(World Expo)、The Exposition Internationale des Arts et Techniques dans la Vie Moderneの、日本館の建物です。この、万国博覧会(World Expo)において、建築部門において、グランプリ(最高の賞・最優秀賞)を受賞しました。設計は、後述する、坂倉 準三(sakakura jyunzo)(1901年生まれ。1969年に亡くなる。1930年代後半から亡くなるまで活躍した、日本の有名な現代建築家)が行いました。
写真は、借り物(写真の作者:takato
marui)。1970年に大阪で開催された、万国博覧会(World Expo)、大阪万国博覧会(Expo
‘70)の、東芝(TOSHIBA)IHI館。設計は、後述する、黒川 紀章(kurokawa
kisyo)(1934年生まれ。2007年に亡くなる。日本の、世界最高水準の建築家の一人)が行いました。
ちなみに、大阪では、2025年に、Expo 2025が開催される予定です。
写真は、借り物(写真の作者:Fk)。国立民族学博物館の建物。1977年完成。国立民族学博物館は、日本の国立の博物館の一つで、1970年に大阪で開催された、大阪万国博覧会(Expo ‘70)の跡地の一部に、1977年に開館した、文化人類学・民族学に関する、規模の大きな、博物館です。建物の設計は、黒川 紀章(kurokawa kisyo)(1934年生まれ。2007年に亡くなる。日本の、世界最高水準の建築家の一人)が行いました。
以下、基本的に、前に行った投稿から抜粋して来た物で、六本木(roppongi)area(東京都心部の中でも中心的な地域の西南部に位置する)の、森(mori)美術館の、「メタボリズム(Metabolism)の未来都市展」と言う、展覧会(exhibition)を見て来た時に関する投稿から抜粋して来た物です。ちなみに、後述する、槇 文彦(maki fumihiko)は、現在、93歳、磯崎 新(isozaki Arata)は、現在、90歳になっています。また、下で、「シンガポール(Singapore)で、最も高い三つのビル」とありますが(OUB center(One Raffles Place)、UOB plaza one、republic plaza。何れも、高さは280m)は、2016年に完成した、Guoco Tower(高さ約284m)に抜かされて、現在、何れも、CapitaSpring(2021年完成。高さ280m)と共に、シンガポール(Singapore)で、2番目に、高いビルとなっています。
以下、メタボリズム(Metabolism)についての説明は、wiki、展覧会(exhibition)のパンフレット(leaflet)、日本語大辞典(講談社。1989年。私が中学生の時から大事に使っているw)等を参考にしました。
メタボリズム(Metabolism)は、日本で行われた、現代建築運動です。1950年代末に、丹下
健三(tange kenzo)に強い影響を受けた、黒川 紀章(kurokawa kisyo)、菊竹 清訓(kikutake
kiyonori)、槇 文彦(maki
fumihiko)と言った、当時の日本を代表する、有望な若手建築家達の間で提唱され始め、1960年代に、世界の建築界に知れ渡りました。建築における、メタボリズム(Metabolism)とは、現代の都市の変化を生物の新陳代謝(metabolism)に当てはめて捉える考え方です。生物の新陳代謝(metabolism)とは、生物が常に新しい栄養物質を取り入れ、消化した古い物質を排泄する事を言います。建築における、メタボリズム(Metabolism)を具体的に現代建築物に当てはめて見ると、建物の老朽化した部分を、部分的に新しい物と取り替える事を繰り返す事によって、建物が、まるで生きている様に(まるで生物の様に)、永遠に、存続し、成長し、進化し続ける様に、設計・建築すると言う考え方です。メタボリズム(Metabolism)運動に加わった建築家達は、社会の変化や人口の成長に合わせて有機的に成長する都市や建築を提案しました。黒川
紀章(kurokawa kisyo)や菊竹 清訓(kikutake
kiyonori)らの都市・建築計画では、無数の生活用ユニット(unit)が高い塔等の巨大構造物に差し込まれており、古い細胞が新しい細胞に入れ替わるように、古くなったり機能が合わなくなったりした部屋などのユニット(unit)を、まるごと新しいユニット(unit)と取り替えることで、社会の成長や変化に対応し、これを促進することが構想されました(wikiより。。。)。
メタボリズム(Metabolism)は、東京大学都市工学科、丹下(tange)研究室から生まれたと言っても過言ではありません(展覧会(exhibition)のパンフレット(leaflet)より。。。)。都市規模での建築を考えた、丹下
健三(tange kenzo)(下の補足説明参照)は、メタボリズム(Metabolism)の誕生に、大きな影響を与えました。
丹下
健三(tange
kenzo):日本の世界最高水準の建築家の一人。1950年代から、亡くなる近くまで活躍。日本人建築家の中で、初めて世界に名が知られた建築家であると共に、1960年代に、日本を、現代建築設計の分野において、世界最高水準の国の一つに、引き上げた人物として知られています。1913年に生れ、90歳以上生きて、2005年に、亡くなりました。丹下
健三(tange kenzo)の弟子には、磯崎 新(isozaki Arata)、黒川 紀章(kurokawa
kisyo)、槇 文彦(maki fumihiko)と言った、世界的に有名な、日本人建築家達が、名を連ねています。黒川 紀章(kurokawa
kisyo)は、既に亡くなりましたし、他の弟子達も、既に、80歳代の高齢です。ちなみに、丹下 健三(tange
kenzo)は、シンガポール(Singapore)で、最も高い三つのビルの内、二つの設計を手掛けています(OUB
center(1986年完成)、UOB plaza
one(1995年完成))。シンガポール(Singapore)のスカイライン(skyline)で、目立つビルのデザイン(design)の傾向が、何となく、丹下
健三(tange
kenzo)が設計した、東京の新宿の、東京都庁ビルに似ているのは、その為です。ちなみに、シンガポール(Singapore)で、最も高い三つのビルの内、残りの一つ(republic
plaza。1995年に完成)は、丹下 健三(tange
kenzo)弟子であり、日本の、世界最高水準の建築家の一人である、黒川 紀章(kurokawa kisyo)が、設計しました。
写真以下3枚。丹下 健三(tange kenzo)の初期作品例。
丹下 健三(tange kenzo)の東京の自宅です。(個人住宅、現存せず) 1953年完成。
広島(hiroshima)子供の家(公共施設)。1953年完成。現存せず。
広島(hiroshima)平和記念資料館(展覧会(exhibition)のパンフレット(leaflet)より)。公共施設(資料館)建築。1955年完成。都市デザイン(design)的な視点で設計が考えられ、原爆ドーム(Atomic
Bomb
Dome)へと視線を導き、歴史の記憶を継承する仕掛けが隠されていました(展覧会(exhibition)のパンフレット(leaflet)の文を参考にしました。。。)。メタボリズム(Metabolism)が提唱され始めたのは、第二次世界大戦で荒廃した日本の復興が一段落し、豊かな社会と繁栄に向かって、日本が本格的な高度経済成長期へと突入して行った時代(日本の第二次世界大戦後の復興の総仕上げ期)です。そこには理想の都市を通じて、より良い共同体を作ろうという思いもありました(展覧会(exhibition)のパンフレット(leaflet)の文を参考にしました)。この広島(hiroshima)平和記念資料館の様な、日本が、本格的に高度経済成長期に入る前夜の(メタボリズム(Metabolism)が提唱される前夜の)、日本の戦後の復興初期から中期における、(当時の、日本の建築家の思いが込められた)、都市デザイン(design)や共同体を意識した建築や計画案は、メタボリズム(Metabolism)の原点と言えるかもしれません。
スカイハウス(sky
house)(展覧会(exhibition)の絵葉書から。。)。個人住宅。1958年完成。設計、菊竹 清訓(kikutake
kiyonori)。菊竹 清訓(kikutake kiyonori)(下の補足説明参照)が設計した、菊竹 清訓(kikutake
kiyonori)の東京都心部の自宅です。以下、スカイハウス(sky
house)についての説明は、wikiから、抜粋しました。スカイハウス(sky
house)の居住空間には仕切り壁はなく、その四周は廊下となっており、キッチン(kitchen)、浴室、収納等が交換可能に取り付けられています。また、居住階の下部は当初はピロティ(pilotis。2階以上の建物において地上部分が柱(構造体)を残して外部空間とした建築形式)とされ、家族構成の変化に応じて、居住階からカプセル(capsule)を吊り下げる形で増築が可能になっており、実際、この方式で子供部屋の増築が行われました。これらは菊竹
清訓(kikutake kiyonori)の唱えるメタボリズム(Metabolism)を体現したものでした。スカイハウス(sky
house)の増改築の経過は、以下の通りです。ピロティ(pilotis)の空間には事務所が設けられていましたが、事務所の移転を機に子供部屋のカプセル(capsule)が増築されました。その後、冷蔵庫の大型化などの設備の発展に対応してキッチン(kitchen)が中二階に移されました。また、蔵書の増加に伴い、ピロティ(pilotis)の空間に図書を置く個室が設けられ、個室の近くに主寝室(master
bedroom)が移されました。この結果、1994年時点では、ピロティ(pilotis)の空間に個室、主寝室(master
bedroom)及び浴室(bathroom)、中二階に玄関、キッチン(kitchen)、ダイニング(dining
room)、最上部に書斎、接客室が設けられた状態となりました。
菊竹 清訓(kikutake
kiyonori):1928年生まれ。2011年に亡くなる。日本の有名な建築家。菊竹 清訓(kikutake
kiyonori)設計事務所から、伊東 豊雄(ito
toyo。1941年生まれ。現在活躍中の、日本の世界的に有名な建築家)を始めとする多くの著名な建築家を輩出。ちなみに、現在活躍中の世界の建築家の中で、最高classに有るSANAA(妹島
和世(sejima kazuyo。1956年生まれの日本の女性建築家)&西沢 立衛(nishizawa
ryue。1966年生まれの日本の建築家))は、(菊竹 清訓(kikutake kiyonori)設計事務所出身である)伊東 豊雄(ito
toyo)の、建築設計事務所の出身です。
メタボリズム(Metabolism)が提唱され始めたのは、日本が戦後の高度経済成長により、大量生産・大量消費の大衆社会に、本格的に突入し始めた時代です。また、メタボリズム(Metabolism)が盛んであった1960年代は、急速な都市化と大量生産・大量消費を伴う高度経済成長により、(上手く表現出来ませんが)日本が伝統的な農村共同体的な社会から現代的な都市市民的社会へと急速に変化し、豊かになった大衆が社会の中心となって行った時代です(第二次世界大戦後の荒廃からの完全な復興を遂げると共に、第二次世界大戦前の階級社会とは、全く異なる、大衆が中心となる新時代の繁栄と豊かさへ、日本が突き進んで行った時代です)。
メタボリズム(Metabolism)が、世界の建築界・デザイン(design)界に知れ渡るきっかけとなったのは、1960年に、日本で開かれた、世界デザイン会議(World
Design Conference)です。以下、世界デザイン会議(World Design
Conference)に関する説明は、このsiteを参考にしました→http://www.artgene.net/dictionary/cat72/1960.html 1960年に、日本で開かれた、世界デザイン会議(World
Design
Conference)は、大規模なデザイン(design)に関する国際会議です。この会議には、27カ国、二百数十名の様々な分野(建築、graphic
design、工業(industrial design)、工芸、内装(interior
design)等)のデザイナー(designer)、建築家達が参加し、参加者達は、分野の違いを超えて、討論を行いました。日本からの参加者の中心は、坂倉
準三(sakakura jyunzo)(下の補足説明参照)、柳 宗理(yanagi sori)、丹下健三(Tange
Kenzo)等であり、ヘルベルト・バイヤー(Herbert Bayer)、オトル・アイヒャー(Otl Aicher)、ソール・バス(Saul
Bass)、ブルーノ・ムナーリ(Bruno Munari)、ルイス・カーン(Louis
Kahn)等、デザイン(design)界・建築界の、世界的な巨匠達が、この会議の為に来日しました。この会議(World Design
Conference)で採択された東京宣言では、「来るべき時代が、人間の権威ある生活の確立のために、現代よりも、いっそう力強い人間の想像的活動を必要としていることを確信し、我々デザイナー(designer)に課せられた責任が重大であることを自覚する」と述べられています。ちなみに、メタボリズム(Metabolism)は、建築や都市に留まらず、「環境」を軸に、デザイン(design)やアート(art)等とも、深く関わっていました(展覧会(exhibition)のパンフレット(leaflet)より。。)。
坂倉
準三(sakakura
jyunzo):1901年生まれ。1969年に亡くなる。1930年代後半から亡くなるまで活躍した、日本の有名な現代建築家。他の、日本の第二次世界大戦後の復興期(1950年代から1960年代初期)の、現代建築界をリード(lead)した、日本の有名な建築家達と供に、日本の現代建築設計の水準を、世界最高水準に引き上げる為の基礎を、1950年代に、固めた建築家の一人。代表作は、1937年のパリ(Paris)万国博覧会(The
Exposition Internationale des Arts et Techniques dans la Vie
Moderne)の日本館、鎌倉(kamakura)の神奈川(kanagawa)県立近代美術館(1951年)等。
メタボリズム(Metabolism)グループ(group)を結成した、黒川
紀章(kurokawa kisyo)、菊竹 清訓(kikutake kiyonori)、槇 文彦(maki fumihiko)、栄久庵
憲司(ekuan kenji)(1929年生まれ。日本を代表する工業デザイナー(industrial
designer)の一人。メタボリズム(Metabolism)の思想を工業デザイン(industrial design)に展開した)、粟津
潔(awazu kiyoshi)(graphic
designer。1929年生まれ。2009年に亡くなる)と言った、当時の日本を代表する、有望な若手建築家・デザイナー(designer)達は、世界デザイン会議(World
Design Conference)において、「METABOLISM/1960 -
都市への提案」を発表し、「海上都市」「塔状都市」「新宿ターミナル(新宿駅)再開発計画」等、成長し新陳代謝する巨大都市のアイデア(idea)を披露しました。彼らのアイデア(idea)は将来の社会を具体的に提案しようとしたもので、建築のみならず哲学など広く近代文明にも言及するものでした(wikiより。。。)。
メタボリズム(Metabolism)を提唱した建築家達は、高度経済成長と言う当時の日本の人口増加圧力と都市の急速な更新と膨張に応える将来の都市を構想し、社会の変化や人口の成長に合わせて有機的に成長する都市や建築を提案しました。彼らは従来の固定した形態や機能を支える「機械の原理」は、もはや有効的でないと考え、空間や機能が変化する「生命の原理」が将来の社会や文化を支えると信じました(wikiより。。)。
写真以下15枚は、メタボリズム(Metabolism)に関連する作品例です(展覧会(exhibition)のパンフレット(leaflet)と絵葉書より。。。)。
メタボリズム(Metabolism)が、最も盛んであったのが、1960年代です。メタボリズム(Metabolism)を提唱した建築家達が提案した、建築計画や都市計画は、環境に、素早く適応する生き物の様に、次々と姿を変えながら増殖して行く建築や都市のイメージでした。東京湾を横断して伸びて行く海上都市、高く延びるビル群を自動車が走る空中回廊で繋いだ都市等、その発想の壮大さには驚かされます(展覧会(exhibition)のパンフレット(leaflet)より。。。)。
写真以下8枚。1960年代の、メタボリズム(Metabolism)に関連する作品例。
「東京計画1960」(1961年)と丹下 健三(tange kenzo)(右)。
「東京計画1960」。都市計画。1960年。東京大学、丹下 健三(tange kenzo)研究室。
上段、磯崎
新(isozaki
arata)の、1962年の、「空中都市―渋谷(shibuya)計画」を、現在において、CGにより、映像再現した物の中から。。。下段、磯崎
新(isozaki arata)の、1961年の、「空中都市―新宿計画」を、現在において、CGにより、映像再現した物の中から。。。
「東京計画1960 その構造改革の提案」。都市計画。1962年。東京大学、丹下 健三(tange kenzo)研究室。
「海上都市1963」。都市計画。1963年。菊竹 清訓(kikutake kiyonori)。
「築地(tsukiji)再開発計画」。都市計画。1965年。丹下 健三(tange kenzo)。東京の海辺の再開発計画です。
都城(miyakonojyo)市民会館。菊竹
清訓(kikutake kiyonori)設計。公共施設(concert
hall)建築。1966年完成。宮崎(miyazaki)県、都城(miyakonojyo)市。メタボリズム(Metabolism)の思想に基づいて設計された建物で、上部構造は軽く、更新(交換)が可能となっています。
ディスコティック・スペース・カプセル(SPACE CAPSULE)。黒川 紀章(kurokawa kisyo)設計。1968年完成。クラブ(club・disco)。東京都心(赤坂(akasaka))。
東京では、第二次世界大戦以前の1940年に、日本(及びアジア)で最初の万国博覧会(Universal
Exposition)が開催される予定でしたが、戦争の影響で中心となり、日本(及びアジア)最初の万国博覧会(Universal
Exposition)の開催は、1970年に、大阪で開催された、大阪万国博覧会(Expo
‘70)まで待たなければなりませんでした。仮に、1940年に、東京で、万国博覧会(Universal
Exposition)が開催されていたならば、坂倉 準三(sakakura jyunzo)(坂倉 準三(sakakura
jyunzo)が設計した、1937年のパリ(Paris)万国博覧会(The Exposition Internationale des Arts
et Techniques dans la Vie
Moderne)の日本館は、博覧会の建築競技審査で一等を受賞しました。wikiより。。)や、もしかしたら、既に、早くも、若手建築家として力をつけて来ていた丹下
健三(tange kenzo)が、設計者として活躍したかもしれません。
1970年代は、第2次世界大戦後の復興と高度経済成長が、一段落し(落ち着き)、(アジアで開催された最初の夏季オリンピック(Olympics)である東京夏季オリンピック(Olympics)開催され、1961年に設立されたOECDに、日本が加盟した、1964年は、「もはや戦後では無い=第2次世界大戦による荒廃からの復興は終った」と言われました)、日本が成熟した先進工業国としての道を歩き始めた年代です。それまでの、経済発展最重視の政策から、公害や環境に対する取り組みが本格的に行われるようになり(これにより、1970年代を通じて、日本の環境は、ずいぶん改善された)、1975年に発足したサミット(summit。(主要)先進国首脳会議。1990年代後半にロシア(Russia)が参加してからは、主要国首脳会議)には、日本は、アメリカ、イギリス、西ドイツ、フランス、イタリアと供に、G6として、発足当初のメンバー(member)として参加しました。
この様に、日本が成熟した先進工業国としての道を歩き始めた1970年代の幕開けを飾った、日本で行われた、大きな国際的な催しの一つが、1972年に、北海道(hokkaido)の札幌(sapporo)で開催された札幌(sapporo)冬季オリンピック(Olympics)(下の補足説明参照)で有り、もう一つは、その2年前の、1970年に大阪の郊外で開催された、大阪万国博覧会(Expo
‘70)(下の補足説明参照)です。
札幌(sapporo)冬季オリンピック(Olympics):1972年開催。日本(及びアジア)で行われた最初の冬季オリンピック(Olympics)。元々、1936年に開催された、ベルリン(Berlin)夏季Olympicsに続いて、第13回夏季Olympicsとして、1940年に開催される予定であった、東京夏季Olympics(戦争の影響により中止)同様、札幌(sapporo)冬季オリンピック(Olympics)も、元々、1936年にドイツのガルミッシュ=パルテンキルヒェン(Garmisch-Partenkirchen)で行われた冬季Olympicsに続いて、第5回冬季Olympicsとして、1940年に開催される予定であったが、戦争の影響により中止された。
大阪万国博覧会(Expo ‘70):1970年開催。日本(及びアジア)で開かれた最初の万国博覧会(Universal Exposition)。約860,000坪の敷地に、110以上のパビリオン(展示館)が建ち並んだ。
1960年代において、メタボリズム(Metabolism)を提唱して来た日本の著名な建築家達は、1970年に開催された、大阪万国博覧会(Expo
‘70)(テーマは、「人類の進歩と調和」)で、重要な役割を果たし、大いに活躍しました(彼らは、大阪万国博覧会(Expo
‘70)の会場計画・建築計画に共同で携わりました)。
写真以下3枚。1970年に開催された、大阪万国博覧会(Expo
‘70)における、メタボリズム(Metabolism)に関連する作品例。ちなみに、大阪万国博覧会(Expo
‘70)が開催されたのは、私が生まれる前の事ですが、私の父と母は、結婚前、二人で、大阪万国博覧会(Expo
‘70)を見に行ったそうです。私が、子供の頃(1985年)には、東京の北東部近郊の、筑波(tsukuba)研究学園都市で、国際博覧会(Universal
Exposition)として、筑波(tsukuba)科学博覧会(Expo
‘85)が開催され、私は、これには、二回行き、楽しかった記憶があります(2005年に、名古屋(nagoya)郊外で開催された、国際博覧会(Universal
Exposition)、愛知(aichi)万国博覧会(Expo 2005)には、行きませんでした)。
エキスポタワー(Expo
Tower)。1970年完成。菊竹 清訓(kikutake kiyonori)設計。高さ127m。展望台の付いた塔で、岡本
太郎(okamoto
tarou)(1911年生まれ。1996年に亡くなる。1930年代から1990年代半ば(主として1950年代から1980年代)に活躍した、日本の有名な現代美術artist)がデザイン(design)した「太陽の塔」と共に、大阪万国博覧会(Expo
‘70)のシンボル(象徴)的な建物として建てられました。
大阪万国博覧会(Expo
‘70)、「お祭り広場」。1970年完成。丹下 健三(tange kenzo)は、大阪万国博覧会(Expo
‘70)の総合プロデューサー(制作の監督)を務めました。写真の「お祭り広場」は、大阪万国博覧会(Expo ‘70)の中心にあった施設で、丹下
健三(tange kenzo)、磯崎 新(isozaki Arata)等により、設計されました。写真奥に、岡本 太郎(okamoto
tarou)がデザイン(design)した「太陽の塔」(高さは、約70m)が見えています。
タカラビューティリオン(Takara
Beautilion)。1970年完成。黒川 紀章(kurokawa kisyo)設計。黒川 紀章(kurokawa
kisyo)が設計を手掛けた、大阪万国博覧会(Expo ‘70)の展示館の一つで、「TAKARA
BELMONT」と言う、大阪に本社がある日本の会社(美容室(hair salon・beauty
salon)・歯医者関連の機器を製造する会社。1921年創業)の展示館です。
大阪万国博覧会(Expo
‘70)は、メタボリズム(Metabolism)の、一つの頂点(到達点)であり、一つの終焉であったと言えるかもしれません。大阪万国博覧会(Expo
‘70)を最後に、メタボリズム(Metabolism)を提唱して来た建築家達の活動は分岐して行くと共に、(彼らは)、海外へと活躍の場を広げて行きました。メタボリズム(Metabolism)を展開した建築家達が、1960年代に発表した、巨大都市計画は、何れも実現しませんでしたが、彼らは、個々の建築に、その思想を適用させて行きました(もちろん、1960年代から、個々の建築に、その思想を適用させていましたが、さらに引き続き。。。)。
これは、菊竹
清訓(kikutake
kiyonori)が提案した、人口地盤を用いた、一戸建て住宅居住地の計画(1972年)を、イラスト(illustration)により解説した物です(展覧会(exhibition)のパンフレット(leaflet)より。。。)。火事になったら、どうするかを、実際に、一部分を作って、実験してみたそうです。
写真以下2枚。中銀カプセルタワー(nakagin
capsule tower)ビル。1972年に完成。アパート。東京都心。黒川 紀章(kurokawa
kisyo)設計。小さな個人事務所や、郊外に暮らしている人の東京都心の別宅等としても使える、東京の都心の商業地区にある一人暮らし向けの、一部屋のアパートですが、カプセル(capsule)形態の、それぞれの部屋は、写真で見て分かる様に、独立性がとても強くて、部分的に交換する事が可能です。すなわち、老朽化した、部屋(capsule)を、最新の部屋(capsule)に取り替えたり、都市環境の変化に応じて、部屋(capsule)を取り外したり、取り付けたりする事によって、アパートの建物は、永遠に老朽化する事無く、進化(変化)し続けると言うものです(理論上は、そうで、技術的にも、そうする事が可能でしたが、実際には、カプセル(capsule
)は、一度も交換される事はありませんでした)。
中銀カプセルタワー(nakagin capsule tower)の、部屋(capsule )。
Republic Polytechnic。2007年完成。シンガポール(Singapore)。設計、槇 文彦(maki fumihiko)(下の補足説明参照)。
槇 文彦(maki
fumihiko):1928年生まれ。日本の、世界的に有名な建築家の一人。槇 文彦(maki
fumihiko)の代表作の一つである、HILLSIDE
TERRACE(東京都心部にある、集合住宅、店舗、office等から成る複合施設。第1期が完成した1969年から1998年まで30年の歳月をかけて建てられてきた)は、メタボリズム(Metabolism)の思想を体現した、成長する都市建築として高く評価されています(wiki等を参考にしました)。
기본적으로, 재작년의 6월의 초순에 간 투고의 재게입니다.
사진은, 차용물.1937년에, 프랑스의, 파리(Paris)에서 개최된, 만국 박람회(World Expo), The Exposition Internationale des Arts et Techniques dans la Vie Moderne의, 일본관의 건물입니다.이, 만국 박람회(World Expo)에 두고, 건축 부문에 있고, 그랑프리(최고의 상·최우수상)를 수상했습니다.설계는, 후술 하는, 사카쿠라 히토시3(sakakura jyunzo)(1901 년생.1969년에 죽는다.1930년대 후반부터 돌아가실 때까지 활약한, 일본의 유명한 현대 건축가)가 실시했습니다.
사진은, 차용물(사진의 작자:takato
marui).1970년에 오사카에서 개최된, 만국 박람회(World Expo), 오사카 만국 박람회(Expo
㣪)의, 토시바(TOSHIBA) IHI관.설계는, 후술 하는, 구로카와 기쇼(kurokawa
kisyo)(1934 년생.2007년에 죽는다.일본의, 세계 최고 수준의 건축가의 한 명)이 실시했습니다.
덧붙여서, 오사카에서는, 2025년에, Expo 2025가 개최될 예정입니다.
사진은, 차용물(사진의 작자:Fk).국립 민족학 박물관의 건물.1977년 완성.국립 민족학 박물관은, 일본의 국립의 박물관의 하나로, 1970년에 오사카에서 개최된, 오사카 만국 박람회(Expo 㣪)의 철거지의 일부에, 1977년에 개관한, 문화인류학·민족학에 관한, 규모의 큰, 박물관입니다.건물의 설계는, 구로카와 기쇼(kurokawa kisyo)(1934 년생.2007년에 죽는다.일본의, 세계 최고 수준의 건축가의 한 명)이 실시했습니다.
이하, 기본적으로, 앞에 간 투고로부터 발췌해 온 것으로, 록뽄기(roppongi) area(도쿄도심부안에서도 중심적인 지역의 서남부에 위치한다)의, 숲(mori) 미술관의, 「신진대사(Metabolism)의 미래 도시전」이라고 하는, 전람회(exhibition)를 보고 왔을 때에 관한 투고로부터 발췌해 온 것입니다.덧붙여서, 후술 하는, 마키 후미히코(maki fumihiko)는, 현재, 93세, 이소자키 아라타(isozaki Arata)는, 현재, 90세가 되어 있습니다.또, 아래에서, 「싱가폴(Singapore)에서, 가장 높은 세 개의 빌딩」이라고 있어요가(OUB center(One Raffles Place), UOB plaza one, republic plaza.어느 쪽도, 높이는 280 m)는, 2016년에 완성한, Guoco Tower(높이 약 284 m)에 빠뜨려지고, 현재, 어느 쪽도, CapitaSpring(2021년 완성.높이 280 m)와 함께, 싱가폴(Singapore)에서, 2번째에, 비싼 빌딩이 되고 있습니다.
이하, 신진대사(Metabolism)에 대한 설명은, wiki, 전람회(exhibition)의 팜플렛(leaflet), 일본어 대사전(코단샤.1989년.내가 중학생때부터 소중하게 사용하고 있는 w) 등을 참고로 했습니다.
신진대사(Metabolism)는, 일본에서 행해진, 현대 건축 운동입니다.1950년대말에, 단게
겐조(tange kenzo)에 강한 영향을 받은, 구로카와 기쇼(kurokawa kisyo), 국화 타케키요훈(kikutake
kiyonori), 마키 후미히코(maki
fumihiko)라고 말한, 당시의 일본을 대표하는, 유망한 신진 건축가들의 사이에 제창되기 시작해 1960년대에, 세계의 건축계에 널리 알려졌습니다.건축에 있어서의, 신진대사(Metabolism)란, 현대의 도시의 변화를 생물의 신진대사(metabolism)에 적용시켜 파악하는 생각입니다.생물의 신진대사(metabolism)와는, 생물이 항상 새로운 영양 물질을 도입해 소화한 낡은 물질을 배설하는 일을 말합니다.건축에 있어서의, 신진대사(Metabolism)를 구체적으로 현대 건축물에 적용시켜 보면, 건물의 노후화 한 부분을, 부분적으로 새로운 것과 바꾸는 일을 반복하는 일에 의해서, 건물이, 마치 살아 있는 것처럼(마치 생물과 같이), 영원히, 존속해, 성장해, 계속 진화하는 것처럼 , 설계·건축한다고 말하는 생각입니다.신진대사(Metabolism) 운동에 참가한 건축가들은, 사회의 변화나 인구의 성장에 맞추어 유기적으로 성장하는 도시나 건축을 제안했습니다.쿠로카와
기장(kurokawa kisyo)이나 국화 타케키요훈(kikutake
kiyonori)들의 도시·건축 계획에서는, 무수한 생활용 유닛(unit)이 높은 탑등의 거대 구조물에 삽입되고 있어 낡은 세포가 새로운 세포에 바뀌도록(듯이), 오래되거나 기능이 맞지 않게 되거나 한 방등의 유닛(unit)을, 통째로 새로운 유닛(unit)과 바꾸는 것으로, 사회의 성장이나 변화에 대응해, 이것을 촉진하는 것이 구상되었습니다(wiki보다...).
신진대사(Metabolism)는, 도쿄대학 도시공학과, 단게(tange) 연구실로부터 태어났다고 해도 과언이 아닙니다(전람회(exhibition)의 팜플렛(leaflet)보다...).도시 규모로의 건축을 생각한, 단게
겐조(tange kenzo)(아래의 보충 설명 참조)는, 신진대사(Metabolism)의 탄생에, 큰 영향을 주었습니다.
단게
겐조(tange
kenzo):일본의 세계 최고 수준의 건축가의 한 명.1950년대부터, 죽는 근처까지 활약.일본인 건축가중에서, 처음으로 세계에 이름이 알려진 건축가임과 동시에, 1960년대에, 일본을, 현대 건축 설계의 분야에 있고, 세계 최고 수준의 나라의 하나에, 끌어올린 인물로서 알려져 있습니다.1913년에 태어나 90세 이상 살고, 2005년에, 돌아가셨습니다.단게
겐조(tange kenzo)의 제자에게는, 이소자키 아라타(isozaki Arata), 구로카와 기쇼(kurokawa
kisyo), 마키 후미히코(maki fumihiko)라고 말한, 세계적으로 유명한, 일본인 건축가들이, 일원이 되고 있습니다.구로카와 기쇼(kurokawa
kisyo)는, 이미 돌아가셨고, 다른 제자들도, 이미, 80대의 고령입니다.덧붙여서, 단게 겐조(tange
kenzo)는, 싱가폴(Singapore)에서, 가장 높은 세 개의 빌딩중, 두 개의 설계를 다루고 있습니다(OUB
center(1986년 완성), UOB plaza
one(1995년 완성)).싱가폴(Singapore)의 스카이라인(skyline)으로, 눈에 띄는 빌딩의 디자인(design)의 경향이, 웬지 모르게, 단게
겐조(tange
kenzo)가 설계한, 도쿄의 신쥬쿠의, 도쿄도청빌딩을 닮아 있는 것은, 그 때문입니다.덧붙여서, 싱가폴(Singapore)에서, 가장 높은 세 개의 빌딩중, 나머지의 하나(republic
plaza.1995년에 완성)은, 단게 겐조(tange
kenzo) 제자이며, 일본의, 세계 최고 수준의 건축가의 한 사람으로 있다, 구로카와 기쇼(kurokawa kisyo)가, 설계했습니다.
사진 이하 3매.단게 겐조(tange kenzo)의 초기 작품예.
단게 겐조(tange kenzo)의 도쿄의 자택입니다.(개인 주택, 현존 하지 않고) 1953년 완성.
히로시마(hiroshima) 아이의 집(공공 시설).1953년 완성.현존 하지 않고.
히로시마(hiroshima) 평화 기념 자료관(전람회(exhibition)의 팜플렛(leaflet)보다).공공 시설(자료관) 건축.1955년 완성.도시 디자인(design)적인 시점에서 설계를 생각할 수 있어 원폭 돔(Atomic
Bomb
Dome)로 시선을 이끌어, 역사의 기억을 계승하는 장치가 숨겨져 있었던(전람회(exhibition)의 팜플렛(leaflet)의 문장을 참고로 했습니다...).신진대사(Metabolism)가 제창되기 시작한 것은, 제이차 세계대전에서 황폐 한 일본의 부흥이 일단락해, 풍부한 사회와 번영으로 향하고, 일본이 본격적인 고도 경제성장기로 돌입해서 갔던 시대(일본의 제이차 세계대전 후의 부흥의 총마무리기)입니다.거기에는 이상의 도시를 통해서, 보다 좋은 공동체를 만들려는 생각도 있었던(전람회(exhibition)의 팜플렛(leaflet)의 문장을 참고로 했습니다).이 히로시마(hiroshima) 평화 기념 자료관과 같은, 일본이, 본격적으로 고도 경제성장기에 들어가는 전야의 것(신진대사(Metabolism)가 제창되는 전야의), 일본의 전후의 부흥 초기부터 중기에 있어서의, (당시의, 일본의 건축가의 생각이 담겨진), 도시 디자인(design)이나 공동체를 의식한 건축이나 계획안은, 신진대사(Metabolism)의 원점이라고 말할 수 있을지도 모릅니다.
스카이 하우스(sky
house)(전람회(exhibition)의 그림 엽서로부터..).개인 주택.1958년 완성.설계, 국화 타케키요훈(kikutake
kiyonori).국화 타케키요훈(kikutake kiyonori)(아래의 보충 설명 참조)가 설계한, 국화 타케키요훈(kikutake
kiyonori)의 도쿄도심부의 자택입니다.이하, 스카이 하우스(sky
house)에 대한 설명은, wiki로부터, 발췌했습니다.스카이 하우스(sky
house)의 거주 공간에는 나누어 벽은 없고, 그 4주는 복도가 되고 있어 키친(kitchen), 욕실, 수납등이 교환 가능하게 장착되고 있습니다.또, 거주층의 하부는 당초는 필로티(pilotis.2층 이상의 건물에 대해 지상 부분이 기둥(구조체)을 남겨 외부 공간으로 한 건축 형식)으로 여겨져 가족구성의 변화에 따르고, 거주층으로부터 캅셀(capsule)을 매다는 형태로 증축이 가능하게 되어 있어 실제, 이 방식으로 어린이방의 증축을 했습니다.이것들은 국죽
청훈(kikutake kiyonori)이 주창하는 신진대사(Metabolism)를 체현 한 것이었습니다.스카이 하우스(sky
house)의 증개축의 경과는, 이하와 같습니다.필로티(pilotis)의 공간에는 사무소가 설치되고 있었습니다만, 사무소의 이전을 기회로 어린이방의 캅셀(capsule)이 증축되었습니다.그 후, 냉장고의 대형화등의 설비의 발전에 대응해 키친(kitchen)이 가운데 이층에 옮겨졌습니다.또, 장서의 증가에 수반해, 필로티(pilotis)의 공간에 도서를 두는 개인실이 설치되어 개인실의 근처에 주침실(master
bedroom)가 옮겨졌습니다.이 결과, 1994년 시점에서는, 필로티(pilotis)의 공간에 개인실, 주침실(master
bedroom) 및 욕실(bathroom), 가운데 이층에 현관, 키친(kitchen), 다이닝(dining
room), 최상부에 서재, 접객실이 설치된 상태가 되었습니다.
국화 타케키요훈(kikutake
kiyonori):1928 년생.2011년에 죽는다.일본의 유명한 건축가.국화 타케키요훈(kikutake
kiyonori) 설계 사무소로부터, 이토 도요오(ito
toyo.1941 년생.현재 활약중의, 일본의 세계적으로 유명한 건축가)를 시작으로 하는 많은 저명한 건축가를 배출.덧붙여서, 현재 활약중의 세계의 건축가중에서, 최고 class에 있는 SANAA(세지마
화세(sejima kazuyo.1956 년생의 일본의 여성 건축가)&니시자와립위(nishizawa
ryue.1966 년생의 일본의 건축가))는, (국화 타케키요훈(kikutake kiyonori) 설계 사무소 출신이다) 이토 도요오(ito
toyo)의, 건축설계사무소의 출신입니다.
신진대사(Metabolism)가 제창되기 시작한 것은, 일본이 전후의 고도 경제성장에 의해, 대량생산·대량 소비의 대중 사회에, 본격적으로 돌입하기 시작했던 시대입니다.또, 신진대사(Metabolism)가 번성함 1960년대는, 급속한 도시화와 대량생산·대량 소비를 수반하는 고도 경제성장에 의해, (능숙하게 표현 할 수 없습니다만) 일본이 전통적인 농촌 공동체적인 사회로부터 현대적인 도시 시민적 사회로 급속히 변화해, 풍부해진 대중이 사회의 중심이 되어서 갔던 시대입니다(제이차 세계대전 후의 황폐로부터의 완전한 부흥을 이룸과 동시에, 제이차 세계대전전의 계급 사회란, 완전히 다른, 대중이 중심이 되는 신시대의 번영과 풍부함에, 일본이 돌진해서 갔던 시대입니다).
신진대사(Metabolism)가, 세계의 건축계·디자인(design) 계에 널리 알려지는 계기가 된 것은, 1960년에, 일본에서 열린, 세계 디자인 회의(World
Design Conference)입니다.이하, 세계 디자인 회의(World Design
Conference)에 관한 설명은, 이 site를 참고로 했던→http://www.artgene.net/dictionary/cat72/1960.html 1960년에, 일본에서 열린, 세계 디자인 회의(World
Design
Conference)는, 대규모 디자인(design)에 관한 국제 회의입니다.이 회의에는, 27개국, 2백 수십명의 님 들인 분야(건축, graphic
design, 공업(industrial design), 공예, 내장(interior
design) 등 )의 디자이너(designer), 건축가들이 참가해, 참가자들은, 분야의 차이를 넘고, 토론을 실시했습니다.일본으로부터의 참가자의 중심은, 사카쿠라
준3(sakakura jyunzo)(아래의 보충 설명 참조), 야나기무네미치(yanagi sori), 단게 겐조(Tange
Kenzo) 등이며, 헬벨트·바이어(Herbert Bayer), 오톨·아이햐(Otl Aicher), 구두창·버스(Saul
Bass), 블르노·무나리(Bruno Munari), 루이스·칸(Louis
Kahn) 등 , 디자인(design) 계·건축계의, 세계적인 거장들이, 이 회의를 위해 일본 방문했습니다.이 회의(World Design
Conference)로 채택된 동경선언에서는, 「와야 할 시대가, 인간의 권위 있다 생활의 확립을 위해서, 현대보다, 한층 더 강력한 인간의 상상적 활동을 필요로 하고 있는 것을 확신해, 우리 디자이너(designer)에 부과된 책임이 중대한 것을 자각한다」라고 기술되어 있습니다.덧붙여서, 신진대사(Metabolism)는, 건축이나 도시에 머물지 않고, 「환경」을 축으로, 디자인(design)이나 아트(art) 등과도, 깊게 관련되고 있었던(전람회(exhibition)의 팜플렛(leaflet)보다..).
사카쿠라
준3(sakakura
jyunzo):1901 년생.1969년에 죽는다.1930년대 후반부터 돌아가실 때까지 활약한, 일본의 유명한 현대 건축가.다른, 일본의 제이차 세계대전 후의 부흥기(1950년대부터 1960년대 초기)의, 현대 건축계를 리드(lead)한, 일본의 유명한 건축가들과 보조자에, 일본의 현대 건축 설계의 수준을, 세계 최고 수준으로 끌어올리기 때문에(위해)의 기초를, 1950년대에, 굳힌 건축가의 한 명.대표작은, 1937년의 파리(Paris) 만국 박람회(The
Exposition Internationale des Arts et Techniques dans la Vie
Moderne)의 일본 타테, 카마쿠라(kamakura)의 카나가와(kanagawa) 현립 근대미술관(1951년) 등.
신진대사(Metabolism) 그룹(group)을 결성한, 쿠로카와
기장(kurokawa kisyo), 국화 타케키요훈(kikutake kiyonori), 마키 후미히코(maki fumihiko), 사카에구암
켄지(ekuan kenji)(1929 년생.일본을 대표하는 공업 디자이너(industrial
designer)의 한 명.신진대사(Metabolism)의 사상을 공업 디자인(industrial design)에 전개한), 아와즈
결(awazu kiyoshi)(graphic
designer.1929 년생.2009년에 죽는다)라고 말한, 당시의 일본을 대표하는, 유망한 신진 건축가·디자이너(designer) 들은, 세계 디자인 회의(World
Design Conference)에 두고, 「METABOLISM/1960 -
도시에의 제안」을 발표해, 「해상 도시」 「탑장 도시」 「신쥬쿠 터미널(신쥬쿠역) 재개발 계획」등 , 성장해 신진대사 하는 거대도시의 아이디어(idea)를 피로했습니다.그들의 아이디어(idea)는 장래의 사회를 구체적으로 제안하려고 한 것으로, 건축 뿐만 아니라 철학 등 넓고 근대 문명에도 언급하는 것이었습니다(wiki보다...).
신진대사(Metabolism)를 제창한 건축가들은, 고도 경제성장이라고 하는 당시의 일본의 인구증가 압력과 도시의 급속한 갱신과 팽창에 응하는 장래의 도시를 구상해, 사회의 변화나 인구의 성장에 맞추어 유기적으로 성장하는 도시나 건축을 제안했습니다.그들은 종래의 고정한 형태나 기능을 지지하는 「기계의 원리」는, 이미 유효적이지 않다고 생각해 공간이나 기능이 변화하는 「생명의 원리」가 장래의 사회나 문화를 지지한다고 믿었습니다(wiki보다..).
사진 이하 15매는, 신진대사(Metabolism)에 관련하는 작품예입니다(전람회(exhibition)의 팜플렛(leaflet)과 그림 엽서보다...).
신진대사(Metabolism)가, 가장 번성했어가, 1960년대입니다.신진대사(Metabolism)를 제창한 건축가들이 제안한, 건축 계획이나 도시계획은, 환경에, 재빠르게 적응하는 생물과 같이, 차례차례로 모습을 바꾸면서 증식 하고 가는 건축이나 도시의 이미지였습니다.도쿄만을 횡단해 성장해서 가는 해상 도시, 높게 늘어나는 빌딩군을 자동차가 달리는 공중회랑에서 연결한 도시등 , 그 발상의 장대함에는 놀라게 해집니다(전람회(exhibition)의 팜플렛(leaflet)보다...).
사진 이하 8매.1960년대의, 신진대사(Metabolism)에 관련하는 작품예.
「도쿄 계획 1960」(1961년)과 단게 겐조(tange kenzo)( 오른쪽).
「도쿄 계획 1960」.도시계획.1960년.도쿄대학, 단게 겐조(tange kenzo) 연구실.
카미단, 이소자키
신(isozaki
arata)의, 1962년의, 「공중 도시-시부야(shibuya) 계획」을, 현재에 있고, CG에 의해, 영상 재현한 것중에서...시타단, 이소자키
신(isozaki arata)의, 1961년의, 「공중 도시-신쥬쿠 계획」을, 현재에 있고, CG에 의해, 영상 재현한 것중에서...
「도쿄 계획 1960그 구조개혁의 제안」.도시계획.1962년.도쿄대학, 단게 겐조(tange kenzo) 연구실.
「해상 도시 1963」.도시계획.1963년.국화 타케키요훈(kikutake kiyonori).
「츠키지(tsukiji) 재개발 계획」.도시계획.1965년.단게 겐조(tange kenzo).도쿄의 해변의 재개발 계획입니다.
미야코노죠(miyakonojyo) 시민 회관.국죽
청훈(kikutake kiyonori) 설계.공공 시설(concert
hall) 건축.1966년 완성.미야자키(miyazaki) 현, 미야코노죠(miyakonojyo) 시.신진대사(Metabolism)의 사상에 근거해 설계된 건물에서, 상부 구조는 가볍고, 갱신(교환)이 가능해지고 있습니다.
디스코텍·스페이스·캅셀(SPACE CAPSULE).구로카와 기쇼(kurokawa kisyo) 설계.1968년 완성.클럽(club·disco).도쿄도심(아카사카(akasaka)).
도쿄에서는, 제이차 세계대전 이전의 1940년에, 일본(및 아시아)에서 최초의 만국 박람회(Universal
Exposition)가 개최될 예정이었지만, 전쟁의 영향으로 중심이 되어, 일본(및 아시아) 최초의 만국 박람회(Universal
Exposition)의 개최는, 1970년에, 오사카에서 개최된, 오사카 만국 박람회(Expo
㣪)까지 기다리지 않으면 안되었습니다.만일, 1940년에, 도쿄에서, 만국 박람회(Universal
Exposition)가 개최되고 있었다면, 사카쿠라 히토시3(sakakura jyunzo)(사카쿠라 히토시3(sakakura
jyunzo)가 설계한, 1937년의 파리(Paris) 만국 박람회(The Exposition Internationale des Arts
et Techniques dans la Vie
Moderne)의 일본관은, 박람회의 건축 경기 심사로 일등을 수상했습니다.wiki보다..)(이)나, 혹시, 이미, 이미, 신진 건축가로서 힘을 길러 와있던 단게
겐조(tangekenzo)가, 설계자로서 활약했을지도 모릅니다.
1970년대는, 제2차 세계대전 후의 부흥과 고도 경제성장이, 일단락해(침착성), (아시아에서 개최된 최초의 하계 올림픽(Olympics)인 도쿄 하계 올림픽(Olympics) 개최되어 1961년에 설립된 OECD에, 일본이 가맹한, 1964년은, 「이미 전후는 아니다= 제2차 세계대전에 의한 황폐로부터의 부흥은 끝났다」라고 말해졌습니다), 일본이 성숙한 선진 공업국으로서의 길을 걷기 시작한 연대입니다.지금까지의, 경제발전최중시의 정책으로부터, 공해나 환경에 대한 대처가 본격적으로 행해지게 되어(이것에 의해, 1970년대를 통해서, 일본의 환경은, 대단히 개선된), 1975년에 발족한 서미트(summit.(주요) 선진국 수뇌 회의.1990년대 후반에 러시아(Russia)가 참가하고 나서는, 주요국 정상회의)에는, 일본은, 미국, 영국, 서독, 프랑스, 이탈리아와 보조자에, G6로서 발족 당초의 멤버(member)로서 참가했습니다.
이와 같게, 일본이 성숙한 선진 공업국으로서의 길을 걷기 시작한 1970년대의 개막을 장식한, 일본에서 행해진, 큰 국제적인 행사?`후 하나가, 1972년에, 홋카이도(hokkaido)의 삿포로(sapporo)에서 개최된 삿포로(sapporo) 동계 올림픽(Olympics)(아래의 보충 설명 참조)로 있어, 하나 더는, 그 2년전의, 1970년에 오사카의 교외에서 개최된, 오사카 만국 박람회(Expo
㣪)(아래의 보충 설명 참조)입니다.
삿포로(sapporo) 동계 올림픽(Olympics):1972년 개최.일본(및 아시아)에서 행해진 최초의 동계 올림픽(Olympics).원래, 1936년에 개최된, 베를린(Berlin) 하계 Olympics에 잇고, 제13회 하계 Olympics로서 1940년에 개최될 예정인, 도쿄 하계 Olympics(전쟁의 영향에 의해 중지) 같이, 삿포로(sapporo) 동계 올림픽(Olympics)도, 원래, 1936년에 독일의 가르밋슈=파르텐키르히(Garmisch-Partenkirchen)로 행해진 동계 Olympics에 잇고, 제5회 동계 Olympics로서 1940년에 개최될 예정이었지만, 전쟁의 영향에 의해 중지되었다.
오사카 만국 박람회(Expo 㣪):1970년 개최.일본(및 아시아)에서 열린 최초의 만국 박람회(Universal Exposition).약 860,000평의 부지에, 110이상의 파빌리온(전시관)이 늘어섰다.
1960년대에 있고, 신진대사(Metabolism)를 제창해 온 일본의 저명한 건축가들은, 1970년에 개최된, 오사카 만국 박람회(Expo
㣪)(테마는, 「인류의 진보와 조화」)로, 중요한 역할을 완수해, 많이 활약했습니다(그들은, 오사카 만국 박람회(Expo
㣪)의 회장 계획·건축 계획에 공동으로 종사했습니다).
사진 이하 3매.1970년에 개최된, 오사카 만국 박람회(Expo
㣪)에 있어서의, 신진대사(Metabolism)에 관련하는 작품예.덧붙여서, 오사카 만국 박람회(Expo
㣪)(이)가 개최된 것은, 내가 태어나기 전의 일입니다만, 나의 아버지와 어머니는, 결혼전, 둘이서, 오사카 만국 박람회(Expo
㣪)(을)를 보러 갔다고 합니다.내가, 어릴 적(1985년)에는, 도쿄의 북동부 근교의, 츠쿠바(tsukuba) 연구 학원 도시에서, 국제 박람회(Universal
Exposition)로서 츠쿠바(tsukuba) 과학 박람회(Expo
㣹)(이)가 개최되어 나는, 이것에는, 2회가, 즐거웠던 기억이 있어요(2005년에, 나고야(nagoya) 교외에서 개최된, 국제 박람회(Universal
Exposition), 아이치(aichi) 만국 박람회(Expo 2005)에는, 가지 않았습니다).
엑스포 타워(Expo
Tower).1970년 완성.국화 타케키요훈(kikutake kiyonori) 설계.높이 127 m.전망대가 붙은 탑에서, 오카모토
타로(okamoto
tarou)(1911 년생.1996년에 죽는다.1930년대부터 1990년대 중반(주로 1950년대부터 1980년대)에 활약한, 일본의 유명한 현대 미술 artist)이 디자인(design)한 「태양의 탑」이라고 모두, 오사카 만국 박람회(Expo
㣪)의 심볼(상징)적인 건물로서 지어졌습니다.
오사카 만국 박람회(Expo
㣪), 「축제 광장」.1970년 완성.단게 겐조(tange kenzo)는, 오사카 만국 박람회(Expo
㣪)의 종합 프로듀서(제작의 감독)를 맡았습니다.사진의 「축제 광장」은, 오사카 만국 박람회(Expo 㣪)의 중심에 있던 시설에서, 단게
겐조(tange kenzo), 이소자키 아라타(isozaki Arata) 등에 의해, 설계되었습니다.사진안쪽에, 오카모토 다로(okamoto
tarou)가 디자인(design)한 「태양의 탑」(높이는, 약 70 m)이 보이고 있습니다.
다카라 뷰티 리온(Takara
Beautilion).1970년 완성.구로카와 기쇼(kurokawa kisyo) 설계.구로카와 기쇼(kurokawa
kisyo)가 설계를 다룬, 오사카 만국 박람회(Expo 㣪)의 전시관의 하나로, 「TAKARA
BELMONT」라고 하는, 오사카에 본사가 있다 일본의 회사(미용실(hair salon·beauty
salon)·치과 의사 관련의 기기를 제조하는 회사.1921년 창업)의 전시관입니다.
오사카 만국 박람회(Expo
㣪)(은)는, 신진대사(Metabolism)의, 하나의 정점(도달점)이며, 하나의 임종에서 만났다고 말할 수 있을지도 모릅니다.오사카 만국 박람회(Expo
㣪)(을)를 마지막으로, 신진대사(Metabolism)를 제창해 온 건축가들의 활동은 분기 하고 감과 동시에, (그들은), 해외로 활약의 장소를 펼쳐서 갔습니다.신진대사(Metabolism)를 전개한 건축가들이, 1960년대에 발표한, 거대도시 계획은, 어느 쪽도 실현되지 않았습니다만, 그들은, 개개의 건축에, 그 사상을 적용시켜서 갔습니다(물론, 1960년대부터, 개개의 건축에, 그 사상을 적용시키고 있었습니다만, 한층 더 계속해...).
이것은, 국죽
청훈(kikutake
kiyonori)가 제안한, 인구 지반을 이용한, 독립주택 거주지의 계획(1972년)을, 일러스트(illustration)에 의해 해설한 것입니다(전람회(exhibition)의 팜플렛(leaflet)보다...).화재가 되면, 어떻게 할까를, 실제로, 일부분을 만들고, 실험해 보고 싶은 것 같습니다.
사진 이하 2매.중앙 은행 캅셀 타워(nakagin
capsule tower) 빌딩.1972년에 완성.아파트.도쿄도심.구로카와 기쇼(kurokawa
kisyo) 설계.작은 개인 사무소나, 교외에 살고 있는 사람의 도쿄도심의 별택등으로서도 사용할 수 있는, 도쿄의 도심의 상업지구에 있는 혼자 생활 향해의, 일부가게의 아파트입니다만, 캅셀(capsule) 형태의, 각각의 방은, 사진으로 보고 아는 것처럼, 독립성이 매우 강해서, 부분적으로 교환하는 것이 가능합니다.즉, 노후화 한, 방(capsule)을, 최신의 방(capsule)에 바꾸거나 도시 환경의 변화에 따르고, 방(capsule)을 떼어내거나 달거나 하는 일에 의해서, 아파트의 건물은, 영원히 노후화 하는 일 없고, 진화(변화)계속 한다고 말하는 것입니다(이론상은, 그렇고, 기술적으로도, 그렇게 하는 것이 가능했습니다만, 실제로는, 캅셀(capsule
)(은)는, 한번도 교환되는 일은 없었습니다).
중앙 은행 캅셀 타워(nakagin capsule tower)의, 방(capsule ).
Republic Polytechnic.2007년 완성.싱가폴(Singapore).설계, 마키 후미히코(maki fumihiko)(아래의 보충 설명 참조).
마키 후미히코(maki
fumihiko):1928 년생.일본의, 세계적으로 유명한 건축가의 한 명.마키 후미히코(maki
fumihiko)의 대표작의 하나인, HILLSIDE
TERRACE(도쿄도심부에 있는, 집합주택, 점포, office등으로부터 완성되는 복합 시설.제1기가 완성한 1969년부터 1998년까지 30년의 세월을 걸쳐 지어져 왔다)는, 신진대사(Metabolism)의 사상을 체현 한, 성장하는 도시 건축으로서 높게 평가되고 있습니다(wiki등을 참고로 했습니다).